2015年03月

NO.800  17文字の力 川柳

新聞の記事に目がとまった。反戦川柳作家鶴彬の生涯を描いた 神山征二郎監督の映画「鶴彬 心の軌跡」が上映されると言う記事だった。

鶴彬という文字は何度か目にしたことがあり興味もあっったがどのような生涯を送りどのような作品を残した人かは全くと言っていいほど知らなかった。

 

映画を見たとき買った本によれば鶴は石川県に1909年に生まれ、少年期は優しい川柳を詠んでいたが、戦争の影が濃くなる中で反戦の立場を明確にした句を詠むようになった。1937年、「手と足をもいだ丸太にしてかえし」などの作品が治安維持法に触れて逮捕され、戦争が激しくなった1938年に獄中で赤痢にかかり、29歳の若さで亡くなった。

 

川柳を作ったこともない自分が川柳について書くのは川柳を愛する人たちにとっては失礼な話かとは承知しながら駄文を書く。川柳は俳句と同じ5・7・5と言う世界で一番短い詩である。俳句と違って5・7・5という定型はあるが季語という縛りはない。

日本の俳句人口は1000万人ともいわれ、外国でもhaikuとして親しまれているが川柳はそのような広がりはないようである。一説によれば俳句人口の1/20くらいと言われている。

小生も少し俳句を齧っているが、川柳は難しい。

俳句は目前のモノ・コトに感動した時に浮かんでくる。多い時は一日に20句でも30句でも駄句を詠んだことがあるが川柳となると私にはそうは行かない。

 

現在も新聞にサラリーマン川柳が掲載されることがあるように働く人の悲哀とか男と女の関係、普通の街中で見られる物事を皮肉っぽく詠うなど、人間が生きて行く場面場面で出あうすべての事象に川柳の素材はあるようである。貧乏人が金持ちを対象にして詠むことはあるようだがその逆は少ないようだ。

 

川柳人は川柳を作るときその対象に愛情を持ち、敵には憎しみを持ち詠むように思われる。

鶴彬は働く人や弱者に対し心の底からの愛情を抱き、特に時代の状況から戦争に突き進む権力に対す激しい憤りを持って川柳を作った。

わずか17文字だが権力にとっては刃のように恐ろしい存在だったのだろう、何度も逮捕し牢獄にぶち込み、最後は29歳という若さで獄死させてしまう。

 

川柳は、鶴彬の様な人ばかりではない。人生の機微に触れた句を作る人、サラリーマンの喜びや悲しみを詠う人、男女の仲をさらっと上手く詠む人、いろいろである。

 

 作家の田辺聖子はそんな川柳を素材に1400ページ近いハードカバー本を書いている。(この本、見た目には中古本は思えない、定価で札で5100円の本がインターネット市場では、なんと2円!(町の古本屋さんごめんなさい)で買ってしまいました。

田辺聖子は文庫版でも「川柳でんでん太鼓」(講談社文庫)などを書いており、それを参考にいくつかの鶴彬作品を紹介したい。

 

昭和12年、盧溝橋事件で中国大陸での資源と市場獲得を狙っていた日本と中国が衝突した年である。

この4句は、その年に詠んだ句である。

手と足をもいだ丸太にしてかえし

 鶴の句でもっとも有名な句である。中国大陸の戦線に送られた兵士は戦争で手も足ももがれた形で戦死。まるで丸太のようにして返してくる。

3月終わったNHKの朝ドラ「マッサン」にも同じような場面があった。熊さんの息子が出征し、南方戦線で戦争という知らせが届く。帰って来た骨壷の中に入っていたのは紙切れ1枚だけだった。丸太よりまだ残酷である。丸太は野に捨てられたままである。子どもの頃、帰って来た骨壷の中に骨はなく石頃だったという話を聞いたことがある。

歳と上げていった手を大陸へおいてきた

 この頃、中国大陸へ送りだされた叔父は私が生まれた年に戦死している。叔父は川柳結社に属し川柳を詠んでいたと聞いたことがある。どんな句を詠んでいたのだろう。まだ24歳という若さでの戦死。子どもの頃、田舎の家には軍服姿の叔父の写真が大きな額に入れられて祀られていた。まだ戦争がはじまったころであり、戦死者はまだ大事にされていた。戦死者は「村葬」といって村主催の盛大な葬儀で弔われた。もちろん生まれてほやほやの私にはその記憶はないが、私の母校となった小学校が花輪でうずまるくらいの盛大な「村葬」の写真があったのでので知っているだけである。戦死者が増えて来ると、戦死者も粗末に扱われるようになり、最後は紙切れ一枚や石ころ1個になってしまう。

胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき 

 戦争に行く前に妻のおなかの中に芽生えた命。胎動を妻が感じる頃戦死公報がつく。生きて帰ってくると信じたいが不安な気持ちで送りだした夫の死。公報を見た時おなかの赤ちゃんが動いた。おなかの赤ちゃんも怒りと悲しみで手足を動かしたのだろうか。17文字で妻の悲しみ、戦争の悲惨さ、残酷さを表す名句だと思う。

屍のゐないニュース映画で勇ましい

ニュース映画も戦意高揚の一つの手段として作られ、上映されたのだろう。悲惨な戦場のホントの姿は一切映されず、軍隊の勇ましい姿だけを放映した。鶴彬は映りだされないその裏にこそ戦争の真実があると見抜き、「高粱の実りへ戦車と靴の鋲」と詠み警鐘を鳴らし、時の権力に立ち向かおうとしたと思う。当時の「治安維持法」、現在の「秘密保護法」をどうしても考えてしまう。

ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ

昭和10年の句。当時、日本産業の重要な部分を占めていた繊維工業。それを支えていたのはまだうら若き女工たちであった。大正生まれの私の一番上の姉もその女工の一人だった。今の小学校を出てすぐに貧しい水飲み百姓の家計を支えるべく女工として働きに出ていた。当時は不治の病と言われた肺結核に罹って戻されてきて、11月生まれの私を抱いて、その1ヶ月後16歳の若さで亡くなったと聞いている。この17文字には多くの残された人たちの怒りと亡くなった人の悲しみが込められている。どこにも「怒り」の文字も「悲しみ」の文字も見ることはないがこの句をゆっくり読むとそんな気持ちが伝わってくる。 

                        (2015.3.29

NO.799 ジャガイモ植え


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近くのDIY店でジャガイモの種芋を購入し、10日間陽にあて芽の出るのを促進させようと思ったがなかなか芽が出ず、3月も中旬を過ぎたので、遅くなってもいけないので植えることとする。今年は男爵、メイクイーン、キタアカリの3種類を植えることとした。芋を見て芽のあるところを等分に残るように二つに切り、切った面に、草木灰をまぶし、植える事とした。株間35cm、畝間80cm、株と株の間に硫安を一つまみおいて、5cmほどの深さに埋めた。さて上手く育ってくれるか。収穫は6月頃になる。上手く育つと自家消費には多すぎるのでまたどこかへ進呈することになる。

NO.798.紀見峠

子どもへの陣中見舞いの折り、時間があったのでどこかへ出かけてみようと思い、手軽に行けるところで、橋本駅から南海高野線に乗って紀見峠へ出かけた。三つめの駅が紀見峠。Webで検索して出かけたのだが、想像したのとまったく違って、駅前もさみしく、駅自体も無人駅だった。駅前に看板があって紀見峠へのルートがあったが、始点がわからずうろうろ。駅から女性が一人(この列車で降りたのは私とこの女性)が現れたので、地元の方ですかと尋ねたところそうだと言うので、紀見峠への行き方を尋ねたところ、同じ方向へ行くのでご一緒しましょうということで案内役をしてくれた。

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駅舎からは上り坂が続き、結構な道だった。案内してもらえなければとても行けそうもないルートだった.
毎朝の散歩のルートであるという健脚な女性について行くのは結構大変だった。

途中の道は畑の畔を行くような狭い道だった。


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遠くに新興住宅が見えた。案内の女性も5000万円の大金を出してmyhomeを手にしたそうだが今では1000万円の評価額だと言っていた。
まっ直ぐ行けば紀見峠に付けるという道まで案内してもらって別れた。

そこからはさらに道が狭くなり、油断すると転げ落ちそうな道だった。金剛山へ至るトレッキングコースの表示がところどころに立っていた。

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広い道路(国道371号線)を横切るところに紀見峠への案内標識があった。
よく見ると「紀見峠」ではなく「紀伊見峠」とあった。

今登って来た道は遠く高野山の女人堂へ続く道とのことだった。
(女人堂とは:高野山HPより引用:その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入 りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。現在の女人堂は唯一現存する建物です。)

広い道路を横切って再び狭い道に入り紀見峠を目指す。

宿場跡に入ったところに比較的新しい大きな句碑があった。
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石一つ残して野火の行方かな  風?ろ 俊 と読めた。帰宅後、作者を調べてみたが今のところ判明していない。
向かいに土塀が崩れかけた家があった。土塀の作りから見てかなり古いものかと思った。

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その昔、河内の国辺りの女性がこの道を通り高野山参りに出かけ、このあたりが宿場街らしかった。
集落も何となくそんな雰囲気があった。

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しばらく行くと左側に「喫茶」の文字が見え、ちょうど休みたいと思っていたので喜んで近づいたが、残念、冬の間はお休みしますと書かれていた。
格子戸に俳句の短冊がかかっており、開店中であれば俳句談義もできたのにと思った。

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駕籠舁ひて登りし峠秋の晴れ  満子  
秋立ちてひとの恋しき夕べかな

この喫茶店に限らず人が住んでいないと思われる家がちょこちょこ見えた。
人が住まなくても季節はきちんと廻って来る。町では見られなくなった木製の雨戸が閉まっており、それに触れるように紅梅が咲きはじめていた。

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紀見峠の標識まではすぐだった。

橋本市の名誉市民で、世界的数学者岡潔博士の故郷でもあり生誕の地の記念碑があった。
生まれは大阪とも言うが尋常小学校は柱本尋常小学校入学とあるので幼少のころはここに住んでいたらしい。
博士の名前は聞いていたがその功績等は資料を読んでも全く分からない。
色々と個性的な行動をとる人と言うことは昔聞いたが、本職のほか哲学的な面とか随筆等の文学的素養もある人だったらしい。出会った人に聴いたら博士が生存中は実家があったが、亡くなられた後の取り壊されたとのことで、記念碑と句碑が残っていた。写真で見る石垣の上に実家があったのか。
出会った人も岡姓で、この集落に4軒の岡さんがいるとのことだった。
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記念碑から数十メートルで和歌山県と大阪府の県境となっていた。県境から高野山の女人堂まで6里という標識もあった。女人堂まで20km以上あったわけなので最後の一泊をこの宿場で取ったのかもしれない。

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