東京坂道さんぽ

2016年05月

こんぴら坂とよぶそうです。
場所については、前回取り上げた、十七が坂(NO.268)の南側を目黒通りが走っているのですが、今回の坂道は、なんと目黒通り自体が坂道であり、その坂道に名前がついているという場所なのです。


金毘羅坂(NO.269)1
写真1

まずは坂下あたりより。(写真1)
奥のすこしカーブしながら上っている坂道が、今回の坂道ですね。
ここは、ちょうど左右に山手通りが横切っていて、目黒通りと山手通りが交差する場所でもありました。
なので、こんなに広々としているのですね。


金毘羅坂(NO.269)2
写真2

坂をすこし上り、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
幅の広い、ゆったりとした坂道でした。
ちなみに、ちょうど右側にもそれらしきお店が見えていますが、ちょうどこの坂道の坂下あたりから西側あたりの目黒通り沿いに個性的なインテリアショップが点在していることから、このあたりのことをいつしか、目黒インテリアストリートと呼ばれるようになったみたいですね。
目黒インテリアストリートについては、以前からその存在は知っていたのですが、今回、改めて調べてみると、「MISC」なる、目黒インテリアストリートを紹介している公式サイトがありましたので、気になるかたはそちらでも見てくださいな。
→ http://misc.co.jp/?page_id=11233


金毘羅坂(NO.269)3
写真3

そして、写真2の左側には、こんな感じで、大島神社の境内が見えていました。(写真3)
写真1の左側にもちらりと見えていた神社ですね。
こちらの神社の詳しいことについては、「御朱印・神社メモ」さんのサイトが詳しく、江戸名所図会などものせていらしたので、そちらのほうをリンクしておきますね。
→ http://jinjamemo.com/archives/27004170.html


金毘羅坂(NO.269)4
写真4

さらに坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真4)
こっち側の景色はほぼまったいらですね。


金毘羅坂(NO.269)5
写真5

写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真5)
広々としていますねえ。
ただ、この広い道幅になったのは、昭和のはじめ頃らしく、それまではこの道幅も8mくらいしかなかったらしいですよ。


金毘羅坂(NO.269)6
写真6

もうすこし坂をのぼり、坂下方向を見てみたものです。(写真6)
広い道幅やまわりの背の高めのビルのおかげで、わかりにくいですけど、実は高低差のほうはけっこうある感じでしたよ。

ちなみにここにも、いつものような坂名の由来が書かれている案内板が途中にあったようなのですが、今回は気がつかなかったので(またそのうち調べておきます)、とりあえず、目黒区のサイトにも坂の説明が書かれたページがありますので、かわりに一部抜粋させていただくとですね、
『目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂(こんぴらざか)という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社こんぴらしゃ(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。
明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。』
とのこと。

まず、この金毘羅坂の由来となったという金毘羅社ですが、古地図で調べてみると、ちゃんと記録されていましたよ。
「金毘羅大権現」という名称でのっていました。
場所的には、ちょうど写真6の左側あたりにあったようですね。
ちょっと調べてみると、なんと、あのクリナップのサイトに江戸散策「太鼓橋の向こうには”目黒三社”の目黒不動」なるページがあり、今回の金毘羅社についてのこともふれられていましたので、一部抜粋させていただくとですね、
『「金昆羅」はかなり広大な土地を有した寺なのに、跡形もなくなっている。寺というのは「高幢寺(こうどうじ)」のなかに「金昆羅」があったからで、こちらの方が有名だった。江戸切絵図では「金昆羅大権現」と書かれている。廃寺になったのは明治の初め、新政府の「神仏分離令」と「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動によるものである。 
寺社の多くは“神仏分離”に何とか対応して現在に続いているわけだが、それができなかったのはなぜか。明治新政府の中枢となった雄藩の一つ、薩摩藩の庇護のもとに「金昆羅」があったためと推測する。立場として自ら厳しく対処せざるを得なかったのだろう。』
とのこと。

たしかに、古地図を見てもかなり大きな敷地だったので、なぜなんだろう?と思ったわけですが、これで納得という感じですかね。

あと、目黒競馬場については後ですこしふれます。


金毘羅坂(NO.269)7
写真7

写真6の右側には、写真7のとおりで「目黒寄生虫館」なる公共施設もあったのですよ。(写真7)
「寄生虫」を専門に扱った世界でも唯一の研究博物館とのことで、規模は小さいながら、展示物を見ていると、月並みな言い方ですが、いろいろと生物について人間について考えさせられてしまいましたよ。(笑)
あとは時期的にも、北里大学の大村智博士がノーベル生理学医学賞を受賞した直後にこの施設を訪れたことも、興味をひかれたというか、かなり影響あったかもですね。



金毘羅坂(NO.269)8
写真8

さらに坂をのぼり、坂上方向を見てみました。(写真8)
このあたりから坂道の勾配具合もゆるやかになってきました。


金毘羅坂(NO.269)9
写真9

あと、気になったのがこれでしたかね。(写真9)
実は写真8の左上のほうにもちらりと見えていたのですが、多摩大学目黒中学校・高等学校の校舎への入口がこんな風なつくりになっていたのですよ。
かなりびっくりなつくりだったので、おもわずぱちりと。


金毘羅坂(NO.269)10
写真10

そんなわけで、やっと坂上あたりにやってきました。(写真10)
ただ坂道風景的には、なんてことない目黒通りの景色ともいえますかね。
あとは、さきほどでてきた、この近くにあったという目黒競馬場についてですが、実は散歩当日はこのことをすっかり忘れており、調べてくるのを忘れていたのですよ。。
しかも、このすぐ西側には、「元競馬場」なる交差点まであったのです。(泣)
要は、この写真10の右側うしろあたりに、かつて目黒競馬場があったということみたいなのですよ。。


金毘羅坂(NO.269)11
目黒競馬場

仕方ないので、まえにこのブログの本カテゴリーでも紹介した「東京現代遺跡発掘の旅」に目黒競馬場の当時の写真が掲載されていたので、ちょっと拝借してのせておきたいと思いますよ。
僕自身は競馬については全然くわしくないというかよくよく思い出してみると競馬場自体に行ったことがないのですが、それでも、写真をみるだけで、この近くにこんな広々とした場所があったことだけはわかりますし、意味もなく感慨深くなってしまいますかね。
あと、目黒競馬場については、僕に知る限り、この「現代遺跡発掘の旅」の本にて当時の様子、大山さんのデイリーのネット記事にて現地写真などが詳しく取り上げられていますので、気になる方はそちらのほうでも見てもうらうと、いくつかの史実がわかると思いますよ。


富嶽三十六景・下目黒
富嶽三十六景・下目黒

いろいろ調べていたら、どうやらこのあたり(下目黒)の、江戸時代の様子を描いている葛飾北斎による富嶽三十六景・下目黒なる浮世絵が、あることがわかりましたので、せっかくなので最後にのせておきますよ。
なんとなく絵の色つかいや雰囲気が今ぽいですが、大昔の絵なんですよね。

やはりこの坂上あたりからも富士山がみえたんですかねえ。(わかりませんが・・・)


ということで今回はこんな感じです。


地図
目黒区下目黒3-24あたり

じゅうしちが坂と呼ぶそうです。

場所は、前に取り上げた馬喰坂(NO.267)の坂上から南西側の道をすこし南下すると、今回の坂道の坂上あたりにやってきます。



十七が坂(NO.268)1
写真1

まずは坂上あたりからの景色でも。(写真1)
とりあえず、ここからは坂下あたりの様子は見えないことや遠くの景色からも結構な高低差具合の坂道ということはわかりますかね。

ちなみに、ここにも写真でちらりと見えているとおり、坂の碑がありましたので、いつものように抜粋するとですね、
『「一七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道せずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説や坂の途中にある坂碑型庚申塔に一七人の名が刻まれていることに関連するという説など、由来についてはいくつかの説がある。』
とありました。

まず、「「一七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道せずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説」というところ、そのままといえばそうなのですが、もうすこしわかりやすい説明が目黒区のサイトにありましたので、そちらのほうも抜粋するとですね、
『宿山と目黒不動尊を結ぶ庚申道の難関がこの坂越えであったという。そのため、この坂道を利用するのはもっぱら若者ばかりで、老人や子どもは坂下から西方へ迂回して藤の庚申で庚申道に合流する回り道を利用したという。あまりに急であったため、子どもが坂道の途中でころぶと、17歳になったとき不祥事が起きるという話が坂名の由来と伝えられる。』
とありました。
要は、この坂道の西側に迂回路があったようで、目黒不動尊の方から宿山(どうやら中目黒駅の西側にある世田谷公園の近くみたいですね)へと先を急ぐ(逆もしかり)若者がもっぱら利用していた坂道だったからということみたいですね。
ただ、ここでなぜ、子どもが坂道の途中でころぶと、17歳になったとき不祥事が起きるという話が出てくるのかは不明ですが。。


十七が坂(NO.268)2
写真2

あと、写真1の道路の左側になにげに見えていたのですが、坂の途中にはこんな具合に庚申塔があり、「十七が坂上の庚申塔」と書かれた案内板もありました。(写真2)
こちらもせっかくなので、抜粋させていただくとですね、
『江戸時代の農村では庚申信仰がさかんで各集落に講があり、その寄進で庚申塔が建立されました。
庚申塔には、青面金剛や三猿、年号、建立者名などが刻まれていて、村の歴史や人々の生活を知るための貴重な資料です。
この庚申塔は前の十七が坂上にあるので「十七が坂上庚申塔」と呼んでいます。
墓地の中でひと際目立ち、高さ2メートル余もある宝篋印塔型の庚申塔は、寛永3年(1626)に建立されたもので都内でも古いもので菅沼一族8名の名があります。また、この塔の前の板碑型庚申塔には明暦3年(1657)の年号と、その下に17人の建立者名が刻まれています。その筆頭者に「権之助」の名前が見られますが「権之助坂」の名のおこりになった菅沼権之助ではないかと言われています。』
とのこと。

なるほど。
ちなみに、今回は気になったので、すこし調べてみると、目黒区のサイトに「庚申塔(こうしんとう)って何」と、タイトルそのままですが、庚申塔に関するわかりやすい説明が書かれたページがありましたので、リンクしておきますよ。
→ http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/koshinto/nani.html
(各部の名称なんて図もあって、これはいいですよ。プリントアウトして坂道散歩の時は持ち歩きたいくらいですね)
それにしても、説明を読んでみると60日に一度くるという庚申の日には徹夜して過ごした、とありますけど、本当だったんですかね。。

あとは、坂の碑にも書いてあった「坂の途中にある坂碑型庚申塔に一七人の名が刻まれていることに関連するという説」については、これでこの場所が、坂名の由来の可能性であるということもわかりましたかね。
ただ、庚申塔の名が、「十七が坂上の庚申塔」とついているので、この庚申塔については、後から名前がついたことだけは、正しいような気もしますがどうでしょうかね。


十七が坂(NO.268)3
写真3

こちらは、すこし坂を下り、坂下方向を見たものです。(写真3)
坂の説明のとおり、けっこうな勾配具合でした。
坂下のほうの建物をみるとわかりやすいですよね。
眺めもなかなかです。
そして、黄色の勾配看板ですね。
写真では見にくいかもですが、10%と書いてあります。
しかも、こちらも恒例の急坂になると登場するドーナツ型の滑り止めですね。
やはりいろんな要素を見てもここは急坂ですね。(笑)


十七が坂(NO.268)4
写真4

さらに坂をくだり、同じく坂下方向を見てみました。(写真4)
下のほうの勾配が緩やかになっているあたりが坂下あたりですかね。
くねくねとしていて、変な形の道のつくりが、古くからありそうな雰囲気を醸し出していましたかね。


十七が坂(NO.268)5
写真5

いちおう、だいたい同じ位置より、坂上方向も見てみました。(写真5)
この写真であれば、急坂具合がすごくわかるんじゃないですかね。(汗)


十七が坂(NO.268)6
写真6

そんなわけで、やっと坂下あたりにやってきました。(写真6)
右側の坂道が、今回の坂道ですね。
ここから見るとカーブ具合がいいですねえ。

しかも、なかなか良い感じのY字路にもなっていました。

ちなみに、最初のほうに出てきた今回の坂道の西側にある迂回路ですが、どうやら写真6に写っている左側の道が、地図でみたところ、その道に該当する可能性が高いみたいでした。
もしその史実が正しければ、ここは歴史的にも古いY字路ということになるのかもしれないのですね。

ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区目黒3-3あたり

先月末のことですが、リオデジャネイロ五輪の100日前を記念して、都庁がブラジルのナショナルカラーである緑と黄色にライトアップされているのを目撃して、急遽ぶらりとしてきた時のことでも。


ブラジル色の都庁と階段夜景1
写真1

いきなりですが、階段です。
こうして写真におさめてみると、かなり豪華なライトアップが施されていて、改めてびっくりしてしまいましたが、かっこいいですねえ。
なお肝心の都庁は右上に写っております。
場所は、わかる人はわかるかもですが、都庁の南西側にある新宿パークタワーの地下のレストラン街へと降りる階段からのものですね。
なので、ひさびさの新宿パークタワーでもありますかね。
そして、今回はここからのビューポイントを思い出して、この階段に来たのです・・・、と言いたいところですが、実は、その逆で、当日はたまたま地下にあるカフェで休憩して、そのついでにせっかくだからパークタワー界隈の夜景でも撮ろうと思って寄り道していたところ、ふと都庁を見上げてみると、写真のような緑と黄色に都庁がライトアップされていたのですよ。(汗)

しかもこのライトアップイベントは、後で調べてみると、都庁と駒沢オリンピック公園のオリンピック記念塔のみで行われた、なんと一日限りのイベントだったので、かなり貴重なコラボ写真になったんじゃないですかね。
ちなみに、都庁以外で、なぜ駒沢オリンピック公園のオリンピック記念塔なのかも軽く調べてみると前回の1964年東京五輪のシンボル塔だったからという意見が多いようでした。


ブラジル色の都庁と階段夜景2
写真2

せっかくなので、階段上からの写真も。
こうしてみると立派なつくりしていますね。
しかも右側には、パークハイアット東京のエントランスが・・・。
とにかく、階段自体のつくりは良い感じですし、都庁の外観を階段とともにいいアングルで見れるところも少ないと思いますので、今後も、定点観測は続けていきたいと思います。
なおこの階段自体は、いつも気になっていて、過去に写真も撮っていたと思うのですが、実は夜景版も含めてこのブログで紹介するのは初めてのようなので、定点観測と言いましたが、実際のところは観測地点がさらに増えたと思ってもらったほうがよいかもですね。

ということで、今回はさらりとこんな感じです。


住所
新宿区西新宿3-7

ばくろ坂というそうです。
場所は、目黒駅の西側、山手通りをこえたあたりにあり、前にとりあげた新茶屋坂 (NO.264)の坂下からもほど近い場所にあります。


馬喰坂(NO.267)1
写真1

まずは、坂下の様子など。(写真1)
すぐそばには山手通りが走っており、騒々しいですが、この坂道はそこから一歩奥に入った場所にあり、このあたりから一気に静かな住宅街になっていました。

ちなみに、このすぐそばに馬喰坂の坂名の由来が書かれた案内板がありましたので、そのまま抜粋するとですね、
『逆Sの字にカーブを描く目の前の坂が馬喰坂。その昔、坂はとても急で、切り通しの工事を行った。しかし、頂上部は、庚申道が交差して、思い切った工事ができず、風雨にさらされると、大小の穴で路面が凹凸していた。道路に穴があいた状態を昔の方言で「ばくろ」といい、それが坂の名になったという。馬喰の字は当て字らしい。』
とありました。

「逆Sの字にカーブ」と始めにありますが、もうこのあたりからその雰囲気は出ているかもですね。
「急坂」とありますが、それはのちほどということで。


馬喰坂(NO.267)2
写真2

しばらく坂をのぼり、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
坂上のほうが見えないくらいのカーブ具合、いいですねえ。


馬喰坂(NO.267)3
写真3

こちらはすこし坂をのぼり、さっきのカーブを曲がりきったあたりからの景色です。(写真3)
たしかに逆S字にカーブしてますね。
勾配具合といいカーブ具合といい、なかなか良い感じの景色でしたかね。


馬喰坂(NO.267)4
写真4

さらに坂を上り、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真4)
こっちからみるとS字カーブですね。。
しかも勾配具合もわかりづらいです。(というか写真の問題なんですけどね。)
山手通りからの車がそれなりに走ってくる坂道でしたが、基本的には静かな場所でしたよ。
(しかも、この右側のマンションは人がいなくて廃墟みたいになっていました。というかその建物に入る道(写真でいえばオレンジ色の柵があるところです)が坂道になっていて、今回、ブログには載せませんけど、かなり気になる坂道景色だったかも。ただし、今はどうかわかりませんけど。)


馬喰坂(NO.267)5
写真5

写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真5)
このあたりから勾配具合が急になってきていました。
あいかわらず坂上の様子が見えないのもいいですね。


馬喰坂(NO.267)6
写真6

すこし坂をのぼり、坂下方向を見たものです。(写真6)
やはり勾配具合がわかりにくいですね。
でも遠くのマンションの見え具合からも、その高低差感がわかるので、気になる方はよく見てみてくださいな。


馬喰坂(NO.267)7
写真7

そんなこんなで、やっと坂上あたりまでやっていました。(写真7)
もうこのあたりまでくると、坂下あたりとはかなりの高低差になっていることもあり、遠景の景色も良い感じで見えていましたよ。
気になったのは、真ん中左に見えている煙突でしたかね。
これは、新茶屋坂(NO.264)でも、登場した目黒清掃工場の煙突のようでした。
ここからみるとやたらと高く見えていますが、それだけこのあたりのほうが、清掃工場のあるあたりより低い位置にあることがわかるわけですよね。
個人的には、この景色を見ていて、目の前は急な下り坂なのに、遠くにはここより高い場所があるという凹凸具合が目でみて感じれる場所というのが、面白いなあと思ったのでした。

ちなみに、写真7でも見えていますが、ここにもいつものように坂の碑がありましたので、抜粋しておくとですね、
『馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説と、風雨にさらされて地面に穴のあいた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」と言ったという説がある。』
とありました。

坂下の説明に加えて、「馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説」まで、でてきましたねえ。
しかも、常に道路に穴があいた状態だったからこそ、この坂名がついたということであれば、そういう意味では、この道は昔からけっこうな人通り(馬通り?)があったと見ていいのか、それとも穴ぼこができるくらいまで人の手入れが行き届いてなかったこともあり、実はそれほど人通りがなかったのか、まあこれだけでもいろいろと想像してしまいましたかね。

あとは、道路に穴があいた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」ということから、いつものドーナツ型の滑り止めも「馬喰」型と呼んでみてはどうなんだろうと妄想してしまいましたが、どうでしょうかね。(笑)


馬喰坂(NO.267)8
写真8

あ、そうそう。(写真8)
写真7でちょっと見にくかったので、拡大してみたのですが、実は坂上からの景色として、東京タワーも見えていたのですよ。
なので、この坂道、実は東京タワーが正面に見える坂道でもあったんですよ。


馬喰坂(NO.267)9
写真9

あとは、坂上そばには〔写真9の右側)、坂下の案内版の説明でもでてきた、庚申塔もありましたよ。(写真9)
案内版には、「馬喰坂上の庚申塔群」とありました。
なお、庚申塔については、これまでもたびたび登場していることもありますので、そのうち機会があれば、詳しく掘り下げてみたいと思ってはいますが、現段階では、wikipediaの説明をリンクしておくに留めておきますので、気になる方はそちらのほうを読んでおいてくださいな。→ https://ja.wikipedia.org/wiki/庚申塔


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区中目黒4-9あたり

ぎょうにん坂と呼ぶそうです。
場所は、JR目黒駅からすぐの場所で、駅東側を流れている目黒川のほうへと南西に下る坂道です。


行人坂(NO.266) 1
写真1

まずは、坂下からの様子など。(写真1)
見てのとおりなのですが、かなりの急坂で、道幅も狭めです。
ただ、JR目黒駅からすぐの場所で、後でもでてきますが、この右側に目黒雅叙園などもあるためか、急坂でしかも道幅が狭いという坂道の割には、人通りが多めの場所だったりします。

あとは、写真1の左にもちらりと見えていますが、いつものように坂の碑がありましたので、そのまま抜粋するとですね、
『行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。』
とのこと。

大円寺や行人については、後でもでてくるので、ここでは軽くスルーして、まあこういう具合の坂の碑があったということで、覚えておいてくださいな。


行人坂(NO.266) 2
写真2

こちらは、写真1の左側の様子ですね。(写真2)
正面に見えているビル群が目黒雅叙園ですね。

要は、結婚式場やホテル、レストランなどが入居している施設ですね。
このブログでも前に目黒雅叙園内にある百段階段について取り上げている記事「目黒雅叙園の百段階段をぶらり」も書いてますので、百段階段の様子などを知りたい方はどうぞ。
ちなみに、百段階段のある建物は、写真2でもちらりと写っていてですね、ちょうど正面の瓦屋根の建物がそれで、写真左のほうに建物は続いているというつくりでした。


行人坂(NO.266) 3
写真3

あと、写真2にも実は見えているのですが、「お七の井戸」なるものがあり、以前からここにくるたびに気になっていたので、撮っておくことにしました。(写真3)
こちらも、せっかくなので案内看板の説明を抜粋しておきますよ。
『八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。』

なるほど。
そういう場所が今は、結婚式場なんですね。
ちなみに明王院というお寺は、明治13年頃まであったと書かれているとおり、この頃に廃寺になったそうです。そして、その際に吉三の墓も含めて大円寺に移され、昭和30年には吉三とお七の共同の墓(比翼塚)も置かれるようになったとのこと。


浮世絵-目黒太鼓橋
名所江戸百景

あとは、これですかね。
広重による名所江戸百景「目黒太鼓橋夕日の岡」ですね。
今回は、この浮世絵の存在を知らずに当日は歩いていたこともあり、写真には撮っていませんが、写真1の後ろ側、写真2の右側のほうを少し歩くと、目黒川があるのですが、そこを渡る橋のかつての様子を描いたものがこの浮世絵ということみたいですね。
なので浮き世絵の左側が小山になっているように見えることから、こちらのほうにいくと行人坂があると思われます。


行人坂(NO.266) 4
写真4

では、坂道に話を戻しまして、こちらは坂をすこし上ったあたりからの、坂下方向の景色です。(写真4)
車が見えているとおり、ここも道幅はかなり狭い坂道でしたかね。
そして、左側に大きな樹々が何本も見えていてかなり印象的ですが、その奥にさきほどから何度も出てきている大円寺があるのですよ。


行人坂(NO.266) 5
写真5

ちなみに、写真4で見えていた大円寺の塀と樹木の兼ね合いがなんともおもしろい感じだったので、近くまで寄りぱちりと。(写真5)
正面の部分は根っこのおかげで浮いておりました。(笑)
ここまでくるのにどれくらいの時間を要したのか想像してしまいましたかね。


行人坂(NO.266) 6
写真6

こちらは、写真4の左側をみたもので、大円寺の立派な門がありました。(写真6)
まずは坂下にあった坂の碑の一文を思い出してもらいながらも、内容は上記の抜粋文を見てもらうとして、ここでは、目黒区のサイトに書かれてある坂の説明文がわかりやすいですので、一部抜糸させていただくとですね、
『行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。』
とあります。

”行者”については、ネットの辞書で調べてみると、仏教を修行する者のことを言うそうですね。
なので、このお寺は、坂の碑にもあったように、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家が、湯殿山(奥州)から高僧行人「大海法師」(=行者(法印大海))を勧請して、開山したことが始まりみたいですね。
そして、しつこいですが、その時に寺の前の坂を切りひらいたことで行人坂ができあがった、ということですかね。


行人坂(NO.266) 7
写真7

境内に入ると、いろいろな仏像が置いてあったのですが、中でも圧巻だったのがこれでした。(写真7)
手前の仏像群に加えて、奥には五百羅漢石仏群なるものが。
あまり詳しく潜ると、別の方向に行ってしまい帰ってこれなさそうな気がするので、ここでは軽く触れるだけにしますが、要は、このお寺が出火元となった大火で犠牲になった方々の供養のために造られたものだそうです。
これは、上記の抜粋文では『「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。』の部分ということになりますかね。
とにかく、ここですべて取り上げていたら違うサイトになりそうなほど、色々な仏像がありました(始めにふれた八百屋お七の話のことも含めて)ので、気になる方は実際に訪れて見てみることをおすすめしますよ。


行人坂(NO.266) 8
写真8

そんなわけで、再び坂道に戻りまして、写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみたものです。(写真8)
坂上の高層ビルがちょっと気になるところですが、坂道自体は勾配具合といい両サイドの緑の具合といい、なかなかいい感じだったかもです。


行人坂(NO.266) 9
写真9

さらに坂道を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
さきほどの大円寺の門も見えつつも、左には「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」なる説明文が書かれた案内板が設置されたほこら(勢至堂)がありました。
どうやら坂下の太鼓橋に関係する石像を祭っている場所のようでしたね。

あとは、ここにもほこらの説明とあわせて坂の説明が書かれた案内板もありました。
いちおう、抜粋しておくとですね、
『寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。』
とのこと。


行人坂(NO.266) 10
写真10

さらに坂を上り、坂上方向を見てみました。(写真10)
たぶんこのあたりが一番、急勾配な場所のように感じましたが、今回は傾斜具合を調べていないため、あくまで感覚ですので、あしからず。


行人坂(NO.266) 11
写真11

さらに坂を上り、坂下方向の景色でも。(写真11)
もうここからは、坂下あたりははるか下という感じでした。
そして、この右側にも、なにやら「富士見茶屋と夕日の丘」という案内板がありましてですね、
『江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。』
と書いてありましたよ。
なるほどですね。
このブログを前から見てくれているかたやマニアの方なら、わかるかもしれないですが、この目黒-恵比寿駅間は西側の目黒川に下る形の地形になっているので、目黒-恵比寿駅間にある坂道の坂上からならかつてはどこも富士山が見えたということみたいですね。
しかも、ここも茶屋坂(NO.263)の「爺々が茶屋」ほどは有名でなかったのかもしれませんが、富士見茶屋があったというわけですね。


浮世絵-富士見茶屋
江戸名所図会

こちらは、江戸時代の、このあたりの景色を描いている「富士見茶亭」という江戸名所図会です。
夕日と紅葉の感じはちょっとわかりにくいですが、当時の富士見茶屋の栄えぶりについてはわかりやすく描かれていておもしろいですね。
ここは、当時、江戸市中から目黒不動尊に通じる道だったようなので、このような賑わいがみられたようですね。

行人坂(NO.266)12

写真12

ほぼ坂上あたりまできて、坂上方向を見てみたものですね。(写真12)
これだけ急勾配の坂を上がる、さらに奥に高層ビルが見えているというのが、なんとも悲しいやら珍しいなあという気分にさせてくれる場所でもありましたかね。



行人坂(NO.266) 13
写真13

ここもほぼ坂上なのですが、写真12の場所からすこし坂を上ったあたりからのものです。(写真13)
ちょうど正面に、ホリプロのビルが見えていたので、載せてみましたよ。
こんなところにあったのですね。
(余談ですが、たまたま昨日、スーパー銭湯に寄ったついでにひさびさにゴールデンタイムのテレビを見ていたら、TBSで三浦友和さんのお姉さんのペンションに安住さんと佐藤さんが訪れるという番組をやっていて、昨日の今日ということもあってか、あらためてそういう歴史も含めての場所(坂道)というかビルでもあるのだなあと、ふと思ってみたり。笑)

ちなみに富士山の方角は、ちょうどビルとビルの間の抜けている方向みたいでした。


行人坂(NO.266) 14
写真14

そんなこんなで、やっと坂上からの景色でも。(写真14)
とにかく、富士山のことも含めていろいろなエピソードのある坂道だったので、今後も引き続き訪れることにして、さらに歴史研究(汗)、そして時代による変化を楽しんでみたいと思える坂道だったかもですね。


ということで、今回も長くなりましたが、こんな感じです。



地図
目黒区下目黒1および品川区上大崎4あたり

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