東京坂道さんぽ

2015年12月

しんちゃや坂と呼ぶそうです。
場所は、前回取り上げた茶屋坂(NO.263)の坂上と途中でつながっていて、北西側を目黒川まで下っている坂道です。


新茶屋坂(NO.264)1
写真1

まずは坂下あたりからの坂上方向の眺めです。(写真1)
この辺はほぼ平坦といっていい場所でしたが、ちょうど目黒川と交差しているあたりのため、とりあえずぱちりと一枚。


新茶屋坂(NO.264)2
写真2

写真1でも見えていましたが、右側には目黒清掃工場があり、その煙突がやはり印象的だったので、きちんとのせてみることにしました。(写真2)
こうしてみるとかなり大きい煙突ということがわかりやすんじゃないですかね。


新茶屋坂(NO.264)3
写真3

こちらは、目黒川ですが、写真2の右側方向、つまり目黒駅方向をみたものですね。(写真3)
ちなみに奥に見えている橋のあたりの左側には目黒エコプラザという公共施設があって、かの有名な目黒のさんま祭もあのあたりで毎年開催されているようですね。


新茶屋坂(NO.264)4
写真4

再び坂道にもどり、傾斜がすこしでてきたあたりから、坂上方向を見てみたものです。(写真4)
この坂は、やはり、”新”とつくことからも新しめな印象が坂道のいたるところでみられ、その典型がこの広い道幅だったですかね。
そして、右側の清掃工場の緑が元気に坂道上までせり出していて、なかなかいい感じに。


新茶屋坂(NO.264)5
写真5

こちらは、坂道をすこし上がり、さらに坂上方向を眺めてみたものです。(写真5)
このあたりが今回の坂の中腹あたりになりそうですかね。
やはりこのあたりもつくりが新しい感じでした。
勾配具合も歩いている分にはなかなかだったのですが、いかんせん直線距離が長い坂なので、写真ではちょっとわかりにくいですかね。
あとは、写真4とは逆側になる左側の防衛省の敷地内の緑のボリュームが今度はなかなかのものでした。


新茶屋坂(NO.264)6
写真6

だいたい同じ位置より坂下方向をみてみたものです。(写真6)
やはりここでは例の煙突ですかね。


新茶屋坂(NO.264)7
写真7

もうすこし坂をのぼり、再び坂上方向をみてみました。(写真7)
まず一番に気をつけるところといえば、左側に見えているバス亭ですかね。
なんとここのバス亭名は「茶屋坂」というそうなのですよ。
新茶屋坂にある茶屋坂というバス亭ですね。(笑)
ただ、実は茶屋坂にかつてあったあの富士見茶屋はおそらくこの右側に見えているマンションのあるあたりにあった可能性も否定できないので、一概には笑えないところでもあるんですけどね。
あとはこれまでと同じような景色に見えますが、実はすこし坂上のほうの雰囲気が違っているのですよ。(覚えておいてくださいね。)


新茶屋坂(NO.264)8
写真8

そして、これですよ。(写真8)
写真7の右側の道路沿いのマンションの端っこ、坂上側あたりにもちらりと写っているのですが、「茶屋坂隧道」という案内板がそこにあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『三田用水は寛文4(1664)年,飲用の上水としてつくられ,玉川上水から北沢で分水し,三田村を通り白金,芝へ流れていた。享保7(1722)年この上水が廃止になったとき,目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て,享保10年に三田用水となった。農耕,製粉・精米の水車などに用いられた用水も,明治以降は工業用水やビール工場の用水など,用途を変更し利用されてきたが,やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め,約300年にわたる歴史の幕を閉じた。茶屋坂隧道は,昭和5年に新茶屋坂通りを開通させるため,三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで,平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。』
とありました。

そうだったんですね。
昔は、このあたりは写真8の案内板の写真にもあるとおり、トンネルだったようですね。
そして、それが”茶屋坂隧道”と呼ばれていたということみたいですね。
要は、かつてあった三田用水の流れをそこなわないように、その下にトンネルを掘ってこの新茶屋坂がつくられたということなのですな。


新茶屋坂(NO.264)9
写真9

次は、さらに坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
このあたりからがらりと坂道の雰囲気が変わっていたのですが、要はこのあたりがかつてトンネルのあったあたりの場所だったようで、その名残りとして、左右の立派だけど、どこか新しい擁壁があるという不思議な雰囲気の場所になっているということなんですかね。

ちなみに、ここには、いつものような坂の碑はなかったのですが、目黒区のHPに坂の説明を記したページがあったので、それを一部抜粋しておくとですね、
『坂の中程にあるバス停に「茶屋坂」とあるが、この道は、右手奥の、3代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭和3年に開かれたずい道で、「新茶屋坂」と呼ばれる。坂の途中にあるトンネル上には、昭和49年に廃止されるまで、三田用水が延々300余年にわたって流れ続いていた。トンネルをくぐる辺りから、坂上にかけて左手に、うっそうと生い茂る松林は、江戸時代の目黒の姿を物語るかのように、当時の面影をしのばせていたが、ずい道は撤去され、町並みは変ってしまった。』
とのことです。

なので、この坂道は、昭和3年にできたことは確実みたいですね。
そして、昭和49年(1974年)にトンネルがなくなり景色が一変したと。。

あ、ちなみにちなみに、茶屋坂(NO.263)との位置関係ですが、地図をみると茶屋坂の坂上あたりをかつての三田用水が流れていたという位置関係なので、茶屋坂の例の清水との関係は薄そうでしたよ。


新茶屋坂(NO.264)10
写真10

そんなこんなで、最後は、坂上あたりからの景色です。(写真10)
もしかしたら、軸線からはすこしずれていますが、富士山の方向にくだる場所にあり、この高低差からすると、昔の低いビルしかなかった当時はもしかしたら、富士山が坂の途中から見えたかもしれませんが、現在ではどうなんですかね、たぶん見えないんじゃないですかね。

あとは、1974年に一度再整備された道なのだなあと、改めて思いながらこの坂道風景をみるとなんだか奇妙な感じもしますが、別の考えでいえば、1974年に整備された道の割にはなんかきれいなのかもなあとも思うわけなのですが、どうなんでしょう。



地図
目黒区三田2-3あたり

ひさびさの都内の坂道再開です。


ちゃや坂と呼ぶそうで、場所は、JR目黒駅と恵比寿駅の間にある恵比寿ガーデンプレイスの南西エリアにある坂道で、坂上のそばには防衛省の施設が隣接している場所でもあります。



茶屋坂(NO.263)-1
写真1

まずは坂上からの様子でも。(写真1)
見てのとおりですが、けっこう道幅の狭い坂道でした。
しかも、道がくねくねしていたので、ここからは坂下の様子はまったくわかりません。

あと、ブログの写真では見えないと思いますが、正面の黄色い看板には10%という表示が書いてありましたよ。
なのでここは勾配10%ということですね。
ちなみに、軽く復習がてらですが、勾配10%と傾斜10度はかなり勾配具合が変わってきますのであしからず。
(10%の勾配で、5.5度くらい?)


茶屋坂(NO.263)-2
写真2

いちおう、写真1の背後も見てみました。(写真2)
防衛省の宿舎のマンションがボンボンボンと並んで見えていましたよ。


茶屋坂(NO.263)-3
写真3

次は、坂をすこし下り、坂上方向を見てみた物です。(写真3)
地面の舗装の色が途中からあずき色のものになっていましたが、これは普通なら、坂上あたりより勾配具合がゆるいからというパターンが多いのですが、ここはどうなんですかね。
見た目はむしろ傾斜はきつくなっているような気もしますけど。。


茶屋坂(NO.263)-4
写真4

写真3とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみました。(写真4)
途中で右に曲がるポイントがありますが、今回の坂道はまっすぐのほうです。
とりあえず、今回の坂道は道幅が狭いまま、こんな感じで坂下まで続いているのですよ。
でも道幅が狭いとなんか独特の雰囲気がでてくるのは、やはり坂道のおもしろいところかもですね。


茶屋坂(NO.263)-5
写真5

こちらは、写真4でも見えていた、右に曲がる道を曲がり正面をみるとこんな景色がひろがっていたのですよ。(写真5)
ここは、茶屋坂ではないので、要は無名坂といえるのですが、勾配具合もいい感じの坂道でした。
あとは奥の目黒清掃工場の煙突もかなり印象的な場所だったかもですね。


茶屋坂(NO.263)-6
写真6

写真4とすこしかぶり気味ですが、写真5の立ち位置とだいたい同じ場所より、茶屋坂の坂下方向を眺めてみたものです。(写真6)
このあたりも道がくねくねしていて、坂下あたりはまだ見えていませんが、勾配具合はけっこうあるのはわかりやすいかもです。


茶屋坂(NO.263)-7
写真7

さらに坂をくだっていきますが、まだ坂下は見えず。。(写真7)
舗装が、例のドーナツ型なので、勾配はけっこうきつめなのかもしれませんが、距離がかなり長いので歩いているときはそれほどは感じなかったですかね。

茶屋坂(NO.263)-8
写真8

さらに坂を下ると、急にカクンと右に曲がるポイントがやってきます。(写真8)
そして、正面に見えている黄色い看板には、20%という文字が。。(かなりきつい・・・。)
さらに、その左横には、坂の碑ならぬ坂の案内版もあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。』
とありました。

そうなんですよ。
この坂道、実はかつて坂道の途中から富士山が見えたという富士見坂でもあったんですね。
しかも、「大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂」とあるとおり、これは現在でもこれまで歩いてきた感じ(写真1から写真8)からも、昔のくねくね感もちょっと想像できそうですよね。

ちなみに、江戸時代にあったという爺々が茶屋については、説明にもあるとおり、広重の絵にも描かれています。


茶屋坂(NO.263)-広重絵図
「目黒爺々が茶屋」広重

それがこの絵図ですね。
右下あたりに見えているのが爺々が茶屋ですかね。
しっかり松も描かれていますね。
位置的には、写真1あたりからの景色を描いたものだろうと思われます。
ちなみに、この茶屋、将軍家光の時から、爺々が茶屋と言われるようになったそうですが、本来はこの茶屋から富士山を望むことができたことから、富士見茶屋と呼ばれていたそうですよ。


茶屋坂(NO.263)-9
写真9

そして、坂道をカクッと曲がり、さらに坂下方向を眺めてみたのがこちらです。(写真9)
まだ坂道は続いていましたよ。
しかも、ここでもあの煙突が。
ちなみに、富士山の方角ですが、地図で確認すると、実はここの坂道の軸線上にあるみたいですね。


茶屋坂(NO.263)-10
写真10

こちらは、写真9で見えていた横断歩道のあたりまで下り、坂上方向を見てみたものです。(写真10)
ここで坂上のほうが急に曲がっていているのは昔からだったのかどうかについては、手持ちの古地図では場所が微妙に外れていて確認できなかったのですが、写真でも見えているとおり、いつもの坂の碑があるので、昔からあったということにしておいて、とりあえずここでは、坂の碑の説明を抜粋するとですね、
『江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。』
ということでした。


茶屋坂(NO.263)-11
写真11

せっかくなのでさらに坂道を下り、坂上方向を見てみたものです。(写真11)
こうしてみるとかなりの高低差でした。
しかもここから坂上までの高低差を想像してみると・・・。


茶屋坂(NO.263)-12
写真12

さらに坂下方向に歩いていると、途中、道の西側(写真12でいえば左側)の擁壁とその緑がなかなかの感じだったのでおもわずパチリと。(写真12)


茶屋坂(NO.263)-13
写真13


そして、最後にこれなのですよ。(写真13)
微妙に、写真12ででてきた緑と擁壁も写真13の上のほうに見えている場所なのですが、なんとここに”茶屋坂街かど公園”なる公園があって、しかも、園内には「茶屋坂の清水と碑によせて」という案内版があったのですよ。
もうここまできたら、それも抜粋してですね、
『落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田2丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。その後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。』
と長いですが、ありました。

要は、このあたりに、かって、おいしい水がわき出る清水があったということみたいですね。
なので、爺々ヶ茶屋もそのおいしい水でお茶をいれて、当時の将軍をもてなしていたのだなあと想像すると、今はひっそりとあるこの場所もなかなか興味深い場所だったのかもしれないですね。


そして、最後の最後に、これまでの話だけではちょっとわかりにくかった”目黒のさんま”のことについてすこしふれて今回はおわりにしたいと思います。

『例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。
「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」
この話が、落語「目黒のさんま」である。』 
(”「目黒の坂 茶屋坂」目黒区” のHPより抜粋)


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区三田2-11あたり

ちょっと最近、更新が遅れていたので、今回はさらりとです。

気がつけば1ヶ月ちょっと前になってしまったのですが、増上寺にてデザインイベントがやっていたので、そのついでに散歩した時のことです。


芝公園の階段の夜をぶらり1
写真1

まずはこちらから。(写真1)
写真1は、増上寺境内で撮ったものです。
よくみると奥のほうの階段に挟まれた場所がかなり明るいですが、その奥で「Any Tokyo」なるイベントがやっていたのですよ。
ただここまで書いておいて、デザインイベントのことについては、触れませんけど(汗)、今回のポイントはこの風景なのですよ。
なかなかインパクトあっておもしろいですよね。
たしか昨年も、ここからpen君で写真撮っておいたと思うんですが、ブログにはあげてなかったようなので、今回あらためてです。


芝公園の階段の夜をぶらり2
写真2

次ですが、こちらは芝公園内にあった階段です。(写真2)
最近、このブログでもとりあげた芝公園ですが、例の平和の灯のあたりからのタワーを眺めようと思い、芝公園のほうに歩いていたら、あったのですよ。(汗)
これまではたいてい、増上寺に訪れたら、次は東京タワー→六本木(界隈の坂道)という感じで歩くことが多かったので、まったくのノーマークでした。。
写真2は、手持ち撮影のため、ちょっとぶれていますけど(というか三脚立てて撮ってたら怒られそうな場所かもですが)、丁寧にライトアップされた階段に東京タワーと、ここにもし椅子があったらけっこうな時間ぼんやりできそうな風景が広がっていました。
ちなみにこの階段、地形的には人工物なのか自然発生ものなのかは、わかりませんでしたが、階段のあるエリアの南西側には、これまた前に取り上げた芝丸山古墳があるので、それとの関わり次第の判断ということで、今回はスルーしておくことにしますね。


芝公園の階段の夜をぶらり3
写真3

実はですね。写真2の背後には、こんな感じで立派な門があったのですよ。(写真3)
有章院霊廟二天門なるものらしく、有章院霊廟の総門とのこと。
この門、現在は手入れされていてきれいなので気がつきにくいですが、けっこう古くからあるみたいで、有章院(7代将軍、徳川家継[宝永6 年(1709年)〜享保元年(1716年)])の有章院霊廟に8代将軍徳川吉宗が享保 2年(1717年)に建立したものだそうですよ。(参考HP:http://4travel.jp/travelogue/10618751
(とりあえず、いつか機会ができたら昼に再度訪問して、きちんと写真も撮っておきたいと思いますが、今回は階段メインということで、このアングルでご勘弁を。)

ということは、この奥を今回歩いた感じでは、芝公園の公園らしい広場があるだけでしたので、かつてこの奥に有章院霊廟があったということでいいんですかね。(というか、これ書いてからリンクしたHPをしっかり読んでみると、どうやら有章院霊廟は、今の東京プリンスホテルの大きな駐車場あたりにあったとありますね。なのであとは広さとの関係になりますかね。)
そうすると、この階段は霊廟にいくための階段を復元したものとか(これもHP見るとそんな感じのものは見当たらないので、妄想ですが・・・)。
なので、このことについてもきちんと調べればわかることだと思いますので、こちらも今後の宿題ということで。。

ちなみに、左右に怖そうにたっている方々は、仏法守護の役目を持つ広目天と多聞天だそうです。(参考HP:http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col091004.htm


芝公園の階段の夜をぶらり4
写真4

そして、最後は階段上からの夜景でも。(写真4)
なかなかの高低差でありましたよ。
しかも奥の明るくひかるビルとのコントラストもすごいですね。。
こうしてみると、やはりこの階段は坂下の門に敬意をはらったつくりをしているようにみえるのですがどうでしょうかね。



ということで、今回も軽く流そうと書き始めたのですが、思いのほか歴史にあふれた場所だったこともあり、いつもの感じになってしまいましたが、今回はこんな感じです。


地図
東京都港区芝公園4-8

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