東京坂道さんぽ

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鉄砲坂その2 (御殿山界隈/品川区)
鉄砲坂 (御殿山界隈/品川区)
ソニー歴史資料館のある坂道
八ツ山の坂(NO.243)
御殿山の坂(NO.240)

前回の「鉄砲坂 (御殿山界隈/品川区)」に続いて、ちょっと気になる資料が見つかったので、今回も鉄砲坂のことを再び取り上げてみたいと思います。


鉄砲坂その2_1地図
地図

まずは、前回の記事でも掲載した地図ですこしばかり鉄砲坂の復習です。
この坂道は、今は現存していない坂で、おそらく現在の地図に落とし込むとこんな感じかなということで描いてみたもので、御殿山から第一京浜のほうへ(東)に下る地形になっていたようです。
あと、前回の記事には書いてなかったのですけど、マピオンで今回の予想される坂上あたりの標高を計測してみると11m、そして坂下あたりも同じく計測してみると5mくらい。
ということは高低差6mくらいですか。
けっこうな高低差ですかね。
でもまあ、今の御殿山は、お台場を海につくるためにかなりの部分が削られてしまったので、比較は難しいですけど、昔はもっと高低差あったのかもしれないですね。


鉄砲坂その2_2古地図
古地図

そこで古地図が登場です。
これでみるとかつての鉄砲坂の坂下のすぐそばは海。
ということは、標高もかぎりなく0mに近いことになりますかね。
なので、高低差はやはりかなりあったと思われます。


鉄砲坂その2_3品川すさき
品川すさき

そして、この浮世絵です。
広重さんによる「品川すさき」(安政3年(1856)ごろ)という絵だそうです。
これは位置的には、上の古地図で(実はこっそり)鉄砲坂の左右に黄色の★マークを記しておいたのですけど、この浮世絵は坂の右側の★地点が該当する場所といわれているそうです。
ということは、かつての鉄砲坂の坂下付近の景色もこんな感じだった可能性は高いと思われます。
そうであれば、前回の記事の写真2が、今の坂下あたりの景色なのでえらい違いですね。。
あと、この浮世絵の右上のほうに描かれている小さな島が、かつての御殿山を削りとった土で築いたといわれるお台場だそうです。


鉄砲坂その2_4月の岬
月の岬

せっかかくなので、もう一枚。
こちらも同じく広重さんによる「月の岬」(安政4年(1857)ごろ)という浮世絵です。
上の古地図でいうと、坂の左側に黄色の★マークがあるところですね。
僕が参考にした本(ここが広重画「東京百景」)では、古地図の場所にて、絵に描かれているような豪華な料理屋はなかったかもしれない(左の影の女が遊女であることから)とも書かれていて、この場所についても空想だったのではないかという説があるようですが、とにかく広重さんが描きたくなるような景色がこのあたりに広がっていたことはたしかで、そんなことからもこの絵もあわせて紹介してみました。


というわけで、このあたりは東に海、北は御殿山(昔は桜の名所でもあった)ということで眺望的にもかなりすぐれた場所だったそうで、そういう意味でも、かつての鉄砲坂からの景色もかなりのものだったことは想像できそうですかね。



住所
品川区北品川1あたり

気がつけばけっこう長い期間、品川駅界隈の坂道を取り上げてきたわけですが、やっと最終章に入ります。

今回とりあげる坂道は、”てっぽう坂”とかつて呼ばれていた坂で、すでに無くなってしまった坂道です。

まずは、この坂道を取り上げている江戸東京坂道事典の記述によるとですね、
『嘉永二年の切絵図には品川歩行新宿から、西方御殿山の北辺に上る坂を、テッポウ坂と記載し、坂下少し北のところには「清水の井」があり。』
とありました。
なので、今回はまた品川駅の南側エリアに戻り、前に取り上げた御殿山の坂(NO.240)とすこし関連のある場所を取り上げるということになります。

また同じ本の中で他の項には、
『1853年、黒船来航に太平の眠りを破られた幕府は、品川砲台(お台場)を急造するため、この御殿山を削りとって、その土をもって台場を築いたので、御殿山は変形し、さらに明治初年の鉄道敷設のさいには、山の東部を南北に分断し、そのさい、鉄砲坂下の有名な清水の井も埋められてしまった。今の京浜電鉄北品川駅がそのあたりである。』
とも書かれていました。


鉄砲坂1
写真1

そこでふぬふぬと軽く調べて(ここだけですよ)、現地に行ってみるとなんかそれらしき痕跡があったというわけです。(写真1)
写真1の案内板には、
『磯の清水:江戸時代、北品川宿畑地内(現在の北品川駅付近)に昔から磯の清水と呼ばれる名水の出る清水井がありました。宿内の半数以上の家でこの井戸の水を飲料にしていました。干魃の折にも涸れることがなかったといいます。このことから、この横町を清水横町と呼んでいました。』
と書かれてありました。
そういうわけで、このあたりが史実によれば清水井があった場所ということみたいなので、かつての鉄砲坂の坂下もこのあたりだったということになりますかね。


鉄砲坂2
写真2

とりあえずまわりを見渡してみました。(写真2)
写真1の位置より東側の方向にこんな感じで京急の踏切がありました。
いちおうこの踏切をわたり、奥へと歩いていくと、かつての東海道(今は旧東海道と呼ばれているんですかね)があった場所に行くことができます。


鉄砲坂3
写真3

また北側をみると、京急の北品川駅も目の前という場所でした。(写真3)


鉄砲坂4
写真4

さらに、写真2の方向と反対の西側をみると、第一京浜道路が見えていました。
そして、御殿山と呼ばれる場所は今でもこの道路の向こう側にあるので、かつての鉄砲坂はこの方向に上る坂道だったと思われます。


鉄砲坂5地図
地図

そこで、現在の地図(グーグルマップ)に、清水井の場所から想定した鉄砲坂の位置をのせてみることにしてみたのが上の図です。
かつての御殿山と呼ばれていた場所は、この図からも、お台場へ土を運ばれたことによる変形に加えて、今のJRの線路によって昔とはかなり違った場所になったようですね。


鉄砲坂6古地図
古地図

あと、せっかくなので、goo地図の古地図ページから拝借したものにも、清水井と鉄砲坂の位置をのせてみたものが上の古地図です。
ちなみにこの古地図を拡大して確認してみると、実は清水井と鉄砲坂のこともちゃんと記載してありましたよ。
なのでこの古地図からも現在の御殿山とかつての御殿山はえらく違うものになっているということが確認できたので、個人的は大満足です。


鉄砲坂7
写真5

そして、最後は、現在の御殿山と呼ばれている場所の頂上近くから、京浜急行側(かつての鉄砲坂の坂下方向ですね)を眺めてみたのが、写真5です。
どうですかね、なにか想像できましたかね。

ということで、今回はこんな感じです。


住所
品川区北品川1あたり

今回は、品川の坂道に話を戻しまして、前に取り上げた八ツ山の坂(NO.243)の坂下から北側(品川駅方向)に抜ける道がこれまた坂道になっていてなかなかいい感じの場所だったもので、ちょっと取り上げてみたいと思います。


ソニー歴史資料館のある坂道1
写真1

まずは坂下からの様子です。
なんだかえらく整備されていた道だったので、おもわず歩いてみたわけなのですが、位置的には、右側に八ツ山の坂(NO.243)でも出てきたガーデンシティ品川御殿山というマンションがあり、左側は地図で確認すると御殿山SHビルということでした。
(それでビルの外観のテイストも似ていたので調べてみたらやはり建築主は同じく積水ハウスでしたよ。)

特にこの坂の向こうになにかがあるわけでもないのですが、なかなか立派な街路樹も植えられていてちょっとびっくり。(というかこの向こうになにかがあるから道を整備しているという僕の感覚自体がおかしいのかもしれないですけどね。。)


ソニー歴史資料館のある坂道2
写真2

もうすこし歩いて、高低差に変化が現れる場所まできてみました。
どこぞやの新興住宅街なのでは?と思ってしまうほど、道を含めた各マンションの外構具合がかなり気合いはいっているなあという感じでした。。
でもやはり今回一番気になったのは、奥へと続く坂道の高低差具合ではありましたけどね。(笑)


ソニー歴史資料館のある坂道3
写真3

やっと坂を上り始めて、坂上のほうをまずは見てみました。
今いる場所は、坂下からも見えていたオレンジというか赤というかそれ系の色のアスファルトのちょうど中間あたりの場所なのですが、それでもなかなかの高低差具合でした。
また右側の歩道の部分だけ、いきなり階段になっているあたりが、ちょっと謎ではあったのですけど、よく考えてみたらここだけ勾配がきつめなので、もにかしたらその関係でこうしてみたのかなあと思ってみたり。


ソニー歴史資料館のある坂道4
写真4

さらに坂を上り、今度は坂下のほうを眺めてみました。
とりあえず、このあたりからが高低差具合やらまわりの景色の開け具合が一番いい感じで感じれる場所なのかなと個人的には思います。
そして、できたばかりの匂いみたいなものがぷんぷんするわけなのですが、実は坂下の道は名前のついている坂道ということで、かなり昔からあった道なので、この坂道ももしかしたら昔からあったのではないかと想像してみたり。(でも帰ってから古地図で調べてみたらどうやら江戸時代にはなさそうな感じの道のようでしたけど・・・。)


ソニー歴史資料館のある坂道5
写真5

また左側にはこれまたなにか意味ありげな階段なんかもあったり。


ソニー歴史資料館のある坂道6
写真6

いちおう、写真4とだいたい同じ位置より坂上方向も見てみました。
坂上はまだまだ上のようでした。


ソニー歴史資料館のある坂道7
写真7

もうすこし坂を上り、坂下方向を見てみました。
道自体がすこしカーブしていて、すでにここからは坂下の様子はうかがえませんけど、高低差具合はかなりのものでしたよ。
ビルでいえば、5階か6階分くらいでしたかね。


ソニー歴史資料館のある坂道8
写真8

そして、最後は、坂上あたりまでやってきて、坂下方向を眺めてみたものです。
ここからだと、この奥にある道の様子がまったく想像できないところが、これはこれでおもしろいかもですね。
ちなみに、写真8の左側にはタイトルにもあげておいたソニー歴史資料館がひっそりと存在していましたよ。(散歩当日は閉まっていたので中にははいれませんでしたけど。)


ということで、今回はこんな感じです。



住所
品川区北品川6-6あたり

所在地:品川区北品川4-7あたり


今回はひさしぶりに都内に戻りまして、品川編の続きです。

やつやまの坂と呼ぶそうです。
場所は京浜急行の北品川駅から線路を越えて西側にある坂道です。
また坂上の北側には三菱開東閣というかつての旧岩崎家高輪別邸がある場所だったりもします。


八ツ山の坂(NO.243)1
写真1

まずは坂上からの様子です。
片側2車線のけっこうゆったりとした坂道でした。
ただここは、右側に交番があるため、あまりのんびりと景色を眺めていると不審がられるのでさらりと歩きながらぱちりと。


八ツ山の坂(NO.243)2
写真2

坂上からさらに坂上方向を見てみると、左側に立派な樹々のある場所が見えていますけど、こちらが始めにも書いたとおり、三菱開東閣がある場所ですね。
今回は見てないですけど、ネット情報から推測するには中の建物はなかなかいい感じのもののようですよ。


八ツ山の坂(NO.243)3
写真3

さらに坂を下り、坂下方向を見てみました。
街路樹がいい感じで植えられいましたよ。
そしてなによりも道路右側に見えている装飾チックなビルが坂道にかなりのインパクトを与えていましたよ。(地図で確認するとガーデンシティ品川御殿山というマンションみたいですね。しかもネット情報では建築主は積水ハウスとのこと。ちょっとびっくりでした。)


八ツ山の坂(NO.243)4
写真4

気がつくと、もう坂下あたりまでやってきてしまいました。
写真4は坂下あたりからさらに坂下方向を見たものです。
そして、写真の左側にソニーと書かれたビルがありますけど、ここにはロゴどおり会社があってですね、実はこのあたりがソニーの創業地だったそうですよ。なのでこの通りにも「ソニー通り」という別名もついているみたいなんです。

あと、ここには、いつものように坂の碑もありましたよ。
『このあたりは武蔵野台地の突端にあたる丘陵で、海岸に突き出た州が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のために、いつしか八ツ山の坂という名がつけられた。この道は、もと三間道路と呼ばれ、道幅は三間(約六メートル)で、あたりには人家も少なく、夜はさびしい通りであったという。』
ということだそうです。

また品川区のHPにも坂の説明がありまして、こちらも参考になるので抜粋しておくとですね、
『品川宿のはずれ、芝高輪との境に位置する丘を「八ツ山」と呼んでいました。名前の由来については、この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説や、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説がありますが、いづれも定説ではありません。この山は、江戸期に道路整備や目黒川の洪水復旧、護岸整備のために切り崩され平地となってしまいました。』

いろいろ説はあるようですが、とりあえず、この碑の一文「海岸に突き出た州が八つあったところから八ツ山」とか聞くと、昔なら「ふーん。なるほどー」で終わったのですけど(笑)、今やいろんな(余計な)知識やデータが身についてしまっているので、では地形俯瞰図や古地図なども貼り付けて、と、実はしてみたいところでもあるのですが、今回は最近読んだ本「風景を創る(中村良夫)」の中に書いてあった『言葉による風景デザインという方法を私たちは忘れかけていた。いや、忘れていたわけではないが、そんな古ぼけた習慣は一顧の値打ちも無いと考えていた。だから、全国の城下町で由緒のある町名が惜しげもなく捨てられていったのである。言葉や地名もまた、空間に意味を与える立派なデザイン手法であり、文化であるという認識をすれば、こんな蛮行が易々と行われるはずもない』という一文を読んではっとしてしまったこともあり、単純すぎてなんですが今回は以前の感覚にもどり、のんびり坂名の由来と坂道散歩の記録くらいだけを載せといてあとは各人のご想像におまかせするということにしておきますね。


八ツ山の坂(NO.243)5
写真5

というわけで最後は、坂下からの風景です。
左のマンションがやや圧迫感を煽っていますけど、その分、街路樹がいい感じの高さで並んでいる具合がわかりやすくなっているかもですね。




地図
品川区北品川4-7あたり

所在地:品川区北品川5-20あたり



大田区馬込界隈の坂道散歩からだいぶ時間が経ってしまいましたが、このまえやっと品川駅界隈の坂道をいくつかまわることができましたので、今回からはそのあたりの坂道を取り上げてみたいと思います。
(というわけで。)


ごてんやまの坂と呼ぶそうです。
場所は、品川駅からはすこし遠いので、大崎駅の東側にあると言ったほうがいいと思いますが、そこに御殿山と呼ばれる高台があるのですが、そこを上り下りするためにつくられたであろう坂道に御殿山の坂という名がつけられています。


240)1
写真1

まずは坂下あたりの様子など。
なんとなく右側の建物(これ、上に電車でも走ってそうな感じですが、違うんですよ)のせいかすこしごちゃごちゃしているように見えますが、それでも現地では坂道のまわりの雰囲気は落ち着いた感じでした。

またこの坂道はいつ頃から「御殿山の坂」と呼ばれたのかは不明ですが、坂の途中には、区が設置した坂の案内板があり、さっそく抜粋しちゃいますが、
『このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修理でゆるやかになった。』
とのこと。
とりあえず、そのままという感じなのですかね。

ちなみに坂の名にもでてくる御殿山、こちらも坂の途中に案内板があったので、せっかくなのでこちらも抜粋しておきますとですね、
『御殿山は、長録年間に大田道灌の館があったと伝えられています。また江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢滝和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、亨保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が堀崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼き討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。』
ということでした。
いろいろな歴史もあっておもしろそうな山(でいいのかな?)みたいですね。


240)2
写真2

また左側をみると、川の向こうにゲートシティ大崎のビル群が見えていました。


240)3
写真3

そして、坂をすこし上ってみました。
このあたりで坂はぐぐんとカーブしていました。
またこの位置からだと左側の例のものが建物だということもわかりやすいかもですね。


240)4

写真4

さらに坂道を上り、今度は坂上のほうを見てみました。
このあたりから坂道は直線になり、街路樹がとても印象的なアクセントになっているようでした。


240)5
写真5

こちらは写真4の位置よりすこし坂を上った場所のものです。
このあたりまでくると坂の頂上もちらりちらりと見え出してきていました。
また坂の舗装も例のドーナツリング型の舗装にふさわしく、歩いていてもけっこうな急勾配具合でした。


240)6

写真6

そして、しばらくとことこと歩くと、坂の頂上あたりにやってきました。
このあたりまでくるとまわりは閑静な住宅街といった感じでした。


240)7
写真7

最後は、坂上からの景色など。
ただここからだと、街路樹が元気良すぎて、さらに坂下にある背の高い会社ビルなどのおかげで、景色は見てのとおりで、坂下からはけっこうな高低差具合のはずなのですがひらけていませんでした。
でも江戸時代の頃にもこの道があったならば、今よりはもっと景色がひらけてて海も遠くに見えただろうなということは想像できる場所だったかもです。



地図
品川区北品川5-20あたり

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