東京坂道さんぽ

2016年06月

今回は、東急東横線の多摩川駅からすぐの場所にある多摩川浅間神社の境内にある階段を取り上げてみたいと思います。
ただ、ここの境内の階段には名前が正式にはつけられていないようですので、現段階では、あくまで無名坂であり未確認の坂として位置づけていますので、あしからず。


多摩川浅間神社の男坂?1
写真1

いきなりですが、坂下からの様子でも。(写真1)
場所は、東急東横線の多摩川駅の南側にあり、すぐ西側には多摩川が流れていて、写真1
でいえば、左側のほうが多摩川になり、北西に向かって上る階段ということになりますかね。
しかも、住所でいえば、なんとここは田園調布1丁目とのことですよ。
とにかくここは、過去にも何回か来ていて写真を撮ったり、学生時代にもこのあたりをリサーチした場所でもあるので、いつか取り上げなければと思っていたところ、今回は、時期的にも桜のシーズンに散歩したこともあり、ちょうどよい頃かもという気持ちもあったのです。


多摩川浅間神社の男坂?2
写真2

ちなみに、階段の東側(写真1でいえば、右側)には、こんな具合にのんびりしたたたずまいの釣り関係のお店があったりします。(写真2)
なんかいいですねえ。
こういうのはずっと残っていてほしいですなあ。


多摩川浅間神社の男坂?3
写真3

さらに、その東隣りには、今風なつくりにもかかわらず、どこかレトロな感じの飲食店もできておりましたよ。(写真3)


多摩川浅間神社の男坂?4
写真4

階段をのぼり、坂下方向をみてみたものです。(写真4)
まだ階段的には始まったばかりの場所ですが、すでに建物でいえば、2.5階から3階分くらいの高低差がありそうでしたかね。
遠くのほうに多摩川と丸子橋が見えていましたよ。


多摩川浅間神社の男坂?5
写真5

写真4の背後にはもちろん、階段が続いています。(写真5)
ただ、ここの階段は、まちなかでよくみる神社の直線的なつくりの階段とは違い、一風かわったつくりの階段だったのですよ。


多摩川浅間神社の男坂?6
写真6


写真5の左側は、こんな景色になっていました。(写真6)
この高さレベルに神社の一般駐車場やら社務所への入口があるんですよ。
奥が開けているのは多摩川があるからですね。


多摩川浅間神社の男坂?7
写真7

写真5の右側には、これまたすごい坂道が見えていました。(写真7)
これはもちろん、写真6で見えていた駐車場に入るための道路であり坂道なのですね。
坂道として切り取ってみてもかなりいい感じです。


多摩川浅間神社の男坂?8
写真8

見どころ満載の神社で、ひとつひとつ取り上げていたらきりがなくなってきそうですので、再び階段のほうにもどりまして、写真8はさらに階段を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真8)
このあたりからいっきにごつごつとしたつくりになっていました。
というのも、この階段というか参道は、富士塚のように富士登山を模してつくられているそうで、そのためか途中には、両サイドにちらりと見えているとおり、多数の溶岩が置かれているためなのですよ。


多摩川浅間神社の男坂?9
写真9

こちらは、写真8で見えていた鳥居のあるあたりまで上り、坂下方向をみてみたものです。(写真9)
階段がカーブして、ちょうど多摩川にむかって下るかたちになり、そのため、奥にはまさに多摩川が見えていました。
ただ軸線方向てきには富士山の方向は向いていませんけどね。


多摩川浅間神社の男坂?10
写真10

同じようなつくりの階段をしばらく上っていくと、坂上あたりが見えるところまでやってきました。(写真10)


多摩川浅間神社の男坂?11
写真11

ちなみに写真10の右側に、このような石碑があり、「勝海舟の直筆 富士講 中興の祖 食行身禄之碑」という案内板がそばに設置されていました。(写真11)
ということは、目の前の石碑にほられている文字が勝海舟の直筆ということなんですかね。
なお、富士講中興の祖である食行身禄については、ウィキペディアに説明がありましたので、気になる方はそちらのほうをどうぞ。
→ https://ja.wikipedia.org/wiki/食行身禄


多摩川浅間神社の男坂?12
写真12

写真10の背後はこんな感じの階段でした。(写真12)
登山道らしく、くねくねしていてかなりの高低差ですねえ。


多摩川浅間神社の男坂?13
写真13

そんなこんなで、やっと坂上にあたる本殿のあるレベルにやってきました。(写真13)

そして、気になるところでもあるこの浅間神社の由来については、境内に大きな案内看板があり、説明が書かれてありましたので、一部を抜粋しておきますよ。
『当浅間神社は、今から八百年前、鎌倉時代の文治年間(1185年〜1190年)の創建と伝えられます。右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣した時、夫の身を案じ後を追って来た北条政子は、わらじの傷が痛み出し、やむなくここで傷の治療をすることになりました。
逗留のつれずれに亀甲山へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えました。富士吉田には守り本尊の「浅間神社」があります。政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、長く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。』

なるほどなるほど。
やはりこれまで歩いてきた登山道のような参道や浅間神社という名前のとおり、富士山に大いに関係している神社だったのですね。
しかも眺望系神社。(いいですねえ。)


多摩川浅間神社の男坂?14
写真14

いちおう、坂上からの景色なども。(写真14)
ただ、こちらの軸線方向は南側なので、遠くに富士山が見えるわけではないのですねえ。
でもすごい高低差ですね。


多摩川浅間神社の男坂?15
写真15

ただですね、この神社のことを知っているかたはあれれ?と思っていたかもしれないですが、実は境内にはこんな展望台があるのですよ。(写真15)
場所的には写真13の左側へいくとあり、写真6で見えていた社務所の屋上に、なんとこんな場所がつくられていたのです。
見てのとおりですが、目の前は多摩川ですね。
これを考えたというか計画したというかつくった人は、おもしろい発想してますよね。
しかもここにくることで、神社の由来ともリンクしていて、過去ともどこかつながれる場所ともいえますかね。


多摩川浅間神社の男坂?16
写真16

手摺ちかくまできて、富士山の方向をみてみました。(写真16)
散歩の日は残念ながら富士山は見えませんでしたが、これなら時期があえば、ちゃんと見えそうですかね。


ということで、今回はこんな感じです。


地図
大田区田園調布1-55-12

西新宿を歩いていて前から気になっていた場所なのですが、すこし前にやっとミラーレスカメラをかかえながら、このあたりをぶらぶらする機会があり、撮影もできたので、せっかくなのでとりあげておきたいと思います。


西新宿、策の井1
写真1

それがこちらですね。(写真1)
なにやらピラミッド形のオブジェと案内板が見えていますが、ここはなんと西新宿の新宿エルタワーの敷地内であり、そばには東京モード学園のあの高層の包帯ビルのそばに、こんなものがぽつねんとあったのですよ。
これに気がついたのはずいぶんまえだったのですが、今回はカメラをかかえていたので、記事にするためにもぱちりと一枚、というわけだったのです。


西新宿、策の井2
写真2

遠目からのものです。(写真2)
これなら位置関係もわかりやすいかもですね。
新宿エルタワーの敷地内の西側あたりから新宿駅方向に撮っているものです。
こうしてバックに東京モード学園の高層ビルが見えているとなんか不思議な感じがして気になっていたのですよ。

あ、そうそう。
肝心のこの場所は、「策の井(むちのい)」と呼ばれているそうです。


西新宿、策の井3
写真3

こちらが、案内板のアップですね。(写真3)
せっかくなので、内容を抜粋させていただくとですね、
『当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(一六八一〜一六八三)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(一七一六〜一七三五)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。』
とのこと。

いろいろ書かれていますが、どうやらこのあたりから、いまでいうおいしい水が湧き出ていたみたいですね。
なんか信じられない感じですねえ。

なお、一般社団法人新宿観光振興協会のサイトにも策の井が取り上げられていまして、それによると、ここの井戸が『策の井』といわれるようになったのは、徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」を洗ったという伝承からの説が有力みたいですね。

鷹狩りといえば、目黒区の茶屋坂(NO.263)のことが思い浮かびますかね。
なので、はじめは、将軍が、鷹狩りをした後に、茶屋坂(NO.263)のお茶屋で休憩して、ここで策を洗ったかもということで、実は話がつながっていたのです!・・・という予想をたてたわけですが、どうやら茶屋坂(NO.263)については、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りをするときによく通った場所であり、今回の策の井のほうは家康なので、時代が違うようですね。

ただ、この西新宿がかつて、淀橋浄水場であったり(いまは給水場もあったかな、たしかブラタモリでも取り上げられていたと思います)、このすぐ西側(西新宿の西端)には、十二社熊野神社(ブログでも過去にとりあげています)があり、浮世絵にも描かれているような池や滝があったり、今回のおいしい水がでていたという策の井なる井戸の痕跡があるなど、今となっては目に見える形としてはわかりにくいものが多いですが、なにかと水にまつわる場所が多い場所だったのだなあということを再確認できた今回の散歩だったかもです。


地図
新宿区西新宿1-6-1

今回も、前回のハナミ坂(NO.271)に続いて、東京スカイツリー内にある坂道です。
場所は、ハナミ坂(NO.271)が、東京ソラマチ内の南西側にあったのに対して、今回のソラミ坂は、敷地北東側にあります。


ソラミ坂(NO.272)1
写真1

めずらしく、坂名が記された案内板からでも。(写真1)
ソラミ坂についての由来とかは書かれておらず、こんな感じでババンと坂道の名前が案内されておりました。
ちなみに訪れた時期が年末だったので、みなさんの服装も厚めです。


ソラミ坂(NO.272)2
写真2

まずは坂下からの景色でも。(写真2)
ソラミ(→空見)という坂の名前からしても、この場所がこの坂道のメインディッシュなのだろうなあと思えるくらいわかりやすいつくりというか階段になっていました。
(写真は撮り忘れましたが、このそばに撮影ポイントと書かれた場所もありますしね。)
ここも東京ソラマチという商業施設の各階に入るための階段に名前がつけられたようですが、こちらはハナミ坂(NO.271)と違い、タワー高層部分が階段のあらゆる場所で、坂名のとおり見上げればしっかりと見えるのがポイントかもですね。

そして、階段アートもここからならしっかりと見えていました。
最近は、こういう階段アートをよく見かけますが、商業施設のはやりなんですかね(よく知りませんが)。


ソラミ坂(NO.272)3
写真3

階段を上り、坂下方向を見てみました。(写真3)
階下の人がいるあたりが、写真1での撮影ポイントというか坂下あたりの場所になりますし、写真3ではわかりにくいですが、この右奥側がメトロ押上駅うえのバスロータリー(地上1Fレベル)とつながっている場所ということになりますかね。


ソラミ坂(NO.272)4
写真4

写真3からすこし横移動して、今度は坂上方向を見上げてみました。(写真4)
さらに階段になっていました。
しかもなんかいい感じでカーブしています。
もちろん、その上にはスカイツリー。


ソラミ坂(NO.272)5
写真5

さらに階段を上り、坂下方向をみてみました。(写真5)
人がいるあたりが、写真4でいた場所ですかね。
奥には、なぜかジブリのグッズを扱うショップがありました。


ソラミ坂(NO.272)6
写真6

すこし階段をあがり、踊り場のあたりにきて、再び坂下方向の景色など。(写真6)
このあたりは景色が開けていました。
左側がタリーズなので、東京ソラマチのフロアガイドを見ると、ここが3階ということになりますかね。


ソラミ坂(NO.272)7
写真7

すこし坂を上るとこんな感じ。(写真7)
手前の人がいるあたりが、写真6の場所ですかね。


ソラミ坂(NO.272)8
写真8

そして、写真7の位置から背後を振り返ると、やっと坂上あたりが見えていました。(写真8)
東京ソラマチのフロアガイドでは、ここは4階にあたり、ここからソラミ坂と書かれていますので、ここがソラミ坂の坂上というのは正しいみたいですね。

しかも、スカイツリーの展望台への入口もこの階にあるようでした。


ソラミ坂(NO.272)9
写真9

そして、最後は、せっかくなのでツリーの最上部まで見えるポイントでぱちりと一枚。(写真9)
でも、ここまで来ていながらツリーにはのぼらず。(笑)
なお、スカイツリーの詳しいことについては、ウィキペディアでも詳しく書かれていますので、気になる方はそちらでもどうぞ。
→ https://ja.wikipedia.org/wiki/東京スカイツリー


ということで、前回、今回と連続して、東京ソラマチという人工物(構造物)の上にある名前がつけられた坂道というか階段を歩いたわけですが、これで、以前カルカルのイベントで登壇した時に、人工物の階段は坂道なのか?という(当時の想定では京都駅の大階段でしたが)提起をしたことに対するひとつの答えがでてきたかもしれないですね。


地図
墨田区押上1-1

今回の坂道は最近できた新しい坂道です。
場所は、東京スカイツリーのある東京ソラマチ内にあり、ハナミ坂という名前ではありますが、階段になっている坂道です。


ハナミ坂(NO.271)1
写真1

まずは階段下あたりより。(写真1)
もう見てのとおりですが、東京ソラマチという商業施設の中に入るための階段ですね。
そこに名前をつけてみましたという具合の坂道でした。
ただ、左にカーブしながらの階段ということで、見た目というかつくりはかなりかっこいいかもです。

とりあえず、当日は人のいないタイミングで写真を撮るのに手間取りましたかね。(笑)


ハナミ坂(NO.271)2
写真2

今回は、坂名が書かれた案内板ものせてみますよ。(写真2)
ちなみに、ここには坂名の由来などは書かれておらず、東京ソラマチのサイトや区のサイトでも説明などは書かれていないようでした。
ただ、東京ソラマチ自体は、2012年開業なので、この坂道も同年にできたということだけはわかるかもですね。
あとは、商店建築さんのサイトに、東京ソラマチの建設に関わった方々の名前が書かれているので、このあたりの方々か、運営側の方がつくろうと!と決めたのだとは思いますが。。


ハナミ坂(NO.271)3
写真3

すこし階段をのぼり、坂下方向をみてみたものです。(写真3)
坂下は比較的広々としていましたかね。
ハナミ坂ひろばという名前がつけられていました。


ハナミ坂(NO.271)4
写真4

さらに階段を上り、今度は坂上方向を見てみました。(写真4)
坂下からはわからなかったですが、かなり距離のあるというか高低差が大きい階段だったのですね。
階段自体はここから直線形態になっていました。


ハナミ坂(NO.271)5
写真5

写真4でも見えていたのですが、カメラの画角の問題で入りきらなかったので、ちょっと上のほうにもカメラを向けてぱちりと。(写真5)
お決まり事のようにスカイツリーのタワー部分が見えていましたよ。
ちなみに、あらかじめ言っておきますが、今回の散歩では、タワー上部の展望台には行っていませんので、あしからず。


ハナミ坂(NO.271)6
写真6

写真4とだいたい同じ位置より、再び坂下方向でも。(写真6)
こうしてみてみると、地上部分から施設内に入る階段を、実は大階段にしたかったけど、スペース的に無理っぽいので、こんな風な建物の外回りをくねってまわる印象的な階段のつくりにしてみたのでは?、とこの景色みながら深読みしてしまいましたよ。(汗)


ハナミ坂(NO.271)7
写真7

さらに階段をのぼると、やっと東京ソラマチの施設内に入れるフロアにやってきました。(写真7)
おそらくハナミ坂てきにはこのあたりが坂上なのかなと。
でも、正面の階段アートまで描かれている階段がさらに続いているので、これらのこまかいことは、またそのうち分かり次第、追記の形でお知らせしますので、少々お待ちを。


ハナミ坂(NO.271)8
写真8

そんなこんなで、坂上あたりの様子も含めた景色など。(写真8)
左は川になっていて、北十間川というそうですが、そのおかげでここからの景色も開けていていい感じでしたよ。
しかも、方角的にちょうど、写真8でみている奥のほうに富士山もあるはずなので、この高低差具合からすると時期があえばもしかしたらビルの隙間から見えるかもですね。


ちなみに、北十間川で調べていたらいろいろ未来についてや過去についての面白いことがでてきたので、メモがてら残しておきますけど、まずこの北十間川はスカイツリーと隣接していることから、墨田区は「北十間川水辺活用構想」なんて計画を策定していたんですねえ。
ちょうど、この左側の景色とリンクしている場所ですね。
詳しい案などについて、リンク先にPDFにてどうぞ。
→ https://www.city.sumida.lg.jp/sangyo_matidukuri/matizukuri/kasen_kyouryou/kitajikken_kousou.files/4.pdf
https://www.city.sumida.lg.jp/smph/sangyo_matidukuri/matizukuri/kasen_kyouryou/kitajikken_kousou.html

はてさてどうなることやら。


ハナミ坂(NO.271)10
柳しま

過去の話のほうでは、スカイツリーの東側(800mくらいの場所)の北十間川沿いに架かる十間橋のあたりの過去の景色を描いた広重による浮世絵もあったんですよ。
「柳しま」という絵ですね。
左右に流れているのが、北十間川で、左下に見えているのが、今も地図には記載のある(いったことがないので)、法性寺というお寺ということになりそうですかね。
あとは、この絵でいえば、左上のほうに、もし当時スカイツリーがあれば(汗)、見えているかもという場所とも言えるかもです。
とにかく、当時は浮世絵にするくらいだから、雰囲気よかったんですかね。


ハナミ坂(NO.271)9
写真9

最後はおまけです。(写真9)
写真7でも見えていた、奥の階段を上り、最上段部あたりから、坂下方向を眺めてみたものです。
なるほどー、そうきましたか。(笑)
それにしても、かなりの高低差ですね。


ということで、今回はこんな感じです。


地図
墨田区押上1-1

ごんのすけ坂とよぶそうです。
今回の坂も目黒通りそのものが坂道で、場所は、金毘羅坂(NO.269)の坂下から東へすこし移動したところにあります。


権之助坂(NO.270)1
写真1

まずは坂下からの様子でも。(写真1)
すぐ背後には、目黒川が横切っているあたりですね。
同じ目黒通りでも、すぐ西側にある金毘羅坂(NO.269)の広い道幅に比べると普通の道幅の坂道となっていましたかね。
ただここも目黒通りということもあり、両側のビルは背が高めのため独特な坂道風景をつくっている印象でした。


権之助坂(NO.270)2
写真2

写真1のすぐ右側の景色です。(写真2)
ここは見ての通りで、橋の上からの景色でもあるとおりで、名前は目黒新橋というそうです。
そして、奥には行人坂(NO.266)の坂下のほうでも登場した目黒雅叙園のタワー部分も見えていましたよ。


権之助坂(NO.270)3
写真3

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真3)
ちょっときつめの勾配具合が坂下から同じように続き、ここで、目黒通りは二手に分かれていました。
右側の道が、今回の権之助坂になります。
なので、車で今回の坂道を通るなら坂上からしか行けないことになりますかね。
左側の道は、放射3号支線という別名もあるみたいですね。
あとは、左側にもアーケードがちらりと見えているとおり、この権之助坂の沿道は、権之助坂商店街と呼ばれているそうで、ちょっと懐かしい雰囲気のお店なども含めて、沿道には256店ものお店が軒を連ねているそうですよ。


権之助坂(NO.270)4
写真4

あ、そうそう。(写真4)
このすぐそば(左側)には、崖のようになっているようで、こんな風ないい感じの階段になっていました。
かなりの高低差ですねえ。
今回は、階段上からの写真しか撮っていませんが、またそのうち再訪して記録しておきたい階段かもですね。


権之助坂(NO.270)5
写真5

では、道が二手に分かれるところを右に行き、坂上方向を見てみました。(写真5)
三車線ということで、こうみると広いですねえ。
あとは、舗装が茶色になっているのも気になるところです。


権之助坂(NO.270)6
写真6

写真5とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真6)
右側のほうにちらりと「権之助坂」と書かれた標識がでていますよね。
僕の知るかぎり、こんな具合に標識の形で坂名が書かれているのは、地名と連動している以外の坂道ではかなり珍しい事例だと思いますね。
ちなみに、今回の坂道には、いつものような坂の名前が書かれた坂の碑はありませんでしたが、目黒区のサイトに説明が書かれていましたので、一部抜粋させていただくとですね、
『昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。』
とありました。
まあ、これだけでは、新坂なのでは?と思う方もいると思いますので、補足事項として、さらに抜粋させていただくとですね、
『江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。
 馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。
 村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。』
とのこと。

ちなみに、タモリさんや山野勝さんの坂道本では、「許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われた」という説を強調されておりましたよ。
なお、菅沼権之助が許可なく新坂を切り開いたというのは、行人坂(NO.266)があまりにも急坂で当時のひとたちが往来時にあまりに苦労しているのを見かねて、新しい坂をすぐそばに切り開いたわけですが、その際に事前に許可なくつくってしまったからだそうですよ。
ではなぜ、許可が必要だったかというのは、(ブラタモリを継続的に見ているかたならピンとくるかもですし)、タモリさんの坂道本でも書かれていますが、ようは防衛のため主要道以外に道をつくることは当時禁止されていたためなのですよ。
なので、処刑される前に、菅沼権之助が、坂上から自分の家を望み、処刑されるのも忘れて喜んだというエピソードだけで、その坂道が権之助坂と呼ばれるようになったというのもわかりますが、やはり新しい坂道を当時つくるとなればかなりの大事業だったはずで、つくっている過程から幕府だって気がつかないわけはないと思われるわけなので、できる前から相当な圧力を受けながらの造営だったのだろうことを思うと、やはり坂道ファンとしては、地域の人のために許可なく新坂を切り開いたために、罪に問われてしまった説を有力説としてみたいところではありますかね。


権之助坂(NO.270)7
写真7

こちらは、写真5でも見えていた歩道橋からの景色です。(写真7)
ちょうど目黒通りが二手にわかれている場所がきれいに見えていたので、ぱちりと一枚。


権之助坂(NO.270)8
写真8

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真8)
このあたりから勾配具合もゆるくなり、両サイドもオフィスビルっぽい建物が一気に目立つようになってきました。


権之助坂(NO.270)9
写真9

そんなこんなで、坂上あたりにやってきて坂下方向を見てみました。(写真9)
勾配具合はかなり緩めですが、史実を知ってから、この景色を見ると、この勾配がまた違った風景に見えてくるんじゃないですかね。


権之助坂(NO.270)10
写真10

最後は、写真9の背後の様子でも。(写真10)
JR目黒駅前の風景が広がっていましたよ。

『昭和42年11月、ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店、老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。(略)、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。
 坂の方も、権之助坂のわき腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水をさばき切れずにあえいでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろう。』
(目黒区のサイトより抜粋)


ということで、今回はこんな感じです。



地図
目黒区目黒1-4or品川区上大崎2-27あたり

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