衣紋坂(NO.282)の話の続きです。
坂の由来については、たびねすの記事でさらりと書いたとおりですが、では昔の衣紋坂の風景とはどんなだったのかということについて、今回はふれてみたいと思います。


衣紋坂(NO.282)その2-1
写真1

まず、衣紋坂についてのヒントなんですが、実は現地で写真に撮っておいたんですが、このことに気がつくのにけっこう時間がかかってしまいましたよ。(写真1)
これは横浜スタジアムもある横浜公園の園内にあった歴史について説明している看板です。
わかるかたはわかるかもですが、ここにのっている絵図が大きなヒントだったのですよ。


衣紋坂(NO.282)その2-2
画像1

その前にまずはこちらから。(画像1)
資料を探していたら、横浜市の広報新聞の中でこんな絵図があることがわかったんですよ。
絵図の名前は不明なのですが、右上にはたしかに「衣文坂」ほにゃららと書かれてありますね。
まあ、衣紋ではなく、衣文というのがちょっと気になりますけど。。
なお、この絵図が紹介されていた紙面には『幕末期、「衣紋坂」という坂があり、太田屋新田の中の港崎町へ向う道にあった。現在の開港記念会館から横浜公園へ向かみなと大通りが坂のあった場所といわれている。』と書かれてあり、この絵図の坂が衣紋坂だということが示されていました。
ただですね、この絵図を見ていてちょっと気になったのは、左上に書かれた山ですね。
絵図右上の説明によれば、富士山という言葉がでてきているので、おそらく左上の山も富士山なのかもしれませんよね。
そこで地図を確認してみると、たとえば、海辺にありがちな海側から横浜スタジアムへと上る坂道だった場合、富士山は坂の右側に見えるはずなんですよね。。
そんで、逆に、横浜スタジアムから海側(北東方向)に上る坂道だったとしたら、富士山は見えませんよね。
そういう意味でも謎な絵であり、この絵図がもしかしたら別の坂道を描いているという可能性があるのですが、じゃあ関内エリアで別の場所に坂道らしい場所があるといえばないわけで。。


衣紋坂(NO.282)その2-3
画像2(御開港横濱之圖)

そこで、見つけたのがこの地図です。(画像2)
横浜公園の歴史を調べていたら、見つけました。
これは今の関内エリアの昔のもので、開港当時の地図みたいですね。
古地図の上が今の地図では南東向きなので、古地図の上のほうに川が流れているあたりが今の関内駅などがあるJRが走っているあたりです。
横浜公園のできる前は、遊廓だったそうなのですが、地図で言えば、ちょうど川の南側に運河で囲われた長方形の場所があるのですが、ここが遊廓だったようですね。
そして、遊廓から南に向かう一本の道が。
しかも、南の住宅街との境には川らしきものが。
川があれば低地、もしや!と思い、いろいろ調べてみたら・・・。


衣紋坂(NO.282)その2-4
画像3(横浜本町並ニ港崎町細見全図/1860年)

この絵図が見つかったのですよ。(画像3)
これは関内エリアの俯瞰図です。
絵図の左下には遊廓が描かれていて、右側の住宅街の間にはけっこう高低差がありますよね。
そして、遊廓と住宅街をつないでいる道、ちょうど坂道になってませんか?
おそらくここのことを衣紋坂と名付けていたのではないかと予想しているのですよ。
そして、今の位置でいえば、「みなと大通り」と重なる場所でもあるんです。
この遊廓のあったエリアは、さらにその後、埋め立てられ現在のようなほぼ平坦な場所になっていったことも史実にあるので、この予想はだいたいあってると思っています。

そんなわけで、最初の写真1にもどるわけですが、画像3の絵図、案内板にのっていますよね。。
まさかのまさかでしたね。(笑)


衣紋坂(NO.282)その2-5
画像4(神名川横濱華郭之光景(横浜風景画帳)/1860年)

ちなみに別の角度から衣紋坂を描いている絵図もありました。
右側に大きく描かれているのが、当時の遊廓で、左側に奥の住宅街へと続いている道が衣紋坂のようですね。
こうしてみるとちゃんと坂になってますよね。


ということで、今回はこんな感じですが、あとは今後の課題として画像1の場所が実際どこなのか、それとも衣紋坂のデフォルメ画なのかを調べることですかね。


地図
横浜市中区真砂町1あたり