2009年11月21日

「抽象的すぎる」ということ

僕は、宮台真司氏のブログを読むのも趣味の一つなのだが、今日は久しぶりに「社会学入門講座」を読み返してみた。その「第一回「「社会」とは何か」」の中には「この問いは、経済学の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用語の範囲で答えることは不可能でしょう」という言葉がある。

これは、「社会」という言葉の意味するところが抽象的すぎて、日常用語の範囲では説明できないということだ。日常用語は具体的な事柄を説明することは出来るが、抽象的な概念を説明するにはどうしても専門用語がいるということだ。

この部分の宮台氏の主張は、確かにそうだと共感するとともに、それを何とか克服したいものだという願望もわいてくる。僕の好きなもう一人の著者の内田樹さんなどは、入門者に対しては、専門用語などはもちろん知らないから、とりあえずスタート時点では日常用語の理解で進んでもらおうというような説明の仕方をする。

「他者」などという概念は、哲学的に細かいことをいえばたいへん難しい専門用語だが、「まあ他の人のことだわな」というような言い方で最初は済ませてしまう。そのうちに理解できればいいということだ。  続きを読む
Posted by khideaki at 09:24Comments(0)TrackBack(0)論理

2009年11月16日

コミュニケーションについて

僕が定期的に購読しているblogに「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」というものがある。ここで「不可視のコミュニケーション。」というエントリーを読んだ。とてもおもしろいものだと思った。特に、コミュニケーションというものに対する視点がすばらしいと思った。

ここでヒラカワさんは、

「Communicationはビジネスにおいても、日常の生活においても頻繁に用いられる言葉だが、実はコミュニケーションに相当する適当な日本語というものがない。

勿論、「伝達」といった訳語はあるが、それは一方の情報が他方に伝えられるいうただCommunicationの機能を表すに過ぎない。Communicationの要諦は、一対一、一対他の間に共有する何ものかが生まれ出るということであり、「伝達」では、その「生まれ出る」というイベントそのものをうまく捕捉できない。」

と語っている。コミュニケーションというのは、単に伝達することでもなく、伝達されたものを受け取るものでもなく、それが対となって総合されていなければコミュニケーションとは呼べないのではないかという指摘だ。  続きを読む
Posted by khideaki at 09:54Comments(0)TrackBack(0)雑文

2009年09月29日

自民党は再生できないだろう

自民党総裁選が終わり、河野太郎氏がまたもや主流となることなく終わった。それでも、前回の総裁選では20人の推薦人が集まらずに、立候補すら出来なかったことを考えれば、少しはましになったのかもしれない。しかし、自民党の中にある危機感というものが、谷垣氏の圧勝を見る限りではこの程度のものだったのかということでがっかりする。投票率の低さを見ると、危機感を通り越してもはやあきらめが自民党には蔓延しているのだろうか。

河野太郎氏は、テレビのインタビューで、「自民党を真っ向から批判しているのなら、むしろ自民党を出た方がいいのではないか」ということに答えて、「自分が今は中心にいるのを感じる。その中心にいる自分が外に出る必要はなく、中心で改革を進める道を選んだ」というようなことを語っていた。だが、総裁選の結果を見る限りでは、自民党は河野氏をその中心に据えることをしなかったと言えるだろう。

自民党は、これから谷垣氏を中心としてその再生を図ることになるのだが、谷垣氏に根本から自民党を変えるだけの力と決意があるとは思えない。河野氏が批判していたように、「全員野球」という言葉で、今まで自民党の負の遺産を作り上げて、それを引きずってきた人間をもともに取り込んでこれからも活動していこうというのだから、選挙で批判を浴びた面を改革できるとはとても思えない。自民党はこのまま衰退して消えていくのではないかと思う。  続きを読む
Posted by khideaki at 10:14Comments(1)TrackBack(0)国内政治

2009年09月26日

自民党政権の負の遺産

八ッ場ダムの中止の問題は民主党新政権が苦労しているものの一つだが、これはそもそもの原因が自民党の政治的判断が先の見通しのないずさんなものであったがために起こった問題ではないかと思える。製造計画から50年以上を経てもなおダム本体の工事に着工もしていないという計画は、それが緊急に必要なものではなかったということを証明するようなものではないだろうか。

「八ッ場ダム工事中止の反対論のおかしな論理」のコメント欄で小林とむぼさんから教えてもらった「八ッ場あしたの会」のサイトには、ダム工事を推進する側の主張の間違いが具体的に指摘されている。中止に対する反論は、少なくともこの具体論に対して何らかの反論をするのでなければ、それはあまり信用できないものとなるだろう。

今までの自民党政権を続けるのであれば、この間違いがさらにふくれ続けるだろうと多くの人が判断したからこそ、今回の選挙では、自民党政治を真っ向から批判していた民主党に支持が集まり、自民党政治の流れを止めるためにこそ政権交代が選択されたと僕は受け取っている。  続きを読む
Posted by khideaki at 12:49Comments(0)TrackBack(0)国内政治

2009年09月21日

誰のための無料化か?

ニュースステイションの報道で、渋滞の高速道路の利用者の声を伝えているものがあった。その声の一つに、「行楽に行く余裕のある人たちのために無料化をしなくてもいいんじゃないか(むしろ、そういう人たちからは金を取った方がいいというニュアンスを感じた)」というものがあった。これなどは、無料化になって、今の1000円の時以上の渋滞になってはたまらない、という気持ちが込められているのを感じた。

これは、無料化というのが、いったい誰のためにやるのかということが間違って伝えられていることの現れではないかと強く感じた。今の休日の1000円を上限とする割引というのは、普通乗用車が対象であるから、確かに行楽客のための割引になっている。だから、この連休に渋滞が起こることは十分予想されたことで、渋滞を前提としてこの割引がなされているといってもいいだろう。

高速道路が無料化されるというときも、対象が行楽客のみになるのであれば、この報道にあったような利用者の懸念が現実のものとなるだろう。しかし、無料化というのはそもそも、高くて全く利用されていない地方の高速道路を、生活の利便性をあげるために無料化するということが本質的な目的なのだ。行楽客の利益のために無料化するのではない。  続きを読む
Posted by khideaki at 22:38Comments(0)TrackBack(1)テレビ報道

八ッ場ダム工事中止の反対論のおかしな論理

テレビのニュースを見ていたら、八ッ場ダムに対して、「もう工事の7割が終わっているのに、ここで中止したら今までの工事がムダになるし、これまで使ってきた金はどうなるのか?」というような論調で中止に反対するような意見が提出されていた。これは、一見もっともな理屈を言っているようにも聞こえてしまうが、よく考えるとおかしいのではないかと思う。

すでに7割やってしまったのだから、残りの3割も終わらせようというのは、それが必要なものかどうかという観点が抜け落ちてしまっている。とにかく、注ぎ込んだ金がもったいなから、残りの金も注ぎ込んでしまえというのは、暗黙の内に、その工事は必要だからやっているのではなく、ある量の金をばらまくことが目的でやっているのだと語っているのではないだろうか。もし残りの3割の金が必要だというなら、むしろ工事をせずに、金だけをばらまく方がまだいいのではないかと感じる。

八ッ場ダムに関しては、それが本当に必要な工事であるという報道が少ない。むしろ今となってはその必要性が全く失われてしまったという報道がなされている。必要がないのだから、やめる方が合理的だろう。しかし、やめることによって損害を被る人々がいるのも確かだ。その損害が本当に保障されるべきものであれば、残りの工事をする金よりも余計の金がかかったとしても保障するのが合理的な判断だろう。余計に金がかかるのだから、ムダではあるけれど、金を払うための工事をすべきだというのは、金の面だけのつじつまを合わせる論理であり、他の面の正当性をすべて無視する論理になるだろう。  続きを読む
Posted by khideaki at 19:03Comments(2)TrackBack(0)テレビ報道

2009年09月19日

民主党の記者会見における公約違反に至る合理的判断を想像する

鳩山首相の最初の記者会見がすべてのメディアにオープンにされなかったことでインターネット上で大きな批判の波が起こっている。特に神保哲生氏の「ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ」に、その情報が詳しく報告されている。

神保氏やフリーのジャーナリストの上杉隆氏が、政権発足前から記者会見がオープンになることを確認する場面がネット上の映像で見られる。これは、マニフェストには書かれていなかったものの、民主党の公約として当然実行されるものとして誰もが受け取っていた。だから、それがオープンにならなかったら、そのことは明白な公約違反として批判されるのは当然予想されたことではなかったかと思われる。自民党を批判し、自民党政治との決別の期待で誕生した鳩山政権が、自民党と同じような国民からの密室政治を行うのではないかという疑いを持たれるような、記者会見における開放の約束の反故は、政権にとって大きなダメージになることも予測できたのではないだろうか。そうであるにもかかわらず、このようなことが結果的に起こってきたのは、いったいどのような合理的判断からなのだろうか。  続きを読む
Posted by khideaki at 11:12Comments(0)TrackBack(0)国内政治

2009年09月12日

高速道路の借金

高速道路の借金について、山崎養世さんの『道路問題を解く』(ダイヤモンド社)という著書から抜き書きしてその部分を考えてみようと思う。この借金に関しては、マスコミの報道では、高速道路の通行料金収入の一部を宛てて返済する計画が語られている。そしてそれは、マスコミに寄れば今のところは順調に返済されているらしい。この借金が、もし料金収入がなくなれば返せなくなるし、ましてや国民の税金でこれを返すという民主党案(これは山崎さんのアイデアだと思うが)には、「道路を使わない人たちにも道路の借金の負担を押しつけている」という批判が語られている。

この批判は全く的外れではないかというのが、山崎さんの本を読んだあとでの感想だ。この借金の問題は、多くの人が批判的に扱っているだけに、高速道路の問題を論理的に理解する鍵になるものではないかと思われる。詳しく考察してみたいと思う。

高速道路の借金の本質的問題は、借金をしてまでも作り続けるという現在の制度が全く不合理でそれを変えなければならないということだ。高速道路を造るのに、これからも借金が必要なのかどうか。山崎さんの論理展開では、この借金は全く必要のないものとして主張されている。借金で作り続けるという制度は、自由に金をばらまくためにこそ必要なもので、まさに利権を温存するために残されたものであるという主張だ。  続きを読む
Posted by khideaki at 16:47Comments(0)TrackBack(0)国内政治

山崎さんの論理的思考

高速道路の無料化に関するライブドアブログのエントリー「高速道路の無料化」にトラックバックをもらった。生粋さんというハンドルネームの方で、「高速無料反対は世論操作か」というエントリーで、山崎さんの主張に関する疑問を提出している。これは、大変参考になったので、今後の山崎さんの主張の理解に大いに役立てたいと思った。

しかし、僕が山崎さんの主張に共感し支持しているのは、その原則からの論理展開の見事さにあるので、この疑問だけではその論理展開を覆すほどの理由が生じるようには感じなかった。

山崎さんは、高速道路は原則無料であるべきだということから出発している。それは、世界の他の国もみんなそうしているから日本もそうすべきだという、現状追認の考えからきているものではないと僕は感じている。むしろ論理的な前提として「無料」ということを置かないと合理的ではないのではないかという思考の展開からきているものではないかと思う。「無料」こそが合理的な選択なのだから、世界の国の中で、道路行政を合理的に展開しようとしている国では、論理的帰結として「無料」が潮流になることが当然ではないかという考え方だ。むしろ有料化しているところは例外であり、それなりの理由がなければ有料化していないと受け取るべきではないかということだ。合理的思考を展開すれば「無料」が当然であるから、それが原則「有料」になっている日本では、どこかに不合理なゆがみがあると予測できる。それが山崎さんの基本的な論理展開だ。  続きを読む
Posted by khideaki at 09:57Comments(0)TrackBack(0)国内政治

2009年09月08日

高速道路の無料化

新しく配信されたマル激では高速道路の無料化を巡って、山崎養世さんをゲストに招いて、その疑問点に逐一答えるという放送をしていた。この高速道路の無料化については、あれだけ民主党に投票した国民が、これには大多数が反対しているという奇妙な世論調査が提出されている。

この世論調査は、放送の中でも指摘されていたが、世論操作ともいうべきものであって、マスコミがその疑問点だけを大宣伝しているために不安をあおって反対世論を高めたと受け取った方がいいようなものではないかと感じる。どんな考え方であっても、その全貌を理解するのは難しいところがあり、重箱の隅をつつくように不安材料を見つけ出そうと思えば、それはいくらでも見つけられるものではないかと思う。山崎さんの話を聞けば、その不安や疑問がいかに末梢的なものであるかがよくわかるのだが、なぜかマスコミには山崎さんの話がなかなか出てこない。このマスコミのネガティブキャンペーンに負けずに、民主党は公約通りに高速道路の無料化を実現してほしいものだと思う。

山崎さんは、以前に郵政民営化に反対するという主張をマル激で見たときに初めて知った人だが、宮台氏が驚嘆するように、その論理展開の見事さにすごい人だと僕も感じたものだった。山崎さんの論理展開の見事さは、その全体性の把握の正確さ・深さ・見通しの広さにある。マスコミの論調を見ると、目先の損得勘定からネガティブに欠点だと指摘できるところを探し出して宣伝しているように見える。今まで取っていた通行料金がなくなれば、その分どこから金が取られて、誰が損するかということが声高に言われている。しかし山崎さんは、料金を取るということが、道路行政の中でどのような意味を持っているのか、また日本全体の財政においてどのような意味を持っているのか、官僚機構の無駄遣いといわれている天下りや利権の中でどのような構造的位置を占めているかということから話を始めている。  続きを読む
Posted by khideaki at 10:18Comments(0)TrackBack(1)国内政治

2009年08月08日

NHKの研究 その3

ここ数日間、どちらかというと積極的にNHKのニュースを見てみた。目についたニュースは、やはり裁判員制度に関するものだった。これは実際に大きなニュースであり、このことに時間を割き、詳しく報道すること自体は間違いではないと思う。しかしその報道の仕方には何か違和感を感じた。

裁判員制度については、マル激でその疑問点がかなり語られていた。手放しで賛成できるようなものではなかった。だから、報道では、評価すべき点と同時に批判すべき点が語られるべきではなかったかと思う。そうでなければ公正ではないのではないか。NHKのニュースでは批判が全く語られていなかった。それは公共性を欠くのではないかということを強く感じた。

NHKの報道では、今までの裁判に比べて、市民の目が随所に感じられたと報道されていた。しかもそれが肯定的に評価されていた。礼賛に近い感想を述べていた専門家もいた。しかし誰もが諸手を挙げて賛成するほどこの制度は「我々にとって」いいものなのだろうか。  続きを読む
Posted by khideaki at 23:42Comments(1)TrackBack(0)NHK

2009年08月06日

NHKの研究 その2

前回のエントリーで、受信料を払っていないのでNHKを見ないようにしていると書いたのだが、よく考えてみるとそれはちょっと間違えたかなという気がしている。受信料を拒否している人には、「見ないから払わない」という人が多いようだ。これはそれなりに論理的な筋は通っていると思う。NHKが配信している放送を、一種の商品だと解釈すれば、見ないものに(つまり使わないものに)金を払うという論理的必然性はない。

「見ないから払わない」ということに論理的な違和感はないのだが、そうではなく、抗議の意思の表明としてまず「払わない」ということが先行した場合、その結果として「見ない」ということは条件によっては間違えることになるのではないかという感じがしてきた。僕は、受信料というものを単に商品の値段のような経済的なものとしてとらえていない。NHKが真の公共性を持つものなら、その公共性を保つための支援の表明としての「市民」の義務のようなものととらえている。公共性があるのなら当然払うべきものだと思っている。その公共性に疑問があるからこそ「払わない」ということで抗議の意思を示している。

それでは、その公共性が現在はどうなっているかという判断をどこでしたらいいだろうか。NHKの放送を全く見ないで、その判断が出来るだろうか。娯楽番組を見る必要はないが、少なくとも報道の傾向を見るために定期的にニュースを見る必要があるのではないかという気がしてきた。  続きを読む
Posted by khideaki at 09:47Comments(0)TrackBack(0)NHK

2009年08月02日

NHKの研究 その1

引っ越しをしたときに、いろいろな手続きをしてそれをきっかけにNHKの受信料を拒否したのがかれこれ15年近く前になるだろうか。それ以前から本多勝一さんの『NHK受信料拒否の論理』を読んでいたので、いつかきっかけがあれば拒否の意思を示したいとは思っていたのだが、なかなかそのきっかけがなかった。引っ越しをしたときに、ちょうどNHKの不祥事が話題になっていたのではなかったかという記憶もある。

手続きはあっけないくらいに簡単だった。銀行に行って、自動引き落としの解除をしただけだった。そして、そのあとにハガキでNHKに通告を送った。これも本多さんの著書に従ったような形になっただろうか。

ハガキを送った当初は何も反応がなかったが、数ヶ月して受信料を滞納していることがわかったのだろうか、NHKの職員が訪ねてきた。とりあえずいろいろな考え方があって拒否していることを伝え、本多さんの著書を貸して、そこに書いてあるようなことが基本的な考え方だと伝えたりもした。

印象的だった反応は、「自分の考えで拒否の意思を示している」と伝えたら、「そんなことを自分で決めていいのか」と怒ったような表情で語ったときだ。確かに、受信料を払わないということは、NHKにとって困ることだろうから、それに対して払うように要求するのは利害当事者として理解できる。しかし、自分の判断でやっているということに対して、あれほど感情的に反応が返ってくるとは思わなかったので、これは印象的だった。受信料を払うということには、疑問を抱くことさえ許されないことだという先入観があるような感じがした。今まで、プライベートなことに関してはすべて最終的には自分の考えで判断をし、それがプライベートであるが故に誰からも文句を言われなかったのに、公共に関わることの判断を自分の頭ですると、それが通念に反しているとこれほどの抵抗を示されるのだろうかとそのときは思った。

もう一つおもしろかった反応は、かなりの額を滞納したときに、「今までの分はいいから、来月から払ってくれませんか?」と言って訪ねてきた職員がいたことだ。それで払う気になれば、今までの未払い分はチャラにしてもいいという感じだった。これに対しては、そもそも払わなくなったのは、抗議の意思を示したことであり、お金がもったいないから払いたくないということではなかったので、その旨を伝えて引き取ってもらった。

それ以来、NHKの側では滞納の額を知らせる通知が送られてくるだけで具体的な働きかけはなくなった。こちらは、払わない以上見るのはフェアではないという思いもあって、NHKを一切見ないことにしているが、物理的にも見られないようにしようと思い、ケーブルテレビに連絡をして、NHKの放送を配信しないように頼んでみた。そうすると衛星放送については出来るけれども、地上波はそれが出来ないという回答だった。有料放送を配信していないのだから、技術的には配信を止めることが出来ると思うのだが、それが出来ないというのは技術的ではない理由があるのだろうか。

仕方がないので、衛星放送は見られないようになったことをNHKに連絡して、地上波の方を何とかしてくれといったのだが、勘違いしたのか、衛星放送の契約を切って、地上波だけの契約に替える書類を送ってきた。こちらは、契約そのものに疑問を持ち受信料の不払いをしているのに、どうもその意味が伝わらないようだ。

それを放っておいて数年がたった。最近の受信料の問題の動きにNHKの側は法的な手段で滞納を回収しようとしてきているものが見られるようになった。これは、公共性という観点から大変な問題ではないかと感じる。受信料の滞納が法的な問題で回収可能だと考えるということは、それが公共性に対する抗議の意思の表れだということを、当のNHKが全く理解していないことを示していることを表しているように思う。

ただ、自分自身の抗議の意思についても、振り返ってみるとかなり単純で素朴なものであることを感じる。今一度、その素朴さを深く考え直して、なぜ受信料拒否の意思を示すということでNHKの公共性を問題にするのか、という論理的根拠をしっかりしたものにしたいと思う。

よくよく考えてみると、僕の行為はNHKの受信契約を解除して払わなくてすむようにしたいということが目的ではないような気がしている。むしろ重要なのはNHKが真に公共放送に値する存在なのかという点だ。もし、真に公共放送に値する存在なら、それは受信料という形ではなく、その公共性を守るために我々「市民」(民主主義的な権利意識を持った人々というニュアンスでこの言葉を使う)の一人一人は、それを支えるために負担をすべきだと思う。受信料というような、曖昧で不自然な形の料金ではなく、公共性を守るための市民の義務として、NHKの放送を支える負担なら、僕は拒否しないだろう。

われわれ「市民」にとって必要なNHKの公共性というものをいろいろ考えてみたいと思う。そして、NHKが一日も早くそのような存在になるように働きかけたい。そして、現実のNHKがそのような存在ではないときは、抗議の意思としての受信料の不払いを続けるだろうと思う。

手始めに本多さんの『NHK受信料拒否の論理』をもう一度詳しく読み直してみようと思う。素朴な印象としては、未だにNHKは真の公共性を持っていないと感じている。その素朴な直感を論理で確実なものにしたいと思う。本多さんの本のあとには、NHKについて書かれた様々な著作の中から、特に公共性に関わることを議論しているものを参考にして考えていきたいと思う。  
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2009年02月09日

事実(知識)の面白さと理論(考察)の面白さ

森達也さんの『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)を読んで以来、またかつてのプロレス熱が甦って、今プロレスに関する本をいくつか読んでいる。主に読んでいるのは、新日本プロレスでレフェリーとして活躍したミスター高橋さんが書いた一連の本だ。僕がプロレスファンであったということもあり、しかもかつて夢中になった頃のプロレスについて書いてあるので、高橋さんの本はどれも面白く読んだ。

森さんの本の面白さを考えたときもそう思ったのだが、事実の面白さを書いた本はとても分かりやすい。そこには自分の知らないことが書いてあり、しかも知りたいと思うことが書いてあるので、それを知ること自体が楽しいという、知識を得ることの楽しさを感じることが出来る。それは知らなかったことを知るだけであるから、そのことについて深く考えるという複雑さがなく、そのためにとても分かりやすい。

僕は数理論理学などをやっていたので、かなり理屈っぽく考えるのも好きだ。そのときの楽しさは、何かもやもやしていた頭の中が、すっきりと見通しよく晴れていくように見えるところに楽しさがあった。事実を知ることによる分かりやすい楽しさもあれば、複雑な現実世界のつながりを一つずつほぐしていって、世界の全体像がいっぺんに見えてくるような瞬間を感じる、考えることの楽しさというものもある。この二つの楽しさは質が違うものだが、強く結びついている部分もあるのではないかという気がしている。
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2009年02月01日

森達也さんのおもしろさ

森達也さんの本を立て続けに2冊夢中になって読んだ。一つは『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)というもので、これは戦後まもなくアメリカで活躍したグレート東郷というレスラーについて書かれたものだ。僕は小学生の頃に若いアントニオ猪木のファンになって以来のプロレスファンなので、まずはプロレスについての記述ということでこの本に惹きつけられた。

僕がプロレスを見始めた頃はジャイアント馬場の全盛期で、猪木はまだ若く馬場の引き立て役のようになっていた。しかし僕は最初から馬場よりも猪木の方に強く惹かれていた。猪木のはつらつとした動きに魅せられていて、勧善懲悪的なカタルシスを前面に押し出した馬場のプロレスよりも、動きそのものに引き寄せられる猪木のプロレスは、見ているだけで楽しかったものだ。ドリー・ファンク・ジュニアやビル・ロビンソンとは60分フルタイムで戦って引き分けるという試合があったが、それだけ長い間見入っていても飽きるということがなかった。

そのようなプロレスファンだった僕は、『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健・著、文藝春秋)という本もかなり夢中になって読むことが出来た。しかし、その夢中の度合いがどうも森さんの本の場合と違うのを感じた。どちらも夢中になって読み、しかも僕の中では猪木の方が圧倒的に好きだから、内容としての関心の高さでは柳澤さんの本の方が関心が高い。それなのに、森さんの本は次のものが読みたいと思うような夢中さなのだが、柳澤さんに関しては、関心を持つような内容であれば手に取りたいと思うが、その著者の名前だけで次の本を手に取ろうというような気分にはならなかった。  続きを読む
Posted by khideaki at 12:21Comments(0)TrackBack(0)読書

2009年01月19日

『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。

民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがいいという発想は正しいように感じる。議論を尽くして求められた結論は、多くの人が賛成したものの方がより真理に近いように思えるし、それが間違えていたときも、賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、間違ったときの反省も出来て、以後はより真理に近い判断が出来るようになるだろうと期待できる。

民主主義がすばらしいものであるというイメージがあったときに、それを「奴隷制」と呼ぶようなマイナスのイメージを提示されることは衝撃的だった。民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく、欠点もあることを具体的に指摘され、しかもそれが納得できるようなものだった。板倉さんの指摘は、科学における真理にも、多数決的な民主主義的な判断がされた歴史があり、それが間違えていたということから導かれたもののように感じる。みんなが判断するということにふさわしくないことまでも民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。
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2009年01月15日

『14歳からの社会学』 社会におけるルールの正当性

宮台真司氏は『14歳からの社会学』の第2章で社会のルールについて語っている。社会にある種のルールが存在するのはある意味では当たり前で、そのルールにほとんどの人が従っているときは、それがルールであることさえも意識せずにいるだろう。しかし、そのルールを破る人が出てくると、それがルールとして正しいのか・有効なのかということが気になってくる。その判断はどうして考えたらいいのだろうか。

ルールを疑わない人は、そんなものは常識ではないかといって済ませるかもしれない。しかしその常識が通用しないときは、いくら常識であることを主張してもルールを維持することには役立たない。また、そのルールが今の状況には合わないのではないかと思っても、ルールがある以上仕方がないというあきらめの気持ちも生まれてくる。そのような場合はなし崩し的にルールが守られなくなっていく無秩序の状況を、何か変だと思いながらも受け入れていくようになってしまうような気がする。

社会のルールは、自分の感性(好き嫌いや気持ちがいいかなどという感情の働き)で判断して正当性を確立することが出来ない。これだけ感性が多様になってきた現代社会では、感性に頼った判断は合意が出来ないからだ。多くの人が合意できるような判断を求めるには、やはり論理に従った判断を求めるしかない。それが社会を理論的に捉えようとする社会学の必要性を要求する。現代社会のルールを理解するには社会学的な素養が必要になる。現在の成熟社会を生きる人間だからこそ「14歳から」社会学の素養が必要になる。  続きを読む
Posted by khideaki at 09:56Comments(0)TrackBack(0)宮台真司

2009年01月12日

『14歳からの社会学』 本当にみんな仲良しなのか?

宮台真司氏が『14歳からの社会学』という本を書いた。この本は、14歳でも読めるように、知識と経験に乏しい人でもその内容が分かるように配慮されて書いてある。一つの社会学入門書と言っていいだろう。子供のための入門書は、例えば「14歳のための○○」というような表題になっているものもある。しかし、宮台氏の本では「ための」ではなく「からの」という表現になっている。これには深い意味があるのではないかと感じる。

社会学というのは、今の大人たちも学校で習ったことがない。しかし、これまでの大人は、社会に出て働いたりすれば、それなりに社会というものがどういうものであるかを経験で知ることが出来た。学校で習わなくとも、学校を卒業した後に、社会のことは社会で経験することによって学ぶことが出来た。それが今ではたいへん難しい時代になっているのではないかと思う。

今日は成人式であり、日本では二十歳を過ぎれば一応大人として認めてもらえる。それは、大人としての義務を果たさなければならないというものがいくつか発生することでもあり、大人として行使できる権利を手にすることが出来ることでもある。かつての大人たちは、この儀式を通過することで大人としての自覚を持つことも出来たが、今はそれは難しい。子供たちはどうやって大人になればいいかが分からなくなっている。社会が安定していた時代は、ある種の通過儀礼を経ることによって誰もが大人になった。しかし、複雑化し流動化した現在は、どうなれば大人になれるのかが分からなくなっている。

大人になるということは、おそらく社会というものが理解できたときにそのような自覚が生まれてくるのではないかと思う。宮台氏が「14歳からの」という限定付きの社会学を語っているのは、これからの時代は、社会を理論的に捉えなければ理解が難しくなったのだということを語っているのではないかと思う。14歳からそれを意識することで、やがて二十歳になり大人になるときに、自信を持って大人だと言えるような何かがつかめるのではないかと思う。
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Posted by khideaki at 22:07Comments(0)TrackBack(0)宮台真司

2008年12月25日

東條英機のイメージ

昨日たまたまテレビを見ていたら、開戦当時の日本を描いたドラマをやっていた。ビートたけしが主人公の東條英機を演じたドラマで、主人公にするくらいであるから、A級戦犯としての東條のイメージとはかけ離れた、その人間的な魅力を描いたドラマとなっていた。

僕はその当時の日本の歴史的事実や東條英機の伝記に詳しいわけではないので、そこで描かれていた事実がどの程度「本当」であるかという判断は出来ない。だが、フィクションとはいえそこに嘘が描かれているという可能性は少ないだろう。ほとんどは、事実として確認出来る「真実」を元にして描かれていると思われる。だが、そこで語られていることがたとえ「事実」であったとしても、それを抽象化して「判断」を求めると、必ずしも「事実」と直結した「判断」が導かれるとは限らない。

ナチス・ドイツの高官たちは、ほとんどが家庭では良き夫であり・良き父親であったと言われている。その面だけを取り上げれば、彼らは魅力的で誠実な人間だったと「判断」されるだろう。しかし、ユダヤ人を迫害した面を考慮に入れるなら、この良き家庭人としての面は総合的な「判断」の中では末梢的な部分を占める「事実」になるのではないかと思われる。テレビドラマに描かれた東條の一面の「事実」も、東條を総合的に評価するには、それが本質を表しているかどうかを考えなければならないだろう。だが、そこまでの詳しい知識がない今の僕の段階では、そのような考察をすることは難しい。そこで、テレビドラマに描かれたことを「事実」だと前提にして、その「事実」を受け取った限りでの東條の印象を考察してみようかと思う。テレビドラマに描かれた東條を見れば、その姿から東條という人間がどのような人間であると受け取れるのか。それを考えてみたい。
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Posted by khideaki at 23:25Comments(0)TrackBack(0)歴史

2008年12月23日

『亜細亜主義の顛末に学べ』(宮台真司・著、実践社)

この本は、「亜細亜主義の顛末に学べ」と題されているのに、「亜細亜主義」についてはほとんど具体的な記述がないという不思議な本だ。「亜細亜主義」についてはすでに一定の予備知識を持っているという前提で書かれているようだが、その「顛末」をどう理解するかについてはどこかで一言触れておいて欲しかったと思う。それがないために、その疑問を抱いたまま読み進めるというような形になる。

おおざっぱに言えば、アジアとの連帯を求めた理想主義的な思想であったにもかかわらずに、結果的には列強の侵略と同じものを招いてしまったというのが「亜細亜主義の顛末」と考えられるだろうか。これから何がどのように学べるのだろうか。

この本は副題として「宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス」というものがつけられている。その帯の部分には「アタマ悪いが力は強いジャイアン・アメリカをどうコントロールするか」という言葉が書かれている。「亜細亜主義の顛末」に学ぶことによって、このような目的が達成できるという主張なのだろうと思う。だが、このつながりをすっきりと腑に落ちるように理解するのは難しい。反グローバライゼーションに関する論説は、それだけを取り上げるのであれば理解できないことではないが、これがどうして「亜細亜主義の顛末」とつながっているのだろうか。このことの意味をちょっと考えてみようと思う。
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Posted by khideaki at 12:30Comments(0)TrackBack(0)宮台真司