街の中の坂道や階段は、生活者にとって忘れがたく、都市に潤いを与え、都市の情緒をふくらませる場所になっているのは、周知のことです。
そして、これらは絵になり、歌になり、散文となって、人々の心に残ってます。

例えば
“「日和下駄」の中で、永井荷風は「坂は即ち平地に生じた波瀾である。
平坦なる大道は歩いて滑らず、つまずかず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃金安しといえども、無りょうに苦しむ閑人の散歩には余りに単調すぎる・・・西洋の都市においても、私はニューヨークの平坦な五番街よりコロンビアの高台に上る石段を好み、パリの大通りよりもはるかにモンマルトルの高台を愛した。
リオにあってはクロワルッスの坂道から、手ずれた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの河岸通りを見下ろしながら歩いた夏の黄昏をば今だに忘れ得ない」と坂道の思い出を述べている。”
(「東京を地誌る」より参照)

坂道は、坂上と坂下、山の手と下町を結ぶ唯一の通路(道)であり、そのため周囲の風景や雰囲気を後世に伝える貴重な記憶装置ともなっていて、たとえば、薬研坂、胸突坂、ねずみ坂などはその適例で、薬を粉にするとき使う薬研のような形状をした坂、急で屏風のような胸突八丁の坂道、ねずみがやっと通れるような狭い坂道といった、坂名からもほのぼのとした情景が伝わってくるようなユーモラスな名称がついています。

また、坂道や階段は街にものがたり性を与える要素でもあり、神社の参道に決まってつくられた男坂と女坂は、直線的で急な階段と登りやすい緩やかな階段をならべるという機能的で使い勝手の良さを、ネーミングによりそのまま空間的な物語に仕立てあげたものであり、日本人独特の感覚により生まれた傑作といえます。

坂道の名称が地図や記録にでてくるのは、17世紀の後半からで、それから徐々に増えていきました。人々は地形の形状などより、坂を避けたひろがりのある土地に生活するのが一般的でした。

かっては、その土地からほかのひろがり(場所)へ行こうとするとき、もっとも簡単な目標が坂道であり、周辺は似たりよったりの武家屋敷がならぶ街並みであり、街の七割をしめる武家屋敷には町名もありませんでした。
そのため、坂道に名称をつける必要がでてきたということのようです。


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1860年ころの東京の坂(「写真で見る幕末・明治」より)