2005年02月05日

「教員」は「先生」ではない

学校の教員は、なぜか「先生」と呼ばれ、同僚同士でもそう呼び合ってしまう。しかし、これは何か違和感があるものだ。この違和感はどういうところから生まれてくるのだろうか。「先生」という言葉は、尊敬の対象に対して使う言葉だから、たかが「教員」などがそんな対象になるなんてあまりにも荷が重すぎるという恥ずかしさがある。このような思いを今まで持っていたが、この違和感をもっとハッキリと見させてくれる考えに遭遇した。

内田樹さんの「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)の中の、「先生」の定義が、実に気持ちの中にすっきりと収まる定義だった。それは次のように書かれている。
「先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。
  (中略)
だって、この本は「あなたが「えらい」と思った人、それがあなたの先生である」という定義から始まるわけですから、「先生はえらい」というのは、本が始まった瞬間に既決事項なんです。」


「先生」というのは自分から名乗るものではないのだ。「師と仰いでくれる弟子」がいて初めて「先生」になるのだということだ。「教員」を「先生」と呼ぶのに違和感があるのは、こちらから「先生」と名乗ることへの違和感だったのだ。相手が勝手に「先生」だと思ってしまうのは仕方がないが、こちらが図々しく「先生」と名乗るのは間違いなのだと思った。

「教員」というのは単なる職業だ。普通の人の中に尊敬できる素晴らしい人もいるように、「教員」の中にも素晴らしい尊敬できる人物もいる。しかし、それよりも圧倒的にたくさんの教員は平凡な一市民であり、尊敬できる人物と同じくらいに、どうしようもない軽蔑にしか値しないようなものもいる。それは、普通の人間の中に、一定の割合でそのような人物が混ざっているように、「教員」の中にもそういう人間がいるのだ。

全ての教員に「先生」を期待するのは幻想だし、そんな期待をされたら、社会的な職業として成り立たなくなる。「教員」は一定の技術と知識を持っていれば勤まるという職業でなければならないのだと思う。そして、そういう普通の教員が勤まらないような状況がもしあるとしたら、それは教育の制度の方にこそ問題があるのだと考えなければならないだろう。僕は、現在の教育の問題というのはそれだと思う。「教員」の資質の向上で何とかなるものではないと思っている。

「先生」というのは、弟子が見つけるものだという内田さんの定義は実に納得がいくものだ。僕は、明治生まれの異端の哲学者・三浦つとむさんを師と仰いでいる。三浦さんこそが僕の先生であると思い込んでいる。僕は、三浦さんの「弁証法・いかに学ぶべきか」という本を最初に読んだのだが、その本を読み始めた瞬間くらいに、この人は僕の先生だと直感した。まさに運命を感じたと言っていいだろうか。三浦さんの語ることは、全て深く考えて理解したいと思ったものだ。

内田さんは、子弟関係を「本質的には誤解に基づく」と語っている。これは、その人を師に選んだ理由を客観的には語れないと言うことから、「誤解」のように見えるのかも知れない。三浦さんが正しいことを語っているとか、素晴らしい業績があるからと言う理由で、我が師と思い込んでいるのではないのだ。師と感じた後から三浦さんの業績を知り、三浦さんの理論を知ったのだから、三浦さんを詳しく知る前にすでに「先生」だと思っていたことになる。

僕は、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんも尊敬する人の一人だ。板倉さんも、三浦さんの弟子を表明している人で、「科学」の概念については三浦さんの批判者でもある。三浦さんの本で、「弁証法はどういう科学か」というものがあるが、板倉さんは、板倉さんが定義する「科学」という概念を考えると、三浦さんが語る弁証法は、板倉さんのいう意味での「科学」ではないと言う批判をしていた。

これは、定義が違うのだからどっちでもいいことなのかも知れない。しかし、僕は板倉さんの「科学」の定義の方が、科学の発展を理解するにはすっきりと理解できると思う。だから、弁証法を「科学」とは呼ばないで、板倉さんのように「発想法」と呼んだ方がいいと思う。この点では、三浦さんにある種の間違いがあると思っている。師と仰いでいるからといって、その全てを丸ごと受け入れているのではない。

しかし、三浦さんに間違いがあるからと言って、「先生」としての尊敬には少しも揺るぎはないのだ。そういうものが「先生」というものだ、と言うのを内田さんは確信させてくれた。そういう意味で、この内田さんの本は、とても気持ちのいい読後感があった。

また、内田さんは冒頭で、「残る全てのページは、「人間が誰かを「えらい」と思うのは、どういう場合か?」という「えらい」の現象学のために割かれることになります」と語っている。これは、議論の構成としては全くうまいものだと思う。まず、誰を先生だと思うかは、全く個別の問題として、それぞれが自分で選ぶことだと、個別の問題は議論をせず、選択の責任を個人に還元することで済ませている。

そして、普遍性のある一般論として、「人間が誰かを「えらい」と思うのは、どういう場合か?」と言う問題を立てて、その議論に全てを集中するという方向を取っている。これこそ議論のお手本という感じがする。この議論の中で、なるほどと思えるものを拾っていきながら考えを深めていこう。

内田さんは、自動車教習所の教官と、F1ドライバーのシューマッハーに運転技術を学ぶということを想像して、その学ぶ内容には大した違いはない、あるいは、内容の違いなどは学ぶ方にはあまり分からないということを指摘して、次のように語る。


「先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。
 そういうことが起こるのです。」


教習所の教官からは、運転免許が取れるだけの一定水準の「定量的な技術」を学ぶ。しかし、F1ドライバーのシューマッハーからは、「技術は定量的なものではない」ということを学ぶ、と内田さんは語る。この具体的な中身としては次の二つをあげている。


「一つは「運転技術には「これでいい」という限界がない」ということ、今ひとつは「運転は創造であり、ドライバーは芸術家だ」ということです。」


この違いが、「教員」と「先生」の違いだと僕は感じた。そして、職業としての教員は、この違いを埋めることは原理的には不可能だと感じる。「教員」は「教員」のままでは「先生」にはなれない。「教員」としての姿でない時に、学ぶ方が「先生」を感じる瞬間が来るのではないかと思う。そのあたりの感覚を内田さんは次のように語る。


「教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人どう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去して見せます。
 二人の先生の違うところはここです。ここだけです。」


「教員」の仕事は、職業であり、それは到達点を指示しないではいられない仕事だ。到達点を消去してしまったら、責任を果たしたことにはならないだろう。しかし、「先生」という師は、それこそが大事だと内田さんは語る。まさにその通りだなと共感するところだ。僕も、三浦さんから学んだのは、その学問の奥の深さだ。そして、三浦さんでさえも間違えるということから、さらにその奥の深さを知るようになった。だからこそ三浦さんは、僕の「先生」なんだと思う。

この章の終わりには、また含蓄の深い言葉がある。


「学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。
 だって、シューマッハーにアクセルワークを習った時に、あなたは彼が何を言っているか全然分からなかったはずだからです。
 言っていることが、難しすぎて。
 何を言っているのか、全然分からなかったにもかかわらず、と言うか、何を言っているのか全然分からなかったがゆえに、あなたは彼から本質的なことを学ぶことが出来たのです。」


これが、「学ぶ」と言うことの本質であることが僕には実感としてよく分かる。宮台氏は、僕の「先生」ではないが、僕が宮台氏から最もたくさん学べるのは、宮台氏が何を言っているか全然分からない時だ。分からないからこそ、それが本質に近いことを感じる。それが理解できていないのに、本質に近いと感じるのは一種の嗅覚だ。それは、宮台氏に対する大いなる信頼感がもたらすものだろうと思うが、理解できないにもかかわらず、それが本質だと直感できるおかげで、それを学び続けることが出来る。そして、いつか、それが一気に分かる瞬間がやってくる。「ピンと来る」瞬間がやってくるのだ。数学をやっていた時もそういうものを良く感じた。そして、それこそが「学ぶ」と言うことの本質だと思うのだ。

次の言葉もとても気持ちのいい好きな言葉だ。


「私は上で、プロの人なら言うことは決まっていると書きました。
 それは、「技術には完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」と言うことの核心にある事実です。
 言葉は難しいですけれど、これは実は恋愛と全く同じなんです。
「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは創造性を発揮する」。」


この本は、子供向けに書かれているのですぐに読むことが出来る。しかし、何回でも読みたくなる本だ。それは、読むたびに「学ぶ」と言うことのイメージが豊かになっていくのを感じるからだ。自分の学びをもっと豊かにしていけるのを感じる。僕が、まだ師を持たない若者だったら、この内田さんの本を読んで内田さんを「先生」にしてしまうかも知れない。内田さんは困った顔をするかも知れないが。

何度も読んで、その感想を記したい本だ。今2度目の読書でこの感想を書いている。これからも、読むたびに気づいたことを記していこうと思う。

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この記事へのコメント
闘うリベラル さん、書き込みをありがとうございます。

戦時中に道徳教育が強化された時、もっとも高潔な人物ほど道徳を語ることが出来なかったというエピソードを聞いたことがあります。自分のことを「先生」と呼んでしまうことにためらいを感じない人は、それだけで「先生」と呼ばれる資格を失うのではないかとさえ感じます。

「先生」という言葉の意味の中に、尊敬というものが全くなくなってしまえば、単に職業を指すだけだと言うことになるので、僕のこだわりもなくなるのですがね。現実はもうそこまで進んでいるのかな。
Posted by 秀 at 2005年02月12日 10:09
こんばんは。ご無沙汰しております。
もう随分前に見たテレビ番組ですが、その中に癌に冒された教員が登場し、彼が語った言葉を今でも覚えています。「自分のことを先生と呼ぶ教員はとんでもない!」と彼は怒っていました。この人は「先生」という呼称の意味に自覚的であったのだと思います。俺が過ごした小・中学校の教員は生徒に語りかける際に自分のことをほとんど「先生は・・・」と呼んで話していましたわ。
Posted by 闘うリベラル at 2005年02月12日 00:33