2011年10月12日
『常住戦陣!! ムシブギョー 第1巻−第3巻』(福田宏、小学館、各440円)
「週刊少年サンデー」といったら、一時期は「週刊少年ジャンプ」よりも「週刊少年マガジン」よりも、貪るように読んでいた漫画誌で、あだち充に高橋留美子に島本和彦にゆうきまさみに安永航一郎に遠山光等々、挙げればきりがないくらいの好きな漫画家の大好きな作品が、誌上を彩って輝きを放っていた。
もっとも、それから四半世紀も経った昨今、いったいどんな漫画が載っているのか、気にすることはなくなっていた。雰囲気だけなら青山剛昌の「名探偵コナン」が長く続いていて、「犬夜叉」に続く高橋留美子の連載があって、あだち充は今でもいるのか、椎名高志や藤田和日郎は残っているのかといった、曖昧模糊とした印象からいくつかの名前が浮かぶ程度。あとは「鋼の錬金術師」の荒川弘が、雑誌を替えて始めた「銀の匙」がそういえば話題になっていた、といった印象か。
だから、第1巻と第2巻がまとめて単行本として刊行されるまで、福田宏という人の「常住戦陣!! ムシブギョー」(小学館、440円)の存在も、まるで知らなかった。そのまま他の漫画同様に知らずにすますことも出来たけれども、店頭で目にした少年や少女のキャラクターと、絵柄と設定に、大きく気になるところがあって手に取ったら、これが何と、面白いではないか。
江戸時代を舞台にした剣豪物。といっても、現実の江戸時代とは違っていて、巨大になった蟲と言われる怪物どもが、江戸の街にわんさかとわいて人間たちを襲っている。これは大変と幕府が設置したのが、蟲退治を専門とする蟲奉行という組織。そこに、東北の田舎から、すごい剣豪の父親を持ちながらも父親にはまだ及ばない、月島仁兵衛という少年がやってきては、入って先達たちとともに蟲を退治する仕事に就く.
もっとも、そこは百戦錬磨の奴らが集う蟲奉行。田舎での剣豪もただの人間に過ぎず、仁兵衛は現れる蟲に苦戦し続ける。前からいる蟲奉行たちはといえば、剣のひとふりで蟲を両断したり、切ったり焼いたり止めたりしてみせる。
まるで力量が違う場で、早死にすら想像されたけれども、仁兵衛は誰よりも素速く動く技だけは抜きんでていて、危機になった子供を守ろうとしたり、刀が使えなくなっても柄で相手を粉砕しようとしたりと、決して逃げずに命がけで戦ってみせた。そんな姿に、最初は歯牙にもかけなかった仁兵衛を、周囲もしだいに納得して、仲間にしてくという覚醒と成長の物語が繰り広げられる。
まさに少年漫画の王道ストーリー。今はそれでも著しく激しく弱いけれども、仁兵衛に秘められた潜在能力がいずれ発揮されて、激しい戦いを見せてくれることになるのだろう。そうならなかったとしても、常に前向きで明るく楽しげな仁兵衛の姿を媒介にして、同じ奉行所に務めながらも、てんでバラバラだった蟲奉行たちがまとまって、江戸の危機に立ち向かっていく物語が、描かれていくことになるのだろう。
なにしろ第3巻では、江戸幕府の将軍家の後継ぎですら、その生真面目さで友達にしてしまう仁兵衛だ。江戸より北はともかく、西の方で起こっているらしい不穏にして不気味な出来事が江戸を襲い、蟲奉行たちを巻きこんだとしても、その未来はきっと明るいはずだと信じて続きを待とう。それとも更なる奥深い陰謀がめぐらされているのか。ますますもって楽しみだ。
キャラクターでは仁兵衛が世話になる茶屋の娘で、春という名の少女のFカップぶりがとにかく目に麗しい。仁兵衛を友人として好く将軍家の御曹司が、その大きさその揺れっぷりに不穏さを覚えるくらいだから、もう相当に素晴らしいとしか言いようがない。一方で、仁兵衛と同じ蟲奉行として働く火鉢という火薬使いの少女の、すらりとしてスリムな姿態もこれはこれで麗しい。あれでしっかりボリュームもあって、戦いの中で艶姿をのぞかせてくれるから目を離せない。
もちろん、どんなに固いものでも、手にした普通の刀で寒天でも切るように寸断してバラバラにしてしまう剣技の持ち主、恋川春菊も凄まじいし、日頃はまったくの無表情ながらも、蟲を相手にした時は、圧倒的な剣の腕をふるって退け、たとえ要塞級の蟲であっても、臆せず倒してのける無涯という剣豪もとてつもなく凄まじい。
病弱ながらも、優れた陰陽師の術で蟲をしのぐ一乃谷天間もなかなかなもの。そんな仲間たちから受けた刺激が月島仁兵衛をどう変え、そして江戸と日本をどこへ導くのか。目を離せない連載が「週刊少年サンデー」に現れた。読んで行こう。
もっとも、それから四半世紀も経った昨今、いったいどんな漫画が載っているのか、気にすることはなくなっていた。雰囲気だけなら青山剛昌の「名探偵コナン」が長く続いていて、「犬夜叉」に続く高橋留美子の連載があって、あだち充は今でもいるのか、椎名高志や藤田和日郎は残っているのかといった、曖昧模糊とした印象からいくつかの名前が浮かぶ程度。あとは「鋼の錬金術師」の荒川弘が、雑誌を替えて始めた「銀の匙」がそういえば話題になっていた、といった印象か。
だから、第1巻と第2巻がまとめて単行本として刊行されるまで、福田宏という人の「常住戦陣!! ムシブギョー」(小学館、440円)の存在も、まるで知らなかった。そのまま他の漫画同様に知らずにすますことも出来たけれども、店頭で目にした少年や少女のキャラクターと、絵柄と設定に、大きく気になるところがあって手に取ったら、これが何と、面白いではないか。
江戸時代を舞台にした剣豪物。といっても、現実の江戸時代とは違っていて、巨大になった蟲と言われる怪物どもが、江戸の街にわんさかとわいて人間たちを襲っている。これは大変と幕府が設置したのが、蟲退治を専門とする蟲奉行という組織。そこに、東北の田舎から、すごい剣豪の父親を持ちながらも父親にはまだ及ばない、月島仁兵衛という少年がやってきては、入って先達たちとともに蟲を退治する仕事に就く.
もっとも、そこは百戦錬磨の奴らが集う蟲奉行。田舎での剣豪もただの人間に過ぎず、仁兵衛は現れる蟲に苦戦し続ける。前からいる蟲奉行たちはといえば、剣のひとふりで蟲を両断したり、切ったり焼いたり止めたりしてみせる。
まるで力量が違う場で、早死にすら想像されたけれども、仁兵衛は誰よりも素速く動く技だけは抜きんでていて、危機になった子供を守ろうとしたり、刀が使えなくなっても柄で相手を粉砕しようとしたりと、決して逃げずに命がけで戦ってみせた。そんな姿に、最初は歯牙にもかけなかった仁兵衛を、周囲もしだいに納得して、仲間にしてくという覚醒と成長の物語が繰り広げられる。
まさに少年漫画の王道ストーリー。今はそれでも著しく激しく弱いけれども、仁兵衛に秘められた潜在能力がいずれ発揮されて、激しい戦いを見せてくれることになるのだろう。そうならなかったとしても、常に前向きで明るく楽しげな仁兵衛の姿を媒介にして、同じ奉行所に務めながらも、てんでバラバラだった蟲奉行たちがまとまって、江戸の危機に立ち向かっていく物語が、描かれていくことになるのだろう。
なにしろ第3巻では、江戸幕府の将軍家の後継ぎですら、その生真面目さで友達にしてしまう仁兵衛だ。江戸より北はともかく、西の方で起こっているらしい不穏にして不気味な出来事が江戸を襲い、蟲奉行たちを巻きこんだとしても、その未来はきっと明るいはずだと信じて続きを待とう。それとも更なる奥深い陰謀がめぐらされているのか。ますますもって楽しみだ。
キャラクターでは仁兵衛が世話になる茶屋の娘で、春という名の少女のFカップぶりがとにかく目に麗しい。仁兵衛を友人として好く将軍家の御曹司が、その大きさその揺れっぷりに不穏さを覚えるくらいだから、もう相当に素晴らしいとしか言いようがない。一方で、仁兵衛と同じ蟲奉行として働く火鉢という火薬使いの少女の、すらりとしてスリムな姿態もこれはこれで麗しい。あれでしっかりボリュームもあって、戦いの中で艶姿をのぞかせてくれるから目を離せない。
もちろん、どんなに固いものでも、手にした普通の刀で寒天でも切るように寸断してバラバラにしてしまう剣技の持ち主、恋川春菊も凄まじいし、日頃はまったくの無表情ながらも、蟲を相手にした時は、圧倒的な剣の腕をふるって退け、たとえ要塞級の蟲であっても、臆せず倒してのける無涯という剣豪もとてつもなく凄まじい。
病弱ながらも、優れた陰陽師の術で蟲をしのぐ一乃谷天間もなかなかなもの。そんな仲間たちから受けた刺激が月島仁兵衛をどう変え、そして江戸と日本をどこへ導くのか。目を離せない連載が「週刊少年サンデー」に現れた。読んで行こう。
2011年10月10日
『ルーシーにおまかせ!』(一条明、光文社、1600円)
私が私だという私こそが私であって、そうでない私は私だといっても私ではない。それは絶対の真理なはずなのに、私ではない私が私だといって、それを私ではないと否定できないのは、私が私であるという、その私とはいったい何なのかという問題に、答えるのが難しかったりするからだ。
私とは、この私が私と思考する脳である。その脳に刻まれた記憶であり、経験である。そう断じてしまえば優しいように思えなくもないけれど、では、その脳のどこにどうやって私を体現する記憶は刻まれているのか。どんな形をして収まっているのか。誰も答えられないし、答えようがない。
そうした細かいことを考えず、脳を唯一絶対のブラックボックスととらえることもできなくはない。けれども、そんな曖昧模糊とした非実在のものを、私と認めて良いのかといった抵抗もやはり引きずる。曖昧ではなく、私はだから記憶の積層したものだいうのなら、それを完璧にコピーして移したそれは、私なのかといった問題も一方に生まれてくる。
そうやって発現したコピーされた私の自我は、私を私だと認識して、そして同じように私以外は私なのか、違うのかと行った思いに悩む。私とは。一条明という作家が、突然に現れ発表した「ルーシーにおまかせ!」(光文社、1600円)には、そんな、私についての思考が近未来の社会を舞台に描かれる。
主人公はジュールという少女で、父母に愛され育って迎えた7歳の誕生日に、父母から自分の本当の正体を知らされる。なおかついっしょに暮らしてきたメイドロボットのルーシーの正体も聞かされ、驚きながらもいったい何が起こったのかを知ろうと家を出て街を彷徨う。
ジュールが抱いたのは、私という存在がかげがえのないものなのか否かという疑問。その存在と同一の個体がかつて存在したという事実が、たとえ7年という時間をかけられ、彼女にとっては唯一の時間を過ごして来たにもかかわらず、私は私なのかという懐疑を彼女に抱かせる。一方で、彼女が追い求める存在もまた、自分探しの果てにひとつの事件を経由して、私というものを突き詰める行動に出た挙げ句に、今のジュールという少女が生まれるきっかけを生む。
自分は自分なんだからという超然も、自分が終わればすべて終わるんだという諦観ももないのは、そうした超然や諦観を起こさせないくらい、あっさりともうひとつの私を作り出せる環境があるから。そんな環境下でいったい私の本質とはどこにあるのかを探ることで、私とはという問いかけへの答えに迫る。
難しい話ではない。メイドロボットの中身とかが分かってそうさせられる可能性をわが身におきかけたときに浮かぶ、ちょっとした恐怖とそして身悶え。自分という存在が持つ美を、どこまでもどこまでも保ち続けられるのだったら、そうするのかという誘いへの逡巡。肉体を捨てて、心すらも移し替えて永遠を生きることが可能なら、そうするのかという思索。その時の私はいったい本当の私なのかといった懐疑。
それらが、ルーシーというメイドロボと、ジュールという元気な少女の冒険によって描かれてあり、その行く先々でいろいろと説明もなされているから、読んでいくうちに自然と、そうした思索が強く意識しないうちに行われ、いろいろな答えが浮かんでくる。
そんな、自分とは何かを問う主題に加え、おしゃれをすることだけが生き甲斐のビズ・キッズという存在、ネットワークによって監視され、操られている社会といった未来のビジョンに彩られてもいる物語。独特の美的感覚で紡がれた世界が、豊富なSF的アイデアとともに描かれ、かつてない世界へと読む者を引きずり込んで翻弄し、籠絡する。その力量は確か。だからこそ書いた者の正体が気になる。
果たして最後はすべて解決したのか、それとも後に残している謎がまだまだあるのか。引きもあって続きがいつ、登場しても不思議ではない。そこでジュールは、再びオリジナルと対決するのか。そしてそれはオリジナルのままなのか。思索を要求される果てに見える、答えのないさらなる思索の海を楽しみにして、その登場を待ちわびよう。
2011年10月09日
『山がわたしを呼んでいる!』(浅葉なつ、アスキー・メディアワークス、650円)
「空をサカナが泳ぐ頃」(メディアワークス文庫、590円)で、社会にコミットしながらもどこかやり残した思いをかかえて生きている人間たちが、ちょっとした事件を経て自分を見つめ直し、やり直そうと決断する姿を描いた浅葉なつ。奇妙な煙草を吸ったら、目の前に謎の魚が現れ泳ぎ出すという、例えるなら海が男たちを呼んでいた作品だったけれど、第2作となる「山がわたしを呼んでいる!」(メディアワークス文庫、650円)は、だからといって目の前に熊だの鹿だのといた動物が、現れ走り回る作品ではない。
ごくごくストレートに、山に招かれる女性が、抱えていたもやもやから解放されていくという、心情の変遷を描いた青春ストーリー。ガサツで乱暴者の自分に嫌気を感じた女子大生あきらは、もっとみんなから愛されるキャラになりたいと、女たちのカリスマと仰がれているモデルの女性の真似をして、彼女が興味を持っている“山ガール”とやらになろうと、山小屋のアルバイトに応募して山小屋へと向かったら、そこは彼女の予想にまるで反して、そこはガサツで乱暴者の巣窟だった。
いやいや、そもそもが山小屋にロッキングチェアと暖炉があって、羊や馬が草原をかけまわる中を、静かに健康的に毎日を送るような暮らしなんかは存在しない。むしろガサツで乱暴者の巣窟であることが普通。知っていてしかるべきそんな知識をまるでもたなかったあきらは、スニーカーにチュニックを羽織った姿で、、トランクをかついで8時間も山道を登って山小屋へと行き、そこにいたものたちに驚き呆れられ怒られた。なるほどそれも当然か。
とはいえ、そんな近所にピクニックにでも行くような格好で、険しい山道を登り続けられる体力があるという点で、カリスマのように優しく可憐な乙女という領域を、大きく逸脱しているあきら。当人はそうした乖離を意識しているのかしていないのか、まるで気に留めることなく、自分は可憐な乙女になるんだという思いで山小屋に行き、当然のように先輩から怒鳴られる。
そこで可憐な乙女だったら泣いて引き下がるところを、まったくそうではなかったあきらはは、即座に言い返し、喧嘩し、売り言葉に買い言葉もあって早々に引き上げると宣言したら、なぜか山小屋のオーナーが、怪我したと言って先に下山してしまう。人手が足りなくなった山小屋で、あきらは嫌々ながらもそこに残って、山小屋の仕事に励むことになった。
先輩で根っからの山男の青年からは、相変わらずの罵倒が浴びせられる。けれども、それに負けずに止まり頑張り登山客の危機も救ったあきらは、山でいろいろと見聞し、もうそこにいるしかないと、内心では思いながらも、根っからの気性の強さもあって、最初の言を曲げず、山を下りて大学に戻り、普通の女の子としての日々を送ろうとする。もっとも。
そこはなるほど“山に呼ばれた”人間だけあって、心ずっと山上に留まっていた様子。誘われ断らず山小屋へと舞い戻っていく。その選択が、彼女にとって最善だったかどうかは分からない。本当になりたかったカリスマのような暮らしとは、まるで正反対の山小屋に向かってしまったことは、本心に妥協してしまった現れかもしれない。
そういう妥協が是か否か。答えることはとても難しいけれど、いくら願っても届かない場所は、現実に確実に存在する。そこに至ろうとして至れず、自分に不安を感じ不満を覚えている人が、ほかに本当にやりたいことを見つけるなり、ベストではなくても今よりもよりベターな場所を見つけることは、決して悪いものではない。どうしよう。そう迷いあがいている時に、山小屋という選択肢を少女に与えて道を示したともいえるストーリーは、自分にとって良き道を選ぶ上で、心の支えになってくれそうだ。
だから自分も山小屋に、とはあの厳しい日々を思えば流石に誰も思わないかもしれないけれど、1度は行ってみたいと思わせる魅力は、あきらやそのほかの面々の仕事ぶりから伝わってくる。山小屋で働き、稜線を歩き、頂上に到達する気持ちの素晴らしさを味わいたい。そう思った時、あなたはきっと山に呼ばれている。だから行くしかない。登るしかない。ただしチュニックはお断り。頂上はあれで結構寒いから。
ごくごくストレートに、山に招かれる女性が、抱えていたもやもやから解放されていくという、心情の変遷を描いた青春ストーリー。ガサツで乱暴者の自分に嫌気を感じた女子大生あきらは、もっとみんなから愛されるキャラになりたいと、女たちのカリスマと仰がれているモデルの女性の真似をして、彼女が興味を持っている“山ガール”とやらになろうと、山小屋のアルバイトに応募して山小屋へと向かったら、そこは彼女の予想にまるで反して、そこはガサツで乱暴者の巣窟だった。
いやいや、そもそもが山小屋にロッキングチェアと暖炉があって、羊や馬が草原をかけまわる中を、静かに健康的に毎日を送るような暮らしなんかは存在しない。むしろガサツで乱暴者の巣窟であることが普通。知っていてしかるべきそんな知識をまるでもたなかったあきらは、スニーカーにチュニックを羽織った姿で、、トランクをかついで8時間も山道を登って山小屋へと行き、そこにいたものたちに驚き呆れられ怒られた。なるほどそれも当然か。
とはいえ、そんな近所にピクニックにでも行くような格好で、険しい山道を登り続けられる体力があるという点で、カリスマのように優しく可憐な乙女という領域を、大きく逸脱しているあきら。当人はそうした乖離を意識しているのかしていないのか、まるで気に留めることなく、自分は可憐な乙女になるんだという思いで山小屋に行き、当然のように先輩から怒鳴られる。
そこで可憐な乙女だったら泣いて引き下がるところを、まったくそうではなかったあきらはは、即座に言い返し、喧嘩し、売り言葉に買い言葉もあって早々に引き上げると宣言したら、なぜか山小屋のオーナーが、怪我したと言って先に下山してしまう。人手が足りなくなった山小屋で、あきらは嫌々ながらもそこに残って、山小屋の仕事に励むことになった。
先輩で根っからの山男の青年からは、相変わらずの罵倒が浴びせられる。けれども、それに負けずに止まり頑張り登山客の危機も救ったあきらは、山でいろいろと見聞し、もうそこにいるしかないと、内心では思いながらも、根っからの気性の強さもあって、最初の言を曲げず、山を下りて大学に戻り、普通の女の子としての日々を送ろうとする。もっとも。
そこはなるほど“山に呼ばれた”人間だけあって、心ずっと山上に留まっていた様子。誘われ断らず山小屋へと舞い戻っていく。その選択が、彼女にとって最善だったかどうかは分からない。本当になりたかったカリスマのような暮らしとは、まるで正反対の山小屋に向かってしまったことは、本心に妥協してしまった現れかもしれない。
そういう妥協が是か否か。答えることはとても難しいけれど、いくら願っても届かない場所は、現実に確実に存在する。そこに至ろうとして至れず、自分に不安を感じ不満を覚えている人が、ほかに本当にやりたいことを見つけるなり、ベストではなくても今よりもよりベターな場所を見つけることは、決して悪いものではない。どうしよう。そう迷いあがいている時に、山小屋という選択肢を少女に与えて道を示したともいえるストーリーは、自分にとって良き道を選ぶ上で、心の支えになってくれそうだ。
だから自分も山小屋に、とはあの厳しい日々を思えば流石に誰も思わないかもしれないけれど、1度は行ってみたいと思わせる魅力は、あきらやそのほかの面々の仕事ぶりから伝わってくる。山小屋で働き、稜線を歩き、頂上に到達する気持ちの素晴らしさを味わいたい。そう思った時、あなたはきっと山に呼ばれている。だから行くしかない。登るしかない。ただしチュニックはお断り。頂上はあれで結構寒いから。
2011年10月08日
『蠢太郎』(村上もとか、小学館、552円)
語られている歴史はひとつ。けれどもそれが本当なのか違うのか、分からないことも少なくない。忘れられた史実もあれば、隠された史実もある。それらが白日のもとに晒された時、起こる驚きの声の大きいだろうことは、想像に難くない。
もしもそれが史実だったら。「六三四の剣」に「龍−RON−」に「JIN−仁−」と、傑作漫画を次々に発表している村上もとかの最新刊「蠢太郎 JUNTARO」(小学館、552円)を読んだとき、誰もが驚きの声をあげるだろう。身に恐ろしさが混じった震撼をもたらす事柄が、そこに描かれているからだ。
山野を彷徨う娘と母。そう見えて実は息子と父親という女形の歌舞伎役者の旅程から始まる漫画は、かつて江戸歌舞伎で人気女形だった中村鶴吉という父親と、まだ春と名乗っていた息子の芸の良さ、器量の良さで当座の旅費は得ていたものの、何かに追われる身らしく一所には落ち着けず、隠れるように渡り歩いていた。
ある夜は、雪の中で女人禁制の寺に男子だからと言って入り、父親は僧侶に身を捧げ、息子のためにと寝床と食事を得て一夜の宿を得た。そこに飛び込んできた官憲たちから、親子はかろうじて逃げ京都の町へと入る。どうして一介の女形が官憲にしつこく追われるのか。その理由が後に明かされ、震撼への土台となる。
時に世は明治維新直後で、天皇が京都御所から江戸城の御所へと移り、京都の街はどこか沈んだ空気の中にいた。本当なら追い返されかねないところを、芸の実力もあって鶴吉は、芝居小屋の片隅に仕事を得る。やがて江戸歌舞伎でならした芸を認められ、舞台に立つようにもなっていく。
息子の方は、春から蠢太郎へと名を替えて、歌舞伎や舞の修行を始める。その見目の美しさをからわかれ、虐められもするけれど、根っからの気性の強さで逆襲し、やがて仲間たちに認められていく。
芸の腕も上がって舞台に上がるようになり、そのころには鶴吉への追っ手も京都の町を仕切るヤクザの大立て者の庇護があって、鶴吉や蠢太郎に近寄ってくることはなかった。加えてもうひとりの存在が、鶴吉と蠢太郎の立場を京都ではとてつもなく強固なものにしていた。
その存在が果たして歴史の上に実在したのか。それとも村上もとかの想像なのか。監修にあたった志波秀宇の強い思いが繁栄されたものなのか。その存在がそこにいる以前に行われたらしい陰惨な出来事もあわせて記されていて、これが想像だとしてもあまりにも凄まじく、そして蔑ろにはできない興味を歴史へとかりたてる。
何しろ筆者は数々の漫画賞を受賞し、今や日本を代表する漫画家の一人となった村上もとかだ。たとえ監修者の思いを受けたものだったとしても、実際に漫画として描いた漫画家に、さまざまな声が及ばないということはない。その覚悟を持って描いた以上、描かれたことになにがしかの意味が、あるいは意義があるのだろう。
ただし、歴史の裏に隠されていそうな事柄であっても、そこに登場してくる“役者”たちに、卑怯者は誰もいないところが、さすがは国家百年を考え、維新という大事業に挑み、あるいは妨げようとした者たちだけのことはある。京都で蠢太郎という名を得た息子が見た存在も、そして連れられて江戸で出合った敵方の筆頭も、その上に君臨する存在も、すべてがこの国のために心を砕き、時には鬼ともなってことに挑んだ。
そうした激動の歴史の狭間に囚われ、運命を翻弄される形となった蠢太郎には悲惨なことではあるものの、そんな蠢太郎も恨み言を心に燃やしつつ、反発したり拗ねたりしないで受け入れる。もとよりの美しさと、天性の才能から出てくる芸の見事さがそこに加わって、蠢太郎は役者として高い評判を得て、完全に自由とは言えないまでも、暗い日々を脱して自分自身の居場所というものを作っていく。
ひとりの女形の凄絶な生き方と読んで、存分に楽しめる漫画であることは確か。身は女性の格好をしながらも、中身は男として出会う女性に懸想し、体も奪い求めることもある。それでいて、やはり女形であり芸人である心が、厳しい場所であっても舞台へと身を赴かせ、誰が相手でも演技を見せ、そしてその心情を引きずったまま、仇ともいえる男のために身を投げ出して腕を奪われる。ただただ凄まじい。
一方で、明治という世ができて進んでいった裏側を、想像する楽しみもある。あの存在は本当に実在していたのか。その過程で起こったことはどうだったのか。伊藤博文に貞奴といった歴史上の人物たちの言動も、歴史に照らしてどこまであり得るのかを探る楽しみがある。
とにかく驚きの歴史を記した時代漫画。そして感動と感涙をもたらす芸能漫画。たとえそうとしか生きられなくても、そこでどれだけ目一杯に生きるのかを見せてくれる物語に、可能性の大きく開かれ世を、投げて諦め縮こまって生きている身を省みよ
もしもそれが史実だったら。「六三四の剣」に「龍−RON−」に「JIN−仁−」と、傑作漫画を次々に発表している村上もとかの最新刊「蠢太郎 JUNTARO」(小学館、552円)を読んだとき、誰もが驚きの声をあげるだろう。身に恐ろしさが混じった震撼をもたらす事柄が、そこに描かれているからだ。
山野を彷徨う娘と母。そう見えて実は息子と父親という女形の歌舞伎役者の旅程から始まる漫画は、かつて江戸歌舞伎で人気女形だった中村鶴吉という父親と、まだ春と名乗っていた息子の芸の良さ、器量の良さで当座の旅費は得ていたものの、何かに追われる身らしく一所には落ち着けず、隠れるように渡り歩いていた。
ある夜は、雪の中で女人禁制の寺に男子だからと言って入り、父親は僧侶に身を捧げ、息子のためにと寝床と食事を得て一夜の宿を得た。そこに飛び込んできた官憲たちから、親子はかろうじて逃げ京都の町へと入る。どうして一介の女形が官憲にしつこく追われるのか。その理由が後に明かされ、震撼への土台となる。
時に世は明治維新直後で、天皇が京都御所から江戸城の御所へと移り、京都の街はどこか沈んだ空気の中にいた。本当なら追い返されかねないところを、芸の実力もあって鶴吉は、芝居小屋の片隅に仕事を得る。やがて江戸歌舞伎でならした芸を認められ、舞台に立つようにもなっていく。
息子の方は、春から蠢太郎へと名を替えて、歌舞伎や舞の修行を始める。その見目の美しさをからわかれ、虐められもするけれど、根っからの気性の強さで逆襲し、やがて仲間たちに認められていく。
芸の腕も上がって舞台に上がるようになり、そのころには鶴吉への追っ手も京都の町を仕切るヤクザの大立て者の庇護があって、鶴吉や蠢太郎に近寄ってくることはなかった。加えてもうひとりの存在が、鶴吉と蠢太郎の立場を京都ではとてつもなく強固なものにしていた。
その存在が果たして歴史の上に実在したのか。それとも村上もとかの想像なのか。監修にあたった志波秀宇の強い思いが繁栄されたものなのか。その存在がそこにいる以前に行われたらしい陰惨な出来事もあわせて記されていて、これが想像だとしてもあまりにも凄まじく、そして蔑ろにはできない興味を歴史へとかりたてる。
何しろ筆者は数々の漫画賞を受賞し、今や日本を代表する漫画家の一人となった村上もとかだ。たとえ監修者の思いを受けたものだったとしても、実際に漫画として描いた漫画家に、さまざまな声が及ばないということはない。その覚悟を持って描いた以上、描かれたことになにがしかの意味が、あるいは意義があるのだろう。
ただし、歴史の裏に隠されていそうな事柄であっても、そこに登場してくる“役者”たちに、卑怯者は誰もいないところが、さすがは国家百年を考え、維新という大事業に挑み、あるいは妨げようとした者たちだけのことはある。京都で蠢太郎という名を得た息子が見た存在も、そして連れられて江戸で出合った敵方の筆頭も、その上に君臨する存在も、すべてがこの国のために心を砕き、時には鬼ともなってことに挑んだ。
そうした激動の歴史の狭間に囚われ、運命を翻弄される形となった蠢太郎には悲惨なことではあるものの、そんな蠢太郎も恨み言を心に燃やしつつ、反発したり拗ねたりしないで受け入れる。もとよりの美しさと、天性の才能から出てくる芸の見事さがそこに加わって、蠢太郎は役者として高い評判を得て、完全に自由とは言えないまでも、暗い日々を脱して自分自身の居場所というものを作っていく。
ひとりの女形の凄絶な生き方と読んで、存分に楽しめる漫画であることは確か。身は女性の格好をしながらも、中身は男として出会う女性に懸想し、体も奪い求めることもある。それでいて、やはり女形であり芸人である心が、厳しい場所であっても舞台へと身を赴かせ、誰が相手でも演技を見せ、そしてその心情を引きずったまま、仇ともいえる男のために身を投げ出して腕を奪われる。ただただ凄まじい。
一方で、明治という世ができて進んでいった裏側を、想像する楽しみもある。あの存在は本当に実在していたのか。その過程で起こったことはどうだったのか。伊藤博文に貞奴といった歴史上の人物たちの言動も、歴史に照らしてどこまであり得るのかを探る楽しみがある。
とにかく驚きの歴史を記した時代漫画。そして感動と感涙をもたらす芸能漫画。たとえそうとしか生きられなくても、そこでどれだけ目一杯に生きるのかを見せてくれる物語に、可能性の大きく開かれ世を、投げて諦め縮こまって生きている身を省みよ
2011年10月06日
『私のおわり』(泉和良、星海社、1080円)
テレビアニメーション「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の秘密基地の面々は、幼い頃に仲間が1人消えてその思い出を、さまざまな形で引きずって、高校生になった。近しい存在が消えてしまって、その責任の一端をそれぞれが引きずってしまって起こる心のもやもやと、それが生みだした人間関係のごたごた。苦々しいシチュエーションの中に、当の逝ってしまった存在が、ひょっこりと舞い戻ってきた時に起こる、残されていた者たちの心の激動が、アニメの中に描かれた。
表向きには、死んでしまった者が未練をはらって再び旅立つ話だったかもしれない。けれどもその奥には、生きている者たちが、過去を埋めて本当の今を甦らせて、これからの長い長い生を歩んでいけるようにする話でもあった。ひとりの死を改めて強く認識させることで、周囲が生を自覚するストーリー。そのことを通して、見る人に生きている今を感じさせた。
そんなアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に対して、泉和良が書いた「私のおわり」(星海社FICTIONS、1080円)という小説は、死を自覚した少女の姿から見る人たちが、生きている今を強く感じ取る物語、ということになるのだろうか。
気が付くとそこは船の上。あなたは交通事故で死んだんだと、死神の船長がおネエ言葉で教え脅して身の回りの物をすべて奪う。憤り哀しくなった少女は船から海へ飛び込む。気が付くとそこは、よく通っていた天霧君という男子の部屋。ネットゲームを作って公開している彼が暮らしていて、その周辺に彼からは見えない幽霊となって少女は、大好きだった天霧君の日常を見守る。
そこに現れた少女は、彼女ではない別の子で、やっぱり天霧君が好きらしく、いろいろと抜け駆けをしていたことが判明した。やがて少女自身もまだ生前の姿で現れたものの、もう1人の少女が隠れて天霧君にあって料理をしたりしていることは知らずにいた。
知ったのは、何日か後に死んで幽霊となった方。そして、彼女は幽霊ながらも少しだけ現世のものに触れる力を使ってメッセージを書き、過去の生前の自分自身を動かして言えなかった思いを言わせようとして、そして考える。それで彼女は幸せなのか。そして天霧君は嬉しいのか。
BR> 言えなかったことを言えたことは良い。でも、それによって天霧君に負担がのしかかる。遠からず死ぬ女性から好きだと言われた負担はいったい、天霧君にとってどれくらいのものなのか。自分の我が儘に他人を巻きこむ振る舞いの是非が問われる。
言わないよりは言った方が良いこともある。それですっきりとまとまったとも言える。けれども、言わずなかった場合でも結果はたいして変わらない。ならば言うべきか。言わざるべきか。ずっと生きていられるのなら、迷わず進めと言えるけれども、死ぬと分かってから遡れって見た場合、やっぱり迷いが生まれる。だからやるしかない。生きているうちに突っ走ることだけが死んで後悔とならないための最大の方策。そう教えられる物語だと言えそうだ。
少女の死を必然としなくてはいけないストーリーには、ひとりの少女の死を媒介に、大勢が生を認識した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」と同様に、どこか忸怩たる思いが浮かぶ。優しくて子供だった彼女にゴムボートを買ってあげた父親が、早くに娘を失ってしまった哀しみを思うと、少しばかり胸が苦しくなる。とはいえこれはフィクション。そこに感情を入れ込むより、そこからメッセージをくみ取って、今、こうして生きている生をどう生きていくのかを、考える方が適切だ。
生きよう。精いっぱいに。
表向きには、死んでしまった者が未練をはらって再び旅立つ話だったかもしれない。けれどもその奥には、生きている者たちが、過去を埋めて本当の今を甦らせて、これからの長い長い生を歩んでいけるようにする話でもあった。ひとりの死を改めて強く認識させることで、周囲が生を自覚するストーリー。そのことを通して、見る人に生きている今を感じさせた。
そんなアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に対して、泉和良が書いた「私のおわり」(星海社FICTIONS、1080円)という小説は、死を自覚した少女の姿から見る人たちが、生きている今を強く感じ取る物語、ということになるのだろうか。
気が付くとそこは船の上。あなたは交通事故で死んだんだと、死神の船長がおネエ言葉で教え脅して身の回りの物をすべて奪う。憤り哀しくなった少女は船から海へ飛び込む。気が付くとそこは、よく通っていた天霧君という男子の部屋。ネットゲームを作って公開している彼が暮らしていて、その周辺に彼からは見えない幽霊となって少女は、大好きだった天霧君の日常を見守る。
そこに現れた少女は、彼女ではない別の子で、やっぱり天霧君が好きらしく、いろいろと抜け駆けをしていたことが判明した。やがて少女自身もまだ生前の姿で現れたものの、もう1人の少女が隠れて天霧君にあって料理をしたりしていることは知らずにいた。
知ったのは、何日か後に死んで幽霊となった方。そして、彼女は幽霊ながらも少しだけ現世のものに触れる力を使ってメッセージを書き、過去の生前の自分自身を動かして言えなかった思いを言わせようとして、そして考える。それで彼女は幸せなのか。そして天霧君は嬉しいのか。
BR> 言えなかったことを言えたことは良い。でも、それによって天霧君に負担がのしかかる。遠からず死ぬ女性から好きだと言われた負担はいったい、天霧君にとってどれくらいのものなのか。自分の我が儘に他人を巻きこむ振る舞いの是非が問われる。
言わないよりは言った方が良いこともある。それですっきりとまとまったとも言える。けれども、言わずなかった場合でも結果はたいして変わらない。ならば言うべきか。言わざるべきか。ずっと生きていられるのなら、迷わず進めと言えるけれども、死ぬと分かってから遡れって見た場合、やっぱり迷いが生まれる。だからやるしかない。生きているうちに突っ走ることだけが死んで後悔とならないための最大の方策。そう教えられる物語だと言えそうだ。
少女の死を必然としなくてはいけないストーリーには、ひとりの少女の死を媒介に、大勢が生を認識した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」と同様に、どこか忸怩たる思いが浮かぶ。優しくて子供だった彼女にゴムボートを買ってあげた父親が、早くに娘を失ってしまった哀しみを思うと、少しばかり胸が苦しくなる。とはいえこれはフィクション。そこに感情を入れ込むより、そこからメッセージをくみ取って、今、こうして生きている生をどう生きていくのかを、考える方が適切だ。
生きよう。精いっぱいに。
2011年10月05日
『草子ブックガイド 1』(玉川重機、講談社、695円)
本について語るとき、僕たちが語ることは本に書いてある物語なり、情報だったりするものから、分かったり感じたりしたことが多い。時には本の形とか色とか重さについて語ることもあるけれど、それは本の中身からあまり何かを得られなかった場合。だいだいはそうやって得たもろもろを、知ってもらって良さを分かち合いたいからと、その本について語る。
どうやって語るかは人によって千差万別で、まっすぐにあらすじを話して面白そうだと思ってもらう場合もあれば、出てくるキャラクターの独特さを強調して、そんな面白い奴が出ているならと、手に取らせる場合もある。後者は人気アイドルが出ている映画だから見ておこうよといった誘い方にちょっと近い? でも箸にも棒にもかからない役者ではなくて、しっかり完璧に“演技”している役者を紹介している訳だからやっぱり違うか。
書き手のプロフィルに迫って、その経歴からどうやってこの本が生み出されたのかを紹介する場合もある。ひろく世間に流布される似たような本と並べて、だから今こういう本が出たんだと語る場合もやっぱりある。よく分からないけれども脱構築、という方法で語ることがずいぶんと前に流行ったっけ。そのやり方はわからないけれども、そういう方法が持てはやされたということは、読み手だけでなく、聞き手にとっても良い本についての語り方だったんだろう。たぶん。
でも聞く方としては、やっぱりそれがどんなことが書かれてある本で、どんなキャラクターが出ていて、そしてどれだけ面白いのかを真っ直ぐに語ってくれた方が、きっとその本に興味を持てる。それは、玉川重機という漫画家による「草子ブックガイド1」(講談社、695円)に出てくる、草子という少女が目の前にある本について語る時の語り方。それを聞いていると不思議と、読んだことがある本でもまた読みたくなるし、そうでない本も手にとって読んでみたくなる。
青永遠屋という名の古書店にやってくる少女は、いつも店主に黙って本をカバンにいれて持って帰ってしまう。いってしまえば万引だけれど、その後で少女は読み終わった本を返しに来る。おまけにその本に感想文をしたためて挟んであって、店主はそんな彼女の文章のファンになってしまい、次にどんな本を読んで、そしてどんな感想文を書いて、それを戻してくれるのかを楽しみにしてた。そして今、少女が読んでいるのがデュフォーの「ロビンソン漂流記」。店主はいったいどんな言葉がつづられるのかが気になっていた。
本当はいけないことと知りながら、本を持って帰ってしまうくらい、どうして少女は本が好きになったのか。草子という名の少女の父親は、画家を目指していたものの売れず、その日暮らしで借金漬けの酒浸り。そんな夫に愛想を尽かして草子の母親はずいぶんと前に家を出て、パトロンを得て版画家として成功していた。家は荒れ、学校にもあまり友達のいない草子にとって、1番のともだちだったのが図書館にいっぱいあった本。それを読めばどんな世界にも、どんな時代にも連れて行ってくれて、どんな人にも会わせてくれるからと、楽しみにして読んでいた。
古本屋から本を持ち帰って読むようになっていたのもその延長。幾つかはまだ返さないまま、母親が残していった本といっしょに自分の部屋の本棚にいれてあった。ところがある日、金に困った父親がその本を見つけて古本屋に売り払ってしまった。悲しむ草子。そして売り先が、自分のよく行っていた青永遠屋だと知って、無理を承知で売られた本から母親が残したものだけは取り戻したいと訪ねていった。
憤る青永遠屋で助手をしている青年を横に、店主は草子が書いてくる感想文が気にいって、もっと読みたいと草子に告げた。待っていた「ロビンソン漂流記」についての感想文も、草子がロビンソンになったらどんな暮らしをするのかを書きながら、島でひとり生きるロビンソンが考えたこと、そして自分が何をしたいのかが分かったことがつづってあった、とても独特のものだった。本が好き。それが改めて分かって店主は、草子を咎める替わりに、感想文を書いてくれることを条件に出して、いっしょに本を楽しんでくれる仲間として草子を受け入れる。
そこから始まる草子の本のナビゲート。図書館の活用に困っていた司書教諭が、本好きの草子の存在を知って、彼女に本を紹介してもらう受業を試みとして実施しようとする。そこで草子は、プレッシャーを感じながらも乗り越えて、トルーマン・カポーティの「ダイヤのギター」という短編を紹介する。刑務所に入った2人の男の姿を通して、自由について考えさせられる物語を、最後までは語らずその途中までの経過を語って、キャラクターの存在感を知らしめ、中身に興味を持たせて教諭の試みを成功させる。
版画家として個展を開いた母親との再会という場面では、父と母がまだ仲の良かった時代に読んでいた、中島敦の「山月記」を紹介して、誰にでもある内なるケモノの存在を示して母親を諌め、父親を諭してみせる。何という早熟。そして深淵なる読み。そこに書かれたことを自分の体験と重ね多くの体験になぞらえて、その身に染みさせる。
こういう読み方をたぶん、昔は誰もがしていたのに、ついつい今は横とか後ろとか斜めから見て、自分という存在を大勢の中に位置づけるために、本を利用するような読み方をしてしまう。そんな時代に、改めて本との向き合い方を考えさせらてくれる物語。版画のように細かく描き込まれた漫画は、それでも優しげで前衛性によって目を遠ざけるようなことにはならず、むしろ柔らかいタッチで物語の世界へと引っ張っていってくれる。
だんだんと自分の居場所を見つけていく草子の表情が、どんどんと明るくなっていく姿を見ると、本を読むことの大切さと、それ以上に多くの人たちの中に入っていく大切さというものを感じさせられる。古書店の助手の助手として田舎にある民家へ本を受け取りに行く話では、草子が媒介となって、売り主の女性が夫に対していだいていたわだかまりを解きほぐす。
すっかり明るくなっても、そして大勢の仲間を得ても本は読み続けるのか、という心配おあるけどいったん、本にのめり込んだ人はそこから離れられないもの。きっとこれからもいっぱいの本を読んで、そしてためになる感想文を書いてくれるだろう。それを読んで本を読み、それを語って本を読ませることが出来たら、僕はとても幸せなのだけれど。
どうやって語るかは人によって千差万別で、まっすぐにあらすじを話して面白そうだと思ってもらう場合もあれば、出てくるキャラクターの独特さを強調して、そんな面白い奴が出ているならと、手に取らせる場合もある。後者は人気アイドルが出ている映画だから見ておこうよといった誘い方にちょっと近い? でも箸にも棒にもかからない役者ではなくて、しっかり完璧に“演技”している役者を紹介している訳だからやっぱり違うか。
書き手のプロフィルに迫って、その経歴からどうやってこの本が生み出されたのかを紹介する場合もある。ひろく世間に流布される似たような本と並べて、だから今こういう本が出たんだと語る場合もやっぱりある。よく分からないけれども脱構築、という方法で語ることがずいぶんと前に流行ったっけ。そのやり方はわからないけれども、そういう方法が持てはやされたということは、読み手だけでなく、聞き手にとっても良い本についての語り方だったんだろう。たぶん。
でも聞く方としては、やっぱりそれがどんなことが書かれてある本で、どんなキャラクターが出ていて、そしてどれだけ面白いのかを真っ直ぐに語ってくれた方が、きっとその本に興味を持てる。それは、玉川重機という漫画家による「草子ブックガイド1」(講談社、695円)に出てくる、草子という少女が目の前にある本について語る時の語り方。それを聞いていると不思議と、読んだことがある本でもまた読みたくなるし、そうでない本も手にとって読んでみたくなる。
青永遠屋という名の古書店にやってくる少女は、いつも店主に黙って本をカバンにいれて持って帰ってしまう。いってしまえば万引だけれど、その後で少女は読み終わった本を返しに来る。おまけにその本に感想文をしたためて挟んであって、店主はそんな彼女の文章のファンになってしまい、次にどんな本を読んで、そしてどんな感想文を書いて、それを戻してくれるのかを楽しみにしてた。そして今、少女が読んでいるのがデュフォーの「ロビンソン漂流記」。店主はいったいどんな言葉がつづられるのかが気になっていた。
本当はいけないことと知りながら、本を持って帰ってしまうくらい、どうして少女は本が好きになったのか。草子という名の少女の父親は、画家を目指していたものの売れず、その日暮らしで借金漬けの酒浸り。そんな夫に愛想を尽かして草子の母親はずいぶんと前に家を出て、パトロンを得て版画家として成功していた。家は荒れ、学校にもあまり友達のいない草子にとって、1番のともだちだったのが図書館にいっぱいあった本。それを読めばどんな世界にも、どんな時代にも連れて行ってくれて、どんな人にも会わせてくれるからと、楽しみにして読んでいた。
古本屋から本を持ち帰って読むようになっていたのもその延長。幾つかはまだ返さないまま、母親が残していった本といっしょに自分の部屋の本棚にいれてあった。ところがある日、金に困った父親がその本を見つけて古本屋に売り払ってしまった。悲しむ草子。そして売り先が、自分のよく行っていた青永遠屋だと知って、無理を承知で売られた本から母親が残したものだけは取り戻したいと訪ねていった。
憤る青永遠屋で助手をしている青年を横に、店主は草子が書いてくる感想文が気にいって、もっと読みたいと草子に告げた。待っていた「ロビンソン漂流記」についての感想文も、草子がロビンソンになったらどんな暮らしをするのかを書きながら、島でひとり生きるロビンソンが考えたこと、そして自分が何をしたいのかが分かったことがつづってあった、とても独特のものだった。本が好き。それが改めて分かって店主は、草子を咎める替わりに、感想文を書いてくれることを条件に出して、いっしょに本を楽しんでくれる仲間として草子を受け入れる。
そこから始まる草子の本のナビゲート。図書館の活用に困っていた司書教諭が、本好きの草子の存在を知って、彼女に本を紹介してもらう受業を試みとして実施しようとする。そこで草子は、プレッシャーを感じながらも乗り越えて、トルーマン・カポーティの「ダイヤのギター」という短編を紹介する。刑務所に入った2人の男の姿を通して、自由について考えさせられる物語を、最後までは語らずその途中までの経過を語って、キャラクターの存在感を知らしめ、中身に興味を持たせて教諭の試みを成功させる。
版画家として個展を開いた母親との再会という場面では、父と母がまだ仲の良かった時代に読んでいた、中島敦の「山月記」を紹介して、誰にでもある内なるケモノの存在を示して母親を諌め、父親を諭してみせる。何という早熟。そして深淵なる読み。そこに書かれたことを自分の体験と重ね多くの体験になぞらえて、その身に染みさせる。
こういう読み方をたぶん、昔は誰もがしていたのに、ついつい今は横とか後ろとか斜めから見て、自分という存在を大勢の中に位置づけるために、本を利用するような読み方をしてしまう。そんな時代に、改めて本との向き合い方を考えさせらてくれる物語。版画のように細かく描き込まれた漫画は、それでも優しげで前衛性によって目を遠ざけるようなことにはならず、むしろ柔らかいタッチで物語の世界へと引っ張っていってくれる。
だんだんと自分の居場所を見つけていく草子の表情が、どんどんと明るくなっていく姿を見ると、本を読むことの大切さと、それ以上に多くの人たちの中に入っていく大切さというものを感じさせられる。古書店の助手の助手として田舎にある民家へ本を受け取りに行く話では、草子が媒介となって、売り主の女性が夫に対していだいていたわだかまりを解きほぐす。
すっかり明るくなっても、そして大勢の仲間を得ても本は読み続けるのか、という心配おあるけどいったん、本にのめり込んだ人はそこから離れられないもの。きっとこれからもいっぱいの本を読んで、そしてためになる感想文を書いてくれるだろう。それを読んで本を読み、それを語って本を読ませることが出来たら、僕はとても幸せなのだけれど。
『ブッシメン 1』(小野洋一郎、講談社、543円)
仏像とは。寺院に昔からあって衆生から崇め奉られている物が仏像であるとは分かる。では新しく作られる、未だ誰からも拝んでもらっていない仏像は、果たしてどこから仏像と呼ばれる存在になるのか。寺に収められてからか。開眼を受けてからか。はっきりしたことは分からない。
美術館や博物館で流行の、仏像を並べる展覧会でよく販売されている、仏像の模型は果たして仏像なのか違うのか。古くから崇め奉られているものを、そのままの色形で模したものなら、大きさこそ違え仏像と言えるのではないか。それともやはり違うのか。これもはっきりしたことはよく分からない。
いまや仏像がインテリアになってしまっている時代。MORITAという会社が作る「イSム」というブランドには、興福寺の阿修羅像やら中宮寺の弥勒菩薩やら広隆寺の弥勒菩薩やら浄瑠璃寺の吉祥天やらの模型が、今の歳を経て風格を出した姿だけでなく、作られた当時の色彩で再現されたものも含めて、ラインアップされている。
ポリストーン製だから、フィギュアメーカーの海洋堂が仏像の展覧会で販売しているものに雰囲気は近い。ただし、サイズが30センチから40センチ近くあって、重厚な上に値段も5万円10万円となかなかなもの。その大きさならば、もはや仏像として信心の対象となるのではないか。それともどこかが違うのか。これにも明確な答えは出ない。
仏像とは何なのか。それを作る仏師という存在を主人公に描いた漫画が、小野洋一郎による「ブッシメン!」(講談社、543円)だ。父親が名だたる仏師だった奈良崎玄蔵は、まだ子供だった頃に、父親が工房の家事で死んでしまう。玄蔵は親の後を継いで仏師を目指そうと修行にはげむ。やがて21歳になった玄蔵は、親譲りの腕前でなかなかの評判を取るようになっていた。
そんな玄蔵にも、まだ分からないことがあった。火事の時に、焼け死んだ父親が手に握って話さなかった、何か仏像の腕らしいものの本体が、いったいどんな仏像だったのかが未だに分からなかった。儀軌という、仏像にとっての決まり事を決して外さず頑なに守っていた父が作った腕なら、きっと実在する本体の仏像があるはず。そう信じて探していたものの、未だ正体をつかめずにいた、そんなある日。
幼なじみのサクラという少女がたずねてきて、迷う玄蔵を気分転換にと連れて行った先があのワンダーフェスティバル。いうまでもなくガレージキットの祭典で、仏像とは対極にありそうな美少女のフィギュアが勢ぞろいした会場を見渡し、原型師たちが示す仏師とはまた違った造形への情熱に感心していた玄蔵の目に、ふと父親が残した腕に近いものが入ってきた。
何だそれはと探し求め近寄って仰天。そして唖然。半ば落胆をしたものの、そこから玄蔵は、仏師とはまた違ったガレージキットの原型師という仕事があることを知り、フィギュアメーカーで企画を担当する女性と知り合い、依頼を受けて仏教をテーマにしたアニメのフィギュアの原型作りに取り組むことになっていく。
儀軌という仏像のきまりごとを重んじる、仏師の観念を一方に持ちつつ、そうしたものよりも見た目の凄さ、そしてそれがユーザーの気持ちをどれだけ動かすかを重用視するフィギュアの世界にも足を踏み入れ、どちらに行くべきかを迷い悩む主人公。けれども、自分が長く愛し探し求めた遺品の腕が作られた経緯を思い出し、またフィギュアであっても仏像であっても、それを求める人がいったい何を望んでいるのかを想像することで、少年はフィギュアの原型作りに、ひとつの芯を見出していく。
形も大事。けれども心はもっと大事なその世界で、現実にいったいどれだけのフィギュアがユーザーの心を揺り動かしてくれるのか。似ているけれども「コレジャナイ」と言いたいものも多々ある世界。そうならないための道をめざす者は知るために、そしてそうなってしまったのは何故かを求める者は、感じるために「ブッシメン!」を読んで損はない。
講談社の漫画誌「イブニング」での連載では、玄蔵はそれなりの腕は持ちながらも、自堕落な生活を送る叔父の玄蔵のところで修行をやり直し始め、女性が感心を示しそうな阿修羅像を作り、そしてブログで人気の美少女仏師との対決も行っては、自分自身に作れるものを見つけていく。当初のガレージキットとの関わりが、いささか後退気味ではあるものの、いずれ同じ道を究めようとする者たちの世界。美少女仏師のそちらへの参入といった可能性も信じつつ、あらゆる世界で繰り広げられる匠たちの探求のドラマを楽しんでいこう。
2011年10月04日
『中二病でも恋がしたい!』(虎虎、京都アニメーション、648円)
虎虎の「中二病でも恋がしたい!」(京アニエスマ文庫)は、タイトルどおりに中二病の少年少女だって恋がしたいと願う物語。もっとも、恋なんて一般的な営みからは無縁と思われているか、あるいは無縁と思いたがっている節があって、中二病の人間にはなかなか恋は成就しない。下手すると永遠に成就しないから、なるほど恐ろしい病気だと改めて言いたい。そして訴えたい。中二病にかかるな。直すなら早く。
もっとも、そうばかりとも言い切れないと、「中二病でも恋がしたい!」を読むと、ふっと思えてくるから楽しいというか、逆に危険というか。中学時代に邪気眼がと言って暴れていながら中三で悟り、一所懸命に勉強して進学した富樫勇太というが、入ったクラスには未だ前に眼帯をして寡黙な少女が、中二病設定丸出しで進んで来ていて、なぜか勇太に強い関心を抱いて、契約を結びたいと言い出した。
放っておけないといった感情があり、また学校で密かに中二病的過去をちょろりと出してしまったところを見つかっていた勇太は、小遊鳥六花という名の少女に、不出来な数学を教える役目を買って出る。
眼帯の下の眼が金色だったりするほか、言葉の端々に中二病的設定を口走る六花を相手に勇太は辟易としながら、それでも面倒を見ていたうちに、ほのかに芽ばえていく恋心。けれども、彼女の中二病をクラスに知られたらいったいどうなるのか、といった葛藤もありつつ進む恋路のその奧に、六花が今も中二病に頼っているのはどうしてなのか、といった理由がほのめかされ、多感な年頃の少女を苛む孤独感が示され、生きづらい世界を生きる大変さ、その逃げ道としての空想世界といったシチュエーションが見えてくる。
今時のライトノベルだったら、そこで学校におけるヒエラルキー物へと滑り、いじめの問題へと行って苦みと痛みを味わわせそうな中二病話。あるいは田中ロミオの「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い」(ガガガ文庫)のように、そうした状況を開き直って広く明かして、居場所を自ら切りひらくような熱い展開へと向かっていくものだろう。
けれども、この「中二病でも恋がしたい!」は、年頃ならではの自分の心情、家族との関係をほのめかす物語にし、そんな世代に普遍の物語にクラスの皆も決して誹らず、少しばかりの共感も示していたりする、暖かみを残したストーリーが繰り広げられる。中二病でもいいじゃないか。中二病でも恋が出来るじゃないか。そんな感情が浮かんでくる。
過去につづった中二病設定満載のノートを披露されるシーンとか、読んで身悶えもするけれど、それでも中二病であることに、微笑ましさを感じてしまうストーリー。「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくるキョンの妹並に、兄の勇太を慕う妹は健気で素直で可愛いし、勇太と六花の間にちょっかいをだしてくる学級王の少女も、ドSだけれど陰湿ではなく高飛車でもなく、むしろ少しばかりの元中二病で気っ風も良い。不安を虚飾に変えて行きにくい世を生きようとあがく六花も含め、キャラクターに恵まれ展開も楽しくメッセージ性もある。
何より面白い小説と言えるこの「中二病だって恋がしたい!」。店頭ではあまり売っていないレーベルで、探すか取り寄せる必要があるけれど、そういう手間をしてでも読んで悪くはない。あれだけ数学が出来ないで、よくこの高校に進学できたものだと、六花のことを思うのは果たしてありかなしか。きっとその時は邪王真眼もきっと賢く発動していたのだと考えよう。
もっとも、そうばかりとも言い切れないと、「中二病でも恋がしたい!」を読むと、ふっと思えてくるから楽しいというか、逆に危険というか。中学時代に邪気眼がと言って暴れていながら中三で悟り、一所懸命に勉強して進学した富樫勇太というが、入ったクラスには未だ前に眼帯をして寡黙な少女が、中二病設定丸出しで進んで来ていて、なぜか勇太に強い関心を抱いて、契約を結びたいと言い出した。
放っておけないといった感情があり、また学校で密かに中二病的過去をちょろりと出してしまったところを見つかっていた勇太は、小遊鳥六花という名の少女に、不出来な数学を教える役目を買って出る。
眼帯の下の眼が金色だったりするほか、言葉の端々に中二病的設定を口走る六花を相手に勇太は辟易としながら、それでも面倒を見ていたうちに、ほのかに芽ばえていく恋心。けれども、彼女の中二病をクラスに知られたらいったいどうなるのか、といった葛藤もありつつ進む恋路のその奧に、六花が今も中二病に頼っているのはどうしてなのか、といった理由がほのめかされ、多感な年頃の少女を苛む孤独感が示され、生きづらい世界を生きる大変さ、その逃げ道としての空想世界といったシチュエーションが見えてくる。
今時のライトノベルだったら、そこで学校におけるヒエラルキー物へと滑り、いじめの問題へと行って苦みと痛みを味わわせそうな中二病話。あるいは田中ロミオの「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い」(ガガガ文庫)のように、そうした状況を開き直って広く明かして、居場所を自ら切りひらくような熱い展開へと向かっていくものだろう。
けれども、この「中二病でも恋がしたい!」は、年頃ならではの自分の心情、家族との関係をほのめかす物語にし、そんな世代に普遍の物語にクラスの皆も決して誹らず、少しばかりの共感も示していたりする、暖かみを残したストーリーが繰り広げられる。中二病でもいいじゃないか。中二病でも恋が出来るじゃないか。そんな感情が浮かんでくる。
過去につづった中二病設定満載のノートを披露されるシーンとか、読んで身悶えもするけれど、それでも中二病であることに、微笑ましさを感じてしまうストーリー。「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくるキョンの妹並に、兄の勇太を慕う妹は健気で素直で可愛いし、勇太と六花の間にちょっかいをだしてくる学級王の少女も、ドSだけれど陰湿ではなく高飛車でもなく、むしろ少しばかりの元中二病で気っ風も良い。不安を虚飾に変えて行きにくい世を生きようとあがく六花も含め、キャラクターに恵まれ展開も楽しくメッセージ性もある。
何より面白い小説と言えるこの「中二病だって恋がしたい!」。店頭ではあまり売っていないレーベルで、探すか取り寄せる必要があるけれど、そういう手間をしてでも読んで悪くはない。あれだけ数学が出来ないで、よくこの高校に進学できたものだと、六花のことを思うのは果たしてありかなしか。きっとその時は邪王真眼もきっと賢く発動していたのだと考えよう。
『展翅少女人形館』(瑞智士記、早川書房、760円)
人間が人形になる話といえば、テレビドラマの「悪魔くん」でマネキンの怪物が吐いた息で人間をマネキンにしてしまうシーンがなぜか、記憶に強烈に残っていたりするけれど、流石に古すぎるので、新しいものから探すなら、1990年代に一世を風靡したテクノゴシックなSFで、リチャード・コールダーによる「デッド・ガールズ」「デッド・ボーイズ」「アルーア」のシリーズに出てきた、ナノマシンによって少女が機械になっていくって作品がは頭に浮かぶ。やっぱり古いか。
人間にそっくりで、けれども人間とは決定的に違う、人形という存在が持つ不可思議さ、深遠さ。永遠に刻まれるその姿態に憧れ、なってみたいと思わせる一方で永遠に閉じこめられる恐怖をさそい、そうはなりたくないと思わせる。相矛盾する不思議な感情を抱かせる存在だからこそ、人形はスリラーのテーマになり、SFの主題になってその不可思議さをアピールする。
瑞智士記によるライトノベルではないストレートなSF小説「展翅少女人形館」(ハヤカワ文庫JA、760円)もまた、人間と人形との境界に揺れる心を、退廃と衰滅の空気が色濃く漂う世界を舞台に描いては、人間と人形のそれぞれが持つ確かさを危うさについて考えさせる。
中世のピレネーの山中で医師として慕われ、人形師としても讃えられた少女が魔女のような存在と咎められ、拷問の果てに命を失う。そして、現代に話を移して何十年か前から世界では、人間の代わりに球体関節人形が生まれてくる現象が発生して、人間はほとんど生まれなくなっていた。
滅亡の危機に瀕した人類は、「機関」なる組織を作り、ここが中心となって人間のままの子供が産まれたら、いち早く見つけだして引き取って、隔離してピレネーの修道院で育てることになっていた。今、そんな修道院には、かつて双子で生まれながらも姉は人形だった泣き虫少女のマリオンと、娼婦の母親から生まれ、なぜか人形だけを愛していた母親に捨てられるように預けられたミラーナ、そして、職人の娘として生まれ、人形作りの腕を持ったフローリカたちが、人間として生まれた奇跡的な存在として囲われていた。
ミラーナは、修道院でバレエの名バレリーナから教わる形でバレエの技術を高めていたけれど、誰に見せるわけでもないその技を見たのが、人形作りに勤しむフローリカ。キッと踊りを見据えたその思いはミラーナにに共感して、空想の五寸釘となってミラーナを精神的に貫く現象を起こしてしまう。
一方で、フローリカはマリオンの双子の片割れの人形をこよなく慈しんで、はりつけにしたりバラバラにしようと企んでいて、マリオンから敬遠されていた。そんな楽しげで危なげな少女たちの関係が、日常のように続いていたある日。修道院にもう1にの少女がやってくる。貴族の娘とされる彼女は、人間ではあったが見た目は人形そっくりだった。
それで、どうして生きているかというと、一部の器官だけが人間としての生身を残していて、思考し、会話し、栄養を摂取することができたからだった。まるで動けない状態にいながらも、極端に鋭く頭が良く、権力も持っていた彼女は、修道院に来てすぐに生まれながらの尊大さで振る舞い、既にいた少女たちの間に波風を起こす。
やがてそうした彼女の行動が、修道院の少女たちの運命を大きく揺るがしていく。なおかつ人形と人間の入り混じった少女の存在にも迫って、人間であることと人形であること、そのどちらを人は、少女は選ぶべきなのかを感じさせる。
なぜ、人間が人形になるのかという理由を、ナノマシンのような科学的技術的ガジェットでは説明していない部分に、SFとしての確かさを与えて良いのかと考える人もいそうな作品。もっとも、そういう運命に人類が追い込まれたと仮定して、起こる環境の変化、思考の変化を浮かび上がらせ、人間にとって人形とは、人にそっくりでありながら人とは決定的に違い、老いたりはせず育ちもしないで、永遠の時を生きるその存在とは何かを考えさせる点で、SFと言えるだろう。
いずれにしても、少女たちの凄まじいばかりの執念が漂うストーリー。読み終えて自分だったらどの道を選ぶか、考えてみるのも良いかもしれない。そして感銘を覚えるなり、興味を抱くなりしたなら、 リチャード・コールダーの一連のシリーズをさらってみるのも悪くない。問題は、もはや書店の店頭で見ることはまずないということだけれど。これを機会に再刊、となればとても嬉しい。
2011年10月03日
『魔王が家賃を払ってくれない』(伊藤ヒロ、小学館、571円)
とりあえず下北沢にあるヴィレッジヴァンガードが、伊藤ヒロの「魔王が家賃を払ってくれない」(ガガガ文庫、571円)を店頭にて平積みで販売したら、そのサブカルチャー的反骨魂というものを、認め褒め称えるにやぶさかではない。
それは表紙のイラストの、上だけジャージの上着を羽織り、下はニーソックスだけ脚に通した姿から当然のぞく、白地に青のストライプのアレに、子供は見てはイケマンセン的条例とか、親御さんのご意見とかがたんまりと寄せられる可能性とかをむこうに、表現はフリーダムだと戦って欲しいという面もある。
けれどもやはりそれ以上に、中身でもって下北沢をいろいろ指摘していたりするそのレジスタンス的スタンスを、それすらも反骨と呵々大笑して認める度量というものを、あのヴィレッジヴァンガードには見せて欲しいということだ。
平積みされた本に飾るポップには、赤いフレームの眼鏡を描くなり、張り付けるなりして、下北沢に集うサブカル女子にオススメと書いて頂ければ重畳。手に取った赤フレームのサブカル女子から発せられ、向かう感情の矛先は小学館と作者がすべて受け止めるから気にするな。うん。
それにしてもこの「魔王が家賃を払ってくれない」。58ページまでで「パンツ」という言葉が99回も出てくるとあって、言語的な方面でも挑戦的。30分弱の本編に「おっぱい」という言葉が、数え切れないくらい出てきたテレビアニメーションもあったりするから、インパクトとしてそれほど飛び抜けているとは言えないけれども、やはり凄い。
そしてその使われ方も、「魔王が家賃を払ってくれない」の場合、無駄に連呼されている訳ではない。ストーリーを紡ぐ上で必然として用いられているということにも、一目置いて襟を正して読まなくてはいけない気分にさせられる。なんちゃって。
嘘なのか? いやホント。それにしてもどうしてそんなに「パンツ」が山と出てくるのか。それは魔王がやって来たものの、どこかやる気が薄いまま技を出し惜しみして勇者にこてんぱんにされてしまい、魔界に帰るに帰れずそのまま居座って、勇者の親戚が経営する古いアパートの一室に転がり込んでは仕事もせず、学校にもいかず日がなゴロゴロとしていたから。
いわゆるニートという奴で、外に出ず誰にも見られなければ当然ながら服など無用。とはいえ寒さもあって上着は着るけれど、下はコタツに突っ込んでいけばいいということで、履かずパンツのみが体に張り付く。それすらも不要か? 「ここではきものをぬぐ」という日本人ならすぐ分かる案内を、別に解釈した魔王の手下によってそうした期待は叶えられはするものの、すぐさま目をふさがれるから見られないからご安心、いやご残念か。
魔王はといえば、当座の生活資金は魔王時代の部下の参謀長やら将軍やら博士やらが働いて仕送りしてはくれているけど、そんなお金を家賃に回さずネットを遊び漫画を読みふけり、ゲームに溺れアニメのDVDをひたすら取り寄せるけれども見ないという、心に突き刺さるような生活スタイルへと注ぎ込んでしまっている。当然家賃が払えなくなっていて、そこで勇者の弟の主人公が回収に向かって丁々発止を繰り広げる。
けれどもやはいr払ってくれない。払ったら負けだと思っているかはともかく、払おうとせず学校にも行こうとしない魔王をどうにかしようと、部下たちがファミレスに集まり作戦会議。魔王に妙なボディビルダーを送りつけられ、困惑した挙げ句にそれを下北沢の雑貨屋に卸したら、なぜかサブカル系の赤フレーム眼鏡の女子が買っていったという博士をはじめ、豊満さで鳴る将軍や、見た目は10才くらいの幼女ながらも実はIQ1300の参謀長が考え出した魔王に悔い改める作戦とは?
そこからは聞くも涙の展開と、テレビ業界の悪辣さが描かれこの作品のアニメーション化への道を閉ざす。あるいは他の作品も。実にチャレンジブル。かくして悔い改めた魔王のその先は。やっぱり人間、そうは易々とは変われないってことで、今日も今日とてクーゲルシュライバーの攻撃をくらい続けるのであった。何だクーゲルシュライバーって?
それも読んでのお楽しみ。まずは手に取り数えたまえ。「パンツ」が結局どれだけ出てきたかを。それによっては来年のギネスワールドレコーズに申請されても不思議じゃない。もちろん添えられる写真は、ルソン島で生産されたから島パンということらしい、ブルーとホワイトのストライプのパンツを被った作者自身だ。履くのは勘弁。
『約束の方舟 上・下』(瀬尾つかさ、早川書房、上下各720円)
逆境に陥り、窮状に直面して、進むも苦難なら退くも煉獄といった、どうしようもない状況におかれた少年少女たちの、それでもあきらめないで道を探り、最善を選ぼうとあがく姿を書いてきた。それが、瀬尾つかさという作家だった。
異世界へと飛ばされたクラスの面々が、一部を人質にとられ、一部が巨大なロボットめいたものに載せられ、戦わされるという、デビュー作の「琥珀の心臓」(富士見ファンタジア文庫)にしてから、皆をではなく誰かを救うことを選ぶその苛烈さ、そしてラストに待ち受ける悲惨な光景が、ライトノベルの新人賞受賞作品にあって、パターンに填らない内容だと思わせてくれた。
続く「クジラのソラ」(富士見ファンタジア文庫)でも、設定こそゲームを通して自国の勝利のためにしのぎを削る、少年少女たちの青春バトルストーリーに見せておいて、参加者たちが背負わされた命運は実は国家の、そして地球そのものの命運であり、待っているのはバーチャルではなくリアルな戦場であって、そこをくぐり抜ければ永遠の離別が待っている、といった激しく苛烈なものだった。
レーベルを変えて刊行された「円環のパラダイム」(一迅社文庫)も、世界が謎のパーティションによって網の目状に分離され、行き来できなくなった代わりに、それぞれの枠内にに穴が開いて異世界とつながり、そこから凶悪な異世界生物が入ってきて、大混乱に陥った地球で、苦闘する少年少女が描かれていた。
人類の大半が死滅しながらも、子供ならではの柔軟性を認められ、宇宙人との共生などを果たし、生き残った者たちがいたり、宇宙の根幹に関わっていそうな、謎めいた力を得て生き延びつつ、その真理を探し求める少年がいたりといった具合に、明日も生きられるかどうか分からない苛烈な環境の中で、必死に生きる道を探る少年少女の姿が目を引いた。
もっとも、そうした話が大きく人気となる世界では、ライトノベルがないことも確か。その後の作品では、どこかポップさも漂わせ始めていた瀬尾つかさが、SFの殿堂とも言える早川書房から刊行した「約束の方舟 上・下」(早川書房、上下各720円)は、デビュー以来の少年少女に苛烈さを強いるフォーマットを用いつつ、ジャンルやレーベルにとらわれない大きくて深い設定をぶち込んだ、かつてないSF大作に仕上がっていた。
この作品もまた、少年や少女を過酷な状況において、運命を左右する選択を迫るような物語。彼方の移民先をめざして、100年近く航行を続ける恒星間宇宙移民船では、15年ほど前に、ゼリー状の生物が宇宙船に入ってきて、乗員を襲い始める事件が発生した。
激しい戦いで多くの人間が犠牲になったものの、どうにかゼリー状の生物との意志疎通が図られ、和解が成立し、今は子供たちだけがベガーと呼ばれるようになったゼリー状の生き物の中に潜り込み、真空に出られる能力を使って、閉鎖された区域から資源を運ぶことで生き延び、目的地への航行を続けていた。
もっとも、大勢が死んだ事件が簡単に人の心から消えるはずもなく、大人たちの中には仇に等しいベガーに、憎悪の感情を向ける者もいた。子供だけがベガーと使い、資源の回収という重要な役割を担っていることも、大人たちの間に憤懣を読んでいて、それが世代間の溝を膿んでいた。
それからもうひとつ、ベバガーの中に長い時間入っていると、バガーの食欲が理性を上回ってしまって、中にいる人間を“食べて”しまうこともあって、信頼を寄せきれない大人たちもいた。逆に少年や少女たちは、ほとんど共生に近い関係にあるベガーに全幅の信頼を寄せていて、ずっといっしょにいたいと願う子供もいた。
とりわけテルという少女は、ベガーをこよなく愛し、食べられる恐怖を抱く親たちから、早く共生関係をうち切るように言われても、逆に結びつきを強くして、幼なじみの少年のシンゴすら戸惑わせていた。そんなテルを襲ったある事件が、宇宙船の中に様々な勢力を生み、移民先へと到着する残り少ない時間の中で、ベガーを排斥するべきだ、共生を強くするべきだ、移民を急ぐべきだ、宇宙をしばらく彷徨うべきだといった見解が錯綜する。
移民船の主導権を狙う謀略もめぐらされ、誰がいったい黒幕なのか、そして目的は何なのかといったミステリアスな関心を引きつけられる。誰もが正義を主張し、正統を訴え人々を導こうとする中で、本来の目的すら脅かしかねない事態。そこに、驚くべき状況が到来して、迷っていた船を目的へと導こうとする。
それは感動の再会に見えて、実は刹那の出合いに過ぎず、先に永遠の離別が待っている。そんな揺れ動く情動を噛みしめながら、成長していく少年の姿が、どんな逆境でも乗り越え、生きていこうとする力を沸き立たせる。
ベガー襲来の原因も含め、移民船に仕組まれていた数々の謎が明かされていくミステリー小説のような展開に引っ張られ、ベガーとの緊張感ある共生や、人類以外の種との相互理解の可能性といったアイディアの奔流に流され、気が付くとクライマックスへとやって来ている。宇宙を舞台に人類の未来を描いたSFとしても、特級品と言える物語だ。
その上で、人間にとって大切な選択の是非についても考えさせる物語。遠い星まで来た、わずかだかそれがすべてという人類の未来を選ぶ責任を求められ、少年たち少女たちが選んだその道は。未来を持つ者だけの権利であり、また義務である選択の難しさを物語からくみ取り、現実の世界でも間違えず、過たない道を選ぶ手段を考えよう。
『竜宮ホテル 迷い猫』(村山早紀、三笠書房、571円)
やりたいことにやれること。やれたことにやれなかったこと。人の一生にはそんないろいろなことがあって、満足した気持ちになったり悔やんだり、期待に胸膨らませたり絶望に諦めたりしながら生きている。全部が全部、期待と満足で埋め尽くせればこんなに嬉しいことはない。だから頑張る。後悔や諦めを少しでも人生から減らそうと。
それでも全部を全部、幸せで埋め尽くすなんてことはできない。ひとりがいくら頑張ったところで、どうにもならないことがある。そんなときどうすればいい?
顔を上げよう。そして見渡そう。世界にはこんあにたくさんの人たちがいて、それぞれに期待を抱き、満足を得て暮らしている。そんな人たちからなら、及ばなかった満足をわけてもらえるかもしれない。ふたたび期待を抱かせてもらえるかもしれない。
人はひとりじゃない。人に限らず、この世界に存在するものはそれだけで存在しているのではない。分かち合い支え合い、埋め合って生けばきっと誰もが最大限の幸福で、人生をいっぱいにできるはず。
そんな可能性を、村山早紀の「竜宮ホテル 迷い猫」(f−Clan文庫、571円)という物語が見せてくれる。
高校生のころから作家として活動して来た水守響呼。10数年を経た今も人気を得たまま、繁華街から外れた、人気の少ない場所にある古いアパートの一室に部屋を借り、あまり出歩かないで小説やエッセーの執筆に勤しむ日々を送っている。
もっとも、最近起こった地震の影響がアパートに出て、いよいよ取り壊しが決まって次の住まいを探さなくてはいけない羽目に。とりあえず、目先のエッセーを書き上げ、それから部屋を探そうとしていた響呼は、コーヒーハウスで彼女のファンだという編集者の青年、錦織寅彦と出会って、ひとつの部屋を紹介される。
そのときはまだ決めていなかった響呼だったが、雨の中を寅彦に送らアパートに戻ると、さっきまで無事だったアパートが崩れ落ちてしまっていた。行く当てはない。その上に、異界の住人が見えてしまうという響呼の力が働いて、姉を探してそのアパートに訪ねてきたという、猫のような耳を生やした不思議な少女が、ショックか何かで倒れてしまう場に居合わせてしまう。
どうしよう。そこでふたたび誘いをかけたのが寅彦。彼もまた異界の住人が見えてしまう能力の持ち主らしく、倒れた少女ともども響呼を、斡旋しようとしていた部屋へと案内する。そこは本当はホテルで、今は修理中で、それでも誰かに使って貰った方が良いと、をアパートのように貸している建物へと連れて行く。
名を「竜宮ホテル」といったその建物は、ただクラシカルなだけでなく、とても不思議な場所だった。アパートの倒壊で壊れてしまった金時計を、翌朝には修理してしまえる腕前の職人たちがどこかにいる。魔法のようにバラの花を取り出す老人が地下の浴場で働いている。病弱ながらも植物の扱いに長けて、ホテル中を緑で満たす若者がいる。
おまけに、連れ帰った少女からは2匹の小さい動物が飛び出し、響呼に煮干しが欲しい、水が欲しいと語りかける。普通の人だったら驚き慌て、怯え逃げ出しそうな場所なのに、響呼はそこを居場所と定めて、これまでの自分を振り返る。
作家としては順調に来ている。しっかりとした居場所を持って生きている。その意味では幸運な人生だったかもしれない。けれども響呼の母親は、父親と離れて暮らし、響呼を育てた上げたものの、今は病院にいて、ずっと眠ったままでいる。
そんな母親への心情から、父親という男にずっと憎しみを覚えていた響呼だったけれど、山で転落して遺体で発見され、事情があって母親と離ればなれにならざるを得なかったと知って、ひとつの後悔を抱えてしまっている。いつか訪ねてきた父親に、言葉を向けず追い返してしまったこと。あの時もしも話せていたら。そんな思いが響呼の心を捉えて離さない。
全部が全部、幸せとは言えない人生。そんな響呼の心ぽっかりと空いを、「竜宮ホテル」に集った面々が支え、埋めて明日へと導く。
安住しているようで、実は諦めてしまっているだけなのかもしれない日々。落ちついているようで、実は不安定さを抱えた気持ちを、支えるものがいて、埋めるものがいて、導くものがいて励ますものがいる。不思議な力が働いて、後悔し続けていたことにも、ひとつの答えが与えられる。
ひとりではできなかったことが、「竜宮ホテル」ならできる。そんな場所があったら、誰だって住んでみたいと思うだろう。暮らしてみたいと願うだろう。けれども、現実にはそんなホテルはなかなかない。絶対にとは言いたくないけれど、それでもたどり着くのは難しそう。
だったら作ればいい。「竜宮ホテル」を作り出せばいい。誰かが困っていたら支えてあげる。迷っていたら導いてあげる。それを行い。それをされることによって幸せが偏らず、不幸が溢れないで誰もが等量に幸せで、そしてそれを高めあって行ける場所を、この世界に作ってしまえばいい。
不思議なことは起こらなくても、素晴らしいことなら誰にだって起こせる。不思議なものはいなくても、誰にだって誰かを助けることはできる。誰も諦めない。誰にも諦めさせない。そんな気持ちを抱ける場所を、持てる世界の訪れを、この「竜宮ホテル 迷い猫」という物語から感じよう。そして進みだそう。
2011年10月02日
『悪魔と小悪魔』(大坂翠、アスキー・メディアワークス、590円)
3つのお願い聞いて、聞いてくれたら。
という詞の歌があったかというと、あるにはあったけれどそれは4つのお願いで、それを聞いてくれたら恋をしてもらえるというすてきなお願い。ついついかなえてやってやりたくなる。お願いを聞くのが人間なら。
でも奴ら悪魔で、聞けるお願いの数は3つ。そして、奴らが欲しいのは相手からの恋ではなく、その人間の魂だ。願いかなえられたとたん、人間は魂を奪われ地獄の底で未来永劫、囚われとなって奴隷の如くに従わされる。だから人間は策略を考える。願いがかえられ、そして魂を奪われないで住む3つの願いの、その中身を。
大悪魔のマルドゥクが、してやられた人間の策略は、犬に呼び出されるということ。犬が悪魔なんて呼べるはずがない。きっと裏で人間が画策していたに違いない。けれどもそれが分からないまま、マルドゥクは犬と契約させられ、その願いを2つだけかなえる。3つ目は? 犬は喋らない。だから願いも口に出せない。
はじめの2つはどうやって願ったんだ。そもそも犬がどうやって契約書にイニシアルをサインできるんだ。浮かぶ謎。そしてその謎はさらなる謎を呼ぶけれど、どういう経緯だったかは本文で。当面はの問題は、大悪魔すら手玉に取る人間がいるという事実だ。
そしてその人間によって、地獄を統べる悪魔の寵愛を受け、デジる悪魔と自他ともに認めるバルサザーすら、ひっかけられてしまうという物語が、大坂翠の「悪魔と小悪魔」(メディアワークス文庫、590円)。マルドゥクのことを笑い、自分は魂の取引について細心の注意をはらっていたバルサザー。ところが、呼ばれた先に行くとどうも様子がおかしい。
そこには少女が2人いて、マルドゥックを呼び出したのは、蜜という名の金髪で長身の美少女の方。その魂はといえば“エンジェル”と呼ばれる、地獄に連れて行ってもすぐに天へと向かってしまう、悪魔にとって鬼門のような魂で、勘付いていたら絶対に呼び出しに応じないタイプのものだった。
それなのに出てしまったのは、いっしょにいた仁緒という名の小柄の少女が、“黄金”と呼ばれる地獄に置いて極上の魂の持ち主だったからだ。これは騙された。そう勘付いたものの、魔法陣を書いて呼び出したのは、手にチョークをつけた蜜の方だと言われれば逆らえない。まずは願いを聞いて、それから考えようとした時、蜜は仁緒と「ししてのちもとこしえに」いたいという願いを発する。
「それは困る」。そう言うデキる悪魔のバルサザー。極上の魂に“エンジェル”がくっついていた日には、いっしょに天国へと飛んでいってしまう。撤回させなくてはいけない。そして人間の悪魔を騙そうとする策略を、退けるのはバルサザーにとってお手の物。次なる手を打とうとしていたその時、部屋に怪物ならぬ蜜の母親が入ってきて、蜜を溺愛する一方でバルサザーに聖水を振りかけ、気を失わせてしまう。
目覚めると魔力が低下し、人間のようになってしまっていたバルサザーは、嫌々ながらも仁緒の家で家政夫として働くようになりながら、仁緒の魂をつけねらう。そこに新たな何代。残してきた蜜が別の悪魔を呼び出し願いを発動させ、それがバルサザーの命運にすら関わってくる。もしかするとあの強烈な蜜の母親の元で、虐待にも似た溺愛を受け続けなくては行けなくなる。かといって逆らえば地獄にあって誰もが地獄と恐れる責め苦がまっている。どうすればいい。
お願いできる数は3つ。その3つが幾つも重なり合って雁字搦めにされたなかで、バルサザーはどこかにほころびを見つけ、突破口を開いていけるのか。限られた条件をもとに解を探るミステリのような楽しみ方ができる。シェイクスピアの戯曲を持ち出し、それを逆転の手管として使ってみせる鮮やかさなど、さすがはバルサザーと思わせる。もっとも、それで終わりにならないところに、仁緒の凄みが潜んでいたりするのだが。
そんなアイデア合戦と同時に、ネグレクトという社会的な問題の提示もあって、現実にそうした環境におかれた者を救う手だてはないものかとも考えさせる。悪魔を身代わりにさせられない現実では、やはり助け出すしかほかに道はない。
大悪魔のマルドゥクが、しゃべれないはずの犬と契約させられてしまった不思議や、人間になったバルサザーが、復活した虫歯の痛みをおさえるために飛び込んだ歯医者のどこか謎めいた雰囲気など、さらりと流されるエピソードが後に物語に効いてくる、伏線の置き方も巧みなら、クリスという仁緒の家に突然現れる人物の謎めいた振る舞い、蜜の母親だけでなく父親や弟と妹たちの異常さなどキャラクターの言動にも多々、特徴があって出てくるだけで目を引かれる。
蠅の王と呼ばれ地獄の頂点に立つ悪魔によってリストラされてしまった大王の現況や、バルサザーの後見人で地獄の大王ながらも小さくてネズミのようなスコピオ・シナモンの言動など、悪魔たちのドタバタとした感じもとてもユニーク。なによりデキる悪魔バルサザーの辣腕家政夫っぷりが素晴らしい。
料理も掃除も洗濯も得意。見目も良い。家にいれば何だってしてくれそうだけれど、そこは狡猾な悪魔、呼び出すて使役するには、3つの願いと魂との交換条件を、どうにかしなくてはならない。どうするか。読めばいい。この「悪魔と小悪魔」を。
『STEINS;GATE−シュタインズ・ゲート−円環連鎖のウロボロス 第1巻・第2巻』(海羽超史郎、富士見書房、第1巻・780円、第2巻・980円)
遊んでいる時間もなく、持ってはいるけれど果たして動くのかが判然としないマイクロソフトの家庭用ゲーム機「Xbox360」対応だったということもあって、存在は関知しながらも、スルーしていた5pbとニトロプラスによるコンピューターゲーム「Steins;Gate(シュタインズ・ゲート)」。
ところが、2011年4月から放送が始まったテレビアニメーション版「シュタインズ・ゲート」を見て、牧瀬紅莉栖ことクリスティーナのツンとした口振や、若さから来る物腰の可愛らしさ、漆原ルカのあれ本当に付いてるのかという驚きなどから、どういったキャラクターなのかと知りたくなったものの、ゲームに手を染めている時間はない。
それならと、海羽超史郎が書いた小説版の「STEINS;GATE−シュタインズ・ゲート 円環世界のウロボロス」(富士見書房、第1巻・780円、第2巻・980円)を読みはじめたら、これがなかなかに面白く、とてつもなく分厚い第1巻とさらに恐ろしく分厚い第2巻が、一気に読了へと追い込まれた。
かつて「天剣王器」と「ラスト・ビジョン」という2作を電撃文庫で刊行しながら、執筆が途絶えその存在が幻となりかかっていた海羽超史郎による、本当に久々の小説作品。そのことへの興味や、牧瀬紅莉栖や漆原ルカといったキャラクターへの興味が先走っている状況で読み始めたはずの作品が、物理的な用語満載の展開を追いかけ、どういう風になっているのかという理屈をかみしめながら、果たしてそれからどう影響し、そのどうしようもない状況をどうやってどうにかするのだといった、物語自体の面白さを追い求める、心底からのエンターテインメント作品として身に入ってきた。
2011年の8月14日の一般公開を最後に、立て替えのために閉館された「秋葉原ラジオ会館」にやって来たのは大学生で未来ガジェット研究所なる個人組織を率いる岡部倫太郎。ラジオ会館にある会議室で開かれることになていた、胡散臭い学者による怪しげなタイムマシン発明の発表を聞こうとしていたが、そこにアメリカから一時的に帰国した、まだ若いながらも物理の高度な研究論文が学術雑誌に掲載された、牧瀬紅莉栖という少女と出会う。
正真正銘天才の彼女にも臆さず、堂々と渡り合おうとする自称天才の岡部倫太郎、またの名を鳳凰院凶真だったが、その直後、倫太郎はラジオ会館の通路で、血だまりの中に倒れている牧瀬紅莉栖を発見する。何が起こった。驚きと共に携帯電話のメールでいっしょに研究をしているダルという男に、そのことを報告するメールを打つ。そして。
シュタインズゲートへと到達するための岡部倫太郎の、鳳凰院凶真の短くて長い戦いが始まる。
牧瀬紅莉栖との何事もなかったかのような再会。未来ガジェット研究所が送り出すどうしようもない発明品を使っての頓狂な実験。部活のような、合宿のような楽しげな日常が繰り返されていたその刹那、惨劇が襲ってて岡部倫太郎や牧瀬紅莉栖や椎名まゆり、ダルこと橋田至らを恐怖と衝撃の渦中へと叩き込む。
タイムマシンの発明。それがもたらした世界の激変。失われる大切な命。そして大勢の死。変えられるものなら変えたい、むしろ変えるべきだと岡部倫太郎は実験を繰り返す。けれども、いくらやっても世界線を大きく超えて、誰もが平常へと戻れる世界が来ないいう、まるで悪夢を見せられているような畳み掛けが繰り出されて、いったいこれからどうなるんだ、どこに行ってしまうのだとドキドキさせられる。
もうどうなってもいい。そう諦め、しおれれかかっていた刹那。岡部倫太郎こと鳳凰院凶真が気づいたひとつの壁を突破する方法が、次の別の壁を示して彼をさらに懊悩させる。その選択を前にして、自分だったらどちらを選ぶのか。もちろん、漆原ルカが本当は女の子だった世界を選ぶに決まってるじゃないか、というのは岡部倫太郎の大きな選択には入っていっていないけれど、個人的にはちょっと選んでみたい選択肢かもしれない。
あれは男の子だから良いという心理も働きつつ、かといってそれのみというののも味気ないと考える。いっそ元は男の子だったけれども、ふとしたはずみで女の子に変ってしまって、それを当人は喜びつつ悩みつつ、誰かに気付かれるんじゃないかと悶悶としていることを、岡部倫太郎は知っていて、声をかけて安心しろと諭すとも、分かっているぞと脅すともしないで眺めているという、倒錯的なシチュエーション、というのも悪くはないか。
脱線した。問題となっている択一で、どちらを選ぶのか迫られた時、自分だったら後者かも、いや前者だろうと迷いそうな場面で、岡部倫太郎が「当然だ! どちらもだ!」と虚勢でもいいから強さを見せて、仲間たちを鼓舞するのかと思い来や、どちらかしか選べないと思い込んでしまうところは、やっぱりただの人間だったんだと、少しだけホッとする。万能で全脳なんて物語の中だけの存在だから。
それでもそこは、物語世界で主役を与えられた男子だった岡部倫太郎。降って湧いた天祐を、ここぞとばかりに利用して、択一の壁をぶち破るのみならず、世界に与えられた壁すらもぶち破って見せる。まとっていた鎧をいったんはすべて捨て去り、ギリギリまで自分をさらけ出してみせてなお、心に残っていた強い思いを本当の力に変え、新たな、そして本当の鎧として再びみにまとい、立ち上がる姿はやっぱり見ていて惚れ惚れする。
この小説版を読み、ストーリーが全部分かってしまった人が、テレビアニメの方に移るとしたら、岡部倫太郎の迷い何度も繰り返し、幾つもの思いを犠牲にし、諦めかけてそれでも立ち上がる姿に感嘆し、誰もが幸せになれる道があるのかを確かめる姿を、その切なさと歓喜と、虚ろさと強さが入り混じった、宮野真守の絶妙の演技とともに、見ていけるだろう。
ゲーム原作でなかったら、SFの小説で賞の候補に挙げられ大評判になっても不思議はなさそうな奥深さ。相当に複雑で難解な作品を読み解き、小説の方に描いて破綻させず、最後まで読ませてしまった海羽超史郎の力量に、改めて敬服させられる。「ラスト・ビジョン」からしばらく音沙汰が無かったけれど、時系列を錯綜させ、科学的物理的解釈を論じて読者を仰天させたあの才気が、時を経てなお一層の充実を見せていた。この勢いで、本格的なSFにもいって欲しいもの。是非に。
ところが、2011年4月から放送が始まったテレビアニメーション版「シュタインズ・ゲート」を見て、牧瀬紅莉栖ことクリスティーナのツンとした口振や、若さから来る物腰の可愛らしさ、漆原ルカのあれ本当に付いてるのかという驚きなどから、どういったキャラクターなのかと知りたくなったものの、ゲームに手を染めている時間はない。
それならと、海羽超史郎が書いた小説版の「STEINS;GATE−シュタインズ・ゲート 円環世界のウロボロス」(富士見書房、第1巻・780円、第2巻・980円)を読みはじめたら、これがなかなかに面白く、とてつもなく分厚い第1巻とさらに恐ろしく分厚い第2巻が、一気に読了へと追い込まれた。
かつて「天剣王器」と「ラスト・ビジョン」という2作を電撃文庫で刊行しながら、執筆が途絶えその存在が幻となりかかっていた海羽超史郎による、本当に久々の小説作品。そのことへの興味や、牧瀬紅莉栖や漆原ルカといったキャラクターへの興味が先走っている状況で読み始めたはずの作品が、物理的な用語満載の展開を追いかけ、どういう風になっているのかという理屈をかみしめながら、果たしてそれからどう影響し、そのどうしようもない状況をどうやってどうにかするのだといった、物語自体の面白さを追い求める、心底からのエンターテインメント作品として身に入ってきた。
2011年の8月14日の一般公開を最後に、立て替えのために閉館された「秋葉原ラジオ会館」にやって来たのは大学生で未来ガジェット研究所なる個人組織を率いる岡部倫太郎。ラジオ会館にある会議室で開かれることになていた、胡散臭い学者による怪しげなタイムマシン発明の発表を聞こうとしていたが、そこにアメリカから一時的に帰国した、まだ若いながらも物理の高度な研究論文が学術雑誌に掲載された、牧瀬紅莉栖という少女と出会う。
正真正銘天才の彼女にも臆さず、堂々と渡り合おうとする自称天才の岡部倫太郎、またの名を鳳凰院凶真だったが、その直後、倫太郎はラジオ会館の通路で、血だまりの中に倒れている牧瀬紅莉栖を発見する。何が起こった。驚きと共に携帯電話のメールでいっしょに研究をしているダルという男に、そのことを報告するメールを打つ。そして。
シュタインズゲートへと到達するための岡部倫太郎の、鳳凰院凶真の短くて長い戦いが始まる。
牧瀬紅莉栖との何事もなかったかのような再会。未来ガジェット研究所が送り出すどうしようもない発明品を使っての頓狂な実験。部活のような、合宿のような楽しげな日常が繰り返されていたその刹那、惨劇が襲ってて岡部倫太郎や牧瀬紅莉栖や椎名まゆり、ダルこと橋田至らを恐怖と衝撃の渦中へと叩き込む。
タイムマシンの発明。それがもたらした世界の激変。失われる大切な命。そして大勢の死。変えられるものなら変えたい、むしろ変えるべきだと岡部倫太郎は実験を繰り返す。けれども、いくらやっても世界線を大きく超えて、誰もが平常へと戻れる世界が来ないいう、まるで悪夢を見せられているような畳み掛けが繰り出されて、いったいこれからどうなるんだ、どこに行ってしまうのだとドキドキさせられる。
もうどうなってもいい。そう諦め、しおれれかかっていた刹那。岡部倫太郎こと鳳凰院凶真が気づいたひとつの壁を突破する方法が、次の別の壁を示して彼をさらに懊悩させる。その選択を前にして、自分だったらどちらを選ぶのか。もちろん、漆原ルカが本当は女の子だった世界を選ぶに決まってるじゃないか、というのは岡部倫太郎の大きな選択には入っていっていないけれど、個人的にはちょっと選んでみたい選択肢かもしれない。
あれは男の子だから良いという心理も働きつつ、かといってそれのみというののも味気ないと考える。いっそ元は男の子だったけれども、ふとしたはずみで女の子に変ってしまって、それを当人は喜びつつ悩みつつ、誰かに気付かれるんじゃないかと悶悶としていることを、岡部倫太郎は知っていて、声をかけて安心しろと諭すとも、分かっているぞと脅すともしないで眺めているという、倒錯的なシチュエーション、というのも悪くはないか。
脱線した。問題となっている択一で、どちらを選ぶのか迫られた時、自分だったら後者かも、いや前者だろうと迷いそうな場面で、岡部倫太郎が「当然だ! どちらもだ!」と虚勢でもいいから強さを見せて、仲間たちを鼓舞するのかと思い来や、どちらかしか選べないと思い込んでしまうところは、やっぱりただの人間だったんだと、少しだけホッとする。万能で全脳なんて物語の中だけの存在だから。
それでもそこは、物語世界で主役を与えられた男子だった岡部倫太郎。降って湧いた天祐を、ここぞとばかりに利用して、択一の壁をぶち破るのみならず、世界に与えられた壁すらもぶち破って見せる。まとっていた鎧をいったんはすべて捨て去り、ギリギリまで自分をさらけ出してみせてなお、心に残っていた強い思いを本当の力に変え、新たな、そして本当の鎧として再びみにまとい、立ち上がる姿はやっぱり見ていて惚れ惚れする。
この小説版を読み、ストーリーが全部分かってしまった人が、テレビアニメの方に移るとしたら、岡部倫太郎の迷い何度も繰り返し、幾つもの思いを犠牲にし、諦めかけてそれでも立ち上がる姿に感嘆し、誰もが幸せになれる道があるのかを確かめる姿を、その切なさと歓喜と、虚ろさと強さが入り混じった、宮野真守の絶妙の演技とともに、見ていけるだろう。
ゲーム原作でなかったら、SFの小説で賞の候補に挙げられ大評判になっても不思議はなさそうな奥深さ。相当に複雑で難解な作品を読み解き、小説の方に描いて破綻させず、最後まで読ませてしまった海羽超史郎の力量に、改めて敬服させられる。「ラスト・ビジョン」からしばらく音沙汰が無かったけれど、時系列を錯綜させ、科学的物理的解釈を論じて読者を仰天させたあの才気が、時を経てなお一層の充実を見せていた。この勢いで、本格的なSFにもいって欲しいもの。是非に。
『確率捜査官御子柴岳人 密室のゲーム』(神永学、角川書店、1300円)
もしも捜査一課の女性刑事がゲーム理論の本を読んだら。理解してバリバリと捜査に活用できるかというとそうでもないところが所詮は理論。多々ある現実に公式のようにピタリと当てはまり、スラスラと回答が導き出されるなんてことにはまずならない。
それでも、大枠はつかめるし傾向は掴める。それが大事。もちろん昔ながらの勘と経験によってそうした大枠を自然と導き出せる人もいる。けれども、そうした勘や経験を持たない人でも常識や条件から、真実へと大きく近付けるとしたら使ってみて損はない。
死者の魂が見える赤い左目なんて必要ない。人の死を予知する夢を見る美少女がそばにいなくても大丈夫。探偵とか刑事になって大活躍をしたいけれど、超常的な力に頼れない自分では無理だとあきらめる必要なんてまったくない。数学の力。統計学の知識。それさえあれば心霊探偵にも天命探偵にも近付ける。
学生時代に数学で苦労した経験た自分にそれは無理だと、諦める必要もない。今から昔の教科書を掘り出して、数式や公式を覚え直す必要もやっぱりない。手元に一冊、神永学が新シリーズとして刊行した「確率捜査官 御子柴岳人 密室のゲーム」(1300円)があれば、探偵とか刑事として活躍するために必要な、数学や統計学とはいったい何かが分かるはずだから。
婦女暴行の容疑で逮捕された男への、先輩刑事の暴力的な取り調べを止めようとして乱闘を起こした女性刑事の新妻友紀。辞職を考えながらも、やはり刑事で、仕事中に刺殺された父親への思いもあって踏みとどまり、特殊取調対策班という新設されたばかりの部署への左遷を受け入れる。
そこで出会ったのが、30代前半くらいで白衣を着てボサボサ頭で、チュパチャプスをくわえ、パソコンでチェスをしていた御子柴岳人という男。どう見ても刑事には見えない風体に、友紀が「あなたは?」と聞くと御子柴はこう答えた。「人間だ」。
そんなことは当たり前。見れば誰だって人間だと分かる。だから友紀は「知ってます!」と大声をあげた。けれども、そこで御子柴が発した「なぜ」という問いかから、確率という数学のジャンルが持っている、本質へと迫る力のすごさ、面白さが見えてくる。
御子柴が地球外生命体かもしれない確率。それは限りなくゼロに近い。現実的にはありえない。けれども、決してゼロではない。ただ見つかっていないだけ。こここにこうして存在しているかもしれない。
先入観に頼るな。あらゆる確率を考えた上で、最適な答えを導き出せ。本職は大学で数学を研究する准教授という御子柴岳人のそんな思考の数々が、友紀の担当する事件に絡んで解決へと導いていく。
パート勤めをしている女性が、前に水商売をしていた時に客だった男を殺して逮捕された。痴情のもつれと誰もが即座に判断しそうな事件に、御子柴は恋愛トラブルを抱えた独身女性の人数や、痴情のもつれで女性が殺人を起こした件数を並べ、そうした事件が起こる確率の低さを示して、決めてかかるなとたしなめる。
容疑者の女性は自分が犯人だと訴え、殺意も認めている。状況証拠もそろって、従来ならばそれで十分だと誰もが判断する。ところが御子柴は、現場の状況から確率的に滅多に起こり得ない事象を見つけ、なぜ起こったのかを探ろうとする。自分が犯人だと主張する人間が、確率的に何を選ぼうとしているのかを考えて、事件の本質へと迫っていく。
そこには、霊に真相を教えてもらったり、予知した夢から事件現場に先回りするような、現実離れした言動はない。ベテランの刑事にあるような長い経験も直感もない。あるのは客観的に事件を見つめる冷静な思考。そして、確率や統計学やゲーム理論といった数学の知識。それさえあれば、自分だって名探偵、名刑事になれる、かもしれないと思わせる。
もっとも、女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだからといって、すべての高校が甲子園に行ける訳ではないように、確率を学び、ゲーム理論を学んだからといって、すべての事件があっさり解決する訳ではない。
何を確率によって判断するかを選ぶセンスが不可欠。女性ばかりを狙った連続強盗・強姦事件の容疑者が、もしかしたら犯人ではないかもしれないと推察する時に使った確率の材料たるや! 少しの笑いが浮かぶけれど、そういうものかと妙に納得出来てしまう。
そんな展開のセンスに感心し、それを選んで書く作者のセンスを楽しんでいくのが「確率捜査官 御子柴岳人」のひとつの読み方。そこ加えて、友紀が事件を通して思い悩み、御子柴の今を形作った、人を疑うということの重さを、強く感じさせられるメッセージ性も強く持っている。人を疑う気持ちと信じる気持ちとの間に生まれる揺らぎを、どうやって収めるべきなのか。冷静になるしかなさそうだ。
この先、シリーズが続くとしたらどんな数学で世界の真実へと迫り、どんなメッセージを発してくれるのか。神永学を読む楽しみがまた増えた。
それでも、大枠はつかめるし傾向は掴める。それが大事。もちろん昔ながらの勘と経験によってそうした大枠を自然と導き出せる人もいる。けれども、そうした勘や経験を持たない人でも常識や条件から、真実へと大きく近付けるとしたら使ってみて損はない。
死者の魂が見える赤い左目なんて必要ない。人の死を予知する夢を見る美少女がそばにいなくても大丈夫。探偵とか刑事になって大活躍をしたいけれど、超常的な力に頼れない自分では無理だとあきらめる必要なんてまったくない。数学の力。統計学の知識。それさえあれば心霊探偵にも天命探偵にも近付ける。
学生時代に数学で苦労した経験た自分にそれは無理だと、諦める必要もない。今から昔の教科書を掘り出して、数式や公式を覚え直す必要もやっぱりない。手元に一冊、神永学が新シリーズとして刊行した「確率捜査官 御子柴岳人 密室のゲーム」(1300円)があれば、探偵とか刑事として活躍するために必要な、数学や統計学とはいったい何かが分かるはずだから。
婦女暴行の容疑で逮捕された男への、先輩刑事の暴力的な取り調べを止めようとして乱闘を起こした女性刑事の新妻友紀。辞職を考えながらも、やはり刑事で、仕事中に刺殺された父親への思いもあって踏みとどまり、特殊取調対策班という新設されたばかりの部署への左遷を受け入れる。
そこで出会ったのが、30代前半くらいで白衣を着てボサボサ頭で、チュパチャプスをくわえ、パソコンでチェスをしていた御子柴岳人という男。どう見ても刑事には見えない風体に、友紀が「あなたは?」と聞くと御子柴はこう答えた。「人間だ」。
そんなことは当たり前。見れば誰だって人間だと分かる。だから友紀は「知ってます!」と大声をあげた。けれども、そこで御子柴が発した「なぜ」という問いかから、確率という数学のジャンルが持っている、本質へと迫る力のすごさ、面白さが見えてくる。
御子柴が地球外生命体かもしれない確率。それは限りなくゼロに近い。現実的にはありえない。けれども、決してゼロではない。ただ見つかっていないだけ。こここにこうして存在しているかもしれない。
先入観に頼るな。あらゆる確率を考えた上で、最適な答えを導き出せ。本職は大学で数学を研究する准教授という御子柴岳人のそんな思考の数々が、友紀の担当する事件に絡んで解決へと導いていく。
パート勤めをしている女性が、前に水商売をしていた時に客だった男を殺して逮捕された。痴情のもつれと誰もが即座に判断しそうな事件に、御子柴は恋愛トラブルを抱えた独身女性の人数や、痴情のもつれで女性が殺人を起こした件数を並べ、そうした事件が起こる確率の低さを示して、決めてかかるなとたしなめる。
容疑者の女性は自分が犯人だと訴え、殺意も認めている。状況証拠もそろって、従来ならばそれで十分だと誰もが判断する。ところが御子柴は、現場の状況から確率的に滅多に起こり得ない事象を見つけ、なぜ起こったのかを探ろうとする。自分が犯人だと主張する人間が、確率的に何を選ぼうとしているのかを考えて、事件の本質へと迫っていく。
そこには、霊に真相を教えてもらったり、予知した夢から事件現場に先回りするような、現実離れした言動はない。ベテランの刑事にあるような長い経験も直感もない。あるのは客観的に事件を見つめる冷静な思考。そして、確率や統計学やゲーム理論といった数学の知識。それさえあれば、自分だって名探偵、名刑事になれる、かもしれないと思わせる。
もっとも、女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだからといって、すべての高校が甲子園に行ける訳ではないように、確率を学び、ゲーム理論を学んだからといって、すべての事件があっさり解決する訳ではない。
何を確率によって判断するかを選ぶセンスが不可欠。女性ばかりを狙った連続強盗・強姦事件の容疑者が、もしかしたら犯人ではないかもしれないと推察する時に使った確率の材料たるや! 少しの笑いが浮かぶけれど、そういうものかと妙に納得出来てしまう。
そんな展開のセンスに感心し、それを選んで書く作者のセンスを楽しんでいくのが「確率捜査官 御子柴岳人」のひとつの読み方。そこ加えて、友紀が事件を通して思い悩み、御子柴の今を形作った、人を疑うということの重さを、強く感じさせられるメッセージ性も強く持っている。人を疑う気持ちと信じる気持ちとの間に生まれる揺らぎを、どうやって収めるべきなのか。冷静になるしかなさそうだ。
この先、シリーズが続くとしたらどんな数学で世界の真実へと迫り、どんなメッセージを発してくれるのか。神永学を読む楽しみがまた増えた。
『ななめの音楽』&『ななめの音楽2』(川原由美子、朝日新聞出版、各840円)
その名前を知ったのは、「前略・ミルクハウス」だっただろうか。下宿を舞台にしたコミカルさにあふれた恋愛ストーリーは、少女漫画の世界のメインストリームとなって、女子だけでなく男子も引きつけ人気となって、テレビドラマ化もされた。登場人物には女装をした男子もいたりして、昨今の風潮を思い切り先取りしていて、そういったものがまだ少なかった当時の、密やかな関心も引きつけた。
それからしばらくして登場した、「観用少女」を読んだとき、前とは違った世界へと向かっていることを予感させた。SFマガジンに掲載されたジェイムズ・ティプトリー・Jrの短編「たったひとつの冴えたやりかた」に挿し絵を描き、ティプトリーの短編を集めた文庫本の表紙も描いてSFへの傾注を伺わせていたが、「観用少女」では美少女の姿をした愛玩人形の物語をつづり、人ならぬ存在への関心を誘うSFとして話題を得た。
長く、そして広く活動を続ける漫画家の川原由美子が昨今、描いているものはラブコメとは違い、ストレートなSFとも少しはずれながら、どこか未来的な上に過去的な雰囲気も感じさせる不思議な物語。その「ななめの音楽1」(朝日新聞出版、840円)という漫画は、雰囲気に静謐さが加わり、展開に幻想性が加わって、今までとは違った川原由美子の世界を楽しませてくれる。また同時に、今までのSFコミックとも違ったビジョンを見せてくれる。
伊咲こゆるという少女が通っている学校で、彼女が慕っている光子という先輩。機械いじりが得意で、どこか大人びて冷静そうな雰囲気を持った彼女の行き先を学校の中で探していたこゆるは、どこからかやってきた飛行船が、光子先輩を連れてどこかへ飛んでいこうとしえいる場面に行きあたる。
乗り合わせていた、秘書らしい大人びた女性にこゆるが聞くと、飛行船はドイツへと向かうという。こゆるは是非にとお願いして、光子先輩に着いていくことに決め、とりあえずその場ではいったん引きつつ、間をおいて飛行機でドイツへと旅立ち、そこで光子先輩と合流する。
そのドイツでこゆるが見たものは、レシプロもジェットも含めて新旧が混じり合った飛行機たち。光子先輩はそのうちの1機を駆ってレースに臨み、一族が事業として行っている航空機の受注の権利を獲得する指名を与えられていた。そんな環境の中に割って入っていった形となったこゆるは、光子先輩が駆る双発の航空機にいっしょに乗ってレースに出場しては、行く先々でいろいろな人と出会い、自らの見聞を広めていく。
最初にドイツに到着した時に聞いた天使の声や、見た天使の夢が、現実と幻想との境目を薄くして、リアルでシリアスなはずの世界観に不思議な空気を漂わせる。灯台に暮らす少女が、幻想の中でこゆるをさらって監禁したりもして、どこまでがリアルでどこまでが繋がった夢の中なのかを、ちょっぴり曖昧にさせる。
けれども、それを個々が見た夢なり、思いこみなりととらえるならば、割にシリアスな世界の中で、物語は進んでいてそして、光子先輩とこゆりは着々とゴールに向かって飛んでいるだけだと言えるかもしれない。リアルな現実にシームレスに重なる空想と幻想のストーリーが、多感な少女たちの心に宿り、瞼に浮かぶ世界を感じさせてくれる。
第1巻ではまだ、“ななめの音楽”という意味深なタイトルが、何を本当に意味するのかは開かされない。続く「ななめの音楽2」(朝日新聞出版、840円)でこの“ななめの音楽”のどこか残酷で冷徹な意味が示され、その使われ方によってこゆるは戸惑いを覚える。
信じていた存在に見えた、絶対に信じたくない一面。けれども、それすらも含めて人を愛し、受け入れる心の覚悟とというものが、こゆるの迷いから浮かんでくる。一方で、光子先輩の自分の思いにまっすぐで、それゆえに見えない周囲からこぼれおちていってしまったこゆるへの自省の念が、たったひとりでは生きづらく、そして、誰かといられることは素晴らしいことなのだと教えてくれる。
1ページに横長4段による4コマという、かつてない挑戦的なレイアウトで繰り広げられる漫画の画面構成は、ともすれば読みづらくもあるが、枠を気にしなければ何段にも連ねて表現できる特徴もあって、「ななめの音楽」ではそれが時折、広い空間を描いたり、続く場面を描いたりして、漫画表現の新しい形を見せてくれる。横へと飛ぶ飛行機の描写にも、横長のコマがあるいは有効なのかもしれない。
萩尾望都の幻想性、鳥図明児の耽美さ、森博嗣の「スカイ・クロラ」に重なる淡々とした空への憧憬が合わさり、松田未来のような航空機へのフェティッシュな思いも積み上がったかつてない航空漫画。もちろんそこには、川原由美子ならではの切々と流れる少女たちの感情の機微もこめられ、寄り添い支え合って生きていきたいと思わされる。挙げられたファクトのどれかに引っかかった人も、何か目新しい作品を目にしたい人も、読んでみて間違いはない。絶対に。
『特急便ガール!』&『超特急便ガール!!』(美奈川護、アスキー・メディアワークス、550円・650円)
配達小説、と聞いてまず挙がるのは、小川一水による「こちら郵政省特配課」のシリーズか。月に結婚式場を建て、海底にメタンハイドレードを探し、彼方の星で大地震に惑乱する人々を導こうと苦闘する、若き執政者を描いた彼の作品では珍しく、現代を舞台とした作品。超越的だったり、超常的だったりする力や技術は取り入れず、考え得る実在のテクノロジーの遂を寄せ集めては、あらゆる荷物をどこにでも届ける職務に挑む、プロフェッショナルたちの活躍を描いてみせた。
電撃文庫から出た増子二郎の「ポストガール」シリーズは逆に、荒廃して滅亡に近づく人類に代わって、荷物を届けるロボットの少女を主人公としたSF設定のライトノベル。描かれるのは、シルキーという名の少女のロボットが、荷物を届ける旅程とそして届けた先々で出合う人たちの交流を通して、感情のようなものを芽ばえさせていくという、人工知能の心の問題に挑んだ、変化と成長の物語だった。
その荷物を欲する者たちがいるから、特配課のメンバーはどんな手段でも使って荷物を届けようと一所懸命になる。その荷物を受け取った人の機微から、ただの機械に過ぎなかったシルキーは、あり得るはずのない感情を育み変わっていく。荷物はたしかに“物”でしかないのかもしれない。けれどもただの“物”ではない。そこには送り主の思いが込められ、受け取り人の喜びが乗っている。だから、届けようとする者たちを突き動かすのだろう。
電撃文庫から「ヴァンダル画廊街の奇蹟」というシリーズでデビューした美奈川護の新シリーズ「特急便ガール!」(メディアワークス文庫、590円)では、そんな荷物に込められたさまざまな思いが、配達する人の体をとんでもない方向へと動かしてしまう。日本でも有数の商社に総合職と入り、役員秘書となって将来を嘱望されながら、訳あって上司を殴ったと言い張り、半ば強引に退社した吉原陶子。ゆく当てもなかったところに、同期の男子から義兄がやっているという会社を紹介された。
そこはバイク便のサービス会社で、訪ねていった陶子はいきなり社長の如月という男からハンドキャリー、つまりはあらゆる交通機関を乗り継ぎ、手で直接荷物を届ける仕事を言い渡される。反論しようにも陸上で鍛えた感性が、ストップウォッチを取り出し合図する社長の言葉に逆らえず、根っからの負けん気の強さもあって荷物を手に飛び出していく。そして、社長の仕掛けたトラップもかわして、時間内に配達をし終えてしまう。
もちろん採用。当人にはそれでも務める気はなかったものの、先輩ライダーの挑発めいた言動に、やはり負けまいと働き初めてみた。そこで妙な現象が起こって陶子を大いに戸惑わせる。如月の友人がルームクリーンサービスをやっていて、そこで見つかった品を京都まで配達して欲しいと言われ、ならばと新幹線で向かおうとした時、車両の扉を開けた陶子の身にとんでもないことが起こってしまった。
一刻を争う老女のところに瞬時かけつけ、大阪と札幌に別れてしまったヴィオラ弾きの女性と、男性との間を行き来して思いを結ぶ。時には手早い対応を喜ばれ、時には思いがけない遠回りを陶子に強いて困らせる。なぜそんな現象が起こるのか。想像するならそれは、配達を頼まれた荷物に残った思いなり、受け取る側が荷物に託した思いが現れたものだ。荷物に振り回されるように、まさに東奔西走する陶子の姿を通すことで、ひとつの物を介してつながり、重なりあう人の気持ちを読む人に感じさせる。
配達人はただ運べばいいかもしれない。いわれたことをやっていさえいれば足りる仕事かもしれない。けれども、それだけでは漏れてしまう、こぼれてしまう様々な人間の思いがる。それをすくいあげ、かなえてあげる。そんな陶子たちの働きぶりを読むことによって、人は合理性やら対面やらで捨ててしまいがちになる、心の大切さというものを感じるのだ。
続編の「超特急便ガール!!」(メディアワークス文庫、650円)でも、運ばれる荷物に込められた、運んで欲しい人の思いや、受け取る人の願いがくっきりと見えてきて、荷物が媒介となって通う人の感情の熱さ、美しさに触れられる。別れた妻が連れて行った娘に、人気のぬいぐるみを渡したかった父親の思いをかなえ、事故により無くなった創業社長が届け損なった、荷物の行き先を見つけだして社内に漂っていたわだかまりを晴らす。
運ぶ機械ではなく、運ばれる物ではない荷物と配達人の喜びや悲しみに触れて、そこを居場所にしたいと思うようになる陶子。けれども、一方では少しばかりの未練も抱えてまよっていた彼女に、ひとつの選択がつきつけられる。そこで出した答えとは? そして起こった幻想とは? 1段上がった陶子の力がこの次ぎに何を運ぶのか、それによって誰がどんな喜びを得るのか。楽しみがふくらんできた。
リストラに喘ぎながらも時分自身を失わず、常に前向きで力強く生きる陶子の姿は、働く女性や男性に大いに人気となりそう。強烈だが突飛ではないキャラクター描写は、ライトノベル出身ならではの特質。その強さが感動のストーリーを絡みあって、読み手に夢と希望にあふれた至福の時間をもたらしてくれる。ライトノベル出身だからと気にせず、そして一般小説だからを敬遠せず、すべての人に手に取って欲しい作品だ。
2011年09月30日
『ウッドストック 第1巻−第11巻』(浅田有皆、新潮社、505円−514円)
「TO−Y」から始まった。上条淳士が1985年から87年にかけて描いた漫画は、ロックの世界でのし上がっていく少年の姿を描いて、華やかさと厳しさを併せ持った音楽の世界に憧れる若い読者の、熱い支持を集めて大ヒットした。
音を聴かせられない漫画では、音楽そのもののの素晴らしさを伝えることは不可能だ。スポーツ漫画がプレー描写の凄さでファンを掴み、恋愛漫画がシチュエーションの楽しさで男女を惹きつけるような、そんな広がり方ができないハンディを、音楽漫画は生まれながらに持っている。
けれども、「TO−Y」は、そんな壁をいとも簡単に突破した。音楽というものに取り組む少年や少女のスタイルを、持ち味ともいえるスタイリッシュな線で描き、パッションが弾けるドラマとして紡ぎだしては、読む人たちの目をくぎ付けにした。ステップを踏んでのし上がっていくストーリーに興奮し、すべてが弾け飛ぶライブのシーンに感動を覚えた。
見ていると、流れていない音楽が聞こえてくる。聴衆の叫びが耳に届く。それらを全身に浴びながら、共に汗を流して歓喜する。漫画でも音楽を体験できると気づかされた。
音楽は漫画に成り得る。そう知って後に続いた漫画たちから、やがて、ハロルド作石の「BECK」が生まれ、若杉公徳の「デトロイト・メタル・シティー」が生まれ、矢沢あいに「NANA」が生まれた。かきふらいの「けいおん!」も。音楽を媒介にしてつながる仲間たちがいる楽しさが、結果として音楽そのものの素晴らしさを感じさせて、多くをバンドの世界へと引っ張った。
浅田有皆の「ウッドストック」(新潮社)というシリーズも、そんな音楽漫画の系譜に連なる1作で、そして過去の数々のヒット作に負けない強さと、熱さと、激しさを持って読む人に迫ってくる漫画だ。パンクロックに衝撃を受け、自分でもロックに進みたいと思った主人公の成瀬楽が、ひとり演奏して合成した音楽を、「チャーリー」という架空のグループ名でネット上から配信していたところ、だんだんと評判になっていく。
そんなに音楽が好きなら普通は、誰かとバンドを組んだりするもの。ところが楽は、人見知りをする性格で、誰かとバンドを組むどころか、誰かと話すことすら苦手だった。運送屋で働きながら、ひとり宅録に励んでいたところに、運命を変える出会いが訪れる。
「チャーリー」の音楽に憧れ、メジャー寸前のバンドを辞めたベースの町田要ことサイが、楽の働く運送屋に入って来た。運送屋として楽が出入りしていたライブハウスの女性チーフ、新山椎奈も「チャーリー」のことを気に入っていた。そんなサイや椎奈との出会いから、楽は本当のバンドとしての「チャーリー」を立ち上げる。ボーカルも、空手少女で豊かな声量を持った前田鈴音ことスウが加わって、「チャーリー」は本格的なライブバンドへと歩を進める。
そこから先、評判を高めてのし上がっていく「チャーリー」の前に立ちふさがる偽者の「チャーリー」があり、楽たちの才能を認めてツアーに誘うライブバンドがありと様々なエピソードが積みかさねられていくシリーズ。掲載されていた雑誌の一新もあってとりあえずの結末を付けて終えた単行本の第10巻の後から、章を新たに立てるように「@バンチ」誌上で始まった連載が、「ウッドストック 第11巻」(新潮社、514円)にまとめられた。
フェスティバルで伝説を作った直後。いよいよこれからだと誰もが思っていた矢先、初期の頃からアメリカ行きをほのめかしていたサイが、「チャーリー」からの離脱を表明する。裏切られたような気分に惑いながらも楽は、話し合い理由を聞き、迷いと折り合いをつけ、気持ちよくサイを送り出そうと決めて、その記念にとCDのレコーディングに臨む。
順風満帆に見える「チャーリー」の快進撃。そこに入る四谷というミュージシャンの横やりが、才能への嫉みが少なからずある音楽の世界の厳しさ、難しさを描く。一方で、オタクっぽくって気弱そうな雰囲気とは正反対の、悪辣で陰険な四谷のやり口。平気で騙し、嘘を語り、暴力すら辞さない態度には、ひたすらの憤りが浮かぶ。
もっとも、そこまでして音楽という舞台で自分を輝かせたいんだと願う情熱の深さは、ある意味で誰よりも1番かもしれない。そんなスタンスが音楽に現れ凄みとなっていたから、楽も騙されたと嘆くだけには止まらない。そこまでやる奴なんだと認めつつ、音楽にかけては自分以上にストレートな四谷の心を受け止めて、自分自身の音楽を探究する方向へと向かっていく。
青春につきものの恋愛ストーリーもなければ、可愛い美少女たちが他愛もない会話に明け暮れるような柔らかさもない。ひたすらに熱くて激しい音楽ストーリーが繰り広げられながら、飽きずむしろ引き込まれるのは、悪役さえもが音楽というものに強く思いを乗せている、そんな姿が描かれているからだろう。
そう音楽。どんな苦難があってもすべてを音楽の持つ純粋な力でねじ伏せ、突破していく楽と「チャーリー」の姿が、音楽というものが持つ何者にも代え難い強さを感じさせて、それを行う者たちへの憧れをかき立てる。読み終えれば誰もが音楽に勤しみたくなるはずだ。
浅田有皆によって描かれる演奏シーンがまた格好良い。漫画だからもちろんどこからも音楽は聞こえてこないが、ベースを弾くサイは重量感があり、ギターを弾く楽は軽やかな中にねちっこさを感じさせ、ドラムの椎奈はとてつもないパワーを腹の底に響かせる。ボーカルのスウも、腹の底からシャウトしている感じが出てる。そんなシーンを見ているだけで、耳に「チャーリー」の音楽が届いてくる。
もしもこれが映像化されるとしたら、いったい誰が演じられるのか。そもそも音楽はどうすれば良いのか。きっと難しいに違いない。けれども問題ない。映像になんてしなくても、ここの「ウッドストック」という漫画あれば、開くだけで音があふれ出てくる。単行本を手に取り、開いて楽の純粋、サイの真剣、椎奈の抱擁にスウの突破を目にすれば、そこに激しくステージを動き回り、迫力のサウンドを奏でる「チャーリー」の姿を目の当たりに出来る。
この単行本がライブチケット。お求めはプレイガイドではなく書店で。
音を聴かせられない漫画では、音楽そのもののの素晴らしさを伝えることは不可能だ。スポーツ漫画がプレー描写の凄さでファンを掴み、恋愛漫画がシチュエーションの楽しさで男女を惹きつけるような、そんな広がり方ができないハンディを、音楽漫画は生まれながらに持っている。
けれども、「TO−Y」は、そんな壁をいとも簡単に突破した。音楽というものに取り組む少年や少女のスタイルを、持ち味ともいえるスタイリッシュな線で描き、パッションが弾けるドラマとして紡ぎだしては、読む人たちの目をくぎ付けにした。ステップを踏んでのし上がっていくストーリーに興奮し、すべてが弾け飛ぶライブのシーンに感動を覚えた。
見ていると、流れていない音楽が聞こえてくる。聴衆の叫びが耳に届く。それらを全身に浴びながら、共に汗を流して歓喜する。漫画でも音楽を体験できると気づかされた。
音楽は漫画に成り得る。そう知って後に続いた漫画たちから、やがて、ハロルド作石の「BECK」が生まれ、若杉公徳の「デトロイト・メタル・シティー」が生まれ、矢沢あいに「NANA」が生まれた。かきふらいの「けいおん!」も。音楽を媒介にしてつながる仲間たちがいる楽しさが、結果として音楽そのものの素晴らしさを感じさせて、多くをバンドの世界へと引っ張った。
浅田有皆の「ウッドストック」(新潮社)というシリーズも、そんな音楽漫画の系譜に連なる1作で、そして過去の数々のヒット作に負けない強さと、熱さと、激しさを持って読む人に迫ってくる漫画だ。パンクロックに衝撃を受け、自分でもロックに進みたいと思った主人公の成瀬楽が、ひとり演奏して合成した音楽を、「チャーリー」という架空のグループ名でネット上から配信していたところ、だんだんと評判になっていく。
そんなに音楽が好きなら普通は、誰かとバンドを組んだりするもの。ところが楽は、人見知りをする性格で、誰かとバンドを組むどころか、誰かと話すことすら苦手だった。運送屋で働きながら、ひとり宅録に励んでいたところに、運命を変える出会いが訪れる。
「チャーリー」の音楽に憧れ、メジャー寸前のバンドを辞めたベースの町田要ことサイが、楽の働く運送屋に入って来た。運送屋として楽が出入りしていたライブハウスの女性チーフ、新山椎奈も「チャーリー」のことを気に入っていた。そんなサイや椎奈との出会いから、楽は本当のバンドとしての「チャーリー」を立ち上げる。ボーカルも、空手少女で豊かな声量を持った前田鈴音ことスウが加わって、「チャーリー」は本格的なライブバンドへと歩を進める。
そこから先、評判を高めてのし上がっていく「チャーリー」の前に立ちふさがる偽者の「チャーリー」があり、楽たちの才能を認めてツアーに誘うライブバンドがありと様々なエピソードが積みかさねられていくシリーズ。掲載されていた雑誌の一新もあってとりあえずの結末を付けて終えた単行本の第10巻の後から、章を新たに立てるように「@バンチ」誌上で始まった連載が、「ウッドストック 第11巻」(新潮社、514円)にまとめられた。
フェスティバルで伝説を作った直後。いよいよこれからだと誰もが思っていた矢先、初期の頃からアメリカ行きをほのめかしていたサイが、「チャーリー」からの離脱を表明する。裏切られたような気分に惑いながらも楽は、話し合い理由を聞き、迷いと折り合いをつけ、気持ちよくサイを送り出そうと決めて、その記念にとCDのレコーディングに臨む。
順風満帆に見える「チャーリー」の快進撃。そこに入る四谷というミュージシャンの横やりが、才能への嫉みが少なからずある音楽の世界の厳しさ、難しさを描く。一方で、オタクっぽくって気弱そうな雰囲気とは正反対の、悪辣で陰険な四谷のやり口。平気で騙し、嘘を語り、暴力すら辞さない態度には、ひたすらの憤りが浮かぶ。
もっとも、そこまでして音楽という舞台で自分を輝かせたいんだと願う情熱の深さは、ある意味で誰よりも1番かもしれない。そんなスタンスが音楽に現れ凄みとなっていたから、楽も騙されたと嘆くだけには止まらない。そこまでやる奴なんだと認めつつ、音楽にかけては自分以上にストレートな四谷の心を受け止めて、自分自身の音楽を探究する方向へと向かっていく。
青春につきものの恋愛ストーリーもなければ、可愛い美少女たちが他愛もない会話に明け暮れるような柔らかさもない。ひたすらに熱くて激しい音楽ストーリーが繰り広げられながら、飽きずむしろ引き込まれるのは、悪役さえもが音楽というものに強く思いを乗せている、そんな姿が描かれているからだろう。
そう音楽。どんな苦難があってもすべてを音楽の持つ純粋な力でねじ伏せ、突破していく楽と「チャーリー」の姿が、音楽というものが持つ何者にも代え難い強さを感じさせて、それを行う者たちへの憧れをかき立てる。読み終えれば誰もが音楽に勤しみたくなるはずだ。
浅田有皆によって描かれる演奏シーンがまた格好良い。漫画だからもちろんどこからも音楽は聞こえてこないが、ベースを弾くサイは重量感があり、ギターを弾く楽は軽やかな中にねちっこさを感じさせ、ドラムの椎奈はとてつもないパワーを腹の底に響かせる。ボーカルのスウも、腹の底からシャウトしている感じが出てる。そんなシーンを見ているだけで、耳に「チャーリー」の音楽が届いてくる。
もしもこれが映像化されるとしたら、いったい誰が演じられるのか。そもそも音楽はどうすれば良いのか。きっと難しいに違いない。けれども問題ない。映像になんてしなくても、ここの「ウッドストック」という漫画あれば、開くだけで音があふれ出てくる。単行本を手に取り、開いて楽の純粋、サイの真剣、椎奈の抱擁にスウの突破を目にすれば、そこに激しくステージを動き回り、迫力のサウンドを奏でる「チャーリー」の姿を目の当たりに出来る。
この単行本がライブチケット。お求めはプレイガイドではなく書店で。
『奧ノ細道・オブ・ザ・デッド』(森晶麿、PHP研究所、619円)
傑作オブ・ザ・デッド。
なんて感じに語尾に“オブ・ザ・デッド”を付けてみると、何かとってもぐちゃぐちゃとして、どろどろとして、ぬらぬらとしていそうな雰囲気が漂うもの。こいつの場合も同様で、その名も「奧ノ細道・オブ・ザ・デッド」(スマッシュ文庫)は、タイトルを見れば何がどう描かれているかがピンと来て、そしてぐちゃぐちゃとして、どろどろしてぬらぬらとしたシーンが、東北を舞台に繰り広げられるに違いないと感じさせる。
むしろ、出オチに近いタイトルとも言えるかもしれないこの作品。「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句で有名な松尾芭蕉が、東北地方を旅して書いた「おくのほそ道」を下敷きに、オブ・ザ・デッドすなわちゾンビが道中に現れ、芭蕉たちを襲う話だろうと想像が浮かんでくる。
けれどもそんな安易さにまとまらない。どういうキャラクターが登場して、どんな展開になっているかというところで、第1回アガサ・クリスティー賞というミステリーの正統な賞を受けながら、その刊行より先にこの作品を世に問うことになった森晶麿の、そんな多彩さ、あるいはひねくれ具合が、物語の中に思いっきり炸裂しているからたまらない。
何しろ俳諧師の松尾芭蕉がイケメンの青年で、付き従う曾良という弟子が女装の似合う美少年。そして、江戸に突然現れたゾンビたちが、どうしてこんなに増えたのか、その理由を探るべく柳沢吉保に命じられて赴いた北関東から東北の地域で、芭蕉や曾良たちが出会う奴らは、最初は人間でもすぐに襲われゾンビと化し、芭蕉にくないをぶち込まれて倒されるという、激しくてスピード感たっぷりの展開で進んでいく。
途中に出会った美少女の姉妹は、ゾンビじゃないけれどゾンビに人肉を与える悪行を遂行しようとして、芭蕉たちを襲ったもののかわされお互いに胸を刺して死ぬという悲惨な末路を迎える。曾良と出会ったいたいけな少女も、現れたゾンビから曾良を守ろうとしてゾンビにかまれた挙げ句、ゾンビとなって暴れ出したところを、芭蕉によって一撃で滅殺されてしまう。離別の情緒も何もあったものではない。
もっとも、そんなスピード感でつづられるからこそ、文庫というそれほど長くはできない物語の中で、江戸での端緒、北関東での騒動から東北へと入り平泉へと向かう道中を、しっかり描いては行く先々での戦いを、描いていかにも「おくのほそ道」を読んだといった気持ちにさせてくれる。
なおかつ素晴らしいのは、本物の芭蕉による「おくのほそ道」で詠まれる俳句のことごとくが、同じような場所でそのままに詠まれるものの、状況が現実とはまるで違っているところ。発句のほとんどの場面がゾンビとの激しい戦闘の後。だから、自然の移ろいを詠んだ元の句のような、静謐な風景とはまるで違った陰惨で血みどろな風景が、その句から瞼の奧へと浮かんでくる。
この「奧ノ細道・オブ・ザ・デッド」を読んだ後で、本物の「おくのほそ道」を読んだ時にいったい、読者の脳裏にはどんな風景がひろがるか。風か吹きすさぶ荒れ野に、かつてここを根城に戦った武将たちの思いだけが漂うのか、それともミイラからゾンビとなって甦った武将たちが、うじゃうじゃと動き回っては凄惨なバトルを演じた光景が浮かぶのか。あまりに強烈な後者の光景に、きっと誰もが「奧ノ細道オブ・ザ・デッド」に引っ張られてしまうことになるのだろう。
そんなバトルもあれば、曾良が女装して艶姿を見せたり、芭蕉との禁断の恋愛めいた雰囲気も漂う作品を飾る表紙と、導く口絵漫画と彩るイラストは、現代に忍者がいたら果たしてどういった生活をしているのか、といったテーマでイラストを描いて評判のイラストレーター、天辰公瞭さんが担当。耽美で美麗なキャラたちを、おぞましいゾンビともども描いてみせてくれる。
萌え絵一辺倒のライトノベルにあって、突出した耽美さと艶やかさを持ったイラストは、本編の凄まじくも素晴らしい作品へと、当然のように与えられるだろう絶賛とも相まって、世間にその存在を強く認知させるに違いない。
共に著しい注目を集めたその後は、完全な解決を見ないまま東北の地で立ち止まっている芭蕉と曾良の旅の行方、謎めくゾンビたちの正体、さらには江戸城の奧で起こっている政変とも革命とも言えそうな事態の今後などを、共に書き知るし描き染めていってくれると信じたい。
『サムシング・フォー〜4人の花嫁、4つの謎〜』(有間カオル、アスキー・メディアワークス、590円)
「スライドはやめてください」と、新婦がブライダルプランナーの提案をさえぎる。2年ぶりにブライダルプランナーに復帰した間宮菫子に任されたカップルは、新婦の気持ちが揺れ動いて、1カ月先に迫った披露宴の式次第が決まらない。ウェディングドレス姿を誉めても暗い顔。マリッジブルーにしてはナーバス過ぎる感情を露わにしていた新婦は、どうにか迎えた挙式の直前、メイク室から消えてしまう……。
人の心はミステリアス。ましてや、人生でも大きな転機となる結婚というイベントで、当事者の心は想像もつかない方向へと飛躍したり、沈み込んだりして周囲を戸惑わせる。スライドを嫌がった新婦がそう。何度も披露宴会場を見学して、席の並びや自分が歩く場所を聞き、それでもどこか心配そうな新婦も同じ。そんな、結婚式場だからこそ起こるさまざまな難事に対応する、菫子らアンジェリス迎賓館スタッフの奮闘を描いたのが、有間カオルの「サムシング・フォー 〜4人の花嫁、4つの謎〜」(メディアワークス文庫、590円)だ。
菫子ひとりが探偵役となって、トラブルを解決していくのではなく、持ち上がる難題を、読む側もいっしょに考えながら、花嫁の告白などで理由を知って、解決に向かう展開を見守るストーリー。どこか冷たそうな印象の伊月というバンケットスタッフ長の男が、突っ走りがちな菫子の見落としをフォローして、挙式中止という最悪の危機を乗り越える展開は、税務署で働く女性とその堅物の上司を主人公にした、高殿円の「トッカン−特別国税徴収官」に出てくるぐー子と鏡の関係に似ている。
あちらがお金に絡む人の執念なら、こちらは結婚にまつわる人の迷いを取り上げたミステリー。菫子自身が抱える迷いにも踏み込むクライマックスが、あらゆる難事の根っこにある臆病さを示し、勇気を出そうよと問いかける。何度も現れ菫子に問いかける少女の正体は? 勝手に封印していた過去から、誰か解き放って欲しいと願う自分の気持ちが見せた幻か、それとも本当に封印されてしまっていた過去が、菫子に解放を呼びかけたものなのか。結婚という人生の大事が人にもたらす様々を、ここから考えていけそうだ。
ライトノベルの枠組みに収まらない秀作に与えるメディアワークス文庫賞を初受賞したデビュー作「太陽のあくび」(メディアワークス文庫)や、登場人物が重なる「めげないくんとスパイシー女上司−女神たちのいる職場−」(メディアワークス文庫)は、瞬時の売り上げを競い合うシビアなテレビ通販会社の内情が描かれた、社会派の面を持ったコメディタッチの長編だった。今度は結婚式場。働くプロたちの日常に迫れる作家がライトノベル寄りのレーベルから、また1人現れた。
タイトルになっている「サムシング・フォー」とは結婚式で花嫁が身につけると、幸運につながるという4つのアイテム。新しいものと古いもの、借りたものに青いもの。それぞれをサブタイトルに選んだ短編では、「サムシング・ニュー」では新しい自分への自信を花嫁が問われ、「サムシング・オールド」では古い家族との絆に花嫁がこだわり、「サムシング・ボロー」では自分たちのためではなく、母親たちのために借りて来るような式への不安に花嫁が迷う。
最後の「サムシング・ブルー」だけは花嫁に関する物語はないが、その代わり、水色のドレスを着た少女の物語が菫子に決心をもたらす。それは、新たな花嫁として菫子が立つ予兆? ならばかたわらには誰が? あの乱暴で無感動な男だけは有り得ないと思うか、それともあの慎ましさの中に見せる真摯な気持ちが良いと見るか。その行く末を想像しがら、未だ「サムシング・フォー」を身につける女性をかたわらに置けない男性は身の処し方を考え、やはり「サムシング・フォー」に縁遠い女性は男性の魅力とは何かを改めて問い直し、その花道へと近づこう。
人の心はミステリアス。ましてや、人生でも大きな転機となる結婚というイベントで、当事者の心は想像もつかない方向へと飛躍したり、沈み込んだりして周囲を戸惑わせる。スライドを嫌がった新婦がそう。何度も披露宴会場を見学して、席の並びや自分が歩く場所を聞き、それでもどこか心配そうな新婦も同じ。そんな、結婚式場だからこそ起こるさまざまな難事に対応する、菫子らアンジェリス迎賓館スタッフの奮闘を描いたのが、有間カオルの「サムシング・フォー 〜4人の花嫁、4つの謎〜」(メディアワークス文庫、590円)だ。
菫子ひとりが探偵役となって、トラブルを解決していくのではなく、持ち上がる難題を、読む側もいっしょに考えながら、花嫁の告白などで理由を知って、解決に向かう展開を見守るストーリー。どこか冷たそうな印象の伊月というバンケットスタッフ長の男が、突っ走りがちな菫子の見落としをフォローして、挙式中止という最悪の危機を乗り越える展開は、税務署で働く女性とその堅物の上司を主人公にした、高殿円の「トッカン−特別国税徴収官」に出てくるぐー子と鏡の関係に似ている。
あちらがお金に絡む人の執念なら、こちらは結婚にまつわる人の迷いを取り上げたミステリー。菫子自身が抱える迷いにも踏み込むクライマックスが、あらゆる難事の根っこにある臆病さを示し、勇気を出そうよと問いかける。何度も現れ菫子に問いかける少女の正体は? 勝手に封印していた過去から、誰か解き放って欲しいと願う自分の気持ちが見せた幻か、それとも本当に封印されてしまっていた過去が、菫子に解放を呼びかけたものなのか。結婚という人生の大事が人にもたらす様々を、ここから考えていけそうだ。
ライトノベルの枠組みに収まらない秀作に与えるメディアワークス文庫賞を初受賞したデビュー作「太陽のあくび」(メディアワークス文庫)や、登場人物が重なる「めげないくんとスパイシー女上司−女神たちのいる職場−」(メディアワークス文庫)は、瞬時の売り上げを競い合うシビアなテレビ通販会社の内情が描かれた、社会派の面を持ったコメディタッチの長編だった。今度は結婚式場。働くプロたちの日常に迫れる作家がライトノベル寄りのレーベルから、また1人現れた。
タイトルになっている「サムシング・フォー」とは結婚式で花嫁が身につけると、幸運につながるという4つのアイテム。新しいものと古いもの、借りたものに青いもの。それぞれをサブタイトルに選んだ短編では、「サムシング・ニュー」では新しい自分への自信を花嫁が問われ、「サムシング・オールド」では古い家族との絆に花嫁がこだわり、「サムシング・ボロー」では自分たちのためではなく、母親たちのために借りて来るような式への不安に花嫁が迷う。
最後の「サムシング・ブルー」だけは花嫁に関する物語はないが、その代わり、水色のドレスを着た少女の物語が菫子に決心をもたらす。それは、新たな花嫁として菫子が立つ予兆? ならばかたわらには誰が? あの乱暴で無感動な男だけは有り得ないと思うか、それともあの慎ましさの中に見せる真摯な気持ちが良いと見るか。その行く末を想像しがら、未だ「サムシング・フォー」を身につける女性をかたわらに置けない男性は身の処し方を考え、やはり「サムシング・フォー」に縁遠い女性は男性の魅力とは何かを改めて問い直し、その花道へと近づこう。