2011年08月

2011年08月28日

馬淵さんと海江田さんの理念を比較してみる

小沢さんが海江田さん支持を決めた理由は、代表選に勝てるかどうかが一番のものだと言われている。それは論理的には合理的な判断だと思う。しかし、それは理念を基準とする判断からは不合理だと僕は思っている。問題は権力闘争の勝ちを取るのか、それとも理念を取るかと言うことになる。

理念を取ると言えば、何か青臭い主張のように見えるが、僕が小沢さんを評価してきたのは理念の政治家であるという点だった。その小沢さんが、理念ではなく権力闘争的な判断をしたというのが、小沢さんへの失望となっている。これでは普通の政治家と変わりがない。権力を握ることで理念を実現させることが出来る、という人もいるかもしれない。しかしそれは本末転倒な論理だと思う。

権力を取ると言うことを、理念実現のための手段と考えるなら、その手段を執ることで理念を捨てるように見えるような行為をすべきではない。そのようなことをすれば、権力を取ることが手段ではなくて目的化していると見られてしまう。今までの小沢批判が、まさにそうだった・やはり当たっていたのだと言われても仕方がないような場面を作ることになる。

理念を掲げて争ったときにそれに負けたとしても、それは理念をか掲げることが間違っていたのではない。その理念を理解しない大多数の政治家達の志が低いことを示しているだけなのである。もちろん、そのようなことを理解できない国民が多ければ、権力闘争に負けることは少数派への転落になる。だが、それは国民がその程度であるときには負けることが必然なのだ。国民の意識を高めることこそ努力をするべきだ。水準の低い判断で人気を取っても、理念のほとんどは実現出来ない。それが今の民主党の姿だ。理念の政治家である小沢さんが、この体たらくをこれからも続けていくのだろうか。続きを読む

khideaki at 20:46|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2011年08月25日

小沢さんの理念を『日本改造計画』から再度読み取ってみる

小沢さんの理念というのは、一言で言えば「真の民主主義社会の確立」というものだ。宮台真司さんなども語っていたが、日本では一度も本当の意味での民主主義が確立したことはないという。だから、この理念がもしもポピュリズムになるとすれば、とっくに民主主義が確立しているはずなのだが、そうなっていないことに小沢さんの不人気というものもあるのだろうと思う。

「真の民主主義社会の確立」のためには国民の自立というものが必要だ。小沢さんが上記の本の中でも語っているように、自分で考えて自分で判断し、その結果に自分で責任を持つという国民がいてこそ民主主義が機能する。だから、この理念の実現のためには、政治家として国民の自立に向けた活動を支援するというのが小沢さんの政治家としての基本姿勢と言うことになるだろう。

小沢さん自身の言葉をまえがきから引用しておこう。真の民主主義社会の確立のために必要なものを次のように挙げている。

「第一に、政治のリーダーシップを確立することである。それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある。
 第二に、地方分権である。国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する。
 第三に、規制の撤廃である。経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする。
 これら3つの改革の根底にある、究極の目標は、個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。
 個人の自立がなければ、真に自由な民主主義社会は生まれない。国家として自立することも出来ないのである。」

小沢さんは、基本的に自由な社会で、その自由を駆使して正しく判断できる個人が社会を支えるというものを理想としている。だからこそ情報は可能な限り開示しなければならないという考えも出てくる。記者会見を最初にオープン化して情報開示に努めたのもこの理念からのものと言えるだろう。続きを読む

khideaki at 13:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 国内政治 

2011年08月24日

国旗・国家の押しつけが愛国心を育てるか? 1

タイトルは疑問文の形を取っているが、これは反語的表現で、そんなものが愛国心を育てるはずがない、というのが率直な思いだ。それを論理的に説明できるかどうかを考えてみたい。参考にさせてもらうのは内田樹さんの

「国旗国歌と公民教育」

「国旗問題再論」

「教育基本条例について」

という3つの論説だ。1の論説には

「だが、刻下の国旗国歌論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベルの議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的論件に言及することはまずない。」

と書かれている。国旗・国家の押しつけを語る論調は、規則は守れという低レベルの論調であって、教育という複雑で困難な問題を解決するような、深い見識からの提言ではない。だから、こんなものでは愛国心は育たないという結論になるわけだ。内田さんは、同じく1の中で

「国旗国歌は国民国家の国民的統合の象徴である。
そうであるなら、ことの順番としては、まず「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」をどのようにして創り出してゆくか、ということが問題になるはずである。
    (中略)
とりあえず国民国家はある。
ある以上、その制度が機能的に、気持ちよく、できるだけみんながハッピーになるように統御することは、私たちの喫緊の実践的課題である。
だから、「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」を組織的かつ継続的に送り出すことは必要である、と私は考えている。
その任を担うのが、学校である。
だから、国旗国歌について論じるとき、教師としては、何よりもまず国民国家という政治的装置の基盤をなす「公民意識」を子供たちにどう教え、いかにして彼らを成熟した市民に形成してゆくのかという教育の本質問題が論件の中心にならなければならない。」

とも書いている。本来の愛国心教育は、このような理念の元に考えられるべきだろう。「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意」はどのようにして育てられるか?国旗を拝んだり、君が代を歌うだけではこれは育たない。続きを読む

khideaki at 10:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 教育 

2011年08月20日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 8

「『弁証法的理性批判』について」

に記述されている『存在と無』におけるサルトルの欠点は、マルクス主義の史的唯物論と出会うことによって克服されていくようだ。史的唯物論は「社会・歴史の持つ意味・構造を解明・把握していくための武器」であり、これによって単なる抽象物に過ぎなかった物質的存在が、その存在独自の意味を持つことが解明されていく。

上のページでは

「(前章においてみたように)サルトルはアンガジュマン=社会参加の実践を通してしだいに社会的歴史的状況に対する認識を深め、マルクス主義の真の意義を評価するようになっていた。
『弁証法的理性批判』の哲学は、史的唯物論の原理を基本的に受け入れることによって構築されている。ここにおいてサルトルは、個別的実存に固執する実存主義を乗り越え社会・歴史の理論である史的唯物論を完全に自分のものにしているのである。
 そしてまた、史的唯物論を受け入れ我が物にすることによって、先に述べた『存在と無』の哲学上の問題点も克服されるわけである。」

と評価されている。頭の中の哲学的問題として抽象的に解決された問題が、マルクス主義の史的唯物論を利用して、現実の問題として問い直され解決されていく、という過程を経て哲学的な欠点が克服されたと言えるだろうか。現実への有効性と言うことがポイントであり、それが正しさを証明すると考えられるのではないだろうか。

ただサルトルが取り入れたマルクス主義は、当時主導的なソ連共産党のマルクス主義ではなかったようだ。これは、僕の尊敬する三浦つとむさんも批判していたもので、「官許マルクス主義」と呼んでいた。この特徴は、上のページには次のように指摘されている。続きを読む

khideaki at 16:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 論理 | 批判

2011年08月18日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 7

サルトルとレヴィ・ストロースの論争に関しては、サルトルが粉砕されたというのが定説になっているようだが、ウィキペディアの

「ジャン=ポール・サルトル」

によれば

「構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけレヴィ・ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈なものであった。しかしながら、当時の「構造主義ブーム」の中でレヴィ・ストロースによるサルトル批判の妥当性が充分に検証されたとは言いがたい。後に竹内芳郎は『マルクス主義の運命』(解題)の中で「レヴィ・ストロースは『弁証法的理性批判』について何一つ理解しておらず、サルトルへの批判は的外れだった」という趣旨の見解を述べている。」

という見解もあるようだ。論争というのは、その中身の正しさよりも、イメージ的に勝敗が決められることも多いので、サルトルが負けたように見えるという点では一致していたのだろう。だから、勝敗については、僕は末梢的な問題であまりたいしたものではないように感じるというのが、ここまでの一連の考察の結果だ。

僕にとってもっと関心があるのは、僕が尊敬し高く評価している内田樹さんが、この論争においてレヴィ・ストロースのほうが正しいと見ているように見える点だ。そのことを納得がいくように理解したいと思う。内田さんはなぜそのような判断をしているのか。続きを読む

khideaki at 11:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 論理 | 批判

2011年08月15日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 6

僕は、三浦つとむさんを通じて最初に構造主義に接したので、まずはそれの批判的側面から入ったというある種の先入観がある。そのため、構造主義がどうしてあれほどの支持を受け、多くの人に高い評価を受けているのかと言うことがさっぱり分からなかった。しかし、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んでからは、構造主義の優れた面が分かるようになった。その意味で、僕は内田樹さんを高く評価するようになったとも言える。

レヴィ・ストロースに関しては、批判的側面が気になっていたが、構造主義そのものの積極面を今一度評価し直して、その面からサルトル批判を考えてみようかとも思う。構造主義は、どのような面を取り上げて、現実の複雑さを見抜いた真理を提出しているのか。それはまずは次のようなことだろうか。内田さんの文章を引用しよう。

「構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それ故、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。」

この文章は素晴らしいと思う。それまでぼんやりとしていた構造主義のイメージが、この内田さんの言葉で、もやもやがすっかり晴れたという感じがしたものだった。書かれている内容もすべて納得出来るものであり、論理的な理解が出来たと思った。続きを読む

khideaki at 13:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 論理 | 批判

2011年08月13日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 5

サルトルとレヴィ・ストロースの論争は、レヴィ・ストロースがサルトルの理論の基礎である歴史概念を粉砕した、と言うことで評価が固まっているように見える。これは本当だろうか、と言う疑問を抱いて、いろいろと考えているのだが、そもそもそれに疑問を持ったのは、僕にとって構造主義というものがあまり高い評価が出来るものではないという思いがあったからだ。

レヴィ・ストロースのサルトル批判というのは、構造主義的な視点からサルトルの実存主義を批判したものと見ることができるのではないかと思う。そのよって立つ構造主義に疑問があると、この批判にも疑問を感じてしまうということになる。だが、構造主義自体は、一時期の世界の思想界を席巻した考えであり、多くの人が高く評価したものでもある。

そのことを考える材料として、内田さんも高く評価するレヴィ・ストロースの「女のコミュニケーション」というものから構造主義の基本的な部分を考えてみようと思う。僕は、論理面でこの考えに疑問があるので、そのあたりをどう克服できるかを考えてみたいと思う。まずは、『寝ながら学べる構造主義』からその部分を引用してみよう。

「では、なぜ人間達は近親相姦を禁止するのか。
 自ら立てたこの問いにレヴィ・ストロースは驚くべき解答を提出します。
 近親相姦が禁止されるのは、「女のコミュニケーション」を推進するためである。それがレヴィ・ストロースの答えです。」

この解答が「驚くべき」という評価には賛成するものの、「推進するため」という「ため」という判断には論理的な違和感を感じる。「ため」というのは、そこに目的意識が潜んでいるのを感じる。しかし、構造というのは無意識の判断を支えるものであり、目的意識化できないからこそ構造と呼ばれることを考えると、この「ため」に引っかかる。「女のコミュニケーション」が結果的に推進された、と言う結論としての帰結であれば論理的には違和感はない。近親相姦が禁止されれば、身内から女を得ることが出来ず、それは外から得なければならないという結論になるからだ。まず最初の違和感は、「ため」が目的意識に関わるかどうかということだ。続きを読む

khideaki at 20:34|PermalinkComments(13)TrackBack(0) 論理 | 批判

2011年08月07日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 4

内田樹さんが解説するサルトルの歴史概念が、すべての事柄において常に歴史的必然性を認識することが出来る、と言うものであるなら、それは批判されても仕方がないというのが前回の結論だった。サルトルは、本当にそのようなことを言ったのだろうか、と言う疑問に対しては、サルトルの『弁証法的理性批判』をちょっと詳しく調べる必要があるかな、と思っている。

そしてもう一つ感じた疑問、サルトルの歴史観を批判するのに、わざわざ構造主義を持ち出す必要はないのではないか、と言うことに関しても考えてみたい。サルトルの間違いを本質的に乗り越えるには構造主義というものが本当に必要なのかどうか。僕の今の気持ちは、内田さんが語るサルトルの間違いは、あまりに単純すぎて、何か新しい発想で批判するようなものに見えないというものだ。

構造主義がサルトルの批判に対して果たした役割を考えるには、内田さんが、レヴィ・ストロースの構造主義のどのような面を積極的に評価しているのか、と言うことも論理の判断に関わっているのではないかとも思う。そこで、『寝ながら学べる構造主義』から、レヴィ・ストロースの構造主義を高く評価している部分を抜き出してその判断の根拠が論理的にどこにあるのか、と言うことを考えてみようと思う。

内田さんは、レヴィ・ストロースが、構造言語学がもたらした音韻論の成果をあらゆる社会制度に応用して展開したことに、レヴィ・ストロースの実績というものを見ている。そこを引用してみよう。

「このように音の連続体から恣意的に切り取られて、集合的な同意に基づいて「同音」と見なされている言語音の単位を「音素」(phoneme)と呼びます。言語音は発声器官によって発振する空気振動という「アナログ」なマテリアルですから、このかたまりに「分節線」を入れるやり方は理論上無限にあります。事実、生後間もない子供は成人には発し得ないような非分節的な音声をいくらでも発声できます。しかし、世界中の言語の比較と、子供の言語習得プロセスの研究から言語学者は意外な事実を学び知りました。それは、人間が言語音として使用している音素のカタログは想像しているより遙かにこぢんまりしたものだ、ということです。ある言語音について、それが「母音か子音か」、「鼻音か非鼻音か」、「集約か拡散か」、「急激か連続か」……など12種類の音響的、発声的な問いを重ねると、世界中のすべての言語に含まれる音素はカタログ化できるのです。
「二項対立」の組み合わせを幾つか重ねてゆくと膨大な量の情報を表現できるというのは(コンピューター世代にとってはなじみ深い)二進法の考え方です。情報量の最小単位である1ビットは「0/1」という一組の二項対立によって、二つの状態を示されます。
  (中略)
 言い換えると、世界中のどんな音素体系でも12の二項対立で表現できるということは、12ビット、つまり12回の0/1選択で、この世に存在するすべての音素が特定できるということを意味しています。
 さて、レヴィ・ストロースの大胆なところは、二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の「異なった状態」を表現することが出来るというこの音韻論(とコンピューターの両方に通じる)発想法を人間社会のすべての制度に当てはめてみることは出来ないのか、と考えたところにあります。レヴィ・ストロースが集中的な検討を加え、見事な成功を収めたのは、親族制度の分析です。」続きを読む

khideaki at 18:51|PermalinkComments(9)TrackBack(0) 批判 | 構造主義

2011年08月06日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 3

再び、『寝ながら学べる構造主義』から引用して考えてみたい。内田さんが語る、サルトルの評価を元に、その評価に対しては批判が妥当なのかどうかということを考えてみたい。まずは、内田さんの語るサルトル哲学の概要を引用する。

「サルトルの実存主義は、ハイデッガー、ヤスパース、キルケゴールらの「実存」の哲学にマルクス主義の歴史理論を接合したものです。
「実存する」(ex-sistere)という動詞は語義的には「外に−立つ」を意味します。自己の存立根拠の足場を「自己の内部」にではなく、「自己の外部」に「立つ」ものに置くのが実存主義の基本的な構えです。その点だけからいえば「人間は生産=労働を通じて作り出した物を媒介にして自分が何ものであるかを知る」というヘーゲル=マルクス主義と基本的なフレームワークは通じるところがあります。「実存」という述語はとりあえずは「自分が『本当は何ものであるか』を知る手がかりとなった、自分の『現実的な在り方』」と理解しておいていただければよいかと思います。
「実存は本質に先行する」というのはサルトルの有名な言葉ですが、特定の状況下でどういう決断をしたかによって、その人間が本質的に「何ものであるか」は決定されるということです。(「根はいい人なのだが、現実的には悪いことばかりしている人間」は、実存主義的には「悪者」と評価されるわけです。当然ですけど。)このあたりの基礎的了解については、構造主義者も別に異論はないはずです。両者が対立するのは論件が「主体」と「歴史」に関わるときです。」

この文章を読むと、さすがにうまい説明だと感じる。ここに書かれたことには僕も異論はない。この部分だけなら、今でもサルトルの実存主義は正しいのではないかと感じる。それでは、批判すべき「主体」と「歴史」に関わる部分というのはどういうところなのだろうか。続きを読む

khideaki at 23:22|PermalinkComments(7)TrackBack(0) 構造主義 | 批判

2011年08月01日

サルトルはレヴィ・ストロースとの論争に負けたのか? 2

内田樹さんによれば、レヴィ・ストロースはサルトルの「歴史概念」に批判を加え、それによって論争に勝ったと評価しているようだ。その「歴史概念」は、歴史の進歩性というか、必然性というものをそこに見るような見方ではないかと思われる。サルトルは、歴史の進歩を信じていて、物事は歴史的必然性の元に起こるという、当時のマルクス主義的なテーゼが正しいと思っているようだ。

それに対して、レヴィ・ストロースは、歴史には進歩性というような比較は妥当ではなく、どの歴史も同等でありそこには差異がないと判断しているようでもある。サルトルのような、進歩の目から未開の原始的生活を見ることが間違いであることを指摘している。

このような理解からは、サルトルとレヴィ・ストロースの論争に関して明快な勝ち負けを判断することは難しいのではないかと僕は思う。どちらにも一定の妥当性は感じる。一方が間違っていて、もう一方が正しいというような明確な判断にはならない気がするからだ。だから、レヴィ・ストロースに論争の勝者というような判断をする人は、もっと深い理解があるのではないかと思う。それを探ってみたいものだ。

今回は、理解を深めるために、レヴィ・ストロースの非歴史性をむしろ批判する言説を考えてみたいと思う。僕の尊敬する三浦つとむさんが、雑誌『試行』の27号(1969年)に「構造主義者の妄想(中)」という論文を書いている。三浦さんはここでは構造主義全体の批判を展開しているのだが、特にその代表者としてのレヴィ・ストロースを取り上げて詳しく批判している。しかもその内容は、その思想の「非歴史性」を取り上げている。

そもそも構造主義というものが、歴史を切り捨てて超歴史的とも言える、どの時代にも当てはまる「構造」という概念で社会を解釈していることを、三浦さんは根本的に批判の対象にしているのだが、「非歴史性」は自然科学の特徴でもあるだけに、一見科学的に進歩したようにも見える。だが、それは社会のような複雑な現実を理解する方法としては欠陥があるという指摘を三浦さんはしている。この欠陥を理解すると、レヴィ・ストロースの「非歴史性」とサルトルの「歴史概念」は、どちらが論理的に妥当か、という判断は難しくなるのではないかと思う。つまり論争の結果の評価も難しいのではないだろうか。続きを読む

khideaki at 10:52|PermalinkComments(4)TrackBack(0) 構造主義 | 批判
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