東京坂道さんぽ

〚Category: 海が見えたかも坂
鉄砲坂その2 (御殿山界隈/品川区)
鉄砲坂 (御殿山界隈/品川区)
御殿山の坂(NO.240)
九段坂の標高と燈明台
臼田坂(NO.231)
九段坂・今昔メモ
めぐみ坂(NO.230)
朗師坂(NO.229)
此経難持坂(NO.228)
貴船坂(NO.225)
とある街の風景189(太田神社の階段)
蓬莱坂(NO.224)
神田明神曙之景と坂道風景
明神女坂(NO.165)
明神男坂(NO.164)
愛宕坂[男坂] (NO.121)

前回の「鉄砲坂 (御殿山界隈/品川区)」に続いて、ちょっと気になる資料が見つかったので、今回も鉄砲坂のことを再び取り上げてみたいと思います。


鉄砲坂その2_1地図
地図

まずは、前回の記事でも掲載した地図ですこしばかり鉄砲坂の復習です。
この坂道は、今は現存していない坂で、おそらく現在の地図に落とし込むとこんな感じかなということで描いてみたもので、御殿山から第一京浜のほうへ(東)に下る地形になっていたようです。
あと、前回の記事には書いてなかったのですけど、マピオンで今回の予想される坂上あたりの標高を計測してみると11m、そして坂下あたりも同じく計測してみると5mくらい。
ということは高低差6mくらいですか。
けっこうな高低差ですかね。
でもまあ、今の御殿山は、お台場を海につくるためにかなりの部分が削られてしまったので、比較は難しいですけど、昔はもっと高低差あったのかもしれないですね。


鉄砲坂その2_2古地図
古地図

そこで古地図が登場です。
これでみるとかつての鉄砲坂の坂下のすぐそばは海。
ということは、標高もかぎりなく0mに近いことになりますかね。
なので、高低差はやはりかなりあったと思われます。


鉄砲坂その2_3品川すさき
品川すさき

そして、この浮世絵です。
広重さんによる「品川すさき」(安政3年(1856)ごろ)という絵だそうです。
これは位置的には、上の古地図で(実はこっそり)鉄砲坂の左右に黄色の★マークを記しておいたのですけど、この浮世絵は坂の右側の★地点が該当する場所といわれているそうです。
ということは、かつての鉄砲坂の坂下付近の景色もこんな感じだった可能性は高いと思われます。
そうであれば、前回の記事の写真2が、今の坂下あたりの景色なのでえらい違いですね。。
あと、この浮世絵の右上のほうに描かれている小さな島が、かつての御殿山を削りとった土で築いたといわれるお台場だそうです。


鉄砲坂その2_4月の岬
月の岬

せっかかくなので、もう一枚。
こちらも同じく広重さんによる「月の岬」(安政4年(1857)ごろ)という浮世絵です。
上の古地図でいうと、坂の左側に黄色の★マークがあるところですね。
僕が参考にした本(ここが広重画「東京百景」)では、古地図の場所にて、絵に描かれているような豪華な料理屋はなかったかもしれない(左の影の女が遊女であることから)とも書かれていて、この場所についても空想だったのではないかという説があるようですが、とにかく広重さんが描きたくなるような景色がこのあたりに広がっていたことはたしかで、そんなことからもこの絵もあわせて紹介してみました。


というわけで、このあたりは東に海、北は御殿山(昔は桜の名所でもあった)ということで眺望的にもかなりすぐれた場所だったそうで、そういう意味でも、かつての鉄砲坂からの景色もかなりのものだったことは想像できそうですかね。



住所
品川区北品川1あたり

気がつけばけっこう長い期間、品川駅界隈の坂道を取り上げてきたわけですが、やっと最終章に入ります。

今回とりあげる坂道は、”てっぽう坂”とかつて呼ばれていた坂で、すでに無くなってしまった坂道です。

まずは、この坂道を取り上げている江戸東京坂道事典の記述によるとですね、
『嘉永二年の切絵図には品川歩行新宿から、西方御殿山の北辺に上る坂を、テッポウ坂と記載し、坂下少し北のところには「清水の井」があり。』
とありました。
なので、今回はまた品川駅の南側エリアに戻り、前に取り上げた御殿山の坂(NO.240)とすこし関連のある場所を取り上げるということになります。

また同じ本の中で他の項には、
『1853年、黒船来航に太平の眠りを破られた幕府は、品川砲台(お台場)を急造するため、この御殿山を削りとって、その土をもって台場を築いたので、御殿山は変形し、さらに明治初年の鉄道敷設のさいには、山の東部を南北に分断し、そのさい、鉄砲坂下の有名な清水の井も埋められてしまった。今の京浜電鉄北品川駅がそのあたりである。』
とも書かれていました。


鉄砲坂1
写真1

そこでふぬふぬと軽く調べて(ここだけですよ)、現地に行ってみるとなんかそれらしき痕跡があったというわけです。(写真1)
写真1の案内板には、
『磯の清水:江戸時代、北品川宿畑地内(現在の北品川駅付近)に昔から磯の清水と呼ばれる名水の出る清水井がありました。宿内の半数以上の家でこの井戸の水を飲料にしていました。干魃の折にも涸れることがなかったといいます。このことから、この横町を清水横町と呼んでいました。』
と書かれてありました。
そういうわけで、このあたりが史実によれば清水井があった場所ということみたいなので、かつての鉄砲坂の坂下もこのあたりだったということになりますかね。


鉄砲坂2
写真2

とりあえずまわりを見渡してみました。(写真2)
写真1の位置より東側の方向にこんな感じで京急の踏切がありました。
いちおうこの踏切をわたり、奥へと歩いていくと、かつての東海道(今は旧東海道と呼ばれているんですかね)があった場所に行くことができます。


鉄砲坂3
写真3

また北側をみると、京急の北品川駅も目の前という場所でした。(写真3)


鉄砲坂4
写真4

さらに、写真2の方向と反対の西側をみると、第一京浜道路が見えていました。
そして、御殿山と呼ばれる場所は今でもこの道路の向こう側にあるので、かつての鉄砲坂はこの方向に上る坂道だったと思われます。


鉄砲坂5地図
地図

そこで、現在の地図(グーグルマップ)に、清水井の場所から想定した鉄砲坂の位置をのせてみることにしてみたのが上の図です。
かつての御殿山と呼ばれていた場所は、この図からも、お台場へ土を運ばれたことによる変形に加えて、今のJRの線路によって昔とはかなり違った場所になったようですね。


鉄砲坂6古地図
古地図

あと、せっかくなので、goo地図の古地図ページから拝借したものにも、清水井と鉄砲坂の位置をのせてみたものが上の古地図です。
ちなみにこの古地図を拡大して確認してみると、実は清水井と鉄砲坂のこともちゃんと記載してありましたよ。
なのでこの古地図からも現在の御殿山とかつての御殿山はえらく違うものになっているということが確認できたので、個人的は大満足です。


鉄砲坂7
写真5

そして、最後は、現在の御殿山と呼ばれている場所の頂上近くから、京浜急行側(かつての鉄砲坂の坂下方向ですね)を眺めてみたのが、写真5です。
どうですかね、なにか想像できましたかね。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
品川区北品川1あたり

所在地:品川区北品川5-20あたり



大田区馬込界隈の坂道散歩からだいぶ時間が経ってしまいましたが、このまえやっと品川駅界隈の坂道をいくつかまわることができましたので、今回からはそのあたりの坂道を取り上げてみたいと思います。
(というわけで。)


ごてんやまの坂と呼ぶそうです。
場所は、品川駅からはすこし遠いので、大崎駅の東側にあると言ったほうがいいと思いますが、そこに御殿山と呼ばれる高台があるのですが、そこを上り下りするためにつくられたであろう坂道に御殿山の坂という名がつけられています。


240)1
写真1

まずは坂下あたりの様子など。
なんとなく右側の建物(これ、上に電車でも走ってそうな感じですが、違うんですよ)のせいかすこしごちゃごちゃしているように見えますが、それでも現地では坂道のまわりの雰囲気は落ち着いた感じでした。

またこの坂道はいつ頃から「御殿山の坂」と呼ばれたのかは不明ですが、坂の途中には、区が設置した坂の案内板があり、さっそく抜粋しちゃいますが、
『このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修理でゆるやかになった。』
とのこと。
とりあえず、そのままという感じなのですかね。

ちなみに坂の名にもでてくる御殿山、こちらも坂の途中に案内板があったので、せっかくなのでこちらも抜粋しておきますとですね、
『御殿山は、長録年間に大田道灌の館があったと伝えられています。また江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢滝和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、亨保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が堀崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼き討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。』
ということでした。
いろいろな歴史もあっておもしろそうな山(でいいのかな?)みたいですね。


240)2
写真2

また左側をみると、川の向こうにゲートシティ大崎のビル群が見えていました。


240)3
写真3

そして、坂をすこし上ってみました。
このあたりで坂はぐぐんとカーブしていました。
またこの位置からだと左側の例のものが建物だということもわかりやすいかもですね。


240)4

写真4

さらに坂道を上り、今度は坂上のほうを見てみました。
このあたりから坂道は直線になり、街路樹がとても印象的なアクセントになっているようでした。


240)5
写真5

こちらは写真4の位置よりすこし坂を上った場所のものです。
このあたりまでくると坂の頂上もちらりちらりと見え出してきていました。
また坂の舗装も例のドーナツリング型の舗装にふさわしく、歩いていてもけっこうな急勾配具合でした。


240)6

写真6

そして、しばらくとことこと歩くと、坂の頂上あたりにやってきました。
このあたりまでくるとまわりは閑静な住宅街といった感じでした。


240)7
写真7

最後は、坂上からの景色など。
ただここからだと、街路樹が元気良すぎて、さらに坂下にある背の高い会社ビルなどのおかげで、景色は見てのとおりで、坂下からはけっこうな高低差具合のはずなのですがひらけていませんでした。
でも江戸時代の頃にもこの道があったならば、今よりはもっと景色がひらけてて海も遠くに見えただろうなということは想像できる場所だったかもです。



地図
品川区北品川5-20あたり

最近、また九段坂についての気になる史実が書かれた本を見つけたので、今回はちょっとその話でも。


九段坂の高低差と燈明台1

いきなりですが、こちらは『色刷り明治東京名所絵・井上安治画』という本にあった九段坂の名所絵です。(ただしデジカメで、風景を撮る感じでぱちりと絵を撮ってみたものを加工したものですので、絵が一部歪んでますのであしからず。)

で、この名所絵ですが、参考本のタイトルにもあるとおり井上安治なる絵師によるものだそうですよ。
(前に、「九段坂・今昔メモ」という記事で登場した明治時代の九段坂の写真と見比べてみてもおもしろいかもですね。)
ただこの上の絵を見る限りでは、常燈明台も今の位置になる前の坂の北側(靖国神社側)にあり、ほんとうに坂の上の頂上からのもののようで、見た感じかなりの丘の上の風景といった感じが誇張しているのかなあとすこし思ったわけなんです。

でも、実はそうでもなさそうなんですよ。

そこでまずは絵の解説文として本に書かれてあった一文をすこし抜粋してみますね。
『戦前には、陸軍将校クラブであった偕行社があり、構内に常燈明台が建っていた。(略)。明治三年招魂社として創建された靖国神社のために献燈として明治四年(一八七一)建てられたという。標高二五メートルという東京の最高所だから品川沖を航行する船の唯一の目標になるというので評判になったのも無理はない。』

ふーん。そうなんですね。
そして、抜粋分ではちょっとした常燈明台の史実とともに“標高二五メートルという東京の最高所”なる一文があるんですよ。
要は標高25メートルといえば、あの都内の自然の山としては最高峰の標高でもある港区にある愛宕山でも(だいたいの標高が測れる地図サイト)マピオンによれば海抜25m(ウィキペディアでは標高25.3m)ということなので、江戸から明治時代のころであれば、ここから海方面にかけては愛宕山に負けないくらいの高低差があり、かなりの高所だったということになりそうなんですよ。
いちおう愛宕山と同様にマピオンで九段坂の海抜を計ってみると坂上のほうはたしかに海抜25mという表示がでてきました。
そんなわけもあり、前にみちくさ学会の九段坂の記事でもこの坂は潮見坂であると予測はしてみたものの、あんな立派な常燈明台が九段坂の坂上あたりにありきちんと本来の役割もはたしていたというのは現在の景色をみると想像しにくいこともあり、やっぱり気になるなーと不思議に思っていたんですけど、この史実やデータをみるとやっぱりそうだったんだなあーとちょっと納得してしまいました。


九段坂の高低差と燈明台2

ちなみに現在の常燈明台はこんな感じです。
位置は坂の南(日本武道館側)に移動していますけど、上の絵と見比べてみてもそれほどつくりというかデザインの違いが感じられないので、今の常燈明台はほぼ昔と変わらない形で残っているのかもしれないですね。


あと、この他にも、参考本には、
『この常明燈は、漱石の「三四郎」のなかでは、広田先生に「時代錯誤」と批評されている。ヨーロッパ留学で、本場の建築になじんできた漱石としてはもっともな意見ではあっても、いまの時点で明治初年の混乱期のモニュメントとしてみえれば珍重に値する。』
という一文もあり、ちょっと気になったので小説「三四郎」の本文ではどこの部分なんだろうと思い調べてみたらありましたよ♪♪

『「時代錯誤(アナクロニズム)だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」
「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」
 広田先生は笑い出した。じつは東京名所という錦絵の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社という新式の煉瓦作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。』
(以上は青空文庫からの引用です。)

なんとも路上観察学的な会話というかタモリ倶楽部でぱらりとでてきそうな会話のやりとりというか。。(笑)
なんかいい感じですね。


住所
千代田区九段北1あたり

所在地:大田区南馬込4-46あたり


うすだ坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた汐見坂(NO.223)の坂下から西へ徒歩数分の場所に龍子記念館なる施設があるのですが、今回の坂はそこから東へ徒歩2,3分のところにある坂道です。


臼田坂(NO.231)1
写真1

まずは、坂上あたりの様子です。
閑静な住宅街にある坂道で、このあたりはそれほど勾配はなくなだらかな傾斜道でした。
ただ坂道自体はけっこう長めのつくりなので、坂下のほうまでは見えていませんでした。


臼田坂(NO.231)2
写真2

また写真1の左側をみるとちいさな稲荷らしきものがありました。
ただこの場所については現地でもメモしていなくて写真だけ撮っただけなので詳しいことはわかりませんが、どうやら、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典によれば、この稲荷の敷地内かこの写真の左側のほうに磨墨塚なるけっこう有名な塚があるらしいですよ。
詳しくはウィキペディアにも説明ありましたので、気になるかたいればそちらのほうをどうぞ。
→ 磨墨塚

あと写真2でも見えているのですが、ここにもいつもように坂の碑があり、『坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起つたといわれている。』と書かれてありました。

これ以外に、大田区の公式HPにも坂の説明があり、実はこちらのほうがかなり詳しく坂の由来などが書かれていたので、こちらのほうも抜粋するとですね、
『大田文化の森前から北西に曲って荏原町へ抜けるバス通りの坂道です。昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂が主な道でした。このバス通りを昔は田無街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。』
と、ありました。

そうなんですよ。
現地歩いている時は、すっかり忘れていたんですけど、このあたりはかつて「馬込文士村」と呼ばれていた地域で、説明にもあるとおり萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住んでいたそうですよ。
しかもこの坂が文士村のメインストリートだったんですね。
そして、説明には「萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。」なんてことも書かれているので、ちょっと調べてみたんですが、ありましたよ!
かの有名な青空文庫のサイトにですね。→「」(青空文庫のサイトです)
ただこの「坂」という作品。
坂の説明に臼田坂あたりを魅力的に描写していますとあるのですが、この散文詩を読む限りでは直接的に臼田坂とわかる表現はしていませんが、「馬込文士村」のサイトによれば、萩原朔太郎はこの坂のそばに大正15年〜昭和4年のあいだ住んでいたらしく、この散文詩は昭和2年に発表されたものらしいので、おそらくかなりの確率でこの坂を意識した風景描写がされていただろうと思われます。
なので、とりあえずぱっと読んだだけではわかりにくですが、この散文詩を何度もよめば当時の雰囲気もかなり浮かんでくるのかもしれないですね。


臼田坂(NO.231)3
写真3

今度は、坂をすこし下り、坂上のほうをみたものです。
風景自体はなんてことないのですが、実はこの写真3の中央右あたりに見えている黄土色ぽい外観のマンションの右奥あたりに、「馬込文士村」のサイトの情報によれば、かつて萩原朔太郎が住んでいた家があったそうですよ。(確認はしていませんので、もしかしたら今もあるのかもしれませんが・・・。)


臼田坂(NO.231)4
写真4

そして、さらに坂を下り、今度は坂下のほうを見てみました。
このあたりから傾斜具合もすこしあがってきているようでした。
またそれほど背の高いマンションもないためか空もひろく見えていました。

またこの坂の軸線方向も実は海方向(南東ですね)に下るかたちでむかっているので、ここも別名で潮見坂と行ってもいいのかもしれませんが、実はこの近くの汐見坂(NO.223)が東方向に向かって下っているのにもかかわらず汐見と坂名ついていますので、潮見(汐見)の指すかつての“江戸の海”の定義がほんとうにわからなくなってきているのが現状ですので、こちらもまた保留ということでお願いします。。


臼田坂(NO.231)5
写真5

途中には良い感じで古くなっている階段もありました。
実はこれ、写真4でも道路左側に見えていたりするんですよ。


臼田坂(NO.231)6
写真6

さらに坂を下ると、これまた良い感じで道がすこし左にカーブしはじめていました。
あとは、道左側に樹々と間違えそうなくらいたくさん蔦のはえた緑の家が見えていて、これまたなんともかんとも。。


臼田坂(NO.231)7
写真7

いちおう写真6とだいたい同じ場所から坂上のほうも見てみました。
風景的にはこれといったものないですけど、高低差具合はわかりやすいんじゃないですかね。


臼田坂(NO.231)8
写真8

で、さらに坂を下ると、やっと坂下あたりもちらりと見えてきました。
また、写真8の左に立派な石垣とその上に大きな松の木などが見えているあたりなのですが、どうやらこのあたりに(「馬込文士村」のサイトによると)川端康成が昭和3年から4年のあいだ、住んでいたらしいですよ。


臼田坂(NO.231)9
写真9

さらに坂を下り、坂上のほうを眺めてみました。
道もゆるやかにカーブしていて、このあたりは勾配具合もけっこうあったのでなかなか良い感じで坂道風景ひろがっていたかもです。


臼田坂(NO.231)10
写真10

最後は坂下あたりの様子です。
このあたりまでくると道も平坦になっていました。
また、写真10の左側あたりに、(これまた「馬込文士村」のサイトによると)石坂洋次郎が大正13年から14年のあいだ住んでいたとのことですよ。

というわけで、散歩当日、ここがかつての文士村のメインストリートであったことを知っていればもうすこしつぶさに調査したんですが、いかんせん今回はこんな具合です。
(なので、そのうちこの史実もあわせてまた調べに行ってみたいと思っている今日この頃ですなり。。)


地図
大田区南馬込4-46あたり

今年の4月にみちくさ学会の記事でもとりあげた九段坂(江戸時代には海が見えた九段坂)なのですが、その後、いくつかの情報をみつけることができたので、今回はその追加報告です。(メモもかねていますが。。)


まずひとつめは、九段坂の坂名について。
こちら、実は、九段坂や飯田坂とよぶ以外に、別名で「飯田町坂」という呼び名もあったそうです。
(あとは個人的には、富士見坂と潮見坂を追加してほしいところですが。。)


九段坂・今昔メモ1
明治時代の九段坂

そして、2つ目が上の写真です。
こちらはたまたま図書館でみつけた「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」なる本に掲載されていたものです。
要は明治時代に撮影された九段坂の風景写真なのですよ。


九段坂・今昔メモ2
現在の九段坂

で、こちらが一枚目の写真とおそらくそんなに変わらない場所から撮った現在の様子です。

この2枚を見比べてもらうとわかりやすいと思うのですが、現在は遠くのほうはビル(明大のリバティタワーなどはわかりやすいですが)が立ち並んでいる様子しか見えませんが、かつては一枚目の古い写真のように、このあたりからなんとあのニコライ堂も見えていたんですよ。(一枚目の写真左上あたりに見えてます。)

なので、九段坂のことをいろいろ調べていると、与謝野晶子が九段坂からよくニコライ堂を眺めていたとか、田山花袋の「東京震災日記」には震災直後にこのあたりから坂下のほうを眺めると、あたり一面焼け野原で遠くのほうに半ば焼け落ちているニコライ堂が見えたなんてことも書かれていて、「え!本当?」とか思っていたわけですが、そのことがこの写真で証明されたわけで、かなりの驚きがあったというわけなんですよ。


九段坂・今昔メモ3
九段ざか

そしてこれが最後ですが、三つ目はこの浮世絵ですね。
二代目歌川広重による江戸名所四十八景の『九段ざか』なる風景画です。

ただ前はこの風景画を見ても、あまりぴんとこなかったのですが、これまた、さっきも登場した「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」の九段坂の説明の中に、『江戸期には石を積んで9層の石段になっていた坂だった。御用屋敷の長屋が9棟建っていたという。これを九段長屋と呼び、坂を九段坂といった。明治2年に招魂社が建立されたとき、段を取り除いて平らな長坂にした。』の一文を見つけ、それをよんでから、またこの浮世絵をじ〜とみてみると。
おそらく絵の右側は今のお堀とおもわれますので、坂上から坂下のほうを眺めたものを絵にしたものと思われます。
そうすると手前の土の部分が九段坂ということになり、絵では奥(坂下方向)にいくほど道が狭くなっています。
ということは、さっきの抜粋文から推測すると、その先(坂下方向)が階段だった可能性が高いということになりまませんかね?
まあ、適当な予想ではありますが・・・。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
千代田区九段北1あたり

所在地:大田区池上1-17あたり


現在はめぐみ坂と呼ばれている坂なのですが、かつては"あけぼの坂"、別名で"相の坂"ともよばれているそうで、場所は池上本門寺の南東部に隣接している大森第4中学校の西隣を南東方向に向かって下っている坂道です。
最近の坂でいえば、朗師坂(NO.229)のすこし東、またはみちくさ学会での記事でも最近とりあげた妙味坂(池上本門寺の富士見スポットその2)からなら東にひとつ道むこうという場所にあります。


めぐみ坂(NO.230)1
写真1

まずは坂上あたりの様子など。
坂道的にはもうすこし坂下方向にいかないとわかりやすい傾斜は始まらないのですが、この坂上あたり、地図をみてもらうとわかりやすいのですが、このあたりだけでも写真左側には、堤方神社。右側には法養寺や心浄院が隣接しており(しかもご存知のとおり北側(背後)には池上本門寺)、坂の周辺に寺社が点在しているという都内でもなかなかめずらしい立地にある坂道といえるかもですね。


めぐみ坂(NO.230)2
写真2

いちおうこちらが、写真1の左側に見えていた堤方神社の境内の様子です。
こちらの神社もカジュアルというか質素というか、なんだか公園内にぽつんと本堂があるような、そんな気分になるつくりだったかもです。


めぐみ坂(NO.230)3
写真3

また写真1よりさらに坂上のほうを見てみると、池上本門寺の境内にある五重塔もちらりと見えていましたよ。


めぐみ坂(NO.230)4
写真4

で、もうすこし坂下のほうまで歩いてみると、やっと坂道らしい傾斜のある場所が見えてきました。
そして、坂の碑も写真4でもちらりと見えていますがやはりありました。
『現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。』

あと、大田区ではありがたいことに公式HPでも坂の説明があり、坂の碑よりくわしい解説がのっていましたので、そのまま抜粋するとですね、
『池上一丁目18番と19番の間を堤方神社脇まで上がる坂道。坂を上がる左側にめぐみ教会があるため、この名で呼ばれることが多いようです。ところが、昭和5年発行の『大東京川崎横浜復興大地図』では、この坂は「あけぼの坂」となっています。明治時代中期に、徳富蘆花の小説『富士』にもでてくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それにちなんだ名であろうと思われます。「あけぼ乃楼」は、明治大正期は大変繁盛し、元勲、貴族が連夜宴を催し、日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和4年に廃業しました。地元の古老の方々によると、この坂は古くは相の坂とも呼ばれていたそうです。』
とありました。

いやはや、ただでさえ坂上あたりに寺社が点在しているというのに、坂の名は、坂の途中にある(坂下にあるんですよ)めぐみ教会が坂の名の由来になっているとはなんともおもしろいですね。
しかも、それ以前の坂名は料亭「あけぼ乃楼」にちなんだものらしいとのこと。
で、その店がなくなり跡地にできためぐみ教会が坂の新しい名になってしまったという。。
ま、そういう意味では、このあたりも文明開化の気分が坂名にもでてしまったという感じなんですかね。


めぐみ坂(NO.230)5
写真5

そして、やっと坂道らしい場所にやってきました。
もうこのあたりからは閑静な住宅街といった雰囲気になっていました。
あと、やはりここもちょうど写真の正面方向が海にむかっているわけでして、どうやらこの地形具合からすると、ビルがない昔なら海みえていそうな雰囲気あるので,ここも別名で潮見坂ともよべそうなのですが、ここもまたそのことについてはそのうちの宿題(江戸の海の定義がわからないので)ということで置いておきますので、あしからず。


めぐみ坂(NO.230)6
写真6

すこし坂を下り、坂上のほうをみてみました。
けっこう急な勾配具合ですかね。
舗装もドーナツリング型のすべり留めつきのものですしね。



めぐみ坂(NO.230)7
写真7

さらに下ると、道がいい感じでくいっと右に曲がっていました。
しかも正面の駐車場のあたりでもうひとつの道と合流していることもあり、手前に見えている「止まれ」マークもいい感じでふにゃりと急カーブにあわせて曲がって描かれているのもなんだか気になりました。


めぐみ坂(NO.230)8
写真8

さらに坂道は下り、今度は左にくねりと。


めぐみ坂(NO.230)9
写真9

そしてそして、左に曲がると、さらに坂はくねくねしながら下り続けていました。
しかもポイントポイントで樹木が両サイドに植えられていてなんだかいい感じ。


めぐみ坂(NO.230)10
写真10

さらに坂を下り、坂上のほうを見るとこんな感じでした。
正面の樹木と右側の上が駐車場の擁壁(しかもコンクリのノッペリ壁)が坂の勾配具合とかさなって、なんとも不思議な雰囲気だしていたかもです。


めぐみ坂(NO.230)11
写真11

そして、やっと坂下あたりまでやってきました。
このあたりまでくると、勾配具合もゆるやかになってくるなか、左側には坂名の由来ともなっためぐみ教会への入口も見えていました。

ちなみにめぐみ教会の公式HPには、このあたりのことを「めぐみの丘」とよび、『邸内には三代将軍、徳川家光お手植えの梅(樹齢約380年)があり、五代将軍綱吉の時の昌平坂学問所の学頭木下順庵(1621-98)が隠居地として住んでおり、今でも教会の門の傍らに「木下順庵先生墓跡」という石碑が建っています。また、明治の初めに「あけぼの楼」という有名な料亭が建てられ、日露戦争の国家的勝利の祝宴が開かれたと言われています。』と、説明がありましたよ。


めぐみ坂(NO.230)12
写真12

で、最後はさらに坂下まで歩き、坂上のほうをみてみました。
見た目はふつうな感じですが、よく写真みてください。
ちょっと左の塀、なんか和風ですよね。
実はこの左横に妙雲寺なるお寺があるんですよ。
なので、ここから見る坂道風景は、奥が西洋で手前が和風という、なんとも和洋折衷な雰囲気というなんというか。。
このあたりの隣接具合がなんとも不思議というか土地の思想みたいなものが希薄な日本らしい風景というか、そういう感じの場所なのですかね。(わかりませんけど。。)



地図
大田区池上1-17あたり

所在地:大田区池上1-32


ろうし坂と呼ぶそうです。
場所は池上本門寺の境内にあり、此経難持坂(NO.228)の東側に朗師会館なる建物があるのですが、今回の朗師坂はそのすぐ隣を北に向かって上っている階段坂道です。


朗師坂(NO.229)1
写真1

まずは坂下からの様子など。
ここも歴史的には古い坂のはずなのですが、見た感じでは新しい感じのつくりですね。
階段を通すためだけにつくられたような立派な擁壁に急勾配の階段。
でもその割には階段の右側は、まだ木で土留をしていたりと未完成な感じがなんともおもしろいかもです。


朗師坂(NO.229)2
写真2

次は坂下からひとつめの踊り場まで上り、坂下のほうを見たものです。
こうしてみるとけっこうな勾配具合。


朗師坂(NO.229)3
写真3

で、同じ位置より坂上のほうを見るとこんな感じでした。
こちらもかなりの急勾配具合ですかね。
まわりの樹々は良い感じですが、坂上のほうに、なにげに墓石見えてるあたりがちょっと不気味なにおいがしなくもないですかね。。
あとは階段のつくりもこのあたりから、手作り感でてきてるようでした。


朗師坂(NO.229)4
写真4

そして、一気に写真3で見えていた墓石のある踊り場そばまでやってきて坂下のほうを眺めてみました。
もうあきらかに崖ですね、ここ。。
正面の学校の建物の高さから見ても4階床分くらいの高低差はありそうかもです。


朗師坂(NO.229)5
写真5

写真4と同じ位置より坂上のほうをみると、やっとこのあたりから勾配がゆるやかになってきていました。
またこのあたりからさらに坂道は手作り感がでてきて、ちょっとした昔にタイムスリップ気分になってくるのでありますよ。


朗師坂(NO.229)6
写真6

さらに階段をのぼってみると。。
もうそこは、あきらかに墓地でしたよ。
なんだかゲゲゲの鬼太郎でもいそうな雰囲気。
ただ写真にもうつっていますが、ここにもいつものように坂の碑ありましたので、ここが朗師坂の坂上あたりということは確定というわけなんですよ。

で、せっかく坂の碑のことがでてきましたので、碑の説明を抜粋するとですね、
『日蓮聖人の愛弟子日朗聖人は、祖師入滅後ささやかな草庵をつくり山上の日蓮聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれる。』
とありました。

また坂の碑よりちょっとくわしい内容の説明が大田区の公式HPにもありましたので、そちらも抜粋しておきますね、
『大田区民会館脇を曲折して上る石段坂。坂名の朗師とは日蓮(1222年から1282年)門下六老僧の一人、日朗(1243年から1320年)のこと。日朗は祖師入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵をつくり、以後三十有余年毎日この坂を上り、山上の日蓮御廟所へ参拝したといわれます。幼少の頃より日蓮の門下僧となり、師孝に厚く奉仕した日朗の美談は『日蓮聖人伝』に数多く描かれています。』


朗師坂(NO.229)7
写真7

いちおう写真6でも見えていた坂の碑あたりより坂下のほうもみてみました。
右側は朗師会館の建物、左側は大きな境内の樹々ということで、景色はまったくひらけてませんでした。


朗師坂(NO.229)8
写真8

ただ写真5と写真6の途中に景色がすこしひらけたビュースポットはありましたよ。
そして方角的には南に向いているわけでして、この景色と地形ぐあいからすると、やはりここも別名でかつての潮見坂と呼べるかも?と思えるわけですが、そのあたりの断定はまたそのうちの宿題(ここも同じくどこまでが江戸からかつて見えた海として断定していいのかまだわからないからですね。)ということでよろしくなりです。


地図
大田区池上1-32

所在地:大田区池上1-32


しきょうなんじ坂と呼ぶそうです。
場所は池上本門寺境内にあり、車坂(NO.227)の東側に位置し、本門寺大堂の南にある仁王門あたりより南へくだる階段坂道です。


此経難持坂(NO.228)1
写真1

で、いきなりですが、坂上からの風景など。
見てのとおりなのですが、かなりの高低差のある階段坂道で、雰囲気もかなり良い感じでした。
というのも、ここ、池上本門寺のメインの参道であり、他のお寺でいえば男坂にあたる階段のようなのですよ。
なので別名で「池上本門寺男坂」とつけてもいいくらいの存在かもですね。
でも、この階段は「此経難持坂」という一風変わった坂名がつけられているわけなんですよ。
そして、やはりというべきか坂の名の由来の説明のついては、池上本門寺の公式HPにも記載ありましたのでそのまま抜粋するとですね、
『熱心な法華信者で築城家としても有名な、加藤清正公の築造寄進になる。同公は、慈母の第七回忌にあたる慶長11年(1606)、その追善供養のため、祖師堂を建立寄進し、併せて寺域も整備しているので、その折の築造と考えられる。第14世日詔聖人のときである。第22世日玄聖人代の元禄年間(1688−1704)に大改修されているが、清正公当時の原型を残す貴重な石造遺構である。
なお、名称の由来は、『妙法蓮華経』見宝塔品第十一、此経難持の偈文※96字にちなむ。すなわち、末法の世に法華経を受持することの至難を忍び、信行することの尊さを石段を上ることの苦しさと対比させ、経文を読誦しつつ上れば自然にのぼれる、と言い伝えられている。』
とありました。
※偈文:仏の功徳などを賛美する詩。四句からなる

とりあえず“加藤清正が築造寄進した”という話が、ここをつくるのに全額彼の寄付でやったのか、ただ計画(指示)しただけなのかどうかとか、こまかく想像すると気になることいっぱいですが、まあそういう史実がある階段ということみたいですね。
そして、段数が、詩にちなんで96段になったというのもなんだか興味深いかもですね。
これが108文字(適当な数字ですよ)とかなら108段になっていたかもしれないわけですから。


此経難持坂(NO.228)2
写真2

頂上からの見晴らし具合はこんな感じでした。
この階段の軸線はほぼ南に向いていて、冬あたりでまわりの緑がなければ景色ひらけているので、今もそうかかもしれないですけど、おそらく昔ならビルもないので遠くのほうには海も見えたかもしれないですね。
そういう意味では、ご想像のとおりですが、男坂に続いて別名で「潮見坂」と呼んでもおかしくないかもですが、こちらはとりあえずの保留という形で・・・。(それいうと都内のけっこうな坂が潮見坂となりそうですので。)


此経難持坂(NO.228)3
写真3

次はすこし坂を下り、坂上のほうをみたものです。
坂上奥のほうにちらりと見えているのが仁王門です。
今の仁王門は昭和20年4月に空襲で焼けてなくなり、昭和52年に再建されたものらしいですよ。


此経難持坂(NO.228)4
写真4

そして、坂の中腹あたりにやってきました。
まだこのあたりでも建物3階分くらい(たぶん)の高低差はありそうでした。
いちおう軽く計算してみるとですね、この階段、坂の説明によれば全部で96段らしいので、その半分で48段。で、1段の階段高さが20cmくらいとしてみると、960cm。なのでまあ建物一階分の高さが3mくらいとするとおよそ3階分くらいの高低差かなーという感じになりそうですよ。

と、まあそれはさておき、見ため的には、このあたりから目の前の樹木もなくなりだしてきて、ちょうどよい感じで景色がひらけて見えていたのは印象的だったかもです。


此経難持坂(NO.228)5
写真5

まただいたい同じ位置より、坂上のほうを見るとこんな具合でした。


此経難持坂(NO.228)6
写真6

で、坂下付近までやってきて、さらに坂下のほうを見てみました。
正面に見えているのが、総門です。
こちらは仁王門と違い、昭和20年の戦災を免れた貴重な存在の建築物らしいですよ。


此経難持坂(NO.228)7
写真7

あと、写真6の右側をみるとこんな感じで、灯籠みたいというかお墓みたいというか小さな塔のようなものがあったり、坂の碑もあったりしました。(坂の碑の説明については、上の抜粋文のほうが詳しいので、ここでは割愛させていただきますね。)


此経難持坂(NO.228)8
写真8

そしてそして、やっと坂下までやってきました。
写真8は見てのとおりですが、坂上のほうを眺めたものです。
ここからみると、これまた違った雰囲気があっていい感じでしたよ。
高低差にあった傾斜具合やらも、きちんと計算されてつくられた感じがぷんぷんしてますが、なんといってもやはり四百年という時を経ているせいか、もうそんなことはどうでもいい感じという風情ですかね。


此経難持坂(NO.228)9
江戸自慢三十六興・池上本門寺会式

ちなみに、この此経難持坂、広重さんの浮世絵(1864年作)としてものこされてました。
奥の階段が此経難持坂ということみたいですよ。
あとは、この当時、坂下の総門はなく坂上の仁王門だけが描かれてあり、これが広重さんのデフォルメなのかどうか、そのあたりの真相はさだかではないですのであしからず。


此経難持坂(NO.228)10
写真9

あと、写真7の奥のほうに実は見えていたのですが、理境院なるお寺もありました。
写真8でいえば、左側のほうにですね。
こちらは、知ってる方もいるとは思いますが、慶応3年(1869)の幕末に官軍参謀の西郷隆盛が本門寺に駐屯した際、この理境院を宿舎にあてたという史実があることでも有名な場所です。


此経難持坂(NO.228)11
写真10

そして最後はおまけです。
実はこちらも写真6の左側でひそかに寝転がっていた猫なのですけど、けっこう長い時間このあたりでうろちょろしつつ、無防備に寝ていたのでぱちりと一枚。(笑)


(ということで、けっこうヘビー級な坂というか階段坂でしたが、なんとかおわらせることできました(ふ〜)。。ではでは、今日のところはこんな感じです。)


地図
大田区池上1-32

所在地:大田区中央5

きぶね坂とよぶそうです。
場所は汐見坂(NO.223)の坂上から道沿いに西(坂上方向)へ歩いて5分くらいのところにあり、そこから北西方向に上っている坂道です。


貴船坂(NO.225)1
写真1

では、まずは坂下から見たものなど。
すでに坂上の頂上が見えているとおり、一直線の坂道で、まわりも低層のマンションや住宅ばかりで、勾配具合といい道幅といい、なかなかに気持ちのよさげな坂道でした。
あと手前左側に通学路と書かれた交通看板があったのですが、僕がぶらりとした時は子供も通学で歩く道というわりには、なにげに車の行き来多かったかもです。(たまたまかもしれませんが、汗)
またこのすぐ左側には、池上本門寺の敷地内にある本門寺公園があったりします。

そして、本門寺公園の話がでたついでに、実はこの坂、なにげに本門寺公園との関係も深いらしく、そのこともふくめて大田区の公式HPに坂の説明があったので、そのまま抜粋するとですね、
『池上一丁目6番と中央五丁目7番の間の坂道。坂名は、本門寺公園の中にあった東之院の貴船明神にちなむといわれます。東之院は本門寺の子院の一つで、貴船明神はその鬼門よけとして置かれていましたが、明治初年の神仏分離令により同寺院と分離され、明治45年になって近くの太田神社(中央六丁目3番)に合祀されました。』
とありました。
※貴船明神=神狐の石像でかつては本門寺の鬼門除けとして東之院におかれていたもの。

ちなみに、ここにはいつものように坂の碑があったのですが、実は碑の説明部分がかなり劣化していて読めずじまいだったのですよ。(なので他のサイトさんの抜粋文も確認してみましたが、だいたい上のと同じ内容なので、今回ははぶきますね。)
あと、説明にある太田神社については、過去エントリーの「とある街の風景189(太田神社の階段)」でなにげにとりあげてますので、こちらもよかったらどうぞ。


貴船坂(NO.225)2
写真2

次はすこし坂を上り、坂下のほうをみてみました。
坂下の建物から高さを見比べてみると、ここまででだいたい3階床部分くらいの高低差はありそうな感じですかね。
写真ではえらくゆったりした勾配具合に見えてますが。


貴船坂(NO.225)3
写真3

また右側をみるとこんな具合に隣接する東之院(坂の説明でもでてきてます。)の緑の屋根がひょっこり見えていました。(もしかしたら写真2の右にみえてる緑の屋根のも東之院関連の建物かもしれないですが、こちらは未確認です。)
あとは手前の道路みてもらえれば、この坂の勾配具合もわかりかもですね。


貴船坂(NO.225)4
写真4

さらに坂を上り、同じく坂下のほうを眺めてみました。
景色もひらけていて、ちょうど坂の正面から右側にかけてが池上本門寺の敷地ということもあり、敷地内の樹々がいい感じで見えていましたよ。
しかもいつもはちょっとうっとおしく感じる電線もなんだかすこしだけですがキリリとした感じで風景に溶け込んでるように見えなくもないですかね。。


貴船坂(NO.225)5
写真5

そして、最後は坂上からの坂道風景など。
遠くのほうには高層ビルが見えてますが、地図で確認してみると、ちょうど軸線上に京急蒲田駅があるので、おそらくそのあたりのビルだと思います。
またここから蒲田方面に下る坂道ということは、南東に下る坂ということで、さらにこの地形具合からいえば、やはりこの坂上からもかつては遠くに海が見えたかもしれないですね。
そういう意味ではここもまた別名で潮見坂とつけてもいいのかもなあと思いつつも、まあこのことについてはまたそのうちの宿題ということで。(笑)


地図
大田区中央5

今回はさらりとですが、無名坂の話など。(ただ坂の写真すくないのでこのカテゴリーです。。)


今回の無名坂は蓬莱坂(NO.224)の南西、徒歩で言えば2,3分の場所にある太田神社境内にあった階段です。
要は境内にある階段なので、もしかしたら「男坂」とよんでもいいのかもしれませんが、とりあえずそのような坂の名はなさそうなので、無名坂ということにしてみました。


太田神社の階段1

で、こちらが今回の坂というか階段です。
両側に樹々が生い茂り、なかなかワイルドな感じの階段でした。
また水色のちょっとレトロな手摺もめずらしいかもです。
どこかの観光地のような。。

あとはこの階段、地図でみるとわかりやすいのですが、南東方向に下る階段でこの階段の北東にある蓬莱坂(NO.224)と高低差具合もだいたい同じで、写真みてもらってもわかるとおり、なかなか高低差のある階段でした。

あとは、ここ、坂上から坂下に南東方向にくだる階段ということですので、蓬莱坂(NO.224)と同じく、この高低差具合からすると、冬とかで樹木が生い茂ってなければ、もしかしたらここからも昔は階段の向こうに海見えたかもですね。
そういう意味ではここも潮見坂?


太田神社の階段2

いちおう場所関係見る意味での写真も載せときますね。
1枚目の写真とだいたい同じ位置から背後(北西側)をみるとこんな感じでした。
奥には太田神社のこぶりな本殿も見えていましたよ。


ということで、今回はさらりとこんな感じです。


住所
大田区中央6-3あたり

所在地:大田区中央5-20あたり


ほうらい坂と呼ぶそうです。
場所は前にとりあげた汐見坂(NO.223)の坂上と今回の蓬莱坂の坂上がつながっており、そこから南東のほうにくだる坂道です。


蓬莱坂(NO.224)1
写真1

まずは坂上からの風景など。
いきなりですがここの坂道風景はちょっとやばいです。(笑)
勾配具合といい、道幅といい、坂下の見え具合といい、まわりも住宅エリアで高さ制限もあるのかどうかわかりませんが、背の低い家ばかりで景色も適度にひらけていていい感じでしたよ。

あと前はこのすぐそばに坂の碑があったみたいですが(大田区の公式HPに写真ありましたので)、今回散歩した時はそういうのは見当たらなかったです。
で、せっかく話にでてきたので、HPにあった坂の説明を抜粋するとですね、
『中央五丁目20番と23番の間を東南に下る長い坂。付近は閑静な住宅地です。坂名の由来は、坂近く、中央五丁目4番2号にある稲荷社にちなむといわれています。江戸時代、三代将軍家光のころ、稲荷社の境内で珍しい黒い鶴が捕らえられ、これを将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたと伝えられています。蓬莱とはその吉兆を象徴した名であり、そこから現在の坂名がつけられられたようです。また、この坂上の東方の高台には、縄文時代の横穴古墳群(桐ヶ谷横穴群といわれている)もありました。』

そして、ここにかつて坂の碑があったということは、ネットでその情報がある可能性大なので調べてみるとやっぱり複数のサイト(東京23区の坂道などなど)できちんとメモしていただいていました。
なので、それをそのまま掲載させていただくとですね、
『坂上の東北(中央五丁目四ノ二)に、通称「黒鶴稲荷」という稲荷社がある。伝説によるとその境内で捕獲された黒い鶴を、将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたという。「蓬莱」とは、縁起のよいことに使われる意味もあり、坂名はその黒鶴伝説に因みつけられたのであろう。』
と書かれていたそうですよ。

ちなみに、坂の説明ででてくる「黒鶴稲荷」という稲荷社は、たしかに今でも坂上の北東側にあります。
ただこの稲荷、こまかいこと言うと、実は汐見坂(NO.223)のほうが稲荷との距離が近く、坂のすぐ北隣にあるんですよ。(汗)

ということは、坂の説明から考えようによっては、現在の汐見坂(NO.223)のほうが黒鶴稲荷に近く、というか隣にあるのであちらが「蓬莱坂」で、実はこのエントリーの坂(ややこしい・・)が「汐見坂」だったという可能性もあるのですよ。
というのも、この坂、はじめに書きましたが、南東にむかって下る坂ということなので、地図で確認してみると、実は海からも近く、この坂の軸線も海のほうむいているんですよ。なので、この地形具合からすると坂上から昔は坂下の風景とともに海見えたかもというのが僕の推測です。
(ただこう話を広げといてなんですが、江戸の海というのがどういう定義(どのあたりの海のことなのかですね)なのかというところが実はまだあいまいな感じなので、これもまたそのうちの宿題ということで・・・。自己完結、笑)


蓬莱坂(NO.224)2
写真2

で、お次は坂をすこし下り、坂上のほうを眺めたものです。
閑静な住宅街ぽいエリアみたいで、道の風景というか街並みもけっこう落ち着いた感じでした。


蓬莱坂(NO.224)3
写真3

さらに坂を下り、坂の中腹あたりから坂下のほうを眺めてみました。
いやー、こんだけ家々の屋根がみっちり見える坂の風景というのも珍しいかもですよ。
たいていは写真右側のように家が坂と同じレベルに建っているので、奥は見えないのですが、ここは坂のむこうが崖かなんかになっていて一段低くなっているのか、隣接する家の屋根まで見えてましたよ。


蓬莱坂(NO.224)4
写真4

そして、最後は坂下からです。
いやはや、緑は少なめですが、やっぱり坂の高低差具合と距離や道幅、そして周りの家々の高さなどの比率みたいなものがいい感じかもですよ。(根拠はなんもないですけどね。)

ちなみにこのすぐそばにもかつては坂の碑があったようですが、今回は見当たりませんでした。
工事してそのまま忘れちゃったんですかね。。



地図
大田区中央5-20あたり

というわけでやっと本題です。
そして今回も同じく神田明神つながりの話です。


神田明神曙之景と坂道風景1

まずは神田明神男坂の坂上からの眺望など。
とりあえず、この坂のこまかいことについては、過去の記事を見てもらうとして、この景色を見てもわかるとおり、この神田明神は湯島台地の東端にあるので、こんな具合に急勾配な崖に近い高低差のある坂道があるわけですけど、やっぱり遠くを見るとビルばかりです。

でもこの前、神田明神の公式HPを見てたら、実はこの神田明神男坂についての記載があり、『天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献した。眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれた。又、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれる。』
とありました。

それでいちおう神田明神男坂の過去記事を改めてみてみても灯籠らしきものはなかったですが、石段は多少の改良工事はあったとはいえ、写真で見た感じでは、おそらくそれほど変化してないのではないかと考えらます。
そして、もうひとつが江戸時代は眺めがいまよりもよくて観月が行われ、さらには灯台の役目もはたしたとのこと。
まあこれはもちろん坂道の話というより、神田明神のことだとは思いますけど、やっぱりそれほどまでに景色がよかったんですかね。


神田明神曙之景と坂道風景2

そこで、当時の風光明媚具合を知りたかったので、こんなものを見つけてきました。(笑)
広重さんの「神田明神曙之景」なるタイトルの浮世絵です。
こちらは神田明神境内から東の海側方向を描いたものらしいのですけど、こうしてみると当時はほんとうに景色がひらけていたんですね。
しかも早朝の朝焼け具合もすごく良い感じで描かれてます。
これなら、ここが昔、灯台の役目もはたしたということもなんとなくわかるかもですね。

なので、おそらくこのすぐ隣にあったであろう神田明神男坂も似たような景色が坂上ではひろがっていたのかもしれないですね。


神田明神曙之景と坂道風景3

ちなみに、絵の雰囲気から、現代の境内の場所を推測してみるとたぶんこのあたりかなあという場所で、同じく東の海のある方向を眺めながらぱちりと一枚。

そんなわけで、もしかしたら、浮世絵に描かれているようにゆっくりすわって景色を眺められる眺望場所が境内からなくならず昔からずっとここに残っていたなら、現代のここから眺めることができる風景もちょっと違ったものになっていたかもなあなんて妄想もしつつ、今回はさらりとこんな感じです。


住所
千代田区外神田2

所在地:千代田区外神田2

みょうじんおんな坂と呼ぶそうです。(写真データ復活しました。。)
場所は、明神男坂(NO.164)の南側にあり、東へと下っている階段坂です。
今までこのブログでとりあげた女坂と名のつく坂は、すべてスロープになっていたと思いますが、今回はなんと階段なのに女坂となっているようでしたよ。


明神女坂(NO.165)1
坂下より

坂下から眺めたものです。
見てのとおり狭い路地に坂道もあるという感じで、両サイドの建物がすぐ横までせまり、ぱっとみただけで高低差もわかるので、なんだかえらいきつい勾配の階段だなあというのが、第一印象だったかもです。


明神女坂(NO.165)2
坂の途中より

階段をすこし上り、坂下のほうを見たものです。
すこし階段を上ったとはいっても、実は建物でいうと3階くらいの高さからみたものなんですけどね。。


明神女坂(NO.165)3

そいで、ちょっと同じ位置から、右側を見てみると、こんな光景が・・・。
シートがかけられているのにもかかわらず、雑草が元気よく生えていましたよ。
まあそれだけなんですけどね。(笑)


明神女坂(NO.165)4
坂の途中より2

さらに階段を上ると、こんな感じでした。
さすがに、このあたりにくると、階段の両サイドに建物がキチンと建っていて、道幅は狭いけれど、坂下のほうとは違い、すこし落ち着いてきている印象でした。
あと気になったことといえば、右側にぽつねんと見えている木、しかもけっこう元気よく青々としている樹木ですかね。
こんな狭い路地階段でも見れるんだあという感じでした。


明神女坂(NO.165)5

坂上より

そして、最後はやっとこ坂上まできて、ぱちりと。
もうこのあたりまでくると、階段坂もいちおう途中で曲がっているため、ここから坂下の様子を伺うことはできませんでした。
しかも、ここから昔は明神男坂(NO.164)同様、海も見えたであろう場所だったはずで、そういう意味では階段歩きも楽しいものだったかもしれませんが、いまは大小のビルが建ちならび、どこに視点をもっていっていいやらわからない感じになってしまっていて、なんというか、これほどの高低差のある場所にもかかわらず、結局、階段ばかり見て歩くという感じで、そういう点でいえば、ここは坂下から坂上コースで歩くほうが楽しい坂道なのかもしれませんね。

ちなみにここには、いつものような坂の碑はありませんでした。


地図
千代田区外神田2



所在地:千代田区外神田2


みょうじんおとこ坂と呼ぶそうで、別名、明神石坂とも言うそうです。
場所は神田明神のすぐ東隣にあり、神田明神の境内から東へと下る階段坂道です。



明神男坂(NO.164)1
坂上より

見てのとおり坂上からの風景です。
言葉で説明するまでもなく、かなりの急坂で、階段という選択以外にはありえないくらい坂上と坂下での高低差(例のごとくまわりのビルと見比べてみてください・・)があり、まさに崖につくられた階段という感じでした。

ちなみに、ここには写真でも見えているとおり、いつもの坂の碑があり、
『この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。』
とありました。

ただ、ここからの景色は、この坂道の名前や歴史的なイメージ、かつてここからの景色が絶景だったというからすると、なんともあまりありがたみがないというか、電線やら形も色もばらならなビルが建ち並んでいるのが見えているだけで(ひさしぶりに建築的視点で・・・(笑))、遠くをみてもビルばっかりで(おそらくあの秋葉原の)、う〜ん(汗)という感じだったかもです。

いちおう、この神田明神あたりから海の見える方向が絶景だったことをしめすものとして、広重さんの描いた名所江戸百景の「神田明神曙之景」(ウィキペディアのページへ→go)でこのあたりの景色が取り上げられているみたいでしたよ。



明神男坂(NO.164)2
坂の途中より

次は、すこし階段を下り、坂上のほうを眺めたものです。
なんというか正面の赤と白の壁がなんとなくこの場の印象を神聖なものにしているようにもみえますけど、それ以外はふつうの階段といった感じですかね。

あとちょっと一味違う視点でみると、階段の一段の高さ(蹴上げ)をだいたい20cmとして計算してみると、すでのこの段階で18段くらいありそうなので、坂上とは3.6mくらいの高低差があることになりますかね。。(ようは建物約一階分ですよ。)



明神男坂(NO.164)3
坂下より

そして、あっというまに坂下まで下りてしまい、坂上を見たものです。

男坂という名前からして、なんとなく坂道の坂下にある鳥居をくぐって神社の境内に入るというイメージが僕の中にはあったのですが、どうもここはそのようなものではないみたいで、しかも、ちょっと今回は行った時期があまりよくなくて、坂道の両サイドで建物が工事中だったため、すこし違和感のある風景になってしまっていたかもです。



地図
千代田区外神田2

ブログネタ
街写真 に参加中!
所在地:港区愛宕1


タイトルからもわかるかもしれませんが、愛宕(あたご)神社の境内にある階段坂です。
場所は、かの有名な愛宕神社内です、と、いってしまってもいいんですが、以前にとりあげた愛宕グリーンヒルズの北側に神社があり、そこから東へと下りていける階段坂です。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 1
坂上より

神社の側からみたものですが、見るだけでぞくっとするほどの急階段(というか崖)でしたよ。
もう、あきらかにこれは一種の登山かもです。。
ただ、この石段は「出世の石段」とも呼ばれているそうですよ。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 2
境内より

念のため、さらに奥より眺めてみましたが、まわりはうっそうとした木々にかこまれていたため、まわりの景色はあまりみえませんでした。
ただ、この愛宕山は、ご存知のかたも多いとは思いますが、昔からかなり有名な場所で、江戸名所図会にも「当山は懸崖壁立して空を淩ぎ、八十六級の石段は畳々として雲をさすが如くしょう然たり。山頂は松柏鬱茂し、夏目といへどここに登れば涼風凛としてさながら炎暑を忘る」とあり、その挿図もあるようで、いろんな意味でも印象的なところだったのでしょうね。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 3
愛宕神社

うしろをふり返るとすぐそばに愛宕神社の本殿がみえていました。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 4
坂の途中

そして、おそるおそる階段を下りはじめたのですが、その途中で、せっかくなので、勾配具合を記録するためにパチリと。。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 5
坂下あたり

そんでもって、ほとんど坂下に近いあたりまできてみたところで、今度は、坂上のほうを眺めてみました。
下からみると、なんてことないように見えなくもないですが・・・。


愛宕坂[男坂] (NO.121) 6
坂下より

そんな感じで、階段の全景がみえる場所へ。
う〜ん、こうしてみるとあらためてものすごい坂道です。

ちなみに、ここには(あたりまえですが)いつものような坂の碑は、ありませんでしたが、島崎藤村の「新生」という小説のなかで、大正初期の愛宕山を描写しているところがあり『(略)見上げるやうな急な男坂の石段でも登って行くと、パノラマのやうな眺望がそこに展けて居る。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から、品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った。』とあり、昔は今ほどは木が生い茂っていなかったのかどうか、はたまた幾分かのフィクションがはいっているのかどうかわかりませんが、あきらかに風光明媚な場所として書かれていたようですね。

※上記の江戸名所図会と島崎藤村などの文は、江戸東京坂道事典から抜粋させていただきました。

(そのほかにもいろいろあるようで書いているときりがなさそうですので、詳しくは愛宕神社の公式サイトをどうぞ。。)



地図
港区愛宕1

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