2016年11月11日

映画『この世界の片隅に』

 ひとつの奇跡の誕生に今、私たちは居合わせている。

 こうの史代さんの漫画を原作にして、『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年公開)の片渕須直さんが監督した長編アニメーション映画『この世界の片隅に』が2016年11月12日に公開となる。構想が持ち上がってから実に6年。途中で企画が途絶える可能性もあったが、スポンサーを納得させるため、クラウドファンディングでパイロットフィルムを作る資金を募り、3900万円以上を集め3374人もの応援を得て、製作が本決まりとなった。

そうした経緯も奇跡だし、かつてない感動をもたらしてくれる作品に出会えるというのもやっぱり奇跡。幾つもの奇跡に包まれた作品が、映画『この世界の片隅に』だ。

 ストーリーについて簡単に書くなら、広島市の海寄りにある町、江波に暮らしているすずという少女が主人公。厳しい兄や可愛い妹、そして父母や親戚に囲まれながらすくすくと育って18歳になっていたすずさんは、軍港や工廠がある呉の北條家に嫁いで長男の周作の嫁になる。

 時代は昭和19年。日本は戦争のただ中にあって、北條家での生活も配給がだんだんと乏しくなり、やがて空襲も始まってすずさんの周囲に悲しい出来事が幾つも起こる。そして昭和20年8月6日。広島へ原爆が投下され、悲劇はさらに濃さを増す。そうしたできごとは、これまでも歴史として語られ、小説や映画として描かれ、漫画にもなって今に伝えられてきた。

 『この世界の片隅に』も同様に、戦争によってもたらされた惨劇を嘆き、離別に泣ける映画かと言うと、一面では当たっているもののすべてではない。昭和の時代ならまだ普通だった、女性が恋愛とは切り離され、見知らぬ男の家に嫁として迎えられ、早朝から夕方まで働きづめに働く姿に、同情して泣けるといった部分もあるが、それも一側面に過ぎない。

 この作品で浮かぶ心底からの感涙は、実は嬉し涙だ。映画の最後に近い場面で繰り広げられる救いのドラマ。そこで得られる喜びに、グッと涙がこみ上げてくる。

 物語のラストシーンに描かれるある出会いが、離別に泣き理不尽に憤って呆然としていた心に涼風をもたらして、新しい未来をここから始めようといった気にさせてくれる。戦争という恐ろしくて残酷なモチーフがふんだんに繰り出される映画だろうと思い込み、敬遠するならそれは間違いだ。良かった。本当に良かった。そんな嬉しさを思い抱いて劇場を後にできるところに、この『この世界の片隅に』が持つ価値がある。

 戦時下の描写も、怒りや憤りで目を向けられないということはない。すずさんという女性がいて、厳しい毎日でも淡淡と生きている姿に触れているうちに、そうした日々が苦にならなくなってしまう。ながめていてほっこりとするキャラクター。生み出したこうの史代さんの筆も凄いし、そんなキャラクターを表情も仕草も豊かに描いて動かしてみせた片渕須直監督らアニメーションのスタッフも凄い。

 もちろん、声を演じたのんさんも凄くて素晴らしい。言うまでもなく本名を能年玲奈さんという、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』でヒロインを務め、国民的な人気を得た女優のことで、そののんさんが初めての主演声優をこの映画で務めた。印象は『完璧』の一言。冒頭からほとんど喋りっぱなしで、彼女のモノローグによって引っ張られていく映画とも思えるくらいに語っている。そうした語りも、キャラクターに沿った演技もまるで違和感がない。本人がすずさんになりきって、地を見せているだけなのかもしれないとすら思えてくる。

 ぼおっとしてとぼけた雰囲気もすずさん、ときおりのぞかせる静かな怒りもすずさん、激しく怒って嘆き叫ぶ様もすずさん。のんさんという存在がイコールすずさんとなってそこに現れる。『あまちゃん』の熱烈なファンは、天野アキとしてののんさんを重ねて見始めるかもしれないが、すぐさますずさんという存在に変わって、そのまま最後まで連れて行かれる。見終わった時にはそこにすずさんしかいなかった。そう感じるはずだ。絶好の配役を、片渕須直監督の願うままに得られたというのも、またひとつの奇跡だろう。

 のんさんが演じるすずさんによって、ほんわかとした空気の中で繰り広げられる家族の日常が、だんだんと厳しくなっていってもなお、それは仕方が無いことだと思わされてしまうところがある。実はこれがくせ者だ。空襲の暴力であり、離別の悲劇であり、離散の苦悩といったものを、あの時代のあの状況にあって至極当たり前のことと感じてしまう頭になってしまったのかもしれないから。そういう風に馴らされてしまった果て。終戦を迎えて日本の降伏を告げる玉音放送を聞いたすずさんが見せる激しさに、誰もがハッと目を覚まされる。

 どんな苦労ものほほんと受け入れていた毎日が、実は非日常だったと分かって、これまで何のために苦労をしてきたのだと憤った激情が、激しく外へと吹き出す。その姿を見て、理不尽なことが当たり前になってしまっている今を思い起こして考える。本当の日常とは、本来の幸福とは何なのだろうと問い直す。そんなきっかけを与えてくれる映画だ。

 それでもやはり、いつものほほんとしてドジなところもあるすずさんの可愛らしさに見惚れてしまうのは否めない。あの時代に生きた人たちの丁寧な暮らしの再現があり、表情や仕草の描写があり、フッと心を癒やされるコミカルなシーンが連なって、気持ちをスクリーンへと引っ張り続けられる。129分に及ぶ長さがありながらも、短いとすら感じさせられる。そして見終わって思う。素晴らしい時間をありがとうと。語りたくもなる。みなもそんな時間に触れに劇場へと足を運ぼうと。

 語りたくなって、自分でもまた見たくなって、そしてまた語ってしまう連鎖が、この映画を世の中へと広めていく。永遠に語り継がれる映画へと押し上げる。そんな奇跡が誕生する様を、遠くから眺めているだけではつまらない。あなたも参加して、奇跡を生み出す存在になろう。  
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2014年08月22日

『サクラコ・アトミカ』(犬村小六、星海社文庫、780円)

 劇場アニメーション映画にもなった犬村小六の『とある飛空士への追憶』は、皇太子妃になると決まった少女を乗せ、敵軍の包囲網をかいくぐって空を飛び、海を越えて運ぶ青年パイロットの物語に、身分違いの恋といったテーマが絡められてラブロマンス好きを引きつけました。その犬村小六が、星海社文庫から刊行した『サクラコ・アトミカ』もまた、『とある飛空士への追憶』以上に差がある身分や立場を乗り越えて、少女と少年が惹かれ合うようになる壮絶なラブストーリーが、想いを貫き通す大切さを感じさせてくれます。

 阿岐ヶ原の姫・サクラコは、その顔を見た男の誰もが欲望もあらわな獣になるか、畏敬の念で身動きがとれなくなるという美貌の持ち主。そんなサクラコの話を耳にした、天才物理学者で丁都を治める知事のディドル・オルガは、「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」という言葉を思いつき、サクラコの細胞すべてを核分裂物質に置き換え、阿岐ヶ原も含む周辺の都市を焼き払う矢として放つ装置を作ろうと、彼女を丁都に拉致してきます。

 恐るべきディドル・オルガの企みに、周辺の都市からは丁都を攻める軍隊が派遣されますが、驚異的な科学力を持つ丁都軍の前に跳ね返されます。そしてサクラコは、オルガの言いなりにはなりたくないと、囚われている塔から身を投げるのですが、そこに現れ落下するサクラコを軽々と捕まえ、塔へと戻したのがナギ・ハインリヒ・シュナイダーという少年。といっても普通の人間ではなく、オルガが作り出した一種の兵器で、感情を持たずサクラコの美貌に昂奮も萎縮もしないで、牢番としての仕事を黙々とこなします。

 サクラコが塔から連れ出してくれと叫んでも、遠くに見える観覧車に乗りに行きたいと頼んでも、命令にないと拒絶し続けていたナギでしたが、サクラコの誕生に関わる秘密を聞いて、その気持ちに変化が生まれます。サクラコの方も、自分を拉致した一味でありながら、自分をひたすら守ろうとするナギに、次第に心を寄せるようになっていきます。囚われの姫と牢番という、正反対の立場にある少女と少年の純愛ストーリー。それだけでも行方が気になる『サクラコ・アトミカ』には、さらに驚くような展開が待ち受けています。

 わがままで居丈高なサクラコと、寡黙で強靱なナギとのラブコメチックなやりとりが綴られたエピソードに挟まるように描かれるのは、丁都に迫る身の丈120メートルもある巨人との戦い。ナギの姉という指揮官が、強力なはずの丁都軍を率いて立ち向かっても倒せないその巨人の、悲劇的な運命を背負った正体が明らかにされ、そこにオルガによって「原子の矢」に変えられてしまったサクラコの想いが重なった時。たとえ報われなくても、そして引き離されても、貫かれようとする愛の強さが浮かび上がって来るのです。

 「祈れ。命に不可能はない」というラストの言葉が表しているように、命さえあれば必ずは明日は来ると感じられ、絶対に未来は開けるのだと教えられる物語。それが『サクラコ・アトミカ』です。2011年に星海社FICTIONSから刊行されたものに加筆修正されたこの文庫版で、前にも増して高らかに鳴り響く生命への賛歌を感じ、少女から少年へ、そして少年から少女へと向けられる想いの鮮烈さを浴びて下さい。  
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2013年05月17日

『機械仕掛けの愛1』(業田良家、小学館、524円)

 ロボットに心はあるのか。人間が主観的に感じているのと同様に、ロボットには自ら思考して答えを出す、心のようなものがあるのか。機械だけあって単純に、積み重ねられた膨大のデータから取捨選択して、反応しているだけに過ぎないのか。たとえ反応に過ぎないのだとしても、それが人間の心の動きといったいどう違うのか。そもそも人間の心とは何なのか。

 小説や漫画や映画やアニメーションといったジャンルで多く描かれ、様々なバリエーションが生み出されている、ロボットの心という命題を含んだ物語。これに、「自虐の詩」などの作品を持つ漫画家の業田良家が挑んだのが、「機械仕掛けの愛 1」(小学館、524円)という連作集。現れたのは、人間に似て非なる存在としてのロボット、人間に従い人間を助けるロボットを一種の鏡に見立てて、人間という存在の特質を浮かび上がらせようとした物語たちだ。

 冒頭の「ペットロボ」というエピソード。夫婦の間で娘として育てられている少女のロボットは、“まい”という名を与えられ、遊園地にも連れて行ってもらったりと、かわいがられていた。それでも2年が経って、少女のロボットに飽きがきた夫婦は、新しい男の子のロボットを家に引き入れ、かわいがり始める。捨てられたり売られたりはしなかったものの、このままではいずれ外に出されてしまうと感じた“まい”は、かつて自分を育ててくれた女性のもとへと向かう。

 生活した記憶を残しておいた方が、人間らしい仕草や表情を見せられるからと、リセットされないで転売された“まい”は、優しかった彼女のことを覚えていて、また一緒に暮らせないのかと思って懐かしい場所へと向かう。もっとも、その女性がロボットを手放したということは、すなわち女性に本当の子供が出来ていたということ。たどりついた家で、本当の娘をかいがいしく世話をする女性を遠目に見て、“まい”は足を止める。

 ほどなくして、逃げたロボットを追いかけてきた会社の人に捕まり、連れて行かれようとしていた“まい”を見つけて、女性は「ルミちゃん……」とかつての名前で呼び止める。けれども、少女のロボットは「ワタシ、まいと申します」と言って微笑み、目の縁に涙のようなものを浮かべて去っていく。工場で今度は完全に過去の記憶を消去されてしまった少女のロボットは、中古品として店頭に並べられる。そこに、かつて彼女を“ルミ”と呼んでいた女性が現れ、もう自分を覚えていないだろう少女のロボットを買い取り、自分の家へと連れ帰る。

 捨てられるかもしれないという不安を抱き、かつて面倒を見てくれた優しい女性のところに行こうとする“まい”の思考が、ロボット工学的に正しいのかどうかを判断するのは難しい。ただ、人間に似ていても、道具でありペットに過ぎないロボットという存在を設定を入れ込むことで、ドライな家族の関係をそこに描いて、生んだ子でも邪魔なら捨てられる昨今の風潮、希薄化する人と人との繋がりを想起させる。その上で、大切にしてくれた人を思い続ける健気さと、かつて共に暮らした存在を家族と認める優しさを浮かび上がらせ、読む人たちの涙を誘う。

 「リックの思い出」というエピソードでは、病気がちの母親と、その娘を世話していたロボットが、娘を突然の事故で失い、悲嘆にくれていた母親から、娘と自分のことを忘れないでいて欲しいと頼まれる。間をおかずに母親は死んで、ロボットは放逐され、職場を転々とした挙げ句にスクラップ工場へとたどり着く。20年近くが経って、限界を迎えていたロボットに待つのは解体される運命。それをされてしまうと、娘と母親の楽しかった思い出までもが消えてしまうと抵抗したロボットは、家電をリサイクルする際にチップに、自分が持つ娘と母親の思い出を入れ込んでいく。

 家族を失ったことを悔いるロボットはロボットなのかといった疑問を脇に置き、ロボットだからこそ出来る手段で、思い出を繋ごうとする健気な物語として読めて、感情を揺さぶられる。マスターとの幸せな暮らしが一転して、ロボットが放逐されてスクラップ工場行きになるのは、松山剛という作家の「雨の日のアイリス」(電撃文庫)とも重なるストーリー。思い出を得た家電たちが、ときどき思い出を反すうしてストップする様が、どこか人間らしいと好評を得る展開から、ロボットを人間に近づけるために必要なことへの思索が浮かぶ。

 死刑囚の教誨師をしている神父のロボットが、マスターである会社の命令に逆らって、死刑囚を助けようとするエピソードや、失敗ばかりする店員のロボットが、店長のロボットが優秀なことに人間が腹を立てないためのガス抜きとして、わざと劣等ロボットにされていると知らされ、それでも劣等ロボを貫こうとするエピソード。何ら打算を持たないで、人に従順なロボットの優しさや強さが、打算にまみれた人間の醜悪さを指摘する。

 そんなロボットと人との関係の切なさややるせなさ、ロボットと人とが理解しあった場所に生まれる情感の温かさが響く物語。正義に純粋過ぎて、違法な偽札を作って貧民たちに分け与え、処罰されたロボットの融通のきかなさに、頑な過ぎるロボットが、人間を不正義だと排除に走るかもしれないと不安を抱かせるエピソードもあるけれど、それすらも、人間が面倒だからと経験して手を付けようとしない問題を、クローズアップして見せる効果を放つ。

 ロボットに心はあるかもしれないし、ないかもしれない。ただし、人間には確実に心がある。優しかった母親を慕う少女のロボットの姿に涙し、少女と母親を思い続けるロボットに同情し、ぎくしゃくしていた息子と母親との関係を、どうにか修復しようとするロボットに愛おしさを感じることができたとしたら、それは人間の心が見せたものだ。そうやって得られた感情を、今度は世界の大勢の人たちに、心を感じることもできない苦境に喘ぐ人たちに、向けて出していくことが、「機械仕掛けの愛」を読み終えた、心を持つ人間の使命だ。  
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『ばいばい、にぃに。 〜猫と機関車〜』(柳川喜弘、小学館、619円)

 なぜ猫なのかといえば、原案のますむらひろしが、キャラクターをすべて猫で描いていたからだということが、ひとつにはあったけれど、杉井ギサブロー監督による映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」で、キャラクターが猫になったのは、それより以前からずっと、「銀河鉄道の夜」をアニメーション映画として描きたいと考えながらも、人間を主人公にしては描けないと杉井監督が、映像化をためらっていたことがあった。

 それは、宮沢賢治がこの「銀河鉄道の夜」という物語を、10年ほどかけて推敲に推敲を重ねて書き継いでいった結果、描写がどんとんと抽象化されているということがあって、そういった物語を人間という具体的過ぎる姿では、描けないという理由があったからだと、杉井監督から前に聞いた。

 そんなある時、ますむらひろしさんが猫で描いた「銀河鉄道の夜」が刊行されて、この手があったかと飛びつき、渋る宮沢賢治の著作権継承者や研究者たちを説き伏せ、納得させて映画を作り上げ、あの透明にして深淵な世界観を持った映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」を、ようやく世に出せた。

 つまりは、だから猫であるという理由が、あの作品にはしっかりとあった訳だけれど、柳川喜弘が描いた「ばいばい、にぃに。 〜猫と機関車〜」(小学館、619円)という漫画で、キャラクターが猫である理由はいったいなんだろうと考えると、浮かぶのはやはり、苛烈で残酷でもあるドラマを、それでも人に深く激しく感じてもらえるように描くには、優しさと親しみやすさを持った猫という、インタフェースを通す必要があったということになるのだろうか。

 かつて機関車と綽名され、前にひたすら出るボクシングスタイルで勝利を重ね、人気をはくした弐戸というボクサーがいたけれど、いよいよこれから世界を狙うという時、万引しようとした少年をとどめ、諌めようとして膝を刺され、それが原因でリングに立てなくなって引退し、今は廃品の雑誌をごみ箱などから拾い集めては、路上で並べて売って糊口をしのいでる。

 かつて一緒に親に捨てられ、街をさまよい歩いていた弟がいながらも、病気になって失ってしまった過去を持っていた弐戸。そこからボクシングという目標を見つけ、再起しながらも怪我で道を断たれてしまい、未来を失ってからずっと茫洋とした暮らしの中にあった。かつての弐戸の活躍を好み、今も再起を信じて面倒を見てくれるヤクザの組長や幹部もいたけれど、それでも立ち上がるのには遠かった。

 そんなある日、雑誌を拾いに立ち寄ったコンビニで、そういうことをされては困ると注意に出てきたアルバイトの青年が、死んだ弟の次郎にそっくりだと気づいた。なおかつその青年がボクシングをやっていると知って、弐戸は彼に好感を抱き、つきまとい、ボクシングを教え始める。

 実はその青年こそが、かつて弐戸を刺し、再起不能に追い込んだ少年だった。そのことを弐戸は知っているのかいないのか。不明ながらも弟の影を追い、また才能への光明を見て熱心にボクシングを教え込もうとする。そんな熱意にも青年は、自分がかつて弐戸を刺した少年だと告白できないまま、後悔を引きずりながらボクシングを続けている。

 「あしたのジョー」や「タイガーマスク」の時代に戻ったかのような、骨太で泥臭い物語。それを劇画調に描けばきっと、それなりに読ませるストレートで激しい物語になっただろう。けれども「ばいばい、にぃに〜猫と機関車〜」で柳川喜弘は、猫をキャラクターに選んだ。このことで世界に親しみやすさが浮かび、個々のキャラクターたちが持つ刺々しさが引っ込んで、どこかおだやかで優しい空気が漂うようになった。

 もちろん、ストーリー自体は、青年がヤクザから八百長をやるようにと申し込まれながらも、ボクサーでありたいとそれを断って、ヤクザの鉄砲玉につけねらわれるといった具合に、シリアスさを濃くして進んでいくし、そんな組長の企みを知ってかけつけ、青年を守り傷つく弐戸という壮絶なドラマも繰り広げられる。

 キャラクターが人間だったら、泥と血と汗にまみれた話となりそうなところが、猫の衣を被せることによって、ぐっと身に近寄ってきて、そして深いところまで読み込めそうな、そんな気にさせられる。死神という、弐戸に寿命を告げる存在も、猫で描かれるからこそそこに存在を許される。

 こういった解釈がほんとうに正しいのかは分からない。けれども絶対に意味はある。でなければ柳川喜弘がキャラクターを猫で描くはずがない。どういう理由なのだろう。そして自分はそこになにを感じたのだろうと、その時は深くなくてもいいから、心の端に置くような気持ちで読んでいこう。

 そして、読み終えて浮かぶ感動の向こうに、どうしてこのキャラなのだろうかと改めて考えつつ、真意を探り、より深い感涙と感嘆にたっぷりと浸ろう。  
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『天王寺クイーン』(野崎雅人、日本経済新聞出版社、1500円)

 難波宮がかつて置かれ、堺の港が貿易で栄え、太閤秀吉が天下を取って大坂城から号令をかけ、徳川時代に商都として日本の経済を担いながらも大阪は、この100余年をどこか脇役のような立場で過ごしている。

 昭和の始めくらいまではそれでも、多くの銀行があって産業もあって、メディアだって新聞にテレビが独自の情報を発信しては、西日本にその勢力を及ぼしていた。それが戦後、交通が発達して情報通信も充実して東京へ、東京へと人も情報も集まるようになっていって大阪は、存在しながらもそうした情報網の枠の外へと置かれて、印象を薄くしている。

 行けばいまだに大勢の人がいて、賑やかそうに見えて潜在的なポテンシャルは高そうな街。必要なのはだからたぶんきっかけで、東京でなければならない必要性がほとんどないことに気づいた世間が、大阪に拠点を移してそこから日本全国へ、そして世界へと向けて経済と情報を発信していくスタンスを、取るようになれば10年20年で大阪が、東京に劣らずむしろ勝る街になることも、あったりするかもしれない。

 それは日本といった狭い範囲のことではなく、韓国中国台湾フィリピンからインドネシアにシンガポールマレーシア、グアムハワイオーストラリアといった広域にわたる圏における重要な場所として、屹立し得る可能性をも含む。必要なのはだからきっかけで、そのための道筋が野崎雅人の「天王寺クイーン」(日本経済新聞社、1500円)という小説の中に、示唆されている。

 帯の「戦国時代の闇の勢力がついに大阪を乗っ取る 巨大な<荘園>を建設し伊丹空港を封鎖? 女王に立ち向かう引きこもり女子高生の、iPodから流れるのは、70年代のあの名曲」という言葉から、万城目学の「プリンセストヨトミ」のような伝奇的シチュエーションを含むユーモア小説だと、想像した人もいるかもしれない。読めばまるで正反対の、ノワールでスリリングでバイオレンスもあってバイオレンスにもあふれた小説だ。

 引きこもり気味で、なぜか懐かしい「ABBA」の「ダンシング・クイーン」を好んで聞いてる女子高生の少女がいる。医療機器の販売をしつつ、医師に援助交際をやらせてそれをネタに強請っていたら、顧客が何が得体の知れない勢力と繋がっている姿を、目撃してしまった男がいる。

 建築士の夫と来た大阪で、茶道から闇へとつながっていって組織の幹部にまでなっていた人妻がいる。そして、借金を抱え自殺した父の後を継いで、借金まみれの印刷工場を動かしていたら、親切そうで恐ろしそうな男に近寄られ、その最期を見てしまった若者がいる。一見すればまるで関わりのない面々だが、訳あってつながり重なり合って訪れることになった信用金庫を舞台にして、大阪の闇に蠢く組織の長の継承が見えてくる。

 不思議な展開と構成をもった物語。それぞれに事情を抱え、強請り強請られ、脅し脅され、誘い誘われて集まり、重なり合った男たち女たちの、その経験と告白から垣間見える日本の闇の断片を、手探りのようにつなぎ合わせていく楽しみが、この物語にはある。

 真っ直ぐに読めていける小説ではないけれど、まるで見えない先を追いかけて、カオスな切片を繋ぎ重ねていく快楽を味わえる。難解なパズルが組み上がったときに見えるビジョンの鮮やかさ、そして訪れたクライマックスのその先に来る、新たなる女王の誕生が、大阪にいったい何をもたらすのか、興味を抱いてページを閉じられる。

 タイを舞台に流れ着いた男が、陰謀めいた事件に巻きこまれる「フロンティア、ナウ」(日本経済新聞社、1300円)で、日経中編小説賞を受賞した作者の、しばらくぶりに出た第2作。美男美女の婚姻から、優れた人種を創り出そうとナチスが画策したレーベンスボルグ計画への言及が、前作に続いてあって、国家が人権を無視して進めた実験への、関心の程を伺わせる。

 そうした闇への好奇が、日本に新たな闇を作り上げて紡ぎ上げ、練り上げて描いた物語。阻まれた陰謀は果たして大阪の、日本のためになったのか、それとも日本を永遠に世界からはじき飛ばしてしまったのか。案外にその後を襲って生まれた新たなクイーンが、逝ってしまった者たちの無念を受け継ぎ大阪に、新たな都を築き上げるのかもしれない。

 そしてそれは今、現実に起こっているかもしれないと思えば、くすんでいる大阪も、とたんに輝いて見えてくる。立ち上がれ大阪。甘言と妄言に踊り踊らされる為政者など、金輪際、徹底的に無視をして。  
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『さよならさよなら、またあした』(シギサワカヤ、新書館、590円)


 「さよなら」はやっぱり別れの言葉で、言ったら最後、それっきりになってしまうことだってあったりして、どこかに寂しさも漂ってしまうけれど、そこに「またあした」とつけることで、言葉には未来を信じる希望が満ちて、心を前向きにしてくれる。

 シギサワカヤ、という人の漫画「さよならさよなら、またあした」(新書館、590円)はだから、とっても前向きな物語だ。主人公の育という少女は、生まれながらに心臓に疾患があって、20歳まで生きられるかどうかと言われていた。親の優しさをたっぷりに味わい、申し訳なさも感じつつ、そういう自分をやや諦め、学校でも体の弱さをネタにしながら、明日はどうなるのかと思いながら生きてきた、ある日。

 それでも、やっぱりやり残しておくことは宜しくないと思ったのか、高校の卒業式の日、とくにつき合ってもいなかったけれど、親しくはあった小林正嗣という若い教師に向かって、結婚しようと唐突に告白した。

 驚いたのは正嗣の方。どういうことなのかと慌てたし、学校からも何か関係があったのかと勘ぐられ、拙い立場に追い込まれそうになった。それでも、過去にとある事情を抱え、いろいろ思うところがあった正嗣は、そんな事情を知っている校長の思惑も感じつつ、育を受け入れて2人は結婚する。

 それから10年ほど。育はやっぱり病弱ながらも、どうにか命を保って生きている。今日という日を生き抜いて、そして別れを告げて明日、またやってくる今日という日を生き抜く、そんんあ繰り返しによって、1歩づつ、先へと進んでいく。

 漫然と、そして当たり前のようにやってくる今日であり、明日といった日々を過ごしている多くの人間にとって、なかなか考えが及ばない、その熱くて切ない今日という日への想いを、物語から知ることによって今日という日、そしてかけがえのない生というものへの意識が芽生えてくる。

 育とは同級生で、少女のころから関わりがあって、今は企業の総務でアラサーのお局さま状態にある万喜という女性が、新入社員の若い男子から興味を持たれ、アプローチを受けつつ、慣れていないからと怒ったり、拒絶したりして、それでもだんだんと知り合っていくエピソードが、「さよならさよなら、またあした」では、育と正嗣との関係を描くエピソードと、平行するように進んでいく。

 新しく生まれそうな幸せへと向かう未来と、いつ終わるかもしれない今日を繋げてようやくつかむ未来の物語を重ねることによって、人がそれぞれに感じる今への思が見えて、自分の今を見つめ直す機会を与えてくれる。1組ではなく2組のカップルを描いたことで、暗闇へと向かい進んでいく恐ろしさを一方に噛みしめ、それでも残る者たちは幸せを求め生きていく大切さを、ほんのりと浮かび上がらせる。

 難病で余命幾ばくもないと知りながら、自分のために手術費を稼ごうと賢明になる父を悲しませたくないと、周囲に対して明るくふるまい、けれどもやがて去っていく自分への関わりを経たなくてはと迷う少女の姿を、4コマ漫画で描いたあらい・まりこの「薄命少女」にもあった、生への執着と死への意識が、この漫画からも感じられる。ともに時には笑いを含ませつつ、描かれる生きていることの素晴らしさに、この生を、今あるこのかけがえのない生を、誰もが慈しむようになるだろう。

 10年が経って、まだ生きていられる安心感を覚えさせながら、繰り広げられた今日という日への熱情や執着が、最後の最後に見せられるエピソードで、少しばかり途切れそうになって、もうこれまでか、なんて思わされる。それでも。

 それでも、凄絶なまでに生への思いを叫ぶ育の姿に、負けられない、逃げられないという思いを持たされる。ドラマチックでもなく、悲劇のオンパレードでもない静かな展開。だからこそにじみ出る心情がある。

 読まれ読み継がれるべき漫画がまたひとつ、生まれた。  
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『カナシカナシカ』(紺野キタ、新書館、590円)

 本当の居場所はここじゃない。自分には別の居場所、本当の居場所があるんだと信じたい年頃が、人にはたいていあるもので、いつか異世界から使者が現れ、迎えに来ましたお姫さま、出番ですよ剣士さま、なんて言われて今のこのつまらない暮らしから、引っ張り出してくれないものかと願っている。

 とはいえ、あなたの本当の居場所はここではなく、こっちなんだと連れて行かれた異世界で、開かされた自分の正体が、お姫さまでもなければ剣士でもない、その世界の土台をせっせと作る、働きアリか働きバチのような存在だったら、果たしてそちらを本当の居場所だと思えるだろうか。

 より良い方を選びたいというのが、人の当たり前の心理というもので、さっきまでの悩みなんて軽く吹き飛び、自分の居場所はここしかないんだと、現実を受け入れる決意をする。そういうものかもしれない。つまるところは自己都合、あるいは逃避の感情が、こことは違う場所への憧憬を、人に持たせているのだろう。

 もっとも、心の底にはやっぱり、自分が生まれ育った場所、接してきた家族への情感というものがあって、それはちょっとやそっとでは消すことはできないものらしい。紺野キタの「カナシカナシカ」(新書館、590円)でも、居場所のなさを感じていた現実の世界から、すべり落ちるように入った、夢のような世界での出合いや、そこの雰囲気に惹かれそうになっても、藍という名の少年は、現世に踏みとどまる。

 ずっと感じていた違和感。夜に眠ると横に、ひとりの少女が寝ているような感触があった。幽霊というより死体に近い雰囲気。誰なのだろうという戸惑いを抱えて生きてきた。それから家族との関係。父母はともかく祖母がなぜか藍には冷たく、鬼っ子といった言い方で藍のことを遠ざけようとする。それを真似して鬼っ子と誹る妹。曖昧さが漂う家で藍はずっと暮らしてきた。

 不思議なこともあった。あらゆる攻撃が藍には通用しなかった。脚をひっかけようとしても倒れないで、逆にひっかけようとした脚が痛む。殴ろうとしても届かない。それはバットでも同様。とはいえ薄気味悪がられるこてゃなく、不思議な力に守られているといった感じで、クラスメートからは接されていた。そんなある日。

 路地にある石をひょいと持ち上げ、猫が不思議な世界へと入っていく様子を見る。それは藍にしか見えていないらしい。やがて同じ通路を抜けて、藍は異世界へと入っていき、そこで自分が、人間とは違った存在であることを知る。

 本当は母親から生まれるはずだったのに、胎内で命を失ってしまった女の子がいた。そこに割り込んできた男の子が、女の子を異世界へとけり出した。その男の子が藍。検査では女の子が産まれることになっていて、だから藍という名を用意していたら、生まれたのが男の子だったものの、名はそのまま付けられた。

 死んで生まれてくることになっていた女の子は、異世界で命をつないで生きていて、そこにやってきた藍と再会する。彼女こそが本当の子供だと分かった藍は、申し訳なさに心を痛める。そして自分は、異世界にいて、腹から卵のようなものをはいて、異世界の土台を作っていく虫の一族だと知らされて、お姫さまでも騎士でもないその有り様に、ますます肩身を狭くする。どこにも居場所なんてないんだと思いこむ。けれども。

 藍はちゃんと思われていた。異世界にいる虫の女王は、藍を後継者と考えていて、現世で怪我をしないように、傷つかないようにと守ってきた。女王の後継者になるということは、性別を換え、夫を得て番い、世界を保持する虫たちを産み続ける運命を担わされることで、男の子として育った藍には、すぐには受け入れがたい事態だったかもしれない。けれども、一方では異世界を担う大切な位置を任されるということでもあった。

 それは、必要とされていないということと、まるっきり正反対のこと。受けるか否かは別にして、誇っていいことだろう。また、現世でも藍は、両親から疎まれていたわけではなかった。真相を話したとき、違った反応が出るかもしれないという不安はあっても、ずっとその家の子として育ってきた藍を、疎む両親などいなかった。最後に異世界へと行った藍が、3日間ほど行方知れずとなった時も、両親だけでなく妹までもが藍の行方を心配した。

 ともに思われていたことを知った藍。結果的に、長くいっしょに生きてきて、そして自分が消えてしまうことへの悲しみを、多く抱くだろう現世の両親のもとへと、藍は戻っていく。祖母だけは、かつて同じ世界に行ったことがあって、藍が取り換えっ子だと気づいていたものの、それでも共に暮らした日々を重く感じ、異世界へと行けなくなった藍を、孫とは思えなくても同じ家族として受け入れる。

 それぞれが、それぞれの居場所を探して悩み、そして得るまでを描いた物語。死んでしまった悲しみは抱きながらも、それを運命と受け入れ、今の居場所に留まる少女の健気さに涙する。本当の居場所を知りながらも、長く育った場所への情を高く見て、そこに留まろうと決意する少年に安心する。都合の良い異世界なんでないんだと知り、その場所で最善を選んで頑張ることの大切さを、感じさせてくれる物語だ。

 本当の母親とみえる虫の女王の死に、藍があまり悲しみを感じなかったシーンは少し残酷で、少し切ない。一緒には暮らしてはいなくても、ずっと守ってきた虫の女王への情愛を、いささかなりとも感じて欲しかった、という気がしないでもないけれど、それも一つの真理。誰もが居場所で得た感情をこそ、尊ぶべきなのかもしれない。

 だからこそ大切にしたい今この時。どこにも居場所なんてないと思うことなかれ。今生きているその場所をこそ最善と思って踏みとどまるべし。  
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2012年08月06日

『THE END OF ARCADIA』(大塚ギチ、アンダーセル、1200円)


 スコアラー。シューティングゲームの全ての面を制覇し、そしてあらゆる可能性を潰して、最も高い得点を出そうと挑む人たちが、1980年代の半ばごろからゲームセンターに集うようになり、攻略方法を探し出し、スコアを競い合って盛り上がっていた。

 誰に誉められる訳でもないし、ましてや賞金が出て、それで食べていける訳でもない。目の前にあるシューティングゲームを、自分たちへの挑戦と感じ、立ちふさがる壁と感じるかのように攻略へと勤しみ、最高のスコアを得られる道を探してコインを入れ続け、スティックと握り続け、ボタンを叩き続けた。

 どこまでもストイック。そして飽くなき探求心を持つスコアラーとは、どんな性格の持ち主なのか。どんな才能を秘めているのか。そんな関心を埋めてくれそうな本が、「東京ヘッド」という、対戦格闘ゲームに勤しむ男たちの熱い日々に迫った作品で知られる大塚ギチが、ネットで連載し、文庫として自費出版した「THE END OF ARCADIA」(アンダーセル、1200円)だ。

 登場するのは「プライベート・ゲーム・クラブ・エンド」という、同じスコア・ネームを使ってシューティングゲームの攻略に挑んだ、4人の男たち。大検資格を早々と取り、特許で入った金で海外を転々としていた経験を持つエンドウを代表に、彼らはゲームセンターに集まり、新しく登場するシューティングゲームに挑んでは、スコアを次々と塗り替えていった。

 ゲームやゲームセンターといったものを“悪”と見なし、“悪所”と見なす空気は、シューティングゲームのスコアラーたちを、どこか社会の埒外へと置いていた。それでも報われないからといって、シューティングゲームをすぐに見放すような種族では、スコアラーはなかった。なかったはずだった。

 けれども時が過ぎ、環境が変わり自身も成長と加齢を経て、いつしかシューティングゲームへの情熱が途切れていった、そんな現在。就職したり、結婚したりして、ただの呑み仲間になってしまっていた「エンド」の面々のうち、役場に就職して淡々とした日々を繰り返していた主人公に、かつての熱情が甦る。

 リーダーだったエンドウの訃報と、その彼が耳にして、激しく憤ったというある情報をきっかけにして、もう1度あの熱さを感じたいと思い、主人公は750万点という、かつて自らが出した「ダライアス」というゲームのハイスコアを目指そうと、行動に出る。それが、「THE END OF ARCADIA」のメーンストーリーだ。

 40歳代へとたどり着いて、見えてきた人生の出口へと、まっしぐらに進んでいく、または落ちていくだけなんだと“解って”しまった時、人はそれでいいのだと楽に流れたくなる気持と、そうはなりたくないという若いままの気持がぶつかり合い、せめぎ合って悩みや懊悩に苦しむ。

 鬱々とした果てにどちらも選ばず、そこで退場となってしまう人もいたりする。何万人にも及ぶ自殺者の何割かは、そうやって退いていった人たちだ。主人公は安楽さに逃げず、現在からの退場も選ばない。ネット上に飛び交っていた、900万点というあり得ない点数を出すために、四半世紀も前に生まれ、とっくに廃れた「ダライアス」の筐体を探し出し、部品を取り換えてプレイできるようにする。

 一方で主人公は、かつての反射神経と運動神経と体力を取り戻そうと、走ったりルービックキューブを回したりして、挑戦の日にそなえる。一切の運動から逃げ、鍛錬から遠ざかっていたぶよぶよの体が、見る間に引き締まって挑戦に相応しい体へと変わっていく、その様に、人は目的が見えた時に、こうも強く厳しくなれるのかと思わされる。

 もっとも、誰もが同じようにいくとは限らない。何かにのめり込み、極めた体験を持つ人だけが、かつてを取り戻しに行こうと行動に移せる強さを発揮できるのかもしれない。

 それは、ゲームであれ他のあらゆる事柄であれ、今を懸命に打ち込んでおけば、熱さを滾らせておけば、将来にきっと得られるものがある、帰れる場所を見つけてそこへと戻っていけるのだという警鐘でもある。安易に今を過ごすなかれ。怠惰に溺れることなかれ。

 再挑戦で使われる「ダライアス」の筐体は、あの巨大な津波で海水を被ってしまったもの。それを運んできて、部品を探し出し好感して修理をするナンバという「エンド」のメンバーには、仙台に子連れの女性が同居人としていたりする。もう1人のオトヤという仲間にも家族がいて、生活のほとんどをそちらに傾けている。

 死んだエンドをのぞけば、主人公だけが未だ独身で、役場勤めの平凡な日々を送っていた。その周囲に、リアルな社会を背負い、確かな生活基盤を持ったかつての仲間たち再結集した時に、主人公の内にいったいどんな感情が浮かんだのだろう。取り残されてしまった寂しさか。社会に参画していない焦燥か。

 「ダライアス」のハイスコアへの挑戦が、唐突に終わってしまった時、主人公が走りながら号泣したのは、死んだエンドウへの惜別の悲しみからなのか、沈黙していた長い時間への懺悔なのか、もう未来はないんだという絶望なのか。

 それをどう感じ取るかで、読んだ人のその後の道も変わってきそう。絶望と思うよりは懺悔と感じ、ならばと改めることによって、開ける今が、未来がきっとある。直せば使えるものならば、直して再挑戦すればいい。ゲームでも。他のあらゆる事柄でも。人生は短いようで、案外に短くはないのだから。

 1980年代の末期から90年代初頭にかけての、シューティングが全盛だったゲームセンターの雰囲気を、今に甦らせてくれる小説でもある「THE END OF ARCADIA」。その後、いわゆる対戦格闘ゲームが出てくると、ゲームセンターは誰かと戦いひたすらに勝利を重ねることが目的の場所となっていく。

 シューティングゲームでひたすらに全面クリアから、さらに最大ポイント獲得のための探求をする人は減り、店の方もワンコインで最終まで粘られては、商売が成り立たないため、シューティングゲームを置こうとしなくなる。メーカーはメーカーで、マニアックな層を狙ってより難易度の高い物を作ろうとして、初心者の参入を妨げ売上を落としていく。

 そんな悪循環は20年近く経った今なお続いていて、新作のシューティングゲームがゲームセンターで、大きな人気になっているという話はあまり聞こえて来ない。それでも、だからこそシューティングゲームについて語る意味がある。ひたすらの探求を何の見返りもなく求める行為の尊さを、感じ取ることで、勝者と敗者しかいないこの現在を、新しい価値観の中に組み替えてていける。

 再起動せよ。生き返れ。「THE END OF ARCADIA」を読んで、熱くたぎっていたかつての記憶をたぐり寄せ、このどうしようもない今を変える力にせよ。険しい未来を永久に生き抜く糧とせよ。  
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『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー 1−5』五代ゆう、早川書房、700円−740円)

 『戦うことを本能として持つ存在なら、仲間が倒れようとも悼まず、己の死も厭わないで戦い続ける。人間にも戦う本能はあるが、一方に心というものがあって、死への恐怖を抱かせ、仲間への慈しみも持たせる。知恵もあって戦いを避けよう努力もさせる。そんな人間に戦いを強制し、倒した相手を喰らうことまで求めたら、人間はどう振る舞うのか? 生まれるだろう様々な葛藤が、五代ゆうの新シリーズ「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーI」(ハヤカワ文庫JA)に示される』

 『幾つかあるチームが、リーダーの絶対的な支持の下で、ゲームのように殺し合っている世界。そこに突然のルール変更が行われ、メンバーたちに異能の力と、恐怖や信頼といった感情が与えられ、自動的だった戦いの様相を変えてしまった。倒した相手を食わなければ怪物と化し、滅びてしまうルールも加えられ、メンバーたちは共食いのおぞましさを抱えながら、悲惨な戦いから抜け出る道を求めてあがく』

 『舞台がリアルな近未来か、ゲームのような仮想世界か、天国煉獄地獄と重なる宗教的が観念世界なのかがまだ見えず、明かされる謎を楽しみながら、全5巻でつづられる戦いの行方を見守りたい』。

 2011年3月11日午後4時43分、SFマガジンに向け、第1巻のレビューを送信してから7カ月。書き次がれてきたシリーズが、言葉どおりに第5巻となる「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーV」で完結した。明らかになった物語から見えたのは、予想したとおりにゲームのような仮想世界の存在であり、なおかつリアルな近未来であっただけでなく、天国煉獄地獄といった観念を、無量大数の彼方へと押し広げて感じ取れる、宗教的な尊厳さを持った世界観でもあった。

 どれかひとつならいざしらず、あるいはふたつまでならまだしも、3つの想像をひとつに包含し、広がるふくらんだものになると、第1巻を読み終えてどうして予想できただろうか。浮かぶのはひたすらの驚愕と呆然。そして、それ以上に歓喜と勇躍をもたらされる物語として、「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー」は、強く脳裏に刻まれ、歴史に記されていくことだろう。

 最初に描かれたジャンクヤードでの戦いは、ただの戦闘機械たちに意識が芽生え、仲間という概念、それを食らうという恐怖の意識が育まれていき、そこに生きる者たちに恐慌をもたらした。生き延びたい。勝ち取りたい。そんな意識の発露の果てに、ジャンクヤードは激しい戦いの場と化し、崩壊を迎えそして、物語はいったん、地上へと移る。

 そこでは、過去に起こった神との対話への挑戦と、失敗のドラマが語られ、ジャンクヤードというフィールドの真相が明かされた。さらに、天空よりもたらされる滅びの日。暗黒となった太陽の光を浴びて人間は結晶化し、崩れ去っていく。

 もはや人類は滅びるだけなのか。絶望にあえぐ人々の間に、かつてジャンクヤードで育まれた知性が、生命が現れ悪魔のような強靱な肉体を得て、文字通りに悪魔とも誹られそうな性質を持って立ち振る舞いながらも、その信念、すなわちセラフィータという名の少女をを救い、人類までをも救おうとする目的のために力をふるい、命すら賭す。

 明らかになった神という存在の正体。判明した肉体が結晶化するキュヴィエ症候群の真相。果てにあったのは、宇宙にとってのひとつの調和だったかもしれない。けれどもそれは、人類にとっての平穏とはほど遠いものだった。だからあがこうとした。けれども届かなかったとき、人類は導きを得た。それがジャンクヤードで生まれたトライブ<エンブリオ>の面々だった。

 サーフ、ヒート、ゲイル、アルジラ、シロエの5人と、彼らに知性と意識をもたらしたセラを加えたチームが、人類を見捨てず、虐げられても膿まずにひとつのことにむかって疾走する。時に反目しあい、喰らいあうように見えた彼ら、彼女たちの中にあったひとつの願いがかなった果てに、人は未来を得る。

 2011年3月11日を挟んで描き次がれた物語の構想段階に、どこまでの意図があったのかは分からない。それよりはるか以前、ゲームのために紡がれた企画の段階ではなおのこと、どこまでの意識をもって滅び行く人類の恐慌と、そこにもたらされる強い意志、仲間を思い、未来を開き、運命をその手によってつかみ取ろうとうする生命のあがきが、構想されていたのかは伺い知れない。

 けれども、3月11日という文明への継承がならされた事象を経て、また世界で繰り広げられる金融の混乱、民族の諍いを経た上で、物語から受ける読み手の意識は変化した。生きるには。生き延びるために必要なのは。そのために必要な何かを探る意識を、読み手も抱き世界も求めるようになっている。

 光瀬龍が書き、萩尾望都が描いた「百億の昼と千億の夜」であしゅらおうは、人類より高次の存在を知り、そして戻った地表で、56億7000万年の後に来る衰退した世界に、ひとり佇み沈思した。諸星大二郎の「暗黒神話」で山門武は、宇宙を統べる存在へと近づいたものの、やはり戻った56億7000万年後の地表で、半跏思惟の姿でひとり黙考した。

 ともに孤独に迎えた審判の時。人類は果たしてどうなったのだろうと想像して浮かぶ寂寥感に、未来を切りひらく難しさ、永遠など存在しない無常観にしばし呆然として宙を見た。

 滅びへと迫る人類にもはや救いはないのか。神も悪魔もいないのか。違う、断じて違うと五代ゆうの「クォンタムデビルサーガ・アバタールチューナー」(ハヤカワ文庫JA)が語りかける。サーフが、ヒートが、ゲイルが、アルジラが、シロエが、そしてセラが願い繋げた未来の世界には、は孤独に佇むあしゅらおうも、黙する山門武もいない。しっかりとした今日がそこにあり、そこから連なる明日がある。そう見える。

 だから学びたい。神も悪魔もその内に包含しながら、より高みを目指す道を。人類が心すべき事柄を。その為の方策が、「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー」には記されている。

 神によって下されようとした審判を跳ね返し、人類に未来をもたらしたサーフら<エンブリオ>のメンバーたち。神の目をかいくぐるようにしてジャンクヤードで育まれた彼らが、そこで得た知性と、そして意識をコアにして未来への礎となった。その仕掛けを果たして誰が作ったのか。何者がそれを画策したのか。神だったのか。違う。神は堕ち、戻ろうとあがき、人類を見放した。ならば神ではなかったのか。

 言えることは、神すらもさらなる高次の下に生かされ、許されている存在に過ぎない。そんな世界、そんな宇宙、そんな存在そのものを律し調べていく流れのなかにあって、人類は、ただ流れに身を任せていては滅びるだけだ。自立し、意識して己を得て、そして歩むしかない。未来のために。それだけが、あらゆる意識をも超越して思いを貫く。  
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『エトランゼのすべて』(森田季節、星海社、1200円)

 それは誰にでもあったはずの春夏秋冬で。そして彼にしかなかった春夏秋冬で。

 森田季節の「エトランゼのすべて」(星海社FICTIONS、1200円)は、とある1年にめぐりきた、とある少年の春夏秋冬を描いた物語。それと同時に、僕たちの、私たちのかつてめぐりあった春夏秋冬への懐古と、悔恨を惹起させ、今というかけがえのない時間への決意を、改めて感じさせてくれる物語だ。

 奈良と和歌山の間にある田舎町から、頑張って勉強して京都大学に入って、さあデビューだ、彼女と作ってハッピー大学生ライフを楽しむのだと思った針塚圭介。とはいえ、面倒そうな体育会系にも、キラキラとしたテニスサークルにも、1000メートルを越える山に登るハイキングにも、古いデジカメでは小馬鹿にされそうな写真サークルにも、飛び込む勇気を持てなかった。

 そんなとき、掲示板を眺めていて、ふと目に入った「京都観察会」というチラシに惹かれた圭介。京都を気楽にめぐるサークルだという文章を読んで、これなら大丈夫かもと感じて訪ねた説明会の会場で出合ったのは、お嬢さま然としたところのある美人の女性だった。

 彼女は、圭介の名前も出身地も、最近食堂で何を食べたかもピタリと言い当て、占い師か魔法使いかといった面もちで微笑みかける。紹介されたメンバーや、いっしょに説明会に参加した中道香澄という少女とともに新歓へと向かった圭介は、そのまま成り行きで京都観察会のメンバーになる。

 そして始まったのは、何をするでもなく、カフェテリアに週2回集まっては、近況などを喋り、カラオケに行き、飲んだりするという活動。そこに劇的な出合いはなく、ただいたずらに時間だけが過ぎていく。

 サークル活動の合間に、たっぷりとあった時間を使って、圭介はアルバイトに勤しむことになる。それも体力が鍛えられる過酷な労働でも、将来に繋がる発見のある労働でもない、近場の学生食堂での皿洗いのアルバイト。刺激もなければ大きな変化もない時間が、ここでもただ過ぎていく日常に、圭介は少し焦りを覚える。

 その時間に世の中では、もっと人生に劇的な変化が起こっているに違いない。そのチャンスを自分は逃しているかもしれないと。けれども圭介の日常は、彼女ができてバラ色の夏休みを過ごすはずが、特段の彼女もいないまま、サークルの人たちとしゃべり、アルバイトを手伝いカラオケにいくくらい。そんなダラけた日々で本当に良いのかと悶えつつ、外に飛び出す気概も見せないまま、そのままの日常を続ける。

 それが普通。誰もがたぶんそんな季節を経てきた。劇的なことなんてそんなに起こらない。目に見える変化なんて起こらない。だからといって、そうやって過ごした日々は無駄ではなかった。圭介はサークルの先輩たちを通して人間とつながった。それ以上に、圭介や先輩たちによってひとりの女性が救われた。

 名前も名乗らない会長の正体。そして京都観察会というサークルが出来た理由。それを知り、そのなかで活動し、それからの道を開いた経験は、圭介にとってかけがえのないものになり、これからの人生にたぶんなにか意味を持つ。

 たった1回だけの春夏秋冬。そこから得た経験や、出合った人たちはきっと何年後か、何十年後かに思い出となって積み上がり、甦っては悔恨よりも大きな懐古となって心を微笑ませるのだ。

 誰もが迷っていて、誰もが悩んでいて、誰もが彷徨っていて、誰もが苦しんでいる。そんな時間を、だからといって無理に変えようなんて思わないでいい。どんな怠惰な日常にも、どんな沈んだ気持ちでも、きっとそこには意味があるのだと信じよう。

 どん底にあったからこそ、決意できたこともある。平凡だったからこそ、考えられた多くのことがある。そんな積み重ねから得た今を大切にしよう。それでも今、やっぱりちょっぴりの悔恨が浮かんで仕方がないのなら、ここから新しく始めればいいだけだ。時間は無限ではないけれど、それでもまだたっぷりと残っている。誰にでも。

 あの春夏秋冬を厭うことなかれ。これからの春夏秋冬を慈しむべし。
  
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2011年10月12日

『常住戦陣!! ムシブギョー 第1巻−第3巻』(福田宏、小学館、各440円)

 「週刊少年サンデー」といったら、一時期は「週刊少年ジャンプ」よりも「週刊少年マガジン」よりも、貪るように読んでいた漫画誌で、あだち充に高橋留美子に島本和彦にゆうきまさみに安永航一郎に遠山光等々、挙げればきりがないくらいの好きな漫画家の大好きな作品が、誌上を彩って輝きを放っていた。

 もっとも、それから四半世紀も経った昨今、いったいどんな漫画が載っているのか、気にすることはなくなっていた。雰囲気だけなら青山剛昌の「名探偵コナン」が長く続いていて、「犬夜叉」に続く高橋留美子の連載があって、あだち充は今でもいるのか、椎名高志や藤田和日郎は残っているのかといった、曖昧模糊とした印象からいくつかの名前が浮かぶ程度。あとは「鋼の錬金術師」の荒川弘が、雑誌を替えて始めた「銀の匙」がそういえば話題になっていた、といった印象か。

 だから、第1巻と第2巻がまとめて単行本として刊行されるまで、福田宏という人の「常住戦陣!! ムシブギョー」(小学館、440円)の存在も、まるで知らなかった。そのまま他の漫画同様に知らずにすますことも出来たけれども、店頭で目にした少年や少女のキャラクターと、絵柄と設定に、大きく気になるところがあって手に取ったら、これが何と、面白いではないか。

 江戸時代を舞台にした剣豪物。といっても、現実の江戸時代とは違っていて、巨大になった蟲と言われる怪物どもが、江戸の街にわんさかとわいて人間たちを襲っている。これは大変と幕府が設置したのが、蟲退治を専門とする蟲奉行という組織。そこに、東北の田舎から、すごい剣豪の父親を持ちながらも父親にはまだ及ばない、月島仁兵衛という少年がやってきては、入って先達たちとともに蟲を退治する仕事に就く.

 もっとも、そこは百戦錬磨の奴らが集う蟲奉行。田舎での剣豪もただの人間に過ぎず、仁兵衛は現れる蟲に苦戦し続ける。前からいる蟲奉行たちはといえば、剣のひとふりで蟲を両断したり、切ったり焼いたり止めたりしてみせる。

 まるで力量が違う場で、早死にすら想像されたけれども、仁兵衛は誰よりも素速く動く技だけは抜きんでていて、危機になった子供を守ろうとしたり、刀が使えなくなっても柄で相手を粉砕しようとしたりと、決して逃げずに命がけで戦ってみせた。そんな姿に、最初は歯牙にもかけなかった仁兵衛を、周囲もしだいに納得して、仲間にしてくという覚醒と成長の物語が繰り広げられる。

 まさに少年漫画の王道ストーリー。今はそれでも著しく激しく弱いけれども、仁兵衛に秘められた潜在能力がいずれ発揮されて、激しい戦いを見せてくれることになるのだろう。そうならなかったとしても、常に前向きで明るく楽しげな仁兵衛の姿を媒介にして、同じ奉行所に務めながらも、てんでバラバラだった蟲奉行たちがまとまって、江戸の危機に立ち向かっていく物語が、描かれていくことになるのだろう。

 なにしろ第3巻では、江戸幕府の将軍家の後継ぎですら、その生真面目さで友達にしてしまう仁兵衛だ。江戸より北はともかく、西の方で起こっているらしい不穏にして不気味な出来事が江戸を襲い、蟲奉行たちを巻きこんだとしても、その未来はきっと明るいはずだと信じて続きを待とう。それとも更なる奥深い陰謀がめぐらされているのか。ますますもって楽しみだ。

 キャラクターでは仁兵衛が世話になる茶屋の娘で、春という名の少女のFカップぶりがとにかく目に麗しい。仁兵衛を友人として好く将軍家の御曹司が、その大きさその揺れっぷりに不穏さを覚えるくらいだから、もう相当に素晴らしいとしか言いようがない。一方で、仁兵衛と同じ蟲奉行として働く火鉢という火薬使いの少女の、すらりとしてスリムな姿態もこれはこれで麗しい。あれでしっかりボリュームもあって、戦いの中で艶姿をのぞかせてくれるから目を離せない。

 もちろん、どんなに固いものでも、手にした普通の刀で寒天でも切るように寸断してバラバラにしてしまう剣技の持ち主、恋川春菊も凄まじいし、日頃はまったくの無表情ながらも、蟲を相手にした時は、圧倒的な剣の腕をふるって退け、たとえ要塞級の蟲であっても、臆せず倒してのける無涯という剣豪もとてつもなく凄まじい。

 病弱ながらも、優れた陰陽師の術で蟲をしのぐ一乃谷天間もなかなかなもの。そんな仲間たちから受けた刺激が月島仁兵衛をどう変え、そして江戸と日本をどこへ導くのか。目を離せない連載が「週刊少年サンデー」に現れた。読んで行こう。
  
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2011年10月10日

『ルーシーにおまかせ!』(一条明、光文社、1600円)


 私が私だという私こそが私であって、そうでない私は私だといっても私ではない。それは絶対の真理なはずなのに、私ではない私が私だといって、それを私ではないと否定できないのは、私が私であるという、その私とはいったい何なのかという問題に、答えるのが難しかったりするからだ。

 私とは、この私が私と思考する脳である。その脳に刻まれた記憶であり、経験である。そう断じてしまえば優しいように思えなくもないけれど、では、その脳のどこにどうやって私を体現する記憶は刻まれているのか。どんな形をして収まっているのか。誰も答えられないし、答えようがない。

 そうした細かいことを考えず、脳を唯一絶対のブラックボックスととらえることもできなくはない。けれども、そんな曖昧模糊とした非実在のものを、私と認めて良いのかといった抵抗もやはり引きずる。曖昧ではなく、私はだから記憶の積層したものだいうのなら、それを完璧にコピーして移したそれは、私なのかといった問題も一方に生まれてくる。

 そうやって発現したコピーされた私の自我は、私を私だと認識して、そして同じように私以外は私なのか、違うのかと行った思いに悩む。私とは。一条明という作家が、突然に現れ発表した「ルーシーにおまかせ!」(光文社、1600円)には、そんな、私についての思考が近未来の社会を舞台に描かれる。

 主人公はジュールという少女で、父母に愛され育って迎えた7歳の誕生日に、父母から自分の本当の正体を知らされる。なおかついっしょに暮らしてきたメイドロボットのルーシーの正体も聞かされ、驚きながらもいったい何が起こったのかを知ろうと家を出て街を彷徨う。

 ジュールが抱いたのは、私という存在がかげがえのないものなのか否かという疑問。その存在と同一の個体がかつて存在したという事実が、たとえ7年という時間をかけられ、彼女にとっては唯一の時間を過ごして来たにもかかわらず、私は私なのかという懐疑を彼女に抱かせる。一方で、彼女が追い求める存在もまた、自分探しの果てにひとつの事件を経由して、私というものを突き詰める行動に出た挙げ句に、今のジュールという少女が生まれるきっかけを生む。

 自分は自分なんだからという超然も、自分が終わればすべて終わるんだという諦観ももないのは、そうした超然や諦観を起こさせないくらい、あっさりともうひとつの私を作り出せる環境があるから。そんな環境下でいったい私の本質とはどこにあるのかを探ることで、私とはという問いかけへの答えに迫る。

 難しい話ではない。メイドロボットの中身とかが分かってそうさせられる可能性をわが身におきかけたときに浮かぶ、ちょっとした恐怖とそして身悶え。自分という存在が持つ美を、どこまでもどこまでも保ち続けられるのだったら、そうするのかという誘いへの逡巡。肉体を捨てて、心すらも移し替えて永遠を生きることが可能なら、そうするのかという思索。その時の私はいったい本当の私なのかといった懐疑。

 それらが、ルーシーというメイドロボと、ジュールという元気な少女の冒険によって描かれてあり、その行く先々でいろいろと説明もなされているから、読んでいくうちに自然と、そうした思索が強く意識しないうちに行われ、いろいろな答えが浮かんでくる。

 そんな、自分とは何かを問う主題に加え、おしゃれをすることだけが生き甲斐のビズ・キッズという存在、ネットワークによって監視され、操られている社会といった未来のビジョンに彩られてもいる物語。独特の美的感覚で紡がれた世界が、豊富なSF的アイデアとともに描かれ、かつてない世界へと読む者を引きずり込んで翻弄し、籠絡する。その力量は確か。だからこそ書いた者の正体が気になる。

 果たして最後はすべて解決したのか、それとも後に残している謎がまだまだあるのか。引きもあって続きがいつ、登場しても不思議ではない。そこでジュールは、再びオリジナルと対決するのか。そしてそれはオリジナルのままなのか。思索を要求される果てに見える、答えのないさらなる思索の海を楽しみにして、その登場を待ちわびよう。
  
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2011年10月09日

『山がわたしを呼んでいる!』(浅葉なつ、アスキー・メディアワークス、650円)

 「空をサカナが泳ぐ頃」(メディアワークス文庫、590円)で、社会にコミットしながらもどこかやり残した思いをかかえて生きている人間たちが、ちょっとした事件を経て自分を見つめ直し、やり直そうと決断する姿を描いた浅葉なつ。奇妙な煙草を吸ったら、目の前に謎の魚が現れ泳ぎ出すという、例えるなら海が男たちを呼んでいた作品だったけれど、第2作となる「山がわたしを呼んでいる!」(メディアワークス文庫、650円)は、だからといって目の前に熊だの鹿だのといた動物が、現れ走り回る作品ではない。

 ごくごくストレートに、山に招かれる女性が、抱えていたもやもやから解放されていくという、心情の変遷を描いた青春ストーリー。ガサツで乱暴者の自分に嫌気を感じた女子大生あきらは、もっとみんなから愛されるキャラになりたいと、女たちのカリスマと仰がれているモデルの女性の真似をして、彼女が興味を持っている“山ガール”とやらになろうと、山小屋のアルバイトに応募して山小屋へと向かったら、そこは彼女の予想にまるで反して、そこはガサツで乱暴者の巣窟だった。

 いやいや、そもそもが山小屋にロッキングチェアと暖炉があって、羊や馬が草原をかけまわる中を、静かに健康的に毎日を送るような暮らしなんかは存在しない。むしろガサツで乱暴者の巣窟であることが普通。知っていてしかるべきそんな知識をまるでもたなかったあきらは、スニーカーにチュニックを羽織った姿で、、トランクをかついで8時間も山道を登って山小屋へと行き、そこにいたものたちに驚き呆れられ怒られた。なるほどそれも当然か。

 とはいえ、そんな近所にピクニックにでも行くような格好で、険しい山道を登り続けられる体力があるという点で、カリスマのように優しく可憐な乙女という領域を、大きく逸脱しているあきら。当人はそうした乖離を意識しているのかしていないのか、まるで気に留めることなく、自分は可憐な乙女になるんだという思いで山小屋に行き、当然のように先輩から怒鳴られる。

 そこで可憐な乙女だったら泣いて引き下がるところを、まったくそうではなかったあきらはは、即座に言い返し、喧嘩し、売り言葉に買い言葉もあって早々に引き上げると宣言したら、なぜか山小屋のオーナーが、怪我したと言って先に下山してしまう。人手が足りなくなった山小屋で、あきらは嫌々ながらもそこに残って、山小屋の仕事に励むことになった。

 先輩で根っからの山男の青年からは、相変わらずの罵倒が浴びせられる。けれども、それに負けずに止まり頑張り登山客の危機も救ったあきらは、山でいろいろと見聞し、もうそこにいるしかないと、内心では思いながらも、根っからの気性の強さもあって、最初の言を曲げず、山を下りて大学に戻り、普通の女の子としての日々を送ろうとする。もっとも。

 そこはなるほど“山に呼ばれた”人間だけあって、心ずっと山上に留まっていた様子。誘われ断らず山小屋へと舞い戻っていく。その選択が、彼女にとって最善だったかどうかは分からない。本当になりたかったカリスマのような暮らしとは、まるで正反対の山小屋に向かってしまったことは、本心に妥協してしまった現れかもしれない。

 そういう妥協が是か否か。答えることはとても難しいけれど、いくら願っても届かない場所は、現実に確実に存在する。そこに至ろうとして至れず、自分に不安を感じ不満を覚えている人が、ほかに本当にやりたいことを見つけるなり、ベストではなくても今よりもよりベターな場所を見つけることは、決して悪いものではない。どうしよう。そう迷いあがいている時に、山小屋という選択肢を少女に与えて道を示したともいえるストーリーは、自分にとって良き道を選ぶ上で、心の支えになってくれそうだ。

 だから自分も山小屋に、とはあの厳しい日々を思えば流石に誰も思わないかもしれないけれど、1度は行ってみたいと思わせる魅力は、あきらやそのほかの面々の仕事ぶりから伝わってくる。山小屋で働き、稜線を歩き、頂上に到達する気持ちの素晴らしさを味わいたい。そう思った時、あなたはきっと山に呼ばれている。だから行くしかない。登るしかない。ただしチュニックはお断り。頂上はあれで結構寒いから。  
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2011年10月08日

『蠢太郎』(村上もとか、小学館、552円)

 語られている歴史はひとつ。けれどもそれが本当なのか違うのか、分からないことも少なくない。忘れられた史実もあれば、隠された史実もある。それらが白日のもとに晒された時、起こる驚きの声の大きいだろうことは、想像に難くない。

 もしもそれが史実だったら。「六三四の剣」に「龍−RON−」に「JIN−仁−」と、傑作漫画を次々に発表している村上もとかの最新刊「蠢太郎 JUNTARO」(小学館、552円)を読んだとき、誰もが驚きの声をあげるだろう。身に恐ろしさが混じった震撼をもたらす事柄が、そこに描かれているからだ。

 山野を彷徨う娘と母。そう見えて実は息子と父親という女形の歌舞伎役者の旅程から始まる漫画は、かつて江戸歌舞伎で人気女形だった中村鶴吉という父親と、まだ春と名乗っていた息子の芸の良さ、器量の良さで当座の旅費は得ていたものの、何かに追われる身らしく一所には落ち着けず、隠れるように渡り歩いていた。

 ある夜は、雪の中で女人禁制の寺に男子だからと言って入り、父親は僧侶に身を捧げ、息子のためにと寝床と食事を得て一夜の宿を得た。そこに飛び込んできた官憲たちから、親子はかろうじて逃げ京都の町へと入る。どうして一介の女形が官憲にしつこく追われるのか。その理由が後に明かされ、震撼への土台となる。

 時に世は明治維新直後で、天皇が京都御所から江戸城の御所へと移り、京都の街はどこか沈んだ空気の中にいた。本当なら追い返されかねないところを、芸の実力もあって鶴吉は、芝居小屋の片隅に仕事を得る。やがて江戸歌舞伎でならした芸を認められ、舞台に立つようにもなっていく。

 息子の方は、春から蠢太郎へと名を替えて、歌舞伎や舞の修行を始める。その見目の美しさをからわかれ、虐められもするけれど、根っからの気性の強さで逆襲し、やがて仲間たちに認められていく。

 芸の腕も上がって舞台に上がるようになり、そのころには鶴吉への追っ手も京都の町を仕切るヤクザの大立て者の庇護があって、鶴吉や蠢太郎に近寄ってくることはなかった。加えてもうひとりの存在が、鶴吉と蠢太郎の立場を京都ではとてつもなく強固なものにしていた。

 その存在が果たして歴史の上に実在したのか。それとも村上もとかの想像なのか。監修にあたった志波秀宇の強い思いが繁栄されたものなのか。その存在がそこにいる以前に行われたらしい陰惨な出来事もあわせて記されていて、これが想像だとしてもあまりにも凄まじく、そして蔑ろにはできない興味を歴史へとかりたてる。

 何しろ筆者は数々の漫画賞を受賞し、今や日本を代表する漫画家の一人となった村上もとかだ。たとえ監修者の思いを受けたものだったとしても、実際に漫画として描いた漫画家に、さまざまな声が及ばないということはない。その覚悟を持って描いた以上、描かれたことになにがしかの意味が、あるいは意義があるのだろう。

 ただし、歴史の裏に隠されていそうな事柄であっても、そこに登場してくる“役者”たちに、卑怯者は誰もいないところが、さすがは国家百年を考え、維新という大事業に挑み、あるいは妨げようとした者たちだけのことはある。京都で蠢太郎という名を得た息子が見た存在も、そして連れられて江戸で出合った敵方の筆頭も、その上に君臨する存在も、すべてがこの国のために心を砕き、時には鬼ともなってことに挑んだ。

 そうした激動の歴史の狭間に囚われ、運命を翻弄される形となった蠢太郎には悲惨なことではあるものの、そんな蠢太郎も恨み言を心に燃やしつつ、反発したり拗ねたりしないで受け入れる。もとよりの美しさと、天性の才能から出てくる芸の見事さがそこに加わって、蠢太郎は役者として高い評判を得て、完全に自由とは言えないまでも、暗い日々を脱して自分自身の居場所というものを作っていく。

 ひとりの女形の凄絶な生き方と読んで、存分に楽しめる漫画であることは確か。身は女性の格好をしながらも、中身は男として出会う女性に懸想し、体も奪い求めることもある。それでいて、やはり女形であり芸人である心が、厳しい場所であっても舞台へと身を赴かせ、誰が相手でも演技を見せ、そしてその心情を引きずったまま、仇ともいえる男のために身を投げ出して腕を奪われる。ただただ凄まじい。

 一方で、明治という世ができて進んでいった裏側を、想像する楽しみもある。あの存在は本当に実在していたのか。その過程で起こったことはどうだったのか。伊藤博文に貞奴といった歴史上の人物たちの言動も、歴史に照らしてどこまであり得るのかを探る楽しみがある。

 とにかく驚きの歴史を記した時代漫画。そして感動と感涙をもたらす芸能漫画。たとえそうとしか生きられなくても、そこでどれだけ目一杯に生きるのかを見せてくれる物語に、可能性の大きく開かれ世を、投げて諦め縮こまって生きている身を省みよ  
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2011年10月06日

『私のおわり』(泉和良、星海社、1080円)

 テレビアニメーション「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の秘密基地の面々は、幼い頃に仲間が1人消えてその思い出を、さまざまな形で引きずって、高校生になった。近しい存在が消えてしまって、その責任の一端をそれぞれが引きずってしまって起こる心のもやもやと、それが生みだした人間関係のごたごた。苦々しいシチュエーションの中に、当の逝ってしまった存在が、ひょっこりと舞い戻ってきた時に起こる、残されていた者たちの心の激動が、アニメの中に描かれた。

 表向きには、死んでしまった者が未練をはらって再び旅立つ話だったかもしれない。けれどもその奥には、生きている者たちが、過去を埋めて本当の今を甦らせて、これからの長い長い生を歩んでいけるようにする話でもあった。ひとりの死を改めて強く認識させることで、周囲が生を自覚するストーリー。そのことを通して、見る人に生きている今を感じさせた。

 そんなアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に対して、泉和良が書いた「私のおわり」(星海社FICTIONS、1080円)という小説は、死を自覚した少女の姿から見る人たちが、生きている今を強く感じ取る物語、ということになるのだろうか。

 気が付くとそこは船の上。あなたは交通事故で死んだんだと、死神の船長がおネエ言葉で教え脅して身の回りの物をすべて奪う。憤り哀しくなった少女は船から海へ飛び込む。気が付くとそこは、よく通っていた天霧君という男子の部屋。ネットゲームを作って公開している彼が暮らしていて、その周辺に彼からは見えない幽霊となって少女は、大好きだった天霧君の日常を見守る。

 そこに現れた少女は、彼女ではない別の子で、やっぱり天霧君が好きらしく、いろいろと抜け駆けをしていたことが判明した。やがて少女自身もまだ生前の姿で現れたものの、もう1人の少女が隠れて天霧君にあって料理をしたりしていることは知らずにいた。

 知ったのは、何日か後に死んで幽霊となった方。そして、彼女は幽霊ながらも少しだけ現世のものに触れる力を使ってメッセージを書き、過去の生前の自分自身を動かして言えなかった思いを言わせようとして、そして考える。それで彼女は幸せなのか。そして天霧君は嬉しいのか。
BR>  言えなかったことを言えたことは良い。でも、それによって天霧君に負担がのしかかる。遠からず死ぬ女性から好きだと言われた負担はいったい、天霧君にとってどれくらいのものなのか。自分の我が儘に他人を巻きこむ振る舞いの是非が問われる。

 言わないよりは言った方が良いこともある。それですっきりとまとまったとも言える。けれども、言わずなかった場合でも結果はたいして変わらない。ならば言うべきか。言わざるべきか。ずっと生きていられるのなら、迷わず進めと言えるけれども、死ぬと分かってから遡れって見た場合、やっぱり迷いが生まれる。だからやるしかない。生きているうちに突っ走ることだけが死んで後悔とならないための最大の方策。そう教えられる物語だと言えそうだ。

 少女の死を必然としなくてはいけないストーリーには、ひとりの少女の死を媒介に、大勢が生を認識した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」と同様に、どこか忸怩たる思いが浮かぶ。優しくて子供だった彼女にゴムボートを買ってあげた父親が、早くに娘を失ってしまった哀しみを思うと、少しばかり胸が苦しくなる。とはいえこれはフィクション。そこに感情を入れ込むより、そこからメッセージをくみ取って、今、こうして生きている生をどう生きていくのかを、考える方が適切だ。

 生きよう。精いっぱいに。  
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2011年10月05日

『草子ブックガイド 1』(玉川重機、講談社、695円)

 本について語るとき、僕たちが語ることは本に書いてある物語なり、情報だったりするものから、分かったり感じたりしたことが多い。時には本の形とか色とか重さについて語ることもあるけれど、それは本の中身からあまり何かを得られなかった場合。だいだいはそうやって得たもろもろを、知ってもらって良さを分かち合いたいからと、その本について語る。

 どうやって語るかは人によって千差万別で、まっすぐにあらすじを話して面白そうだと思ってもらう場合もあれば、出てくるキャラクターの独特さを強調して、そんな面白い奴が出ているならと、手に取らせる場合もある。後者は人気アイドルが出ている映画だから見ておこうよといった誘い方にちょっと近い? でも箸にも棒にもかからない役者ではなくて、しっかり完璧に“演技”している役者を紹介している訳だからやっぱり違うか。

 書き手のプロフィルに迫って、その経歴からどうやってこの本が生み出されたのかを紹介する場合もある。ひろく世間に流布される似たような本と並べて、だから今こういう本が出たんだと語る場合もやっぱりある。よく分からないけれども脱構築、という方法で語ることがずいぶんと前に流行ったっけ。そのやり方はわからないけれども、そういう方法が持てはやされたということは、読み手だけでなく、聞き手にとっても良い本についての語り方だったんだろう。たぶん。

 でも聞く方としては、やっぱりそれがどんなことが書かれてある本で、どんなキャラクターが出ていて、そしてどれだけ面白いのかを真っ直ぐに語ってくれた方が、きっとその本に興味を持てる。それは、玉川重機という漫画家による「草子ブックガイド1」(講談社、695円)に出てくる、草子という少女が目の前にある本について語る時の語り方。それを聞いていると不思議と、読んだことがある本でもまた読みたくなるし、そうでない本も手にとって読んでみたくなる。

 青永遠屋という名の古書店にやってくる少女は、いつも店主に黙って本をカバンにいれて持って帰ってしまう。いってしまえば万引だけれど、その後で少女は読み終わった本を返しに来る。おまけにその本に感想文をしたためて挟んであって、店主はそんな彼女の文章のファンになってしまい、次にどんな本を読んで、そしてどんな感想文を書いて、それを戻してくれるのかを楽しみにしてた。そして今、少女が読んでいるのがデュフォーの「ロビンソン漂流記」。店主はいったいどんな言葉がつづられるのかが気になっていた。

 本当はいけないことと知りながら、本を持って帰ってしまうくらい、どうして少女は本が好きになったのか。草子という名の少女の父親は、画家を目指していたものの売れず、その日暮らしで借金漬けの酒浸り。そんな夫に愛想を尽かして草子の母親はずいぶんと前に家を出て、パトロンを得て版画家として成功していた。家は荒れ、学校にもあまり友達のいない草子にとって、1番のともだちだったのが図書館にいっぱいあった本。それを読めばどんな世界にも、どんな時代にも連れて行ってくれて、どんな人にも会わせてくれるからと、楽しみにして読んでいた。

 古本屋から本を持ち帰って読むようになっていたのもその延長。幾つかはまだ返さないまま、母親が残していった本といっしょに自分の部屋の本棚にいれてあった。ところがある日、金に困った父親がその本を見つけて古本屋に売り払ってしまった。悲しむ草子。そして売り先が、自分のよく行っていた青永遠屋だと知って、無理を承知で売られた本から母親が残したものだけは取り戻したいと訪ねていった。

 憤る青永遠屋で助手をしている青年を横に、店主は草子が書いてくる感想文が気にいって、もっと読みたいと草子に告げた。待っていた「ロビンソン漂流記」についての感想文も、草子がロビンソンになったらどんな暮らしをするのかを書きながら、島でひとり生きるロビンソンが考えたこと、そして自分が何をしたいのかが分かったことがつづってあった、とても独特のものだった。本が好き。それが改めて分かって店主は、草子を咎める替わりに、感想文を書いてくれることを条件に出して、いっしょに本を楽しんでくれる仲間として草子を受け入れる。

 そこから始まる草子の本のナビゲート。図書館の活用に困っていた司書教諭が、本好きの草子の存在を知って、彼女に本を紹介してもらう受業を試みとして実施しようとする。そこで草子は、プレッシャーを感じながらも乗り越えて、トルーマン・カポーティの「ダイヤのギター」という短編を紹介する。刑務所に入った2人の男の姿を通して、自由について考えさせられる物語を、最後までは語らずその途中までの経過を語って、キャラクターの存在感を知らしめ、中身に興味を持たせて教諭の試みを成功させる。

 版画家として個展を開いた母親との再会という場面では、父と母がまだ仲の良かった時代に読んでいた、中島敦の「山月記」を紹介して、誰にでもある内なるケモノの存在を示して母親を諌め、父親を諭してみせる。何という早熟。そして深淵なる読み。そこに書かれたことを自分の体験と重ね多くの体験になぞらえて、その身に染みさせる。

 こういう読み方をたぶん、昔は誰もがしていたのに、ついつい今は横とか後ろとか斜めから見て、自分という存在を大勢の中に位置づけるために、本を利用するような読み方をしてしまう。そんな時代に、改めて本との向き合い方を考えさせらてくれる物語。版画のように細かく描き込まれた漫画は、それでも優しげで前衛性によって目を遠ざけるようなことにはならず、むしろ柔らかいタッチで物語の世界へと引っ張っていってくれる。

 だんだんと自分の居場所を見つけていく草子の表情が、どんどんと明るくなっていく姿を見ると、本を読むことの大切さと、それ以上に多くの人たちの中に入っていく大切さというものを感じさせられる。古書店の助手の助手として田舎にある民家へ本を受け取りに行く話では、草子が媒介となって、売り主の女性が夫に対していだいていたわだかまりを解きほぐす。

 すっかり明るくなっても、そして大勢の仲間を得ても本は読み続けるのか、という心配おあるけどいったん、本にのめり込んだ人はそこから離れられないもの。きっとこれからもいっぱいの本を読んで、そしてためになる感想文を書いてくれるだろう。それを読んで本を読み、それを語って本を読ませることが出来たら、僕はとても幸せなのだけれど。  
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『ブッシメン 1』(小野洋一郎、講談社、543円)


 仏像とは。寺院に昔からあって衆生から崇め奉られている物が仏像であるとは分かる。では新しく作られる、未だ誰からも拝んでもらっていない仏像は、果たしてどこから仏像と呼ばれる存在になるのか。寺に収められてからか。開眼を受けてからか。はっきりしたことは分からない。

 美術館や博物館で流行の、仏像を並べる展覧会でよく販売されている、仏像の模型は果たして仏像なのか違うのか。古くから崇め奉られているものを、そのままの色形で模したものなら、大きさこそ違え仏像と言えるのではないか。それともやはり違うのか。これもはっきりしたことはよく分からない。

 いまや仏像がインテリアになってしまっている時代。MORITAという会社が作る「イSム」というブランドには、興福寺の阿修羅像やら中宮寺の弥勒菩薩やら広隆寺の弥勒菩薩やら浄瑠璃寺の吉祥天やらの模型が、今の歳を経て風格を出した姿だけでなく、作られた当時の色彩で再現されたものも含めて、ラインアップされている。

 ポリストーン製だから、フィギュアメーカーの海洋堂が仏像の展覧会で販売しているものに雰囲気は近い。ただし、サイズが30センチから40センチ近くあって、重厚な上に値段も5万円10万円となかなかなもの。その大きさならば、もはや仏像として信心の対象となるのではないか。それともどこかが違うのか。これにも明確な答えは出ない。

 仏像とは何なのか。それを作る仏師という存在を主人公に描いた漫画が、小野洋一郎による「ブッシメン!」(講談社、543円)だ。父親が名だたる仏師だった奈良崎玄蔵は、まだ子供だった頃に、父親が工房の家事で死んでしまう。玄蔵は親の後を継いで仏師を目指そうと修行にはげむ。やがて21歳になった玄蔵は、親譲りの腕前でなかなかの評判を取るようになっていた。

 そんな玄蔵にも、まだ分からないことがあった。火事の時に、焼け死んだ父親が手に握って話さなかった、何か仏像の腕らしいものの本体が、いったいどんな仏像だったのかが未だに分からなかった。儀軌という、仏像にとっての決まり事を決して外さず頑なに守っていた父が作った腕なら、きっと実在する本体の仏像があるはず。そう信じて探していたものの、未だ正体をつかめずにいた、そんなある日。

 幼なじみのサクラという少女がたずねてきて、迷う玄蔵を気分転換にと連れて行った先があのワンダーフェスティバル。いうまでもなくガレージキットの祭典で、仏像とは対極にありそうな美少女のフィギュアが勢ぞろいした会場を見渡し、原型師たちが示す仏師とはまた違った造形への情熱に感心していた玄蔵の目に、ふと父親が残した腕に近いものが入ってきた。

 何だそれはと探し求め近寄って仰天。そして唖然。半ば落胆をしたものの、そこから玄蔵は、仏師とはまた違ったガレージキットの原型師という仕事があることを知り、フィギュアメーカーで企画を担当する女性と知り合い、依頼を受けて仏教をテーマにしたアニメのフィギュアの原型作りに取り組むことになっていく。

 儀軌という仏像のきまりごとを重んじる、仏師の観念を一方に持ちつつ、そうしたものよりも見た目の凄さ、そしてそれがユーザーの気持ちをどれだけ動かすかを重用視するフィギュアの世界にも足を踏み入れ、どちらに行くべきかを迷い悩む主人公。けれども、自分が長く愛し探し求めた遺品の腕が作られた経緯を思い出し、またフィギュアであっても仏像であっても、それを求める人がいったい何を望んでいるのかを想像することで、少年はフィギュアの原型作りに、ひとつの芯を見出していく。

 形も大事。けれども心はもっと大事なその世界で、現実にいったいどれだけのフィギュアがユーザーの心を揺り動かしてくれるのか。似ているけれども「コレジャナイ」と言いたいものも多々ある世界。そうならないための道をめざす者は知るために、そしてそうなってしまったのは何故かを求める者は、感じるために「ブッシメン!」を読んで損はない。

 講談社の漫画誌「イブニング」での連載では、玄蔵はそれなりの腕は持ちながらも、自堕落な生活を送る叔父の玄蔵のところで修行をやり直し始め、女性が感心を示しそうな阿修羅像を作り、そしてブログで人気の美少女仏師との対決も行っては、自分自身に作れるものを見つけていく。当初のガレージキットとの関わりが、いささか後退気味ではあるものの、いずれ同じ道を究めようとする者たちの世界。美少女仏師のそちらへの参入といった可能性も信じつつ、あらゆる世界で繰り広げられる匠たちの探求のドラマを楽しんでいこう。  
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2011年10月04日

『中二病でも恋がしたい!』(虎虎、京都アニメーション、648円)

 虎虎の「中二病でも恋がしたい!」(京アニエスマ文庫)は、タイトルどおりに中二病の少年少女だって恋がしたいと願う物語。もっとも、恋なんて一般的な営みからは無縁と思われているか、あるいは無縁と思いたがっている節があって、中二病の人間にはなかなか恋は成就しない。下手すると永遠に成就しないから、なるほど恐ろしい病気だと改めて言いたい。そして訴えたい。中二病にかかるな。直すなら早く。

 もっとも、そうばかりとも言い切れないと、「中二病でも恋がしたい!」を読むと、ふっと思えてくるから楽しいというか、逆に危険というか。中学時代に邪気眼がと言って暴れていながら中三で悟り、一所懸命に勉強して進学した富樫勇太というが、入ったクラスには未だ前に眼帯をして寡黙な少女が、中二病設定丸出しで進んで来ていて、なぜか勇太に強い関心を抱いて、契約を結びたいと言い出した。

 放っておけないといった感情があり、また学校で密かに中二病的過去をちょろりと出してしまったところを見つかっていた勇太は、小遊鳥六花という名の少女に、不出来な数学を教える役目を買って出る。

 眼帯の下の眼が金色だったりするほか、言葉の端々に中二病的設定を口走る六花を相手に勇太は辟易としながら、それでも面倒を見ていたうちに、ほのかに芽ばえていく恋心。けれども、彼女の中二病をクラスに知られたらいったいどうなるのか、といった葛藤もありつつ進む恋路のその奧に、六花が今も中二病に頼っているのはどうしてなのか、といった理由がほのめかされ、多感な年頃の少女を苛む孤独感が示され、生きづらい世界を生きる大変さ、その逃げ道としての空想世界といったシチュエーションが見えてくる。

 今時のライトノベルだったら、そこで学校におけるヒエラルキー物へと滑り、いじめの問題へと行って苦みと痛みを味わわせそうな中二病話。あるいは田中ロミオの「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い」(ガガガ文庫)のように、そうした状況を開き直って広く明かして、居場所を自ら切りひらくような熱い展開へと向かっていくものだろう。

 けれども、この「中二病でも恋がしたい!」は、年頃ならではの自分の心情、家族との関係をほのめかす物語にし、そんな世代に普遍の物語にクラスの皆も決して誹らず、少しばかりの共感も示していたりする、暖かみを残したストーリーが繰り広げられる。中二病でもいいじゃないか。中二病でも恋が出来るじゃないか。そんな感情が浮かんでくる。

 過去につづった中二病設定満載のノートを披露されるシーンとか、読んで身悶えもするけれど、それでも中二病であることに、微笑ましさを感じてしまうストーリー。「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくるキョンの妹並に、兄の勇太を慕う妹は健気で素直で可愛いし、勇太と六花の間にちょっかいをだしてくる学級王の少女も、ドSだけれど陰湿ではなく高飛車でもなく、むしろ少しばかりの元中二病で気っ風も良い。不安を虚飾に変えて行きにくい世を生きようとあがく六花も含め、キャラクターに恵まれ展開も楽しくメッセージ性もある。

 何より面白い小説と言えるこの「中二病だって恋がしたい!」。店頭ではあまり売っていないレーベルで、探すか取り寄せる必要があるけれど、そういう手間をしてでも読んで悪くはない。あれだけ数学が出来ないで、よくこの高校に進学できたものだと、六花のことを思うのは果たしてありかなしか。きっとその時は邪王真眼もきっと賢く発動していたのだと考えよう。  
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『展翅少女人形館』(瑞智士記、早川書房、760円)


 人間が人形になる話といえば、テレビドラマの「悪魔くん」でマネキンの怪物が吐いた息で人間をマネキンにしてしまうシーンがなぜか、記憶に強烈に残っていたりするけれど、流石に古すぎるので、新しいものから探すなら、1990年代に一世を風靡したテクノゴシックなSFで、リチャード・コールダーによる「デッド・ガールズ」「デッド・ボーイズ」「アルーア」のシリーズに出てきた、ナノマシンによって少女が機械になっていくって作品がは頭に浮かぶ。やっぱり古いか。

 人間にそっくりで、けれども人間とは決定的に違う、人形という存在が持つ不可思議さ、深遠さ。永遠に刻まれるその姿態に憧れ、なってみたいと思わせる一方で永遠に閉じこめられる恐怖をさそい、そうはなりたくないと思わせる。相矛盾する不思議な感情を抱かせる存在だからこそ、人形はスリラーのテーマになり、SFの主題になってその不可思議さをアピールする。

 瑞智士記によるライトノベルではないストレートなSF小説「展翅少女人形館」(ハヤカワ文庫JA、760円)もまた、人間と人形との境界に揺れる心を、退廃と衰滅の空気が色濃く漂う世界を舞台に描いては、人間と人形のそれぞれが持つ確かさを危うさについて考えさせる。

 中世のピレネーの山中で医師として慕われ、人形師としても讃えられた少女が魔女のような存在と咎められ、拷問の果てに命を失う。そして、現代に話を移して何十年か前から世界では、人間の代わりに球体関節人形が生まれてくる現象が発生して、人間はほとんど生まれなくなっていた。

 滅亡の危機に瀕した人類は、「機関」なる組織を作り、ここが中心となって人間のままの子供が産まれたら、いち早く見つけだして引き取って、隔離してピレネーの修道院で育てることになっていた。今、そんな修道院には、かつて双子で生まれながらも姉は人形だった泣き虫少女のマリオンと、娼婦の母親から生まれ、なぜか人形だけを愛していた母親に捨てられるように預けられたミラーナ、そして、職人の娘として生まれ、人形作りの腕を持ったフローリカたちが、人間として生まれた奇跡的な存在として囲われていた。

 ミラーナは、修道院でバレエの名バレリーナから教わる形でバレエの技術を高めていたけれど、誰に見せるわけでもないその技を見たのが、人形作りに勤しむフローリカ。キッと踊りを見据えたその思いはミラーナにに共感して、空想の五寸釘となってミラーナを精神的に貫く現象を起こしてしまう。

 一方で、フローリカはマリオンの双子の片割れの人形をこよなく慈しんで、はりつけにしたりバラバラにしようと企んでいて、マリオンから敬遠されていた。そんな楽しげで危なげな少女たちの関係が、日常のように続いていたある日。修道院にもう1にの少女がやってくる。貴族の娘とされる彼女は、人間ではあったが見た目は人形そっくりだった。

 それで、どうして生きているかというと、一部の器官だけが人間としての生身を残していて、思考し、会話し、栄養を摂取することができたからだった。まるで動けない状態にいながらも、極端に鋭く頭が良く、権力も持っていた彼女は、修道院に来てすぐに生まれながらの尊大さで振る舞い、既にいた少女たちの間に波風を起こす。

 やがてそうした彼女の行動が、修道院の少女たちの運命を大きく揺るがしていく。なおかつ人形と人間の入り混じった少女の存在にも迫って、人間であることと人形であること、そのどちらを人は、少女は選ぶべきなのかを感じさせる。

 なぜ、人間が人形になるのかという理由を、ナノマシンのような科学的技術的ガジェットでは説明していない部分に、SFとしての確かさを与えて良いのかと考える人もいそうな作品。もっとも、そういう運命に人類が追い込まれたと仮定して、起こる環境の変化、思考の変化を浮かび上がらせ、人間にとって人形とは、人にそっくりでありながら人とは決定的に違い、老いたりはせず育ちもしないで、永遠の時を生きるその存在とは何かを考えさせる点で、SFと言えるだろう。

 いずれにしても、少女たちの凄まじいばかりの執念が漂うストーリー。読み終えて自分だったらどの道を選ぶか、考えてみるのも良いかもしれない。そして感銘を覚えるなり、興味を抱くなりしたなら、 リチャード・コールダーの一連のシリーズをさらってみるのも悪くない。問題は、もはや書店の店頭で見ることはまずないということだけれど。これを機会に再刊、となればとても嬉しい。
  
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2011年10月03日

『魔王が家賃を払ってくれない』(伊藤ヒロ、小学館、571円)


 とりあえず下北沢にあるヴィレッジヴァンガードが、伊藤ヒロの「魔王が家賃を払ってくれない」(ガガガ文庫、571円)を店頭にて平積みで販売したら、そのサブカルチャー的反骨魂というものを、認め褒め称えるにやぶさかではない。

 それは表紙のイラストの、上だけジャージの上着を羽織り、下はニーソックスだけ脚に通した姿から当然のぞく、白地に青のストライプのアレに、子供は見てはイケマンセン的条例とか、親御さんのご意見とかがたんまりと寄せられる可能性とかをむこうに、表現はフリーダムだと戦って欲しいという面もある。

 けれどもやはりそれ以上に、中身でもって下北沢をいろいろ指摘していたりするそのレジスタンス的スタンスを、それすらも反骨と呵々大笑して認める度量というものを、あのヴィレッジヴァンガードには見せて欲しいということだ。

 平積みされた本に飾るポップには、赤いフレームの眼鏡を描くなり、張り付けるなりして、下北沢に集うサブカル女子にオススメと書いて頂ければ重畳。手に取った赤フレームのサブカル女子から発せられ、向かう感情の矛先は小学館と作者がすべて受け止めるから気にするな。うん。

 それにしてもこの「魔王が家賃を払ってくれない」。58ページまでで「パンツ」という言葉が99回も出てくるとあって、言語的な方面でも挑戦的。30分弱の本編に「おっぱい」という言葉が、数え切れないくらい出てきたテレビアニメーションもあったりするから、インパクトとしてそれほど飛び抜けているとは言えないけれども、やはり凄い。

 そしてその使われ方も、「魔王が家賃を払ってくれない」の場合、無駄に連呼されている訳ではない。ストーリーを紡ぐ上で必然として用いられているということにも、一目置いて襟を正して読まなくてはいけない気分にさせられる。なんちゃって。

 嘘なのか? いやホント。それにしてもどうしてそんなに「パンツ」が山と出てくるのか。それは魔王がやって来たものの、どこかやる気が薄いまま技を出し惜しみして勇者にこてんぱんにされてしまい、魔界に帰るに帰れずそのまま居座って、勇者の親戚が経営する古いアパートの一室に転がり込んでは仕事もせず、学校にもいかず日がなゴロゴロとしていたから。

 いわゆるニートという奴で、外に出ず誰にも見られなければ当然ながら服など無用。とはいえ寒さもあって上着は着るけれど、下はコタツに突っ込んでいけばいいということで、履かずパンツのみが体に張り付く。それすらも不要か? 「ここではきものをぬぐ」という日本人ならすぐ分かる案内を、別に解釈した魔王の手下によってそうした期待は叶えられはするものの、すぐさま目をふさがれるから見られないからご安心、いやご残念か。

 魔王はといえば、当座の生活資金は魔王時代の部下の参謀長やら将軍やら博士やらが働いて仕送りしてはくれているけど、そんなお金を家賃に回さずネットを遊び漫画を読みふけり、ゲームに溺れアニメのDVDをひたすら取り寄せるけれども見ないという、心に突き刺さるような生活スタイルへと注ぎ込んでしまっている。当然家賃が払えなくなっていて、そこで勇者の弟の主人公が回収に向かって丁々発止を繰り広げる。

 けれどもやはいr払ってくれない。払ったら負けだと思っているかはともかく、払おうとせず学校にも行こうとしない魔王をどうにかしようと、部下たちがファミレスに集まり作戦会議。魔王に妙なボディビルダーを送りつけられ、困惑した挙げ句にそれを下北沢の雑貨屋に卸したら、なぜかサブカル系の赤フレーム眼鏡の女子が買っていったという博士をはじめ、豊満さで鳴る将軍や、見た目は10才くらいの幼女ながらも実はIQ1300の参謀長が考え出した魔王に悔い改める作戦とは?

 そこからは聞くも涙の展開と、テレビ業界の悪辣さが描かれこの作品のアニメーション化への道を閉ざす。あるいは他の作品も。実にチャレンジブル。かくして悔い改めた魔王のその先は。やっぱり人間、そうは易々とは変われないってことで、今日も今日とてクーゲルシュライバーの攻撃をくらい続けるのであった。何だクーゲルシュライバーって? 

 それも読んでのお楽しみ。まずは手に取り数えたまえ。「パンツ」が結局どれだけ出てきたかを。それによっては来年のギネスワールドレコーズに申請されても不思議じゃない。もちろん添えられる写真は、ルソン島で生産されたから島パンということらしい、ブルーとホワイトのストライプのパンツを被った作者自身だ。履くのは勘弁。  
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