東京坂道さんぽ

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神戸ルミナリエの悲喜こもごも。
19年
18年
17年
15年

神戸ルミナリエが、今年も、12月4日から開催されるようですね。
しかも、今年は21回目だそうです。

そこで、つい最近の神戸新聞のウェブサイトにて、ルミナリエ関連のとある記事を読んだのですよ。

ルミナリエ、規約から「復興」削除 地域活性に主眼
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008539532.shtml

タイトルだけでも、かなり内容はわかりますけど、記事にはやはり、「阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂と復興を願う「神戸ルミナリエ」を主催する神戸ルミナリエ組織委員会は4日、同会の規約の一部を変更し、設立目的から「復興」の文字を削除したことを明らかにした。」とあったのです。

これ読んだ時は、やはりびっくりしました。

ちなみに、神戸ルミナリエの公式HPのこのイベントに関する説明を読む(というか抜粋ですね)とですね、
『「神戸ルミナリエ」は、1995年1月17日に兵庫県南部地方を襲った阪神・淡路大震災の記憶を次の世代に語り継ぐ、神戸のまちと市民の夢と希望を象徴する行事として開催しています。大震災が起こったこの年の12月、年初の悲しい出来事による犠牲者への慰霊と鎮魂の意を込めた「送り火」として、また、間もなく新しい年を迎える神戸の復興・再生への夢と希望を託して「神戸ルミナリエ」が始まりました。未だ震災の影響が色濃く残り、復旧途上にあった神戸の夜に初めて灯った、イタリアからやってきた荘厳な光の芸術に連日感嘆の声があがり、震災で打ちひしがれた神戸のまちと市民に大きな感動と勇気、希望を与えました。そして、会期終了直後から継続を求める強い声が市民や各界から寄せられ、翌1996年の開催が決定しました。』

ルミナリエの公式HPにも書かれているとおり、僕自身、復興行事としてのルミナリエ、と言う感じで今まで思っていたこともあり、復興とルミナリエを切り離して考えることは、すでに20年経ったとはいえやはり僕の中ではまだ気持ちの整理ができていなかったのですよ。

しかも、神戸新聞の記事には、タイトルでも触れているとおり「復興から一歩進め、神戸をさらに活性化させる事業に育てていきたい」という意向もあるとのこと。。

そうか、そうなんですね。
とうとうそういう時期にきたのですかね。
これで、東京などでもやっているライトアップイベントと規約上は同じものとなったという感じなのですかね。

でもやっぱり、「送り火」としての役割も忘れず、経済がなんちゃらとか広告がどうとか、そういうことに振り回されないルミナリエも残ってほしいかもですね。

なんとも悲喜こもごもなところではありますが、なんだかんだいって震災から20年が経過した後に開催されるルミナリエはめでたいし気になるところではありますので、開催時期が12月の初旬から中旬頃ということもあり、今年も過去同様に見に行くことはできませんが(泣)、すこし離れた場所から見守っていたいと思います。

ということで、このことは、ブログに残しておくほうがよいニュースかもと思い、今月は更新頻度も低めの中でなんですが、忘れないうちに、記事を見て感じたことをさらりと書いておくことにしました。


KOBEルミナリエのHP
http://www.kobe-luminarie.jp

今年もこの日がやってきてしまいました。
毎年言っているような気がしますけど、早いもので、もうあれから19年ですか。

さすがにこれだけ期間が過ぎると、時々、当時のことを忘れてしまう時もあるのですが、やはりこの日(1,17)が近づいてくるといろいろと当時のことを思い出してしまうという感じです。

そんなわけで、今年も去年までと同様、正月に実家の神戸に帰省したこともあり、番外編という形でここ数年続けている阪神大震災関連の震災モニュメントや遺構巡りの話でもしてみたいと思います。

今年は去年および一昨年とけっこう重い雰囲気のところを回っため、すこし軽めの場所をと思っていたところ、昨年、ふととある情報から派生して知った場所に震災関連施設があることを知り、満を持して帰省の時に訪れてみました。


19年_1
写真1

それがこちらですね。(写真1)
いきなりでなんでしたが、これはJRの六甲道駅のすぐそばの場所にある「イタリア広場」と呼ばれる場所です。
芝生の向こうになにやら滑り台のようなスロープ風のオブジェが見えていますが、それが今回の目的地ですね。


19年_2
写真2

近くに寄ってみるとこんな感じでした。(写真2)
まさにスロープ。
でも右側にはベンチもあって休憩所のような場所も見受けられました。


19年_3
写真3

そして、裏側にまわってみると・・・。(写真3)
なんと坂道になっていました。
そうなのです。
昨年、この場所の情報を知ったときは、心底驚いたわけですが、こんな場所があったとは。
ただ、この裏の芝生広場では、写真1でもちらりと見えていましたが、地元の子供たちが楽しそうにサッカーなどをしていて、正月ということもあり、けっこうな人がいたんですけど、この場所にいたっては、ご覧のとおり、坂道内(というか広場内)には人がほとんどいませんでした。


19年_4
写真4

そして、なにか手がかりがないものかと、だだっ広いこの広場内を探索してみると、やはりというべきか、写真4のような説明プレートがありました。
そこには、『イタリア広場/
この広場を1995年阪神・淡路大震災の犠牲者に捧げます。
設計:ラウラ・マッシーノ建築士、バルバラ・アニョレット建築士
イタリア建築協会、外務省、イタリア文化省建築および現代美術局発起による日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優秀者』
と書かれてありました。

なので、このことから、ここが阪神・淡路大震災関連の場所ということがわかったわけですが、正直、こんな広場があったことも、国際コンペがあったことも知りませんでした。
ある意味、今頃になってちょっとショックを受けてしまいました。


19年_5
写真5

その後、すこしまわりをぶらつき、坂の部分から坂下方向にこの広場を眺めてみたものが写真5です。
広場は写真5の奥のほうで突然終わっています。
これは広場の向こうに国道2号線という大きな道路が走っているためで、逆にいえば、目の前に見えているスロープは、実際のところ坂道というよりは広場のオブジェという扱いとして捉えたほうがいいのかもしれないです。
(だからこんなところでスケボーなどしたら、国道に飛び出てしまい危険なのですよ。もちろん広場内にもそういう行為は禁止と書かれてありますけど。)


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写真6

せっかくなので、広場に入って、スロープ部分にも注目してみました。(写真6)
軽くこの広場について解釈してみると、やはりこのスロープは、神戸の海から六甲山へと続く斜面をオマージュしたものだと思われ(写真6の遠くに見えているのが六甲山です)、この広場の思いが天に向かってのびていくということもイメージできるのではないかとも思いました。
そして二つのスロープの真ん中の、抜け道のような隙間は、その向こうにかつては現実の神戸の痛々しい姿が見えたのではないかとも想像しています。

とにかく、坂の頂上あたりが山のほうを眺める展望台にもなり、写真2に写っていた休憩場所が展望台の下にあるように、この広場のスロープは海(南側)に向かって下る形をしているのでちょっとした日よけになったり、天気が悪いときは雨宿りなどができるのかもしれないですけど、やはり今の寂しい状況をみるとこの立地においての広場という役目をはたしているのかは疑問がつくものではありますかね。(ここよりだだっ広くて人のいないところもたくさんありますが、あくまでこのJRと阪神の2駅が隣接している駅前の人通りの多い立地での話です。)


19年_7
写真7

次は、スロープオブジェの裏側(山側=北側)に再びまわって、さっきすこしふれたふたつのスロープの隙間の通路から坂下方向(南側=海側)を眺めてみたものです。
見た目はすごくかっこいいのですけど、ほんとこの隙間はどういう意味でつくられたんですかね。


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写真8

そして、こちらが現地にあった案内地図です。(写真8)
上からみるとこんな配置だったわけですね。
広場の隣には灘区役所ですか。
なるほど。


そんなわけで、今回の現地体験もあり、僕自身、このような場所で、なんというか人を寄せつけない空気が漂う広場に出会ったのはひさしぶりだったので、気になってしまい、ネットなどでこの広場ができた経緯などをすこし調べてみました。

すると、「EXPO 2005 AICHI,JAPAN」のサイト(http://www.expo2005.or.jp/jp/N0/N1/N1.6/N1.6.564/)にて、このイタリア広場のことが取り上げられていて、それによると、阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたこの六甲道エリアの再開発のため、神戸市は再開発をまかせる建築家を選ぶ国際コンテスト(たぶんプレートにあった日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優」)を開催したそうで、そこで選ばれた2名のイタリア人女流建築家(ラウラ・マッシーノさんとバルバラ・アニョレットさんかな?)とその依頼を受けたアッソピアストレーレ社が、エミリアロマーニャ州の協力をへて「イタリア広場」を建築し、神戸市へプレゼント(寄贈でいいのかな?)することにしたそうです。
ただ、ここに書いてあった内容だけでは、このエリア全体においてイタリア人の建築家の方々が関わったかどうかまでは不明でした。
あと、この六甲道エリアは阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたと書きましたが、実際のデータは、震災時、660世帯約1400人が住んでいて、家屋276棟のうち65%が全半壊したとのこと(ブログ: 越澤明(越沢明)と都市政策、歴史・文化のまちづくり、日本再生http://blog.goo.ne.jp/cityplanning2005/e/3f7b50d15da7b8f9050d75d079122f47より)。

ちなみに、「日本1000公園」(http://nippon1000parks.blogspot.jp/2012/07/651000.html)というブログに、このイタリア広場が計画された当時の経緯などが記録された神戸新聞の記事の抜粋を載せていらしたので、すこし引用させていただきます。
『2002/02/18
 神戸市灘区で進められているJR六甲道駅南地区震災復興再開発事業(五・九ヘクタール)で、防災公園の一角に、イタリアの都市のイメージを取り入れた広場がつくられることになった。「日本におけるイタリア年」を記念し、日伊の建築界が協力。基本デザインは、両国の若手建築家から、国際アイデアコンペ方式で公募している。 コンペは、昨年の「イタリア年」を機に、「日本におけるイタリア2001年財団」が日本側に呼びかけ、神戸市の協力で実現した。 駅南地区では、超高層ビルなどに囲まれる形で、芝生や樹木を中心とした〇・九三ヘクタールの公園をつくるプランが、まちづくり協議会などの参加で決まっている。広場予定地は公園の南端で、国道2号、移転予定の灘区役所に面し、南の玄関口にあたる約〇・三ヘクタール。 イタリア側は現代的な都市広場をイメージ、石材などを提供する用意もある。だんじりが集まる空間や、バリアフリーなども条件という。 公募の対象になるのは、一九六五年以降に生まれた日伊の建築家。審査には、建築家の槇文彦氏、安田丑作神戸大教授、オルセー美術館を設計したガエ・アウレンティ氏らが当たる。発表は六月。最優秀作に一万ユーロ(約百二十万円)が贈られるほか、神戸、東京などで開く「イタリア建築展」で作品展示する。 イタリア建築フォーラム日本実行委の理事を務める井口勝文京都造形芸術大教授は「有望な若手建築家を見いだすチャンス。イタリア側は神戸に親近感を持ち、復興に貢献したいと期待している」と話す。募集要項はホームページhttp://www.piazza-italia.org/』
(注意:参照先のブログで取り上げている神戸新聞のホームページでは、すでに該当する記事が削除されていたため、この抜粋がきちんとしたものかどうかを知るには、当時の新聞をあたるしかないので、あしからず。)

そうなんですね。
今、東京の国立競技場で話題の人でもある槇文彦氏も審査員だったのですね。


19年_9
写真9

最後に、もうすこし俯瞰的な絵もあればと思い、イタリア広場の北側にある六甲道南公園からの眺めを納めたものなど。(写真9)
こうしてみると坂道オブジェ、なんかかっこよかったです。
しかもこの手前の芝生公園自体が微妙に坂道というか傾斜しているのもまたこの場所らしいなあというか。
でも実はこの傾斜だけが当時の場所の記憶みたいなものを伝えているのではないかとも思ったのでした。


ということで、今年の六甲道の「イタリア広場」への訪問、実際に歩いてみて思ったのは、なぜここに「イタリア広場」だったのか?という疑問が先行して、もしかして理屈で震災関連施設(モニュメント)と呼んでいるだけのような気もしたのですが、ある意味、こういう場所もあるんだと学ぶこともできたわけだし、今後この場所が地域にどうなじんでいくのかも見所のひとつなのかもしれないので、それはそれで意味のある貴重な震災遺構の旅(散歩?)だったかもです。

もう気がつけば18年ですか。
神戸の震災直後に生まれた子ならば高校卒業くらいの年齢・・・。
(なんか去年と同じこといってますけど。)

でも最近は東京でも3.11のあの地震以後もたびたび大きめの地震の揺れがあったせいか、18年前の当時の記憶をたびたび思いだしてしまうこともあり、そんなに月日がたったようには思えないんですけどね。

そんなわけで、今年も例年どおり正月に神戸に帰省したわけなんですけど、今回は去年の高速道路に引き続き、いくつかの候補の中からちょっと気になった場所に行ってみることにしました。


18年_1
写真1

今回訪れたのはHAT神戸というJRでいえば、三宮のお隣の駅の灘駅からアクセスできる場所にある神戸市の東部新都心として開発された地区があり、その地区内にあった「人と防災未来センター」なる施設です。
写真1はその施設の外観ですね。
見た目はかなりモダンなつくりのようでした。


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写真2

入口はこんな感じ。
おそらく昨年訪れて、このブログでもとりあげた「そなエリア東京」と一部似たような役割をになっている施設(ただし、ここはそなエリア東京ができる前からあったようですけどね)なのかなーと思いながら入ってみることにしました。


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写真3

そして、館内に入ると、受付の女性の人に「映画が始まりますので急いでください」と急かされつつ(ただし関西弁なまりの標準語なので雰囲気はおだやかでしたけど)、エレベーターを使い4階にある震災追体験フロアの阪神・淡路大震災の地震破壊のすさまじさを映像と大音響で体験できるというシアターに入ると、その映画がはじまったのですが、今あらためて当時の映像をいろいろみるとやはりひどかったです。
ビルは簡単に崩れ、高速道路もあっというまに、そしてそれに伴う火災。
まるでおもちゃのトランプタワーがくずれるように簡単に古い建物や建造物が壊れていくさまは、やはり3.11を体験した人ほど見ておくべきだと思いました。
そして僕がそこで思い出したのは、3.11の時に東京で体験したあの地震とは比べ物にならない直下型の揺れが1.17の時にあったのだなあということでした。
うまいたとえが思い浮かばないですけど、個人的には洗濯機の中に入れられたような強い縦揺れが当時ほんとにあったんです。


18年_4
写真4

映画がおわると、別のフロアにすぐ行ってくださいとの指示があります。(笑)
写真4は震災の記憶なるフロアでとりあえず室内を撮ってみたものです。
さすがに年月が過ぎているのでコンテンツというか震災関連の資料も満載でした。


18年_5
写真5

写真4でもちらりと見えていたのですが、こんな模型もありました。
おそらく当時の避難所での様子を再現したものだと思います。
さすがに18年前ということだけあって、避難者のプライバシー無視具合やら空間的な使い方とかほんと今の視点でみるとひどいかもですね。


18年_6
写真6

あと気になったのが、こちらの地図です。
震災モニュメントマップなんてのもあったんですね。
というかそういうモニュメントがけっこうまわりにあること自体知りませんでした。
なのでまた今度、機会があればまわってみれればなあと。


18年_7
写真7

そんなこんなで閉館時間まであいだがなかったこともあり急ぎ足で館内をまわったあとは、外にでてHAT神戸内を散歩してみることに。
写真7はだいぶ前にもきたことがある兵庫県立美術館です。
震災前は王子公園にあったそうですが、ここに移転する際に安藤忠雄さんの設計によって新しくなったみたいですね。
あと、ここ以外にもショッピングモールなんかも地区内にできていたりしてちょっとびっくりという感じでした。


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写真8

そして最後はハーバーウォークなる水辺公園をぶらりと歩きながら、三宮まで当時のことを思い出しながら歩いてみたのでした。

ということで、今回の「人と防災未来センター」への訪問、実は1.17の震災後初だったのですが、自分なりに貴重な体験をさせていただけたかなあと思いました。

もう17年ですかあ。
阪神大震災の年に生まれた子ならもう高校生。
しかもいろんな意味で将来のことをちらちらと考えだすおとしごろ。
でもやっぱり僕の中では昨日のことのように思い出すことも多いです。
(知らない方には突然な話で恐縮ですけど、毎年1.17の日には、僕の生まれ故郷である神戸の阪神大震災の追憶記事を書くことにしていますので、ご了承ください。)

去年はあの3月11日の地震もあり、過去の記憶ばかりに注意を払うだけにもいかず、今だから言いますけど、そんな中過去のいろんなフラッシュバックと現実の世界の光景とがオーバーラップして、かなりの精神的なダメージ感みたいなものを受けてしまいまいってしまった時期もありました。
あの当時は僕もまだ21歳だったのでまあいろいろと影響受けやすいしいろんな選択技もありけっこうまじめに考えてしまう時期でもあったわけで、これがもうすこし年齢を重ねていれば社会的なポジションもある程度決まっていたりいろんな意味で諦めたりとまたそれなりの精神的な対処もできたかもしれないですし、逆にもっと若ければそれはそれで他人ごとのように振る舞えたかもしれないですしね。
そういう意味では、現在二十歳前後の人たちも同じような境遇にあるのかもしれないですね。

そんなわけで、今回はそんなことを思いながら、ふと実家に帰省したときに突然思い立ち、過去の記憶をたどる意味もかねて、とある場所にでかけました。


17年1
写真1

こちらは高速道路の橋脚です。
見てのとおりなんですけどね。。
下の道路は国道43号線で、上のは阪神高速です。
場所的には、神戸市東灘区と芦屋市の境あたりになります。
また、ここは僕の実家からも徒歩10分もかからないくらいでこれる場所でもあります。


17年2
写真2

そしてこちらは、17年前の1・17当時の写真で、神戸キッズページのサイト内にあった写真を拝借したものです。
当時はよくこの映像が流れてたと思いますので知ってるかたも多いと思いますけど、高速道路が地震で横倒しになってしまった時の記録写真で、ちょうど芦屋市側から西側方向(神戸市内方面)を望んだものです。
当時はネットなんかなかったので、まわりの状況を把握するのにも時間がかかり、こんな光景が近所でおこってるなんてことを知ったのもおそらく数週間後か一ヶ月くらい後になってからだったような気もします。
ただテレビでそういうのが近所にあるとは見聞きしてもすぐに見に行く元気もなく、たまたま用事で近くを通ったときに一度ばかし見たくらいの記憶しかありません。

そんなこともあり、今回あらためて、この場所がそういう記憶をとどめた場所であるということを再確認する意味で、歩いてみたわけです。
ただよくよく昔の記憶を思い出してみると数年前にもこのあたりを正月に歩いたような記憶があるんですけど、その時はなぜかこういう気持ちにはならずただ素通りしただけだったので、今回なぜこんな気持になったのかは不思議ですけど、まあそのあたりは3.11の影響もあるのかもなあと。

それで話をすこし写真のほうに戻しますと、写真1の左のほうにちょこっと写っている白い外壁のマンション、実は写真2の左上に写っている白い外壁の高層マンションなんですよ。
なので写真1で見えている橋脚は震災当時、ぽっきりと折れていた場所ということになるみたいで、地震の時ここにいれば間違いなく高速道路の下敷きになっていたわけですが、現在は当たり前ですが御覧のようにがっちりと造り直されていてその痕跡らしきものはまったくわからない状態になっていました。


17年3
写真3

またこちらはグーグル画像検索でヒットしたもので、元ネタは朝日新聞『報道写真全記録 阪神大震災』の書籍からの拝借画像のようですが、今回あえて使わせていただきました。(問題あればご連絡ください。)
こちらも同じ場所で、芦屋市側から神戸市方面をとらえた写真です。
ただキッズサイトの画像と違い、高速道路上の車の様子なども写っていてかなり生々しいですが、今年の3.11のいろんな生々しい映像と比べればそれほどえげつないこともないかなあとも思われます。(でも心臓はバクバクとしてきますけど・・・。)


17年4
写真4

そして、最後は神戸市と芦屋市のちょうど境目あたりの高速道路の様子です。
もうおわかりかと思いますけど、ここにみえている4本の柱は震災当時すべてぽっきり折れていた場所のはずで、その証拠といったらなんですけど、いちおう写真4で右から2番目と3番目の柱の間に「鉄」と壁に書かれた三角断面のプレハブ工場ぽい建物が見えているんですけど、これ写真3で探してみると、高速道路の右側に「ぼんち」と書かれた看板のちょっと下あたりにあるんですよね、わかりますかね。
そういうわけで、この時期になると特にうまくはいえませんけど自分の精神を保護するために現実と妄想と過去の世界をいったりきたりしてしまうわけですが、現実世界はなんだかんだといってちゃくちゃくと再構築されていくわけなんですね。


17年5


ということで、去年の3.11があった中でなんですが、やはり1.17の記憶も忘れないようにと思い、ここに書かせていただきました。

今日で、とうとう15年ですか。
この日が近くなると、テレビやら新聞、ネットやらで、震災後の神戸なんていうことで、地元の神戸の様子がとりあげられるので、やっぱり意識してしまいます。
(というか、忘れません。)

15年といえば、1995年の震災の年に生まれた子なら、15歳。
義務教育もこの歳までだし、働くことだってできる年齢ですよね。
しかも、15歳といえば、個人的な興味で恐縮ですけど、だいぶ前に読んだ「ソフィーの世界」なる本を家の本棚の奥の方からひっぱりだしてパラリとみかえしてみると、この物語では、14歳から15歳になる時期であることにも、なにか意味があるようにも書かれていて、自分自身どこかひっかかることも多く、地震とはなんにも関係ないんですけど(汗)、この15年という月日を経たということには、なにか考えないといけない時期なのかなとも思ったりしました。

ただよくよく考えてみると、いま僕が暮らしの中心としている東京だって、戦前ではありますけど、今から87年前の地震(関東大震災の16年後に第二次世界大戦がはじまってます・・・)で被災しているわけであって、その点は、忘れないようにしなきゃいけないなあと思いつつも、この関東大震災の教訓がすこしでも残っていたら、もしかしたら、神戸での地震の被害ももうすこし小さくできた可能性もあったのかもと思いつつも、やっぱり戦争が間に入っているので、無理な願いだったんですかね。
そんなこともあり、この1月17日前後の日になると、いつもそうなのですが、地震のことなどについて書くか書かないかで迷ってしまうのですけど、やっぱり今年も記録がてら書いておくことにしました。



メリケンパーク1

最後にこの写真ですが、今年も例年どおり神戸に帰省したわけですが、写真は、三宮界隈の海沿いにあるメリケンパークという海辺の公園内の「神戸港震災メモリアルパーク」という地震当時の被災状況のまま一部を保存している場所を歩いた時のものです。
近くには広々とした広場や神戸メリケンパークオリエンタルホテルとホテルオークラ神戸が海側と山側にあったりと、なかなかいい感じの雰囲気で、僕自身はずかしい話ですが、震災前にきたきり訪れたことがなかったので、ちょっと驚きの場所でした。


メリケンパーク2


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