東京坂道さんぽ

〚Category: ★坂道[No181〜220]
皀角坂(NO.220)
小栗坂(NO.219)
男坂(NO.218)
錦華坂(NO.217)
吉郎坂(NO.216)
文坂(NO.215)
甲賀坂(NO.214)
池田坂(NO.213)
雁木坂(NO.212)
観音坂(NO.211)
新坂(NO.210)
淡路坂(NO.209)
幽霊坂(NO.208)
紅梅坂(NO.207)
梅林坂(NO.206)
汐見坂(NO.205)
清水坂(NO.204)
三段坂(NO.203)
御隠殿坂(NO.202)
寛永寺坂(NO.201)
新坂(NO.200)
車坂(NO.199)
信濃坂(NO.198)
屏風坂(NO.197)
車坂(NO.196)
桜谷坂(NO.195)
忍坂(NO.194)
稲荷坂(NO.193)
清水坂(NO.192)
道玄坂(NO.191)その2

所在地:千代田区神田駿河台2


小栗坂(NO.219)でもちらりと話がでてきたついでに、今回はちょっといつもの感じとは違い、なにげにいろいろ思い出したこともあるので補足的な話など。

皀角坂については、この坂道ブログでは初登場なので今回いちおう「皀角坂(NO.220)」という形でいつものようにナンバリングしてみましたが、実は以前にみちくさ学会ですでに取材済みですので、坂道自体の細かい話については、そちらの記事をみてくださいね。
電車がすぐそばを走る場所としてロケでもよく使われる駿河台と水道橋を結ぶ眺望坂


皀角坂(NO.220)0

で、この坂道、坂の途中から富士山がかつて見えた坂であることはみちくさ学会の記事でも書いたとおりです。
で(しつこい、笑)、その富士山が坂道からいつごろまで見えたかということが、今回だいたいわかったので、まずはその報告です。

というのも「江戸の坂東京の坂」という本に『四、五年前までは、昔の絵と変わらない美しい富士を見せてくれた。ことに皀角坂の上からは、靖国神社の大鳥居(今はないが)と大松閣の白い建物とのちょうど中間に、富士が見えたものである。』と記述があり、だけど今はビルで見えないということも書かれてありました。
しかも(著者の横関さんによれば)この坂をなぜ富士見坂ではなく皀角坂と呼ぶことにしたのか不思議だ、ということまで書くほど、かつてはクリアに坂から富士山が見えていたようです。
そして、この「江戸の坂東京の坂」は昭和56年に発行された本です。ということは、本の記述にある四、五年前までは見えていたという話が正しいのだとすると、おそらく昭和51年(1976年)ごろまでは、この坂からも富士山が見えていたということになると思われます。

なので、今ちまたで話題になっている日暮里の富士見坂はこの2、3年でビルが建ってしまい富士山が見えなくなってしまうかもという悲しいうわさが流れていますけど、今回の皀角坂でいえば、1976年ごろにそういう出来事をすでに経験してしまっているわけで、そういう意味では、この皀角坂と呼ばれている坂も、横関さんのいうとおり富士見坂という名前にしておけば、もうすこし結果が違っていたのかなあとすこし思ってしまいました。


皀角坂(NO.220)1
写真1

話は変りまして、まずはこちら。
坂の名を記した石碑らしいのですが、今回坂道歩いた時は、さいかちの“ち”の文字部分が地中に埋まっていましたよ。(笑)
舗装工事の時、石は移動せず、上からタイルで覆った感じがなんともです。。
そしてこれはめんどくさかったからなのか、それとも石をなるべくうごかさないようにそっとそっと〜という、ちょっとしたおもいやりからなのか・・・。(う〜む。)
しかも野草がちょびちょび、タイルと石の隙間から生えてる感じもなんだかですな。
まあこんなちょっとしたところにも坂道の歴史ありという感じですかね。

あ、あと歴史を感じるといえば、坂の途中に「神田上水懸桶跡」なんていうものもあったので気になる方は検索でもしてみてください。


皀角坂(NO.220)2
写真2

そして、実はこんな看板も坂の途中にありましたよ。(笑)
ただどのへんにあるのかは、ここでは明かしませんので、興味あるかたは実際に坂道歩いて探してみてくださいな。


ということで、あとはみちくさ記事でも書いた皀角坂の風景がちりばめられたいくつかの映画を借りてきてみるだけですよ。(笑)

せっかくなので、その作品リストものせときますね。↓

<作品リスト(皀角坂の風景がどこかに写っている映画orTV)>

★映画
『自由学校』(出演: 高峰三枝子など)1951年
屑籠を背負った南村五百助と長谷川金次が歩いていた坂道。

『少年探偵団・妖怪博士』(出演: 岡田英次など)1956年
怪人二十面相がアジトへ少年たちをおびき出すときに歩いていた坂道。

『女がいちばん似合う職業』(出演: 桃井かおりなど)1990年
きぬが佐山吾郎を追ってかけ下りた坂道。

『海猿』(出演:伊藤英明など)2004年
ラストシーンで仙崎大輔と伊沢環菜が歩いていた線路沿いの坂道。

★TVドラマ
『ロングバケーション』(出演:木村拓哉など)1996年
瀬名秀俊と葉山南が歩いていた坂道。

『北の国から(92巣立ち、95秘密、98時代)』1992年〜1998年
黒板純と松田タマコが歩いていた線路沿いの坂道。

『離婚弁護士II』(出演:天海祐希など)2005年  
間宮貴子弁護士事務所近くにある線路沿いの坂道。

『ケータイ刑事 銭形雷』(出演:小出早織など)2006年
銭形雷と岡野富夫が事件終了後に会話していた道。

『めぞん一刻』(出演: 伊東美咲など)2007年
五代裕作が通う「明治予備校」のある坂道。

『猟奇的な彼女』(出演:草なぎ剛など)2008年
眞崎三朗が人力車を引いていた坂道。

『貧乏男子』(出演: 小栗旬など)2008年
オムオムが車の中から白石涼に声をかけて誓約書を渡した道。

『アタシんちの男子』(出演: 堀北真希など)2009年
小金井響子が電話で峯田千里と防犯装置のことを話していた坂道。

『SPEC』(出演: 戸田恵梨香など)2010年
地居聖が電話をかけていた坂道。

『生まれる。』(出演: 堀北真希など)2011年
林田愛美が歩いていた坂道。

(多いですね〜。)

と、いう感じです。


地図
千代田区神田駿河台2

所在地:千代田区三崎町1


おぐり坂とよぶそうです。
場所はJR水道橋駅から徒歩2・3分のところにあり、坂上は皀角坂に面しており、そこから南のほうに下る緩やかな坂道です。


小栗坂(NO.219)1
写真1

ではさっそくですが、写真1は坂上から坂下のほうを眺めたものです。
ゆるやかな勾配すぎて、途中に坂の碑がなければ、ここが坂道だと気が付かないくらいの場所だったかもです。
しかもこんなに広い道路なのに一方通行。
そしてまわりの様式の違うビルのファサードのごちゃごちゃ感を補うようになにげに(というか控えめに)街路樹もあったり。
個人的には、なんていうか空見上げるとちょっと気分がくらくらしてきますが、道だけみてると落ち着いた道路に見えなくもないかなあという印象でした。


小栗坂(NO.219)2
写真2

こちらは写真1の左側にあったビルのファサードのアップ。
今時のビルにしては凝ったつくりかもですね。
でもまあしいていえば、ビルのガラス張りの冷たいイメージに、なにげにこのような装飾、しかもこの地域のビルに多い茶色系の色を混ぜることで、なんとかがんばってこの地域にとけ込んでみようかな(みました)という雰囲気をだそうとしてるのかもなあと、ちょっと思ってみたりしました。


小栗坂(NO.219)3
写真3

今度は、坂をすこし下り、坂上のほうをみてみました。
なので正面がJRの線路で、その下の道路が皀角坂ということになります。

あと、ここからもちらりと見えていますが、ここにもいつものように坂の碑があり、
『この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦三年(一六五七)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。』
とありました。

ちなみにこの坂、江戸の古地図を見てもちゃんと今と同じ位置に道があり、そこに小栗坂って記載ものっていましたよ。


小栗坂(NO.219)4
写真4

で、歴史的にも古い坂道ということはわかったわけですが、この坂、実はビルとの隙間からこんな風景も楽しむことができました。
場所でいえば、写真3の右側あたりにちらりと見えていて、ちょうど左奥が皀角坂ということで、写真左から右へと上り坂になっていてさらに手前から奥へと崖になっている地形なので、ビルの高さ具合と地形のせめぎあいがなんともおもしろい感じで成立している場所でした。


小栗坂(NO.219)5
写真5

そして、あっというまに坂下までやってきました。
そういえば、この記事書いてる時に古地図の本の解説に『坂下の中坊陽之助邸は松尾芭蕉の旧跡、芭蕉蔵で知られる。』とあったので、どこぞや?と思い、地図やら古地図など見つつ調べてみても、結局近くにはそういう場所はなくどこにあるのかわからずじまいだったのですが、その後(といっても1時間後くらいですが、笑)、ネットで調べたらなんと明治大学のサイトにいきあたり、そこに『明治大学は俳人、松尾芭蕉のゆかりの地です。現在リバティタワーがある場所は江戸時代、4000石の旗本・中坊(なかのぼう)氏の屋敷があり、その中の蔵に芭蕉は仮住まいしました。のちにその蔵は「芭蕉蔵」と呼ばれています。』なんてことが書かれていましたよ。
いちおうその知識を得てから、古地図みてみると、小栗坂のはるか坂下の今の明治のリバティタワーがあるあたりに、たしかに中坊陽之助邸という記載がありましたよ。
へえー、そうだったんですね。(笑)
地味な坂だなあと思ってたら以外な史実にぶつかって、不思議な縁を感じてびっくりという思いですよ。
なのでまたそのうち、その蔵がどうなったかも調べてみますかね。


地図
千代田区三崎町1


※はじめにでてきた小栗坂の坂上と接している皀角坂(さいかち坂)については、みちくさ学会ですでに記事にしていますので、そちらもよかったらどうぞ。
電車がすぐそばを走る場所としてロケでもよく使われる駿河台と水道橋を結ぶ眺望坂

所在地:千代田区猿楽町1


おとこ坂と呼ぶそうです。
場所はJR御茶ノ水駅から水道橋駅方面に歩いて徒歩5分くらいのところにある階段坂です。


男坂(NO.218)1
写真1

ではさっそく写真です。
写真1は見てのとおりですが、坂上からのもの。
かなりの急勾配の階段です。
まわりのビルと見比べてみると、おそらく4階分くらいの高低差はありそうですね。
ちなみに松本さんの階段本によるとここは73段で高低差は13.1mだそうですよ。


男坂(NO.218)2
写真2

いちおう坂上から階段入口あたりをみてみるとこんな感じでした。
ふつうに崖ですね。。
しかもここ、いちおう南西にくだる階段なので、もしかしたら昔は富士山見えたかもですね。
ただ正確に言えば、そういうこと書いている資料もなく、軸はかなりずれていて、写真2でいえば右側のほうにみえるはずなのですが、今はちょうど右側にある明治大学の校舎がもろにじゃましているという形なので、現在ネタとしては確認不可能という感じです。
でもこれだけの高低差があって見晴らしもよさげなので、昔もこの地形のままということなら、やっぱり富士山ちらりと見えてたかもですね。
なのでこれは今後の宿題として保留という形で、富士見坂カテゴリーに追加しておきますよ。(とりあえず、わかりしだいみちくさ学会の記事でも紹介してみるかもですので、あしからず。)


男坂(NO.218)3
写真3

そして、坂を半分くらい下りて、坂上のほうを見てみました。
見上げるだけで首が痛くなってきそうです。
坂道風景的には、やっぱり坂上あたりの樹々が良い感じ。
坂上にあるのでなんかすごく大きく感じてしまいました。

あと、写真でも見えているとおり、ここにも坂の碑があり、
『この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。』
とありました。

ふつう男坂といえば、お寺の境内にある男女坂を思い出しがちですが、ここでは違うみたいですね。
まわりにお寺もないみたいですし。。


男坂(NO.218)4
写真4

最後は坂下からです。
坂下からみると迫力ありますね。
でもやっぱり両サイドの手摺といい、端正な階段のつくりや勾配具合といい、ほんと坂上にお寺の施設かなにかがありそうな雰囲気満載なのですけど、ないんですよね。

とにかく、名前といいこの雰囲気といい、不思議な感じの坂道だったかもです。


男坂(NO.218)5
写真5

最後といっておきながらのおまけ写真です。
なぜか坂下あたりの上空には歩道橋がありました。。
ここからみるとさらに不思議な風景がひろがっていましたよ。


地図
千代田区猿楽町1

所在地:千代田区猿楽町1


(気がつけば久しぶりの御茶ノ水の坂話ですが、とりあえず前の続きということで。。)

きんか坂と呼ぶそうです。
場所は、御茶ノ水の山の上ホテルや明治大学(リバティータワー)の校舎のすぐ西側にあり、南北に続く長い坂道です。


錦華坂(NO.217)1
写真1

で、さっそく写真ですが、こちらは錦華坂の坂上あたりの様子です。
道幅の割に両サイドの建物の背が高いせいか御茶ノ水界隈の道にしてはすこし狭く感じる坂道で、しかも遠くには明治のリバティータワーなぞも見えていて、なんていうかすごくスケール感の違うものが混在していて、うまく言えないですけど変な風景画を見ているような気分になってしまいました。


錦華坂(NO.217)2
写真2

もうすこし坂を下ると坂下のほうまで見わたせる場所があったので、とりあえず坂下のほうを眺めてみました。
あいかわらず道幅は狭いですが、まわりは山の上ホテルをのぞけばすべて大学の施設ということもあり、緑も多めで、ふつうの街なかにみられる坂道風景とはすこしちがったなんか独特な雰囲気が漂っていましたよ。
そしてこのあたりからは、坂下のほうを見てもらえればわかると思いますが長い直線の坂道で高低差もけっこうある感じでした。


錦華坂(NO.217)3
写真3

さらに坂を下り、写真2でも見えていた横断歩道のあるところまできてみました。
坂道はまだまだ続きそうな感じですが、ここではなんといっても、左手にみえている山の上ホテルですかね。
といってもまあ、ここで見えているのはホテルの裏側なんですけどね。
どちらかといえば表の風情のあるものとはすこし趣が変り淡々とした感じだったですかね。


錦華坂(NO.217)4
写真4

あと写真3の左側にはこんな風景が広がっていました。
右側の山の上ホテルの本館をみながらの急勾配の坂道に、坂上の別館というなんともいえない風景。
ただこの坂道には名前はついていないようでした。


錦華坂(NO.217)5
写真5

そして、写真3の位置よりさらにさらに坂を下り、今度は坂上のほうを眺めてみました。
位置的には正面にみえているトラックのむこうあたりが山の上ホテルということになります。

またこのあたりに、いつものように坂の碑があり、『この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。「議決要綱の三」には"南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設"とあります。』
とありました。

ちなみに、坂の碑には「この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。」とありますが、これ江戸東京坂道事典によれば、「“異本武江披砂”によれば、江戸時代はこの坂を勧学坂、または勧学坂と名づけている。」と書いてあるんですよ。
本ではそのあとこの勧学坂の名前の由来についてあれこれ推測しているんですが、ここではその話は置いておいてとりあえず江戸時代の古地図を見てみたわけです。
するとどうやら、たしかにこの錦華坂とよばれている道は増設された様子が伺われるわけなんですよ。でも古地図で見比べた感じでは坂上のほう、写真でいえば写真2あたりの道は江戸時代にもあったみたいなので、かつては坂上あたりの場所を勧学坂と呼んでいたのかもしれないですよ。
そしてこの写真5のあたりは、坂の碑にあるとおり大正一三年以降に増設された坂道というのが僕の予測です。

そんなわけなので、個人的にはこの坂道、坂上と坂下で名前変えてほしいなあというのが僕の希望です。(笑)
坂上が勧学坂、坂下が錦華坂という具合にですね。。

あと、地図みると実は錦華坂の名前の由来になった錦華小学校が見当たらないんですけど、実はこの小学校、1993年4月に小川小学校、西神田小学校を併せて統合され、お茶の水小学校となったようで、そのお茶の水小学校は現在、ちょうど明治大学の西隣にあったりします。
またこの錦華小学校知ってる方も多いとは思いますが、あの夏目漱石も学んだ小学校でもあるらしいですよ。


錦華坂(NO.217)6
写真6

そんなわけで、やっと坂下あたりまでやってきて、さらに坂下のほうを見てみました。
写真では左側に明治大学の校舎、右側には錦華公園の樹々がたくさんみえていました。
なので今では錦華坂の名前の由来に関係する地名といえば、この錦華公園ということになるんですかね。。
でもこの錦華公園も実は大名屋敷の庭園であったというなんとも歴史のある公園らしいです。(しかもこの公園、つくり的にも高低差満載の公園なんですよね。。)
なんかいろいろでてきますね。

ということで歴史好きな人はここから漱石さんの話とか色々続けていくんだろうとは思いますが、ここではとりあえずこんな感じです。。


地図
千代田区猿楽町1

所在地:千代田区神田駿河台1


きちろう坂と呼ぶそうです。
場所は文坂(NO.215)の坂上のほうでちょうど今回の吉郎坂の坂下が接続しており、さらに吉郎坂を下る方には甲賀坂(NO.214)と接続して、要は地図的にみると、十字架の縦長の部分が文坂(NO.215)で左が吉郎坂、右側が甲賀坂(NO.214)という感じのちょっとした坂ずくしの場所でもあったりします。

ただこの吉郎坂という名は区が認めた正式なものではないらしく、かつては胸突坂(むねつき坂)と呼ばれていた時期もあったそうです。(もしくは別名。)
胸突坂の名前については、いつもお世話になっている「江戸東京坂道事典」に記載があり、『「新撰東京名所図会」には「胸突坂 袋町の間を東より西に向ひて上る坂あり胸突坂といふ、胸突坂は急峻なりしより起これるなるべし。新編江戸志にも胸突坂とありて、小川町より駿河台の方へと上る坂なり」とある。』と書かれています。


吉郎坂(NO.216)1
写真1

そんなわけで、まずは坂下からの風景です。
手前の通りが文坂(NO.215)で、左にリバティータワー、右が大学会館という場所をさらりとかけあがっていく短い急坂となっていて、ここから見る分には道の両側が明治大学の施設ということもあって、どこか学校の施設内に入っていくような気分になってしまいました。


吉郎坂(NO.216)2
写真2

それで次は、ちょっと坂を上って坂下のほうを見てみました。
ちょっと上っただけで、まわりの建物をみてもらうとわかりやすいかもですが、すでに2階床レベルくらいの高さまで上ってきているようでした。
いちおう正面の通りの向こうにある道が甲賀坂(NO.214)なんですけど、ここから見る分には普通の平坦な道のようしか見えませんかね。。

ちなみに写真ではちょっとわかりにくいですけど、坂下の横断歩道の右側のちょっと手前あたりにこの坂の名が記された石碑が置いてあるんですよ。
ただ、そこには坂の現在の名前(吉郎坂)が記されているのみなのですが、実は明治大学の公式サイト内に、この吉郎坂についての名前の由来の説明が書かれていて、それによるとこの坂は佐々木吉郎という明大の経営学部を創設した先生の名前に由来しているらしく、サイトには『彼は人格的にも「吉ちゃん」と親しまれ、なんと彼の名に因んだ坂もある。駿河台の大学会館とリバティータワーの間、ヒルトップ・ホテルに緩やかに続く坂が「吉郎坂」と命名されている。(確認したい人は、リバティータワーの脇に、「吉郎坂」と書かれた石標を見ることができる。かつて作家の田辺聖子が“とぼとぼと”この坂を歩いていた。)』と書かれていました。

まあなんていうか、なぜこの吉郎先生とこの坂がつながったかは不明で、かなりの強引感はありますけど、とりあえず今回はこれ以上の深追いはしないことにしてみます。


吉郎坂(NO.216)3
写真3

今度は坂上のほうを眺めたものです。
もうこのあたりからも坂上の頂上のほうが見えていました。
あとは狭い道のくせして、左右に歩道があるあたりが、なんだか変な感じというか大学施設にはさまれた、ある意味穏やかな感じのする坂道なのかなあと。


吉郎坂(NO.216)4
写真4

そして、坂上には、写真3からも見えていた山の上ホテルがでんと構えていました。
山の上ホテルについてはかなり有名なので知ってるかたも多いと思いますので、詳しくはウィキペディアの説明でも見てみてください。
ホテルの歴史から建物自体にはじまり作家の定宿としても知られるなど、けっこう見所のあるホテルですので。
山の上ホテル


吉郎坂(NO.216)5
写真5

で、肝心の坂上からの眺めはこんな感じでした。
両サイドにのっぽのビルがあるわりには、なんとなくひらけている感がある景色だったかもです。


216)6
写真6

そんでもって空見上げてみるとまあ、こんな具合でした。
これが出来る前はもっとスカっと空見えてたんでしょうけど、今はなんとなく見下ろされている感がなんともなんともだすなーという感じでした。
そういう意味では、この背後にある山の上ホテルからの坂の眺めも昔はもっと景色がよかったんでしょうかね。


地図
千代田区神田駿河台1

所在地:千代田区神田駿河台1あたり


前回の甲賀坂(NO.214)の坂上と交差している道路で、現在は明大通りとよばれている大通り自体が今回の坂道ということになり、御茶ノ水駅からも徒歩5分くらいの場所にあります。
ちなみにこの坂道には、いつものような坂の碑はなかったのですが石碑があり、そこに「文坂」と刻まれているのみだったため、実際のところここを「ふみ坂」と読むのか「ぶん坂」と読むのかどうかまではわかりませんでした。
しかもこの坂、千代田区のHPの坂紹介ページにもないんですよね。。(まあいちおう坂道本で紹介しているものはいくつかありますけどね。)


文坂(NO.215)1
写真1

で、こちらは文坂の坂下あたりであろう場所から坂上の方を眺めたものです。
わかる方はわかるかもしれないですけど、左右を走っている道路は靖国通りで、この左側エリアが神田古書街ということになります。
坂道自体は、写真ではわかりにくですけど、ゆるやかなんだけど歩いているとそれなりに傾斜具合を感じることができる坂道という感じでした。


文坂(NO.215)2
写真2

すこし坂を上って坂下のほうを見てみるとこんな感じでした。
両側あわせて5車線なのでかなり道幅広いですね。
いちおう古地図見てみましたけど、ここはやはり昔からある道みたいですけど、かつてはここまで幅広な道ではなさそうでしたよ。


文坂(NO.215)3
写真3

そして、もうすこし坂を上り、坂上のほうを見てみました。
写真ではほんとわかりにくいですけど、いちほう上り坂になってます。
しかも左側にでーんと高層ビルみえてますけど、こちらが明治大学の校舎(リバティータワー)で、建物的にもいろいろ工夫されている有名建築らしいです。
あと、写真左にはなまるうどんの看板みえてますけど、ここから左へと抜ける道路が、実は富士見坂 (NO.5)だったりします。


文坂(NO.215)4
写真4

写真4は撮った時期は違うんですけど、これが通り(というか文坂)からみた富士見坂 (NO.5)です。
ちょうど文坂側が坂上になっています。
ということは・・・。
この文坂(NO.215)も歩いた限りではどう考えても坂の途中から富士山ちら見えしてた可能性高いので、確定ではないですしだれも言ってないことですけど「富士見坂」と別名で呼んでもいいのかもしれないですね。(なので、これも「みちくさ学会」で取り上げようか迷ったんですけどね。ただもしかしたらもうすこし丁寧に調査したらいろいろな史実でてくるかもしれないのでだいぶあとに取り上げる可能性もなくはないですけどね。)


文坂(NO.215)5
写真5

そんでもって、写真5はさらに坂を上り坂下のほうを眺めたものです。
このアングルからだと坂の勾配具合や高低差具合、わかりやすいんじゃないですかね。


文坂(NO.215)6
写真6

ただすこし坂を上ると、もうこのあたりから勾配具合はかなりのゆるゆる度で、よくよく考えれば、右にリバティータワー、左に日本大学法科大学院の建物(こちらも有名建築だったりするのですが)があるので、階段で言えば踊り場のような場所になっているのかもなあと。


文坂(NO.215)7
写真7

最後は写真6からだいたい同じ場所より坂上のほうを見たものです。
見た感じではここからまたすこしだけ上り傾斜になっていますかね。
そして、正面にみえている東京医科歯科大学のビルの手前あたりが神田川ということになります。
それにしてもやっぱり道幅広いですね。
でもまあこれぐらいの道幅だと道のほうに意識いくので坂道散歩の時はおもしろいちゃあおもしろいんですけどね。


地図
千代田区神田駿河台1あたり

所在地:千代田区神田駿河台1


こうが坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた池田坂(NO.213)の坂下から西へ上る坂道で明大通りにぶつかるまでの道が今回の坂道ということになります。
そしていちおう古地図も確認してみましたけど、この道はいちおう昔からある道みたいです。


甲賀坂(NO.214)1
写真1

そんなわけで、まずは坂下あたりの様子など。
見てのとおりここって坂なの?と思ってしまうくらい勾配具合はゆるく、しかも写真奥に信号見えてますけど、あのあたりが坂上ということで距離も短い坂道です。
また右側には日大の校舎が見えているとおり、このすぐ右側も坂道になっていて上でもあげた池田坂(NO.213)がぼぼんと控えています。


甲賀坂(NO.214)2
写真2

次はさらに坂を上り、坂上のほうを見てみたものです。
左側は広大な駐車場となっていて、さらに奥には明治のリバティータワーがそびえ建っていて、空地に高層ビルという感じでどこぞの再開発地域なんでしょ?と思いたくなるような景色が広がっていました。


甲賀坂(NO.214)3
写真3

またちょうど写真2の右側に日大歯学部の建物があって、その道路際にこんな銅像があったわけですけど、やっぱり無視できませんで、なんとなく日本的な感覚でみると(というか大仏さん想像してですけど)、こんな雨風激しくあたるとこにたてちゃって大丈夫なんですかねなんて思いつつ、でも銅像っていえばやっぱり青空の下にあるもんだよなあと思いなおしてみたりと、まあいろんな考えがぐるぐるとまわりつつ、思わず近寄ってぱちりと一枚。(笑)


甲賀坂(NO.214)4
写真4

そして、一気に坂上あたりまでやってきて、坂下のほうを眺めてみました。
のっぺらりんとした坂道で、都心らしく高層ビルもたくさんあって、こちら側からみると坂下からみた感じと違い、どちらかというと丸の内あたりの雰囲気とかぶってくるというか、そういう気もしてくるんですけど、どうでしょ。


甲賀坂(NO.214)5
写真5

あと、写真4の左側に東京YMCA会館なる施設があるんですけど、ここけっこう有名な施設らしくてHPをみると、「日本では、初めて公にYMCAの「Young」を「青年」と訳し、広く用いるようにした。」なんてことが書かれていて、ほかにもバスケやバレーボールを日本に紹介したのもここに所属していた人たちだったなんてことが書かれていましたよ。ただ個人的には、この建物、僕が大学在学中に学校で教えていた先生が設計されたビルということで記憶していただけだったので、今回、坂道資料をいくつか見ながらあらためて、ほほーと思いなおした感じでした。

ちなみにここにもいつもの坂の碑があり、
『この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には”南北甲賀町の間に坂道あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々”とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。』
とありました。

なので、昔はこのあたりは忍者屋敷ということだったんですかね・・・(わかりませんけど)。
でも今はYMCAだったり学校の施設だったりと、まあそのつながりみたいなものはちょっと想像できないものとなってしまったかもですね。

ということで、あとは「甲賀組」というキーワードでここからたらたらとさらに調べたくなってきてしまいましたが、それすると話長くなりそうなので(汗)、とりあえず今回のところはこんな感じです。


地図
千代田区神田駿河台1

所在地:千代田区神田駿河台1


(気がつけば期間あいちゃいましたので、そろそろということで。)

いけだ坂と呼ぶそうで、別名で唐犬坂とも呼ぶそうです。
場所は雁木坂(NO.212)の坂上とつらなっていて、そこから南西方向に下る坂道です。


池田坂(NO.213)1
写真1

まずは坂上からの景色でも。
普段ならこのあたりはタクシーなどがいつも待機している場所で写真撮る時はあまりうまくないのですが、このときは休日だったこともあり、車もいなくて、学生もほとんど歩いてなくて、なかなか良い感じで坂道を見渡すことができました。
ここからでも坂下の様子が見えているとおり、それほど長い坂でもなく高低差も建物2階分くらいのもののようでした。
また周りの建物も大学関連の施設ばかりということもあり、よくある住宅街やオフィス街にあるようなものとはひと味ちがった雰囲気の風景を体験できたかもです。


池田坂(NO.213)2
写真2

左のほうを振り返ると、ニコライ堂も見えていました。
なので場所関係はこんな感じです。


池田坂(NO.213)3
写真3

そんなわけで、一気に坂下までやってきてしまいました。
とりたててみるべきポイントみたいなものはないですけど、しいていえばここ通るたび、道路がいつも工事中のようなに荒れてるなあというのと、まわりの建物がいい感じの煉瓦色系の建物多いのに、左隣の日大理工学部校舎だけがなんでここだけガラス張りの建物にしちゃんたんだろう?という感じですかね。。

ちなみにここにもいつものように坂の碑があり、
『この坂を池田坂といいます。この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。「新撰東京名所図会」には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり。駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅ありしより以て名とす、一名唐犬坂といふとぞ。「新編江戸志」には、「池田坂 唐犬坂とありて、池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋敷に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられます。』
といろいろ親切に書かれていました。


地図
千代田区神田駿河台1

所在地:千代田区神田駿河台2

がんき坂と呼ぶそうで、場所はここもJR御茶ノ水駅から徒歩数分の場所にあり、紅梅坂(NO.207)の坂上からだと西へ歩いて1分くらいのほんとうに間近にあり、そこから西にある明大通りへと下っている坂道です。


雁木坂(NO.212)1
写真1

まずは坂上からの風景です。
見てのとおりなんですけど、ここ本当に昔からある坂道なの?と疑うくらい平坦具合が強くてちょっとびっくりするくらいでした。

でもこのすぐ横あたりに、おなじみの坂の碑があり、
『この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図会』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。』
とあり、また古地図で確認してみても、現在とほぼ同じ位置に道があり、坂名まで書かれていたので、ここが昔からある坂道だということは正しいと思われます。

そんなわけで、いつごろに地形がいじくられたのかは不明ですけど、僕が歩いた限りでは、現在の雁木坂はほんとうにかつての急勾配の坂道の痕跡すらない感じだったかもです。


雁木坂(NO.212)2
写真2

また後ろを振り返って坂上のほうをみてみると、ニコライ堂がちらりと見えていました。


雁木坂(NO.212)3
写真3

次は、一気に坂下あたりまでやってきて、坂上のほうを眺めてみました。
ここからだと、坂の勾配具合もなんとか確認できるかもですね。
あとは左の樹がなんとも気になるところですが、歩いたときには樹の左側にある杏雲ビル(ここからだと隠れていて見えてませんけど)のものかなあと思ってたんですけど、この写真3をよくみると、いちおう歩道上にあるみたいですね。
ということは公共の街路樹なんですかね。
(まあどうでもいい話なんですけど・・・。)


雁木坂(NO.212)4
写真4

そして最後は写真3でもちらりと見えているのですけど、日大病院のビルの側面の配管がなんだかすごい感じだったので、思わずぱちりと。。
なんかもうここまでくるとアート作品みたいですね。

そんなわけで、今回はこんな感じです。


地図
千代田区神田駿河台2

所在地:千代田区神田淡路町2あたり


かんのん坂と呼ぶそうです。場所は御茶ノ水の新坂(NO.210)のひとつ南側を外堀通りから西へと上っている坂道です。


観音坂(NO.211)1
写真1

まずは坂下からの様子です。
都心部のちょっと駅からはなれた場所によくありそうな感じの風景ですけど、しいていえば坂上に行くほどビルが高層になっていくというのは、あらためてじっくり見てみると、ちょっと珍しい感じかもですね。
またここは一方通行の道なのに道幅はけっこう広めなつくりでした。


観音坂(NO.211)2
写真2

それからこちらは一気に写真1で見えていた奥のほうの勾配が急になっているところまでやってきて、さらに坂上のほうを見たものです。
遠くからみると緩い坂だなあと思ったんですけど、いざこのあたりまできてみると、以外と勾配具合を感じました。
あと、どうでもいいといえばそれまでなんですけど、左側に見えているオレンジ色のシャッターがちゃんと斜面の傾斜にあわせてぴったりと地面にひっついている感じがなんとも日本的な細やかさというかかんというか。

そして、もうひとつは正面の白いビルですかね。
地図でみると全電通ホールと記されてましたけど、なんか気合入ってますね。
首を左に傾げてじっくり見てみると、なんだか階段にも見えてくるところがなんとも良い感じです。(笑)
(こういうつくりのビルがここと同じ感じで坂の傾斜部分の両サイドにあるとちょっと目がまわりそうですけどね。。)


観音坂(NO.211)3
写真3

そういうわけで、あっというまに坂上あたりまでやってきました。

と・・・、あ、むむむ。
今、写真3をじっとみてたら奇妙なものを発見してしまいました。
ここの道路の両サイドにぽつぽつと置かれているガードレールの下よく見てみてください。
なんとH型の断面をした鉄骨造の柱に使われていそうな鉄材の上にガードレールが取り付けられていますよ!
ある意味最強のおもしかもしれないですけど、はたして、どういう経緯で導入されたものなんですかね。。(汗)


観音坂(NO.211)4
写真4

そして、ちょうど写真3の左側にいつもの坂の碑と小さな観音堂がありました。
というわけで、この坂の碑には、
『この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には”新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし、茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし”とかかれています。しかし、延宝(一六七三〜八〇)、元禄(一六八八)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。』
とありました。

あと上の説明だけではちょっとぼんやりとした感じですので、千代田区のHPにもここの坂名についての記述があったので、最後にそれも載せておきますね。
『「本郷通り」から、全電通労働会館とホテル竜名館の間を「外堀通り」に抜ける下る坂です。寛永の頃から元禄の頃までホテル竜名館の所に茅浦観音寺があったことから呼び慣わされた坂の名です。』


地図
千代田区神田淡路町2あたり

所在地:千代田区神田淡路町2


しん坂と呼ぶそうです。
場所は、幽霊坂(NO.208)と並行な一本南側の道を東へと下っていて、坂上は本郷通りに面している坂道です。


新坂(NO.210)1
写真1

まずは坂上からのものです。
とりあえず、ここからすでに坂下のほうまで見えていて、両サイドには高層ビルが建ち道路に対してセットバックしているので、まだこのあたりは平坦で見た目にも広く見えるのでなんとなく殺風景な感じの道路(坂道)という風に見えなくもないですかね。
しかもこの道路、標識見えてますけど一方通行になってましたよ。
なんというかこれぐらいの道幅で両側通行のところはたくさんありそうですけど、やっぱり土地柄なんでしょうかね。


新坂(NO.210)2
写真2

とりあえず写真1でフレームに収まりそうになかったので、思わず空を見上げてぱちりと。


新坂(NO.210)3
写真3

そして、道路が傾斜しているあたりまでやってきて坂下のほうを見てみました。
ちょっと変わった雰囲気のする坂道といえばそんな感じもしなくもないですかね。
そんでもってやっぱりここも一通の道路でした。
なので車でこの坂道を通るときは下ることしかできません。(笑)

またここには写真3でも見えているとおり、いつもの坂の碑があり、
『この坂を新坂といいます。『東京名所図会』には“新坂は維新の後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂と紅梅坂の間、阿部主計頭の屋敷にして、此処より駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の練塀を道幅だけ取毀ちて道路を開きたり。故に俗呼んで新坂といへり”とかかれています。維新の後とのみかかれその年月は不明です。』
とありました。

ちなみに、説明には維新後にできた坂と書いてあったので、古地図でも確認してみたのですけど、やはりそのとおりなのか江戸時代にはこの坂道に該当しそうな道はありませんでした。


新坂(NO.210)4
写真4

そして、あっというまに坂下までやってきました。
こうして坂上のほうを眺めてみると、以外と高低差あったんですね。
見た感じでは建物一階分くらいですかね。

でもこの北側(右側)を並走している幽霊坂(NO.208)や淡路坂(NO.209)はこれどころの高低差ではないはずので、なんだか不思議な感じですね。

あと、坂の右側には「淡路公園」という公園があったそうですが、今は「淡路広場」という名(千代田区のHPによると)になっているようです。
ただ今はオレンジというかピンクというかそれ系の色の建物が建っているみたいで、地図やら航空写真をみるかぎりでもどこが「淡路広場」なのかまではちょっとわかりませんでした。


地図
千代田区神田淡路町2

所在地:千代田区神田淡路町2


あわじ坂とよぶそうで、別名で相生坂、大坂、一口坂(いもあらい坂)ともいうそうです。
場所はまさにJR御茶ノ水駅から目と鼻の先にある聖橋の南端が淡路坂の坂上あたりになります。


淡路坂(NO.209)1
写真1

坂上あたりに様子です。
このあたりはJR御茶ノ水駅の東口にあたる聖橋口改札をでるとすぐに見えるところなので、ああここね!とわかる方もいるかもしれませんね。
ちょうどすぐ左手はJRの線路で、坂は秋葉原のほうに向かって下っていっています。


淡路坂(NO.209)2
写真2

ちょっと横をみると、すぐ左手前には聖橋、線路の向こうには湯島聖堂もちらりと見えています。


淡路坂(NO.209)3
写真3

さらにその横には、なんとも神秘的な感じの巨木がでんとありました。
またこの巨木には、写真では手前の標識に隠れてちょっと見えていないですけど、簡素な木版案内板が設置してあって「太田姫神社」というタイトルで説明が書かれていました。
せっかくなのでそのまま抜粋してみますね。
『太田姫神社
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された。昭和六年(一九三一)総武線開通に伴い、現在の駿河台下に移る。尚鐡道(「甲武線」中央線の前進)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に堀幅を減じない中で商賣を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鐡道史より)
この椋の木 落葉睫據_屬藁弌ー造惑算隋

あとついでなので、写真3でもみえている坂の碑も抜粋しておきます。
『この坂を淡路坂といいます。この坂には、相生坂、大坂、一口坂などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。
一口坂については太田姫稲荷が通称一口稲荷といったためとされています。大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。』

てなわけで、このふたつの案内板でこのあたりのだいたいの歴史の流れみたなものもおわかりいただけたかと思いますので、僕がこまかく説明することはほとんどありませんが、ただひとつ気になったのは、この案内板から推測するとやっぱりかつての太田姫神社は、今の御茶ノ水駅(聖橋の下)があるあたりにあったのかもしれないですけど、こればかりはもうすこしこまかく調べてみないとわかりません。

ただ、「鐡道」と書いて「てつどう」って読むのにはちょっと驚いたかもです。(そっちですか・・・・。)


淡路坂(NO.209)4
写真4

では坂道に話はもどりまして、こちらは坂上からの眺めです。
このあたりからやっと勾配がつく感じでした。
かなりのハイレベルな坂風景といえるかもですね。
坂の高低差もかなりのもので、空も広く見えて、線路側に電線電柱がないのでJR総武線と中央線が合流している珍しい高低差の様子も坂下のうほうでみれますしね。


淡路坂(NO.209)5
写真5

今度はすこし坂を下り、坂上のほうを見たものです。
このあたりは、道の両側の樹木や草木に元気があってけっこう目に飛び込んできました。
遠くには駅前の新御茶ノ水ビルの高層ビルがでんと見えています。
あとは坂の左側が工事中なのでもしかしたら、なにかまた大きなビルが建つのかもしれないですね。


淡路坂(NO.209)6
写真6

そいでもって、歩いていると坂の途中でちょうど中央線の列車がガタンゴトンと走っていたので思わずぱちりと。
これまた坂道風景としてはかなりのレア度かもです。
しかも、手前の柵、現地では気がつかなかったんですが、なにやら鳥が休憩できないように、なかなか味のあるガウディー風のギザギザが最上部についていてなかなか面白いです。


淡路坂(NO.209)7
写真7

またちょっと坂を下った場所では、こんな写真も撮れてしまいました。
これは踏切からのものとかではないですよ。
こうしてみると左側の坂の勾配具合やら地形と線路の関係やらもあわせて見れていろいろと参考になります。


淡路坂(NO.209)8
写真8

さらに坂をくだり、一気に坂下あたりまでやってきて、坂下のほうを見てみました。
もうこのあたりまでくると平地になっていて、さっきまで真下にみえていた線路も頭上にあるという具合でした。


淡路坂(NO.209)9
写真9

せっかくなので、坂下から見た淡路坂の景色などでも。
このあたりまでくると普通の坂道という感じですかね。


淡路坂(NO.209)10
写真10

でも、写真9の右側あたりにはこんな場所があったりします。
都内ではよくありがちな高架下のお店なのですけど、よくよくじっとみてみると高架自体のレンガやらその他もろもろのつくりがなんともレトロでいろんな素材がまざってておもしろい感じです。


淡路坂(NO.209)11
写真11

(今回はかなり長めですのでまだまだ続きますよ。)
こちらは、坂下の外堀通に面したあたりの高架のものです。
たしかブラタモリでも(ここだったかどうかは憶えてないですけど)似たようなつくりの高架の話が取り上げられたので知っているかたもいるかもですが、かなり古いつくりで新旧いろんな構造やら素材やらが混じりあって電車の高架がつくられていました。
ここから右側が橋になっていて緑の部分は見てのとおり新しめの鉄のようですが、左側の部分は時代を感じるレンガやら石が綺麗に配置されてますね。
しかもこのレンガ、今の時代ならハリボテ扱いにするのかもしれないですけど、たしか本物のレンガを組んで組み建てているんだったと思います。(かなりあやふやな記憶なので間違っていたらごめんなさい。)


淡路坂(NO.209)12
写真12

さらに下見ると、奇妙な場所がまたひとつ。
柵柵風景ですかね。(笑)
雑草まで元気に生い茂っていたり、左側にはこれまた坂の碑があったり。。
あっ、そうそう。
そういえば、ここの坂の碑。
坂上にあったものとちょっと文章が違っていたんですよ。
『この坂を淡路坂といいます。この坂には、相生坂、大坂、一口坂などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、これが町名、坂名の由来といわれます。一口坂は、太田姫稲荷が一口稲荷と称したためです。』
上の文と比べてもらえればわかると思いますけど、やはりこちらは平成二十二年一月に補修とのことで碑も新しくて簡易説明といった感じみたいでした。


淡路坂(NO.209)13
写真13

というわけで最後の写真です。
実は、写真12の場所から右にちょこっとあるくと昌平橋という知る人ぞ知る橋があり、そこからみたのがこの風景です。
運河をさけてつくられた変わったつくりの橋脚やら、左側のレンガつくりの線路やらなかなかおもしろい風景がひろがっていました。


淡路坂(NO.209)14
昌平橋聖堂神田川

ちなみにこちらは写真13とだいたい同じ位置から、広重さんが描いた江戸時代の浮世絵です。
手前の山のあたりが、今回の淡路坂で、奥の坂が相生坂(NO.161)ということみたいです。
またこの絵のとおり江戸時代にはすでにこんな景色になっていたようですが、対岸の相生坂(NO.161)ともに今回の淡路坂を別名で相生坂とよぶことからも、この二つの坂はもともとひとつの台地で、それを割ってできた場所なんて「江戸東京坂道事典」の説もあるとおり、江戸時代以前はひとつの坂道だったのかもしれないですね。


地図
千代田区神田淡路町2

所在地:千代田区神田駿河台4あたり


ゆうれい坂よぶそうで、別名で光感寺坂や埃坂ともいうそうです。
場所は前回同様御茶ノ水駅から徒歩数分の場所にあり、坂上のほうが本郷通りに面していて、かつては紅梅坂(NO.207)とひと続きになっていた坂のようですが、現在は本郷通りによって坂道は分断されて名称も違うふたつの坂道があるということになっているようです。


幽霊坂(NO.208)1
写真1

まずは坂上からの眺めです。
地図でみると紅梅坂(NO.207)と直線上につながっている小道もあるのですが、今回の幽霊坂はかくっと90度左に曲がってもういちど90度右にまがるとこの坂上あたりの場所にやってきます。
みたところ結構な高低差ぐあいですが、いちおうちらりとですけど、坂下の様子もうかがえます。
しかも坂上と坂下のほうでビル建設の工事をやっていたので、けっこう殺風景な景色がひろがっていました。


幽霊坂(NO.208)2
写真2

すこし坂を下って坂上のほうを見てみました。
右側はみごとに工事の仮囲いに囲まれていてある意味不思議な景色がひろがっていたかもです。

そして、坂上にちらりと見えてますけど、ここにもいつもの坂の碑があり『この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形となりました。「東京名所図会」には、”紅梅坂は””往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。』
とありました。
別名で光感寺坂ともいうとありますが、これはその名のとおりかつてここに光感寺というお寺があったからだと思いますけど、古地図でみた限りではそのようなお寺はありませんでした。


幽霊坂(NO.208)3
写真3

さらに坂を下り、坂下のほうを眺めたものです。
両サイドで工事していたので、まだビルが道路にせまってなくて幽霊坂と呼ぶ坂にしては明るい感じかもですね。
どちらかといえば光感寺坂というほうがしっくりくる感じでした。
あとは接触を防ぐためだろうとは思いますけど、上空の電線に黄色いカバーが巻きつけられている光景はなんとも不思議な感じでしたよ。


幽霊坂(NO.208)4
写真4

そいでやっと坂下あたりまでやってきました。
両サイドにビルがせまってきてなくていちおうは開けた感じはあるんですけど、この不思議などんより感はなんですかね。
あと遠くにでんと大きく見えている高層ビルは、紅梅坂(NO.207)に隣接している新御茶ノ水ビルです。


幽霊坂(NO.208)5
写真5

最後は、写真4でもちらりと左側の工事中の仮囲いにも見えていますけど、写真4のあたりからさらに坂下のほうへ向かう側に、こんな感じで数個の浮世絵がプリントされていました。
すべてお見せしてもいいんですけど、とりあえずはこの一枚でも。

というわけで、幽霊坂の話はこんな具合なのですけど、実はこのあたりの古地図みていて、どうも最近の坂道の名とは違う坂道名が古地図にいくつか記されいて、あれれと思うこともあったんですけど、とりあえずそれについてはおいおい調べていくとして、今日はこんな感じです。

地図
千代田区神田駿河台4あたり

所在地:千代田区神田駿河台4あたり


いやはやなんとも気が付けばこのブログに限っていえば前回から二ヶ月もたってしまいましたが、やっとメインの坂道の話でも。
そしてやっと新しい場所に移動します。。


こうばい坂と呼ぶそうで、別名で幽霊坂や埃(ごみ)坂ともいうそうです。
場所は御茶ノ水駅から徒歩数分の場所にあるニコライ堂の北隣を東へ下っている坂道です。


紅梅坂(NO.207)1
写真1

写真1は坂上からの風景です。
もうこの位置からも坂下で接している本郷通りがちらりと見えていますけど、かなり緩やかな、はたまた高低差があまり感じられない坂道でした。
もちろん見てのとおり右側にはかのニコライ堂も見えています。
しかもここから見えるまわりのビル(ビルばかりなんですよ!)なんとなく意匠てきにがんばっているようにもみえますけど、やっぱりニコライ堂の存在感にはかないませんかね。

あとは左のレンガっぽい色したビルが知る人ぞしる井上眼科だそうです。
こちらは、神保町へ行こうというサイトに「またニコライ堂近くの井上眼科で出会った女性に、漱石が恋をしたというエピソードは有名。ちなみに井上眼科は、場所を何回か変えたものの、今でもニコライ堂の隣に健在。」とありました。
まあいちおう雑学程度に。


紅梅坂(NO.207)2
写真2

そいで、写真2はもうすこし坂を下り、さらに坂下のほうを眺めたものです。
正面を横切っている道路が本郷通りで、この道を写真でいうと左のほうにてくてくとちょっとばかし(1、2分)歩くと御茶ノ水駅という立地の場所ですよ。

また手前の標識にじゃまされてちらりとしか見えてないですけど、ここにもいつもの坂の碑があり、
『この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの坂名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形になりました。「東京名所図会」には、”東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり。もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり”とかかれています。』
とありました。
また今度とりあげるんですけど、この坂下には幽霊坂という坂があって、以前はひとつの坂だったようですね。
ただ古地図でみてみるとそれらしき道はないみたいなので江戸時代以降にできた坂道っぽいんですけどね。


紅梅坂(NO.207)3
写真3

そして、坂下までやってきて坂上のほうを見てみました。
ここからだと坂の碑もしっかりみえてますよね。
しかも右側の奥のビル、新御茶ノ水ビルっていうらしいんですけど、写真であらためてみてみるとでかいですね。。
こんな高層ビル駅前にあったっけ?という感じですよ。
そんなわけでこの坂道、勾配具合やらカーブ具合なんかからいったらあまりレベル高くない坂ですけど、やっぱり隣にニコライ堂があるというのが印象深い坂道なのかもしれないですね。
んでもって、よくよく写真みてみると右側のなんだかよくわからない場所にある樹々にくわえてそのほかにも樹々がみられて都心の駅前そばにもかかわらず緑は以外と多いかもです。


紅梅坂(NO.207)4
写真4

あとは以外と坂の碑の中でも赤塗されていてなんだか立派ないでたちのものだったのでめずらしく坂の碑のおひろめです。。(笑)
紅梅の紅から朱色ぽくしてるんですかね?
よくみると平成22年補修とありました。
なのでかなりきれいだったんですね。


紅梅坂(NO.207)5
写真5

そして最後はやっぱりニコライ堂。
もちろん坂の途中で撮ったものです。
ちなみに、江戸東京坂道事典によると、このニコライ堂が建てられた当初は、ドームの上から外国人が皇居を見下ろすのはけしからんと一部新聞が書き立てるような事件もあったそうですよ。


地図
千代田区神田駿河台4あたり

所在地::千代田区千代田1


ばいりん坂とよぶそうです。
場所は、汐見坂(NO.205)の坂下からすこし北側に歩くと、梅林坂の坂下あたりにやってきます。


梅林坂(NO.206)1
写真1

まずは坂下からの様子です。
くねくねとした感じの抜け道というか散歩道というか、ここに梅林坂とかかれた案内板がなければまったく気がつかずに通りぬけてしまいそうな坂道でした。
とにかく梅の木などの緑色率がかなり高めなのがなんとも印象的かもです。


梅林坂(NO.206)2
写真2

どちらの道が梅林坂かという疑問はありますけど、考えようによってはおおきな下り坂の真ん中に梅の木が3本あるというとらえかたもできそうですが、どうでしょ。。
坂下のむこうのほうは大きな樹々があってみえてませんけど、林のむこうは天神濠なる水辺場所があるみたいです。


梅林坂(NO.206)3
写真3

もうすこし坂を上り、坂下のほうを眺めたものです。
このあたりまできてみると、以外と高低差もありそうですね。

また写真でも見えているとおり、途中にさきほどもちらりとでてきた坂道の由来を記した案内板があり、
『梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂です。文明10年(1478年)太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名が付いたといわれています。現在は約50本の紅梅の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。』
と書かれていました。

ちなみにこの案内板にはめったにお目にかかれないこの坂道の英語表記(公式ですよ)が書かれていて、「plum tree slope」となっていましたよ。


梅林坂(NO.206)4
写真4

それから、後ろをふりむいてみると、坂道はこのあたりから大きくカーブしながら上っていっているみたいでした。
道の両サイドには立派な石垣も見えていました。
なのでこのあたりからが本丸の敷地内ということになるんですかね。


梅林坂(NO.206)5
写真5

そして、やっと坂上あたりまでやってきて、坂下のほうを見てみました。
急カーブとともに急勾配な坂道がなんともいえない雰囲気をだしているかもですね。
しかもまわりは緑だらけ(笑)。

あと、最後に江戸東京坂道事典によると、この本が出版された当時は、まだこの皇居内は開放されていなくて位置が確定できなかったらしく、そのかわりにかつての梅林坂の様子を描写した「東京市史・皇居篇第一」なる資料の一文がのせてあったので、とりあえず抜粋して今回はおわりたいと思います。
『「権現様、小田原表より御城へ御移り遊ばされ候節・・・・小坂の上に梅の木を数多植廻し、其内に宮立両者これあるを御覧遊ばされ、道灌は歌人ゆえ天神社を建置きたると仰せにて、残る一社の額を御覧遊ばされ候。・・・・御普請の節、北の丸の内にこれあり候山王の社をば紅葉山へ引移し候様にと仰せつけられ、右両社の跡梅の木あまたこれあり、今以て梅林坂と 申しふれ候なり」と記されている。』


地図
千代田区千代田1

所在地:千代田区千代田1


やっと再開です。
そういうわけで、今回は皇居内坂道散歩の話です。

場所は皇居内の前にとりあげた天守閣跡あたりからみると、南西の方向(とある街の風景(天守閣跡からの眺め)の写真でいえば、2枚目の写真の左側あたり)にあり、地図でみると白鳥濠のちょうど北側に位置していて、北西方面に下っている坂道です。
坂の名は、しおみ坂とよぶそうで、別名で塩見坂ともいうそうです。



汐見坂(NO.205)1
写真1

まずは、写真1です。
天守閣跡のほうからテクテクと歩いてくると、立派な石垣が見えてきます。
高さでいえば3mくらいですかね。
むかしだったらここに門くらいあったかもと想像してしまうようなつくりです。



汐見坂(NO.205)2
写真2

そして、写真1でも奥にちらりと坂上あたりの様子が見えていましたけど、樹々と石垣に囲まれた薄暗い場所をぬけると、一気に視界はひらけて明るく坂下のほうまで見わたせる場所にでてきました。
坂下には武蔵野の雑木林に模した林がひろがり、遠くには大手町あたりの高層ビル群が見えていました。
ちなみにここには坂の案内板もあり(写真1でも見えていますけど)、
『本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。坂の上には、潮見坂門が設けられていました。』
とありました。
ということは、案内板の説明によれば、写真1の場所あたりにはかつて汐見坂門なる門がやっぱりあったということですかね。
あと補足の意味で、いつもお世話になっている“江戸東京坂道事典”の一部を抜粋させていただくと、
『むかしは本丸の上から江戸湾が一望にみえるので汐見坂の坂名がつけられた。“紫の一本”には、「塩見坂、梅林坂の上手御門の内なり、此所より海よく見え、汐のさしくる時は波ただ爰元へ寄るやうなる故塩見坂といふ、今は家居にかくされて見えず」と記され、下町方面が埋立てられて市街となってからは海も遠くなったようである。』
とあり、これと案内板の説明をあわせると、なんとなく当時の様子というか眼下にひろがっていた風景もすこし想像しやすいじゃないんですかね。 



汐見坂(NO.205)3
写真3

次はすこし坂をくだって、坂上のほうを眺めたものです。
よくみると正面+右側の石垣と右奥+左側の石垣のつくりがすこしちがっていましたよ。
これはなにを意味するんでしょう。



汐見坂(NO.205)4
写真4

それで、せっかくなので、だいたい同じ位置より左側のほうをみてみると、なんとも強固そうな石垣とその下にある白鳥濠が見えていました。
もうここまでくると芸術の領域ですかね。人工造形物の。



汐見坂(NO.205)5
写真5

今度は同じく右側の景色なども。
こちらは写真4にくらべると見劣り感が若干ありますけど、それでも圧倒感みたいなものはすごいです。 
まあ、どちらにしてもトマソンてき隙みたいなものはほとんど感じない場所であるのかもなあとも思ってみたり。 



汐見坂(NO.205)6
写真6

あと、写真5でもちらりと見えていますが、なにやらここから見えている石垣のことについての説明が書かれた案内板が設置されていたのでぱちりと一枚。
とにかく説明がいっぱいあってわかりにくいんですけど、どうやらこの石垣はかつてはかなり古びていて損傷もひどかったようなので、最近修復工事がおこなわれたみたいで、その時のことが事細かに書かれているみたいでしたよ。
くわしいことはここでは書きませんけど、以外とじっくり読むとなかなかおもしろかったので、よかったら現地に行ったときにでもどうぞ。



汐見坂(NO.205)7
写真7

そして、最後は坂下からの風景です。
こうしてみると以外と高低差はないようですね。
ただそれ以外はなにもつっこみようがありません・・・。
なんだかすごくかっちりした感じにも見えてきます。


地図
千代田区千代田1

所在地:台東区池之端4


しみず坂とよぶそうで、別名で暗闇坂とも言うそうです。
場所は上野動物園の西隣を都立上野高校に向かって上る坂道です。



清水坂(NO.204)1
写真1

坂下からの様子です。
右側が上野動物園の敷地ということもあり、樹木が元気よく歩道(むりやり区切られた感もなくなはないですけど)にとびだしていました。
舗装もなかなか行き届いている感じですかね。
坂上のほうは道が大きくカーブしていて見えていませんでした。

ちなみにここにはいつもの坂の碑があり、
『坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。』
とありました。



清水坂(NO.204)2
写真2

さらに坂上のほうに行きカーブに行き着いたあたりでぱちりと一枚。
なかなかよい具合にカーブしながら上っている坂道だなあと思いつつもまわりも見渡すと、右側の上野動物園内の樹木もさることながら、左側にも大きな樹木があり、なんともおおきく道にとびだしていました。



清水坂(NO.204)3
写真3

写真2を見て、「ちょっと待って!」と思ったかた。
正解ですよ。(笑)
写真3は、写真2の写真のさらに左側のものです。
ブラタモリでも紹介された建物ですけど、かなり異様な雰囲気をかもしだしていますよね。
今は倉庫として使われているようです。
しばらくはこのまま残っていてほしいかもです。
あとは手前のコンクリの門やら塀が傷だらけというのもなかなか現実味があるというかなんというか。
ほんとは門の両サイドは左右対称のつくりだったのだろうとと思いますけど、今はおそらく車がここにぶつかったかなにかで右上のほうの部分のさきっちょがもぎとられていますね。
なんだか生生しいというかなんというか。。



清水坂(NO.204)4
写真4

そして、坂上のほうまでやってきて坂下のほうを眺めてみました。
ちょっとここから見る分には道がカーブしていたりしていることもあって高低差具合がわかりにくいですかね。
なんだかテーマパーク内にありそうなくらい緑と擁壁や塀に囲まれた道という感じがしなくもないです。
ただかつては別名で暗闇坂と呼ばれていたくらいですから、もっと樹木が生い茂っていて暗い雰囲気だったのかもしれないですね。

あと最後に、円地文子なる小説家が「妖」なる短編小説の中でこの坂道の描写をしており、その文が、江戸東京坂道事典に抜粋されていたので、すこしのせておきますね。
『その静かな坂は裾の方で振袖の丸みのように鷹揚なカーブを見せ、右手に樹木の多い高土手を抱えたまま、緩やかな勾配で高台の方へ延びて上っていた。片側には板塀やコンクリート塀がつづいていたが、塀の裏側は更に急な斜面に雪崩込んで崖下の家々は二階の縁がようやく坂の面と並行する低さだった。言わば坂は都心にしては広い丘陵地帯の一辺を縁どって低地の人家との間に境界をなしている形である。遠い昔には恐らく台地の一斜面に過ぎなかったのが、いつか中腹の帯のようにひろがった道が人や馬の踏み固めるまゝに自然の切通しになったのであろうか。(略)』
要は、当時も今とおなじく上野動物園側が一番高い位置にあってそこからなだらかな斜面になっており、この描写はいちおう坂下から坂上のほうをみる視点で書かれていて、今の清水坂は左側の家々とはだいたい同じ地面のレベル(高さ)にあるようにみえますけど、当時はさらに高低差があってちょうど踊り場のような感じで清水坂があったということを書いているようにおもうのですけど、どうでしょうかね。

地図
台東区池之端4

所在地:台東区池之端4


さんだん坂とよぶそうです。
場所は上野公園内にある上野動物園の北西側徒歩数分の場所にあり、
言問通りの南側を通りと同じく平行に走っている坂道です。



三段坂(NO.203)1


坂上からの風景です。
すでに坂上からも坂下が見えているほど距離の短い坂道でした。
坂の碑がなければ、ほんとうに普通の住宅街にあるちょっとゆるやかな高低差のある道路といった感じしたよ。
ただよくみると三段坂という名前がつけられているとおり、坂上から1段さがって2段下がって3段下がると坂下なのねという感じの高低差になっていたりします。
ちょっとわかりにくいですけどね。。

というわけでここにも坂の碑があったわけなので、いつものようにそのまま抜粋してみますと、
『「台東区史」はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名、この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。』
とありました。
ということはこの坂道がつくられたか名前がきちんとつけられたのは120年ほど前ということになりますかね。
いわゆる明治の坂道ですね。



三段坂(NO.203)2


そして一気に坂下までやってきて坂上の方を眺めてみました。
なんというか奥に見えている坂上よりなんとなく高い位置にありそうな大きなマンションが見えているあたりがなんとも都内の坂道っぽい感じですかね。
しかも写真をよく眺めていると奇跡がおきていました!
写真をよくみてください。
まずホップともいうべき1段目の、階段でいう踊り場の部分に近所の女子学生さんらしき人が見えています。
次にステップといってもいい2段目の場所には、なんと車がたまたまここを通ったのか駐車していたのか当時の記憶はあいまいですけど、とにかく女子学生さんよりすこし高い位置に見えています。
最後にジャンプ!といってもいい3段目の坂上にあたる一番高い場所がちょうど手前の車のおかげでわかりやすく見えていますよね。
これが奇跡といわずしてなんといえましょうか。(笑)
おかげで三段坂の名前の由来にもなっているであろう高低差のうねりみたいなものがすごくわかりやすく見えるかもですね。
とにかく現地ではとくにこれをねらったわけではなかったので、自分でも今回あらためてじっくりと眺めてみてちょっとびっくりという感じの写真でした。


地図
台東区池之端4

所在地:台東区根岸2あたり


おいんでん坂(もしくはごいんでん坂)とよぶそうで、御院殿坂とも書くそうです。
場所は、前回の寛永寺坂(NO.201)のもうすこし北側にある谷中霊園の中に坂上がありそこから北東に向かってくだる坂道です。



御隠殿坂(NO.202)1


坂上あたりからの風景です。
左側に坂の碑もちらりとみえているとおり、ここは御隠殿坂とよばれる坂道なのですけど、なんていうかまわりはゲゲゲの鬼太郎でも近くにでてきそうな雰囲気の場所で整備もあまり行き届いていないようでした。しかも僕のすぐそばおよび背後は谷中霊園の敷地なので当たり前ですけどお墓がたくさんあって暗くなってからここを歩くにはちょっと勇気がいるかもなあという感じでした。
道は二手に分かれてますけど、普通は右側の道を通ります。そして奥には陸橋が架かっていて、その下をJRが走っています。

というわけで、ここには上記したようにいつもの坂の碑があり、
『明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』
とありました。



御隠殿坂(NO.202)2


今度は陸橋の上から坂上のほうを眺めてみました。
この橋は御隠殿橋とよばれている(現地未確認なんですけどね・・)らしいのですが、かつての御隠殿坂はこの橋の西わきを根岸へ下る坂道だったそうですよ。(@東京坂道事典)
ということは、①の写真の左側の道のほうがかっての坂道のなごりなのかもしれないですね。

また坂下あたりは根岸の里とよばれて江戸時代から風流人や文人の好んで住むところであったらしく、明治時代にあっては正岡子規が竹の里山人と号して住んでいたことでも有名だったそうですよ。(@東京坂道事典)

そしてあともうひとつ、
『そのころのことを書いた高浜虚子の私小説「柿二つ」には子規との交際を次のように寸描する。
   知人の間に雑誌発行の事を通知旁々寄稿を依頼する手紙は大概彼
   から出された。二人は毎日のやうに手紙を往復した。手紙で間に合は
   ぬことは彼の病床で協議された。Kは三日にあげず御隠殿の坂を下り
   て来た。上野の森には野分が吹いてゐた。暑さが今日の野分で一時
   に退くであらうと誰もが心頼みにしてゐた。
      野分して蝉の少なき朝かな
   と彼は折節の即景を句にした。』
と東京坂道事典にあったのでせっかくなのでそのまま抜粋してみました。



御隠殿坂(NO.202)3


最後は(たぶん)御隠殿橋とよばれている陸橋より日暮里駅方方面を眺めたものです。
おそらくかつての御隠殿坂はこのすぐ手前あたりを左から右に下っていたのかもしれないですね。
あとはとにかく目の前にひろがっているJRの線路の数が洒落になってないのがものすごく気になりましたよ。。


地図
台東区根岸2あたり

所在地:台東区上野桜木1

かんえいじ坂とよぶそうです。
場所は上野公園の北側の言問通りというすこし変わった名前の道路とかぶっている坂道で、坂上のすぐ南には徳川将軍の菩提寺としても有名な寛永寺があります。



寛永寺坂(NO.201)1

坂下あたりの様子です。
みた感じはふつうの道路といった感じで勾配具合もかなりゆるやかでした。
このすぐそば(写真後方)には、この坂道から名前をとったと思われる寛永寺橋がJRの上をまたいでいたりします。



寛永寺坂(NO.201)2

もうすこし坂を上り坂下のほうを眺めたものです。
なんとなーく下っている感じがわかりますかね。
坂下あたりにある寛永寺橋は奥の右にカーブしている道のアイストップの位置にあります。
微妙に橋の上の白いガードレールや柵がなんとか見えている程度ですけどわかりますかね。。
ちなみに江戸東京坂道事典に、佐多稲子なる小説家が書いたこのあたりのかつての風景描写の一文が抜粋されていましたのでせっかくなのでちょっとのせてみますね。
『佐多稲子の「私の東京地図」は寛永寺陸橋が架設(昭和八年)してまもない時分のことを次のように書いている。
(略)寛永寺坂は夜目にもしろじろと広く、ゆるやかに登ってゐる。私たちは寛永寺坂を登らずにその下から右へ、これも日暮里の、出来上がったばかりの改正道路へ折れてゆくのだが、寛永寺坂の近代風に出来がったのもこのころで、坂と橋とをかねてゆるやかに登リながらひろびろとしカーブして、信越線、常磐線、何々線と数本の通ってゐる上を上野の山つづきの町へと渡ってゐるのである。』
このころの寛永寺陸橋のさらにJRをこえた北東側のあたりに、今と同じく立派な高架橋があったかどうか不明ですけど、この描写ではおそらくJR(寛永寺橋)をこえた北東側の部分までを寛永寺坂ととらえているみたいですね。



寛永寺坂(NO.201)3

そしてふと気がつくと坂上あたりまできていました。
とにかく写真うつりは普通な坂道ですね。



寛永寺坂(NO.201)4

そんな具合で坂の途中からはほぼ平坦な道だったので、④の写真のような桜並木のある道にでくわすまではほんとどこが坂上あたりなんだろうという感じでした。
この奥には谷中霊園があり、徳川慶喜の墓所もすぐ近くにあるそうです。
なので、今回は写真におさめてないですけど、この背後のほうに寛永寺があるということになります。
(というよりここの寛永寺があの有名な寛永寺だったなんて、帰ってからきちんと調べるまですっかり忘れていたので、写真におさめてなかっただけなんですけどね。。〈汗〉)

ちなみにここには、いつもの坂の碑があり、
『大正年間(一九一二〜二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。』
とありました。


地図
台東区上野桜木1


追記(2011.5.8):
地震前に情報いただいていたんですけど、地震なんかがあって掲載忘れてましたが、とあるかたから投稿メールにて寛永寺坂駅についての話をいただいたので追記でのせておきます。
そのかたのメールによれば、なんと3枚目の写真の左手の青い壁(トタン?)のある建物のさらに左に見えているワゴン車の奥の建物はかつては寛永寺坂駅の駅舎だった建物だそうですよ。
(ちょっと僕の写真ではわかりづらいですけどね。)
寛永寺坂駅についてのくわしいことは、Wikipediaのページにのっているみたいですので、よかったらどうぞ。
寛永寺坂駅@Wikipedia

所在地:台東区上野公園18あたり

しん坂とよぶそうで、別名で鴬坂や根岸坂とよばれています。
ちなみに「鴬」は「うぐいす」とよびますけど、坂の碑には「鴬谷」と書いてあり近くのJRの駅名は「鶯谷」という漢字になっていたりします。
場所は上野公園の北東にあり、坂の途中にはJRの鶯谷駅の改札口もある坂道です。



新坂(NO.200)1


坂上からの様子です。
すぐうしろには上野公園があり、お寺も多い場所がらなこともあってかかなり落ち着いた雰囲気でした。
また坂の左側が霊園、右側が中学校というのもなんだかいろいろと考えてしまいますかね。
そんなこともあってか右側には背の高めの柵のような手摺が設けられているのに加え、霊園側にも歩道がきちんと設けられているなど、あらためて写真をみているとお年寄りと子供にやさしい坂道だなあと思ってみたり。
あとは右側(中学校側)の樹々がなかなかよい感じで道にせりだしていますかね。



新坂(NO.200)2


坂の途中からぱちりと。
霊園のあたりはぽっかりと空がひらけていました。
どこぞやの庭園と間違いそうな感じですけど、手前の塀のむこうはお墓ですよ。。



新坂(NO.200)3


そしてもうすこし坂を下ると、鶯谷駅の改札口が見えていました
なんとなく懐かしい感じのたたずまいですね。
しかも駅舎の屋根が瓦。
ありそうで以外となさそうな感じかもですね。



新坂(NO.200)4


さらに坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
坂道はまだ続きますが、ここは見てのとおり橋の上です。
なのでこの下をJRが走っています。



新坂(NO.200)5


今度はだいたい同じ位置より坂下のほうを見てみました。(写真⑤)
このあたりから新坂は勾配具合がちょっと急になっていく感じでした。
ひとつ気になったのは、道路と歩道が完全に分離されているのは見ての通りですけど、その間に緑色のフェンスがつけられているんですよね。おそらく転落防止のためかとおもわれますけど、そうなれば歩道の線路側にもなにかしらついていると思えばそうでもないし・・・。
これはなんなんでしょう?



新坂(NO.200)6


最後は坂下の様子です。
なんとなく車道の部分だけあとで増設されたっぽい感じがぷんぷんしますかね。
おかげで高低差具合がわかりやすいかもですね。
あと、この坂下一帯は、(江戸東京坂道事典によると)鶯の名所として有名だったらしくそのため鶯谷と呼ばれていたらしく、輪王寺の宮様がわざわざ京都からとりよせた鶯をこの一帯の林に放ったという伝えもあるらしいのですけど、現在は写真⑥のように見る影はないみたいですね。(ただ駅名としては残ってますけど。)


ちなみにこの坂道にははじめにもすこし書いたとおりいつもの坂の碑があり、
『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鴬谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』
とありました。

あと、最後の最後にもうひとつ。(汗)
(これまた江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど。)
『坂上の徳川霊廟のあたりは根岸下谷をこえて眺望はるかにひらけていた。そして花見のころには上野全山の桜花が見わたせるというので、下谷方面からの客でこの坂道は大いににぎわい、坂上のほうには茶店が軒をつらねた時代があったというが、いまはそのおもかげはなく自動車の往復せわしないアスファルトの坂道で、そのわきに一段高く歩道が設けられている。むかしはこの坂下にあった門を新門とよんでいたが、もちろん現在はない。』

とまあ別名で鴬坂ともいい坂上には上野公園もあるので、どんな坂道なんだろう?という期待もあったんですけど、実際はいろんな要素(橋やら駅そのたもろもろですかね)がおりまざった奇妙な感じの坂道だったかもですよ。


地図
台東区上野公園18あたり

あけましておめでとうございます。
ということで今回は上野公園界隈の坂道話の続きです。


所在地:台東区上野7

くるま坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の東側あたりにあり前回の信濃坂(NO.198)などでもでてきた両大師橋と坂上でつながっている坂道です。



車坂(NO.199)1

まずは坂上からの風景です。
坂上からみた感じはなんてことない高低差のある車道というか坂道ですかね。
ただ歩道はあまり広くなくて、さらにここが名前のついた坂道というにはなんだかちょっと違和感があるかもですね。



車坂(NO.199)2

そして坂の左側にはこんな風景がひろがっています。
写真左側の橋が両大師橋で手前にひろがっているのがJRです。
なので線路の奥に見えているのが上野公園ということになりますかね。



車坂(NO.199)3

すこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
やっぱりここでも坂道自体よりも両サイドの建造物と道とのかかわり具合が気になってしまいましたよ。


車坂(NO.199)4

そしてあっというまに坂を下り、坂下あたりより坂上のほうをみたものです。
こうしてみると距離が長いこともあってなだらかな感じに見えてますけど、坂道自体はけっこうな勾配具合がありました。
あとは手前のぐぐぐと急にカーブして下っている感じが、なんていうかこの上野界隈の雰囲気というよりは東京郊外やら神奈川のほうにありそうな雰囲気で(かなり個人的な思い込みですけどね)、ちょっとした違和感があったかもです。
それと手前の木ですかね。
坂上からの写真をみればわかりやすいですけど、なぜかポツネンと一本だけ植えられていて、しかもかなり元気よく育ってますね。
ここに昔からあったんではないかと妄想してしまうくらいの馴染み感があるかもですね。



車坂(NO.199)5

というわけこれが最後の写真です。
びっくりなことにこれはJRと反対側から車坂を眺めたものなのですよ。
木がじゃまして見えにくですけど、斜めに高架らしきものがあるのが見えていますよね。
よくある高架下の風景ってやつです。
どうりで坂道全体になんだか変な違和感があったというかなんというか・・・。

ただかつての車坂は予想通り今の様子とちがったらしく、江戸東京坂道事典によると、
『本来の車坂は明治一六年に上野駅が建設されるにあたってその敷地となって失われた坂で、文久の江戸図をみると、屏風坂の南にあって下谷車坂町へ下る坂道であった。車坂と車坂門との間を横貫していた道を下寺通りとよび、寛永寺の下寺がたくさん並んでいた。』
とあり、実際のところ、今の車坂は昔と別物の坂道と言ってもいいのかもしれないですよ。


そして最後の最後に(こちらも江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど)、この近くで少女期をすごした樋口一葉の明治24年の日記の抜粋や関連する歌でもどうぞ。
----
車坂下るほど、ここは父君の世にゐ給ひしころ花の折としなければいつもおのれらともなひ給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、昔の春もおかげにうかぶ心地して、

山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ


地図
台東区上野7

所在地:台東区上野公園17


しなの坂と呼ばれていたそうで、こちらもすでになくなってしまった坂道です。
場所は屏風坂(NO.197)のすぐ北側というか両大師橋をはさんですぐ隣あたりにあったようです。

いつもお世話になっている江戸東京坂道事典によれば、
『「新撰東京名所図会」の上野公園之部に「信濃坂 慈眼堂の裏門に在りて下谷坂本へ出る細路なり」とあり、文久の江戸図を見ると、慈眼堂と御霊屋の間から下谷坂本町へ出る坂下門へ続いている。現在の地図でいうと、博物館の東隣にある開山堂(通称両太師)の東北側を上野七丁目へ下る坂だった。』
とあります。

この文章をたよりに地図を見てみると現在の両太師は、学士院の北側にあるのでまあだいたいの場所をメモして行ってみると屏風坂(NO.197)のすぐそばだったというわけですよ。



信濃坂(NO.198)1

まずは両大師橋の上野駅と反対側のほうをメインにぱちりと。
今僕が立っている場所のほうが向こうにみえている上野公園東側のまちの場所よりも高い位置にあるためJRを超えたあたりから人工的にむりやり傾斜をつけて道路が下っているみたいでした。




信濃坂(NO.198)2

そして橋の上から上野公園のほうをみるとわかりやすい高低差のある崖になっていました。
なのでかつての坂道はこの左側から右側へと下る坂道だったのだろうと思いますよ。



信濃坂(NO.198)3

さらに橋をわたり同じく上野公園側のほうを眺めたものです。
奥に見えているのが両太師ですね。
なんとも手前の大規模なJRの線路といい奥に見えているお寺といいなかなかおもしろい風景がひろがっていたかもです。


というわけで、今回はさらりとこんな感じですけど、このあたりのかつてあった坂道と今ある橋とJRと公園の成り立ちの関係はなかなか興味深い関係にあるみたいなので、こんどちかいうちに図書館にでも行って古地図でも見ながらいろいろと検証でもしてみようかなと思いついたので(笑)、またその成果も調べがおわればそのうち(いつになるかは不明ですけど・・・)報告してみようかなと思っていますのでよろしくなりです。


地図
台東区上野公園17

所在地:台東区上野公園7


びょうぶ坂とよぶそうです。
場所は上野駅の北側にあり、かつて上野公園内から東に下っていた坂で現在は残っていません。

ただいつもお世話になっている江戸東京坂道事典には、
『「新撰東京名所図会」公園之部には「屏風坂 慈眼堂の前より下谷へ出るの坂路なり。昔時此所に門を設けたり」としている。現在の地図でいえば学士院の北側を東へ、上野七丁目のほうへ下る坂であったろう』
とあります。

なので、この文をたよりに地図をたどってみると、今も学士院はあるようなので、そのすぐそばの両大師橋なる上野公園から東側の地域へ行くための大きな橋があるのですが、おそらくそのあたりかなと。



屏風坂(NO.197)1

そして、これが両大師橋ですね。
けっこう長くて規模の大きな橋でした。



屏風坂(NO.197)2

それから、橋を渡りながら上野公園やら上野駅が見える場所にてぱちりと。
左奥に見えているのが上野駅で右側には上野公園があります。
おそらくこのあたりに屏風坂があったと思われ、右側から左側に下る坂道だったのではないでしょうかね。

ということで、前にとりあげた桜谷坂(NO.195)もそうでしたが、この上野公園界隈では橋があるところにかつての坂道ありという感じなんですかね。。


地図
台東区上野公園7

所在地:台東区上野公園1

くるま坂と呼ぶそうです。
場所は、前回の桜谷坂(NO.195)からも実は見えていた坂で、坂道好きの方なら、すでに気がついていたかもしれないですけど、かつてあったであろう桜谷坂(NO.195)とはちょうどクロスするようにあり、上野駅の公園口からアメ横方面へと下る坂道です。



車坂(NO.196)1
坂上より

坂上からの眺めです。
改札口から近くアメ横方面へと抜ける道ということもあって歩道は人であふれかえり、車道は車が列をなして信号待ちをしていました。
ちょうど上に見えている橋が桜谷坂(NO.195)でもでてきたパンダ橋です。
どちらかといえば、橋というより変わった形の歩道橋といった感じですかね。



車坂(NO.196)2
坂の途中より

桜谷坂(NO.195)でも似たような写真をのせましたが、微妙に違うアングルでパンダ橋からの車坂の眺めもぱちりと。
こうしてみると車道のほうを無理して歩けばなんとかこの坂道の傾斜具合などを体感できそうですかね。
しかも電柱もないので道の形状もよく見えています。



車坂(NO.196)3
坂の途中より2

次は坂道から一段高いところにある歩道から坂上のほうをみたものです。
上野駅のホームのほうに視線がいきがちですけど、あらためてじっくりみてみると左側の歩道もちょっとづつ傾斜しているみたいですね。


車坂(NO.196)4

坂の途中より3

この時は車が車道に目一杯列をつくっていたので、かなり気後れしましたが、せっかくなので車道も歩きながら坂下のほうをみてみました。



車坂(NO.196)5
坂下より

そして坂下あたりまでやってきました。
この時もいつ車がくるかとあたふたしていたのですが、あらためて写真でじっくりみてみるとなかなかおもしろいところがいっぱいですね。
たとえば、勾配具合はもちろん、上野駅のホームの屋根の白いトラスがなんかいい感じだなあとか、その下の壁というか擁壁が左の立派な石垣風のものに対してやたらと風化していて傷んでいる感じが気になったり、左の歩道が途中で歩道橋になっていたり・・・。



車坂(NO.196)6

最後はこの建物ですかね。
2枚目の写真でも坂下のほうにちらりと見えていましたが、この建物だったら見覚えあるという方も多いんじゃないですかね。
上野公園の崖の一部に埋め込まれるようにたっているのも印象的な感じですけど、個人的にはこの1階に古本屋もあるので、そういうところでも個人的にはすきだなあと。。(でもこういうのばかりが並んでいるのもつかれてしまいますけどね・・・。)


地図
台東区上野公園1

所在地:台東区上野公園1あたり


さくらだに坂と呼ぶそうで、別名でくらやみ坂とよばれたそうで、今はすでになくなってしまった坂道です。
なので今回はかつての坂道を妄想しながら「江戸東京坂道事典」の記述をもとにだいたいのめぼしをつけてぶらりとしてみました。



桜谷坂1

まずはすぐ近くにある上野駅の公園口の改札あたりをぱちりと一枚。
おなじみの風景ですかね。
名前のとおり上野駅から上野公園に直結している改札口です。



桜谷坂2

公園口の改札からすこし南下(一枚目の写真でいえば右側です)するとなにやら屋根がいっぱい並んだ風景が道路のむこうに見えていました。
だいたいご想像のとおりですけど、上野駅の駅舎の屋根ですよ。
なので、このあたりはホームのある位置より一段高い場所にあるようですね。



桜谷坂3

さらに道沿いに南下していくと、パンダ橋なる変わった名前の歩道橋がありました。
ちょっと写真では見えてないですけど、この左側に橋がちゃんとあったりします。



桜谷坂4

それで、今度は橋から上野駅のホームなぞをぱちりと。
もうおわかりかと思いますけど、かつての桜谷坂はこのあたりにあったらしく、おそらく写真の右側から左側へと下る階段坂道だったようですよ。

いちおう江戸東京坂道事典の一文も抜粋しておくとですね、
『現在の公園内の日本芸術院会館と常盤華壇との間をJR上野駅のほうへ下る階段坂であったが、戦後はとり払われた。』
とありました。

ちなみに日本芸術院会館は2枚目の写真の場所のすぐ近く(駅と反対側)にあったりしますよ。

というわけで、もしかすると、このパンダ橋がかつての桜谷坂のなごりを違う形で残した橋だったりして・・・、なんて妄想もしつつ、江戸東京坂道事典の一文をもとに地図を見ながらかつてあった坂道の場所のあたりをぶらりとしてみましたが、今回の坂道の場所はかなりあやふやとも言えるかもしれませんので、そのあたりはあしからず。。


地図(でもつけてみました・・・。笑)
台東区上野公園1あたり

ブログネタ
路上探検 に参加中!
所在地:台東区上野公園4


しのぶ坂と呼ぶそうで、別名で女坂ともいうそうです。
場所は稲荷坂(NO.193)の南側にあり、南へと下る坂道です。



忍坂(NO.194)1
坂上より

坂上からの眺めです。
すぐ右隣に稲荷坂(NO.193)があったりします。
坂のまわりは背の高い樹々に囲まれていたためすこし薄暗い感じですが、実際に歩いている分にはそれほどでもなかったです。


忍坂(NO.194)2
坂の途中より

すこし坂を下り、坂上のほうを見たものです。
よく考えれば上野公園内にある坂道なので木がたくさんあるのは当たり前なんですよね。



忍坂(NO.194)3

一枚目の写真でもなんとなく見えていましたが、花園稲荷神社への出入口がもうひとつここにありました。
(なんか写真の旗に日にちが書かれてますけど、撮影した日にちとはちがいますので、あしからず。。)



忍坂(NO.194)4

それでこちらもすぐ隣にあったのでパチリと一枚。
こちらは五条天神社への入口です。
こちらのほうが広々としていて、立派な鳥居と樹々の混ざり具合がなんかいい感じでした。



忍坂(NO.194)5
坂の途中より2

そして、同じ立ち位置より坂上の方を見てみました。
なんだかよくわからないですけど、違う神社への入口が隣あっているというのも変な感じですね。
坂道自体はここからけっこうな割合でカーブしながら下っていきます。



忍坂(NO.194)6
坂の途中より3

今度は坂下の方を眺めてみました。
微妙な具合にS字を描いているのがわかりますかね?
しかも、左側にも、一段高い位置に道らしきものが見えていました。
おそらく坂道側が車メインで、左の道が人のためという分け方だとは思いますけど、僕が撮影している間はそこを歩いている人はほとんどいませんした。
あと、坂下あたり(道路の向こう側)にも大きな樹々があって見えていないですけど、そのむこうには不忍池があるんですよ。



忍坂(NO.194)7<
坂下より

やっとこ坂下までおりてきました。
さっき微妙なS字と言いましたけど、ここからみるとけっこうな具合のS字カーブだったんですね。(汗)

ちなみにここにはいつもの坂の碑はなかったです。
ただ江戸東京坂道事典によると、このあたりは以前、忍が岡とよばれていて(いまはないと思います。たぶん。。)、その地名がこの坂道の名前のおこりであるということみたいです。
寛永寺が建立された当時の東照宮のところから黒門口に至る間のことを忍が岡とよんだそうで、もともとは上野の総称でもあったらしいですよ。


地図
台東区上野公園4

ブログネタ
行った場所や気になる場所 に参加中!
所在地:台東区上野公園4

いなり坂と呼ぶそうです。
場所は、これまた上野公園内にあり、清水坂(NO.192)の北側にある花園稲荷神社の境内にある階段坂道です。



稲荷坂(NO.193)1
坂上より

公園側からの眺めです。
手前には石の、奥には鮮やかな赤の木製、鉄?(確認してないのでわかりませんけど・・・)の鳥居が見えていました。
いわゆる参道ですかね。
でもここが稲荷坂だったりします。。



稲荷坂(NO.193)2
坂の途中より

もうちょっと奥に入り、坂下のほうを見てみました。
このあたりまでは平坦な道で、もうちょっとすると階段になり、そのむこうの方には本殿も見えていました。
そういえば、階段をおりた先に本殿があるというのもなかなか珍しいつくりかもですね。
ふつうは階段を上った先にあるような気が・・・。



稲荷坂(NO.193)3
坂の途中より2

もうすこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
小さな子供目線でぱちりと。
赤の鳥居の連なり具合がいい感じです。



稲荷坂(NO.193)4
坂下より

そして一気に坂下まできてみました。
幅のせまい道にまわりの樹々がなかなか印象的だったかもです。
こうして見てみると、坂道自体けっこうくねくねしていたみたいですね。

ちなみにここにはいつもの坂の碑があり、
『花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(一七三二)の『江戸砂子』にその名がみえ、明治二十九年(一八九六)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。』
とありました。

なので、この坂道、かなり昔からあるみたいですね。



稲荷坂(NO.193)5

というわけ、最後はすぐ後ろにあった稲荷稲荷神社の本殿のお姿でも。

パンパン。。(笑)


地図
台東区上野公園4

ブログネタ
街写真 に参加中!
住所:台東区上野公園1

きよみず坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の園内にあり、西郷隆盛像の北側、そして園内の清水観音堂のすぐ南隣にある階段坂道です。


清水坂(NO.192)1
坂下より

坂下からの眺めです。
見てのとおりかなり短めの階段坂道で、すでに坂上まで見渡せて、その左側には清水観音堂の一部が見えていたりします。


清水坂(NO.192)2
坂上より

そして一気に坂上までやってきて坂下のほうを見てみました。
おそらく高低差は一階半から二階分くらいはあるんじゃないですかね。

また坂下のさらに奥(というかさらに坂下方面)のほうを見ると不忍池がちらりと見えていたりします。
なのでここからでも不忍池が見えるはずなんですけど、今回は木々にさえぎられて見えていませんでした。

また写真でも見えているとおり、ここにはいつもの坂の碑があり、
『この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(一六三一)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。』
とありました。



清水坂(NO.192)3
清水観音堂より

せっかくなので、すぐ隣にあった清水観音堂の舞台もあわせて清水坂をバックにぱちりと一枚。
この時は上記のとおり右側の木々がうっそうと茂っていたためあまり見えませんでしたが、本来(かつて?)は清水の舞台を模したこの場所から琵琶湖を模したといわれる不忍池が一望できたため、徳川時代から観光の名所として有名だったようですよ。


清水坂(NO.192)4

そんなわけで、最後は清水観音堂の舞台からの清水坂の眺めなど。

清水の坂登リゆく日傘かな  子規   

(↑@江戸東京坂道事典)


地図
台東区上野公園1

ブログネタ
路上探検 に参加中!
今回はその1の続きです。
そんなわけで坂の中腹より。



道玄坂(NO.191)その2_1

前回最後の場所よりさらに坂上のほうへ上り、坂下のほうを眺めたものです。
もうこのあたりまでくると、繁華街度はうすれて、坂下と比べるとはるかに落ち着いた雰囲気になってきているようでした。

あと、ちょうど街路樹がきれているあたりの奥のほうにはちらりと渋谷マークシティーの高層ビルが見えていたりしますよ。



道玄坂(NO.191)その2_2

せっかくなので坂道側から、ちょうどマークシティーがよく見える位置でぱちりと一枚。
個人的には、ビル足元にあるマークシティーの駐車場にいくためのスロープが坂道に見えてきてしかたないんですけどね。(笑)

それはさておき、なんというか、渋谷駅まえあたりでは、アイレベルで意識しないでちらりとでもこのビルが見える場所は、あまりないと思われるわけで(意識して見上げればみえるところはありますけど)、そういう意味では「マークシティー」ときくと、名前のイメージやら中のお店や会社なんかのイメージを強く思い描くビルかもしれないかなあと思ってみたり。



道玄坂(NO.191)その2_3

そして、よくみると駐車場へ行くためのスロープの左隣にこんな青系オブジェ(龍というか蛇というかうねりというべきかわかりませんけどね)の通路がありましたよ。
誰がデザインしたかまではさらりと検索しただけではわからなかったのですけど、こういうオブジェといえば、アート作品をみんなに見てもらおうという意図みたいなのが、まあメインなねらいだとおもいますけど、実は(話すと長くなるのであれですけど)、排除系オブジェ(詳しく知りたい方は「過防備都市」なる本をパラリと読んでみてくださいな。)なんてのもあるみたいで、以外といろんな意味というか役割を与えられている場合も多いみたいですね。
(ここのオブジェもそうなのかどうかはいまのところ不明です。)



道玄坂(NO.191)その2_4

あと、このそばに(2枚目の写真の左下に見えてますよ)は、なんとも謎めいた“道玄坂道供養碑”なる石碑やら坂にまつわる案内説明の案内板がありました。
なので、その説明文もせっかくなので載せてみますね。

まずは樋口清之という学者の文が刻まれた石碑のほうには、
『渋谷道玄坂
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。 』
と書かれていました。

それと、もうひとつは与謝野晶子の歌碑なるものもありました。
『  母遠うて瞳したしき西の山 
   相模か知らず雨雲かゝる

 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三五年(一九〇二)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。 』

ウィキペディアの道玄坂のページや上の樋口清之の文にもあるとおり道玄坂と関わりのある文学作品はたくさんあるみたいなのに、なぜ与謝野晶子の作品だけが立派な案内板に書かれているのかは不明ですけど、なにか意味があるんでしょうかね。

ちなみに、いつもの坂の木碑もこのすぐそばにあって、(汗)
『江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。』
とありました。



道玄坂(NO.191)その2_5

そんなわけで、やっと坂上あたりまでやってきました。
写真はさらに坂上のほうを見たもので、246号と首都高速の高架が見えていたりします。

あと、地図を見れば、一目でわかるんですけど、写真右側のほうが、これまた知る人ぞしる円山町だったりしますよ。

そして、ひさしぶりにアースダイバーをぱらぱらと読みなおしてみると、渋谷はまずこの坂の中腹あたりから発展したそうで、ひとつがこの円山町という花街の存在であり、もうひとつが、江戸の人たちにとって最大の信仰であった「富士講」の本部がこのあたりにおかれ、この地が富士登山への出発地となっていたことが、その大きな原因ではないかとことが書かれていましたよ。
(今の状況でアースダイバーを再び読んでみると、ここ以外にもこれまた昔と違った視点で読めておもしろかったですよ。このこともなんかの形で坂道さんぽにフィードバックできればなあと考え中です。)


ということで、歴史とからめると一冊の本ができるんじゃないかというくらい深い深い道玄坂ですが、また資料がたまってきたらなんかとりあげるかもしれないですけど、今回のところはとりあえず、こんな感じで勘弁ということでおねがいします。。


地図
渋谷区道玄坂2

このページのトップヘ