東京坂道さんぽ

2014年03月

前回の「鉄砲坂 (御殿山界隈/品川区)」に続いて、ちょっと気になる資料が見つかったので、今回も鉄砲坂のことを再び取り上げてみたいと思います。


鉄砲坂その2_1地図
地図

まずは、前回の記事でも掲載した地図ですこしばかり鉄砲坂の復習です。
この坂道は、今は現存していない坂で、おそらく現在の地図に落とし込むとこんな感じかなということで描いてみたもので、御殿山から第一京浜のほうへ(東)に下る地形になっていたようです。
あと、前回の記事には書いてなかったのですけど、マピオンで今回の予想される坂上あたりの標高を計測してみると11m、そして坂下あたりも同じく計測してみると5mくらい。
ということは高低差6mくらいですか。
けっこうな高低差ですかね。
でもまあ、今の御殿山は、お台場を海につくるためにかなりの部分が削られてしまったので、比較は難しいですけど、昔はもっと高低差あったのかもしれないですね。


鉄砲坂その2_2古地図
古地図

そこで古地図が登場です。
これでみるとかつての鉄砲坂の坂下のすぐそばは海。
ということは、標高もかぎりなく0mに近いことになりますかね。
なので、高低差はやはりかなりあったと思われます。


鉄砲坂その2_3品川すさき
品川すさき

そして、この浮世絵です。
広重さんによる「品川すさき」(安政3年(1856)ごろ)という絵だそうです。
これは位置的には、上の古地図で(実はこっそり)鉄砲坂の左右に黄色の★マークを記しておいたのですけど、この浮世絵は坂の右側の★地点が該当する場所といわれているそうです。
ということは、かつての鉄砲坂の坂下付近の景色もこんな感じだった可能性は高いと思われます。
そうであれば、前回の記事の写真2が、今の坂下あたりの景色なのでえらい違いですね。。
あと、この浮世絵の右上のほうに描かれている小さな島が、かつての御殿山を削りとった土で築いたといわれるお台場だそうです。


鉄砲坂その2_4月の岬
月の岬

せっかかくなので、もう一枚。
こちらも同じく広重さんによる「月の岬」(安政4年(1857)ごろ)という浮世絵です。
上の古地図でいうと、坂の左側に黄色の★マークがあるところですね。
僕が参考にした本(ここが広重画「東京百景」)では、古地図の場所にて、絵に描かれているような豪華な料理屋はなかったかもしれない(左の影の女が遊女であることから)とも書かれていて、この場所についても空想だったのではないかという説があるようですが、とにかく広重さんが描きたくなるような景色がこのあたりに広がっていたことはたしかで、そんなことからもこの絵もあわせて紹介してみました。


というわけで、このあたりは東に海、北は御殿山(昔は桜の名所でもあった)ということで眺望的にもかなりすぐれた場所だったそうで、そういう意味でも、かつての鉄砲坂からの景色もかなりのものだったことは想像できそうですかね。



住所
品川区北品川1あたり

気がつけばけっこう長い期間、品川駅界隈の坂道を取り上げてきたわけですが、やっと最終章に入ります。

今回とりあげる坂道は、”てっぽう坂”とかつて呼ばれていた坂で、すでに無くなってしまった坂道です。

まずは、この坂道を取り上げている江戸東京坂道事典の記述によるとですね、
『嘉永二年の切絵図には品川歩行新宿から、西方御殿山の北辺に上る坂を、テッポウ坂と記載し、坂下少し北のところには「清水の井」があり。』
とありました。
なので、今回はまた品川駅の南側エリアに戻り、前に取り上げた御殿山の坂(NO.240)とすこし関連のある場所を取り上げるということになります。

また同じ本の中で他の項には、
『1853年、黒船来航に太平の眠りを破られた幕府は、品川砲台(お台場)を急造するため、この御殿山を削りとって、その土をもって台場を築いたので、御殿山は変形し、さらに明治初年の鉄道敷設のさいには、山の東部を南北に分断し、そのさい、鉄砲坂下の有名な清水の井も埋められてしまった。今の京浜電鉄北品川駅がそのあたりである。』
とも書かれていました。


鉄砲坂1
写真1

そこでふぬふぬと軽く調べて(ここだけですよ)、現地に行ってみるとなんかそれらしき痕跡があったというわけです。(写真1)
写真1の案内板には、
『磯の清水:江戸時代、北品川宿畑地内(現在の北品川駅付近)に昔から磯の清水と呼ばれる名水の出る清水井がありました。宿内の半数以上の家でこの井戸の水を飲料にしていました。干魃の折にも涸れることがなかったといいます。このことから、この横町を清水横町と呼んでいました。』
と書かれてありました。
そういうわけで、このあたりが史実によれば清水井があった場所ということみたいなので、かつての鉄砲坂の坂下もこのあたりだったということになりますかね。


鉄砲坂2
写真2

とりあえずまわりを見渡してみました。(写真2)
写真1の位置より東側の方向にこんな感じで京急の踏切がありました。
いちおうこの踏切をわたり、奥へと歩いていくと、かつての東海道(今は旧東海道と呼ばれているんですかね)があった場所に行くことができます。


鉄砲坂3
写真3

また北側をみると、京急の北品川駅も目の前という場所でした。(写真3)


鉄砲坂4
写真4

さらに、写真2の方向と反対の西側をみると、第一京浜道路が見えていました。
そして、御殿山と呼ばれる場所は今でもこの道路の向こう側にあるので、かつての鉄砲坂はこの方向に上る坂道だったと思われます。


鉄砲坂5地図
地図

そこで、現在の地図(グーグルマップ)に、清水井の場所から想定した鉄砲坂の位置をのせてみることにしてみたのが上の図です。
かつての御殿山と呼ばれていた場所は、この図からも、お台場へ土を運ばれたことによる変形に加えて、今のJRの線路によって昔とはかなり違った場所になったようですね。


鉄砲坂6古地図
古地図

あと、せっかくなので、goo地図の古地図ページから拝借したものにも、清水井と鉄砲坂の位置をのせてみたものが上の古地図です。
ちなみにこの古地図を拡大して確認してみると、実は清水井と鉄砲坂のこともちゃんと記載してありましたよ。
なのでこの古地図からも現在の御殿山とかつての御殿山はえらく違うものになっているということが確認できたので、個人的は大満足です。


鉄砲坂7
写真5

そして、最後は、現在の御殿山と呼ばれている場所の頂上近くから、京浜急行側(かつての鉄砲坂の坂下方向ですね)を眺めてみたのが、写真5です。
どうですかね、なにか想像できましたかね。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
品川区北品川1あたり

洞坂(NO.247)で、ちらりとでてきた東禅寺なるお寺、実は「東禅寺事件」と呼ばれているたいへんな事件がおきた場所だったんですね。
でもこのブログでは、そういう史実のある場所のそばを今までもたくさん歩いてきたわけで、今回も軽くスルーしようかなと思っていたんですけど、ふと気になることがありましてですね。
というのも、今の慶応大学そばの綱坂の幕末の写真を撮ったことでも知られているフリーチェ・ベアトさんというこれまた幕末に活躍した写真家の方がいたんですけど、その方が当時の東禅寺の写真をいっぱい残されているみたいなのですよ。
それで、ちょっとその紹介がてら、今回はめずらしくお寺の話などもまじえながら。


01_東禅寺今昔
写真1(長崎大学付属図書館データベースから拝借)

まずは、ベアトさんが撮った幕末の東禅寺の山門の様子を撮ったものです。(写真1)
門のまえに武士が3人いるのがなにやらぶっそうな感じですかね。



02_東禅寺今昔

写真2

ちなみに今の山門のまえには、こんな感じで「最初のイギリス公使宿館跡」と書かれた石碑が設置されていましたよ。(写真2)
(今回は、門の全景をおさめた写真はないので、後ろにちらりと見えている門の様子で想像してもらうしかないですのであしからず。)
あと、せっかくなので、このすぐ横に(写真2にもちらりと見えてますけど)こういう場所によくある案内板があったので一部を抜粋するとですね、
『東禅寺は、幕末の安政六年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。
幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使館(着任寺は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)五月には尊王攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。』
と、いくつか省いてますが、こんな感じで書かれていました。
なるほどー。



03_東禅寺今昔
写真3(長崎大学付属図書館データベースから拝借)

だからこそ東禅寺事件の現場を写したという、”東禅寺事件の現場”というタイトルの写真をベアトさんは残してしておいたんですね。(写真3)


04_東禅寺今昔
古地図(goo古地図より拝借)

こちらは見ての通り、東禅寺界隈の江戸時代の古地図です。
この地図をみてみると一目瞭然、右の大通りから東禅寺と書かれた場所に向かう道の途中に、写真1のような景色が広がっていたと思われます。


05_東禅寺今昔
写真4(wikipediaより)

またベアトさんはこんな写真も残していました。(写真4)
東禅寺の庭を撮ったもののようですね。
写真3のアングルと似てますけど、こちらは休日のひとときという感じがすごく伝わってくるもののようでした。
でもなぜこの視点で撮影できたんですかね


06_東禅寺今昔
写真5

あと東禅寺の境内には、なんと今も三重塔が残っており、おそらく幕末当時もあったものと思われますが、ベアトさんの写真には写っていないようですね。(写真5)


07_東禅寺今昔
写真6(長崎大学付属図書館データベースから拝借)

そして、こんな写真もありましたよ。(写真6)
”外国人の江戸散策”と呼ばれている写真で、どこで撮られたものかは諸説あるようなのですが、いくつかのネット情報によると、どうやらこの写真も東禅寺境内で撮られた可能性が高いということでした。
であれば、写真の外国人はイギリスの人ということになるんですかね。


08_東禅寺今昔
写真7

ちなみに現在の東禅寺境内の写真はこちらで、おそらく写真6と見比べてみても、やはり同じ場所である可能性が高いかなと。(写真7)
(断定はしませんけど。。)


09_東禅寺今昔
地図(グーグルマップより)

最後に現在の東禅寺界隈の地図なども。
今の山門の場所は、”港区役所高輪保育園”と地図の下のほうに書かれている場所あたりになるので、そのあたりから過去の写真と古地図を見ながら想像してもらえればなあということで、ここでは多くを語らず。

でも、最後にもうひとつ。
実は、この東禅寺、だいぶ前にこのブログで取り上げた霊南坂 (NO.117)と深い関係がありまして、霊南坂のページの最後のほうでもすこしふれているとおり、この東禅寺は元々、霊南坂の名前の由来にもなった嶺南和尚が開山した霊南庵が元々の起源で、場所も江戸時代のはじめは今の霊南坂のそばにあったものが、その後この地に移って東禅寺になったということみたいですね。



地図
東京都港区高輪3-16



追記2014/3/21:
写真5の東禅寺の三重塔のことですが、こちら、ある方にメールでご指摘いただいて(そのあと自分でも軽く調べてみたところ)、この三重塔は昭和になってからできた新しいもののようでした。失礼いたしました。(汗)またさらりと訂正してなにもなかったかのように更新というのもなんでしたので、修正前の文も残しておくことにしましたのであしからず。

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