私は昭和27年、大阪府吹田市に生まれました。吹田市立千里第二小学校は学年の組名が雪、星、月、花、松、竹、梅で一組約50名で全校生徒が2,000名近いマンモス校でした。昭和21年~24 年生まれの団塊の世代の影響と、当時としては非常にモダンな公団住宅が校区に多く建設された結果だと思われます。昭和30年代から40年代の日本は高度成 長の真っただ中にあり国民全体が、明るい未来が永遠に続くような錯角に囚われていた時代でした。カラーテレビ、電話、車、が家に来た時の感動やわくわく感 は今でも鮮明に覚えています。
皇太子様と美智子様とのご結婚、東京オリンピック、ケネディー暗殺、高校の先輩川端康成のノーベル文学賞受賞、アー ムストロング船長の月面第一歩、三島由紀夫の自決、万国博覧会、ベトナム戦争、学生運動、日本赤軍事件、田中角栄日本列島改造論、ニクソンショック、石油 ショック、などが特に印象に残っています。
三島由紀夫が市谷の防衛庁本部のバルコニーから自衛隊員に向かって『諸君は武士だろう。武士ならどう して自分を否定する憲法を守るんだ!』と叫んで割腹自殺し森田必勝の介錯で切り落とされた首の写真が翌日の新聞に掲載された時は高校生の私にはとても大き な衝撃でした。三島の自決理由について、ノーベル賞最有力候補の三島が川端に取られてしまった失望感、失われていく日本人の魂、精神性への渇望、金閣寺の あまりの美しさゆえに燃やしてしまわざるを得なかった若い僧のように、自分の若さ、肉体を含めた美への強烈な執着、老いへの恐怖等々さまざまな説がありま したが、非常に聡明で力強く自信に満ちたリーダーのイメージであった三島の死は私にとってはミステリーであり、自らの命を捨ててまで守るべき大切なもの、 伝えたいものがあるのか、との問いは今でも永遠のテーマです。
秀吉に一言詫びれば助命されたかも知れないのにあえて死を選んだ利休は何を守ろうとしたのか。赤穂浪士は吉良上野介の首をとって本当に喜んで死んでいったのか、武士社会の掟に縛られていなかっただろうか。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」との辞世の句を読んで処刑された吉田松陰の留めて置きたかった大和魂とは何か。
三島の自決で、限りある命よりも、永遠に滅びない魂や誇りを大切にする、という考え方や人物に強い関心を持ちました。
(西村登)