東京坂道さんぽ

〚Category: 富士山が見えたかも坂
行人坂(NO.266) /目黒区
別所坂 (NO.265) /目黒区
新茶屋坂 (NO.264) /目黒区
茶屋坂(NO.263) /目黒区
大尽坂(NO.233)
皀角坂(NO.220)
男坂(NO.218)
文坂(NO.215)

ぎょうにん坂と呼ぶそうです。
場所は、JR目黒駅からすぐの場所で、駅東側を流れている目黒川のほうへと南西に下る坂道です。


行人坂(NO.266) 1
写真1

まずは、坂下からの様子など。(写真1)
見てのとおりなのですが、かなりの急坂で、道幅も狭めです。
ただ、JR目黒駅からすぐの場所で、後でもでてきますが、この右側に目黒雅叙園などもあるためか、急坂でしかも道幅が狭いという坂道の割には、人通りが多めの場所だったりします。

あとは、写真1の左にもちらりと見えていますが、いつものように坂の碑がありましたので、そのまま抜粋するとですね、
『行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。』
とのこと。

大円寺や行人については、後でもでてくるので、ここでは軽くスルーして、まあこういう具合の坂の碑があったということで、覚えておいてくださいな。


行人坂(NO.266) 2
写真2

こちらは、写真1の左側の様子ですね。(写真2)
正面に見えているビル群が目黒雅叙園ですね。

要は、結婚式場やホテル、レストランなどが入居している施設ですね。
このブログでも前に目黒雅叙園内にある百段階段について取り上げている記事「目黒雅叙園の百段階段をぶらり」も書いてますので、百段階段の様子などを知りたい方はどうぞ。
ちなみに、百段階段のある建物は、写真2でもちらりと写っていてですね、ちょうど正面の瓦屋根の建物がそれで、写真左のほうに建物は続いているというつくりでした。


行人坂(NO.266) 3
写真3

あと、写真2にも実は見えているのですが、「お七の井戸」なるものがあり、以前からここにくるたびに気になっていたので、撮っておくことにしました。(写真3)
こちらも、せっかくなので案内看板の説明を抜粋しておきますよ。
『八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。』

なるほど。
そういう場所が今は、結婚式場なんですね。
ちなみに明王院というお寺は、明治13年頃まであったと書かれているとおり、この頃に廃寺になったそうです。そして、その際に吉三の墓も含めて大円寺に移され、昭和30年には吉三とお七の共同の墓(比翼塚)も置かれるようになったとのこと。


浮世絵-目黒太鼓橋
名所江戸百景

あとは、これですかね。
広重による名所江戸百景「目黒太鼓橋夕日の岡」ですね。
今回は、この浮世絵の存在を知らずに当日は歩いていたこともあり、写真には撮っていませんが、写真1の後ろ側、写真2の右側のほうを少し歩くと、目黒川があるのですが、そこを渡る橋のかつての様子を描いたものがこの浮世絵ということみたいですね。
なので浮き世絵の左側が小山になっているように見えることから、こちらのほうにいくと行人坂があると思われます。


行人坂(NO.266) 4
写真4

では、坂道に話を戻しまして、こちらは坂をすこし上ったあたりからの、坂下方向の景色です。(写真4)
車が見えているとおり、ここも道幅はかなり狭い坂道でしたかね。
そして、左側に大きな樹々が何本も見えていてかなり印象的ですが、その奥にさきほどから何度も出てきている大円寺があるのですよ。


行人坂(NO.266) 5
写真5

ちなみに、写真4で見えていた大円寺の塀と樹木の兼ね合いがなんともおもしろい感じだったので、近くまで寄りぱちりと。(写真5)
正面の部分は根っこのおかげで浮いておりました。(笑)
ここまでくるのにどれくらいの時間を要したのか想像してしまいましたかね。


行人坂(NO.266) 6
写真6

こちらは、写真4の左側をみたもので、大円寺の立派な門がありました。(写真6)
まずは坂下にあった坂の碑の一文を思い出してもらいながらも、内容は上記の抜粋文を見てもらうとして、ここでは、目黒区のサイトに書かれてある坂の説明文がわかりやすいですので、一部抜糸させていただくとですね、
『行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。』
とあります。

”行者”については、ネットの辞書で調べてみると、仏教を修行する者のことを言うそうですね。
なので、このお寺は、坂の碑にもあったように、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家が、湯殿山(奥州)から高僧行人「大海法師」(=行者(法印大海))を勧請して、開山したことが始まりみたいですね。
そして、しつこいですが、その時に寺の前の坂を切りひらいたことで行人坂ができあがった、ということですかね。


行人坂(NO.266) 7
写真7

境内に入ると、いろいろな仏像が置いてあったのですが、中でも圧巻だったのがこれでした。(写真7)
手前の仏像群に加えて、奥には五百羅漢石仏群なるものが。
あまり詳しく潜ると、別の方向に行ってしまい帰ってこれなさそうな気がするので、ここでは軽く触れるだけにしますが、要は、このお寺が出火元となった大火で犠牲になった方々の供養のために造られたものだそうです。
これは、上記の抜粋文では『「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。』の部分ということになりますかね。
とにかく、ここですべて取り上げていたら違うサイトになりそうなほど、色々な仏像がありました(始めにふれた八百屋お七の話のことも含めて)ので、気になる方は実際に訪れて見てみることをおすすめしますよ。


行人坂(NO.266) 8
写真8

そんなわけで、再び坂道に戻りまして、写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみたものです。(写真8)
坂上の高層ビルがちょっと気になるところですが、坂道自体は勾配具合といい両サイドの緑の具合といい、なかなかいい感じだったかもです。


行人坂(NO.266) 9
写真9

さらに坂道を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
さきほどの大円寺の門も見えつつも、左には「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」なる説明文が書かれた案内板が設置されたほこら(勢至堂)がありました。
どうやら坂下の太鼓橋に関係する石像を祭っている場所のようでしたね。

あとは、ここにもほこらの説明とあわせて坂の説明が書かれた案内板もありました。
いちおう、抜粋しておくとですね、
『寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。』
とのこと。


行人坂(NO.266) 10
写真10

さらに坂を上り、坂上方向を見てみました。(写真10)
たぶんこのあたりが一番、急勾配な場所のように感じましたが、今回は傾斜具合を調べていないため、あくまで感覚ですので、あしからず。


行人坂(NO.266) 11
写真11

さらに坂を上り、坂下方向の景色でも。(写真11)
もうここからは、坂下あたりははるか下という感じでした。
そして、この右側にも、なにやら「富士見茶屋と夕日の丘」という案内板がありましてですね、
『江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。』
と書いてありましたよ。
なるほどですね。
このブログを前から見てくれているかたやマニアの方なら、わかるかもしれないですが、この目黒-恵比寿駅間は西側の目黒川に下る形の地形になっているので、目黒-恵比寿駅間にある坂道の坂上からならかつてはどこも富士山が見えたということみたいですね。
しかも、ここも茶屋坂(NO.263)の「爺々が茶屋」ほどは有名でなかったのかもしれませんが、富士見茶屋があったというわけですね。


浮世絵-富士見茶屋
江戸名所図会

こちらは、江戸時代の、このあたりの景色を描いている「富士見茶亭」という江戸名所図会です。
夕日と紅葉の感じはちょっとわかりにくいですが、当時の富士見茶屋の栄えぶりについてはわかりやすく描かれていておもしろいですね。
ここは、当時、江戸市中から目黒不動尊に通じる道だったようなので、このような賑わいがみられたようですね。

行人坂(NO.266)12

写真12

ほぼ坂上あたりまできて、坂上方向を見てみたものですね。(写真12)
これだけ急勾配の坂を上がる、さらに奥に高層ビルが見えているというのが、なんとも悲しいやら珍しいなあという気分にさせてくれる場所でもありましたかね。



行人坂(NO.266) 13
写真13

ここもほぼ坂上なのですが、写真12の場所からすこし坂を上ったあたりからのものです。(写真13)
ちょうど正面に、ホリプロのビルが見えていたので、載せてみましたよ。
こんなところにあったのですね。
(余談ですが、たまたま昨日、スーパー銭湯に寄ったついでにひさびさにゴールデンタイムのテレビを見ていたら、TBSで三浦友和さんのお姉さんのペンションに安住さんと佐藤さんが訪れるという番組をやっていて、昨日の今日ということもあってか、あらためてそういう歴史も含めての場所(坂道)というかビルでもあるのだなあと、ふと思ってみたり。笑)

ちなみに富士山の方角は、ちょうどビルとビルの間の抜けている方向みたいでした。


行人坂(NO.266) 14
写真14

そんなこんなで、やっと坂上からの景色でも。(写真14)
とにかく、富士山のことも含めていろいろなエピソードのある坂道だったので、今後も引き続き訪れることにして、さらに歴史研究(汗)、そして時代による変化を楽しんでみたいと思える坂道だったかもですね。


ということで、今回も長くなりましたが、こんな感じです。



地図
目黒区下目黒1および品川区上大崎4あたり

べっしょ坂と呼ぶそうです。
場所は、東急の中目黒駅の東側にあり、こまかい場所は説明しにくいのですが、目黒川よりは北にあり、恵比寿駅の南西側にある坂道といえば、だいたいの場所がわかりそうですかね。


別所坂 (NO.265)1
写真1

ではまず、坂下あたりの様子から。(写真1)
このあたりは、ちょっと道幅が狭めで、閑静な住宅街の中の坂道といった感じでした。
ただ勾配具合は、あとでもでてきますが、この坂道は全体的に急坂で、その雰囲気がこのあたりからもでてきているようでした。
ちなみに、この坂道にも、坂の碑があり、写真では写っていませんが、写真1のすぐ左側にあってですね、いつものように抜粋するとですね、
『この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。』
と、ありました。
もうここで、坂名の由来がわかってしまいましたが、どうやらここは地名由来の坂道みたいですね。
なお、新富士については、後でも触れますので、ここでは軽くスルーです。


別所坂 (NO.265)2
写真2

すこし坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真2)
ここからだと、勾配具合もすこしわかりやすいかもですね。
しかも、写真1では写っていなかった坂の碑も道の右側のほうにちらりと見えていますかね。


別所坂 (NO.265)3
写真3

写真2とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真3)
このあたりから、急坂具合が出てきましたね。
坂道によってこれくらいの勾配でも道路の舗装が滑り止めタイプのものになる場合もありますが、ここではまだ普通のアスファルトタイプでした。
道幅具合もあいかわらず狭いままでしたね。


別所坂 (NO.265)4
写真4

そんでもってこの階段ですよ。(写真4)
この階段は別所坂とは別ものですが、位置的には写真3の右側あたりから、このような急階段がどどんとあるのですよ。
これみるだけでも、これから上る別所坂の高低差具合が想像できそうですかね。(汗)


別所坂 (NO.265)5
写真5

さらに坂を上り、坂下方向を眺めてみたものです。(写真5)
写真4の階段は、道路の左側に黄色のネットが見えていますけど、そのすこしむこうあたりにあるようでした。
(あ、そうそう、それで思い出したのですが、当日は、階段と別所坂を一緒に写そうとすると、あの黄色のゴミ置場があまりにも写るのでやめたのでしたよ。(笑))


別所坂 (NO.265)6
写真6

さらに坂を上ると、今度は右にカーブしていました。(写真6)
勾配具合もかなりすごくなってきました。


265)7
写真7

これは、写真6の正面に見えていたマンションですね。(写真7)
なかなか渋くて、高低差のものすごい階段の先にどうやら入口があるみたいです。
こういう場所に一度は住んでみたいなあと思ってみたり。


別所坂 (NO.265)8
写真8

再び坂道に戻りまして、さらに坂をすこし上り、今度は坂下方向をみてみました。(写真8)
このアングルからの左へのカーブ具合もいいですねえ。
ちなみに、この別所坂、こんな感じで、蛇道といってもいいくらいS字が続いている坂道なのですよ。
なので、坂を歩いている途中は、坂全体を見渡せるこれといったポイントはありませんので、あしからず。


別所坂 (NO.265)9
写真9

こちらは、写真8とだいたい同じ位置からの坂上方向の景色です。(写真9)
歩くたびに景色が変わるのでおもしろいですね。
そして、このくねくね感に、あいかわらずの急勾配具合、いいですね。


別所坂 (NO.265)10
写真10

こちらは、写真9での道路が左に曲がる直前の場所からの坂下方向の景色です。(写真10)
このあたりからやっとドーナッツ型の滑り止め舗装が登場。
遠くには中目黒駅前にある、なんか地震がきたら倒れそうな感じのつくりというか細長くて背の高い形をしていて前から気になっていたアトラスタワーなる高層ビルが見えておりましたよ。


別所坂 (NO.265)11
写真11

道がくねくねカーブしていて、全体が見えないのでちょっとわかりにくいかもですが、今度は、写真10でいえば、写真右側方向を見ると、これまたかなりの急勾配の坂道が続いていました。(写真11)
右側の擁壁と左側の建物に囲まれていて狭苦しい感じがしなくもないですが、道自体がすこし幅が広がっている分、それほどの圧迫感はないのかなと。


別所坂 (NO.265)12
写真12

こちらは、写真11で見えていた坂上の踊り場のような場所まで上り、坂下方向を見てみたものです。
しつこいですが、かなりの急坂でした。(写真12)
ここは坂下側からと坂上側からの景色が全然違った感じに見えるのが、おもしろいところではあります。
ちょっとした高低差マジックとも言えますかね。
ちなみに、ここの部分をスマホのアプリで傾斜具合を計ってみると14.2度でした。
またこれを、よく道路標識などで表示されている%に換算してみると、だいたい25.3%みたいですね。。
どうりできついわけですな。(笑)


別所坂 (NO.265)13
写真13

写真12とだいたい同じ位置より坂上方向を見てみると、ここからは階段になっていました。(写真13)
どうりで車の通りが散歩中まったくなかったわけな。(と言いつつもこういうつくりになっていることは散歩前から知っていたのですが。。)


別所坂 (NO.265)14
写真14

ちなみに、写真13の左側には、こんな具合に庚申塔がありました。(写真14)
しかも、説明が書かれているプレートもありましたので、こちらもいつものように抜粋しておくとですね、
『「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間達は60日に一度くる庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに新陸や農作業の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが多くは病気の悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が掘られている。
別所坂庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天〜昭和元年(1665〜1764)である。平成九年七月吉日 設置』
とありました。

なるほど。


別所坂 (NO.265)15
写真15

写真13で見えていた階段の全景はこんな感じでしたよ。(写真15)
また、今回の別所坂の坂上は、この階段上ということにもなります。
これはこれでなかなか良い感じの階段ですかね。
これだけ急勾配の坂道を上ったあとにこの階段というのも、坂道的にも珍しい部類のつくりだと思います。


別所坂 (NO.265)16
写真16

そして、これですよ。(写真16)
写真15の階段右側のほうにちらりと見えていましたが、こんな感じでまたまた案内看板があったのですよ。
始めのほうの坂の碑の説明でもでてきた、新富士についてですね。
まずは、写真16からでも読めるかもしれませんが、こちらもいつものように内容を抜粋しておくとですね、
『この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下遺構が発見された。遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造ったとわかり「新富士遺構」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。』
とのこと。

そうなんですよ。
この坂上あたりからは、かつては富士山がよく見えたらしいですね。
近藤重蔵については、「高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造」とありますが、これは、山野さんの大江戸探訪でもさらりとふれられていて、近藤重蔵のwikipediaのページにも書かれていますが、重蔵は、このあたりに広大な土地を所有していて、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、富士山を模した富士塚をつくり、目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑ったそうですよ。
ただ、その賑わいがいろんな意味で災いして文政9年(1826年)にこの場所の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の利害問題に憤慨して隣家の7名を殺害したという大事件もあったという場所でもあったみたいですね。
近藤重蔵の目黒新富士のあった土地はwikipediaのページによれば、現在の中目黒2-1あたりとのことです。
また、目黒新富士なる富士塚についても、昭和45年(1965)に取り壊されKDDIの研究所となり(これはマルハナバチのつぶやきなるサイトさんの記事「木曽呂富士と安藤広重の「目黒新富士」」の情報です)、今はその研究所も地図で見た限りはなく、マンションになっているようですね。
むむー。
あと、目黒区の解説サイトによれば、「文政二己卯年六月建之」の碑石なるものが今でも残されているとのことが書かれているので、また機会があれば調べてみたいと思います。
ちなみに、屋敷跡がKDDIの研究所となっているいうことは、タモリさんの坂道本にも書かれていて、タモリさんが調査した時は、まだKDDIの研究所だったとも記しているので、今のマンションになったのはけっこう最近のことなのかもしれないですね。

あとは、新富士遺構も気になりますね。
今は、マンションになってしまった場所の地下でひっそりと眠っているんですかね。


目黒新富士
広重の浮世絵

写真16の案内看板の上のほうにも浮世絵が掲載されていますが、ここでは違うほうの浮世絵を紹介してみますよ。
広重による名所江戸百景の「目黒新富士」ですね。
要は、浮世絵の左に描かれているのが、かつて存在した目黒新富士ですね。
人の大きさと比べてみてもかなりの大きさだったようですね。
まあデフォルメされているのか、実際にこれだけの規模だったかどうかは、今のところきちんと調べていないので不明なのですがね。。
あと、別所坂については、いつからここにあったのかは不明ですが〔古地図みてもよくわからんのです)、この浮世絵でいうと、右側の人が歩いている坂道が、今の別所坂の位置と合致するので、そうなのかもしれないですし、そうでないかもしれないです。。


別所坂 (NO.265)17
写真17

そんなわけで、やっとこ、坂上からの景色でも。(写真17)
ちなみにこの左側が、KDDIの研究所の跡地であり、今はマンションになっている場所のようですね。

別所坂 (NO.265)18
写真18

こちらは地図をみながら富士山の方向を調べてみると、だいたいこの位置かなという場所からの景色です。(写真18)
なので、やはりこの感じ(正面の大きな建物があるので)からすると、目黒区の解説サイトに書かれている、「冬から春先にかけての朝のうちなら、今でも坂上から富士が見える」というのは厳しいかなというのが歩いてみての感想になりますかね。
(と言っても、目黒区のサイトの説明は、「月刊めぐろ」という1970年代から80年代に発行されていた雑誌の抜粋らしいので、仕方ないのかもしれないですけどね。)

ただ坂道自体はおもしろい坂道ですし、隠れ富士見坂としても見ることができる坂道であり、おすすめランキングはかなり高い坂道なので、ここに行ったことない坂道好きの人はぜひ歩くように。(笑)


ということで、長くなってしまいましたが、今回はこんな感じです。


地図
目黒区中目黒2-1あたり

しんちゃや坂と呼ぶそうです。
場所は、前回取り上げた茶屋坂(NO.263)の坂上と途中でつながっていて、北西側を目黒川まで下っている坂道です。


新茶屋坂(NO.264)1
写真1

まずは坂下あたりからの坂上方向の眺めです。(写真1)
この辺はほぼ平坦といっていい場所でしたが、ちょうど目黒川と交差しているあたりのため、とりあえずぱちりと一枚。


新茶屋坂(NO.264)2
写真2

写真1でも見えていましたが、右側には目黒清掃工場があり、その煙突がやはり印象的だったので、きちんとのせてみることにしました。(写真2)
こうしてみるとかなり大きい煙突ということがわかりやすんじゃないですかね。


新茶屋坂(NO.264)3
写真3

こちらは、目黒川ですが、写真2の右側方向、つまり目黒駅方向をみたものですね。(写真3)
ちなみに奥に見えている橋のあたりの左側には目黒エコプラザという公共施設があって、かの有名な目黒のさんま祭もあのあたりで毎年開催されているようですね。


新茶屋坂(NO.264)4
写真4

再び坂道にもどり、傾斜がすこしでてきたあたりから、坂上方向を見てみたものです。(写真4)
この坂は、やはり、”新”とつくことからも新しめな印象が坂道のいたるところでみられ、その典型がこの広い道幅だったですかね。
そして、右側の清掃工場の緑が元気に坂道上までせり出していて、なかなかいい感じに。


新茶屋坂(NO.264)5
写真5

こちらは、坂道をすこし上がり、さらに坂上方向を眺めてみたものです。(写真5)
このあたりが今回の坂の中腹あたりになりそうですかね。
やはりこのあたりもつくりが新しい感じでした。
勾配具合も歩いている分にはなかなかだったのですが、いかんせん直線距離が長い坂なので、写真ではちょっとわかりにくいですかね。
あとは、写真4とは逆側になる左側の防衛省の敷地内の緑のボリュームが今度はなかなかのものでした。


新茶屋坂(NO.264)6
写真6

だいたい同じ位置より坂下方向をみてみたものです。(写真6)
やはりここでは例の煙突ですかね。


新茶屋坂(NO.264)7
写真7

もうすこし坂をのぼり、再び坂上方向をみてみました。(写真7)
まず一番に気をつけるところといえば、左側に見えているバス亭ですかね。
なんとここのバス亭名は「茶屋坂」というそうなのですよ。
新茶屋坂にある茶屋坂というバス亭ですね。(笑)
ただ、実は茶屋坂にかつてあったあの富士見茶屋はおそらくこの右側に見えているマンションのあるあたりにあった可能性も否定できないので、一概には笑えないところでもあるんですけどね。
あとはこれまでと同じような景色に見えますが、実はすこし坂上のほうの雰囲気が違っているのですよ。(覚えておいてくださいね。)


新茶屋坂(NO.264)8
写真8

そして、これですよ。(写真8)
写真7の右側の道路沿いのマンションの端っこ、坂上側あたりにもちらりと写っているのですが、「茶屋坂隧道」という案内板がそこにあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『三田用水は寛文4(1664)年,飲用の上水としてつくられ,玉川上水から北沢で分水し,三田村を通り白金,芝へ流れていた。享保7(1722)年この上水が廃止になったとき,目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て,享保10年に三田用水となった。農耕,製粉・精米の水車などに用いられた用水も,明治以降は工業用水やビール工場の用水など,用途を変更し利用されてきたが,やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め,約300年にわたる歴史の幕を閉じた。茶屋坂隧道は,昭和5年に新茶屋坂通りを開通させるため,三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで,平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。』
とありました。

そうだったんですね。
昔は、このあたりは写真8の案内板の写真にもあるとおり、トンネルだったようですね。
そして、それが”茶屋坂隧道”と呼ばれていたということみたいですね。
要は、かつてあった三田用水の流れをそこなわないように、その下にトンネルを掘ってこの新茶屋坂がつくられたということなのですな。


新茶屋坂(NO.264)9
写真9

次は、さらに坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
このあたりからがらりと坂道の雰囲気が変わっていたのですが、要はこのあたりがかつてトンネルのあったあたりの場所だったようで、その名残りとして、左右の立派だけど、どこか新しい擁壁があるという不思議な雰囲気の場所になっているということなんですかね。

ちなみに、ここには、いつものような坂の碑はなかったのですが、目黒区のHPに坂の説明を記したページがあったので、それを一部抜粋しておくとですね、
『坂の中程にあるバス停に「茶屋坂」とあるが、この道は、右手奥の、3代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭和3年に開かれたずい道で、「新茶屋坂」と呼ばれる。坂の途中にあるトンネル上には、昭和49年に廃止されるまで、三田用水が延々300余年にわたって流れ続いていた。トンネルをくぐる辺りから、坂上にかけて左手に、うっそうと生い茂る松林は、江戸時代の目黒の姿を物語るかのように、当時の面影をしのばせていたが、ずい道は撤去され、町並みは変ってしまった。』
とのことです。

なので、この坂道は、昭和3年にできたことは確実みたいですね。
そして、昭和49年(1974年)にトンネルがなくなり景色が一変したと。。

あ、ちなみにちなみに、茶屋坂(NO.263)との位置関係ですが、地図をみると茶屋坂の坂上あたりをかつての三田用水が流れていたという位置関係なので、茶屋坂の例の清水との関係は薄そうでしたよ。


新茶屋坂(NO.264)10
写真10

そんなこんなで、最後は、坂上あたりからの景色です。(写真10)
もしかしたら、軸線からはすこしずれていますが、富士山の方向にくだる場所にあり、この高低差からすると、昔の低いビルしかなかった当時はもしかしたら、富士山が坂の途中から見えたかもしれませんが、現在ではどうなんですかね、たぶん見えないんじゃないですかね。

あとは、1974年に一度再整備された道なのだなあと、改めて思いながらこの坂道風景をみるとなんだか奇妙な感じもしますが、別の考えでいえば、1974年に整備された道の割にはなんかきれいなのかもなあとも思うわけなのですが、どうなんでしょう。



地図
目黒区三田2-3あたり

ひさびさの都内の坂道再開です。


ちゃや坂と呼ぶそうで、場所は、JR目黒駅と恵比寿駅の間にある恵比寿ガーデンプレイスの南西エリアにある坂道で、坂上のそばには防衛省の施設が隣接している場所でもあります。



茶屋坂(NO.263)-1
写真1

まずは坂上からの様子でも。(写真1)
見てのとおりですが、けっこう道幅の狭い坂道でした。
しかも、道がくねくねしていたので、ここからは坂下の様子はまったくわかりません。

あと、ブログの写真では見えないと思いますが、正面の黄色い看板には10%という表示が書いてありましたよ。
なのでここは勾配10%ということですね。
ちなみに、軽く復習がてらですが、勾配10%と傾斜10度はかなり勾配具合が変わってきますのであしからず。
(10%の勾配で、5.5度くらい?)


茶屋坂(NO.263)-2
写真2

いちおう、写真1の背後も見てみました。(写真2)
防衛省の宿舎のマンションがボンボンボンと並んで見えていましたよ。


茶屋坂(NO.263)-3
写真3

次は、坂をすこし下り、坂上方向を見てみた物です。(写真3)
地面の舗装の色が途中からあずき色のものになっていましたが、これは普通なら、坂上あたりより勾配具合がゆるいからというパターンが多いのですが、ここはどうなんですかね。
見た目はむしろ傾斜はきつくなっているような気もしますけど。。


茶屋坂(NO.263)-4
写真4

写真3とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみました。(写真4)
途中で右に曲がるポイントがありますが、今回の坂道はまっすぐのほうです。
とりあえず、今回の坂道は道幅が狭いまま、こんな感じで坂下まで続いているのですよ。
でも道幅が狭いとなんか独特の雰囲気がでてくるのは、やはり坂道のおもしろいところかもですね。


茶屋坂(NO.263)-5
写真5

こちらは、写真4でも見えていた、右に曲がる道を曲がり正面をみるとこんな景色がひろがっていたのですよ。(写真5)
ここは、茶屋坂ではないので、要は無名坂といえるのですが、勾配具合もいい感じの坂道でした。
あとは奥の目黒清掃工場の煙突もかなり印象的な場所だったかもですね。


茶屋坂(NO.263)-6
写真6

写真4とすこしかぶり気味ですが、写真5の立ち位置とだいたい同じ場所より、茶屋坂の坂下方向を眺めてみたものです。(写真6)
このあたりも道がくねくねしていて、坂下あたりはまだ見えていませんが、勾配具合はけっこうあるのはわかりやすいかもです。


茶屋坂(NO.263)-7
写真7

さらに坂をくだっていきますが、まだ坂下は見えず。。(写真7)
舗装が、例のドーナツ型なので、勾配はけっこうきつめなのかもしれませんが、距離がかなり長いので歩いているときはそれほどは感じなかったですかね。

茶屋坂(NO.263)-8
写真8

さらに坂を下ると、急にカクンと右に曲がるポイントがやってきます。(写真8)
そして、正面に見えている黄色い看板には、20%という文字が。。(かなりきつい・・・。)
さらに、その左横には、坂の碑ならぬ坂の案内版もあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。』
とありました。

そうなんですよ。
この坂道、実はかつて坂道の途中から富士山が見えたという富士見坂でもあったんですね。
しかも、「大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂」とあるとおり、これは現在でもこれまで歩いてきた感じ(写真1から写真8)からも、昔のくねくね感もちょっと想像できそうですよね。

ちなみに、江戸時代にあったという爺々が茶屋については、説明にもあるとおり、広重の絵にも描かれています。


茶屋坂(NO.263)-広重絵図
「目黒爺々が茶屋」広重

それがこの絵図ですね。
右下あたりに見えているのが爺々が茶屋ですかね。
しっかり松も描かれていますね。
位置的には、写真1あたりからの景色を描いたものだろうと思われます。
ちなみに、この茶屋、将軍家光の時から、爺々が茶屋と言われるようになったそうですが、本来はこの茶屋から富士山を望むことができたことから、富士見茶屋と呼ばれていたそうですよ。


茶屋坂(NO.263)-9
写真9

そして、坂道をカクッと曲がり、さらに坂下方向を眺めてみたのがこちらです。(写真9)
まだ坂道は続いていましたよ。
しかも、ここでもあの煙突が。
ちなみに、富士山の方角ですが、地図で確認すると、実はここの坂道の軸線上にあるみたいですね。


茶屋坂(NO.263)-10
写真10

こちらは、写真9で見えていた横断歩道のあたりまで下り、坂上方向を見てみたものです。(写真10)
ここで坂上のほうが急に曲がっていているのは昔からだったのかどうかについては、手持ちの古地図では場所が微妙に外れていて確認できなかったのですが、写真でも見えているとおり、いつもの坂の碑があるので、昔からあったということにしておいて、とりあえずここでは、坂の碑の説明を抜粋するとですね、
『江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。』
ということでした。


茶屋坂(NO.263)-11
写真11

せっかくなのでさらに坂道を下り、坂上方向を見てみたものです。(写真11)
こうしてみるとかなりの高低差でした。
しかもここから坂上までの高低差を想像してみると・・・。


茶屋坂(NO.263)-12
写真12

さらに坂下方向に歩いていると、途中、道の西側(写真12でいえば左側)の擁壁とその緑がなかなかの感じだったのでおもわずパチリと。(写真12)


茶屋坂(NO.263)-13
写真13


そして、最後にこれなのですよ。(写真13)
微妙に、写真12ででてきた緑と擁壁も写真13の上のほうに見えている場所なのですが、なんとここに”茶屋坂街かど公園”なる公園があって、しかも、園内には「茶屋坂の清水と碑によせて」という案内版があったのですよ。
もうここまできたら、それも抜粋してですね、
『落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田2丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。その後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。』
と長いですが、ありました。

要は、このあたりに、かって、おいしい水がわき出る清水があったということみたいですね。
なので、爺々ヶ茶屋もそのおいしい水でお茶をいれて、当時の将軍をもてなしていたのだなあと想像すると、今はひっそりとあるこの場所もなかなか興味深い場所だったのかもしれないですね。


そして、最後の最後に、これまでの話だけではちょっとわかりにくかった”目黒のさんま”のことについてすこしふれて今回はおわりにしたいと思います。

『例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。
「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」
この話が、落語「目黒のさんま」である。』 
(”「目黒の坂 茶屋坂」目黒区” のHPより抜粋)


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区三田2-11あたり

所在地:大田区仲池上2-5あたり


だいじん坂と呼ぶそうです。
場所は西馬込駅から西へ5分から10分くらいの間の場所にあり、坂上あたりにある馬込中学校のほうから坂下の大森第10中学校へ東に下る坂道となっていました。



大尽坂(NO.233)1
写真1

まずは、坂下からの様子など。
勾配具合もなかなかきつく、道幅も車2台くらいがちょうど通れそうなくらいの道幅の坂道でした。


大尽坂(NO.233)2
写真2

次は坂をすこし上り、坂下のほうを見たものです。
とにかく舗装具合やら歩道のブルーのペンキ舗装などけっこう坂道的には丁寧に整備されているようで、その具合は坂下のほうの道路の整備具合と比べてみても一目瞭然といった感じでした。

またここからも見えていますが、ここにもいつものように坂の碑があり、『昔、大尽(財産をたくさん持っている人)が、このあたりに住んでいたということで名付けられたという。』と書かれてありました。

あと、大田区のHPにも坂名の由来についての説明があり、
『仲池上二丁目2番と5番の間を東へ上がるかなりの急坂。昭和初期に行われた耕地整理によってできた坂道であるといわれています。坂名は、その昔大尽(財産をたくさん持っている人のこと)がこのあたりに住んでいたということで名づけられたと伝えられています。この大尽が誰であったかについては、諸説があり明らかではありません。』とありました。
ですので、ここは江戸からの坂ではなく昭和初期にできた坂道ということのようで、そんなことからも道幅なども住宅街の中の坂道の割に広めなのかもしれないですね。


大尽坂(NO.233)3
写真3

さらに坂を上り、坂の中腹あたりまできてみると、ここからも坂上の頂上あたりが見えていました。
もうこのあたりまでくると、まわりは閑静な住宅街といった感じでした。


大尽坂(NO.233)4
写真4

そして、最後は坂上からの景色など。
坂下からかなりの高低差になっているためか、まわりの景色もけっこうな具合で見えていました。
またこの坂上からの軸線は地図でみた感じでは東に向いていることもあり、ネット情報ではこの坂から富士山が見えたという情報はなかったのですが、やはりここの地形具合や高低差などから想像してみても、もしかしたら写真左側のレンガ色の建物が2階建てくらいのものだったならば、ちょうど屋根のむこうあたりに富士山見えたかもしれないんですよね。
ですので、確定ではないですがこの大尽坂も隠れ富士見坂としてメモくらいはしておいてもいいような気もしますので、この坂もいちおう富士見坂カテゴリーとして扱っておくことにしますので、あしからず。


地図
大田区仲池上2-5あたり

所在地:千代田区神田駿河台2


小栗坂(NO.219)でもちらりと話がでてきたついでに、今回はちょっといつもの感じとは違い、なにげにいろいろ思い出したこともあるので補足的な話など。

皀角坂については、この坂道ブログでは初登場なので今回いちおう「皀角坂(NO.220)」という形でいつものようにナンバリングしてみましたが、実は以前にみちくさ学会ですでに取材済みですので、坂道自体の細かい話については、そちらの記事をみてくださいね。
電車がすぐそばを走る場所としてロケでもよく使われる駿河台と水道橋を結ぶ眺望坂


皀角坂(NO.220)0

で、この坂道、坂の途中から富士山がかつて見えた坂であることはみちくさ学会の記事でも書いたとおりです。
で(しつこい、笑)、その富士山が坂道からいつごろまで見えたかということが、今回だいたいわかったので、まずはその報告です。

というのも「江戸の坂東京の坂」という本に『四、五年前までは、昔の絵と変わらない美しい富士を見せてくれた。ことに皀角坂の上からは、靖国神社の大鳥居(今はないが)と大松閣の白い建物とのちょうど中間に、富士が見えたものである。』と記述があり、だけど今はビルで見えないということも書かれてありました。
しかも(著者の横関さんによれば)この坂をなぜ富士見坂ではなく皀角坂と呼ぶことにしたのか不思議だ、ということまで書くほど、かつてはクリアに坂から富士山が見えていたようです。
そして、この「江戸の坂東京の坂」は昭和56年に発行された本です。ということは、本の記述にある四、五年前までは見えていたという話が正しいのだとすると、おそらく昭和51年(1976年)ごろまでは、この坂からも富士山が見えていたということになると思われます。

なので、今ちまたで話題になっている日暮里の富士見坂はこの2、3年でビルが建ってしまい富士山が見えなくなってしまうかもという悲しいうわさが流れていますけど、今回の皀角坂でいえば、1976年ごろにそういう出来事をすでに経験してしまっているわけで、そういう意味では、この皀角坂と呼ばれている坂も、横関さんのいうとおり富士見坂という名前にしておけば、もうすこし結果が違っていたのかなあとすこし思ってしまいました。


皀角坂(NO.220)1
写真1

話は変りまして、まずはこちら。
坂の名を記した石碑らしいのですが、今回坂道歩いた時は、さいかちの“ち”の文字部分が地中に埋まっていましたよ。(笑)
舗装工事の時、石は移動せず、上からタイルで覆った感じがなんともです。。
そしてこれはめんどくさかったからなのか、それとも石をなるべくうごかさないようにそっとそっと〜という、ちょっとしたおもいやりからなのか・・・。(う〜む。)
しかも野草がちょびちょび、タイルと石の隙間から生えてる感じもなんだかですな。
まあこんなちょっとしたところにも坂道の歴史ありという感じですかね。

あ、あと歴史を感じるといえば、坂の途中に「神田上水懸桶跡」なんていうものもあったので気になる方は検索でもしてみてください。


皀角坂(NO.220)2
写真2

そして、実はこんな看板も坂の途中にありましたよ。(笑)
ただどのへんにあるのかは、ここでは明かしませんので、興味あるかたは実際に坂道歩いて探してみてくださいな。


ということで、あとはみちくさ記事でも書いた皀角坂の風景がちりばめられたいくつかの映画を借りてきてみるだけですよ。(笑)

せっかくなので、その作品リストものせときますね。↓

<作品リスト(皀角坂の風景がどこかに写っている映画orTV)>

★映画
『自由学校』(出演: 高峰三枝子など)1951年
屑籠を背負った南村五百助と長谷川金次が歩いていた坂道。

『少年探偵団・妖怪博士』(出演: 岡田英次など)1956年
怪人二十面相がアジトへ少年たちをおびき出すときに歩いていた坂道。

『女がいちばん似合う職業』(出演: 桃井かおりなど)1990年
きぬが佐山吾郎を追ってかけ下りた坂道。

『海猿』(出演:伊藤英明など)2004年
ラストシーンで仙崎大輔と伊沢環菜が歩いていた線路沿いの坂道。

★TVドラマ
『ロングバケーション』(出演:木村拓哉など)1996年
瀬名秀俊と葉山南が歩いていた坂道。

『北の国から(92巣立ち、95秘密、98時代)』1992年〜1998年
黒板純と松田タマコが歩いていた線路沿いの坂道。

『離婚弁護士II』(出演:天海祐希など)2005年  
間宮貴子弁護士事務所近くにある線路沿いの坂道。

『ケータイ刑事 銭形雷』(出演:小出早織など)2006年
銭形雷と岡野富夫が事件終了後に会話していた道。

『めぞん一刻』(出演: 伊東美咲など)2007年
五代裕作が通う「明治予備校」のある坂道。

『猟奇的な彼女』(出演:草なぎ剛など)2008年
眞崎三朗が人力車を引いていた坂道。

『貧乏男子』(出演: 小栗旬など)2008年
オムオムが車の中から白石涼に声をかけて誓約書を渡した道。

『アタシんちの男子』(出演: 堀北真希など)2009年
小金井響子が電話で峯田千里と防犯装置のことを話していた坂道。

『SPEC』(出演: 戸田恵梨香など)2010年
地居聖が電話をかけていた坂道。

『生まれる。』(出演: 堀北真希など)2011年
林田愛美が歩いていた坂道。

(多いですね〜。)

と、いう感じです。


地図
千代田区神田駿河台2

所在地:千代田区猿楽町1


おとこ坂と呼ぶそうです。
場所はJR御茶ノ水駅から水道橋駅方面に歩いて徒歩5分くらいのところにある階段坂です。


男坂(NO.218)1
写真1

ではさっそく写真です。
写真1は見てのとおりですが、坂上からのもの。
かなりの急勾配の階段です。
まわりのビルと見比べてみると、おそらく4階分くらいの高低差はありそうですね。
ちなみに松本さんの階段本によるとここは73段で高低差は13.1mだそうですよ。


男坂(NO.218)2
写真2

いちおう坂上から階段入口あたりをみてみるとこんな感じでした。
ふつうに崖ですね。。
しかもここ、いちおう南西にくだる階段なので、もしかしたら昔は富士山見えたかもですね。
ただ正確に言えば、そういうこと書いている資料もなく、軸はかなりずれていて、写真2でいえば右側のほうにみえるはずなのですが、今はちょうど右側にある明治大学の校舎がもろにじゃましているという形なので、現在ネタとしては確認不可能という感じです。
でもこれだけの高低差があって見晴らしもよさげなので、昔もこの地形のままということなら、やっぱり富士山ちらりと見えてたかもですね。
なのでこれは今後の宿題として保留という形で、富士見坂カテゴリーに追加しておきますよ。(とりあえず、わかりしだいみちくさ学会の記事でも紹介してみるかもですので、あしからず。)


男坂(NO.218)3
写真3

そして、坂を半分くらい下りて、坂上のほうを見てみました。
見上げるだけで首が痛くなってきそうです。
坂道風景的には、やっぱり坂上あたりの樹々が良い感じ。
坂上にあるのでなんかすごく大きく感じてしまいました。

あと、写真でも見えているとおり、ここにも坂の碑があり、
『この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。』
とありました。

ふつう男坂といえば、お寺の境内にある男女坂を思い出しがちですが、ここでは違うみたいですね。
まわりにお寺もないみたいですし。。


男坂(NO.218)4
写真4

最後は坂下からです。
坂下からみると迫力ありますね。
でもやっぱり両サイドの手摺といい、端正な階段のつくりや勾配具合といい、ほんと坂上にお寺の施設かなにかがありそうな雰囲気満載なのですけど、ないんですよね。

とにかく、名前といいこの雰囲気といい、不思議な感じの坂道だったかもです。


男坂(NO.218)5
写真5

最後といっておきながらのおまけ写真です。
なぜか坂下あたりの上空には歩道橋がありました。。
ここからみるとさらに不思議な風景がひろがっていましたよ。


地図
千代田区猿楽町1

所在地:千代田区神田駿河台1あたり


前回の甲賀坂(NO.214)の坂上と交差している道路で、現在は明大通りとよばれている大通り自体が今回の坂道ということになり、御茶ノ水駅からも徒歩5分くらいの場所にあります。
ちなみにこの坂道には、いつものような坂の碑はなかったのですが石碑があり、そこに「文坂」と刻まれているのみだったため、実際のところここを「ふみ坂」と読むのか「ぶん坂」と読むのかどうかまではわかりませんでした。
しかもこの坂、千代田区のHPの坂紹介ページにもないんですよね。。(まあいちおう坂道本で紹介しているものはいくつかありますけどね。)


文坂(NO.215)1
写真1

で、こちらは文坂の坂下あたりであろう場所から坂上の方を眺めたものです。
わかる方はわかるかもしれないですけど、左右を走っている道路は靖国通りで、この左側エリアが神田古書街ということになります。
坂道自体は、写真ではわかりにくですけど、ゆるやかなんだけど歩いているとそれなりに傾斜具合を感じることができる坂道という感じでした。


文坂(NO.215)2
写真2

すこし坂を上って坂下のほうを見てみるとこんな感じでした。
両側あわせて5車線なのでかなり道幅広いですね。
いちおう古地図見てみましたけど、ここはやはり昔からある道みたいですけど、かつてはここまで幅広な道ではなさそうでしたよ。


文坂(NO.215)3
写真3

そして、もうすこし坂を上り、坂上のほうを見てみました。
写真ではほんとわかりにくいですけど、いちほう上り坂になってます。
しかも左側にでーんと高層ビルみえてますけど、こちらが明治大学の校舎(リバティータワー)で、建物的にもいろいろ工夫されている有名建築らしいです。
あと、写真左にはなまるうどんの看板みえてますけど、ここから左へと抜ける道路が、実は富士見坂 (NO.5)だったりします。


文坂(NO.215)4
写真4

写真4は撮った時期は違うんですけど、これが通り(というか文坂)からみた富士見坂 (NO.5)です。
ちょうど文坂側が坂上になっています。
ということは・・・。
この文坂(NO.215)も歩いた限りではどう考えても坂の途中から富士山ちら見えしてた可能性高いので、確定ではないですしだれも言ってないことですけど「富士見坂」と別名で呼んでもいいのかもしれないですね。(なので、これも「みちくさ学会」で取り上げようか迷ったんですけどね。ただもしかしたらもうすこし丁寧に調査したらいろいろな史実でてくるかもしれないのでだいぶあとに取り上げる可能性もなくはないですけどね。)


文坂(NO.215)5
写真5

そんでもって、写真5はさらに坂を上り坂下のほうを眺めたものです。
このアングルからだと坂の勾配具合や高低差具合、わかりやすいんじゃないですかね。


文坂(NO.215)6
写真6

ただすこし坂を上ると、もうこのあたりから勾配具合はかなりのゆるゆる度で、よくよく考えれば、右にリバティータワー、左に日本大学法科大学院の建物(こちらも有名建築だったりするのですが)があるので、階段で言えば踊り場のような場所になっているのかもなあと。


文坂(NO.215)7
写真7

最後は写真6からだいたい同じ場所より坂上のほうを見たものです。
見た感じではここからまたすこしだけ上り傾斜になっていますかね。
そして、正面にみえている東京医科歯科大学のビルの手前あたりが神田川ということになります。
それにしてもやっぱり道幅広いですね。
でもまあこれぐらいの道幅だと道のほうに意識いくので坂道散歩の時はおもしろいちゃあおもしろいんですけどね。


地図
千代田区神田駿河台1あたり

このページのトップヘ