東京坂道さんぽ

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今回は、たびねすで記事を書いていて、いろいろ追記したい事柄がでてきたこともあり、乃木坂 (NO.132)の続編でも書いてみたいと思います。


乃木坂今昔1
写真1

まずはこちらですね。(写真1)
坂の途中で、乃木坂トンネルにもぐる道と左に曲がり新しい部分の乃木坂に向かうところの写真ですね。

トンネルの上の部分は乃木坂陸橋とも呼ばれていて、昭和49年3月に完成したとのことです。
昭和49年?あれ?けっこう最近という感じですよね。


乃木坂今昔2
写真2

そこでこれなのですよ。(写真2)
たびねすの記事では、こういう昔の写真やら浮世絵を説明に使うことがNGなので、載せれなかったのですが、こんな風なかつての乃木坂の写真が、「江戸の坂 東京の坂」という本の中にあり、ちょっと拝借。
おそらく写真2は、写真1と同じ方向で、坂の途中から坂上方向を見てみたものと推測されます。
要はトンネルできる前の乃木坂ですね。
時期的には、「江戸の坂 東京の坂」の巻末に、これらの写真は昭和35年から42年にかけて著者が撮影したものと書かれていますので、だいたいそれくらいの時期のものだと思われます。

また今の乃木坂はかつて、幽霊坂という名前だったことはたびねすの記事でも書きましたが、「江戸の坂 東京の坂」の説明によると、実はそれ以前、行合坂やら膝折坂とも呼ばれていたそうですよ。
なので、本の説明部分を抜粋させてもらうとですね、
『『江戸大名町案内』という写本には、「麻布竜土、ひざ折坂あり」と記してある。嘉永七年正月の江戸切絵図『赤坂今井辺図』(近吾堂版)には、竜土の行合坂の上、突き当たりに「八幡社」とある。これが竜土八幡、青山八幡、馬八幡、駒留八幡などと呼ばれた八幡社であった。したがって、ここの行合坂が、そのときの膝折坂なのである。この坂は、のちに坂下に妙福寺という寺と墓地があったので、幽霊坂とも呼ばれた。』
とありました。

ということは、「幽霊坂」の前の名前が「行合坂」で、別名で「膝折坂」とも呼ばれていたという感じなのですかね。

あとは、いつもお世話になっている「江戸東京坂道事典」という本には、『『新撰東京名所図会』は「市兵衛町二丁目より箪笥町との間を下る坂あり、なだれ坂と称す。』なんてことも書かれていて、新撰東京名所図会は、明治時代の書物なので、これを加味すると、行合坂→幽霊坂→なだれ坂→乃木坂、という具合の名前変更の歴史があるのかもしれないですね。(汗)


乃木坂今昔3new
古地図1

せっかくなので、古地図も見てみましょうかね。(古地図1)
画像の部分で、赤く塗った部分が乃木坂で、今も昔も変わらない位置にあります。
で、青でうすく塗った部分が、現在の外苑東通りということになりますかね。
古地図を見ると乃木坂の西側つきあたりに「八幡宮」というのがありますよね。これがまさに『竜土の行合坂の上、突き当たりに「八幡社」とある。』の部分なのではないですかね。


乃木坂今昔4new
古地図2

さっきのは「東都青山絵図」のほうだったのですが、こちらは「赤坂全図」のほうですね。(古地図2)
地図でいえばちょうど端っこのかぶっているエリアに乃木坂はあるみたいで、こちらの地図はどちらかといえば、乃木坂の東側エリアが詳しく記録されているもののようですね。
そして、これをみると赤くぬった部分の乃木坂のちゅうど真ん中あたりに「妙福寺」と書いてあります。なので、これが『この坂は、のちに坂下に妙福寺という寺と墓地があったので、幽霊坂とも呼ばれた。』の部分で、幽霊坂と命名される元となったお寺もちゃんと地図に残っていて、実際にあったということですよね。


乃木坂今昔5

地図

そんなわけで、現代の地図(Googleさんの地図を拝借)に江戸時代の乃木坂の位置を描いてみるとこんな具合になりそうでした。
ちなみに、ちょうど今のギャラリー間のあるTOTO乃木坂ビルのあるあたりを緑で囲ってみました。古地図1を振り返ってみると、お寺があった位置とかぶりそうですね。
まあだからなんなんだという話でもありますけど、僕としてはギャラリー間に訪れるたびにいつも、ビルの前の道がへんなつくりだなあと思っていたのですが、こうして古地図で振り返ってみると、かつての古道は紫の色で塗った部分であったわけで、そういう意味では、このローターリーみたいになっていた場所(乃木坂駅への入口もありますよね)もそういう歴史があったのだなあとちょっと納得したわけだったのですよ。

あとは、写真2では坂道が二手に分かれていて、かつての乃木坂が、どちらかなのかは今でもわかりかねますし、この風景だって江戸時代の時とは違うのかもしれませんよね。
ただ、なんとなく今の乃木坂のトンネルと右側の階段、左側の坂道のつくりをみるとその名残りもあるのかなあと思いつつも、こればかりはもうちっと調べないとわからないところですかね。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
港区赤坂8あたり

気がつけば、すこし前のことになりましたが、六本木ヒルズのさくら坂をぶらりとしてきましたので、ひさしぶりにさくら坂界隈の話でも。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔1
写真1

いきなりですが、そのときに坂の様子を撮ってみたのがこちらです。(写真1)
坂上あたりから、坂下方向を眺めてみたものですよ。
さすがに、もうこのあたりは六本木ヒルズがなくならない限りは、今の坂道景色が続いていくのだろうなあと思いつつ。
ちなみにこのさくら坂は、2007年に「さくら坂 (NO.77) /港区六本木6丁目」の記事で取り上げていまして、今みると、撮影した時間が夕方だったこともあり、カメラのISOの感度との兼ね合いもあってか微妙なノイズが混ざっていて、なんとも昔のいい思い出といった感じですが(汗)、やはり7年経った今でもほとんど坂道景色に変化がないことだけは確認できるかもですね。

また、この坂のあったあたりは、実は埋め立て地でもあるのですよ。
とりあえず、こちらも7年前に書いた「玄硯坂(玄磧坂) (NO.78) /港区六本木6丁目」の記事をみてもらうとすこしくらいはわかるかもですが、今のさくら坂の下にかつて街があり、そこに玄硯坂(玄磧坂) (NO.78) という坂道もあったという話です。

あと、その後の調査で、「六本木六丁目残影」という本にも、当時の玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)の写真が載っていたことがわかったのですよ。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔2
画像1(「六本木六丁目残景」より拝借)

それがこちらですね。(画像1)
図書館で該当ページだけコピーしたので白黒画像ですが、当時の玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)の坂の途中からの様子を記録したもののようでした。
いまは、写真1で紹介したさくら坂 (NO.77)の道路の下にこの風景がそのまま埋まっているのかもしれないですね。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔3
画像2(「六本木六丁目残景」より拝借)

あと、本には数枚ほどの坂の写真がありましたが、その中で気になった画像をもう一枚。(画像2)
なんかこの画像だけみると白黒なのでおどろおどろしい感じですけど、こちらも玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)の坂下あたりの写真らしいです。
また坂を上った上(画像2でいえば、左上に上がっていく坂の上)にさくら坂 (NO.77) の記事でもでてきた妙経寺なるお寺があるとのことが本に書かれてありました。
ただ、この当時の妙経寺の場所は、今のお寺のある場所とはすこし違っているのですけどね。
そして、これも同じく、この風景というか地形がいまのさくら坂 (NO.77)の道路の下にそのまま埋まっているのかもしれないのですよ。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔4
写真2

と、そんなことをこの日、さくら坂 (NO.77) を歩いていて、思い出したので、かつての玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)界隈の地形の痕跡がそのまま残っている場所にも来てみました。(写真2)
この場所は、2011年に書いた「六本木ヒルズの消えた階段」や「六本木ヒルズの階段から古地図見比べ」のブログ記事でも登場した場所です。
これらの記事は、2007年に「玄硯坂(玄磧坂) (NO.78) /港区六本木6丁目」の記事のため歩いた時に、当時、なんとなくもやもやとしていたことが、その数年後に放送されたブラタモリでこの場所が取り上げられて、一気に解消したのを機に取材してみたものでもあるのですよ。
詳しいことは「六本木ヒルズの消えた階段」と「六本木ヒルズの階段から古地図見比べ」の記事を読んでもらうとして、とにかく、写真2の中央に見えている階段が、ずんずんと続いていて、今は埋まってしまってみえないですけど、玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)の坂下あたりまで下り、合流しているというわけだったのです。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔5
1999年の地図

こちらは、1999年の今の六本木ヒルズのある場所と同じ位置を記録しているゼンリンの住宅地図(要はヒルズができる前の地図です)が図書館にあったので拝借してみました。
前に玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)や写真2の階段を取り上げた時は、航空写真だけでしたけど、こうして詳細な住宅地図を眺めてみると、地図には玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)という記載もあるし、写真2に写っている階段とその左に写っているビルもそのまま地図に記載されていましたよ。(地図の水色に塗っているところが該当箇所です。ニッカ池は違いますけど。)
ちなみに水色でマークした現在の消えてしまった階段の左側には、さきほどふれた開発前の妙経寺の記載もあり(この地図ではわかりにくいですが、お寺のマークが見えていますよね。というかわざと粗くしてみにくくしているのですが・・)、この地図と画像2を比べてみてもなんとなく、画像2がどの位置で撮られたものかが想像できるかもですね。
また同じく、古地図(1999年ですが・・)と画像1と2を見比べてみると、画像1についてもなんとなく撮影場所が想像できてしまい、僕の予想では画像2の坂上側(画像2の右上あたり)からすこし坂を上ったあたりから坂上方向に撮ってみたのが画像1ではないかと思っているのですが、どうでしょうかね。

あとは、江戸東京坂道事典の玄硯坂(玄磧坂) (NO.78)の坂の説明を再度抜粋させていただきまして、
『藪下に下りる坂なので藪下坂ともいった。六本木六丁目四番と十五番の間をテレビ朝日通り桜田神社前から南東、日々窪へ下る狭い急坂で、坂の南側に日蓮宗妙経寺がある。』
という、この文と1999年の地図と見比べながら、地図を追っていくとかなり興味深いですよ。


六本木ヒルズさくら坂と玄硯坂の今昔6
写真3

最後は余談ですが、同日、さくら坂 (NO.77)をそんなセンチな気分で歩いた後に、ヒルズのイベント広場にいくと、なんとあのパトレイバーにでてきたイングラム立像が持ち込まれておりましたよ。(写真3)
いやはや。(二重のセンチ。)

ということで、今回はこんな感じです。


住所
港区六本木6-16あたり

今年の4月にみちくさ学会の記事でもとりあげた九段坂(江戸時代には海が見えた九段坂)なのですが、その後、いくつかの情報をみつけることができたので、今回はその追加報告です。(メモもかねていますが。。)


まずひとつめは、九段坂の坂名について。
こちら、実は、九段坂や飯田坂とよぶ以外に、別名で「飯田町坂」という呼び名もあったそうです。
(あとは個人的には、富士見坂と潮見坂を追加してほしいところですが。。)


九段坂・今昔メモ1
明治時代の九段坂

そして、2つ目が上の写真です。
こちらはたまたま図書館でみつけた「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」なる本に掲載されていたものです。
要は明治時代に撮影された九段坂の風景写真なのですよ。


九段坂・今昔メモ2
現在の九段坂

で、こちらが一枚目の写真とおそらくそんなに変わらない場所から撮った現在の様子です。

この2枚を見比べてもらうとわかりやすいと思うのですが、現在は遠くのほうはビル(明大のリバティタワーなどはわかりやすいですが)が立ち並んでいる様子しか見えませんが、かつては一枚目の古い写真のように、このあたりからなんとあのニコライ堂も見えていたんですよ。(一枚目の写真左上あたりに見えてます。)

なので、九段坂のことをいろいろ調べていると、与謝野晶子が九段坂からよくニコライ堂を眺めていたとか、田山花袋の「東京震災日記」には震災直後にこのあたりから坂下のほうを眺めると、あたり一面焼け野原で遠くのほうに半ば焼け落ちているニコライ堂が見えたなんてことも書かれていて、「え!本当?」とか思っていたわけですが、そのことがこの写真で証明されたわけで、かなりの驚きがあったというわけなんですよ。


九段坂・今昔メモ3
九段ざか

そしてこれが最後ですが、三つ目はこの浮世絵ですね。
二代目歌川広重による江戸名所四十八景の『九段ざか』なる風景画です。

ただ前はこの風景画を見ても、あまりぴんとこなかったのですが、これまた、さっきも登場した「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」の九段坂の説明の中に、『江戸期には石を積んで9層の石段になっていた坂だった。御用屋敷の長屋が9棟建っていたという。これを九段長屋と呼び、坂を九段坂といった。明治2年に招魂社が建立されたとき、段を取り除いて平らな長坂にした。』の一文を見つけ、それをよんでから、またこの浮世絵をじ〜とみてみると。
おそらく絵の右側は今のお堀とおもわれますので、坂上から坂下のほうを眺めたものを絵にしたものと思われます。
そうすると手前の土の部分が九段坂ということになり、絵では奥(坂下方向)にいくほど道が狭くなっています。
ということは、さっきの抜粋文から推測すると、その先(坂下方向)が階段だった可能性が高いということになりまませんかね?
まあ、適当な予想ではありますが・・・。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
千代田区九段北1あたり

いやはや。
前回の乃木坂と同じ時期に、近くの饂飩坂 (NO.110)も歩いたんですけど、今回改めていろいろ調べてみるとけっこうわかったことがあったので報告です。


いろいろわかった饂飩坂1
写真1

まずは、なんともいい角度からの坂の景色が味わえる場所があったので思わずぱちりと。
前の記事の時はここから撮ったものはなかったんですが、こうしてみるとなかなか良い感じ。
あの六本木の繁華街のど真ん中にある坂道とは思えないほどですかね。


いろいろわかった饂飩坂2
写真2

そして坂上からは東京タワーも見えていました。
なのでこの通りが外苑東通りです。
夜になるとネオンでギラギラした場所になるところですかね。


いろいろわかった饂飩坂4
地図1

それはさておき、こちらは現在の饂飩坂界隈の地図(グーグルマップから拝借)です。
赤くペイントされた道があると思うのですが、こちらが現在の饂飩坂 (NO.110)です。
坂自体は写真1のとおり外苑東通りから下る坂道となっています。
そして、芋洗坂 (NO.109)は地図でいえば、南北に地下に大江戸線が走っているという表記がありますけど、まさにそこが芋洗坂 ということになります。

坂道本によっては、赤マークの饂飩坂の坂下からさらに西に枝分かれして六本木ヒルズ方向へと向かう道を饂飩坂とよんでいる場合もあったりするんですよ。
ただこれは確定でないので、とりあえず今のところは謎のままということで、さらりとスルー。

また過去の饂飩坂 (NO.110)のエントリーの5枚目の写真のあたりに「六本木公園がないなあ」なんて話をしてますけど、やっぱりあったんですよ。
気になるかたは、今回は載せてませんけど、1999年のこの界隈の地図見てみてください。
本当にあったんですよ。
要はヒルズの開発でなくなってしまった公園なのですが、場所的にはヒルズの一番東にあるハリウッドビューティー専門学校と書かれたあたりにですね。
ふふふ。。
なんていうか、地図眺めているだけなのに、いろいろな事実でてきておもしろすぎです。


いろいろわかった饂飩坂3
地図2

そして、これまた図書館行ったときに見つけてしまいました。
上のは明治40年に出版された地図(東京市十五區番地界入地圖)を加工したものです。
こうして見ると、今の芋洗坂 (NO.109)の坂上あたりは、かなりの造成工事されたみたいですね。
しかもよくよく地図眺めてたら、神社仏閣多いです。
軽く見比べただけでも、今の饂飩坂に隣接している教善寺、坂下エリアにある朝日神社に法典寺やら長耀寺が残っていますかね。
いやなんとも不思議なエリアかもです。


いろいろわかった饂飩坂5
写真3

そいでもって最後は、饂飩坂の坂下あたりの様子など。
饂飩坂の途中から坂下のほうを眺めたものです。
地形に埋め込まれるように華麗につくられた公衆トイレの向こうが芋洗坂 (NO.109)の坂下へと向かう道で、その右側へいくと芋洗坂の坂上へと向かうことができる場所です。
要はこのなんとも勾配具合感ただよう交差点は昔からあったんだよといういうことを記録したいがために撮ってみたわけですな。
そして、なかなか渋いつくりの公衆トイレとあわせて。。


ということで、今回はこんな感じです。



住所
港区六本木5

というわけでやっと本題です。
そして今回も同じく神田明神つながりの話です。


神田明神曙之景と坂道風景1

まずは神田明神男坂の坂上からの眺望など。
とりあえず、この坂のこまかいことについては、過去の記事を見てもらうとして、この景色を見てもわかるとおり、この神田明神は湯島台地の東端にあるので、こんな具合に急勾配な崖に近い高低差のある坂道があるわけですけど、やっぱり遠くを見るとビルばかりです。

でもこの前、神田明神の公式HPを見てたら、実はこの神田明神男坂についての記載があり、『天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献した。眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれた。又、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれる。』
とありました。

それでいちおう神田明神男坂の過去記事を改めてみてみても灯籠らしきものはなかったですが、石段は多少の改良工事はあったとはいえ、写真で見た感じでは、おそらくそれほど変化してないのではないかと考えらます。
そして、もうひとつが江戸時代は眺めがいまよりもよくて観月が行われ、さらには灯台の役目もはたしたとのこと。
まあこれはもちろん坂道の話というより、神田明神のことだとは思いますけど、やっぱりそれほどまでに景色がよかったんですかね。


神田明神曙之景と坂道風景2

そこで、当時の風光明媚具合を知りたかったので、こんなものを見つけてきました。(笑)
広重さんの「神田明神曙之景」なるタイトルの浮世絵です。
こちらは神田明神境内から東の海側方向を描いたものらしいのですけど、こうしてみると当時はほんとうに景色がひらけていたんですね。
しかも早朝の朝焼け具合もすごく良い感じで描かれてます。
これなら、ここが昔、灯台の役目もはたしたということもなんとなくわかるかもですね。

なので、おそらくこのすぐ隣にあったであろう神田明神男坂も似たような景色が坂上ではひろがっていたのかもしれないですね。


神田明神曙之景と坂道風景3

ちなみに、絵の雰囲気から、現代の境内の場所を推測してみるとたぶんこのあたりかなあという場所で、同じく東の海のある方向を眺めながらぱちりと一枚。

そんなわけで、もしかしたら、浮世絵に描かれているようにゆっくりすわって景色を眺められる眺望場所が境内からなくならず昔からずっとここに残っていたなら、現代のここから眺めることができる風景もちょっと違ったものになっていたかもなあなんて妄想もしつつ、今回はさらりとこんな感じです。


住所
千代田区外神田2

なんだかよくわからないタイトルですが気にしないでください。(笑)

とりあえず、今回は前回の「六本木ヒルズの消えた階段」を書き終えてから急に思いついた補足というか続き話でも。


01_六本木ヒルズの階段から古地図見比べ

すぐ隣にはヒルズがありその整備された雰囲気とは打って変わってこのくたびれ感。
なんとも言えないです。
手前の電柱らしきものはさびてて草ぼーぼー。。


02_昭和38のヒルズ界隈

それはさておき、こちらは前回のエントリーでも載せてみたgoo古地図からスクリーンショットさせていただいた昭和38年の航空写真です。
いちおう補足しておきますけど、地図に書かれた現在の重ね図の一番上を南北に走っている道路が今の「けやき坂通り」で、その下をクイーンとカーブしながら東に向かっている道が「さくら坂」ということになります。
航空写真の影などからかつての高低差を想像してみると、かなりの土を盛って丘にしてしまったといわれている現在のヒルズではありますけど、なんとなくその痕跡みたいなものは残しているような気もしますかね。
ただ当時そこにあった家々はなんとも無残にというかダムに沈む家々のように跡形もなくなってしまってますけどね・・・。


03_ヒルズ地図

とりあえず現在のグーグルの地図と見比べてみると、その差は歴然ですね。


04_ヒルズ古地図

ただ、そこから一気にタイムスリップをして、同じ場所の古地図(同じくgoo古地図より拝借しました)を見てみるとですね・・・。
でもこれだとわかりにくいですね。


05_ヒルズ古地図らくがき

そんなわけで、拝借した古地図の上から、手元にある古地図本を参考にして現在の主要な道路の位置を重ね合わせてみました。
さすがに今の六本木通りは江戸時代にはなかったようですが、その他の芋洗坂や今のテレビ朝日通りにあたる道は昔からあったようで、そこから判断するとこんな感じになりました。
なんとなくこれ見ると、地図上では今のヒルズの敷地はある意味、昔の形に戻ったのかもなあなんて、ちょっと思ったりもしました。
ただこれは平面の見た目だけの話で、高低差などの地形の変化はおそらく昔とはだいぶ様変わりしているとは思いますけどね。


ということで、こういう話はこれ以上つっこむと本当に長い話になって延々と続けてしまいそうなので(笑)、今回はこれくらいで切り上げますけど、なんていうか、前回のエントリーでもそうなのですけど、ヒルズの失われた地形のことをとりあげると、どうしても暗黙的な雰囲気でヒルズを開発された方々の批判めいた感じになりがちなのですが、僕自身ヒルズとは、いろいろなイベントでいつも楽しませてもらっていることもありますし、昔働いていた仕事先でお世話になった上司の方がかつてヒルズ内のとある施設の設計を担当されていたこともあり(遠い目・・・。望郷の・・・。汗。)、それなりに思い入れがある場所でもありますので(でもちょっとだけ複雑な心境も混ざってますけど)、今回はそういう批判みたいなことを言うエントリーではないという気持ちも含めて、記事書いてみました。


住所
港区六本木6

今回もヒルズからです。


01_六本木ヒルズの消えた階段

いきなりの写真ですけけど、六本木ヒルズの最南端にあるさくら坂を歩いているとこんな風景に出会います。
ちょうど坂上のグランドハイアットホテルのあたりからてくてくと坂を下っていると、ちょうど左にカーブしながら右手にはお寺もみえつつある場所を通り過ぎるとこのあたりにやってきます。

いちおう前置きしておきますけど、この写真みて、あ!あそこね。
と、思ったかた、かなりのマニア度高いかもですよ。
(ただここ、テレビ番組のブラタモリでもちらりと紹介された場所で、自著の階段本(東京の階段)でもこの場所を取り上げている松本さんがナビゲートされていたので、もしかしたら憶えている方もいるかもしれないですけど。)

とりあえず気にしなければ、道の途中にある小さな広場でその奥に樹が生い茂っている場所という感じです。
でもよくみると、写真中央あたりに階段らしきものが数段見えているんですよ。


02_六本木ヒルズの消えた階段

それで、奥に入ってみるとこんな感じでさらに奥へとずんずん上っていくへんな形状の階段がありました。


03_六本木ヒルズの消えた階段

そして、2枚目の立ち位置から左側を見てみるとこんな感じで、どこかの庭か山道のような雑草のすきまをぬうような具合でちょっとした小道のようなものもありました

見た感じでは想像しにくいのですが、ブラタモリで松本さんが言われていたことを思い出してみると、どうやらこの写真の右側にある階段には続きがあって、このあたりは階段でいう踊り場のあたりになり、かつてはここから奥にさらに階段があったということみたいです。
ただ今は、ヒルズの再開発に伴って地形ごとほじくり回されて、ここも、その階段が取り壊されたのか埋められて見えなくなってしまったのかわかりませんけど、とにかく今のような状態になってしまったというわけです。


04_六本木ヒルズの消えた階段

現存している階段をすこし上り、階段下を見てみたものです。
奥にはいまのさくら坂も見えていたりします。


05_六本木ヒルズの消えた階段

そして階段は、ひとつ南側を東西に走っている道路とつながっていました。
なのでかつては、このあたりから今のヒルズの中心あたりに向かって谷になっていたようですね。
ちなみにこの階段、今のグーグルマップにもちゃんと記載されていました。


06_昭和38のヒルズ界隈1

そんなわけで、ふとgooの古地図が見れるサイトにて、昭和38年の航空写真が見れることを思い出したので、ちょっと見比べてみることにしました。
赤でうすくライン引いてあるのが、今回とりあげた階段のかつての位置です。
現在の地形から判断すると、南から北へと下るけっこう長めの階段だったのかもしれないですね。


07_昭和38のヒルズ界隈2

おまけです。
現在の地図と重ねあわせた昭和38年の航空写真です。

なんだかこうして見比べてみると、ものすごい変りようですね。。


というわけで、今回はこんな感じです。


住所
港区六本木6

脱線ついでにもういっちょです。


清水坂と清水堂1
写真1

まえにまわった上野公園内にある清水坂(NO.192)
前回の湯島天神の坂道の風景画と同じように、こちらも広重さんの浮世絵「上野清水堂不忍池」にちょっぴりとだけ描かれていました。


清水坂と清水堂2
上野清水堂不忍池

絵の一番下に人が昇り降りしている階段がみえていますけど、こちらが江戸時代の清水坂。
現代の清水坂(NO.192)と比較してもそんなにかわらない感じですかね。
右側の赤い建物が坂の名の由来にもなった清水堂です。
前にも書いたかもしれないですけど、京都の清水寺を模してつくられたそうです。
左側には不忍池が描かれています。


清水坂と清水堂3
写真3

そして写真3が現在の清水坂(NO.192)からみた清水堂です。
広重さんの絵にかなりのデフォルメがはいっているのか、はたまた新しくリニューアルされて昔の絵の建物とちがってしまったかは不明ですけど、舞台と下の地面の高さ具合がかなり違っているみたいですね。


清水坂と清水堂4
写真4

また清水坂(NO.192)の坂下のすぐそばには不忍池へと下っていく階段もありました。
おそらく昔は「上野清水堂不忍池」の絵にあるように坂自体も一気に池の端まで下っていっていたかもしれないですが、今は途中に公園をぐるりと歩くための歩道がひとつできていて、これはそこから池の真ん中あたりにある弁財天の方向を眺めたものです。
階段というか坂道的には美階段で(笑)、坂上の眺望も今思い出してみても、なかなかいい感じだったと思います。
(ちなみにこちらの階段坂道風景はブログ初公開の写真です。そのほかの写真も実は坂道散歩した時とは別の日のものなんですけどね。)


清水坂と清水堂5
上野山内月のまつ

それでもって最後にもう一枚。
こちらも広重さんの浮世絵です。
実はこの絵、写真4の奥のほうの不忍池がうつっている風景とだいたい同じ場所(方向)を見ているようなんですよ。
ちょっと木々に隠れてわかりにくいですけど。
手前に大きく描かれている松が、この絵のタイトルにもなっている“月のまつ”とよばれる松で、実は上でのせた「上野清水堂不忍池」の左側にもちらりと見えていたりします。(笑)
そんなこんなで「上野清水堂不忍池」の絵に松のそばでぼんやりと池のほうを眺めている人も描かれてますけど、この「上野山内月のまつ」の絵はまさにこの人の視線(と場所)でシャッターを切られたものといえるのかもしれないですね。


地図
台東区上野2あたり

半年くらいまえ(かもうすこしまえ)に、古地図の本を買ってしまってからというもの、どうやら坂道散歩にかなりの影響を与えだしていますよ。。
まずはじめにみちくさ学会の記事書くときに応用してみたのですけど、そのおかげで、最近やっと坂道取材で皇居編につづくあらたな場所にいって取材がてらあるいてきたんですけど、それを記事にしようと思った時点で、古地図やら浮世絵(こちらは前からそれ系の本持ってましたけど、古地図と連動して気になりだしたという感じです)やらをあっちみてこってみてという具合に、なかなか進みません・・・。(汗)
まあいろんな時代や場所、言葉のレイヤーを行き来している感じですかね。

そんなわけで、今回も坂道記事書いてて、ちょっと気がついたので脱線話です。(笑)


湯島天神坂上眺望

去年ぐらいに湯島天神訪れたときに、このブログでも天神石坂(NO.186)天神女坂(NO.187)のエントリー書いたと思いますけど、最近広重さんの浮世絵系の本をぱらぱらと見ていたら、なんとストレートにも、湯島天神内の坂道の坂上からの風景を描いた浮世絵を発見しましたよ。
それが上の浮世絵で、タイトルもずばり「湯しま天神坂上眺望」となっていました。(驚)
なんで今まで気がつかなかったんでしょ?(笑)

絵は、今でいえば女坂(天神女坂(NO.187))から坂下のほうを眺めたもので、右下にちょこっと石段みえてますけど、それが男坂(天神石坂(NO.186))ということみたいです。
そして遠くには池らしきものが見えていて、それが今の上野公園内にある不忍池で池の真ん中の弁財天のあるあの島も描かれています。
また坂上からの景色は、なんだかすごく雄大に描かれていて、実際、池までこんなに高低差あったっけと思えなくもないですけど。
あとは、この雪景色ですかね。
雪の時期の景色がよかったのか、それともたまたま雪の降る時期に描いたものなのか。。
本人がいればきいてみたいですよ。

というわけで、今回もさらりと脱線話でしたけど、湯島天神かいわいの坂道話については過去エントリーをみてください。

いちおう上でもリンクしましたけど。
湯島天神の男坂→天神石坂(NO.186)
湯島天神の女坂→天神女坂(NO.187)


住所
文京区湯島3(湯島天神内)

最近ネットニュースで流れていたんですけど、ブラタモリの第3シリーズ放送が決定したみたいですよ。

http://b.hatena.ne.jp/articles/201106/4470

そのほかにWikipediaのブラタモリのページでもちらりと書かれていて、よくよく公式サイトをみてみると「第3シリーズ 始動!」なんて感じでバーンと書かれていましたよ。

しかも公式サイトには日本地理学会賞なる賞を最近受賞したなんてことも書かれていました(おめでとうございます)。
たしかにタモリさんがいなければ、ブラタモリはかなり教育番組てきな内容になってしまうかもなあと思いつつも、番組内容的には、僕は地理学のほうは本で読んだくらいの知識しかありませんけど、建築学的な見方でいえば、番組の出演者として建築史などに詳しい先生方が多く出演されていたように土地の歴史を調べるときなんかはあの番組のように土地やら人やらモノやらを探っていくことも多々あったような気もしています。
ただ、それらをうまく整理して番組として仕上げている点はすごいことだと思いますし、へたをすると大学のいち授業で使ってもいいくらいの内容だと思いますし、もしそういうことが地理学会の方々にとって新鮮にうつったのだとしたら、ある意味ちょっと驚きかもです。


そういえば1
写真1

話はかわりますけど、みちくさ学会でここ最近、僕のライフワークてきな活動でもあった富士見坂やら富士山と坂道との関係を探る内容の記事を書き始めたわけですけど、その中で各記事にのせてなかったけど今思い出してみるとのせときゃあよかったなあと思った写真を最後にちらりと。

写真1は「目黒駅ちかくにある富士見スポット」の坂下あたりにあったものです。
ふつうのマンションの擁壁にこのようなアートてきな匂いのするものが忽然とつくられていました。
今の坂下あたりはせまめで一方通行のほんとうに抜け道といった具合の道路なので、よくよく考えてみるとこんなに手入れされた(真っ白ですからね)状態で誰に見せるともなく堂々とあるのはなかなかなものかもですよ。


そういえば2
写真2

あと同じく「目黒千代か池と富士見坂」と「目黒駅ちかくにある富士見スポット」の坂上の間にはさまれたホテルの敷地はかっては三条実美なる政治家のかたの家だったそうです。
さっきぱばらぱらと現地で撮ってきた写真を見直していたらそれが書かれたホテルの看板の写真を見つけてしまいましたよ。。

ということで、話がいろいろとびましたけど、結局今日はいつもの坂道散歩話をする気がおきなかったので(汗)、こんな話でもしてみることにしてみました。

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テレビに関するあれこれ に参加中!
とうとう『ブラタモリ』が終わってしまったということで、ちょっとばかし、感謝の気持ちと復習がてら、取り上げてみることにしました。

なんていうか、見ている方向が、あっ、いっしょだあ!なんてことも多く、もちろんこれは違うなあ、というか、おーなるほどねえという時も多々ありつつも、月並みな言い方ですけど、最後まで、なかなか楽しめる番組だったなあと。

そして、今回は、いつものように番組の感想みたいなことをさらに書こうかなとも思ったんですけど、それもいまさらだし、なんだか番組批評みたいな話になりそうなので、それはとりあえずおいておくことにしますよ。

それで、今日は、このブログではまだ各坂道を区ごとだったりで整理していないこともあり(汗)、せっかくなので、記憶が薄れないうちに、番組でタモリさんたちが歩いた坂道をおさらいがてら、このブログで、まわったところとまわっていなかったところを一目で読めるようにしてみようと思います。


なので、まずは、第一回から、順にはじめてみますので、お暇なかたはどうぞ。。(笑)

第1回:早稲田をブラタモリ
@胸突坂[文京区目白台1あたり]→まだ歩いてないです。

第2回:上野をブラタモリ
@暗闇坂(清水坂)[台東区池之端4あたり] →まだ歩いてないです。

第5回:三田・麻布をブラタモリ
@暗闇坂[港区元麻布3あたり]→暗闇坂 (NO.69)

第8回:本郷台地をブラタモリ
@妻恋坂[文京区湯島3と千代田区外神田6]→妻恋坂(NO.170)
@立爪坂[文京区湯島3]→とある街の風景(立爪坂)
@見送り坂[文京区本郷4あたり] →まだ歩いてないです。
@見返り坂[文京区本郷4あたり] →まだ歩いてないです。
@菊坂[文京区本郷4丁目あたり] →まだ歩いてないです。
@炭団坂[文京区本郷4丁目あたり] →まだ歩いてないです。

第12回:神田をブラタモリ
@昌平坂[文京区湯島1あたり] →昌平坂(NO.162)
@相生坂[文京区湯島1あたり] →相生坂(NO.161)

第14回:赤坂をブラタモリ
@薬研坂[港区赤坂4]→薬研坂 (NO.137)
@丹後坂[港区赤坂4]→丹後坂 (NO.138)
@円通寺坂[港区赤坂4あたり]→円通寺坂 (NO.134)
@三分坂[港区赤坂5あたり]→三分坂 (NO.133)

第15回:六本木をブラタモリ
@ねずみ坂[港区麻布狸穴町あたり]→鼠坂 (NO.94)
@三年坂[港区麻布台1]→三年坂 (NO.59)
@けやき坂[港区六本木6]→六本木けやき坂通り (NO.24)
@さくら坂[港区六本木6]→さくら坂 (NO.77)
@玄硯坂[港区六本木6] →玄硯坂 (NO.78)


と、こんな感じだったと思いますよ。
今、あらためて昔の坂道散歩記録を読んでみるとはずかしいこともたくさん書いてますけど、そのあたりはさらりとお願いしますね。(汗)
いちおうこれらは、放送時の自分の記憶とウィキペディアと番組公式サイトを参考にしながら、番組内で、タモリさんたちがただ歩いていた場面だけから判断したものも含めて、リストアップしてみました。

ただ、以外とこの作業時間かかってしまいましたよ。。
なんていうか、さらさらといつものように番組の感想書くだけの方がラクだったかもです。(笑)


参考サイト
ブラタモリ(公式サイト)
ブラタモリ(Wikipedia)


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どうでもいい話2 に参加中!
ちょっと今日は、いつもの散歩話という感じではないのですが、どうも坂道の話を書いていて、いつも気になっていたことをちょっとばかり整理がてら。
なんというか、過去の坂道で、坂下から坂上へと歩いていくことを書く場合(言葉で表現する場合)に「あがる」、「のぼる」と書く場合が多いと思うんですが、とりあえず、今回はその言葉をさらりとヤフーの検索窓についている辞書機能で、かる〜く、検索してみると・・・。

あが・る【上がる/揚がる/挙がる】:
そのものの全体または部分の位置が低い所から高い方へ動く。
・低い所から高い所に移る。「二階に―・る」⇔おりる。
・物の位置が高い所へ移る。「遮断機が―・る」「幕が―・る」⇔さがる/おりる。
・物が動き進んで高い空間に移る。「火の手が―・る」「夜空に花火が―・る」
・水上や水中から外に移る。「船から陸(おか)に―・る」「風呂から―・る」
・履物をぬいで家の中に入る。「座敷に―・る」
・遊女屋に入って遊ぶ。「妓楼(ぎろう)に―・る」

と、とりあえず空間(道)を移動するということを念頭にして選んでみると、この“屬痢屬修里發里料澗里泙燭鷲分の位置が低い所から高い方へ動く。」というのが、それっぽいです。(あとは、その使い方が書いてありました。)
「全体または部分の位置が低い所から高い方へ動く」ときくとなんだか瞬間移動だったり、機械かなにかでぐいーんと動いているイメージがわいてきますが、とりあえずは、「坂道を上る」という感じで、使えそうなのですかね。
その他の「揚がる」と「挙がる」はさすがにありえなさそうな感じなので、「あがる」は一件落着と。。

そして、次に「のぼる」で検索してみると・・・。

のぼ・る【上る/登る/昇る】:
下から上へ、低い所から高い所へ移る。⇔下る。
・他より一段と高い所へ移り進む。「山に―・る」「演壇に―・る」
・そこを通って高い所に行く。「坂道を―・る」
・川の上流へ向かって進む。さかのぼる。「川を―・る」

こちらも、なんだかんだといっていろんな場面で使えそうで、「昇る」以外の「坂道を上る/坂道を登る」なんてどちらで使っても、それほど変な感じではなさそうですかね。
でも実際のところは、この「上る」と「登る」の区別を知りたかったんですけどね。。

そこで、ちょっと違うことが書いてあったgooの辞書検索では・・。

のぼ・る 【上る/登る/昇る】:
意図的に上に行く。
(1)意図的に上の方へ移動する。「あがる」と比べて、途中の経過点に注意が向けられている。《登る・上る》⇔くだる
「柿の木に―・って柿を取る」「丘に―・ってあたりを眺める」「壇上に―・って挨拶(あいさつ)する」
(2)川の上流の方へ行く。さかのぼる。《上る》⇔くだる
「鮭(さけ)が川を―・ってくる」「長江を汽船で―・る」
(3)地方から都へ行く。上京する。上洛する。《上る》⇔くだる
「都に―・る」
(4)皇居や神社の社殿など、高貴な建物にはいる。昇殿する。あがる。《上る》
「宮中に―・る」「はや―・らせ給へ/枕草子 104」

なんてことが書いてありましたよ。
しいていえば、「のぼる」が「あがる」と比べて、途中の経過点に注意が向けられているとのことみたいですが、これまた、どんな場面で使い分けたらいいのか迷うところですかな。
ただ、「坂道を上る(登る)途中で海が見えたなんて言う場合は、「上がる」ではまずいかもなあなんて、今回の検索状況から、そう思ったりもしますが・・・。
でもまあ、これだけみると「坂道を上る/坂道を登る」についてはどちらでもよさげな感じのようなのですが、どうなんでしょうかね。。(汗)

ということで、今回は「あがる」と「のぼる」のみで検索してみましたが、また今度、ネットだけでない情報も組み合わせて、いろいろやってみようかなとも思っていたりしますが、それがいつになるかは不明です。。
でも、結局、あまり整理にならなかったような・・・。(笑)



あがる・のぼる

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★自分にとっては大切なこと★ に参加中!
やっと、坂道シリーズも大台の100坂になりましたよ。。

ただ、これまでにとりあげた地域でも、現地での事情(工事中とか・・・(笑))や参考にした資料が統一されていなかったことから、別の資料にはあるけど参考にした資料にはなかったりなどで、まだまだ取り上げていない坂もあったりもしますが、そのあたりは、これからぼちぼちと、訪れては補足しつつも、さらに新たな地域の坂道についても取り上げていかないとなあとも考えています。

それとあわせて、これまでのように、坂道とともに、その周辺のことにも気をくばりつつ、記録していければと考えていたりしますが、もともと坂道の名前がつくような道は、それなりになにか歴史性があってつけられたものである可能性が高いので、それが、どこからきているかもなんとなく想像しながら散歩してみようとは思っていたりします。

でも、まあこのブログをはじめた当初はもっと気楽にぶらぶらしていた感じなのですが、いろいろ坂道をまわっていると、ああだこおだと考え、いろいろ見えてくる部分もあったりして、最近はお気楽な感じが抜け気味なのがやや気がかりなところですが(汗)、なんだかんだとって、この坂道散歩を通して、東京のなにかが見えてくればそれはそれで、このブログをやっていてよかったとなあといえるかもしれませんので、東京には僕の知らない坂道がまだまだあるので、これからも坂道散歩は続くといった感じですかね。。

ということで、これからもよかったらお付き合いくださいね。

このまえ、以前からなにかと見させていただいていた、”東京23区の坂道”というサイトをなにげに見たさいに、1年かそれ以上更新がとまっていたようなのですが、最近、再開されたみたいで、しかも、坂道を扱っているサイトとして、すこし前からこのブログへのリンクとともに坂道サイトとして紹介までしてくださっていましたよ。。

また、そんなこともあり、この機会に以前から気になっていたというか、アフィリエイトなどもなにげにくみこんでいたこともありなかばあきらめていたヤフーにも(でもこの機会にしっかりとヤフーサイトの説明を読んでみると、今のサイト程度ならだいじょうぶそうだったということに気がついてしまったのですが・・・)、思いきってカテゴリー登録のお願いをしたところ、4日くらい前に坂道カテゴリーにてなんとかこのブログへのリンクをしてもらえることになり、こちらもありがたいことになりましたよ。

ということで、ありがとうございました〜♪

そんな感じで、ひと安心といった感じですが、あともうすぐで坂道シリーズも100坂になりそうですが、とりあえずは、寄り道しながらもあたりまえのようにたんたんといく感じだろうと思います。。

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おすすめの本 に参加中!

東京人 2007年 04月号

とうとう特集が組まれたようですね〜。
東京人という月刊の雑誌があるのですが、今月号では、なんと坂道特集をしていましたよ。
「東京は坂の町」というタイトルでですね。。
しかもバラエティーにとんでいて、いろんな坂道紹介や坂道話があり、かなり徹底している感じもありましたよ。

もちろん、タモリさんの坂道話の記事もありますし、専門家の方々の坂道の思い出話やぶるぶら散歩話みたいなものからはじまり、坂道から歴史・街・都市の話にひろげて分析している話までいろいろあってこの雑誌(東京人)ぽい取り上げ方がなんともいえず、坂道本はこれまでにいくつか出ていたのですが、この号では、いろんな見方で記事が書いてあって、ほんとおもしろかったです。
へたすると、各ページごとに感想が書けそうなくらいマジマジと読んでしまいました。(笑)

あと、これまでの坂道本などでは、文学などとからめて話をしていることがけっこう多かったと思うのですが、この本では、建築史家である陣内さんの対談などもあり、ちょっと建築よりというか、かなり専門的に踏み込んだ坂道話もあったりして、そんな点でもすごく参考になった本でしたよ。

ということで、本に”保存版!”と書いてあるだけに、そう何回も特集ができなさそうな感じがぷんぷんしているので、坂道好きの人には、必見の本かもですよ。(笑)

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おすすめの本 に参加中!
最近本屋にふらりとよってみると、なんとタモリさんの坂道本以外にも、この1ヶ月くらい(9月、10月)で、2冊もあらたに坂道本が出版されていましたよ。

まずは、「江戸の坂―東京・歴史散歩ガイド」です。   
言わずとしれたかたの本ですね。参考になります。
あとタモリさんの推薦文も載っていましたよ。

もう一冊は、「東京坂道散歩―坂道上れば昭和がみえた」です。    
はじめに見たときは、ちょっと名前がかぶりぎみだったのですこしショックだったのですが(汗)、情報量はすごいし、話の切り口はおもしろいかもです。

どちらの本も新聞に連載されていたものをまとめた本のようですね。
ただ僕は一般新聞は東京に来てからは、取ってなかったので、この半年くらい前にやっと坂道のことが新聞で連載されていることを知ったくらいでしたよ。(汗)

ということで、詳しいことはまた今度書くかもしれませんが、とりあえず本屋でいきなり2冊も見つけてしまったので、うれしくなり書いてみました。

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街写真 に参加中!
いろいろ試してみようと、ブログピープルというブログポータルサイトの中にトラックバックピープルというページがありまして、あわよくばいろんなブログからトラックバックできるようにできないかなあと思い、昨日、そこに「東京坂道ぴーぷる」というカテゴリーをつくってブログピープルに連絡してみたところOKがでましたよ〜。

いちおうこのブログのサイドバーにもリンクをはることにしてみましたので、なんか坂道のことでも書いたら試しにここからトラックバックしてみてくださいね。

そうすると、このブログのサイドバーにも表示されますし、また共通の話題としてなにかのきっかけになるかもしれないですしね。。(笑)

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街写真 に参加中!
今回は、ひさしぶりに坂道の話などを書いてみます。

すこし前の記事(といってもだいぶ前になりましたが・・・)でも書いたのですが、かっては、坂道の坂上と坂下のように、各地域で、明快に分かれていた下町と山の手の伝統的な景観や文化、雰囲気が東京の変わり身の早いというか、高度成長なるものといろいろな経済効率化の波におされて急激に変化していったことは、だいたい予想がつくことと思われますね。

そのなかで坂下の産業文化が中心だった下町では、そのかってあった伝統的な景観が消えていったものが多いといわれおり、一方で坂上の宗教景観とよばれる、上野台の寛永寺と東照宮・本郷台の湯島天神と神田明神・麹町台の日枝神社・麻布台の増上寺と愛宕神社・高輪台の泉岳寺と東海禅寺など、神社仏閣などとともに時代をすごしてきた風景といえる江戸時代から今日まであまりかわらない坂上の伝統的な景観がある地域などは、いまなお存在しています。
かっての坂上の学園景観とよばれた、いまは山の手とよばれている場所に大学などの教育施設が多いのもあまりかわっていないようです。

そして、これらの坂上の伝統的景観に加えて、坂下の町屋付近から発展していった江戸の盛り場は今の東京の西へ山の手の台地上に上がって移動し「坂上の盛り場」がどんどん増殖していったことはけっこう有名なお話だったりします。


坂道と盛り場1

ちなみに、この「盛り場」という言葉、僕なんかははじめは夜の飲み屋街や新宿の歌舞伎町あたりの雰囲気のものを連想してしまったのですが(汗)、実際には、そんなこともなくデパートなどの大型店や商店街のあるショッピング街がならぶいまどきの栄えた街や繁華街のことも同じように言うらしいですよ。

そして、この現象はかっては街の商店街などでは避けられていたそれぞれの地域にある“坂道”の「盛り場」を多く発生させており、そのもっとも良く知られている例が、このブログでもとりあげた渋谷の“スペイン坂界隈”や青山の“表参道付近”、渋谷の“宮益坂”などがそうで、それぞれ休日ともなるとたくさんの若者や買い物客が集まり、かなりのにぎわいを見せていますよね。
 最近では、近代の街づくりなどではあまり積極的に開発されずに残されてきた坂や階段のある街が、若い人たちのあいだでは変化にとんだ個性ある場所として最近人気があがってきているといえます。 


坂道と盛り場2

そんなことで、そんな坂道の盛り場が、最近では、表参道ヒルズのように通路というかヒルズ内にまで及んできていたりして・・・。
たぶんひと昔にこんなことすればブーイングの嵐だったかもしれませんね。

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地域文化 に参加中!
前にすこし話しましたが、今回は、坂道の坂上と坂下における社会文化の差という、タイトルにしてみました。


これは、今はそんなに感じることありませんし、もうそんなこともありませんが、はるか昔、それも江戸時代の江戸の町づくりを徳川家康がおこなっていたころ、江戸城を中心にプランをつくっていったのは、よく知られているかもしれませんが、その際、東京独特の地形からうまれる坂上と坂下のわずか標高差20mの坂道を境目とし、坂上には大名・旗本などの武家屋敷と神社・仏閣などを、坂下には江戸経済の拠点である町家を配置して、坂道を境に都市の機能の色分けというか差別化を行ったことに由来しているそうです。

そして、これらの江戸時代の家康の計画は、今の都市の構造にもずいぶんと継承されているというか、まったくなくすわけにもいかないので、残されていて坂上は緑地を十分にとりこんだ良質な住宅、宗教施設、学園、外国公館、ホテル、公園などに、坂下は商工業の混在する産業空間にと土地利用され、生活文化をとくに追求した山の手社会と産業文化に特化した下町(川の手、水辺)へとわかりやすくというかはっきりと分化されていったそうです。

(「東京を地誌る」より一部参照しました。)


これは、すこし地図などで調べてみたり、散歩しているとなんとなくですがわかります。

さらに区役所なんかでもらえる都市計画図などをみると、都市計画を定める地域の都市計画区域内では、土地利用を細かく規定した用途地域を必ず定めなければならないことになっているのですが、坂道界隈では、主に、「住居系」、「商業系」、「工業系」の3つの地域にだいたい分かれていることが多く、それでみても、なかなかおもしろいことに、今でも、かっての坂下と坂上の地域では、それなりに用途がわかれていて、坂上は「住居系」のいろあいが多い場合が多く、坂下の地域は「商業系」、「工業系」の場合が多かったようにみえました。(ただ、これはいくつかの坂のある地域の用途地域を見ただけの感想ですので、実際に統計をとったわけではありませんので、あしからず。)

でもいまはかって工業地域だったウォーターフロント地域でも高級高層マンションなんかもありますし、そんなところからも、現在はあいまいになっていますよ。ということで、最近のような高層マンションの登場で、どっちが坂上文化なんかなのかは、今の時代はわからなくなってしまったといえますかな。

下町と山の手ってよくききますよね。

いまは、これらの言葉を聞いてもあまりピンときませんが、かってはけっこう明確にわかれていたらしく、とくに坂上と坂下における、地域社会の社会文化、すなわち、坂道を上がるか下るかによって、明らかに、坂上の「山の手社会」と坂下の「下町社会」がつくられてしまっていました。
そういう意味では、江戸・東京では、坂は街の歴史、生態に大きな役割を与えてきたといえます。

水上瀧太郎の「山の手の子」という小説におもしろい一文があります。
“「下町」には西洋の帽子やリボン、西洋押絵を売っている唐物屋がある。通りでは子どもたちが独楽やメンコで遊んでいる。「私」は彼らと遊びたいと思うのだが乳母に「町っ子とお遊びになってはいけません」と禁止される。「私」は仕方なくひとりで庭で遊ぶ。そしてある日、庭の奥まで行ってみる。そこは崖になっている。崖の上に立つとすぐ下に坂下の町が見える!「私」はその発見に興奮し毎日のように崖のところへ行く。そして崖の下で遊んでいる町の子どもたちと親しくなる。とりわけお鶴という魚屋の娘に淡い恋心を抱く。年上のお鶴は「私」を可愛がってくれる。しかしやがてお鶴が隅田川のほとりの町(向島あたり)に芸者の子としてもらわれていくことになり幼い恋は終わる。「私」と坂の下の町の関係も終る。坂の上と坂の下が歴然と別れていた時代の物語である。”
 
この著者水上瀧太郎は、明治20年東京麻布区飯倉町生まれで、父は日本最初の生命保険会社明治生命を創設し、福沢諭吉の門下生、母は山形県鶴岡藩士の娘という家庭で育った人だそうです。
まあそういうことで、著者はいわゆる良家の子供であり、この「山の手の子」はそのこども時代を描いた作品ということみたいですね。
でも、当時の下町とよばれた場所に住んでいた人による文献は,なかなかないこともあり、そういう意味では、明治時代の麻布においてということですが、坂(崖)上のお屋敷町と、坂(崖)下の下町との明瞭な文化の差が描かれていて興味深い小説ではあります。

(「東京を地誌る」より参照)

たまには坂のおもしろさについてなど。

僕が参考にしている本のうちの一冊である「歩いてみたい東京の坂〈下〉」(三船康道著)の中で、坂についておもしろいことが書いてありました。
(本文より)
「町の中で道を尋ねると、「○○坂を上がってすぐ右側」というような答えが帰ってくることも多い。これは、坂が土地の場所を示すのに良い道標となっている例である。
 地形は場所を示すのによい。二〇年から三〇年経過すると、建て替えや再開発によって建物は変わり、道路が広くなることもある。しかし、時間が経過しても道路のアップダウンはそのまま残る。つまり、人工物は時間の経過とともに変化するが、山を切り崩すことでもない限り地形には大幅な変更はなく、自然のままに残るものである。」
とあります。

そ、そうなんです。坂はそういう魅力も持っていました。
この坂により、その周辺に建つたてものは、アップダウンにより見る視点というか、いろんな見方が得られるわけで、それだけでもそこを歩いていておもしろいわけです。

それにくわえて、もしその建物に入ることができれば、さらに内部は複雑になっている場合が多く、あの渋谷のハンズなどもそうですが、あのスキップフロアのように建物内にいろんな段差(?)みたいな、高低差がたくさんできていたりします。
もちろん他にもいろいろありますが・・・。
でももし、あのハンズがなくなったとしても、まわりの坂はのこるのではないでしょうかね。あの店の前にあるオルガン坂もしかりですかね。
すこしぶっとんで考えると、東京に地震がきたとき、そして、そのまわりの建物がなくなったとしてもやはりこれらの坂はのこっていくのかもしれません。
そして、そこにあらたな物語がつくられていくのかもしれませんね。
坂の名前は残ったまま。

すこし話はそれますが、僕のうまれた神戸でも地震にあったときは、周りのこわれた建物をみるたびに気がどうにかなりそうなときはありました。
しかし、遠くにみえる六甲山や山へと登るいつもの坂や道、すこし岸壁がこわれたとはいえその奥にはみなれた海の景色がひろがり、よく心がおちついたもんです。
これは、建築家の宮本佳明氏がいわれていたことにかなり影響を受けていますが、最近になって、当時の記憶をたどってみるとなるほどなと感じ同感するものがあり、すこしまじめな話になりましたが、僕なりの言葉でいってみました。
そういういうことで、東京にもそういう慣れ親しんでいる坂や自然がまだまだ隠れているのかもしれませんし、人工の物や建物だけにかぎらず、そういう場所をみつけてみたいなあと思うきょうこのごろです。


saka_hanasi01
西日暮里の富士見坂

今回は以外と当たり前だけど、きずかないことなど。

建築にたずさわっている人にとっては当たり前といえばそれまでなんですけど、街や道なんかを歩いていて、なんか落ち着くとか、いいなあと思える場所ってありますね。
こういうのってなぜなんでしょうね?
いろいろな条件が重なり合っていることはたしかです。

見た感じという視点からみるとですね、たとえば、表参道とかって道が広いけど、あまりそんながらんとした感はないし、むしろ密集している感じがあります。それって、やはりあの街路樹なんかが影響していたり、歩道の広さや建物の高さなんかもかなり影響しています。もちろんおしゃれな店舗が多くあり、またそれら個々が表参道という道に対して意識が高く、それに影響をうけて外観などもきまっているからかもしれません。または勾配があるからかもしれません。

でも一番の元である、道の幅や歩道の広さ、建物の高さなんかは、専門的にいえばいろいろな規制から決まってきているのですが、もともとは、人の寸法(身長や肩幅などなど)などからきているサイズというか大きさに由来しています。

わかりやすくいうとですね・・、え〜と、道路の道幅が6mくらいあるとすればですね、その幅は車がすれ違える幅としてみているとすると、車の幅をだいたい2.5mくらいでみています。そしてその車の幅も、人の肩幅は自分で計ってみるとわかりやすいですが、70cmくらいでしょうか。それで、車の座席一人ぶんのスペースがきまり、それが2人分と車のその他もろもろの設備で2mくらいになりますから、そのあたりから道路の幅の基本は決まっていることと考えていいようです。歩道も同様です。それと、建物の高さも人の身長は1.7〜1.8mくらいでみているとするとですね、手を上げたときなんかも考えてそのあたりから天井の高さが2.1m〜3mくらいを基本に決められいたりします。そしてこれが積み重なるとビルとなります。

当たり前だろ、とかいわれそうですが、なんかいい感じと思う場所はこのあたりのバランス(広すぎず狭すぎずという意味で)なんかもいいものになっているのだと思いますよ。(あくまで私見ですので、参考までに。)

とにかく坂道なんかはもともとの自然条件でその勾配や高低差なんかができているので、そのあたりの人との寸法というか人工的なものと自然条件がものすごくわかりやすく、あらわれている場所なのかもしれませんね。

街の中の坂道や階段は、生活者にとって忘れがたく、都市に潤いを与え、都市の情緒をふくらませる場所になっているのは、周知のことです。
そして、これらは絵になり、歌になり、散文となって、人々の心に残ってます。

例えば
“「日和下駄」の中で、永井荷風は「坂は即ち平地に生じた波瀾である。
平坦なる大道は歩いて滑らず、つまずかず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃金安しといえども、無りょうに苦しむ閑人の散歩には余りに単調すぎる・・・西洋の都市においても、私はニューヨークの平坦な五番街よりコロンビアの高台に上る石段を好み、パリの大通りよりもはるかにモンマルトルの高台を愛した。
リオにあってはクロワルッスの坂道から、手ずれた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの河岸通りを見下ろしながら歩いた夏の黄昏をば今だに忘れ得ない」と坂道の思い出を述べている。”
(「東京を地誌る」より参照)

坂道は、坂上と坂下、山の手と下町を結ぶ唯一の通路(道)であり、そのため周囲の風景や雰囲気を後世に伝える貴重な記憶装置ともなっていて、たとえば、薬研坂、胸突坂、ねずみ坂などはその適例で、薬を粉にするとき使う薬研のような形状をした坂、急で屏風のような胸突八丁の坂道、ねずみがやっと通れるような狭い坂道といった、坂名からもほのぼのとした情景が伝わってくるようなユーモラスな名称がついています。

また、坂道や階段は街にものがたり性を与える要素でもあり、神社の参道に決まってつくられた男坂と女坂は、直線的で急な階段と登りやすい緩やかな階段をならべるという機能的で使い勝手の良さを、ネーミングによりそのまま空間的な物語に仕立てあげたものであり、日本人独特の感覚により生まれた傑作といえます。

坂道の名称が地図や記録にでてくるのは、17世紀の後半からで、それから徐々に増えていきました。人々は地形の形状などより、坂を避けたひろがりのある土地に生活するのが一般的でした。

かっては、その土地からほかのひろがり(場所)へ行こうとするとき、もっとも簡単な目標が坂道であり、周辺は似たりよったりの武家屋敷がならぶ街並みであり、街の七割をしめる武家屋敷には町名もありませんでした。
そのため、坂道に名称をつける必要がでてきたということのようです。


1860sakamiti
1860年ころの東京の坂(「写真で見る幕末・明治」より)

街歩きや道を歩くとき、僕は次のようなことを気にしながら歩いていたりします。

1:道路の道幅
2:道路沿いの建物の高さ  
3:電線・電柱のあるなし  
4:道からの景色
5:道の高低差 
6:建物や塀の壁の色 
7:歩いている人の服装など  
8:人の多い少ない
9:塀の高さ  
10:樹木の種類や高さ 
11:お店の種類、雰囲気 
12:走っている車の種類 
13:車の通行量
14:自転車の種類  
15:その場所の歴史性(場所性) 
16:築年数
17:建物をつくった人 
18:建物の構造
19:公園や個人の建物の敷地の広さ  
20:裏通りの雰囲気(裏道歩き)
21:看板


いまのところ以上です。
まだふえるかもしれません・・。
かなり独断で選びましたが、これらの条件のレベルが高いのがいい道であり坂道であり、いい街でもあると考えていたりいます。
あとこれらのバランスも大事です。

当たり前のことだろとかいわれそうですが、また詳しいことはまたちがう機会にでも書きます。

東京富士見坂
 ・日暮里富士見坂 (目黒区・品川区)
 ・瀬田・岡本地区(世田谷区)
 ・青葉台地区 (目黒区)
 ・目黒駅周辺 (目黒区・品川区)
 ・田園調布周辺 (大田区)

以上の地区の富士見坂が「関東の富士見100景」のうちのひとつとして選定されています。

委員の評価
電線や建物が阻害要因となり個々の景観がとりわけ美しいわけではないが、東京富士見坂として貴重な視点に共通性がある。また、市民団体の活動も熱心に行われていることから、今回の選定をきっかけとしてさらに相互の連携が図られ、富士山を意識した景観保存・活用への取り組みが深まることが期待できることから、東京富士見坂というまとまりで選定したとのこと。

ちなみに富士見100景に選定されると、例えば、以下のようなことを推進されるそうです。

1:新たな富士見眺望を一体的かつ広域的な広報により広く紹介
2:富士見眺望と周辺地域が一体となった景観保全に関する事業などを支援
3:広報やネットワークづくり等を通して、富士見に関する住民等の活動を支援
4:関連機関の連携づくりや整備推進に関する事業等の検討を行って、富士見景観の保全・活用を推進

世田谷区の富士見坂以外は知っていました。ただそのほかにも雰囲気のいい坂もあるのだけれど・・。それは選ばれていないようです。あくまで個人的な視点ですが。

東京には、いろいろな名称の坂があります。
しかし、その名称は、そのほとんどが違う名称のように僕自身も思っていたのですが、意外に「江戸東京坂道辞典」によれば、同じ名前の坂がたくさんあることがわかります。


坂のリスト

坂の数   坂名
(18): 富士見坂(ほかに新富士見坂、富士坂が各1) 
(17): 新坂(ほかに新道坂)
(14): 暗黒坂 →暗闇坂(ほかにくらがり坂)
(13): 幽霊坂
(12): 稲荷坂
(10): 地蔵坂
(8): 芥坂(五味坂を含む)、清水坂、中坂
(7): 八幡坂、薬罐坂
(6): 相生坂、不動坂、三年坂
(4): 大坂、禿坂、胸突坂、雁坂、乞坂、
(3): 貝坂・紀伊国坂・行人坂・御殿坂・七面坂・
     信濃坂・蜀江坂・団子坂・天神坂・道玄坂
(2): 旭坂・油坂・網干坂・荒木坂・淡路坂・安藤坂・
安珍坂・飯田坂・芋洗坂(一口坂を含む)・
牛坂・牛鳴坂・鷲坂・江戸見坂・円通寺坂・
隠岐殿坂・霞坂・久野坂・車坂・笄坂・甲賀坂・
光感寺坂・桜坂・砂利場坂・新道坂・浅間坂・
仙台坂・善光寺坂・袖摺坂・大坊坂・鼓坂・
豊島坂・鶯坂(飛坂を含む)・堂坂(動坂を含む)・
なだれ坂・東坂・比丘尼坂・蛇坂・茗荷坂・
明神坂・宮村坂・薬研坂・大和坂・行合坂・梨木坂・
若宮坂・辺坂

以上のようにけっこうたくさんありました。


名前がつけられている坂の総数まではわかりませんでしたが、これ以外の坂は都内に限ってですがひとつしかないということになります。

また、これらの坂で、富士見坂、潮見坂、江戸見坂は、展望坂の3部作とよばれ、「江戸百景」においてもかかすことのできない坂で、坂からの眺めは昔は特によかったようです。
このように、坂は東京の街の歴史、生態と深くかかわっており、また大きな影響をあたえてきました。

山の手と下町とかもよくきくとおもいますが、もともとは坂道の坂上と坂下での地域社会の文化の違いを坂道を上がるか下るかによって分けられたとも言われています。

今日は、天気もよく散歩日和でしたね。
しかし、散歩はできませんでしたが・・・。
とりあえず、今回は、ちょっとした坂道のうんちく話など。

僕の住んでいる近くにもいろんな坂がありますが、なぜか東京の坂には、そのほとんどが名前をつけられているようです。
たとえば赤坂、神楽坂、富士見坂などは、聞いたことがあるとは思います。いきなりですが「江戸東京坂道辞典」という本によれば、坂名は、その名が有名になると町名や地域名に拡大することもあり、赤坂の赤坂、元赤坂、神楽坂が広がった町名神楽坂などがよく知られているものです。

そして、坂道名を分類すると大きく分けて6つのグループになるそうです。

1:地形条件
2:自然風景
3:地の形
4:伝説や言い伝え
5:寺社名
6:武家名


このように書くとピンときませんが、その坂のイメージやいままでの物語性を分類するとこんな感じとなるということです。

詳しい話は、またちかいうちに書きますが、今度坂道を歩く機会でもあればその坂の名前はちゃんとあるのか、もしあれば上で述べたどのグループにはいるのかなどを想像しながら歩くと、また違った坂道の面白さがあじわえると思います。

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