2005年04月25日

「希望格差社会」(山田昌弘・著)読後感

内田樹さんが「2005年03月21日 希望格差社会」の中で紹介していた山田昌弘さんの「希望格差社会」という本を、ほぼ読み終えた。一言で感想を述べれば「面白かった」と言えるだろうか。

そこで取り上げている対象に対する興味・関心から来る面白さというものがある。現代日本社会の特徴を、若者の未来に対する希望という観点から捉えようとすることの面白さを感じた。これは、僕が感じている、昭和40年代ころの希望に満ちた輝きのある時代と今との違いを、かなり説得的に説明してくれる観点のように感じた。

学者としての誠実さを感じる記述などにも好感を持って読むことが出来た。この人は、宮台真司さんや内田樹さんと同じように、信頼出来る人だなと感じた。学者としての誠実さを感じる一番の所は、あくまでも対象を客観的に把握しようとしているところだ。自分の願望や好みなどの感情を含ませず、対象をあるがままに把握しようとしている。そして、それを基礎にして解釈・評価しようとしていることが伝わってくる。
現状認識、あるいはかつての時代認識において、ある意味では認めたくないような困った問題というものも見えるが、それから目を背けずに見つめなければいけないという気持ちにさせられる。今の若者、特に子供の世代を見つめていて、僕らの時代よりも希望が少ないと、僕は漠然と思っていたが、それの客観的な裏付けを山田さんが教えてくれたような気がする。

しかし、山田さんが取り上げている対象は、非常に深刻な認識をもたらし、しかもその解釈にかなりの難しさを持っているので、山田さんが語っていることを正確に受け取ることが難しいものもたくさんあるのではないかと思える。つまり、僕が使う意味での<誤読>をする可能性に満ちてもいるのではないかという気もする。山田さんが意図した、山田さんが伝えたいと思ったことが正確に伝わらずに、読み手の方で気になっていることを読みとってしまうという<誤読>の可能性がかなりあるように感じる。

そういう意味では、僕が関心を持っている<誤読>というものを考える材料としても、この本は面白いかも知れないなという感想を持った。

学者というのは、現在の社会で特徴的にあらわれていることが、たとえ自分の好みに合わないものであろうとも、それを客観的に正確に捉えるために、まずは、その特徴が存在していることを肯定的に扱わなければならない。気に入らないから、そんなものは見ないとか、見えないとか言ったら、正しい現状分析が出来ないし、そこから得られる解釈も正しいものにならない。

この、まずは現状分析のために現実の存在を肯定するというのが、解釈においても現状をそのまま肯定しているのだと<誤読>する可能性がかなりありそうな気がする。肯定・否定という判断が、いったい何に対してなされているのか。その対象を正しく把握すると言うことが<誤読>をしないために大事だと思う。

山田さんは、この本のタイトルにあるように、若者の間に存在する希望の格差というものを繰り返し説明している。この希望の格差が「存在する」と言うことは、厳然たる事実として否定出来ないものであることをまず前提にしている。「存在する」と言うことを肯定している。しかし、これは「存在している」と言うことが、いいことだとか悪いことだとか言う評価を語っているのではない。

いいか悪いかと言うことは、判断としては決められるものではないから、それと一応は切り離して、現実にそのような格差があると言うことをまず認めるという、その肯定判断から出発して、それから派生することを解釈・評価していこうというのが、学者としての対象へのアプローチの仕方なのだと思う。

「存在している」ということを肯定しているからといって、その存在を維持するために何らかの工夫をしていこうと考えているのではない。現状を肯定して、保守的な観点から体制維持のための考え方をしているのではない。まずは、存在していることを認め、存在があるのだから、それが与える影響が必ずある。それを正しく捉えて、その影響が問題を生じさせるような方向にあれば、その問題に対して何らかの対処をするような方向で解釈を考えていこうというような思考の進め方に僕には見える。

希望の格差が存在して、しかも、その希望が叶えられるという可能性が、原理的に少ないことによって生じる問題というものを山田さんは取り上げている。一つは、若者から希望そのものが失われていってしまうことから生じる問題だ。人間は、希望がなければ前向きに生きていくことが出来ない。不幸を感じる人が多くなってしまうだろう。希望そのものが全くなくなってしまえば、その社会は停滞し、人々の心もすさんでいってしまうというような問題が生まれるのではないかという心配がある。

また、もう一つの問題は、希望なしにいきられない人間が、むなしい希望を抱いて生きていくことによる損失というものを山田さんは取り上げている。希望というものは、全く棄ててしまうことも問題だし、持ち続けていったとしても、それが決して叶えられない、山田さんは「過大な期待」という表現を使っているようだが、それによって、使い捨てにされる若年労働者が生まれてくるというが問題だということを指摘している。

これらの問題に対して、あきらめることの重要性を山田さんは指摘して、解決の方向を示しているように見える。これは、宮台氏なども「断念」という言葉で語っていたことと共通するものだ。内田樹さんもブログ(「2005年03月21日 希望格差社会」)の中で次のように語っている。


「もうひとつの提案はもっとシビアだ。
「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。」


僕などは、この主張に大変共感するのだが、この文章は<誤読>の可能性もまた高いものかも知れないとは思う。「過大な期待」というイメージと、それをあきらめさせる「断念」とのイメージが、必ずしも、内田さんや山田さんと同じものを共有出来るかどうかが難しいと感じるからだ。

僕にとって「過大な期待」に見えるものは、原理的にそれが達成出来る人間が少ないというものだ。例えば、激しい競争を勝ち抜いて、少数のエリートになることが目標である希望は、その少数からこぼれ落ちる人間が出てくるのは必然だ。すべての人間の期待に応えることは出来ない。こぼれ落ちる人間は、どうしても「断念」をする必要が出てくる。

この「断念」が出来ないと、その感情がルサンチマン(希望が達成されなかったということから来るある種の恨みの感情)となって別の形で吹き出す恐れもあるから、「断念」を建設的に受け入れるメカニズムは、社会の安定という以上に、個人の安定のために不可欠のものだと僕などは思う。

この「断念」は、決して自分の全人格を否定するものではなく、ある一面での期待がかなえられなかったということに過ぎない。だから、一面の希望を断念した後に、また別の一面の希望に向かって努力することによって、希望そのものがなくなってしまうという問題からも逃れることが出来るとも思う。

このような「断念」がある意味ではうまく回っていたのが昭和40年代だったとも思う。ここで、ある種の希望を断念した人も、別の種類の希望に向かって、また前向きに歩んで行けていたように感じる。だから昭和40年代は、明るく感じ、匂いのするよき時代として思い出されるのではないだろうか。山田さんもそのように解釈しているように感じる。

ただ、かつての希望に満ちた時代を知らない、今の希望格差の社会が社会のすべてだというふうにしか見えない、その経験しかない若者には、内田さんや山田さんが考える「断念」を、エリートの地位にいる人間が、エリートでない人間に「分相応に生きろ」と言っているように聞こえるかも知れない。内田さんや山田さんにそのような意図はないと僕は思うのだが、そう受け取ってしまう可能性がないとも言えない。

それは、内田さんや山田さんは、研究者としてエリートの立場にいることは事実だからだ。その立場にいれば、「過大な期待」をあきらめる痛みというのが、本当には自分では味わうことが出来ないかも知れない。どうしても他人事にみたいな言い方になってしまうかも知れないからだ。しかし、他人事みたいな言い方になるのは、学者の記述としては仕方がないと僕は感じる。

客観的な事実を記述するというのは、そこに感情的な好みを交えないと言うことであり、ある意味では徹底して他人事のように語ることが客観性を保つことでもあると思うのだ。

内田さんや山田さんが語ることを、エリートという勝者が、そうでない敗者の立場にいる人間に語る教訓のようなものとして受け取ると、その意図を間違って受け取る<誤読>になると思う。また、この誤読は、正しい現状認識をゆがめる原因にもなりかねないと僕は感じる。ここで<誤読>について考えることは、興味深いことだし、とても役に立つことのように思い、そこを僕は面白いと思う。

内田さんや山田さんは、社会というものが歩む方向に対して警告を発しているというのが、その意図を正しく受け取っていることになるのではないかと僕は思っている。考えられる可能性として、社会がどのような方向へ歩んでいこうとしているのか、そしてまた、その方向へ歩んでいった場合に、どのような問題が生じる可能性があるのかを、現状分析と論理から考えて、心配なことを警告していると、僕は捉える。決してエリートの傲慢さが見えている言葉ではないと思う。

<誤読>という観点から山田さんの本を見ていくのは面白いと思う。今度は、細かい表現の中の<誤読>の可能性を考えてみようかなと思う。

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