東京坂道さんぽ

タグ:台東区
清水坂と清水堂をタイムトリップ
清水坂(NO.204)
言問通りの喫茶店
三段坂(NO.203)
御隠殿坂(NO.202)
寛永寺坂(NO.201)
新坂(NO.200)
車坂(NO.199)
信濃坂(NO.198)
屏風坂(NO.197)
車坂(NO.196)
桜谷坂(NO.195)
森鴎外旧居跡
上野東照宮の女坂?
上野東照宮の男坂?
上野公園、時の鐘
忍坂(NO.194)
稲荷坂(NO.193)
清水坂(NO.192)
旧岩崎邸庭園

脱線ついでにもういっちょです。


清水坂と清水堂1
写真1

まえにまわった上野公園内にある清水坂(NO.192)
前回の湯島天神の坂道の風景画と同じように、こちらも広重さんの浮世絵「上野清水堂不忍池」にちょっぴりとだけ描かれていました。


清水坂と清水堂2
上野清水堂不忍池

絵の一番下に人が昇り降りしている階段がみえていますけど、こちらが江戸時代の清水坂。
現代の清水坂(NO.192)と比較してもそんなにかわらない感じですかね。
右側の赤い建物が坂の名の由来にもなった清水堂です。
前にも書いたかもしれないですけど、京都の清水寺を模してつくられたそうです。
左側には不忍池が描かれています。


清水坂と清水堂3
写真3

そして写真3が現在の清水坂(NO.192)からみた清水堂です。
広重さんの絵にかなりのデフォルメがはいっているのか、はたまた新しくリニューアルされて昔の絵の建物とちがってしまったかは不明ですけど、舞台と下の地面の高さ具合がかなり違っているみたいですね。


清水坂と清水堂4
写真4

また清水坂(NO.192)の坂下のすぐそばには不忍池へと下っていく階段もありました。
おそらく昔は「上野清水堂不忍池」の絵にあるように坂自体も一気に池の端まで下っていっていたかもしれないですが、今は途中に公園をぐるりと歩くための歩道がひとつできていて、これはそこから池の真ん中あたりにある弁財天の方向を眺めたものです。
階段というか坂道的には美階段で(笑)、坂上の眺望も今思い出してみても、なかなかいい感じだったと思います。
(ちなみにこちらの階段坂道風景はブログ初公開の写真です。そのほかの写真も実は坂道散歩した時とは別の日のものなんですけどね。)


清水坂と清水堂5
上野山内月のまつ

それでもって最後にもう一枚。
こちらも広重さんの浮世絵です。
実はこの絵、写真4の奥のほうの不忍池がうつっている風景とだいたい同じ場所(方向)を見ているようなんですよ。
ちょっと木々に隠れてわかりにくいですけど。
手前に大きく描かれている松が、この絵のタイトルにもなっている“月のまつ”とよばれる松で、実は上でのせた「上野清水堂不忍池」の左側にもちらりと見えていたりします。(笑)
そんなこんなで「上野清水堂不忍池」の絵に松のそばでぼんやりと池のほうを眺めている人も描かれてますけど、この「上野山内月のまつ」の絵はまさにこの人の視線(と場所)でシャッターを切られたものといえるのかもしれないですね。


地図
台東区上野2あたり

所在地:台東区池之端4


しみず坂とよぶそうで、別名で暗闇坂とも言うそうです。
場所は上野動物園の西隣を都立上野高校に向かって上る坂道です。



清水坂(NO.204)1
写真1

坂下からの様子です。
右側が上野動物園の敷地ということもあり、樹木が元気よく歩道(むりやり区切られた感もなくなはないですけど)にとびだしていました。
舗装もなかなか行き届いている感じですかね。
坂上のほうは道が大きくカーブしていて見えていませんでした。

ちなみにここにはいつもの坂の碑があり、
『坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。』
とありました。



清水坂(NO.204)2
写真2

さらに坂上のほうに行きカーブに行き着いたあたりでぱちりと一枚。
なかなかよい具合にカーブしながら上っている坂道だなあと思いつつもまわりも見渡すと、右側の上野動物園内の樹木もさることながら、左側にも大きな樹木があり、なんともおおきく道にとびだしていました。



清水坂(NO.204)3
写真3

写真2を見て、「ちょっと待って!」と思ったかた。
正解ですよ。(笑)
写真3は、写真2の写真のさらに左側のものです。
ブラタモリでも紹介された建物ですけど、かなり異様な雰囲気をかもしだしていますよね。
今は倉庫として使われているようです。
しばらくはこのまま残っていてほしいかもです。
あとは手前のコンクリの門やら塀が傷だらけというのもなかなか現実味があるというかなんというか。
ほんとは門の両サイドは左右対称のつくりだったのだろうとと思いますけど、今はおそらく車がここにぶつかったかなにかで右上のほうの部分のさきっちょがもぎとられていますね。
なんだか生生しいというかなんというか。。



清水坂(NO.204)4
写真4

そして、坂上のほうまでやってきて坂下のほうを眺めてみました。
ちょっとここから見る分には道がカーブしていたりしていることもあって高低差具合がわかりにくいですかね。
なんだかテーマパーク内にありそうなくらい緑と擁壁や塀に囲まれた道という感じがしなくもないです。
ただかつては別名で暗闇坂と呼ばれていたくらいですから、もっと樹木が生い茂っていて暗い雰囲気だったのかもしれないですね。

あと最後に、円地文子なる小説家が「妖」なる短編小説の中でこの坂道の描写をしており、その文が、江戸東京坂道事典に抜粋されていたので、すこしのせておきますね。
『その静かな坂は裾の方で振袖の丸みのように鷹揚なカーブを見せ、右手に樹木の多い高土手を抱えたまま、緩やかな勾配で高台の方へ延びて上っていた。片側には板塀やコンクリート塀がつづいていたが、塀の裏側は更に急な斜面に雪崩込んで崖下の家々は二階の縁がようやく坂の面と並行する低さだった。言わば坂は都心にしては広い丘陵地帯の一辺を縁どって低地の人家との間に境界をなしている形である。遠い昔には恐らく台地の一斜面に過ぎなかったのが、いつか中腹の帯のようにひろがった道が人や馬の踏み固めるまゝに自然の切通しになったのであろうか。(略)』
要は、当時も今とおなじく上野動物園側が一番高い位置にあってそこからなだらかな斜面になっており、この描写はいちおう坂下から坂上のほうをみる視点で書かれていて、今の清水坂は左側の家々とはだいたい同じ地面のレベル(高さ)にあるようにみえますけど、当時はさらに高低差があってちょうど踊り場のような感じで清水坂があったということを書いているようにおもうのですけど、どうでしょうかね。

地図
台東区池之端4

今回はちょっと寄り道話です。
御隠殿坂(NO.202)を歩いたあとに言問通りをテクテクと歩いているとなにやら人だかりができてたのでちょっと立ち寄ってみました。
場所的には三段坂(NO.203)から徒歩数分のところにあったりします。



言問通りの喫茶店1

外観的には、年末に京都を歩いたせいか、実は今見てみるとなんだかあまり新鮮さはないのですけど(汗)、散歩当日はさすがにまわりにこんな木造でいい感じの建物がなかったせいもあって興味津々で、思わずパチリと一枚。
敷地内の案内看板には「旧吉田屋酒店」とあり現在は下町風俗資料館の付設展示場として使用されているようでした。
なんでも明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を保存する目的で昭和60年にこの地に移築復元された建物だそうですよ。
建物が簡単に壊されてしまう東京では珍しいつくりの建物なのかもしれないですね。



言問通りの喫茶店2

そして、このすぐとなりには「カヤバ珈琲」という知る人ぞしる喫茶店もありました。
僕はあまり喫茶店にはくわしくないので、お店の雰囲気その他もろもろについてはおなじくみちくさ学会で執筆されている塩沢さんの書かれた記事公式HPなどをみればなんとなくわかるかもですよ。
ちなみに喫茶店うんちくのない僕がなぜこのお店を知っていたかというと、ここの店舗の改修を実力派の若手建築家である永山祐子さんが担当したことでも有名なお店だったからですよ。
上の写真で見るかぎりはちょっとレトロだけど普通な家という感じの外観ですけど、中はとにかくモダンだけれどどこか懐かしい雰囲気のつくりになっていましたよ。(今回は食べ物目当てではなかったので外から見ただけではありましたけど・・・。笑)


住所
台東区谷中6あたり

所在地:台東区池之端4


さんだん坂とよぶそうです。
場所は上野公園内にある上野動物園の北西側徒歩数分の場所にあり、
言問通りの南側を通りと同じく平行に走っている坂道です。



三段坂(NO.203)1


坂上からの風景です。
すでに坂上からも坂下が見えているほど距離の短い坂道でした。
坂の碑がなければ、ほんとうに普通の住宅街にあるちょっとゆるやかな高低差のある道路といった感じしたよ。
ただよくみると三段坂という名前がつけられているとおり、坂上から1段さがって2段下がって3段下がると坂下なのねという感じの高低差になっていたりします。
ちょっとわかりにくいですけどね。。

というわけでここにも坂の碑があったわけなので、いつものようにそのまま抜粋してみますと、
『「台東区史」はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名、この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。』
とありました。
ということはこの坂道がつくられたか名前がきちんとつけられたのは120年ほど前ということになりますかね。
いわゆる明治の坂道ですね。



三段坂(NO.203)2


そして一気に坂下までやってきて坂上の方を眺めてみました。
なんというか奥に見えている坂上よりなんとなく高い位置にありそうな大きなマンションが見えているあたりがなんとも都内の坂道っぽい感じですかね。
しかも写真をよく眺めていると奇跡がおきていました!
写真をよくみてください。
まずホップともいうべき1段目の、階段でいう踊り場の部分に近所の女子学生さんらしき人が見えています。
次にステップといってもいい2段目の場所には、なんと車がたまたまここを通ったのか駐車していたのか当時の記憶はあいまいですけど、とにかく女子学生さんよりすこし高い位置に見えています。
最後にジャンプ!といってもいい3段目の坂上にあたる一番高い場所がちょうど手前の車のおかげでわかりやすく見えていますよね。
これが奇跡といわずしてなんといえましょうか。(笑)
おかげで三段坂の名前の由来にもなっているであろう高低差のうねりみたいなものがすごくわかりやすく見えるかもですね。
とにかく現地ではとくにこれをねらったわけではなかったので、自分でも今回あらためてじっくりと眺めてみてちょっとびっくりという感じの写真でした。


地図
台東区池之端4

所在地:台東区根岸2あたり


おいんでん坂(もしくはごいんでん坂)とよぶそうで、御院殿坂とも書くそうです。
場所は、前回の寛永寺坂(NO.201)のもうすこし北側にある谷中霊園の中に坂上がありそこから北東に向かってくだる坂道です。



御隠殿坂(NO.202)1


坂上あたりからの風景です。
左側に坂の碑もちらりとみえているとおり、ここは御隠殿坂とよばれる坂道なのですけど、なんていうかまわりはゲゲゲの鬼太郎でも近くにでてきそうな雰囲気の場所で整備もあまり行き届いていないようでした。しかも僕のすぐそばおよび背後は谷中霊園の敷地なので当たり前ですけどお墓がたくさんあって暗くなってからここを歩くにはちょっと勇気がいるかもなあという感じでした。
道は二手に分かれてますけど、普通は右側の道を通ります。そして奥には陸橋が架かっていて、その下をJRが走っています。

というわけで、ここには上記したようにいつもの坂の碑があり、
『明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』
とありました。



御隠殿坂(NO.202)2


今度は陸橋の上から坂上のほうを眺めてみました。
この橋は御隠殿橋とよばれている(現地未確認なんですけどね・・)らしいのですが、かつての御隠殿坂はこの橋の西わきを根岸へ下る坂道だったそうですよ。(@東京坂道事典)
ということは、①の写真の左側の道のほうがかっての坂道のなごりなのかもしれないですね。

また坂下あたりは根岸の里とよばれて江戸時代から風流人や文人の好んで住むところであったらしく、明治時代にあっては正岡子規が竹の里山人と号して住んでいたことでも有名だったそうですよ。(@東京坂道事典)

そしてあともうひとつ、
『そのころのことを書いた高浜虚子の私小説「柿二つ」には子規との交際を次のように寸描する。
   知人の間に雑誌発行の事を通知旁々寄稿を依頼する手紙は大概彼
   から出された。二人は毎日のやうに手紙を往復した。手紙で間に合は
   ぬことは彼の病床で協議された。Kは三日にあげず御隠殿の坂を下り
   て来た。上野の森には野分が吹いてゐた。暑さが今日の野分で一時
   に退くであらうと誰もが心頼みにしてゐた。
      野分して蝉の少なき朝かな
   と彼は折節の即景を句にした。』
と東京坂道事典にあったのでせっかくなのでそのまま抜粋してみました。



御隠殿坂(NO.202)3


最後は(たぶん)御隠殿橋とよばれている陸橋より日暮里駅方方面を眺めたものです。
おそらくかつての御隠殿坂はこのすぐ手前あたりを左から右に下っていたのかもしれないですね。
あとはとにかく目の前にひろがっているJRの線路の数が洒落になってないのがものすごく気になりましたよ。。


地図
台東区根岸2あたり

所在地:台東区上野桜木1

かんえいじ坂とよぶそうです。
場所は上野公園の北側の言問通りというすこし変わった名前の道路とかぶっている坂道で、坂上のすぐ南には徳川将軍の菩提寺としても有名な寛永寺があります。



寛永寺坂(NO.201)1

坂下あたりの様子です。
みた感じはふつうの道路といった感じで勾配具合もかなりゆるやかでした。
このすぐそば(写真後方)には、この坂道から名前をとったと思われる寛永寺橋がJRの上をまたいでいたりします。



寛永寺坂(NO.201)2

もうすこし坂を上り坂下のほうを眺めたものです。
なんとなーく下っている感じがわかりますかね。
坂下あたりにある寛永寺橋は奥の右にカーブしている道のアイストップの位置にあります。
微妙に橋の上の白いガードレールや柵がなんとか見えている程度ですけどわかりますかね。。
ちなみに江戸東京坂道事典に、佐多稲子なる小説家が書いたこのあたりのかつての風景描写の一文が抜粋されていましたのでせっかくなのでちょっとのせてみますね。
『佐多稲子の「私の東京地図」は寛永寺陸橋が架設(昭和八年)してまもない時分のことを次のように書いている。
(略)寛永寺坂は夜目にもしろじろと広く、ゆるやかに登ってゐる。私たちは寛永寺坂を登らずにその下から右へ、これも日暮里の、出来上がったばかりの改正道路へ折れてゆくのだが、寛永寺坂の近代風に出来がったのもこのころで、坂と橋とをかねてゆるやかに登リながらひろびろとしカーブして、信越線、常磐線、何々線と数本の通ってゐる上を上野の山つづきの町へと渡ってゐるのである。』
このころの寛永寺陸橋のさらにJRをこえた北東側のあたりに、今と同じく立派な高架橋があったかどうか不明ですけど、この描写ではおそらくJR(寛永寺橋)をこえた北東側の部分までを寛永寺坂ととらえているみたいですね。



寛永寺坂(NO.201)3

そしてふと気がつくと坂上あたりまできていました。
とにかく写真うつりは普通な坂道ですね。



寛永寺坂(NO.201)4

そんな具合で坂の途中からはほぼ平坦な道だったので、④の写真のような桜並木のある道にでくわすまではほんとどこが坂上あたりなんだろうという感じでした。
この奥には谷中霊園があり、徳川慶喜の墓所もすぐ近くにあるそうです。
なので、今回は写真におさめてないですけど、この背後のほうに寛永寺があるということになります。
(というよりここの寛永寺があの有名な寛永寺だったなんて、帰ってからきちんと調べるまですっかり忘れていたので、写真におさめてなかっただけなんですけどね。。〈汗〉)

ちなみにここには、いつもの坂の碑があり、
『大正年間(一九一二〜二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。』
とありました。


地図
台東区上野桜木1


追記(2011.5.8):
地震前に情報いただいていたんですけど、地震なんかがあって掲載忘れてましたが、とあるかたから投稿メールにて寛永寺坂駅についての話をいただいたので追記でのせておきます。
そのかたのメールによれば、なんと3枚目の写真の左手の青い壁(トタン?)のある建物のさらに左に見えているワゴン車の奥の建物はかつては寛永寺坂駅の駅舎だった建物だそうですよ。
(ちょっと僕の写真ではわかりづらいですけどね。)
寛永寺坂駅についてのくわしいことは、Wikipediaのページにのっているみたいですので、よかったらどうぞ。
寛永寺坂駅@Wikipedia

所在地:台東区上野公園18あたり

しん坂とよぶそうで、別名で鴬坂や根岸坂とよばれています。
ちなみに「鴬」は「うぐいす」とよびますけど、坂の碑には「鴬谷」と書いてあり近くのJRの駅名は「鶯谷」という漢字になっていたりします。
場所は上野公園の北東にあり、坂の途中にはJRの鶯谷駅の改札口もある坂道です。



新坂(NO.200)1


坂上からの様子です。
すぐうしろには上野公園があり、お寺も多い場所がらなこともあってかかなり落ち着いた雰囲気でした。
また坂の左側が霊園、右側が中学校というのもなんだかいろいろと考えてしまいますかね。
そんなこともあってか右側には背の高めの柵のような手摺が設けられているのに加え、霊園側にも歩道がきちんと設けられているなど、あらためて写真をみているとお年寄りと子供にやさしい坂道だなあと思ってみたり。
あとは右側(中学校側)の樹々がなかなかよい感じで道にせりだしていますかね。



新坂(NO.200)2


坂の途中からぱちりと。
霊園のあたりはぽっかりと空がひらけていました。
どこぞやの庭園と間違いそうな感じですけど、手前の塀のむこうはお墓ですよ。。



新坂(NO.200)3


そしてもうすこし坂を下ると、鶯谷駅の改札口が見えていました
なんとなく懐かしい感じのたたずまいですね。
しかも駅舎の屋根が瓦。
ありそうで以外となさそうな感じかもですね。



新坂(NO.200)4


さらに坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
坂道はまだ続きますが、ここは見てのとおり橋の上です。
なのでこの下をJRが走っています。



新坂(NO.200)5


今度はだいたい同じ位置より坂下のほうを見てみました。(写真⑤)
このあたりから新坂は勾配具合がちょっと急になっていく感じでした。
ひとつ気になったのは、道路と歩道が完全に分離されているのは見ての通りですけど、その間に緑色のフェンスがつけられているんですよね。おそらく転落防止のためかとおもわれますけど、そうなれば歩道の線路側にもなにかしらついていると思えばそうでもないし・・・。
これはなんなんでしょう?



新坂(NO.200)6


最後は坂下の様子です。
なんとなく車道の部分だけあとで増設されたっぽい感じがぷんぷんしますかね。
おかげで高低差具合がわかりやすいかもですね。
あと、この坂下一帯は、(江戸東京坂道事典によると)鶯の名所として有名だったらしくそのため鶯谷と呼ばれていたらしく、輪王寺の宮様がわざわざ京都からとりよせた鶯をこの一帯の林に放ったという伝えもあるらしいのですけど、現在は写真⑥のように見る影はないみたいですね。(ただ駅名としては残ってますけど。)


ちなみにこの坂道にははじめにもすこし書いたとおりいつもの坂の碑があり、
『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鴬谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』
とありました。

あと、最後の最後にもうひとつ。(汗)
(これまた江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど。)
『坂上の徳川霊廟のあたりは根岸下谷をこえて眺望はるかにひらけていた。そして花見のころには上野全山の桜花が見わたせるというので、下谷方面からの客でこの坂道は大いににぎわい、坂上のほうには茶店が軒をつらねた時代があったというが、いまはそのおもかげはなく自動車の往復せわしないアスファルトの坂道で、そのわきに一段高く歩道が設けられている。むかしはこの坂下にあった門を新門とよんでいたが、もちろん現在はない。』

とまあ別名で鴬坂ともいい坂上には上野公園もあるので、どんな坂道なんだろう?という期待もあったんですけど、実際はいろんな要素(橋やら駅そのたもろもろですかね)がおりまざった奇妙な感じの坂道だったかもですよ。


地図
台東区上野公園18あたり

あけましておめでとうございます。
ということで今回は上野公園界隈の坂道話の続きです。


所在地:台東区上野7

くるま坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の東側あたりにあり前回の信濃坂(NO.198)などでもでてきた両大師橋と坂上でつながっている坂道です。



車坂(NO.199)1

まずは坂上からの風景です。
坂上からみた感じはなんてことない高低差のある車道というか坂道ですかね。
ただ歩道はあまり広くなくて、さらにここが名前のついた坂道というにはなんだかちょっと違和感があるかもですね。



車坂(NO.199)2

そして坂の左側にはこんな風景がひろがっています。
写真左側の橋が両大師橋で手前にひろがっているのがJRです。
なので線路の奥に見えているのが上野公園ということになりますかね。



車坂(NO.199)3

すこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
やっぱりここでも坂道自体よりも両サイドの建造物と道とのかかわり具合が気になってしまいましたよ。


車坂(NO.199)4

そしてあっというまに坂を下り、坂下あたりより坂上のほうをみたものです。
こうしてみると距離が長いこともあってなだらかな感じに見えてますけど、坂道自体はけっこうな勾配具合がありました。
あとは手前のぐぐぐと急にカーブして下っている感じが、なんていうかこの上野界隈の雰囲気というよりは東京郊外やら神奈川のほうにありそうな雰囲気で(かなり個人的な思い込みですけどね)、ちょっとした違和感があったかもです。
それと手前の木ですかね。
坂上からの写真をみればわかりやすいですけど、なぜかポツネンと一本だけ植えられていて、しかもかなり元気よく育ってますね。
ここに昔からあったんではないかと妄想してしまうくらいの馴染み感があるかもですね。



車坂(NO.199)5

というわけこれが最後の写真です。
びっくりなことにこれはJRと反対側から車坂を眺めたものなのですよ。
木がじゃまして見えにくですけど、斜めに高架らしきものがあるのが見えていますよね。
よくある高架下の風景ってやつです。
どうりで坂道全体になんだか変な違和感があったというかなんというか・・・。

ただかつての車坂は予想通り今の様子とちがったらしく、江戸東京坂道事典によると、
『本来の車坂は明治一六年に上野駅が建設されるにあたってその敷地となって失われた坂で、文久の江戸図をみると、屏風坂の南にあって下谷車坂町へ下る坂道であった。車坂と車坂門との間を横貫していた道を下寺通りとよび、寛永寺の下寺がたくさん並んでいた。』
とあり、実際のところ、今の車坂は昔と別物の坂道と言ってもいいのかもしれないですよ。


そして最後の最後に(こちらも江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど)、この近くで少女期をすごした樋口一葉の明治24年の日記の抜粋や関連する歌でもどうぞ。
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車坂下るほど、ここは父君の世にゐ給ひしころ花の折としなければいつもおのれらともなひ給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、昔の春もおかげにうかぶ心地して、

山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ


地図
台東区上野7

所在地:台東区上野公園17


しなの坂と呼ばれていたそうで、こちらもすでになくなってしまった坂道です。
場所は屏風坂(NO.197)のすぐ北側というか両大師橋をはさんですぐ隣あたりにあったようです。

いつもお世話になっている江戸東京坂道事典によれば、
『「新撰東京名所図会」の上野公園之部に「信濃坂 慈眼堂の裏門に在りて下谷坂本へ出る細路なり」とあり、文久の江戸図を見ると、慈眼堂と御霊屋の間から下谷坂本町へ出る坂下門へ続いている。現在の地図でいうと、博物館の東隣にある開山堂(通称両太師)の東北側を上野七丁目へ下る坂だった。』
とあります。

この文章をたよりに地図を見てみると現在の両太師は、学士院の北側にあるのでまあだいたいの場所をメモして行ってみると屏風坂(NO.197)のすぐそばだったというわけですよ。



信濃坂(NO.198)1

まずは両大師橋の上野駅と反対側のほうをメインにぱちりと。
今僕が立っている場所のほうが向こうにみえている上野公園東側のまちの場所よりも高い位置にあるためJRを超えたあたりから人工的にむりやり傾斜をつけて道路が下っているみたいでした。




信濃坂(NO.198)2

そして橋の上から上野公園のほうをみるとわかりやすい高低差のある崖になっていました。
なのでかつての坂道はこの左側から右側へと下る坂道だったのだろうと思いますよ。



信濃坂(NO.198)3

さらに橋をわたり同じく上野公園側のほうを眺めたものです。
奥に見えているのが両太師ですね。
なんとも手前の大規模なJRの線路といい奥に見えているお寺といいなかなかおもしろい風景がひろがっていたかもです。


というわけで、今回はさらりとこんな感じですけど、このあたりのかつてあった坂道と今ある橋とJRと公園の成り立ちの関係はなかなか興味深い関係にあるみたいなので、こんどちかいうちに図書館にでも行って古地図でも見ながらいろいろと検証でもしてみようかなと思いついたので(笑)、またその成果も調べがおわればそのうち(いつになるかは不明ですけど・・・)報告してみようかなと思っていますのでよろしくなりです。


地図
台東区上野公園17

所在地:台東区上野公園7


びょうぶ坂とよぶそうです。
場所は上野駅の北側にあり、かつて上野公園内から東に下っていた坂で現在は残っていません。

ただいつもお世話になっている江戸東京坂道事典には、
『「新撰東京名所図会」公園之部には「屏風坂 慈眼堂の前より下谷へ出るの坂路なり。昔時此所に門を設けたり」としている。現在の地図でいえば学士院の北側を東へ、上野七丁目のほうへ下る坂であったろう』
とあります。

なので、この文をたよりに地図をたどってみると、今も学士院はあるようなので、そのすぐそばの両大師橋なる上野公園から東側の地域へ行くための大きな橋があるのですが、おそらくそのあたりかなと。



屏風坂(NO.197)1

そして、これが両大師橋ですね。
けっこう長くて規模の大きな橋でした。



屏風坂(NO.197)2

それから、橋を渡りながら上野公園やら上野駅が見える場所にてぱちりと。
左奥に見えているのが上野駅で右側には上野公園があります。
おそらくこのあたりに屏風坂があったと思われ、右側から左側に下る坂道だったのではないでしょうかね。

ということで、前にとりあげた桜谷坂(NO.195)もそうでしたが、この上野公園界隈では橋があるところにかつての坂道ありという感じなんですかね。。


地図
台東区上野公園7

所在地:台東区上野公園1

くるま坂と呼ぶそうです。
場所は、前回の桜谷坂(NO.195)からも実は見えていた坂で、坂道好きの方なら、すでに気がついていたかもしれないですけど、かつてあったであろう桜谷坂(NO.195)とはちょうどクロスするようにあり、上野駅の公園口からアメ横方面へと下る坂道です。



車坂(NO.196)1
坂上より

坂上からの眺めです。
改札口から近くアメ横方面へと抜ける道ということもあって歩道は人であふれかえり、車道は車が列をなして信号待ちをしていました。
ちょうど上に見えている橋が桜谷坂(NO.195)でもでてきたパンダ橋です。
どちらかといえば、橋というより変わった形の歩道橋といった感じですかね。



車坂(NO.196)2
坂の途中より

桜谷坂(NO.195)でも似たような写真をのせましたが、微妙に違うアングルでパンダ橋からの車坂の眺めもぱちりと。
こうしてみると車道のほうを無理して歩けばなんとかこの坂道の傾斜具合などを体感できそうですかね。
しかも電柱もないので道の形状もよく見えています。



車坂(NO.196)3
坂の途中より2

次は坂道から一段高いところにある歩道から坂上のほうをみたものです。
上野駅のホームのほうに視線がいきがちですけど、あらためてじっくりみてみると左側の歩道もちょっとづつ傾斜しているみたいですね。


車坂(NO.196)4

坂の途中より3

この時は車が車道に目一杯列をつくっていたので、かなり気後れしましたが、せっかくなので車道も歩きながら坂下のほうをみてみました。



車坂(NO.196)5
坂下より

そして坂下あたりまでやってきました。
この時もいつ車がくるかとあたふたしていたのですが、あらためて写真でじっくりみてみるとなかなかおもしろいところがいっぱいですね。
たとえば、勾配具合はもちろん、上野駅のホームの屋根の白いトラスがなんかいい感じだなあとか、その下の壁というか擁壁が左の立派な石垣風のものに対してやたらと風化していて傷んでいる感じが気になったり、左の歩道が途中で歩道橋になっていたり・・・。



車坂(NO.196)6

最後はこの建物ですかね。
2枚目の写真でも坂下のほうにちらりと見えていましたが、この建物だったら見覚えあるという方も多いんじゃないですかね。
上野公園の崖の一部に埋め込まれるようにたっているのも印象的な感じですけど、個人的にはこの1階に古本屋もあるので、そういうところでも個人的にはすきだなあと。。(でもこういうのばかりが並んでいるのもつかれてしまいますけどね・・・。)


地図
台東区上野公園1

所在地:台東区上野公園1あたり


さくらだに坂と呼ぶそうで、別名でくらやみ坂とよばれたそうで、今はすでになくなってしまった坂道です。
なので今回はかつての坂道を妄想しながら「江戸東京坂道事典」の記述をもとにだいたいのめぼしをつけてぶらりとしてみました。



桜谷坂1

まずはすぐ近くにある上野駅の公園口の改札あたりをぱちりと一枚。
おなじみの風景ですかね。
名前のとおり上野駅から上野公園に直結している改札口です。



桜谷坂2

公園口の改札からすこし南下(一枚目の写真でいえば右側です)するとなにやら屋根がいっぱい並んだ風景が道路のむこうに見えていました。
だいたいご想像のとおりですけど、上野駅の駅舎の屋根ですよ。
なので、このあたりはホームのある位置より一段高い場所にあるようですね。



桜谷坂3

さらに道沿いに南下していくと、パンダ橋なる変わった名前の歩道橋がありました。
ちょっと写真では見えてないですけど、この左側に橋がちゃんとあったりします。



桜谷坂4

それで、今度は橋から上野駅のホームなぞをぱちりと。
もうおわかりかと思いますけど、かつての桜谷坂はこのあたりにあったらしく、おそらく写真の右側から左側へと下る階段坂道だったようですよ。

いちおう江戸東京坂道事典の一文も抜粋しておくとですね、
『現在の公園内の日本芸術院会館と常盤華壇との間をJR上野駅のほうへ下る階段坂であったが、戦後はとり払われた。』
とありました。

ちなみに日本芸術院会館は2枚目の写真の場所のすぐ近く(駅と反対側)にあったりしますよ。

というわけで、もしかすると、このパンダ橋がかつての桜谷坂のなごりを違う形で残した橋だったりして・・・、なんて妄想もしつつ、江戸東京坂道事典の一文をもとに地図を見ながらかつてあった坂道の場所のあたりをぶらりとしてみましたが、今回の坂道の場所はかなりあやふやとも言えるかもしれませんので、そのあたりはあしからず。。


地図(でもつけてみました・・・。笑)
台東区上野公園1あたり

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前回の名もなき坂道の坂下の道をてくてくと北へ歩いて行くとちょうど道沿いにあったのでちょっと立ち寄ってみることにしてみました。



森鴎外旧居跡1

見てのとおり、文豪森鴎外がかつて住んでいたという場所のようで、さすがに道路からこれだけ目立つ看板とホテル名があればやっぱり僕みたいなものはふらりと入ってしまいますよ。(笑)
でも外観はふつうのビル風情のホテルという感じでした。



森鴎外旧居跡2

あと一枚目でも見えていた「森鴎外居住の跡」なる看板下に案内板と石碑があったので、これまたパチリと一枚。

例のごとくせっかくなので看板に書いてあることを抜粋してみますとですね、
『森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静雄の長男として生まれた。本名を林太郎という。
明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中称赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年八月に「国民之友」夏期附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文学評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月には処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。 一方、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟が生まれた二十三年に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木五十七番地に転居していった。 』
だそうです。
なんだか国語の教科書に書かれていそうな内容ですね。。
気になる方は検索でもかけてみて、さらなるディープな世界をお楽しみください。(笑)



森鴎外旧居跡3

そんなこんなでビルというかホテル内にはいり、すこしうろついた後にやっとそれらしき入口を見つけることができました。
この奥はホテルの中庭になっているみたいです。



森鴎外旧居跡4

そして奥にはホテルの外観からは想像もしていなかった日本家屋がそのままぽつねんと建っていました。
なのでここに森鴎外が住んでいたということみたいですね。
ふつう、こんな立派な日本家屋(しかもここは森鴎外の旧居!)なんてのは、高い塀に囲まれていてなかなかおいそれとは見れない場合が多いのですが、ここはホテル内にはいる勇気さえあれば誰でも見ることができるという気楽さがなんともすごいかもです。

ただここを訪れた時はなかで宴会かなにかが開かれていたので、家の中までは見学できなかったです。



森鴎外旧居跡5

今の精度の高い透明な窓ガラスに慣れている目としては、なんだかガラスのむこうに見えている室内の風景がなにか別の次元の世界のようにぼんやりと見えていたのがなんとも不思議な感じだったかも。


というわけで、森鴎外とこの家のことなどを調べだすときりがなさそうですので(しつこいですけど気になるかたは自分で検索するなり文献検索するなりしてディープな世界をお楽しみください・・・)、これ以上深入りしないようにして(汗)、今回はさらりとこんな感じです。

住所
台東区池之端3

今回も名もなき坂シリーズです。

前回の上野東照宮の男坂かも?で歩いた階段坂道の坂下のすぐ東側にゆるやかでくねりとした勾配緩めの坂道があったので、これはもしかして上野東照宮の女坂かも?ということで、ふらりと歩いてみました。



上野東照宮の女坂?1
坂下より

坂下からの風景です。
「とある街の風景(上野東照宮の男坂?)」の坂上のほうで登場した伊豆栄梅川亭へ車で行き来できる道でもあるみたいで、写真のようななかなかしぶい看板が設置してありました。
坂道自体は緩やかな勾配で樹々にかこまれている感じがなんだか東京離れしているというか、どこかのリゾート地にありそうな、とにかくそんな気分にさせてくれる感じでした。
でもよく写真みると一方通行なんですね。。
ということは出口専門?
じゃあ入口はどこなんですかね・・・?



上野東照宮の女坂?2
坂の途中より

もうすこし坂を上り、坂下のほうを眺めたものです。
樹々のむこうには不忍池があるはずですが、やっぱりこの時期は樹々が元気なためなにも見えていませんでした。
左側の石垣も北西に顔をむけているためか苔が一杯ついてますね。



上野東照宮の女坂?3
坂の途中より2

そしてそれほど変わらな立ち位置より坂上のほうを見てみました。
道の舗装は継ぎはぎだらけっぽいですけど、まわりを見てみると、左右の石垣のつくりが違っていたり、とにかくでかい樹々が正面にいくつもあり、さらにそれらがよく見えるようにあたかも演出したんじゃないかと思えてしまうほど微妙に道がS字にカーブしていたりと、なかなかぼんやりと風景を眺める分にはなかなかいい感じだったかもです。



上野東照宮の女坂?4

また3枚目の写真にはおさまりきらなかったんですけど、すぐ左側には、例の伊豆栄梅川亭の建物も見えていました。



上野東照宮の女坂?5
坂上あたりより

最後は坂上あたりまでやってきて坂下のほうを眺めたものです。
はじめに言うのを忘れてましたが、写真左側にちらりと建物の一部が見えていたりしますが、こちらは上野精養軒のものです。
なので、ここは伊豆栄梅川亭と上野精養軒にはさまれている坂道ということになりますかね。

ということで今回の坂道を一通り歩いてみましたけど、前回の名無し階段坂の坂下にあったような鳥居は坂上坂下どちらにもなく、そういう意味では、この坂道を上野東照宮の女坂と予想するにはかなり厳しい感じですけど、実際に女坂と名がついている坂道でも鳥居がないところもたしかあったはずなので、結局はなんともいえないのが現状ですかね。


住所
台東区上野公園4

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今回も上野公園内を歩いていた時に見つけた坂道の話です。
でも坂の名はありませんのであしからず。


上野東照宮の男坂?1

今回の坂道は場所的には稲荷坂(NO.193)のさらに北側にあり、モノレールなんかが近くを走っている上野東照宮のちょっと南側にあったりします。
写真はその坂道の坂下からの風景です。
あきらかに立派な石の鳥居があり、石階段のつくりもしっかりしていて、勾配具合といい道幅といいなかなかポテンシャルの高い坂道だったので思わずぱちりと。
おそらくここは不忍池側から上野東照宮へ行くための参道の一部っぽい感じでしたが、鳥居などもふくめてまわりにはなにもそれらしい記載はなかった(見落としていただけかもしれないですけど)です。



上野東照宮の男坂?2

坂というか急勾配の階段を上がっている途中になかなか味のあるつくりの食事処らしきものも見えていました。



上野東照宮の男坂?3

そして坂上あたりまでやってきて、坂下のほうを眺めてみました。
なんともかなりの高低差ですね。
いちおう鳥居のむこうのほうには不忍池が見えるはずなのですが、今回は樹々が元気よく視界を遮っていたので見えませんでした。



上野東照宮の男坂?4

どこからが上野東照宮の境内かよくわからなかったのですけど、とりあえず坂上あたりから坂下に背をむけて上野東照宮の本堂に向かう道のほうをみたものがこの写真です。
石灯籠がいっぱい並んでいて、かなりの確率で境内にいるっぽい雰囲気ですかね。
ちなみに、この斜め左方向に上野東照宮の本堂があります。



上野東照宮の男坂?5

またこのすぐ隣には、階段の途中からも見えていた食事処の入口があり、看板には「伊豆栄梅川亭」と書かれていました。
HPをみるとかなり昔からあるお店のようですね。


というわけで、今回はこんな感じで上野公園内にある無名坂をぶらりとしてみました。
なんとなく雰囲気的にも鳥居があって上野東照宮からも近い場所にあるので、個人的にはなにか上野東照宮にまつわる坂名をつけてほしかったなあと思ったりした坂道散歩でした。



住所
台東区上野公園4

上野公園をぶらりとするまえに、みちくさ学会の「寺社と坂道」の記事を書いているときに、赤坂にも時の鐘なるものがあり、それ経由で上野の時の鐘のことも知って、坂道散歩のついでに立ち寄ってみました。



時の鐘1

行く前にネットでだいたいの場所を調べて、やっと見つけたのがこの鐘楼です。
場所は上野公園内にある韻松亭上野精養軒のあいだのちょっとした高台のうえにひっそりとありました。
ふつうに歩いている分にはちょっと気がつかないというか目線に入りにくいひとつ高い場所にあるので、空と樹木のあいだくらいをキョロキョロみながら歩いているとみつかったりするかもです。



時の鐘2

アップで見るとこんな感じ。
なかなか味のある鐘楼です。

ちなみにこのすぐ横に、これまたひっそりと案内板が設置されていました。
せっかくなので、今回もそのまま抜粋してみるとですね、
『 花の雲 鐘は上野か 浅草か

 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(一六二六)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。
 初代の鐘は、寛永六年(一六六六)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明七年(一七八七)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には、「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
 現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。
 なお、平成八年六月、環境庁の、残したい「日本の音風景一〇〇選」に選ばれた。 』
とありました。

いろいろとややこしいこともかかれてますが、とりあえず「日本の音風景一〇〇選」のサイトもみてみましたが、やっぱり今でも朝夕6時と正午に撞かれているようですね。

それで、これまた時の鐘の音とはどんなものぜよ?(笑)というわけで、ちょっと気になり動画検索してきたら、やっぱりありました。。(想像だけですましたいかたは見ないほうがいいかもですね。興味あるかたのみどうぞ)
http://www.youtube.com/watch?v=xJJWNtB3F0o

そのほかには「江戸時の鐘−上野」というサイトに上野の時の鐘についてけっこうくわしく書かれていましたので、よかったらどうぞ。


ということで、今回はあまり深入りせず(汗)、さらりとこんな感じです。。


住所
台東区上野公園4

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所在地:台東区上野公園4


しのぶ坂と呼ぶそうで、別名で女坂ともいうそうです。
場所は稲荷坂(NO.193)の南側にあり、南へと下る坂道です。



忍坂(NO.194)1
坂上より

坂上からの眺めです。
すぐ右隣に稲荷坂(NO.193)があったりします。
坂のまわりは背の高い樹々に囲まれていたためすこし薄暗い感じですが、実際に歩いている分にはそれほどでもなかったです。


忍坂(NO.194)2
坂の途中より

すこし坂を下り、坂上のほうを見たものです。
よく考えれば上野公園内にある坂道なので木がたくさんあるのは当たり前なんですよね。



忍坂(NO.194)3

一枚目の写真でもなんとなく見えていましたが、花園稲荷神社への出入口がもうひとつここにありました。
(なんか写真の旗に日にちが書かれてますけど、撮影した日にちとはちがいますので、あしからず。。)



忍坂(NO.194)4

それでこちらもすぐ隣にあったのでパチリと一枚。
こちらは五条天神社への入口です。
こちらのほうが広々としていて、立派な鳥居と樹々の混ざり具合がなんかいい感じでした。



忍坂(NO.194)5
坂の途中より2

そして、同じ立ち位置より坂上の方を見てみました。
なんだかよくわからないですけど、違う神社への入口が隣あっているというのも変な感じですね。
坂道自体はここからけっこうな割合でカーブしながら下っていきます。



忍坂(NO.194)6
坂の途中より3

今度は坂下の方を眺めてみました。
微妙な具合にS字を描いているのがわかりますかね?
しかも、左側にも、一段高い位置に道らしきものが見えていました。
おそらく坂道側が車メインで、左の道が人のためという分け方だとは思いますけど、僕が撮影している間はそこを歩いている人はほとんどいませんした。
あと、坂下あたり(道路の向こう側)にも大きな樹々があって見えていないですけど、そのむこうには不忍池があるんですよ。



忍坂(NO.194)7<
坂下より

やっとこ坂下までおりてきました。
さっき微妙なS字と言いましたけど、ここからみるとけっこうな具合のS字カーブだったんですね。(汗)

ちなみにここにはいつもの坂の碑はなかったです。
ただ江戸東京坂道事典によると、このあたりは以前、忍が岡とよばれていて(いまはないと思います。たぶん。。)、その地名がこの坂道の名前のおこりであるということみたいです。
寛永寺が建立された当時の東照宮のところから黒門口に至る間のことを忍が岡とよんだそうで、もともとは上野の総称でもあったらしいですよ。


地図
台東区上野公園4

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所在地:台東区上野公園4

いなり坂と呼ぶそうです。
場所は、これまた上野公園内にあり、清水坂(NO.192)の北側にある花園稲荷神社の境内にある階段坂道です。



稲荷坂(NO.193)1
坂上より

公園側からの眺めです。
手前には石の、奥には鮮やかな赤の木製、鉄?(確認してないのでわかりませんけど・・・)の鳥居が見えていました。
いわゆる参道ですかね。
でもここが稲荷坂だったりします。。



稲荷坂(NO.193)2
坂の途中より

もうちょっと奥に入り、坂下のほうを見てみました。
このあたりまでは平坦な道で、もうちょっとすると階段になり、そのむこうの方には本殿も見えていました。
そういえば、階段をおりた先に本殿があるというのもなかなか珍しいつくりかもですね。
ふつうは階段を上った先にあるような気が・・・。



稲荷坂(NO.193)3
坂の途中より2

もうすこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
小さな子供目線でぱちりと。
赤の鳥居の連なり具合がいい感じです。



稲荷坂(NO.193)4
坂下より

そして一気に坂下まできてみました。
幅のせまい道にまわりの樹々がなかなか印象的だったかもです。
こうして見てみると、坂道自体けっこうくねくねしていたみたいですね。

ちなみにここにはいつもの坂の碑があり、
『花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(一七三二)の『江戸砂子』にその名がみえ、明治二十九年(一八九六)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。』
とありました。

なので、この坂道、かなり昔からあるみたいですね。



稲荷坂(NO.193)5

というわけ、最後はすぐ後ろにあった稲荷稲荷神社の本殿のお姿でも。

パンパン。。(笑)


地図
台東区上野公園4

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住所:台東区上野公園1

きよみず坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の園内にあり、西郷隆盛像の北側、そして園内の清水観音堂のすぐ南隣にある階段坂道です。


清水坂(NO.192)1
坂下より

坂下からの眺めです。
見てのとおりかなり短めの階段坂道で、すでに坂上まで見渡せて、その左側には清水観音堂の一部が見えていたりします。


清水坂(NO.192)2
坂上より

そして一気に坂上までやってきて坂下のほうを見てみました。
おそらく高低差は一階半から二階分くらいはあるんじゃないですかね。

また坂下のさらに奥(というかさらに坂下方面)のほうを見ると不忍池がちらりと見えていたりします。
なのでここからでも不忍池が見えるはずなんですけど、今回は木々にさえぎられて見えていませんでした。

また写真でも見えているとおり、ここにはいつもの坂の碑があり、
『この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(一六三一)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。』
とありました。



清水坂(NO.192)3
清水観音堂より

せっかくなので、すぐ隣にあった清水観音堂の舞台もあわせて清水坂をバックにぱちりと一枚。
この時は上記のとおり右側の木々がうっそうと茂っていたためあまり見えませんでしたが、本来(かつて?)は清水の舞台を模したこの場所から琵琶湖を模したといわれる不忍池が一望できたため、徳川時代から観光の名所として有名だったようですよ。


清水坂(NO.192)4

そんなわけで、最後は清水観音堂の舞台からの清水坂の眺めなど。

清水の坂登リゆく日傘かな  子規   

(↑@江戸東京坂道事典)


地図
台東区上野公園1

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今回は旧岩崎邸庭園なる場所をちょっと前にぶらりとしたときのことでも。
場所は前回とりあげた切通坂(NO.189)のすぐ北側にあったりします。



旧岩崎邸庭園1
旧岩崎家住宅の洋館

入口からてくてくと、砂利道でもあり、すこしばかりの坂道にもなっている道を歩き、入館料を払って見学エリアに入ると見てのとおりの立派な洋館が見えていました。
ちょうど敷地北側の入口方向からの眺めです。
なかなか最近の建物では見られないこてこてしているというか重厚感あふれるというか、そういうデザインといえるかもですね。
とにかく手がこんでます。(汗)

そのほかにも説明すればいろいろあるんですけど、とりあえずこの近くにこの住宅についての説明が書かれた案内板があったので、そのまま抜粋してみますと、

『明治から昭和にかけての実業家岩崎久弥のかつての住宅。明治二九年竣工した。
設計者はイギリスのジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、一九世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。
同一敷地内の洋館・社交の場、和館・生活の場を併設する大邸宅は明治二十年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。
洋館(木造二階建て地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっている。南側のベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム、木造一階建地下室附)とは地下道でつながれている。
洋館と撞球室は昭和三十六年に重要文化財の指定を受け、昭和四十四年には、和館内の大広間と洋館の袖堀一棟が追加指定を受けた。』

という感じで書かれていました。

ということは、この建物は築114年ですか・・・(汗)。
とりあえず説明では、建物のこともこまごまと書かれてますけど、気になるかたは実際に見学してみることをおすすめしますよ。

そして、タイトルや案内文にもあるとおり、ここは、あの岩崎弥太郎さん(ついドラマ龍馬伝を見てると“さん”づけで言いたくなりますよ・・・)つながりの場所でもあります。
なので、ネットで軽く調べてみると、岩崎弥太郎がここの土地を購入して、その息子である岩崎久弥がこれらの建物の建築設計をコンドルさんに頼んだという感じみたいですね。
あと岩崎家とこの家とのこまごまとした物語なんかもそれなりにはあるとは思いますけど、そのあたりの話は別の方におまかせしますよ。
ただ昔は今よりもっとひろい土地だったみたいですね。



旧岩崎邸庭園2

せっかくなので、ちょっとだけアップして、空を見上げながらパチリと一枚。
こうしてみると、壁なんかの掃除はちょっと大変そうかも(笑)。



旧岩崎邸庭園3

そして今度は洋館を南側から眺めたものです。
このあたりは、一度、建物内部を見学したあとに訪れることのできる場所でもあります。
なんだか日本の中にある建物ではないような気もしますけど、左側のほうをよくみると、実は和館のほうがちらりと見えていたりしますよ(ちょっと木がじゃましてますけど)。



旧岩崎邸庭園4

また、だいたい同じ立ち位置でうしろをふりかえると、なんとも広々とした庭園がひろがっていました。

このほかにもビリヤード室やら和館なんかも当時のままの姿で残してあったんですけど、全部のせてしまうのもなんですので、とりあえず、あとの詳しい施設のことについてはウィキペディアにまかせることにして、今回はこれぐらいにしておきますよ。
旧岩崎邸庭園


ということで、説明文にもあったとおり、この建物自体、当時としてもそのつもりがあったかどうかはさだかですが、かなりのハイレベル(実際に見たらわかりますよ、内部も含めてですね)のものだったようで、なんだかんだといって、そういう歴史にのこるような名建築を建てようとする気風みたいなものは今の丸の内なんかにもひきつがれているのかもなあと(かなり適当な予測ですけどね・・・)思ってみたり。

ちなみに敷地内の洋館内にはもちろん入れるのですけど、撮影は禁止されていたので、今回はとりあげませんでしたので、あしからず。


地図
台東区池之端1

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