今年の4月にみちくさ学会の記事でもとりあげた九段坂(江戸時代には海が見えた九段坂)なのですが、その後、いくつかの情報をみつけることができたので、今回はその追加報告です。(メモもかねていますが。。)


まずひとつめは、九段坂の坂名について。
こちら、実は、九段坂や飯田坂とよぶ以外に、別名で「飯田町坂」という呼び名もあったそうです。
(あとは個人的には、富士見坂と潮見坂を追加してほしいところですが。。)


九段坂・今昔メモ1
明治時代の九段坂

そして、2つ目が上の写真です。
こちらはたまたま図書館でみつけた「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」なる本に掲載されていたものです。
要は明治時代に撮影された九段坂の風景写真なのですよ。


九段坂・今昔メモ2
現在の九段坂

で、こちらが一枚目の写真とおそらくそんなに変わらない場所から撮った現在の様子です。

この2枚を見比べてもらうとわかりやすいと思うのですが、現在は遠くのほうはビル(明大のリバティタワーなどはわかりやすいですが)が立ち並んでいる様子しか見えませんが、かつては一枚目の古い写真のように、このあたりからなんとあのニコライ堂も見えていたんですよ。(一枚目の写真左上あたりに見えてます。)

なので、九段坂のことをいろいろ調べていると、与謝野晶子が九段坂からよくニコライ堂を眺めていたとか、田山花袋の「東京震災日記」には震災直後にこのあたりから坂下のほうを眺めると、あたり一面焼け野原で遠くのほうに半ば焼け落ちているニコライ堂が見えたなんてことも書かれていて、「え!本当?」とか思っていたわけですが、そのことがこの写真で証明されたわけで、かなりの驚きがあったというわけなんですよ。


九段坂・今昔メモ3
九段ざか

そしてこれが最後ですが、三つ目はこの浮世絵ですね。
二代目歌川広重による江戸名所四十八景の『九段ざか』なる風景画です。

ただ前はこの風景画を見ても、あまりぴんとこなかったのですが、これまた、さっきも登場した「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」の九段坂の説明の中に、『江戸期には石を積んで9層の石段になっていた坂だった。御用屋敷の長屋が9棟建っていたという。これを九段長屋と呼び、坂を九段坂といった。明治2年に招魂社が建立されたとき、段を取り除いて平らな長坂にした。』の一文を見つけ、それをよんでから、またこの浮世絵をじ〜とみてみると。
おそらく絵の右側は今のお堀とおもわれますので、坂上から坂下のほうを眺めたものを絵にしたものと思われます。
そうすると手前の土の部分が九段坂ということになり、絵では奥(坂下方向)にいくほど道が狭くなっています。
ということは、さっきの抜粋文から推測すると、その先(坂下方向)が階段だった可能性が高いということになりまませんかね?
まあ、適当な予想ではありますが・・・。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
千代田区九段北1あたり