東京坂道さんぽ

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阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント。そして22年
東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年
北野町広場へと上る階段   / 兵庫県神戸市中央区
あれから20年。そして今の神戸のこと。

今年もこの日がやってきました。
昨年は、熊本地震が起きてしまったり、東京近郊でも中程度の地震が頻発していたこともあり、例年になく、この1.17のことを思い出すことも多かったです。

そんななか、2017年を迎え、今年もこれまで同様、阪神淡路大震災で被災し、その後復興をとげ、今はその記憶を留めるために当時の様子を復元・保存されている場所(震災遺構ともいいますかね)を見てきました。

昨年は、神戸ルミナリエの会場のひとつでもある東山遊園地にあるモニュメントに訪れたわけですが、今年はその近くにひっそりと存在している「阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント」のある場所を中心に歩いてきました。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント1
写真1

それがこちらです。(写真1)
三宮駅からほど近い東山遊園地のさらに海側(南側)に、阪神高速3号神戸線が通っているのですが、今回のモニュメントはそんな高速道路の高架のそばにひっそりとありました。
見てのとおりですが、地震で被災した阪神高速道路の鉄筋コンクリートの橋脚などが当時のまま残されているモニュメントです。
鉄筋がむき出しになっていて、なかなか生々しいかったです。

そばには、これらのモニュメントについての案内板がありました。
なので解説もかねて一部抜粋してみます。
『(略) 中でも、2号浜手バイパス、2号ポートライナー、43号岩屋高架橋および171号門戸高架橋の4箇所においては、橋脚が傾いたり、橋桁が落橋あるいは大きくくずれるなどの大きな被害を受けました。
(略)
こうしたことから、「被災の姿」を後世に残すことを望む声や、防災意識の高揚に資するため、ここに被災した浜手バイパスの「RC橋脚、伸縮装置、支承」を保存することとしました。』

要は、写真1でモニュメントの奥に見えているのが現在の阪神高速道路で、さらにその高速道路の奥には浜手バイパスも走っているわけですが、目の前にあるモニュメントは、その浜手バイパスを支えていた橋脚を復旧後にここへ持ってきたということのようです。
はじめは、この真上をかつて浜手バイパスが通っていて、そのままの場所に保存したのかと思ってしまいましたが、どうやらそうではないみたいです。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント2
写真2

近くでみるとこんな感じでした。(写真2)
折れるまではいかなかったみたいですが、地震のすさまじい力が感じられますね。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント3
写真3

橋脚のそばには、伸縮装置のモニュメントもありました。(写真3)
これはよく、橋梁の路面端部に設置されるものの一部のようです。
車で高速道路走っていたら、「ガタンガタン」と小さな段差を乗り越えたような揺れが一定間隔でよく起きますが、それはこのジョイントというか伸縮装置を通ったときにおこるものです。
それにしてもすごい曲がり方ですね。
どうなったらこうなるんだろ。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント4
写真4

あと、支承のモニュメントもありました。(写真4)
説明が、難しいですが、ウィキペディアによると橋梁において、上部構造(主桁・主構)と下部構造(橋台や橋脚)の間に設置する部材ということです。(詳しくはウィキペディアの説明みてください。ああ、あれね!とおもいだすと思いますので)
こちらは上部のほうがぽっきりと折れていますね。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント5
写真5

はしっこの方にあった案内板をそのまま撮ってみたものです。(写真5)
ちょっと写真では見にくいかもしれませんが、これまでに出てきたRC橋脚、伸縮装置、支承の被災時と復旧後の写真ものせてありました。
ただここには、「ほにゃららモニュメント」などという言葉は書かれていなかったので、実はこの場所についての正式名称はわからないのですよ。
なので実際のところはどのように呼んでいいのかは不明ですが、今回はとりあえずタイトルのような感じでまとめてみたというわけなのです。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント6
写真6

そして、ここからは場所を移して、東山遊園地のそばには神戸市役所があるのですが、今回はその24階に展望ロビーがあったことを思い出し、寄ってみました。(写真6)
写真6では、海というか港の手前にさきほど登場した阪神高速3号神戸線の高架橋が見えているのですが、橋脚モニュメントについては、ビルが邪魔してやはり見えませんでした。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント7
写真7

もうすこしズームしてみたものです。(写真7)
ちょうど昨年訪れた東山遊園地のモニュメントも俯瞰できました。


阪神高速道路の橋脚メモリアルモニュメント8

写真8

最後は、地上にもどり、昨年、訪れたときは閉まっていて入れなかった東山遊園地内のモニュメント「COSMIC ELEMENTS」の地下瞑想空間に入った時のものです。(写真8)
中には神戸市内外の震災犠牲者の名前が多数掲示されてありました。
写真8は、瞑想空間の天井を撮ってみたものです。
さすがに室内をそのまま撮ったものを掲載する気にはならなかったもので。
というか、これを載せること事態かなり迷いましたが、やはり思い切ってのせておくことにしました。


ということで、今年は昨年の訪問からの続きのような記事ともなりましたが、これからも引き続き震災遺構の旅(散歩?)については続けていきたいとは思っていますので、よろしくお願いします。


地図
神戸市中央区新港町など

今年もこの日がやってきてしまいました。
毎年言ってますが(もう諦めてこれからも何度も言わせていただこうと思います)、早いもので、もうあれから21年ですか。

そして、昨年の1月17日のブログでも「これからも今まで同様、震災遺構の旅(散歩?)を続けよう」と言ったこともあり、今年も年始に引き続きいくつかまわってきましたが、今回はその中のひとつだけを紹介してみたいと思います。

今年の年始は、久々に地元のいつもの同級生のメンツに加えて、すこし疎遠になっていた小学校から同じ学校だった近所の同級とも一緒に会うことができて、変わらないところ変わったところ、参加メンツを通じて聞く、今回はきていなかった他の同級のうわさ話などから、自分たちが過ごしてきた年月の長さを感じた年始めのなか、今年はどこをまわろうかな?と思っていたところ、ふと昨年のブログの記事で「神戸ルミナリエの悲喜こもごも。」という神戸ルミナリエに関する記事を書いたこともあり、そんなことからも神戸ルミナリエの会場のひとつでもある東山遊園地を選んでみることにしました。

ただ、東山遊園地といえば、今日の新聞やテレビなどでも報じられているとおり、午前5時から「1・17のつどい」が開かれている場所でもあり、自分の中でも心理的ハードルが高く、いつか1・17のつどいに参加して、その様子を書こうと思っていた場所でもあったのですが、今回、いろいろと調べているうちに、公園内に「慰霊と復興のモニュメント」という震災関連のモニュメントがあることを知り、20年も過ぎたことだしという心理も働いて、今回、思い切って行ってみることにしたというわけなのです。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年1
写真1

東山遊園地の場所ですが、三宮駅からフラワーロードという大通りをすこし南下すると、神戸市役所があるのですが、今回の公園は、市役所のすぐ南側(海側)にあります。
そして、この写真ですが、これが「慰霊と復興のモニュメント」です。(写真1)
東山遊園地のフラワーロード側の公園中央あたりにあり、規模も大きめでした。
見た感じはまさに地形模型といった感じでしたが、もちろんそこにはいろいろな思いが込められているようでした。

この「慰霊と復興のモニュメント」は、地震で亡くなった方々の慰霊と、復興を願い、市民の募金によって2000年1月17日につくられたものだそうです。
またこのモニュメントを計画するにあたって、指名コンペがおこなわれ、安藤忠雄氏、植松奎二氏、楠田信吾氏、福岡道夫氏らの応募作品の中から、造形作家の楠田信吾氏の作品が選ばれたそうです。
作品名は、あとでも軽くふれますが、「COSMIC ELEMENTS」というそうです。

そして、この作品のコンセプトも神戸市の公式サイトには書かれていて、それによると、このモニュメントのコンセプトは、「地、太陽、空、水、風、石、ガラス」にわかれているそうです。
まず写真1の黒い石の説明碑の手前の正方形のタイルが敷き詰められた地面の部分が、「地」にあたるそうで、白い大地=新しく生まれる神戸の街、を意味しており、写真1の左に見えている木の部分が、「風」にあたり、草木=風の流れ、時の流れ、となり、レンガ色の地形模型の段差の部分が、「太陽」で赤い丘=生命と力の源・生命の暖かさ、永続性、を意味しているとのこと。
なるほど。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年2
写真2

もうすこしアングルを変えて見てみました。(写真2)
この真ん中の割れ目のところは、意味のある通路になっていて、奥にある地下の瞑想空間へとつながっています。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年3
写真3

取材当日は、写真2の通路を奥に行ってみたのですが、ご覧のとおり、年始のため入ることができませんでした。(写真3)


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年4
写真4

ただ、さっきの格子ごしに奥をみてみると、中がすこしだけ見れました。(写真4)
奥には、地下瞑想空間とよばれる震災で亡くなられた方々の名前が刻まれた空間があるようです。
今回は、見れませんでしたが、ある意味、気持ちが整理できたので、逆によかったのかもしれませんが。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年5
写真5

こちらは、写真2でも見えていたさっきの通路の上、要はモニュメントの頂上あたりの様子です。(写真5)
正面に見えているガラスの部分ですが、これはコンセプトの「ガラス」にあたり、未来を映し出す、ということを意味しているようです。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年6
写真6

また、写真5にもちらりと見えていますが、モニュメント作成者の名前などもきちんと残されいました。(写真6)


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年7
写真7

さらにアングルを変え、写真1と写真2の中央右あたりに見えていた滝のように水の流れている場所がよくみえるところにきてみました。(写真7)
位置的には、ちょうど写真2の背後ということになりますかね。
ここは、作品コンセプトでいえば、「水」にあたり、落水=水は新しい命の象徴。復興へのエネルギー、という意味を込められており、その上にある黒い石にも「石」、地球上の物質の象徴=巨石を宙に浮かせる事で人間と自然の儀式的な舞台装置となる、という意味が込められているそうです。
そうですか、意味的にはこの黒い石は浮いているということになっているのですね。
たしかにこのくらい遠目でみるとそう見えなくもないかもです。


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年8
写真8

こちらは、写真7の場所から奥のほうへ少し歩き、振り返ってモニュメントを見てみたものです。
なので、先の滝の部分は右側に見えていますよね。(写真8)
また奥には神戸市役所の高層ビルも見えていました。
偶然なのかどうかわかりませんが、軸線がちょうどあっているのはやはり狙ってなのですかね?


東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年9
写真9

そして、最後にこちらです。(写真9)
位置的は、写真8の中央左あたりにもちらりと見えていますが、これが、「1.17希望の灯り」です。
うしろにコンセプトの太陽にあたる地形模型のような段々が見えていることもあり、これも慰霊と復興のモニュメントと一体に考えてもよいかなと思い、今回、紹介してみることにしました。

これについては、自分で説明してもよいのですが、写真左側の銀色のほうにこの1.17希望の灯りについての説明が書いてありましたので、最後にそのまま抜粋させていただいて、今年はおわりたいと思います。

『 1.17希望の灯り

この碑文には、阪神淡路大震災で奪われたすべてのいのちと
生かされた私たちの思いが凝縮されています。

あの震災から15年、街の復興は進みましたが・・・
愛する家族を、友人を、仲間を奪われた方々のこころの傷はまだ癒えてはいません・・・

マグニチュード7.3を記録したあの大地震の時、
私たちはかけがえのない「いのち」を失うと同時に
国籍や宗教、肩書きなどの違いを超えて、家族や隣人、地域で
お互いに心を結び助け合いました。

電気もガスも水道もない中、手をたずさえて支えあったあの「こころ」は
まさに暗闇を照らす小さな灯火だったのです。

被災地の公園や街角、学校や会社には、亡くなられた方々の「生きた証」として
多くの「慰霊碑」・「追悼碑」・「モニュメント」がつくられています。
これらは失われた多くのいのちを、「個人の死」・「一人の死」としてではなく
「みんなの死」として受け止めた被災した方々のごく自然の営みでした。

ここに点されている灯りは、2000年1月17日午前5時46分
被災10市10町と全国47都道府県から届けていただいた種火をひとつにして、
「生きている証」として点しました。

2010年1月17日記す


1.17 Flame of Hope

5.46am, 17th January 1995
The Great Hanshin Earthquake

This earthquake took many things,
Lives, Jobs, Communities, Our Cityscape, Our Memories,
These things appear safe , permanent,
Even moments before, we cannot know

This earthquake left many things behind,
Kindness, Compassion, Human Bonds, Friendship

This flame links the lives which were taken away,
With our thoughts, the survivors.

Inscribed by Masami Horiuchi




東山遊園地の慰霊と復興のモニュメント。そして21年10
写真10

1.17希望の灯り

1995年1月17日午前5時46分 
阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出

・・・たった1秒先が予見できない人間の限界・・・

震災が残してくれたもの 
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは 
奪われた 
すべてのいのちと

生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ




地図
兵庫県神戸市中央区加納町6-4

さてさて、前回はなかなか激しい震災時の写真をたくさんお見せしてしまいましたが、今回はせっかくなので、震災遺構めぐりのついでに神戸の坂道散歩をしたときにまわった坂道などを紹介してみたいと思います。
ただ、いくつかの神戸の坂道については、みちくさ学会の記事「関西坂道ツアー(前編)」で、取り上げていたりしますので、今回は、その他の坂道ということで。


北野町広場へと上る階段1
写真1

まずはこちらの無名階段の坂下からの様子など。(写真1)
場所は、タイトルにもあるとおり、北野町広場という、わかりやすくいえば、異人館街にある風見鶏の館に面している広場があるのですが、そこへと上るための階段がなかなかいい感じでしたので、ちょっと取材してみることにしました。
見た目はすごく人工的ですが、奥に六甲山の山肌というか樹々が見えているとおり、このあたりは斜面地にあるエリアなので、自然の地形による高低差の場所にこの階段を通したものと思われます。


北野町広場へと上る階段2
写真2

ちなみに写真1のすぐ右側にも、こんな感じで坂道がありましたよ。(写真2)
しかも、今回現地には下調べせずふらりと寄ってしまったのでその存在に気がつかず無念だったのが、この場所の南側(海側)にある北野坂の坂上あたりからこのあたり(もしかしたら奥の坂上のほうまで?)までの階段を含む坂道に、”トーマス坂”という名前がつけられていたのですよ。
なので、こちらの坂道については、またそのうちにということで。。


北野町広場へと上る階段3
写真3

次は、階段をすこし上り、坂下のほうを見てみたものです。(写真3)
このあたりで建物1階分くらいの高低差はありそうですかね。
そして、坂下には、トーマス坂がちらりと・・。


北野町広場へと上る階段4
写真4

さらに階段を上り、坂上あたりがちらりと見える場所までやってきました。(写真4)
右側に、風見鶏の館が、ちらりと見えていましたよ。
しかも、遠くのほうに六甲山の山並みも。
こうしてみるとやっぱり山近いですね。


北野町広場へと上る階段5
写真5

そんなこんなで、坂上あたりまでやってきました。(写真5)
正面に見えている建物と比べてみると、どうやら建物2階もしくは3階分くらいありそうな感じでした。
またこの階段からの景色でいえば、ちょっとくらい階段の軸線方向に海でも見えていてもいいはずなのですが、隣接する敷地内の樹々や建物のおかげで海どころか視線が抜ける場所もありませんでした。(ただ、北野町広場内には、ここ以外に景色が開けている場所もありますのであしからず。)


北野町広場へと上る階段6
写真6

そして、最後におまけで、すぐそばに見えていた風見鶏の館です。
ちなみに、Wikipediaにも書いてあるとおり、この風見鶏の館は当初の居住者の名から旧トーマス邸、旧トーマス住宅とも呼ばれているそうで、そういうことから、さっきの写真3でもでてきた坂道にトーマス坂と名付けられたと考えてよさそうですね。


ということで、今回は、思い出してみてもこのブログ初の関東園以外の坂道を紹介してみたわけですが、これからも、たまに東京近郊以外の場所(とくに東京以外に土地勘のある神戸、関西)の坂道も散歩したときは、あわせて取材もして、このブログで取り上げられたらなあとも思っていますので、よろしくです。



地図
兵庫県神戸市中央区北野町3-11あたり

とうとう20年ですか。
もちろん、阪神・淡路大震災と呼ばれている地震が1995年1月17日におきてからということですが。

あの年に生まれた子供でも、もう二十歳なのですね。
忘れたこともあるけれど、やはり忘れられないことも多いあの地震で体験したいろいろなことについては、他の方々が、当時のことやその後のことなどを語っているので、僕自身、この時期が近づくと、もうそろそろいいのではないかと思うことが何度もあったわけですが、時が経てば経つほど色々と気になること、知りたいことが増えていっているというのが今の状況ということもあり、やはり今回もこれまでと同様に気になったことを自分なりというかこのブログなりに振り返ってみたいと思います。

2015年は震災後20年ということで、神戸市が、それに先駆けて阪神・淡路大震災の記録写真約1000枚をオープンデータとして提供するサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」を昨年の12月9日に公開したというニュースを知り、さっそく、「阪神・淡路大震災『1.17の記録』の公式サイトで、写真を調べてみると、やはり今までに歩いたことのある場所の写真がちらほらと見られ、いろいろと当時のことを思い出すよい機会になったとも言えるので、今年は、このオープンデータを使わない手はないという考えから、公開されている写真の場所が特定できたところを年末年始に実家の神戸に帰省したときに現地取材してきました。

関連リンク:
「神戸市:「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」を公開しました」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2014/12/20141209070301.html 

「阪神大震災の写真約1000枚、神戸市がCCライセンスで公開 2次利用OK - ITmedia ニュース」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/10/news073.html 

「阪神・淡路大震災『1.17の記録』公式サイト
http://kobe117shinsai.jp



01_阪急会館前moto
画像1 (http://kobe117shinsai.jp/area/chuo/c047.php

まずは、こちらから。(画像1)
これは、「阪神・淡路大震災『1.17の記録』からの写真(以下紹介する震災直後の写真はすべて同じですのであしからず)で、1995年(詳しい日時は不明ですが、明らかに直後のものです)に撮影されたものだそうです。
最初から、なかなかきつい感じですが、ご容赦を。
場所は、阪急三宮駅の駅前にあったターミナルビルがあったあたりで、左側が阪急会館という名のビルで、右側がサンキタ通りという商店街ですね。
どこからでてきたの?というくらいの瓦礫がビルの横の地面に散らばっているのが印象的な写真ですかね。


02_阪急会館前
写真1

そして、こちらが、現在の様子です。(写真1)
見てのとおりですが、サンキタ通りのアーケードの部分はそのまま残っていました。
左側のかつての阪急会館は、神戸阪急ビル東館として前とおなじく駅ビルとして建替られていましたが、外観については赤を基調としたシンプルなものになっていて昔の面影はまったくない感じでした。
あと、ここは、本当に三宮の駅前北口という場所なので、たいていの人はこの場所を通ったことがあるんじゃないかとは思いますし、僕自身、あまりに今の神戸阪急ビル東館の赤のビルが普通に感じてしまっていたのですが、かっての阪急会館の写真を見直してみると、ああそういえば、たしかにあれあったよねと思い出してしまったことも事実ではありました。


03_下山手通2丁目12 ワシントンホテル周辺moto
画像2 (http://kobe117shinsai.jp/area/chuo/c010.php

次は、さきほどの駅前から西側へすこし歩くと生田神社があるのですが、その近くでの当時の写真です。(画像2)
撮影日は、1995年1月17日というまさに震災当日のもののようで、撮影場所として、下山手通2丁目12 ワシントンホテル周辺という説明が加えられています。
道の両側で、かなりはげしくビルが崩壊している様子が記録されています。



04_下山手通2丁目12 ワシントンホテル周辺
写真2

こちらが、現在の様子です。(写真2)
正面に見えている茶色のビルは、画像2でも写っていて現在も残っているので、場所はすぐ特定できましたが、ビル名はワシントンホテルではなく、ザ・ピー神戸という名前に変わっていました。
ちなみに、この写真に写っている通り沿いには震災前からあった東急ハンズもあり、通りを奥のほうにすこし歩くとお店があるので、このあたりは三宮界隈でもけっこう有名な場所(繁華街)だったと思います。


以上、これまでの分は、三宮駅の北側エリアについてだったのですが、今度は南側エリアのことも取り上げておきたいと思います。



05_神戸交通センタービルmoto
画像3 (http://kobe117shinsai.jp/area/chuo/c016.php


こちらも撮影日は、1995年1月17日とのことで、場所は神戸交通センタービル周辺とあります。(画像3)
当初、この写真を見たときはどこどこ?という感じで、わからなかったのですが、よくよく回りの景色や神戸交通センタービルという名前から思い出してみると、この場所は、三宮駅の南側の国道2号と接しているあの大きな交差点の場所だということが分かりました。
ちなみに、この写真では、道路にビルから落ちてきたであろうものが散乱しているだけで(というかそれだけでも本当はすごいことなのですが・・・)、建物自体に大きな損傷が写っていませんが、神戸交通センタービルの公式HPによると「1995年1月17日、阪神淡路大震災に被災、旧ビルは5階部分で座屈倒壊しました。幸い2階部分以下は致命的な損傷を受けていなかったため、残存部分を補強し、上部に8層を積み上げ10階建ての耐震性に優れたビルに生まれ変わりました。」という記載がありました。
とにかく、この写真を見て思うのは、東京に限らず、一見頑丈そうに見える10階建てくらいのビル(要は背の高いビル)でもあれほどの地震の揺れになると、建物ががらりと壊れなくても、これくらいのガラスなどが空からふってくるかもしれないということも意識しておかないといけないということかもですね。
そういう意味では、地震が起きたとき、建物側のへこんだ部分(入口など)に逃げ込むのか、道路側に逃げるのか、こういう写真を見てしまうとどうすればいいのか迷ってしまいそうなところではありますかね。
もちろん、画像1のような状態になるともうどうしようもないのですし、ああいう時はたいてい前もって予測して気をつけようといっても限界があり、気がつけば、いつのまにか怪我をしていたということが多いとは思いますが・・・。


06_神戸交通センタービル
写真3

そして、こちらが現在の様子を撮ってみたものです。(写真3)
この感じだと、ああここね!と思える人も多いんじゃないですかね。
人がわらわらと横断歩道を渡っているところとそのむこう側が、三宮交差点(地図見てはじめて名前を意識したのですが・・・)ということになり、右側の道路が国道2号線ということになります。


07_小野柄通6丁目 御幸通6丁目 南北道路の南東を望むmoto
画像4 (http://kobe117shinsai.jp/area/chuo/c075.php

次は、もうすこしさきほどの場所から2号線沿いに東へ移動すると、上空に三宮のポートアイランドに行くためのポートライナー(電車のような交通機関)が走っているのですが、画像4は、その高架がよくみえる場所にて撮影した写真のようでした。(画像4)
撮影場所は「小野柄通6丁目 御幸通6丁目 南北道路の南東を望む」とあり、1995年1月21日という地震から4日後の写真のようです。
高架はたいへんなことになっていて、よくまわりのビルに倒れこまなかったなあというのが、正直な感想だったかもです。


08_小野柄通6丁目 御幸通6丁目 南北道路の南東を望む
写真4

こちらが、似たようなアングルから撮ってみた現在の様子です。(写真4)
よくよく見てみると、震災当時のものは、もうすこし奥の場所で撮ったもののように見えますが、現地ではちょっとそこまで気がつかず撮影してしまいました・・。
でも、高架の補強具合や、奥のビルの変わり具合はわかりやすいと思いますので、ご容赦を。


09_御幸通6丁目1 太平ビルmoto
画像5 (http://kobe117shinsai.jp/area/chuo/c021.php


最後はこちらです。(画像5)
ここは、画像4の場所からすぐ近くの場所なのですが、これまで紹介した中で、ビルの崩壊具合が半端なく写っていることからもこの写真を選んでみました。
撮影日は、1995年1月18日とのことで、撮影場所は御幸通6丁目1 太平ビルという記載になっていました。
おそらく左側の崩壊しているビルが太平ビルと思われます。
とにかく、このビル内に当時どれくらいの人がいたかと思うと、心が締め付けられる思いですが、立地がらここはオフィスビルのはずで時間帯も早朝なので、人はほとんどいなかったことを願うばかりという感じです。



10_御幸通6丁目1 太平ビル
写真5

そして、こちらが現在の様子です。(写真5)
左側に写っている茶色のビルが現在の太平ビルらしいです。
また正面奥には、ポートライナーの高架が見えているので、ここが写真4とかなり近い場所だということもわかりやすいんじゃないですかね。

なお、これまでに紹介したポイントを地図上にめもしたものをGoogleマップにてつくっておきましたので、もしよかったらどうぞ。
地図→https://www.google.com/maps/d/u/0/viewer?mid=zKBG4az99qPw.kTMLfQOldmfs


ということで、今年は三宮界隈に絞って過去と現在の状況を見てきたわけですが、やはり僕自身もこれだけ当時の写真を見てると(もちろんこれらは防災館などで展示されているつくりものではないわけなので、特に壊れたビルの中に震災当時、人がいたかもしれないなどと想像すると)かなり気が滅入ってきてしまい、ここまで記事を書き進めるまでに予想していたよりけっこう時間がかかってしまいましたが、今年はあの地震から20年、そしてそれにあわせてオープンデータの写真が公開されたことから、今回のような記事を書いてみました。
また今後も、今回のようなことをするかはわかりませんが、またこれとは違った形での震災遺構の旅(散歩?)についてはこれからも続けていきたいとは思っていますので、よろしくお願いします。

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