東京坂道さんぽ

〚Category: ★坂道[No261〜300]
菊坂(NO.288)、一葉坂(NO.289)、金魚坂(NO.290)/ 文京区
須賀神社男坂(NO.284)、東福院坂(NO.285)、円通寺坂(NO.286)、鉄砲坂(NO.287) / 新宿区
女坂(NO.283) / 千代田区
衣紋坂(NO.282)その2 / 神奈川県横浜市中区真砂町1あたり
三べ坂(NO.281) /千代田区
諏訪坂(NO.280) /千代田区
知恩院の女坂(NO.279) / 京都府京都市東山区
知恩院の男坂(NO.278) / 京都府京都市東山区
氷川坂(NO.277) / 目黒区
宮前坂(NO.276) / 目黒区
化坂(NO.275) / 目黒区
太鼓坂 (NO.274) / 目黒区
しどめ坂 (NO.273) / 目黒区
ソラミ坂(NO.272) /墨田区
ハナミ坂(NO.271) /墨田区
権之助坂(NO.270) /目黒区
金毘羅坂(NO.269) /目黒区
十七が坂(NO.268) /目黒区
馬喰坂(NO.267) /目黒区
行人坂(NO.266) /目黒区
別所坂 (NO.265) /目黒区
新茶屋坂 (NO.264) /目黒区
茶屋坂(NO.263) /目黒区
祖師堂坂 (NO.262) /群馬県吾妻郡草津町
代々木八幡宮の女坂 (NO.261) /渋谷区

またまた変なタイトルとなってしまいましたが、つい最近、たびねすの記事にて『樋口一葉に宮沢賢治など文学者とも縁深い東京・本郷の菊坂めぐり』と題して、3つの坂道(プラス無名坂)を取り上げてみましたので、よかったらどうぞ。


菊坂1
写真1

これらの坂道、これまではブログに載せる場合、ある程度地域の坂道をまとめてまわることが多かったこともあり、取り上げるタイミングがなかなか難しかったのですが、ようやくウェブ上(ブログではありませんが)にて公開することができましたかね。

あとはたびねすでは紹介しませんでしたが、界隈にはおもしろそうな無名坂もいくつかありましたので、そのあたりはこのブログでそのうち紹介できればなと思っています。
ただ、今回の坂道以外にも、過去にブログにのせるためにまわった坂道(無名坂含む)や取材ついでに歩いた坂道の写真もまだまだたくさんあるのでどのタイミングになるかはこれから考えます。(汗)

また、たびねすの記事では旅行喚起も大事な一面もあると思うのであまり深掘りしてませんが、取材しているとやはりこの菊坂界隈は歴史的なことや地形的なことについてもそれなりにネタがありますし、今回、取材したことで新たに気がついたこともありますので、そのあたりのこともどこかのタイミングで書ければなと。


菊坂2
写真2

しかし、今回の菊坂。都営大江戸線・本郷三丁目駅側というか東大側から歩いてくるとほんと写真2のようなような場所に出くわすわけですが、この風景見ると、いつも「え?ここ坂道?」と思ってしまいますよね。


菊坂3
写真3

でも、坂下の旧伊勢谷質店の建物あたりまでくると、視覚的にもけっこうな具合の勾配具合になりますし、さらに坂下のほうにいくと「菊坂下」なる交差点もあるので、ああここが坂下なんだと実感できるかもですね。
ちなみに写真3は、旧伊勢谷質店の外観を撮ったものですね。
京都なんかを歩いているとよく見かけるタイプの町屋ですが、やはり戦災や地震が多発した東京でこのタイプが残っているのは珍しいかもですね。


菊坂4
写真4

こちらは菊坂と平行して走っている菊坂下道ですね。場所的には宮沢賢治旧居跡のある坂下あたりです。取材時に古地図を確認してみたら、古地図にも当時の菊坂と並行して道らしきものが南側に描かれているので、この道も江戸時代からあった可能性はありそうですかね。
とりあえず僕の語れる部分はここくらいで、あとの詳しいことは暗渠マニアの方々におまかせします。(笑)


ということで、この界隈は歩いたところをくまなく取り上げていると長くなりそうなので、今回はさらりとこんな感じです。

なんだか変なタイトルとなってしまいましたが、まず始めに、つい最近、たびねすの記事にて『映画「君の名は。」の聖地、東京・四谷の須賀神社階段と界隈の坂道めぐり』と題して、タイトルに上げた4つの坂道を含めた「君の名は。」の聖地を取り上げてみましたので、よかったらどうぞ。


須賀神社男坂(NO.284)など1
写真1

ちなみに、記事では映画のキービジュアルと似た景色の須賀神社男坂(NO.284)の坂上からの写真もあげようかなと思いましたが、いろいろ考えた末にやめたので、こちらにてちらりと。(写真1)
ただこうしてじっくり見ると、キービジュアルのほうは遠景が現実とはけっこう違っていて、監督さんも含む映画スタッフさんのこうなったらいいなあという願望みたいなものがかなり入っている風景に変わっているかもなあと思ってみたり。
あとは、写真みると、東福院坂(NO.285)の坂上からの景色より須賀神社男坂(NO.284)の坂上からの景色のほうが高低差具合の関係がわかりやすいかもですね。


須賀神社男坂(NO.284)など2
写真2

あと、ここにきていつもびっくりするのは、須賀神社境内に「須賀の社hare terrace」なるなんとも現代的な集合住宅が建っていることですかね。(写真2)
写真2は須賀神社男坂(NO.284)の坂上あたりから境内方向をみているものです。


須賀神社男坂(NO.284)など3
写真3

「須賀の社hare terrace」を崖下から見るとこんな感じ。(写真3)
どうみても境内にある建物ですよね。


須賀神社男坂(NO.284)など4
写真4

あとはこれですかね。(写真4)
東福院坂(NO.285)の坂下あたりから須賀神社のほうを見ているものですが、たびねすの記事では須賀神社男坂(NO.284)の写真とアングルがかぶるので載せなかった写真ですね。
実は、映画で登場する東福院坂(NO.285)はまさにこのアングルからのもので、三葉がこの坂下から走ってくるシーンとして描かれていましたね。


そんなわけで、たびねすの記事では、4つの坂道を一気に紹介してみたわけですが、これらの坂道については、いずれもまだブログでは取り上げていない坂道ばかりなので、そのうち映画の聖地視点だけでなく、いつもの感じでも紹介できればなあと考えていますので、少々お待ちを。


ということで、今回はさらりとこんな感じです。

つい最近、たびねすの記事にて「都内屈指の崖地のユニークな坂道!御茶ノ水・駿河台の男坂と女坂」と題して、御茶ノ水・駿河台の男坂と女坂を取り上げたわけなのですが、なんとこれまでにブログでは男坂(NO.218)は取り上げていたのですが、女坂のほうについてはすでにみちくさ学会の記事にて取り上げていたこともあり、ブログで取り上げておらず、坂道カウントもしていなかったのですよ。(長い、笑)
そんなわけで、今回は坂道ナンバリングとお知らせもかねて書いておくことにします。

以前から、このブログを読んでくださってる方には、またあそこかなどと思われるかたもいたかもしれませんが、やはりたびねすのフォーマットの中では初めての場所ですし、今後もなにか別の場所で書くことでもあれば、同じように紹介するかもです。

それにしても、なぜ神社の境内でもない場所にあんな男坂&女坂が存在するのか。
謎ですね。
僕の予想はたびねすの記事でもちらりとふれてますけど、やはりオマージュみたいなものなのかなと。
ただそれはあくまで僕の推測なので、もっとなにかの理由があったかもしれないですよね。
なのでそういうことを、これまでもそしてこれからも訪れるであろう坂道調査の結果や経験の中から予測していけるかもしれないと思うことはやはり楽しみのひとつかもですね。


そんなわけで、ここからは取材時に撮った気になる場所の写真をいくつかあげておきますね。


女坂(NO.283)1
写真1

すぐ隣に坂の碑があるのですが、こちらはあえて古そうな坂の名前が書かれた石碑のほうをぱちりと。


女坂(NO.283)2
写真2

こちらは女坂の途中にあった隣接するビルの非常階段ですね。
意外といい感じだったもので。


女坂(NO.283)3
写真3

こちらは女坂の坂上すぐの場所にあるアテネ・フランセの外観ですね。


女坂(NO.283)4
写真4

そしてこちらが、同じアテネ・フランセなのですが、坂下側の崖下から撮ってみたものです。
アテネ・フランセの写真はよくみかけるのですが、こちら側からの写真はなかなか珍しいんじゃないですかね。


女坂(NO.283)5
写真5

最後は、たびねすの記事では取り上げませんでしたけど、女坂の坂下側からほんのすこし歩いた場所にある住友不動産猿楽町ビルですね。いちおう芦原建築設計研究所が設計した高層ビルとのことです。


ということで、今回はこんな感じです。


住所
千代田区神田駿河台2あたり

衣紋坂(NO.282)の話の続きです。
坂の由来については、たびねすの記事でさらりと書いたとおりですが、では昔の衣紋坂の風景とはどんなだったのかということについて、今回はふれてみたいと思います。


衣紋坂(NO.282)その2-1
写真1

まず、衣紋坂についてのヒントなんですが、実は現地で写真に撮っておいたんですが、このことに気がつくのにけっこう時間がかかってしまいましたよ。(写真1)
これは横浜スタジアムもある横浜公園の園内にあった歴史について説明している看板です。
わかるかたはわかるかもですが、ここにのっている絵図が大きなヒントだったのですよ。


衣紋坂(NO.282)その2-2
画像1

その前にまずはこちらから。(画像1)
資料を探していたら、横浜市の広報新聞の中でこんな絵図があることがわかったんですよ。
絵図の名前は不明なのですが、右上にはたしかに「衣文坂」ほにゃららと書かれてありますね。
まあ、衣紋ではなく、衣文というのがちょっと気になりますけど。。
なお、この絵図が紹介されていた紙面には『幕末期、「衣紋坂」という坂があり、太田屋新田の中の港崎町へ向う道にあった。現在の開港記念会館から横浜公園へ向かみなと大通りが坂のあった場所といわれている。』と書かれてあり、この絵図の坂が衣紋坂だということが示されていました。
ただですね、この絵図を見ていてちょっと気になったのは、左上に書かれた山ですね。
絵図右上の説明によれば、富士山という言葉がでてきているので、おそらく左上の山も富士山なのかもしれませんよね。
そこで地図を確認してみると、たとえば、海辺にありがちな海側から横浜スタジアムへと上る坂道だった場合、富士山は坂の右側に見えるはずなんですよね。。
そんで、逆に、横浜スタジアムから海側(北東方向)に上る坂道だったとしたら、富士山は見えませんよね。
そういう意味でも謎な絵であり、この絵図がもしかしたら別の坂道を描いているという可能性があるのですが、じゃあ関内エリアで別の場所に坂道らしい場所があるといえばないわけで。。


衣紋坂(NO.282)その2-3
画像2(御開港横濱之圖)

そこで、見つけたのがこの地図です。(画像2)
横浜公園の歴史を調べていたら、見つけました。
これは今の関内エリアの昔のもので、開港当時の地図みたいですね。
古地図の上が今の地図では南東向きなので、古地図の上のほうに川が流れているあたりが今の関内駅などがあるJRが走っているあたりです。
横浜公園のできる前は、遊廓だったそうなのですが、地図で言えば、ちょうど川の南側に運河で囲われた長方形の場所があるのですが、ここが遊廓だったようですね。
そして、遊廓から南に向かう一本の道が。
しかも、南の住宅街との境には川らしきものが。
川があれば低地、もしや!と思い、いろいろ調べてみたら・・・。


衣紋坂(NO.282)その2-4
画像3(横浜本町並ニ港崎町細見全図/1860年)

この絵図が見つかったのですよ。(画像3)
これは関内エリアの俯瞰図です。
絵図の左下には遊廓が描かれていて、右側の住宅街の間にはけっこう高低差がありますよね。
そして、遊廓と住宅街をつないでいる道、ちょうど坂道になってませんか?
おそらくここのことを衣紋坂と名付けていたのではないかと予想しているのですよ。
そして、今の位置でいえば、「みなと大通り」と重なる場所でもあるんです。
この遊廓のあったエリアは、さらにその後、埋め立てられ現在のようなほぼ平坦な場所になっていったことも史実にあるので、この予想はだいたいあってると思っています。

そんなわけで、最初の写真1にもどるわけですが、画像3の絵図、案内板にのっていますよね。。
まさかのまさかでしたね。(笑)


衣紋坂(NO.282)その2-5
画像4(神名川横濱華郭之光景(横浜風景画帳)/1860年)

ちなみに別の角度から衣紋坂を描いている絵図もありました。
右側に大きく描かれているのが、当時の遊廓で、左側に奥の住宅街へと続いている道が衣紋坂のようですね。
こうしてみるとちゃんと坂になってますよね。


ということで、今回はこんな感じですが、あとは今後の課題として画像1の場所が実際どこなのか、それとも衣紋坂のデフォルメ画なのかを調べることですかね。


地図
横浜市中区真砂町1あたり

さんべ坂と呼ぶそうです。
場所は、東京メトロ永田町駅からすぐの場所にあり、坂上は国道246号と接しており、そこから衆参の議員会館の方へと下っている坂道です。


三べ坂(NO.281)1
写真1

まずは坂上からのものなど。(写真1)
ちょうどこの後ろが、東京メトロ永田町駅が地下にある国道246号という場所ですね。
このあたりは比較的ゆるやかに下っている感じでしたかね。


三べ坂(NO.281)2
写真2

ちょうど写真1の右側には参議院議長公邸が隣接しているのですが、そこの出入り口あたりに、こんな感じで「華族女学校跡」なる石碑もありました。(写真2)
これは、かつて華族女学校がこの地にあったことからということみたいですね。
ちなみに、この碑、ちょっと調べてみたら戦時中の昭和18年に建てられた碑とのことみたいです。なので、戦災で燃えたり壊れたりしないように、こんな大きな石を削って、石碑にしたのかなあと思ってみたり。


三べ坂(NO.281)3
写真3

一気に坂を下り、坂の中腹あたりまでやってきて、坂下方向を眺めてみたものです。(写真3)
この坂道のビューポイントはこのあたりですかね。
これまでにも何回かここを通っていますけど、議員会館が整然と並んでいる様やらこの高低差感、ヌケ感にいつも「ほほー」と思ってしまう感じですね。


三べ坂(NO.281)4
写真4

ほぼ同じ位置ですが、すこしばかり下って、今度は坂上方向を見てみたものです。(写真4)
こちら側は、両側の立派な擁壁が印象的でしたかね。
こっちからだと意外と高低差感あるように見えていました。

あと、写真4の右側にちらりと見えていますけど、ここにも坂の碑があったのですが、雨風にさらされて文字が見えなかったのですよ。。
なので、坂の碑に書かれていたことを抜粋してくれている東京23区の坂道さんのサイトを参考にさせていただくとですね(平成5年くらいの内容ですが)、
『この坂を三べ坂といいます。「新撰東京名所図会」には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂という。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂ともよばれていました。』
とのこと。

「水坂」なんて別名もあったんですね。
なるほど。



三べ坂(NO.281)5
写真5

もうすこし、坂を下り、坂下方向を見てみました。(写真5)
ここからだと、衆参の議員会館もかなり近いですね。
あと、昔はこの坂の左側、今はフェンスになっているところは、いい感じのかつての大蔵大臣公邸の名残りの赤レンガの塀が残っていたんですが、なくなってしまいましたね。。
なんというか大臣公邸のものなので、かなり気合い入れてつくられたはずの塀なので、ちょっともったいなかったかなあと今さらながら思っているのですが。


三べ坂(NO.281)6
写真6

写真5の位置からほんの少し下って、坂上方向を見てみたものです。(写真6)
こちら側から見るとここも高低差感ありますね。

あとはこの右側に赤レンガがあればさぞかし印象的な景色だったろうなあと思ってみたりもしますが、それはさておき、ここからは、坂道の風景とともに、遠くに見える坂上のいろんなビル群が印象的だったので、写真に残しておくことにしたのですよ。


ということで今回はこんな感じです。


(ひとこと)
今回撮った写真は、たびねすの記事「メトロ永田町駅の富士見坂と赤プリ跡地界隈史跡めぐり」の回で取材した時のものばかりです。なので、時期的にはその頃(2016年12月)の写真です。


地図
千代田区永田町2-17あたり

(とりあえず、昨年のたびねすの取材ついでにまわった坂道の写真もたまってきたので、しばらくはそのあたりの坂道を記事にしてみようかなと思っていますよ。)


すわ坂と呼ぶそうです。
場所は、メトロ永田町駅の出口とも直結していて、東京ガーデンテラス紀尾井町にも隣接している坂道です。


諏訪坂(NO.280)1
写真1

ではまず、坂下からの景色でも。(写真1)
比較的緩やかな勾配具合でしたかね。
しかもここからでも坂上あたりが見えているほど距離の短い坂道でした。

左側には、東京ガーデンテラス紀尾井町の高層ビルがあるんですが、ここは赤プリがかつてあった場所でもあるので、今のビル名よりも、赤プリ跡地と言ったほうが分かる人も多いかもですね。

ちなみに、このすぐそばには、いつものように坂の碑がありましたので、いつものように抜粋しておくとですね、
『この坂を諏訪坂といいます。「新撰東京名所図会」には「北白川宮御門より赤坂門の方へ下る坂を名づく。もと諏訪氏の邸宅ありしを以ってなり。」と記されています。道路の向かい都道府県会館の敷地には、江戸時代に旗本諏訪家が長期間屋敷を拝領していました。また、別名を達磨坂ともいいますが、旧北白川宮邸が紀州藩であった頃、その表門の柱にダルマに似た木目があったため達磨門とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と人々は呼ばれたためです。』
とありました。

坂の碑に書かれていたことも含めて、ちょっとした史実なんかについては、たびねすの記事の諏訪坂の項で書いてますのでそちらを見てくださいな。


諏訪坂(NO.280)2
写真2

前からだったのかは忘れましたが、東京ガーデンテラス紀尾井町の敷地内に「空の広場」という広場があるんですが、これがちょうど今回の坂下あたりと隣り合っていたのですよね。(写真2)
写真2は、広場側から坂道を見た写真ですけど、こんな感じになっていたのですよ。

ちなみにちなみに、東京ガーデンテラス紀尾井町のHPにも「空の広場」の記載があったので、抜粋しておきますよ。
『赤坂御門の歴史的遺構を保存しつつデザインに取り込んだ「空の広場」は、開放的でフラットな空間。東京メトロ永田町駅の出入口に近くアクセスしやすい位置にあり、イベントの開催など様々な用途に最適です。また、広場の高台からは、弁慶濠が見下ろすことができるなど、気持ちの良い眺望が広がります。』
まあ、赤坂御門のことはほぼ触れず見た目のことをそのまま書いているみたいですね。


諏訪坂(NO.280)3
写真3

そんなわけで、一気に坂上あたりまでやってきて、坂下方向を眺めてみました。(写真3)
左側は都道府県会館の敷地みたいなのですが、そこの空地と歩道が一帯になっていたので道路部分とあわせると道幅自体がけっこう広く見えていましたかね。
しかも遠くに見えるビルもちょっと雰囲気が一味違う外観のビルなので、やはり目がいってしまいますね。


諏訪坂(NO.280)4
写真4

そして、坂上あたりからさらに坂上方向を見ると、左側には、赤坂プリンスクラシックハウスが見えていましたよ。(写真4)
これは赤プリ時代からあった建物ですよね。
まあ東京ガーデンテラス紀尾井町ができるのにあわせてある程度はお化粧直しもされたみたいですけど。


諏訪坂(NO.280)5
写真5

最後は赤坂プリンスクラシックハウスのそばにあった「煉瓦基礎遺構」ですね。(写真5)
近くに案内看板があったので、一部を抜粋するとですね、
『2011年、旧李王家東京邸(現赤坂プリンスクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より北白川宮邸洋館の煉瓦基礎が発見された。(略)洋館は煉瓦造2階建の壮麗なゴシック建築で、設計者はジョサイア・コンドルであった。』
ということだそうです。
そして、北白川宮邸洋館の跡地に今の赤坂プリンスクラシックハウスがあるというわけですよね。
(なお、案内看板に書かれていたことをかなり省いてしまいましたので、気になる方は現地でどうぞ。(笑))


なお、今回撮った写真は、たびねすの記事「メトロ永田町駅の富士見坂と赤プリ跡地界隈史跡めぐり」の回で取材した時のものばかりです。なので、時期的にはその頃の写真です。
とりあえず記事では2枚しか掲載できなかったので、こちらでも書いておくことにしました。
ということで、今回は、こんな感じです。

地図
千代田区平河町2あたり

前に知恩院の男坂を取り上げましたが、やはり男坂があれば、女坂もあるのは全国共通ということですね。

場所は、同じく京都の知恩院の境内にあります。


知恩院の女坂(NO.279)1
写真1

では坂下からの景色でも。(写真1)
明らかに男坂と比べても緩やかですね。
ただ、ここは女坂によく見られるスロープではなく、階段でした。
ここから見るとなかなかかっこいいですし、まわりの緑との調和具合もいい感じです。


知恩院の女坂(NO.279)2
写真2

写真1の場所から左のほうをみると、ドーンとみえます。(写真2)
国宝の三門ですね。
三門についてのことは、男坂のほうで解説していますので、気になる方はそちらをどうぞ。


知恩院の女坂(NO.279)3
写真3

すこし階段を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真3)
坂下から見たときより、ここからのほうが高低差感ありましたかね。
それにしても三門と女坂、いいですねえ。


知恩院の女坂(NO.279)4
写真4

さらに階段を上ると、カクンとカーブするところがあり、そのあたりからの坂上方向を見たものです。(写真4)
もうここからなら坂上あたりが見えていました。
坂上の御影堂が仮囲いされてなければ、もうちっと京都っぽい景色になっていたのですが、残念。(笑)

あ、そうそう。
今仮囲されていて見えない御影堂ですが、実はこれも国宝なのですよね。
公式HPによると、『寛永10年(1633)の火災により焼失しましたが、寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、平成14年には国宝に指定されました。』
とあるので、僕が過去に見たものは、1639年に再建されたものということみたいですね。
なお、この御影堂の修理がおわり竣工するのは、2019年らしいです。


知恩院の女坂(NO.279)5
写真5

さらに階段を上り、坂下方向を見てみました。(写真5)
ここからのカーブ具合いい感じでしたね。
そして、なにやら左側にも古そうな建物があったのですが、名前については調べるの忘れましたので(汗)、またそのうち再訪した時にでも調べておきますよ。


知恩院の女坂(NO.279)6
写真6

そんなわけで、やっと坂上あたりまでやってきました。(写真6)
なんかこう見ると、坂道の雰囲気、新しい感じがしなくもなかったですかね。
ちなみに、左下の「総本山 知恩院」と書かれた手摺の石柱が見えてますが、その裏には、平成23年2月建立と書かれてありましたよ。
むむむ。
ということは、この女坂も新しめの坂道なのですかね。
でも前からここはあったような。。
まあ、これもそのうち再訪した時に調べておきますよ。(汗)


ということで、今回はこんな感じです。


地図
京都府京都市東山区林下町400

今年の正月は、関西の坂道もかなり散歩して写真も撮ったこともあり、名前のついた関西の坂道では、このブログ初となる場所を取り上げてみたいと思います。(みちくさ学会の記事ではダイジェストで書いていますけど、今回の坂道は取り上げていませんよ。)


場所は、京都市内にある八坂神社近くの知恩院の境内にあります。
三門から御影堂の方へと上る急階段で、坂名は男坂と名付けられています。


知恩院の男坂1
写真1

では、いきなりですが、坂下からの様子でも。(写真1)
知恩院に行ったことあるかたならわかると思いますが、大抵の人はここを歩くんじゃないですかね。
手前に2段、それから普通な感じの石段に踊り場。そしてその奥に急階段。
とにかく写真だけだと、わかりにくいですが、いい階段でしたよ。


知恩院の男坂2
写真2

次は階段を上り、踊り場まできて後ろを振り返ってみました。(写真2)
これみれば、あ!ここかあ、と思う人もでてきそうですかね。
奥に見えているのは、知恩院の三門で、公式HPによると「元和7年(1621)、徳川二代将軍秀忠公の命を受け建立されました。平成14年には国宝に指定されました。」とのこと。
国宝ですよ。国宝。
よく考えてみたらすごいですね。
しかも現存の木造建築としては最大級の二重門だそうですよ。

ちなみに、この門は徳川時代につくられたもののようですが、知恩院自体は(公式HPみてもわかりにくいので、ウィキペディアのほうを参考にしてみると)承安5年(1175年)創建らしいです。
なので、この坂道というか階段については、すこし現地などで詳しく調べなおしてみないと、江戸時代にできたものなのか、それより昔のものなのかちょっと判断しかねますかね。
でもまあ、この階段はおそらく三門がつくられたときよりは整備されていなかったとはいえ、江戸時代より前にはすでにあった可能性は高いとは思いますけどね。(ほんとは江戸時代よりずっと昔にあった坂道なのですよねー、ほほー。と、きっぱり言いたいところなのですが。笑)


知恩院の男坂3
写真3

写真2と同じ位置より、今度は坂上方向を見てみたものです。(写真3)
かなりの急階段ですねえ。
一段一段の段差もけっこう大きいですね。

しかも、左右の擁壁も歴史感じますねー。


知恩院の男坂4
写真4

さらに階段を上り、急階段の途中からです。(写真4)
急勾配すぎて坂上のほうは見えませんね。


知恩院の男坂5
写真5

いちおう、階段の勾配具合もぱちりと。(写真5)
なんかこうしてみるとそんな感じはしないですが、現地ではかなりの急勾配感があったのですよ。


知恩院の男坂6
写真6

そんなわけで、坂上までやってきて坂下方向を見てみました。(写真6)
これだと急勾配具合わかりやすいんじゃないですかね。(汗)
そして、高低差具合もすごいです。


知恩院の男坂7
写真7

ちなみに、坂上そばには「七百五十万霊塔」なる立派な建造物も見えていましたよ。(写真7)
公式HPの年表を見ると、1959年落成とあるので、こちらは新しいもののようですね。


知恩院の男坂8
写真8

あと、奥にはだいぶ前にきたときは中に入った記憶もある御影堂ですが、現在は写真8のように大改修中でありましたよ。(写真8)
なんかすごい囲いですね。


知恩院の男坂9
写真9

ここからはおまけです。(写真9)
写真2でも登場した三門を、階段でいえば坂下方向側の知恩院の敷地外から見てみたものです。
僕自身、知恩院といえば、この風景を思い浮かべていたわけですが。
ちなみに、門手前の階段は、境内の案内看板によれば男坂ではないみたいですね。


知恩院の男坂10
写真10

最後は、三門にある賽銭箱のあたりから、坂下方向を見てみました。(写真10)
門の向こうには、知恩院道なる広々とした道路があり、なんか軸線概念ぽかったので、思わずぱちりと。


ということで、京都市内の坂道については、今回の男坂をみてもらっただけでもわかるとは思いますが、周辺の歴史的レイヤーがありすぎますし、写真についても空いている時期に坂道を歩くのもなかなか難しそうなので、一気に調査という感じにせず、今後ぼちぼちと定点観測していければなあと思っていますのでよろしくです。



地図
京都府京都市東山区林下町400

所在地:目黒区八雲2-11あたり


ひかわ坂と呼ぶそうです。
場所は、これまたわかりにくいのですが、坂上は目黒通りに面していて、以前とりあげた宮前坂(NO.276)の西側を同じように並行して北に下っている坂道です。


氷川坂(NO.277)1
写真1

ではまず坂上から。(写真1)
写真では、途中でかくっと道が曲がっていて勾配具合がわかりにくいですが、こんな感じだったのです。
この背後に、目黒通りがある場所ともいえますかね。
とりあえず、ここからだと正面のマンションと道路の兼ね合いの部分をみると勾配具合がわかりやすいかもですね。


氷川坂(NO.277)2
写真2

写真1ではちょっとわかりにくいので、すこし坂を下り、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
奥の横断歩道があるあたりが目黒通りですね。
こうしてみると勾配具合わかりやすいですね。
道幅的にも狭めで、それもあるのか手前から奥の方向にしかいけない一方通行の道になっていました。


氷川坂(NO.277)3
写真3

さらに坂道を下り、坂上方向を見てみました。(写真3)
だんだんと住宅街らしくなってきましたかね。
坂道自体もカーブしていていい感じ。


氷川坂(NO.277)4
写真4

さらに下り、坂下方向が見渡せるあたりがこれですね。(写真4)
もうこのあたりから平坦な道となっていました。

ちなみに、写真4でも見えているとおり、ここにもいつものような坂の碑がありましたので、抜粋しておくとですね、
『近くに氷川神社があるので氷川坂と呼ぶようになり、この坂下のあたりを坂口といった。坂のあるこの道から氷川神社の前を右折し、商店街を通る道は二子道と呼ばれた古道である。』
とありました。

氷川神社があるので氷川坂。
わかりやすいですね。
氷川神社については、後でもふれますが、今回の坂下をさらに歩くとあり、写真4でも実は奥のほうにちらりと見えていたりするのですよ。


氷川坂(NO.277)5
写真5

そんなわけで、坂下あたりまできて、坂上方向を眺めてみました。(写真5)
ここからすでにカーブして上っているので、見た目てきにも楽しいですかね。
しかも左側の坂の碑とあいまって、この奥になんかありそうな雰囲気を感じてしまうわけですが、坂道自体はこれまで歩いてきたような景色だったというわけなのですよ。


氷川坂(NO.277)6
写真6

そして、せっかくなので氷川神社もあわせてぱちりと。(写真6)
位置的には、写真4のときにも言ったように、今回の坂道の坂下方向(地図で言えば北側)へ歩くと、この場所にやってきます。
とにかく、境内の大きな樹木が印象でしたかね。
神社の成り立ちなどこまかいことは、ウィキペディアのほうをみてもらうとしてもですね、この神社、どうやらかなり古い歴史があるらしく、創建年代は不明であるものの、文化文政期(江戸時代末期の文化〜文政年間 (1804〜30) ごろ)成立の「新編武蔵風土記稿」にも境内の様子が書かれていることから、その頃にはすでに神社はあったとみてよいと思われるのですよね。
なので、そうであれば、坂の碑にも書いてあった「氷川神社の前を右折し、商店街を通る道は二子道と呼ばれた古道である」というのも、要は写真6の左右を横切っている道が「二子道」ということになりそうなので、必然的にここも古道になると考えていいかもしれないですね。


氷川坂(NO.277)7
写真7

そんなわけで、最後はおまけがてらの氷川神社の境内の様子でも。(写真7)
敷地は地図でみてもらうとわかりやすいですが、かなり縦長な形をしています。
なので、ここからだとかなり奥に本殿がある感じでしたね。(地図で距離を測ってみたら150mほどありました。。)


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区八雲2-11あたり



(追記:この坂も草なぎさんが走った坂道なので、リストに追加しました。)

所在地:目黒区八雲1-12あたり


みやまえ坂と呼ぶそうです。
場所は、ちょっと説明しにくいのですが、わかりやすいところでいえば、東横線都立大学駅から目黒通り沿いに西へすこしあるくと今回の坂道の坂上あたりにやってきます。


宮前坂(NO.276)1
写真1

ではまず、坂上からの景色でも。(写真1)
道幅も車2台ぶんくらいで、比較的広く、坂下まで見渡せる短めの坂道でしたよ。
この後ろが、目黒通りということもあり、坂上側に背の高めのマンションが建っていますが、奥は戸建てが並ぶ住宅街という場所でしたかね。


宮前坂(NO.276)2
写真2

坂を下り、中腹あたりから坂上方向を見てみたものです。(写真2)
ここからだと建物1階分くらいの高低差はありそうですかね。
あとは左側の手前のビルの窓のというかベランダというか、なかなかおもしろいつくりしていましたよ。

ちなみに、ここにはいつものような坂の碑はないのですが、「歩いてみたい東京の坂」という本にその由来が書かれてあり、抜粋させていただくとですね、
『八雲十中通りと呼ばれる古い道で、地番改正以前に、このあたり一帯が宮前町だったことからの坂名であろう』
とありました。
ただ別の本では、ここは無名坂で、となりの氷川坂を別名で宮前坂と呼んでいる場合もあるのですが、まわりを歩いてみた限りではこの近くに宮前坂という名の坂道はありませんし、「歩いてみたい東京の坂」ではここだと書かれてありますし(ただ今までにも、なにかと坂道の場所が違うということが散見される坂道本ではありますが)、このブログでは、名前がついている坂道は多くあればうれしいということもありますので(笑)、ここを宮前坂ととらえて、散歩してみることにしましたので、あしからず。


宮前坂(NO.276)3
写真3

そして、一気に坂下あたりまでやってきて坂上方向を見てみました。(写真3)
もうこのあたりはまっ平らな場所でしたかね。
ちなみに、この左右を横切っている緑道が、「しどめ坂 (NO.273)」の話の時にもでてきた、「呑川」で、今は暗渠になっているところですね。


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区八雲1-12あたり

所在地:目黒区八雲3-4あたり


(引き続き、目黒区の個別の坂道の話です。)


ばけ坂と呼ぶそうです。
場所は、八雲の住宅街の中にあり、目立った施設がないので説明しづらいのですが、前に取り上げた「しどめ坂(NO.273)」の坂下の道をそのまま北に数分ほど歩くと、今回の化坂の坂上あたりにやってきます。


化坂 (NO.275)1
写真1

では、まず坂上からの景色でも。(写真1)
見てのとおりなのですが、ここからではかなりわかりにくいほどの緩い傾斜の坂道だったのですよ。しかも、まわりは住宅街で坂下までまっすぐな道ということで、坂道景色的には閑静な住宅街によくみられるまちの風景という感じでした。

ただ、そうは言っても写真1の左側にも見えているとおり、ここには都内の坂道によくみられる坂の碑が設置してあったので、やはりここは昔からある坂道なのですよ。
そんなわけで、いつものように坂の碑の内容を抜粋するとですね、
『元の化坂は耕地整理のため消滅している。武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し、湧水が出る所を「はけ」といった。それが転じて化坂となったといわれる。またこの坂が、衾と深沢の境を分けるので「分け坂」とも呼んだという。』
とありました。

なるほど、このあたりはやはり耕地整理されていたのですね。
どうりでまっすぐな道だったわけですね。
ということは、この道は、昔の坂道とはすこし場所が違うということでもあるわけですね。(汗)

坂の名前については、「武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し、湧水が出る所を「はけ」といった」とあるとおり、地形由来だったのですね。
しかも、このあたりから湧水が湧き出ていたとは。
なお、「衾と深沢の境を分ける」とある、この”衾(ふすま)”は、目黒区のHPによると、碑文谷とともに、目黒の歴史を語るとき欠かすことのできない、目黒の代表的な地名の一つだったそうです。そして、昭和39年に新住居表示が実施され、衾という町名も姿を消すことになったそうですよ。

あと、いつもお世話になっている「東京の坂道」という本には、「目黒大観はこれを(略)化坂の称呼は何に因由するものか、文字通り怪異があったと云ふせつが最も多い。」とも書かれてありましたよ。
たしかに、「化」→ばける、と想像しがちで、本の説明にも怪異とあるとおり、怪異は化け物や妖怪などを意味する言葉なので、そういう怪奇話がでてきてもおかしくないかもですね。
どろどろどろ〜。ひゅー。とんとんとん。きゃー。(夏らしく、笑)
(ちなみに、目黒大観とは、昭和のはじめに刊行された書物です。)


化坂 (NO.275)2
写真2

すこし坂をくだったあたりから、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
ここからだと、勾配具合がわかりやすいんじゃないですかね。


化坂 (NO.275)3
写真3

そして、一気に坂下あたりまできて、坂上方向を眺めてみました。(写真3)
写真的な見た目は、はじめにもいいましたがよくある落ち着いた住宅街という感じでしたかね。


化坂 (NO.275)4
写真4

ただですね、写真3の右側に、こんな感じの風情のある入口の茶屋があったのですよ。(写真4)
なんでも、看板をみると「八雲茶屋」というそうです。
散歩当日は、店が休みだったので、中には入れませんでしたが、かなりいい雰囲気の休憩処という感じでした。
帰ってから調べてみると、HPもありましたよ。
ただそれを見る限りでは、服装規定があるなどなかなか敷居高そうな感じにも思えましたが、今回の坂道沿いにぽつねんとあることや小規模な展覧会もやっているようですので、応援がてらHPをリンクしておきますので、気になる方はどうぞ。
→『八雲茶寮


あ、あとですね、これも「東京の坂道」の情報なのですが、この坂下あたりで、都立大の調査班により加曾利式土器が発掘されたそうですよ。
そのため、このすぐ東側を、呑川駒沢支流が流れていることからも、呑川沿いに先住民が生活したことがわかったそうですね。
なお、なぜ調査したのが都立大学だったかというのは、諸説あると思いますが、やはりこの坂の最寄り駅が都立大学とあるとおり、かつてこのあたりに都立大学があった(1991年に敷地が狭くなったことなどから、現在の多摩ニュータウンへ移転したのです)ことから、地域調査としておこなわれたのかなと予想しているのですが、どうでしょうかね。


ということで、今回は、こんな感じです。

地図:
目黒区八雲3-4あたり



(追記:この坂も草なぎさんが走った坂道なので、リストに追加しました。)

所在地:目黒区八雲3あたり

(ではいつもように坂道をとりあげます。)


たいこ坂と呼ぶそうです。
場所は前回取り上げた「しどめ坂(NO.273)」の西隣を平行して走っていて、目黒通り側から下っている坂道です。


太鼓坂 (NO.274)1
写真1

まずは坂下からの様子です。(写真1)
左側がしどめ坂(NO.273)にもでてきた宮前小学校で、今回はこの学校の西側に面している坂道を取り上げていることになりますかね。
なのでこの学校に接している東西の道が名前のついている坂道になっているという、なかなかたのしいつくりの小学校みたいでうらやましいです。
勾配具合などはしどめ坂(NO.273)とそれほど変わらないのですが、ここは両サイドが壁に囲まれたような感じになっているのが印象的でした。


太鼓坂 (NO.274)2
写真2

すこし坂をのぼり、坂下方向をみてみました。(写真2)
ここから見ると、さらに両サイドの擁壁のような建物の壁が際立っていましたかね。

しかも地図をみると、この左側はおしゃれな文房具をつくっていることでも知られるデルフォニックスの本社のようですね。
ただ、現地では、まわりは住宅街ということもあり、なにかお店があるとかそういう感じにも見えなかったので、地図で再確認してやっと気がつくという雰囲気の外観だったかもです。
というか、坂道側から見ると、白い壁には窓も見られるので、擁壁と一体になったかのようなつくりの建物でもあるようなので、その点でみてもなかなかおもしろかったですよ。

あとは、写真2の右側にもちらりと見えているとおり、ここにはいつものような坂の碑はなかったのですが、坂の説明が書かれた銀色のプレートが小学校の坂道側の壁にありましたので、いつものように抜粋しておくとですね、
『昔、この坂の斜面が太鼓のような形をしていたので、または、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので、太鼓坂と呼ばれるようになったといわれています。
また、目黒には多くの坂があり、この付近だけでも他に5つの坂があります。
_什筺´△靴匹畉筺´I浩邵筺´っ畑坂 ニ唳筺
とありました。

「太鼓を転がすように人が転げ落ちた」というのはなんとなくわかりますが、「斜面が太鼓のような形をしていた」というのは、ちょっとわかりにくいですね。。
太鼓の木枠の部分のことを言っているんですかね?
もしそうならば、なかなかの急坂といえるかもですが。
とにかく、なぜいきなり太鼓がでてくるかは不明ですが、そういう名前がつけられているのですよ。


太鼓坂 (NO.274)3
写真3

もうすこし坂をのぼると、両側が壁だった部分が一望できました。(写真3)
まわりが住宅街ということもあり、やはりこの両サイドの白い壁は印象に残りましたよ。


太鼓坂 (NO.274)4
写真4

今度は写真3とだいたい同じ位置より坂上方向を見てみました。(写真4)
見た感じはなんてことない坂道ともいえますかね。
ただ、場所柄か、左側のマンションが打ち放しでおしゃれな雰囲気のつくりになっていたところは、やはりなあと思ってみたり。


太鼓坂 (NO.274)5
写真5

最後は、坂上あたりからの景色です。(写真5)
道が一直線のためか坂下まで一望でき、さらにその向うまで道が続いているのは、このあたりの特徴でもあるかもですね。
ちなみにこの坂道も、しどめ坂(NO.273)と同じく、坂下を呑川の暗渠が横切っているので、別名で「しどめ坂」と読んでもいいかもしれないですね。


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区八雲3あたり


(追記:この坂も草なぎさんが走った坂道なので、リストに追加しました。)

再びの目黒区にて、今回は3ヶ月ほど前に歩いた時に記録しておいたもので、界隈の坂道を数件ほどまわってみた時のことでも。


場所は、東横線の都立大学から西へ目黒通り沿いにすこし歩くと、今回の坂道の坂上あたりにやってきます。


しどめ坂(NO.273)
写真1

まずは坂上からの景色でも。(写真1)
見てのとおりなのですが、ここからも坂下の様子が見えているとおり、直線の坂道です。
ただ、まわりが閑静な住宅街ということもあり、背の高いビルなどがないためか高低差具合がわかりやすく、空もひらけていました。


しどめ坂(NO.273)2
写真2

写真1の背後を見てみると、目黒通りが見えていました。(写真2)


しどめ坂(NO.273)3
写真3

すこし、坂を下り、同じく坂上方向をみてみたものです。(写真3)
もうこのあたりから、写真でもわかるくらいの勾配具合になっていましたかね。


しどめ坂(NO.273)4
写真4

さらに坂を下り、今度は坂下方向を見てみました。(写真4)
このアングルからの景色、なかなかいい感じでしたよ。
左側は宮前小学校の敷地ということで、建物もないためこんな景色が見られるというわけですね。
ちなみに、写真でもちらりと見えているのですが、ここにもいつものような坂の碑がありましたので、いつものように抜粋するとですね、
『「しどめ」とはバラ科の草ぼけ(しどみ)のことで、赤い花の咲くとげのある木である。昔はこのしどめが、呑川の岸辺に群生していたので坂名になったといわれる。』
とのこと。

なるほど。
碑の説明にある「呑川」というのは、今回のしどめ坂の坂下を流れている川で、今は暗渠になっているようですね。
なお、クサボケ(草ぼけ)については、リンク先のサイトが詳しいので、そちらのほうを参考にしていただきたいのですが、ひとつ気になったのは、文化的背景として『平安時代の「倭名類聚抄」や、江戸時代の「本草綱目啓蒙」などの本草書に「木瓜」の名が現れています。万葉集に2首で詠われている「馬酔木」は、通常「アセビ」とされますが、「ボケ」であるとする説もあります。 』とあるとおり、草ぼけはかなり古くから日本にあったようですね。

また、目黒区の公式HPにも、しどめ坂のことが取り上げられており、呑川のことをふれているので、そちらも抜粋しておくとですね、
『戦前、この辺りは雑木林で、畑も多かった。畑では小麦やさつまいもが作られていた。しどめ坂はもっと急勾配で、坂道を下ると、今の八雲保育園のすぐ向こうに曲がりくねった呑川が流れ、周りには田んぼが広がっていた。耕地整理、暗きょ化で呑川も姿を消し、周りもすっかり住宅地になってしまった。』
とのこと。

なんとなく、このあたりの昔の雰囲気がわかって、ありがたいです。


しどめ坂(NO.273)5
写真5

すこし坂を下り、坂上方向を撮ってみたものです。(写真5)
おそらく、この坂道はさっきの写真4あたりの場所も含めて、このあたりが坂道風景的にはいい感じかもですね。
高低差具合もけっこうありますしね。

しどめ坂(NO.273)6
写真6

そんなわけで、一気に坂下あたりまでやってきました。(写真6)
こうしてみると、坂上あたりからの高低差もけっこうためか、坂上のほうから坂下のほうは見えたのですが、ここからは坂上あたりの様子は見えませんでした。

あ、そうそう。
この「しどめ坂」ですが、今日のネットやテレビなどでもかなり話題になったSMAPの解散ニュースを聞いて、突然思い出しのですよ。
SMAPさんのメンバーである草なぎさんが、2010年に目黒の坂道を番組内で走ったことをですね。
そして、復習してみたら、やっぱりこの坂も走っていたようですね。
なので、これまでにも草なぎさんが走った坂道で、すでに記事にしてしまっているところも多々あるようですので、このことに言及するのは今回限りにしますが(もしくは別記事に書くなど)、とにかく、そういう視点(坂道芸能史てきに??)で見ても、なかなかおもしろいことになりそうだなあということがわかった今回の散歩でした。


ということで、今回はこんな感じです。

地図
目黒区八雲3-12あたり

今回も、前回のハナミ坂(NO.271)に続いて、東京スカイツリー内にある坂道です。
場所は、ハナミ坂(NO.271)が、東京ソラマチ内の南西側にあったのに対して、今回のソラミ坂は、敷地北東側にあります。


ソラミ坂(NO.272)1
写真1

めずらしく、坂名が記された案内板からでも。(写真1)
ソラミ坂についての由来とかは書かれておらず、こんな感じでババンと坂道の名前が案内されておりました。
ちなみに訪れた時期が年末だったので、みなさんの服装も厚めです。


ソラミ坂(NO.272)2
写真2

まずは坂下からの景色でも。(写真2)
ソラミ(→空見)という坂の名前からしても、この場所がこの坂道のメインディッシュなのだろうなあと思えるくらいわかりやすいつくりというか階段になっていました。
(写真は撮り忘れましたが、このそばに撮影ポイントと書かれた場所もありますしね。)
ここも東京ソラマチという商業施設の各階に入るための階段に名前がつけられたようですが、こちらはハナミ坂(NO.271)と違い、タワー高層部分が階段のあらゆる場所で、坂名のとおり見上げればしっかりと見えるのがポイントかもですね。

そして、階段アートもここからならしっかりと見えていました。
最近は、こういう階段アートをよく見かけますが、商業施設のはやりなんですかね(よく知りませんが)。


ソラミ坂(NO.272)3
写真3

階段を上り、坂下方向を見てみました。(写真3)
階下の人がいるあたりが、写真1での撮影ポイントというか坂下あたりの場所になりますし、写真3ではわかりにくいですが、この右奥側がメトロ押上駅うえのバスロータリー(地上1Fレベル)とつながっている場所ということになりますかね。


ソラミ坂(NO.272)4
写真4

写真3からすこし横移動して、今度は坂上方向を見上げてみました。(写真4)
さらに階段になっていました。
しかもなんかいい感じでカーブしています。
もちろん、その上にはスカイツリー。


ソラミ坂(NO.272)5
写真5

さらに階段を上り、坂下方向をみてみました。(写真5)
人がいるあたりが、写真4でいた場所ですかね。
奥には、なぜかジブリのグッズを扱うショップがありました。


ソラミ坂(NO.272)6
写真6

すこし階段をあがり、踊り場のあたりにきて、再び坂下方向の景色など。(写真6)
このあたりは景色が開けていました。
左側がタリーズなので、東京ソラマチのフロアガイドを見ると、ここが3階ということになりますかね。


ソラミ坂(NO.272)7
写真7

すこし坂を上るとこんな感じ。(写真7)
手前の人がいるあたりが、写真6の場所ですかね。


ソラミ坂(NO.272)8
写真8

そして、写真7の位置から背後を振り返ると、やっと坂上あたりが見えていました。(写真8)
東京ソラマチのフロアガイドでは、ここは4階にあたり、ここからソラミ坂と書かれていますので、ここがソラミ坂の坂上というのは正しいみたいですね。

しかも、スカイツリーの展望台への入口もこの階にあるようでした。


ソラミ坂(NO.272)9
写真9

そして、最後は、せっかくなのでツリーの最上部まで見えるポイントでぱちりと一枚。(写真9)
でも、ここまで来ていながらツリーにはのぼらず。(笑)
なお、スカイツリーの詳しいことについては、ウィキペディアでも詳しく書かれていますので、気になる方はそちらでもどうぞ。
→ https://ja.wikipedia.org/wiki/東京スカイツリー


ということで、前回、今回と連続して、東京ソラマチという人工物(構造物)の上にある名前がつけられた坂道というか階段を歩いたわけですが、これで、以前カルカルのイベントで登壇した時に、人工物の階段は坂道なのか?という(当時の想定では京都駅の大階段でしたが)提起をしたことに対するひとつの答えがでてきたかもしれないですね。


地図
墨田区押上1-1

今回の坂道は最近できた新しい坂道です。
場所は、東京スカイツリーのある東京ソラマチ内にあり、ハナミ坂という名前ではありますが、階段になっている坂道です。


ハナミ坂(NO.271)1
写真1

まずは階段下あたりより。(写真1)
もう見てのとおりですが、東京ソラマチという商業施設の中に入るための階段ですね。
そこに名前をつけてみましたという具合の坂道でした。
ただ、左にカーブしながらの階段ということで、見た目というかつくりはかなりかっこいいかもです。

とりあえず、当日は人のいないタイミングで写真を撮るのに手間取りましたかね。(笑)


ハナミ坂(NO.271)2
写真2

今回は、坂名が書かれた案内板ものせてみますよ。(写真2)
ちなみに、ここには坂名の由来などは書かれておらず、東京ソラマチのサイトや区のサイトでも説明などは書かれていないようでした。
ただ、東京ソラマチ自体は、2012年開業なので、この坂道も同年にできたということだけはわかるかもですね。
あとは、商店建築さんのサイトに、東京ソラマチの建設に関わった方々の名前が書かれているので、このあたりの方々か、運営側の方がつくろうと!と決めたのだとは思いますが。。


ハナミ坂(NO.271)3
写真3

すこし階段をのぼり、坂下方向をみてみたものです。(写真3)
坂下は比較的広々としていましたかね。
ハナミ坂ひろばという名前がつけられていました。


ハナミ坂(NO.271)4
写真4

さらに階段を上り、今度は坂上方向を見てみました。(写真4)
坂下からはわからなかったですが、かなり距離のあるというか高低差が大きい階段だったのですね。
階段自体はここから直線形態になっていました。


ハナミ坂(NO.271)5
写真5

写真4でも見えていたのですが、カメラの画角の問題で入りきらなかったので、ちょっと上のほうにもカメラを向けてぱちりと。(写真5)
お決まり事のようにスカイツリーのタワー部分が見えていましたよ。
ちなみに、あらかじめ言っておきますが、今回の散歩では、タワー上部の展望台には行っていませんので、あしからず。


ハナミ坂(NO.271)6
写真6

写真4とだいたい同じ位置より、再び坂下方向でも。(写真6)
こうしてみてみると、地上部分から施設内に入る階段を、実は大階段にしたかったけど、スペース的に無理っぽいので、こんな風な建物の外回りをくねってまわる印象的な階段のつくりにしてみたのでは?、とこの景色みながら深読みしてしまいましたよ。(汗)


ハナミ坂(NO.271)7
写真7

さらに階段をのぼると、やっと東京ソラマチの施設内に入れるフロアにやってきました。(写真7)
おそらくハナミ坂てきにはこのあたりが坂上なのかなと。
でも、正面の階段アートまで描かれている階段がさらに続いているので、これらのこまかいことは、またそのうち分かり次第、追記の形でお知らせしますので、少々お待ちを。


ハナミ坂(NO.271)8
写真8

そんなこんなで、坂上あたりの様子も含めた景色など。(写真8)
左は川になっていて、北十間川というそうですが、そのおかげでここからの景色も開けていていい感じでしたよ。
しかも、方角的にちょうど、写真8でみている奥のほうに富士山もあるはずなので、この高低差具合からすると時期があえばもしかしたらビルの隙間から見えるかもですね。


ちなみに、北十間川で調べていたらいろいろ未来についてや過去についての面白いことがでてきたので、メモがてら残しておきますけど、まずこの北十間川はスカイツリーと隣接していることから、墨田区は「北十間川水辺活用構想」なんて計画を策定していたんですねえ。
ちょうど、この左側の景色とリンクしている場所ですね。
詳しい案などについて、リンク先にPDFにてどうぞ。
→ https://www.city.sumida.lg.jp/sangyo_matidukuri/matizukuri/kasen_kyouryou/kitajikken_kousou.files/4.pdf
https://www.city.sumida.lg.jp/smph/sangyo_matidukuri/matizukuri/kasen_kyouryou/kitajikken_kousou.html

はてさてどうなることやら。


ハナミ坂(NO.271)10
柳しま

過去の話のほうでは、スカイツリーの東側(800mくらいの場所)の北十間川沿いに架かる十間橋のあたりの過去の景色を描いた広重による浮世絵もあったんですよ。
「柳しま」という絵ですね。
左右に流れているのが、北十間川で、左下に見えているのが、今も地図には記載のある(いったことがないので)、法性寺というお寺ということになりそうですかね。
あとは、この絵でいえば、左上のほうに、もし当時スカイツリーがあれば(汗)、見えているかもという場所とも言えるかもです。
とにかく、当時は浮世絵にするくらいだから、雰囲気よかったんですかね。


ハナミ坂(NO.271)9
写真9

最後はおまけです。(写真9)
写真7でも見えていた、奥の階段を上り、最上段部あたりから、坂下方向を眺めてみたものです。
なるほどー、そうきましたか。(笑)
それにしても、かなりの高低差ですね。


ということで、今回はこんな感じです。


地図
墨田区押上1-1

ごんのすけ坂とよぶそうです。
今回の坂も目黒通りそのものが坂道で、場所は、金毘羅坂(NO.269)の坂下から東へすこし移動したところにあります。


権之助坂(NO.270)1
写真1

まずは坂下からの様子でも。(写真1)
すぐ背後には、目黒川が横切っているあたりですね。
同じ目黒通りでも、すぐ西側にある金毘羅坂(NO.269)の広い道幅に比べると普通の道幅の坂道となっていましたかね。
ただここも目黒通りということもあり、両側のビルは背が高めのため独特な坂道風景をつくっている印象でした。


権之助坂(NO.270)2
写真2

写真1のすぐ右側の景色です。(写真2)
ここは見ての通りで、橋の上からの景色でもあるとおりで、名前は目黒新橋というそうです。
そして、奥には行人坂(NO.266)の坂下のほうでも登場した目黒雅叙園のタワー部分も見えていましたよ。


権之助坂(NO.270)3
写真3

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真3)
ちょっときつめの勾配具合が坂下から同じように続き、ここで、目黒通りは二手に分かれていました。
右側の道が、今回の権之助坂になります。
なので、車で今回の坂道を通るなら坂上からしか行けないことになりますかね。
左側の道は、放射3号支線という別名もあるみたいですね。
あとは、左側にもアーケードがちらりと見えているとおり、この権之助坂の沿道は、権之助坂商店街と呼ばれているそうで、ちょっと懐かしい雰囲気のお店なども含めて、沿道には256店ものお店が軒を連ねているそうですよ。


権之助坂(NO.270)4
写真4

あ、そうそう。(写真4)
このすぐそば(左側)には、崖のようになっているようで、こんな風ないい感じの階段になっていました。
かなりの高低差ですねえ。
今回は、階段上からの写真しか撮っていませんが、またそのうち再訪して記録しておきたい階段かもですね。


権之助坂(NO.270)5
写真5

では、道が二手に分かれるところを右に行き、坂上方向を見てみました。(写真5)
三車線ということで、こうみると広いですねえ。
あとは、舗装が茶色になっているのも気になるところです。


権之助坂(NO.270)6
写真6

写真5とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真6)
右側のほうにちらりと「権之助坂」と書かれた標識がでていますよね。
僕の知るかぎり、こんな具合に標識の形で坂名が書かれているのは、地名と連動している以外の坂道ではかなり珍しい事例だと思いますね。
ちなみに、今回の坂道には、いつものような坂の名前が書かれた坂の碑はありませんでしたが、目黒区のサイトに説明が書かれていましたので、一部抜粋させていただくとですね、
『昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。』
とありました。
まあ、これだけでは、新坂なのでは?と思う方もいると思いますので、補足事項として、さらに抜粋させていただくとですね、
『江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。
 馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。
 村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。』
とのこと。

ちなみに、タモリさんや山野勝さんの坂道本では、「許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われた」という説を強調されておりましたよ。
なお、菅沼権之助が許可なく新坂を切り開いたというのは、行人坂(NO.266)があまりにも急坂で当時のひとたちが往来時にあまりに苦労しているのを見かねて、新しい坂をすぐそばに切り開いたわけですが、その際に事前に許可なくつくってしまったからだそうですよ。
ではなぜ、許可が必要だったかというのは、(ブラタモリを継続的に見ているかたならピンとくるかもですし)、タモリさんの坂道本でも書かれていますが、ようは防衛のため主要道以外に道をつくることは当時禁止されていたためなのですよ。
なので、処刑される前に、菅沼権之助が、坂上から自分の家を望み、処刑されるのも忘れて喜んだというエピソードだけで、その坂道が権之助坂と呼ばれるようになったというのもわかりますが、やはり新しい坂道を当時つくるとなればかなりの大事業だったはずで、つくっている過程から幕府だって気がつかないわけはないと思われるわけなので、できる前から相当な圧力を受けながらの造営だったのだろうことを思うと、やはり坂道ファンとしては、地域の人のために許可なく新坂を切り開いたために、罪に問われてしまった説を有力説としてみたいところではありますかね。


権之助坂(NO.270)7
写真7

こちらは、写真5でも見えていた歩道橋からの景色です。(写真7)
ちょうど目黒通りが二手にわかれている場所がきれいに見えていたので、ぱちりと一枚。


権之助坂(NO.270)8
写真8

さらに坂を上り、坂上方向を見てみたものです。(写真8)
このあたりから勾配具合もゆるくなり、両サイドもオフィスビルっぽい建物が一気に目立つようになってきました。


権之助坂(NO.270)9
写真9

そんなこんなで、坂上あたりにやってきて坂下方向を見てみました。(写真9)
勾配具合はかなり緩めですが、史実を知ってから、この景色を見ると、この勾配がまた違った風景に見えてくるんじゃないですかね。


権之助坂(NO.270)10
写真10

最後は、写真9の背後の様子でも。(写真10)
JR目黒駅前の風景が広がっていましたよ。

『昭和42年11月、ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店、老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。(略)、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。
 坂の方も、権之助坂のわき腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水をさばき切れずにあえいでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろう。』
(目黒区のサイトより抜粋)


ということで、今回はこんな感じです。



地図
目黒区目黒1-4or品川区上大崎2-27あたり

こんぴら坂とよぶそうです。
場所については、前回取り上げた、十七が坂(NO.268)の南側を目黒通りが走っているのですが、今回の坂道は、なんと目黒通り自体が坂道であり、その坂道に名前がついているという場所なのです。


金毘羅坂(NO.269)1
写真1

まずは坂下あたりより。(写真1)
奥のすこしカーブしながら上っている坂道が、今回の坂道ですね。
ここは、ちょうど左右に山手通りが横切っていて、目黒通りと山手通りが交差する場所でもありました。
なので、こんなに広々としているのですね。


金毘羅坂(NO.269)2
写真2

坂をすこし上り、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
幅の広い、ゆったりとした坂道でした。
ちなみに、ちょうど右側にもそれらしきお店が見えていますが、ちょうどこの坂道の坂下あたりから西側あたりの目黒通り沿いに個性的なインテリアショップが点在していることから、このあたりのことをいつしか、目黒インテリアストリートと呼ばれるようになったみたいですね。
目黒インテリアストリートについては、以前からその存在は知っていたのですが、今回、改めて調べてみると、「MISC」なる、目黒インテリアストリートを紹介している公式サイトがありましたので、気になるかたはそちらでも見てくださいな。
→ http://misc.co.jp/?page_id=11233


金毘羅坂(NO.269)3
写真3

そして、写真2の左側には、こんな感じで、大島神社の境内が見えていました。(写真3)
写真1の左側にもちらりと見えていた神社ですね。
こちらの神社の詳しいことについては、「御朱印・神社メモ」さんのサイトが詳しく、江戸名所図会などものせていらしたので、そちらのほうをリンクしておきますね。
→ http://jinjamemo.com/archives/27004170.html


金毘羅坂(NO.269)4
写真4

さらに坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真4)
こっち側の景色はほぼまったいらですね。


金毘羅坂(NO.269)5
写真5

写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真5)
広々としていますねえ。
ただ、この広い道幅になったのは、昭和のはじめ頃らしく、それまではこの道幅も8mくらいしかなかったらしいですよ。


金毘羅坂(NO.269)6
写真6

もうすこし坂をのぼり、坂下方向を見てみたものです。(写真6)
広い道幅やまわりの背の高めのビルのおかげで、わかりにくいですけど、実は高低差のほうはけっこうある感じでしたよ。

ちなみにここにも、いつものような坂名の由来が書かれている案内板が途中にあったようなのですが、今回は気がつかなかったので(またそのうち調べておきます)、とりあえず、目黒区のサイトにも坂の説明が書かれたページがありますので、かわりに一部抜粋させていただくとですね、
『目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂(こんぴらざか)という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社こんぴらしゃ(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。
明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。』
とのこと。

まず、この金毘羅坂の由来となったという金毘羅社ですが、古地図で調べてみると、ちゃんと記録されていましたよ。
「金毘羅大権現」という名称でのっていました。
場所的には、ちょうど写真6の左側あたりにあったようですね。
ちょっと調べてみると、なんと、あのクリナップのサイトに江戸散策「太鼓橋の向こうには”目黒三社”の目黒不動」なるページがあり、今回の金毘羅社についてのこともふれられていましたので、一部抜粋させていただくとですね、
『「金昆羅」はかなり広大な土地を有した寺なのに、跡形もなくなっている。寺というのは「高幢寺(こうどうじ)」のなかに「金昆羅」があったからで、こちらの方が有名だった。江戸切絵図では「金昆羅大権現」と書かれている。廃寺になったのは明治の初め、新政府の「神仏分離令」と「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動によるものである。 
寺社の多くは“神仏分離”に何とか対応して現在に続いているわけだが、それができなかったのはなぜか。明治新政府の中枢となった雄藩の一つ、薩摩藩の庇護のもとに「金昆羅」があったためと推測する。立場として自ら厳しく対処せざるを得なかったのだろう。』
とのこと。

たしかに、古地図を見てもかなり大きな敷地だったので、なぜなんだろう?と思ったわけですが、これで納得という感じですかね。

あと、目黒競馬場については後ですこしふれます。


金毘羅坂(NO.269)7
写真7

写真6の右側には、写真7のとおりで「目黒寄生虫館」なる公共施設もあったのですよ。(写真7)
「寄生虫」を専門に扱った世界でも唯一の研究博物館とのことで、規模は小さいながら、展示物を見ていると、月並みな言い方ですが、いろいろと生物について人間について考えさせられてしまいましたよ。(笑)
あとは時期的にも、北里大学の大村智博士がノーベル生理学医学賞を受賞した直後にこの施設を訪れたことも、興味をひかれたというか、かなり影響あったかもですね。



金毘羅坂(NO.269)8
写真8

さらに坂をのぼり、坂上方向を見てみました。(写真8)
このあたりから坂道の勾配具合もゆるやかになってきました。


金毘羅坂(NO.269)9
写真9

あと、気になったのがこれでしたかね。(写真9)
実は写真8の左上のほうにもちらりと見えていたのですが、多摩大学目黒中学校・高等学校の校舎への入口がこんな風なつくりになっていたのですよ。
かなりびっくりなつくりだったので、おもわずぱちりと。


金毘羅坂(NO.269)10
写真10

そんなわけで、やっと坂上あたりにやってきました。(写真10)
ただ坂道風景的には、なんてことない目黒通りの景色ともいえますかね。
あとは、さきほどでてきた、この近くにあったという目黒競馬場についてですが、実は散歩当日はこのことをすっかり忘れており、調べてくるのを忘れていたのですよ。。
しかも、このすぐ西側には、「元競馬場」なる交差点まであったのです。(泣)
要は、この写真10の右側うしろあたりに、かつて目黒競馬場があったということみたいなのですよ。。


金毘羅坂(NO.269)11
目黒競馬場

仕方ないので、まえにこのブログの本カテゴリーでも紹介した「東京現代遺跡発掘の旅」に目黒競馬場の当時の写真が掲載されていたので、ちょっと拝借してのせておきたいと思いますよ。
僕自身は競馬については全然くわしくないというかよくよく思い出してみると競馬場自体に行ったことがないのですが、それでも、写真をみるだけで、この近くにこんな広々とした場所があったことだけはわかりますし、意味もなく感慨深くなってしまいますかね。
あと、目黒競馬場については、僕に知る限り、この「現代遺跡発掘の旅」の本にて当時の様子、大山さんのデイリーのネット記事にて現地写真などが詳しく取り上げられていますので、気になる方はそちらのほうでも見てもうらうと、いくつかの史実がわかると思いますよ。


富嶽三十六景・下目黒
富嶽三十六景・下目黒

いろいろ調べていたら、どうやらこのあたり(下目黒)の、江戸時代の様子を描いている葛飾北斎による富嶽三十六景・下目黒なる浮世絵が、あることがわかりましたので、せっかくなので最後にのせておきますよ。
なんとなく絵の色つかいや雰囲気が今ぽいですが、大昔の絵なんですよね。

やはりこの坂上あたりからも富士山がみえたんですかねえ。(わかりませんが・・・)


ということで今回はこんな感じです。


地図
目黒区下目黒3-24あたり

じゅうしちが坂と呼ぶそうです。

場所は、前に取り上げた馬喰坂(NO.267)の坂上から南西側の道をすこし南下すると、今回の坂道の坂上あたりにやってきます。



十七が坂(NO.268)1
写真1

まずは坂上あたりからの景色でも。(写真1)
とりあえず、ここからは坂下あたりの様子は見えないことや遠くの景色からも結構な高低差具合の坂道ということはわかりますかね。

ちなみに、ここにも写真でちらりと見えているとおり、坂の碑がありましたので、いつものように抜粋するとですね、
『「一七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道せずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説や坂の途中にある坂碑型庚申塔に一七人の名が刻まれていることに関連するという説など、由来についてはいくつかの説がある。』
とありました。

まず、「「一七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道せずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説」というところ、そのままといえばそうなのですが、もうすこしわかりやすい説明が目黒区のサイトにありましたので、そちらのほうも抜粋するとですね、
『宿山と目黒不動尊を結ぶ庚申道の難関がこの坂越えであったという。そのため、この坂道を利用するのはもっぱら若者ばかりで、老人や子どもは坂下から西方へ迂回して藤の庚申で庚申道に合流する回り道を利用したという。あまりに急であったため、子どもが坂道の途中でころぶと、17歳になったとき不祥事が起きるという話が坂名の由来と伝えられる。』
とありました。
要は、この坂道の西側に迂回路があったようで、目黒不動尊の方から宿山(どうやら中目黒駅の西側にある世田谷公園の近くみたいですね)へと先を急ぐ(逆もしかり)若者がもっぱら利用していた坂道だったからということみたいですね。
ただ、ここでなぜ、子どもが坂道の途中でころぶと、17歳になったとき不祥事が起きるという話が出てくるのかは不明ですが。。


十七が坂(NO.268)2
写真2

あと、写真1の道路の左側になにげに見えていたのですが、坂の途中にはこんな具合に庚申塔があり、「十七が坂上の庚申塔」と書かれた案内板もありました。(写真2)
こちらもせっかくなので、抜粋させていただくとですね、
『江戸時代の農村では庚申信仰がさかんで各集落に講があり、その寄進で庚申塔が建立されました。
庚申塔には、青面金剛や三猿、年号、建立者名などが刻まれていて、村の歴史や人々の生活を知るための貴重な資料です。
この庚申塔は前の十七が坂上にあるので「十七が坂上庚申塔」と呼んでいます。
墓地の中でひと際目立ち、高さ2メートル余もある宝篋印塔型の庚申塔は、寛永3年(1626)に建立されたもので都内でも古いもので菅沼一族8名の名があります。また、この塔の前の板碑型庚申塔には明暦3年(1657)の年号と、その下に17人の建立者名が刻まれています。その筆頭者に「権之助」の名前が見られますが「権之助坂」の名のおこりになった菅沼権之助ではないかと言われています。』
とのこと。

なるほど。
ちなみに、今回は気になったので、すこし調べてみると、目黒区のサイトに「庚申塔(こうしんとう)って何」と、タイトルそのままですが、庚申塔に関するわかりやすい説明が書かれたページがありましたので、リンクしておきますよ。
→ http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/koshinto/nani.html
(各部の名称なんて図もあって、これはいいですよ。プリントアウトして坂道散歩の時は持ち歩きたいくらいですね)
それにしても、説明を読んでみると60日に一度くるという庚申の日には徹夜して過ごした、とありますけど、本当だったんですかね。。

あとは、坂の碑にも書いてあった「坂の途中にある坂碑型庚申塔に一七人の名が刻まれていることに関連するという説」については、これでこの場所が、坂名の由来の可能性であるということもわかりましたかね。
ただ、庚申塔の名が、「十七が坂上の庚申塔」とついているので、この庚申塔については、後から名前がついたことだけは、正しいような気もしますがどうでしょうかね。


十七が坂(NO.268)3
写真3

こちらは、すこし坂を下り、坂下方向を見たものです。(写真3)
坂の説明のとおり、けっこうな勾配具合でした。
坂下のほうの建物をみるとわかりやすいですよね。
眺めもなかなかです。
そして、黄色の勾配看板ですね。
写真では見にくいかもですが、10%と書いてあります。
しかも、こちらも恒例の急坂になると登場するドーナツ型の滑り止めですね。
やはりいろんな要素を見てもここは急坂ですね。(笑)


十七が坂(NO.268)4
写真4

さらに坂をくだり、同じく坂下方向を見てみました。(写真4)
下のほうの勾配が緩やかになっているあたりが坂下あたりですかね。
くねくねとしていて、変な形の道のつくりが、古くからありそうな雰囲気を醸し出していましたかね。


十七が坂(NO.268)5
写真5

いちおう、だいたい同じ位置より、坂上方向も見てみました。(写真5)
この写真であれば、急坂具合がすごくわかるんじゃないですかね。(汗)


十七が坂(NO.268)6
写真6

そんなわけで、やっと坂下あたりにやってきました。(写真6)
右側の坂道が、今回の坂道ですね。
ここから見るとカーブ具合がいいですねえ。

しかも、なかなか良い感じのY字路にもなっていました。

ちなみに、最初のほうに出てきた今回の坂道の西側にある迂回路ですが、どうやら写真6に写っている左側の道が、地図でみたところ、その道に該当する可能性が高いみたいでした。
もしその史実が正しければ、ここは歴史的にも古いY字路ということになるのかもしれないのですね。

ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区目黒3-3あたり

ばくろ坂というそうです。
場所は、目黒駅の西側、山手通りをこえたあたりにあり、前にとりあげた新茶屋坂 (NO.264)の坂下からもほど近い場所にあります。


馬喰坂(NO.267)1
写真1

まずは、坂下の様子など。(写真1)
すぐそばには山手通りが走っており、騒々しいですが、この坂道はそこから一歩奥に入った場所にあり、このあたりから一気に静かな住宅街になっていました。

ちなみに、このすぐそばに馬喰坂の坂名の由来が書かれた案内板がありましたので、そのまま抜粋するとですね、
『逆Sの字にカーブを描く目の前の坂が馬喰坂。その昔、坂はとても急で、切り通しの工事を行った。しかし、頂上部は、庚申道が交差して、思い切った工事ができず、風雨にさらされると、大小の穴で路面が凹凸していた。道路に穴があいた状態を昔の方言で「ばくろ」といい、それが坂の名になったという。馬喰の字は当て字らしい。』
とありました。

「逆Sの字にカーブ」と始めにありますが、もうこのあたりからその雰囲気は出ているかもですね。
「急坂」とありますが、それはのちほどということで。


馬喰坂(NO.267)2
写真2

しばらく坂をのぼり、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
坂上のほうが見えないくらいのカーブ具合、いいですねえ。


馬喰坂(NO.267)3
写真3

こちらはすこし坂をのぼり、さっきのカーブを曲がりきったあたりからの景色です。(写真3)
たしかに逆S字にカーブしてますね。
勾配具合といいカーブ具合といい、なかなか良い感じの景色でしたかね。


馬喰坂(NO.267)4
写真4

さらに坂を上り、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真4)
こっちからみるとS字カーブですね。。
しかも勾配具合もわかりづらいです。(というか写真の問題なんですけどね。)
山手通りからの車がそれなりに走ってくる坂道でしたが、基本的には静かな場所でしたよ。
(しかも、この右側のマンションは人がいなくて廃墟みたいになっていました。というかその建物に入る道(写真でいえばオレンジ色の柵があるところです)が坂道になっていて、今回、ブログには載せませんけど、かなり気になる坂道景色だったかも。ただし、今はどうかわかりませんけど。)


馬喰坂(NO.267)5
写真5

写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真5)
このあたりから勾配具合が急になってきていました。
あいかわらず坂上の様子が見えないのもいいですね。


馬喰坂(NO.267)6
写真6

すこし坂をのぼり、坂下方向を見たものです。(写真6)
やはり勾配具合がわかりにくいですね。
でも遠くのマンションの見え具合からも、その高低差感がわかるので、気になる方はよく見てみてくださいな。


馬喰坂(NO.267)7
写真7

そんなこんなで、やっと坂上あたりまでやっていました。(写真7)
もうこのあたりまでくると、坂下あたりとはかなりの高低差になっていることもあり、遠景の景色も良い感じで見えていましたよ。
気になったのは、真ん中左に見えている煙突でしたかね。
これは、新茶屋坂(NO.264)でも、登場した目黒清掃工場の煙突のようでした。
ここからみるとやたらと高く見えていますが、それだけこのあたりのほうが、清掃工場のあるあたりより低い位置にあることがわかるわけですよね。
個人的には、この景色を見ていて、目の前は急な下り坂なのに、遠くにはここより高い場所があるという凹凸具合が目でみて感じれる場所というのが、面白いなあと思ったのでした。

ちなみに、写真7でも見えていますが、ここにもいつものように坂の碑がありましたので、抜粋しておくとですね、
『馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説と、風雨にさらされて地面に穴のあいた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」と言ったという説がある。』
とありました。

坂下の説明に加えて、「馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説」まで、でてきましたねえ。
しかも、常に道路に穴があいた状態だったからこそ、この坂名がついたということであれば、そういう意味では、この道は昔からけっこうな人通り(馬通り?)があったと見ていいのか、それとも穴ぼこができるくらいまで人の手入れが行き届いてなかったこともあり、実はそれほど人通りがなかったのか、まあこれだけでもいろいろと想像してしまいましたかね。

あとは、道路に穴があいた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」ということから、いつものドーナツ型の滑り止めも「馬喰」型と呼んでみてはどうなんだろうと妄想してしまいましたが、どうでしょうかね。(笑)


馬喰坂(NO.267)8
写真8

あ、そうそう。(写真8)
写真7でちょっと見にくかったので、拡大してみたのですが、実は坂上からの景色として、東京タワーも見えていたのですよ。
なので、この坂道、実は東京タワーが正面に見える坂道でもあったんですよ。


馬喰坂(NO.267)9
写真9

あとは、坂上そばには〔写真9の右側)、坂下の案内版の説明でもでてきた、庚申塔もありましたよ。(写真9)
案内版には、「馬喰坂上の庚申塔群」とありました。
なお、庚申塔については、これまでもたびたび登場していることもありますので、そのうち機会があれば、詳しく掘り下げてみたいと思ってはいますが、現段階では、wikipediaの説明をリンクしておくに留めておきますので、気になる方はそちらのほうを読んでおいてくださいな。→ https://ja.wikipedia.org/wiki/庚申塔


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区中目黒4-9あたり

ぎょうにん坂と呼ぶそうです。
場所は、JR目黒駅からすぐの場所で、駅東側を流れている目黒川のほうへと南西に下る坂道です。


行人坂(NO.266) 1
写真1

まずは、坂下からの様子など。(写真1)
見てのとおりなのですが、かなりの急坂で、道幅も狭めです。
ただ、JR目黒駅からすぐの場所で、後でもでてきますが、この右側に目黒雅叙園などもあるためか、急坂でしかも道幅が狭いという坂道の割には、人通りが多めの場所だったりします。

あとは、写真1の左にもちらりと見えていますが、いつものように坂の碑がありましたので、そのまま抜粋するとですね、
『行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。』
とのこと。

大円寺や行人については、後でもでてくるので、ここでは軽くスルーして、まあこういう具合の坂の碑があったということで、覚えておいてくださいな。


行人坂(NO.266) 2
写真2

こちらは、写真1の左側の様子ですね。(写真2)
正面に見えているビル群が目黒雅叙園ですね。

要は、結婚式場やホテル、レストランなどが入居している施設ですね。
このブログでも前に目黒雅叙園内にある百段階段について取り上げている記事「目黒雅叙園の百段階段をぶらり」も書いてますので、百段階段の様子などを知りたい方はどうぞ。
ちなみに、百段階段のある建物は、写真2でもちらりと写っていてですね、ちょうど正面の瓦屋根の建物がそれで、写真左のほうに建物は続いているというつくりでした。


行人坂(NO.266) 3
写真3

あと、写真2にも実は見えているのですが、「お七の井戸」なるものがあり、以前からここにくるたびに気になっていたので、撮っておくことにしました。(写真3)
こちらも、せっかくなので案内看板の説明を抜粋しておきますよ。
『八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。』

なるほど。
そういう場所が今は、結婚式場なんですね。
ちなみに明王院というお寺は、明治13年頃まであったと書かれているとおり、この頃に廃寺になったそうです。そして、その際に吉三の墓も含めて大円寺に移され、昭和30年には吉三とお七の共同の墓(比翼塚)も置かれるようになったとのこと。


浮世絵-目黒太鼓橋
名所江戸百景

あとは、これですかね。
広重による名所江戸百景「目黒太鼓橋夕日の岡」ですね。
今回は、この浮世絵の存在を知らずに当日は歩いていたこともあり、写真には撮っていませんが、写真1の後ろ側、写真2の右側のほうを少し歩くと、目黒川があるのですが、そこを渡る橋のかつての様子を描いたものがこの浮世絵ということみたいですね。
なので浮き世絵の左側が小山になっているように見えることから、こちらのほうにいくと行人坂があると思われます。


行人坂(NO.266) 4
写真4

では、坂道に話を戻しまして、こちらは坂をすこし上ったあたりからの、坂下方向の景色です。(写真4)
車が見えているとおり、ここも道幅はかなり狭い坂道でしたかね。
そして、左側に大きな樹々が何本も見えていてかなり印象的ですが、その奥にさきほどから何度も出てきている大円寺があるのですよ。


行人坂(NO.266) 5
写真5

ちなみに、写真4で見えていた大円寺の塀と樹木の兼ね合いがなんともおもしろい感じだったので、近くまで寄りぱちりと。(写真5)
正面の部分は根っこのおかげで浮いておりました。(笑)
ここまでくるのにどれくらいの時間を要したのか想像してしまいましたかね。


行人坂(NO.266) 6
写真6

こちらは、写真4の左側をみたもので、大円寺の立派な門がありました。(写真6)
まずは坂下にあった坂の碑の一文を思い出してもらいながらも、内容は上記の抜粋文を見てもらうとして、ここでは、目黒区のサイトに書かれてある坂の説明文がわかりやすいですので、一部抜糸させていただくとですね、
『行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。』
とあります。

”行者”については、ネットの辞書で調べてみると、仏教を修行する者のことを言うそうですね。
なので、このお寺は、坂の碑にもあったように、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家が、湯殿山(奥州)から高僧行人「大海法師」(=行者(法印大海))を勧請して、開山したことが始まりみたいですね。
そして、しつこいですが、その時に寺の前の坂を切りひらいたことで行人坂ができあがった、ということですかね。


行人坂(NO.266) 7
写真7

境内に入ると、いろいろな仏像が置いてあったのですが、中でも圧巻だったのがこれでした。(写真7)
手前の仏像群に加えて、奥には五百羅漢石仏群なるものが。
あまり詳しく潜ると、別の方向に行ってしまい帰ってこれなさそうな気がするので、ここでは軽く触れるだけにしますが、要は、このお寺が出火元となった大火で犠牲になった方々の供養のために造られたものだそうです。
これは、上記の抜粋文では『「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。』の部分ということになりますかね。
とにかく、ここですべて取り上げていたら違うサイトになりそうなほど、色々な仏像がありました(始めにふれた八百屋お七の話のことも含めて)ので、気になる方は実際に訪れて見てみることをおすすめしますよ。


行人坂(NO.266) 8
写真8

そんなわけで、再び坂道に戻りまして、写真4とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみたものです。(写真8)
坂上の高層ビルがちょっと気になるところですが、坂道自体は勾配具合といい両サイドの緑の具合といい、なかなかいい感じだったかもです。


行人坂(NO.266) 9
写真9

さらに坂道を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
さきほどの大円寺の門も見えつつも、左には「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」なる説明文が書かれた案内板が設置されたほこら(勢至堂)がありました。
どうやら坂下の太鼓橋に関係する石像を祭っている場所のようでしたね。

あとは、ここにもほこらの説明とあわせて坂の説明が書かれた案内板もありました。
いちおう、抜粋しておくとですね、
『寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。』
とのこと。


行人坂(NO.266) 10
写真10

さらに坂を上り、坂上方向を見てみました。(写真10)
たぶんこのあたりが一番、急勾配な場所のように感じましたが、今回は傾斜具合を調べていないため、あくまで感覚ですので、あしからず。


行人坂(NO.266) 11
写真11

さらに坂を上り、坂下方向の景色でも。(写真11)
もうここからは、坂下あたりははるか下という感じでした。
そして、この右側にも、なにやら「富士見茶屋と夕日の丘」という案内板がありましてですね、
『江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。』
と書いてありましたよ。
なるほどですね。
このブログを前から見てくれているかたやマニアの方なら、わかるかもしれないですが、この目黒-恵比寿駅間は西側の目黒川に下る形の地形になっているので、目黒-恵比寿駅間にある坂道の坂上からならかつてはどこも富士山が見えたということみたいですね。
しかも、ここも茶屋坂(NO.263)の「爺々が茶屋」ほどは有名でなかったのかもしれませんが、富士見茶屋があったというわけですね。


浮世絵-富士見茶屋
江戸名所図会

こちらは、江戸時代の、このあたりの景色を描いている「富士見茶亭」という江戸名所図会です。
夕日と紅葉の感じはちょっとわかりにくいですが、当時の富士見茶屋の栄えぶりについてはわかりやすく描かれていておもしろいですね。
ここは、当時、江戸市中から目黒不動尊に通じる道だったようなので、このような賑わいがみられたようですね。

行人坂(NO.266)12

写真12

ほぼ坂上あたりまできて、坂上方向を見てみたものですね。(写真12)
これだけ急勾配の坂を上がる、さらに奥に高層ビルが見えているというのが、なんとも悲しいやら珍しいなあという気分にさせてくれる場所でもありましたかね。



行人坂(NO.266) 13
写真13

ここもほぼ坂上なのですが、写真12の場所からすこし坂を上ったあたりからのものです。(写真13)
ちょうど正面に、ホリプロのビルが見えていたので、載せてみましたよ。
こんなところにあったのですね。
(余談ですが、たまたま昨日、スーパー銭湯に寄ったついでにひさびさにゴールデンタイムのテレビを見ていたら、TBSで三浦友和さんのお姉さんのペンションに安住さんと佐藤さんが訪れるという番組をやっていて、昨日の今日ということもあってか、あらためてそういう歴史も含めての場所(坂道)というかビルでもあるのだなあと、ふと思ってみたり。笑)

ちなみに富士山の方角は、ちょうどビルとビルの間の抜けている方向みたいでした。


行人坂(NO.266) 14
写真14

そんなこんなで、やっと坂上からの景色でも。(写真14)
とにかく、富士山のことも含めていろいろなエピソードのある坂道だったので、今後も引き続き訪れることにして、さらに歴史研究(汗)、そして時代による変化を楽しんでみたいと思える坂道だったかもですね。


ということで、今回も長くなりましたが、こんな感じです。



地図
目黒区下目黒1および品川区上大崎4あたり

べっしょ坂と呼ぶそうです。
場所は、東急の中目黒駅の東側にあり、こまかい場所は説明しにくいのですが、目黒川よりは北にあり、恵比寿駅の南西側にある坂道といえば、だいたいの場所がわかりそうですかね。


別所坂 (NO.265)1
写真1

ではまず、坂下あたりの様子から。(写真1)
このあたりは、ちょっと道幅が狭めで、閑静な住宅街の中の坂道といった感じでした。
ただ勾配具合は、あとでもでてきますが、この坂道は全体的に急坂で、その雰囲気がこのあたりからもでてきているようでした。
ちなみに、この坂道にも、坂の碑があり、写真では写っていませんが、写真1のすぐ左側にあってですね、いつものように抜粋するとですね、
『この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。』
と、ありました。
もうここで、坂名の由来がわかってしまいましたが、どうやらここは地名由来の坂道みたいですね。
なお、新富士については、後でも触れますので、ここでは軽くスルーです。


別所坂 (NO.265)2
写真2

すこし坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真2)
ここからだと、勾配具合もすこしわかりやすいかもですね。
しかも、写真1では写っていなかった坂の碑も道の右側のほうにちらりと見えていますかね。


別所坂 (NO.265)3
写真3

写真2とだいたい同じ位置より、今度は坂上方向を見てみました。(写真3)
このあたりから、急坂具合が出てきましたね。
坂道によってこれくらいの勾配でも道路の舗装が滑り止めタイプのものになる場合もありますが、ここではまだ普通のアスファルトタイプでした。
道幅具合もあいかわらず狭いままでしたね。


別所坂 (NO.265)4
写真4

そんでもってこの階段ですよ。(写真4)
この階段は別所坂とは別ものですが、位置的には写真3の右側あたりから、このような急階段がどどんとあるのですよ。
これみるだけでも、これから上る別所坂の高低差具合が想像できそうですかね。(汗)


別所坂 (NO.265)5
写真5

さらに坂を上り、坂下方向を眺めてみたものです。(写真5)
写真4の階段は、道路の左側に黄色のネットが見えていますけど、そのすこしむこうあたりにあるようでした。
(あ、そうそう、それで思い出したのですが、当日は、階段と別所坂を一緒に写そうとすると、あの黄色のゴミ置場があまりにも写るのでやめたのでしたよ。(笑))


別所坂 (NO.265)6
写真6

さらに坂を上ると、今度は右にカーブしていました。(写真6)
勾配具合もかなりすごくなってきました。


265)7
写真7

これは、写真6の正面に見えていたマンションですね。(写真7)
なかなか渋くて、高低差のものすごい階段の先にどうやら入口があるみたいです。
こういう場所に一度は住んでみたいなあと思ってみたり。


別所坂 (NO.265)8
写真8

再び坂道に戻りまして、さらに坂をすこし上り、今度は坂下方向をみてみました。(写真8)
このアングルからの左へのカーブ具合もいいですねえ。
ちなみに、この別所坂、こんな感じで、蛇道といってもいいくらいS字が続いている坂道なのですよ。
なので、坂を歩いている途中は、坂全体を見渡せるこれといったポイントはありませんので、あしからず。


別所坂 (NO.265)9
写真9

こちらは、写真8とだいたい同じ位置からの坂上方向の景色です。(写真9)
歩くたびに景色が変わるのでおもしろいですね。
そして、このくねくね感に、あいかわらずの急勾配具合、いいですね。


別所坂 (NO.265)10
写真10

こちらは、写真9での道路が左に曲がる直前の場所からの坂下方向の景色です。(写真10)
このあたりからやっとドーナッツ型の滑り止め舗装が登場。
遠くには中目黒駅前にある、なんか地震がきたら倒れそうな感じのつくりというか細長くて背の高い形をしていて前から気になっていたアトラスタワーなる高層ビルが見えておりましたよ。


別所坂 (NO.265)11
写真11

道がくねくねカーブしていて、全体が見えないのでちょっとわかりにくいかもですが、今度は、写真10でいえば、写真右側方向を見ると、これまたかなりの急勾配の坂道が続いていました。(写真11)
右側の擁壁と左側の建物に囲まれていて狭苦しい感じがしなくもないですが、道自体がすこし幅が広がっている分、それほどの圧迫感はないのかなと。


別所坂 (NO.265)12
写真12

こちらは、写真11で見えていた坂上の踊り場のような場所まで上り、坂下方向を見てみたものです。
しつこいですが、かなりの急坂でした。(写真12)
ここは坂下側からと坂上側からの景色が全然違った感じに見えるのが、おもしろいところではあります。
ちょっとした高低差マジックとも言えますかね。
ちなみに、ここの部分をスマホのアプリで傾斜具合を計ってみると14.2度でした。
またこれを、よく道路標識などで表示されている%に換算してみると、だいたい25.3%みたいですね。。
どうりできついわけですな。(笑)


別所坂 (NO.265)13
写真13

写真12とだいたい同じ位置より坂上方向を見てみると、ここからは階段になっていました。(写真13)
どうりで車の通りが散歩中まったくなかったわけな。(と言いつつもこういうつくりになっていることは散歩前から知っていたのですが。。)


別所坂 (NO.265)14
写真14

ちなみに、写真13の左側には、こんな具合に庚申塔がありました。(写真14)
しかも、説明が書かれているプレートもありましたので、こちらもいつものように抜粋しておくとですね、
『「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間達は60日に一度くる庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに新陸や農作業の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが多くは病気の悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が掘られている。
別所坂庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天〜昭和元年(1665〜1764)である。平成九年七月吉日 設置』
とありました。

なるほど。


別所坂 (NO.265)15
写真15

写真13で見えていた階段の全景はこんな感じでしたよ。(写真15)
また、今回の別所坂の坂上は、この階段上ということにもなります。
これはこれでなかなか良い感じの階段ですかね。
これだけ急勾配の坂道を上ったあとにこの階段というのも、坂道的にも珍しい部類のつくりだと思います。


別所坂 (NO.265)16
写真16

そして、これですよ。(写真16)
写真15の階段右側のほうにちらりと見えていましたが、こんな感じでまたまた案内看板があったのですよ。
始めのほうの坂の碑の説明でもでてきた、新富士についてですね。
まずは、写真16からでも読めるかもしれませんが、こちらもいつものように内容を抜粋しておくとですね、
『この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下遺構が発見された。遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造ったとわかり「新富士遺構」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。』
とのこと。

そうなんですよ。
この坂上あたりからは、かつては富士山がよく見えたらしいですね。
近藤重蔵については、「高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造」とありますが、これは、山野さんの大江戸探訪でもさらりとふれられていて、近藤重蔵のwikipediaのページにも書かれていますが、重蔵は、このあたりに広大な土地を所有していて、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、富士山を模した富士塚をつくり、目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑ったそうですよ。
ただ、その賑わいがいろんな意味で災いして文政9年(1826年)にこの場所の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の利害問題に憤慨して隣家の7名を殺害したという大事件もあったという場所でもあったみたいですね。
近藤重蔵の目黒新富士のあった土地はwikipediaのページによれば、現在の中目黒2-1あたりとのことです。
また、目黒新富士なる富士塚についても、昭和45年(1965)に取り壊されKDDIの研究所となり(これはマルハナバチのつぶやきなるサイトさんの記事「木曽呂富士と安藤広重の「目黒新富士」」の情報です)、今はその研究所も地図で見た限りはなく、マンションになっているようですね。
むむー。
あと、目黒区の解説サイトによれば、「文政二己卯年六月建之」の碑石なるものが今でも残されているとのことが書かれているので、また機会があれば調べてみたいと思います。
ちなみに、屋敷跡がKDDIの研究所となっているいうことは、タモリさんの坂道本にも書かれていて、タモリさんが調査した時は、まだKDDIの研究所だったとも記しているので、今のマンションになったのはけっこう最近のことなのかもしれないですね。

あとは、新富士遺構も気になりますね。
今は、マンションになってしまった場所の地下でひっそりと眠っているんですかね。


目黒新富士
広重の浮世絵

写真16の案内看板の上のほうにも浮世絵が掲載されていますが、ここでは違うほうの浮世絵を紹介してみますよ。
広重による名所江戸百景の「目黒新富士」ですね。
要は、浮世絵の左に描かれているのが、かつて存在した目黒新富士ですね。
人の大きさと比べてみてもかなりの大きさだったようですね。
まあデフォルメされているのか、実際にこれだけの規模だったかどうかは、今のところきちんと調べていないので不明なのですがね。。
あと、別所坂については、いつからここにあったのかは不明ですが〔古地図みてもよくわからんのです)、この浮世絵でいうと、右側の人が歩いている坂道が、今の別所坂の位置と合致するので、そうなのかもしれないですし、そうでないかもしれないです。。


別所坂 (NO.265)17
写真17

そんなわけで、やっとこ、坂上からの景色でも。(写真17)
ちなみにこの左側が、KDDIの研究所の跡地であり、今はマンションになっている場所のようですね。

別所坂 (NO.265)18
写真18

こちらは地図をみながら富士山の方向を調べてみると、だいたいこの位置かなという場所からの景色です。(写真18)
なので、やはりこの感じ(正面の大きな建物があるので)からすると、目黒区の解説サイトに書かれている、「冬から春先にかけての朝のうちなら、今でも坂上から富士が見える」というのは厳しいかなというのが歩いてみての感想になりますかね。
(と言っても、目黒区のサイトの説明は、「月刊めぐろ」という1970年代から80年代に発行されていた雑誌の抜粋らしいので、仕方ないのかもしれないですけどね。)

ただ坂道自体はおもしろい坂道ですし、隠れ富士見坂としても見ることができる坂道であり、おすすめランキングはかなり高い坂道なので、ここに行ったことない坂道好きの人はぜひ歩くように。(笑)


ということで、長くなってしまいましたが、今回はこんな感じです。


地図
目黒区中目黒2-1あたり

しんちゃや坂と呼ぶそうです。
場所は、前回取り上げた茶屋坂(NO.263)の坂上と途中でつながっていて、北西側を目黒川まで下っている坂道です。


新茶屋坂(NO.264)1
写真1

まずは坂下あたりからの坂上方向の眺めです。(写真1)
この辺はほぼ平坦といっていい場所でしたが、ちょうど目黒川と交差しているあたりのため、とりあえずぱちりと一枚。


新茶屋坂(NO.264)2
写真2

写真1でも見えていましたが、右側には目黒清掃工場があり、その煙突がやはり印象的だったので、きちんとのせてみることにしました。(写真2)
こうしてみるとかなり大きい煙突ということがわかりやすんじゃないですかね。


新茶屋坂(NO.264)3
写真3

こちらは、目黒川ですが、写真2の右側方向、つまり目黒駅方向をみたものですね。(写真3)
ちなみに奥に見えている橋のあたりの左側には目黒エコプラザという公共施設があって、かの有名な目黒のさんま祭もあのあたりで毎年開催されているようですね。


新茶屋坂(NO.264)4
写真4

再び坂道にもどり、傾斜がすこしでてきたあたりから、坂上方向を見てみたものです。(写真4)
この坂は、やはり、”新”とつくことからも新しめな印象が坂道のいたるところでみられ、その典型がこの広い道幅だったですかね。
そして、右側の清掃工場の緑が元気に坂道上までせり出していて、なかなかいい感じに。


新茶屋坂(NO.264)5
写真5

こちらは、坂道をすこし上がり、さらに坂上方向を眺めてみたものです。(写真5)
このあたりが今回の坂の中腹あたりになりそうですかね。
やはりこのあたりもつくりが新しい感じでした。
勾配具合も歩いている分にはなかなかだったのですが、いかんせん直線距離が長い坂なので、写真ではちょっとわかりにくいですかね。
あとは、写真4とは逆側になる左側の防衛省の敷地内の緑のボリュームが今度はなかなかのものでした。


新茶屋坂(NO.264)6
写真6

だいたい同じ位置より坂下方向をみてみたものです。(写真6)
やはりここでは例の煙突ですかね。


新茶屋坂(NO.264)7
写真7

もうすこし坂をのぼり、再び坂上方向をみてみました。(写真7)
まず一番に気をつけるところといえば、左側に見えているバス亭ですかね。
なんとここのバス亭名は「茶屋坂」というそうなのですよ。
新茶屋坂にある茶屋坂というバス亭ですね。(笑)
ただ、実は茶屋坂にかつてあったあの富士見茶屋はおそらくこの右側に見えているマンションのあるあたりにあった可能性も否定できないので、一概には笑えないところでもあるんですけどね。
あとはこれまでと同じような景色に見えますが、実はすこし坂上のほうの雰囲気が違っているのですよ。(覚えておいてくださいね。)


新茶屋坂(NO.264)8
写真8

そして、これですよ。(写真8)
写真7の右側の道路沿いのマンションの端っこ、坂上側あたりにもちらりと写っているのですが、「茶屋坂隧道」という案内板がそこにあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『三田用水は寛文4(1664)年,飲用の上水としてつくられ,玉川上水から北沢で分水し,三田村を通り白金,芝へ流れていた。享保7(1722)年この上水が廃止になったとき,目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て,享保10年に三田用水となった。農耕,製粉・精米の水車などに用いられた用水も,明治以降は工業用水やビール工場の用水など,用途を変更し利用されてきたが,やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め,約300年にわたる歴史の幕を閉じた。茶屋坂隧道は,昭和5年に新茶屋坂通りを開通させるため,三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで,平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。』
とありました。

そうだったんですね。
昔は、このあたりは写真8の案内板の写真にもあるとおり、トンネルだったようですね。
そして、それが”茶屋坂隧道”と呼ばれていたということみたいですね。
要は、かつてあった三田用水の流れをそこなわないように、その下にトンネルを掘ってこの新茶屋坂がつくられたということなのですな。


新茶屋坂(NO.264)9
写真9

次は、さらに坂を上り、坂下方向を見てみたものです。(写真9)
このあたりからがらりと坂道の雰囲気が変わっていたのですが、要はこのあたりがかつてトンネルのあったあたりの場所だったようで、その名残りとして、左右の立派だけど、どこか新しい擁壁があるという不思議な雰囲気の場所になっているということなんですかね。

ちなみに、ここには、いつものような坂の碑はなかったのですが、目黒区のHPに坂の説明を記したページがあったので、それを一部抜粋しておくとですね、
『坂の中程にあるバス停に「茶屋坂」とあるが、この道は、右手奥の、3代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭和3年に開かれたずい道で、「新茶屋坂」と呼ばれる。坂の途中にあるトンネル上には、昭和49年に廃止されるまで、三田用水が延々300余年にわたって流れ続いていた。トンネルをくぐる辺りから、坂上にかけて左手に、うっそうと生い茂る松林は、江戸時代の目黒の姿を物語るかのように、当時の面影をしのばせていたが、ずい道は撤去され、町並みは変ってしまった。』
とのことです。

なので、この坂道は、昭和3年にできたことは確実みたいですね。
そして、昭和49年(1974年)にトンネルがなくなり景色が一変したと。。

あ、ちなみにちなみに、茶屋坂(NO.263)との位置関係ですが、地図をみると茶屋坂の坂上あたりをかつての三田用水が流れていたという位置関係なので、茶屋坂の例の清水との関係は薄そうでしたよ。


新茶屋坂(NO.264)10
写真10

そんなこんなで、最後は、坂上あたりからの景色です。(写真10)
もしかしたら、軸線からはすこしずれていますが、富士山の方向にくだる場所にあり、この高低差からすると、昔の低いビルしかなかった当時はもしかしたら、富士山が坂の途中から見えたかもしれませんが、現在ではどうなんですかね、たぶん見えないんじゃないですかね。

あとは、1974年に一度再整備された道なのだなあと、改めて思いながらこの坂道風景をみるとなんだか奇妙な感じもしますが、別の考えでいえば、1974年に整備された道の割にはなんかきれいなのかもなあとも思うわけなのですが、どうなんでしょう。



地図
目黒区三田2-3あたり

ひさびさの都内の坂道再開です。


ちゃや坂と呼ぶそうで、場所は、JR目黒駅と恵比寿駅の間にある恵比寿ガーデンプレイスの南西エリアにある坂道で、坂上のそばには防衛省の施設が隣接している場所でもあります。



茶屋坂(NO.263)-1
写真1

まずは坂上からの様子でも。(写真1)
見てのとおりですが、けっこう道幅の狭い坂道でした。
しかも、道がくねくねしていたので、ここからは坂下の様子はまったくわかりません。

あと、ブログの写真では見えないと思いますが、正面の黄色い看板には10%という表示が書いてありましたよ。
なのでここは勾配10%ということですね。
ちなみに、軽く復習がてらですが、勾配10%と傾斜10度はかなり勾配具合が変わってきますのであしからず。
(10%の勾配で、5.5度くらい?)


茶屋坂(NO.263)-2
写真2

いちおう、写真1の背後も見てみました。(写真2)
防衛省の宿舎のマンションがボンボンボンと並んで見えていましたよ。


茶屋坂(NO.263)-3
写真3

次は、坂をすこし下り、坂上方向を見てみた物です。(写真3)
地面の舗装の色が途中からあずき色のものになっていましたが、これは普通なら、坂上あたりより勾配具合がゆるいからというパターンが多いのですが、ここはどうなんですかね。
見た目はむしろ傾斜はきつくなっているような気もしますけど。。


茶屋坂(NO.263)-4
写真4

写真3とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみました。(写真4)
途中で右に曲がるポイントがありますが、今回の坂道はまっすぐのほうです。
とりあえず、今回の坂道は道幅が狭いまま、こんな感じで坂下まで続いているのですよ。
でも道幅が狭いとなんか独特の雰囲気がでてくるのは、やはり坂道のおもしろいところかもですね。


茶屋坂(NO.263)-5
写真5

こちらは、写真4でも見えていた、右に曲がる道を曲がり正面をみるとこんな景色がひろがっていたのですよ。(写真5)
ここは、茶屋坂ではないので、要は無名坂といえるのですが、勾配具合もいい感じの坂道でした。
あとは奥の目黒清掃工場の煙突もかなり印象的な場所だったかもですね。


茶屋坂(NO.263)-6
写真6

写真4とすこしかぶり気味ですが、写真5の立ち位置とだいたい同じ場所より、茶屋坂の坂下方向を眺めてみたものです。(写真6)
このあたりも道がくねくねしていて、坂下あたりはまだ見えていませんが、勾配具合はけっこうあるのはわかりやすいかもです。


茶屋坂(NO.263)-7
写真7

さらに坂をくだっていきますが、まだ坂下は見えず。。(写真7)
舗装が、例のドーナツ型なので、勾配はけっこうきつめなのかもしれませんが、距離がかなり長いので歩いているときはそれほどは感じなかったですかね。

茶屋坂(NO.263)-8
写真8

さらに坂を下ると、急にカクンと右に曲がるポイントがやってきます。(写真8)
そして、正面に見えている黄色い看板には、20%という文字が。。(かなりきつい・・・。)
さらに、その左横には、坂の碑ならぬ坂の案内版もあったのですよ。
いつものように抜粋するとですね、
『茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。』
とありました。

そうなんですよ。
この坂道、実はかつて坂道の途中から富士山が見えたという富士見坂でもあったんですね。
しかも、「大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂」とあるとおり、これは現在でもこれまで歩いてきた感じ(写真1から写真8)からも、昔のくねくね感もちょっと想像できそうですよね。

ちなみに、江戸時代にあったという爺々が茶屋については、説明にもあるとおり、広重の絵にも描かれています。


茶屋坂(NO.263)-広重絵図
「目黒爺々が茶屋」広重

それがこの絵図ですね。
右下あたりに見えているのが爺々が茶屋ですかね。
しっかり松も描かれていますね。
位置的には、写真1あたりからの景色を描いたものだろうと思われます。
ちなみに、この茶屋、将軍家光の時から、爺々が茶屋と言われるようになったそうですが、本来はこの茶屋から富士山を望むことができたことから、富士見茶屋と呼ばれていたそうですよ。


茶屋坂(NO.263)-9
写真9

そして、坂道をカクッと曲がり、さらに坂下方向を眺めてみたのがこちらです。(写真9)
まだ坂道は続いていましたよ。
しかも、ここでもあの煙突が。
ちなみに、富士山の方角ですが、地図で確認すると、実はここの坂道の軸線上にあるみたいですね。


茶屋坂(NO.263)-10
写真10

こちらは、写真9で見えていた横断歩道のあたりまで下り、坂上方向を見てみたものです。(写真10)
ここで坂上のほうが急に曲がっていているのは昔からだったのかどうかについては、手持ちの古地図では場所が微妙に外れていて確認できなかったのですが、写真でも見えているとおり、いつもの坂の碑があるので、昔からあったということにしておいて、とりあえずここでは、坂の碑の説明を抜粋するとですね、
『江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。』
ということでした。


茶屋坂(NO.263)-11
写真11

せっかくなのでさらに坂道を下り、坂上方向を見てみたものです。(写真11)
こうしてみるとかなりの高低差でした。
しかもここから坂上までの高低差を想像してみると・・・。


茶屋坂(NO.263)-12
写真12

さらに坂下方向に歩いていると、途中、道の西側(写真12でいえば左側)の擁壁とその緑がなかなかの感じだったのでおもわずパチリと。(写真12)


茶屋坂(NO.263)-13
写真13


そして、最後にこれなのですよ。(写真13)
微妙に、写真12ででてきた緑と擁壁も写真13の上のほうに見えている場所なのですが、なんとここに”茶屋坂街かど公園”なる公園があって、しかも、園内には「茶屋坂の清水と碑によせて」という案内版があったのですよ。
もうここまできたら、それも抜粋してですね、
『落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田2丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。その後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。』
と長いですが、ありました。

要は、このあたりに、かって、おいしい水がわき出る清水があったということみたいですね。
なので、爺々ヶ茶屋もそのおいしい水でお茶をいれて、当時の将軍をもてなしていたのだなあと想像すると、今はひっそりとあるこの場所もなかなか興味深い場所だったのかもしれないですね。


そして、最後の最後に、これまでの話だけではちょっとわかりにくかった”目黒のさんま”のことについてすこしふれて今回はおわりにしたいと思います。

『例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。
「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」
この話が、落語「目黒のさんま」である。』 
(”「目黒の坂 茶屋坂」目黒区” のHPより抜粋)


ということで、今回はこんな感じです。


地図
目黒区三田2-11あたり

前回の望雲坂(NO.260)の記事からだいぶ時間が経ってしまいましたが、再び残りの草津の坂道に話を取り上げてみたいと思います。


そしどう坂と呼ばれているそうで、場所は、前の望雲坂(NO.260)から東へ路地沿いに歩いて行き、途中、これも前に「とある街の風景237(草津温泉湯畑の高低差めぐり)」でとりあげた湯畑をとおり、さらに旅館に囲まれた路地を東へすこし歩くと、今回の坂道の坂下あたりにやってきます。


祖師堂坂 (NO.262) 1
写真1

とりあえず、湯畑から近い場所にあり、坂道までの路地沿いにある旅館のことをとりあげるのも悪くないのですが、やはりきりがなさそうですので、いきなりですが、坂下からの様子でも。(写真1)
最初からかなりの勾配具合でした。
ちなみに、このすぐ右横あたりに、いつものような坂の碑はありませんでしたが、「祖師堂坂」はあちらという案内標識がありました。(ただし、これ、現地では気がつかなかったので、ストリートビューで復習している時に実は見つけたのですが・・・。)


祖師堂坂 (NO.262)2
写真2

坂をすこし上り、道が狭くなりだしたところから、坂上方向を見てみました。(写真2)
さらに坂道は上へと続き、これまたかなりの勾配具合でした。
道幅もせまく、つくりも古い感じなので、けっこう昔からある道なのかもしれませんね。


祖師堂坂 (NO.262)3
写真3

写真2とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を見てみたものです。(写真3)
こうしてみると、坂下あたりとは、ここですでに3階分くらいの高低差になっているようでした。
坂の雰囲気としては、旅館が通り沿いに建ち並ぶ賑やかそうな路地が、坂下あたりを横切っており、そこからすこし人通りの少なめな場所の方につながる坂道という感じだったかもです。


祖師堂坂 (NO.262)4
写真4

さらに坂を上り、写真2の坂上のほうに見えていた踊り場っぽい場所あたりまできてみたところからの様子です。(写真4)
もう見てのとおりですが、坂道はさらに上っているようでしたよ。
そして、ここもなかなかの勾配具合でした。


祖師堂坂 (NO.262)5
写真5

こちらは、写真4でもちらりと見えていましたが、写真4の左のほうには日晃寺というお寺へつながる良い感じのつくりの階段が見えていました。(写真5)
この左奥に高村光太郎碑やら松尾芭蕉碑なんかもあって、この坂道をひととおり歩いた後にまわってみたりもしましたが、今回は記事にはしませんので、気になるかたは検索でもしてくださいな。


祖師堂坂 (NO.262)6
写真6

写真4とだいたい同じ位置より坂下方向を眺めてみたのがこちらです。(写真6)
勾配具合がすごいですが、それ以外はなんてことない坂道という感じですが、やはり坂道沿いにお寺があるなど、ここでも日本の坂道に共通する点はあるのだなあとしみじみ。

ちなみに、この坂道の名は、始めに伝えたとおり「祖師堂坂」と言うのですが、現地では坂名の由来が書かれたものはなかったので、最近、地方の坂道をまわるときにお世話になっている坂学会さんのHPを参考にするとですね、かつては冬の期間に住民が冬住みで少なくなることからその期間に温泉を守護するという意味合いがあったという祖師堂が坂上あたりにあることからこの名前がついたとのことみたいですね。(祖師堂については今回、現地では気がつきませんでしたが。。)


祖師堂坂 (NO.262)7
写真7

そこからさらに坂をのぼり。(写真7)
ここも急坂でした。


祖師堂坂 (NO.262)8
写真8

道は直線になりましたが、まだかなりの勾配具合の坂道は続いていました。(写真8)
なんかもう、雪がここに積もったらどうしてるんだろう?と思ってしまいましたよ。


祖師堂坂 (NO.262)9
写真9

そんなこんなで、写真8の奥の方まで上ってくると、やっと勾配具合がゆるやかになり、坂上らしき場所にやってきました。(写真9)
あと、せっかくなので、マピオン地図で、高低差具合がどれくらいなのか調べてみるとですね、坂下あたりは海抜1155m、坂上あたりは1165mとのことで、高低差は約10mとのこと。
でも、よく考えてみたら坂の中腹あたりで、高低差3階分くらいと見ていたので、この感じだとあれ?と思ってしまうわけですが、まあそのあたりは軽くスルーしておきますかね。。


祖師堂坂 (NO.262)10
写真10

ここからは、おまけです。(写真10)
写真5の場所から左のほうに行くと、奥に桐島屋旅館に入るための坂道が見えていたのですが、ここでたまたま旅館の方に声をかけられてですね。


祖師堂坂 (NO.262)11
写真11

「こっち、こっち」と言われ、中に入っていくとですね。(写真11)
なんとこんなものがあったのですよ。
旅館のかたが言うには、富士塚とのこと。
この時は車酔いしていて、頭もぼんやりしていたのですが、さすがにこれにはびっくりしてしまいましたよ。
(ちなみにこの写真は、旅館の方々が説明してくださっているときに、撮ったものなのですよ。)


祖師堂坂 (NO.262)12
写真12

いちおう、登山口からもパチリと一枚。(写真12)
ちなみに、肝心の本物の富士山の方向は、どうやらこの写真12の背後にあたる側が富士山ということになるようなので、実は、この富士塚の目の前に見えている小さな坂道も富士見坂といえるのかもと思ってみたのですが、どうなのでしょうかね。


ということで、公開時期が長期わたってしまいましたが、草津の坂道散歩はこんな感じです。


地図
群馬県吾妻郡草津町大字草津

今回は再び、東京の坂道です。


おんな坂と呼ぶ坂道で、場所は小田急代々木八幡駅からすぐの代々木八幡宮の境内にあり本殿側から山手通りの方へと下っている坂道です。
ちなみに、この坂道、他の著名な坂道サイトではノーマークの坂道だったみたいで、僕自身も前にこのあたりを歩いて、代々木八幡駅界隈の坂道も取り上げたのですが、ここの女坂だけは資料になかったので、取材していなかったのですよ。
なので今回の女坂については、この神社にふらりとすこし前に訪れた時に偶然見つけた坂道ということになりますかね。


代々木八幡宮の女坂(NO.261)1
写真1

まずは坂上からの様子でも。(写真1)
ここは、神社などにみられる女坂のように階段ではなくスロープになっていて、関係車両も通る道として使われているようでした。
あと、この右側に社務所と本殿があるのですが、今回は写真取り忘れたので、これしかありませんのであしからず。。
また、このそばに境内の案内地図があり、実はそこに「女坂」という記載があったんですよ。
ちなみにこの代々木八幡宮は、鎌倉時代の初期(1212年)に創建された神社とのことです。
(あとの詳しい史実については公式HPなどを見てくださいな。)


代々木八幡宮の女坂(NO.261)2
写真2

すこし下り、坂上方向を見てみたものです。(写真2)
坂上の車の奥に本殿やら社務所がちらりと見えているのですがわかりますかね。


代々木八幡宮の女坂(NO.261)3
写真3

さらに坂を下ると、ちょっとわかりにくいですが、左に鳥居と階段、右にスロープという場所がありました。(写真3)
もちろん女坂はスロープのほうですよね。(でも階段のほうは男坂なのかはいまのところ不明です。)


代々木八幡宮の女坂(NO.261)4
写真4

いちおう、写真3でも見えていた鳥居のそばから坂上方向もみてみました。(写真4)
もうここからは坂上あたりもみえないほどの高低差具合になっていました。(実際歩いた感じでもなかなかの勾配具合でしたよ。)


代々木八幡宮の女坂(NO.261)5
写真5

写真3でも見えていた右側のスロープ(写真4でいえば、左側へ行く道)をくだると、道がふたつに分かれていました。(写真5)
神社の案内板によれば、右側へ行くと、スロープのまま外の道路と直接つながっている場所に行けると書かれていたので、右側へ行く方が女坂なのかもしれませんが、案内板をみる限りではこのあたりが坂下あたりともとれる書き方もしていたので、あまり断定はできないのですが、とりあえずここでは女坂はこのあたりまでということにしておきましょうかね。。


代々木八幡宮の女坂(NO.261)6
写真6

そして、最後は、写真5のところで、道を右側に曲がったところから、坂下方向を見てみたものです。
ここからはゆるやかな傾斜となっていました。(写真6)

そんなこんなで、とりあえず、道的には、もうすこし続いていて、坂道にはなっているのですが、案内板に従うかたちでこのあたりまでを女坂としてみたいと思いますので、写真も以上になります。

ということで、今回はこんな感じです。


地図
東京都渋谷区代々木5-1あたり

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