2008年09月05日

『テンペスト 上・下』(池上永一、角川書店、上下各1600円)

 嵐が近づいている。政治でも経済でも社会でも文化でも、家庭でも学校でも会社でも地域でも、混乱と崩壊の嵐がすぐそこまで迫っている。

 無責任な言説ばかりが横行して、誰も責任をとらない乾いた空気。手に届く範囲の幸せと、遠くで起こる滅亡に溺れて明日、明後日に来る現実の苦しみから目を遠ざける心理。それらがもたらす恐怖の形に、聡明な人間が、叡智を頂く人間が気づかないはずがない。

 でも何もしない。何もしようとしない。変えたくないから。不安にとらわれたくないから。そうして目前に迫る危機から視線を逸らし続けた果て。巨大な嵐に飲み込まれてすべてが終わる。誰にもどうしようもないままに、嵐がすべてを終わらせる。

 違う、間違っていると叫ぶ声が、池上永一の「テンペスト」(角川書店、上下各1600円)から聞こえて来る。悟れよ。動けよ。そうすれば嵐は来ても吹き飛ばされず、命脈を保てると叫ぶ少女の声が響き渡る。

 聞けよ。気づけよ。耳にした少女の叫びに誘われて「テンペスト」を開き、眼に焼き付けた少女の生涯をかけた戦いを糧にできれば、明日のために今、何を成すべきかもおのずと見えてくるはずだ。

 時は1800年代の沖縄、すなわち琉球王国。王権を象徴する龍が目覚め天へと駆け上り、雷となって落ちた家に生まれた少女は、嫡男を求めていた父親を落胆させて名を与えてもらえないまま、自分で自分を真鶴と名付けて、養子として迎えられた兄の陰でひっそりと生きていた。

 けれども、生来の才能が真鶴を日陰者の身分に落ち着かせなかった。語学の天才。教養の秀才。その才能を活かしたい、そして琉球を救いたいと真鶴は男子だけしか受験できない官吏登用試験の科試(こうし)を受験しようと志し、女であることを隠して孫寧温という名の男子と偽り学問を修め、科試へと臨む。

 聡明すぎるが故に孫寧温は、琉球が政治的、外交的、経済的に置かれた状況を見通し、憂いて怠惰なる現状を打破すべきと答案に書いてしまい、それが反逆的だと非難されて1度は科試を落とされる。けれども、現状を憂う気持ちでは共通だった国王の声で合格とされ、官僚でもトップクラスの地位へと一気に引き上げられて政治に、外交に、経済にその辣腕を振るうようになる。

 少女だから当然のように女性的な容貌をしていた真鶴だったが、孫寧温と名乗ってからは清で宦官となって琉球に流れ着いた存在と言って、周囲を納得させていた。さらに孫寧温という偽名の存在になりきろうと心を奮い立たせ、真鶴とは別のひとつの人格として育て上げては、その人格に引っ張られ、国政の舵取りに邁進する。

 もっとも、出る杭が打たれるのはいつの時代のどこの世界でも同じこと。才能はありながら性格に難があって清国を追われ、琉球へとやって来た本物の宦官によって国政が壟断されていることに憤り、且つ女性であることを見抜かれ籠絡されそうになったため、その宦官を殺害してしまう。そして寧温は罪を問われ、沖縄本島から八重山諸島へと流刑にされる。

 そこでも才能を発揮して、迫る異国の勢力から八重山諸島を守る働きをしたものの、咎められ放逐され、原野でマラリアに罹り一生を終える寸前まで行ってしまった。もはや一巻の終わりか? しかし真鶴には神様がついてた。琉球の神が真鶴を必要としていた。

 時あたかも1853年。翌年に浦賀へと乗り込み江戸幕府を恫喝し、開国を決断させた米国のペリー提督が、次善の策として沖縄の領土化を画策して圧力をかけて来ていた。対抗できるのは孫寧温しかいないと国王は決断。八重山から呼び戻そうとしたものの、すでに真鶴は八重山にはいなかった。どこにいたのか? 琉球にいた。それも王宮の中に。国王の側室として。

 国王都に献上する美少女を集めていた輩が八重山を訪れた際、踊り手にならないかと誘われた真鶴は、都に行けるなら、そして黒船の怖さを伝えられるならと話に乗って海を渡った。本島に戻って都に入り、踊り手にさせられるのかと思いきや、何と国王の側室にされてしまった。

 そこに起こった黒船の襲来。紛うことなき国難に黙っていられる寧温ではなく、夜は真鶴として王宮で側室の暮らしをし、昼間は抜け出して評定所で官吏として差配し叱咤激励する忙しい日々を送ることになった。

 二重生活の中で真鶴は、そして孫寧温はふたつの人格に引き裂かれそうになる。真鶴として母親となり子を産んで育てたいと願う。寧温として国政に辺り琉球の国体を堅持する。けれども体は一つしかない。迫る危機に寧温は琉球のために尽くせよと訴え、真鶴は人間としての幸せをつかみたいと願う。

 国家と個人の間に立って引き裂かれそうになりながら、より良い道を探って進もうと足掻くその姿からは、現代の世界が、社会が直面している問題が指し示される。そして真鶴と寧温が悩み惑いながらも決断し、足を踏み出す姿から、現状に甘んじないで常に考え、歩み続けるべきだという気持ちを引き起こされる。

 琉球の歴史という改変不可能な現実が厳然として横たわる。維新を経て誕生した日本政府に飲み込まれ、消滅していった琉球の歴史を物語は、史実として受け止め描かざるを得ない。歴史はやがて第二次世界大戦での悲劇へと繋がり、ペリーが成しえなかった米国いよる占領へと至り、本土復帰はしたもののどこか曖昧な場所として引き裂かれ、漂う現状を生む。

 ならば、真鶴の頑張りは無駄だったのか。孫寧温の恋情も友情もなげうって邁進した日々は、すべてが無駄なあがきだったのか。否。断じて否と読み終えた人たちは叫ぶだろう。

 女性として生まれながら、男性のように政治を極めたいと願う一方で、女性として男性を愛したいと想うアンビバレントな人格を持ったヒロインは、栄華を極め、落とされ、蘇り、葬られそして復活し、さらに敗れても衰えず、朽ち果てないで生きていく。その激しくも力強い生き様そのものが、生きるというそれ自体が持つ素晴らしさを感じさせる。感動となって全身を包む。面白いと感じさせる。

 琉球の神女として崇められながら、その地位から追いやった真鶴をいつまでも恨み続け、平民から娼婦へと身分を帰られながらも生き抜き、琉球の最後を看取る聞得大君の諦めない生き様も、見苦しさより天晴れさを覚える。名家の娘で、真鶴と同時に側室となりその奔放さで真鶴を困惑させながら、友人としてピンチになれば真鶴を助け、共に混乱を生き抜く真美那のしたたかさも心に響く。

 幼くして大奥に女官の見習いとして使用人として入り、寧温に憧れながら権謀術数の限りを尽くしてのし上がっていく思戸のへこたれない前向きさにも目を奪われる。ヒロイン以外のキャラクターたちの多彩で執念深く、真っ直ぐで破天荒な生き様を見ると、男性と女性の狭間に引き裂かれそうになって迷った果てに、裏目ばかりを引く真鶴の方がよどほ粗忽者だと思えてくる。

 人は完璧ではない。そして人はひとりでは何も成しえないのだ。

 「レキオス」のような魔術と戦闘が爆裂する派手な展開はないし、「シャングリ・ラ」のような国体の未来を示唆する設定の圧巻さはないかもしれない。けれども、歴史ドラマとして、人間のドラマとしては過去のいずれの作品にもない圧倒的な存在感が「テンペスト」にはある。

 読み応えのある内容を、すらすらと読ませる文体と心惹かれるキャラクターたちを使って描ききった歴史エンターテインメントとして、今年最大級の、というより21世紀に入って以降で最上級の小説、それが「テンペスト」。ここより学んで動き、ここより感じて走り出せ。嵐を払って明日をつかめ。

Posted by kha02604 at 05:48│TrackBack(0)

この記事へのトラックバックURL