2005年05月04日

改憲の是非

昨日は憲法記念日ということもあり、憲法について書かれたエントリーが多かったようだ。内田樹さんも「憲法記念日なので憲法について」という文章を書いていた。内田さんは、今論議されている改憲の方向が、憲法が現実に合わなくなってきたという「ねじれ」を是正するべきだと言うことにあるのを批判して、次のように語る。


「私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともみごとな政治的妥協のひとつ」だと考えている。
憲法九条と自衛隊の「矛盾」が期せずして(「期せずして」というべきだろう)、戦後日本に「兵にかかわる老子的背理」を生きることを強いた。
その「ねじれ」続いた戦後55年間、わが国の兵は一度も海外で人を殺傷することがなく、わが国の領土が他国軍によって侵略され、国民が殺傷されるという不幸も訪れなかった。
その相対的な平和状態こそがわが国の戦後の驚異的な復興・経済成長と隣国との相対的に安定した外交関係を担保してきた。私はそう理解している。」

この解釈に僕も賛成だ。問題は、このねじれが、これからも日本の平和に貢献してくれるかどうかと言うことだ。ねじれがあるということだけで、これを直そうとする論理には疑問を感じざるを得ない。

宮台真司氏が、<マル激トーク・オン・デマンド>などでよく語っているのは、今や憲法は解釈次第で何でも出来るという状況になってしまったということだ。これは、ねじれがもはや平和維持に役立たなくなってきた状況を語っているものに見える。イラクへの自衛隊派遣という、海外派兵についても、かつてなら決してあり得なかった事態だったが、もはやこのようなことも容認されるくらいに「ねじれ」が進んできている。

宮台氏は、かつての吉田茂の、朝鮮戦争への派兵拒否の事実を語って、日本がこのねじれを日本の平和維持のために利用していたことを語っていた。朝鮮半島での平和維持に貢献することは出来なくても、日本が「わが国の兵は一度も海外で人を殺傷することがなく、わが国の領土が他国軍によって侵略され、国民が殺傷される」と内田さんが語る意味で、日本の平和に貢献してきたことを、宮台氏も歴史的には確認しているように見える。

宮台氏は、このような歴史を認めた上で、現状認識として、もはや憲法9条が平和維持のための歯止めにならなくなってきていると判断し、改憲すべきという主張をしているように見える。内田さんの方は、改憲すべきか否かと言うことまでは、このエントリーでは語っていないようだ。むしろ、改憲論者の、「整合性がない」という論説に対する批判という意味合いの方が強いというのを感じた。

内田さんが、どちらの判断をしているのかは、このエントリーの文章だけでは分からない。僕の率直な感想としては、改憲すべきかどうかは、宮台氏ほどの確信を持って主張することは出来ない、つまり今の段階では、どちらがいいか分からないと言うのが本当のところだ。

宮台氏が主張するように、今の憲法に、統治権力の暴走を押しとどめる力はもうないという感じはする。だから、このままではどこまで暴走をするか分からないと言う恐れはある。しかし、憲法学者の奥平先生が「週刊金曜日」で書いていたが、今の状況は、簡単に改憲論に乗ってしまうと暴走をする方向の改憲論の方が世論の支持を得そうでかえって危険だ、という感じもする。

宮台氏も、憲法9条が果たしてきた平和への貢献を一定の評価をしている。そして、その貢献を持続させるためにも改憲が必要だという主張をしている。内田さんも、これまでの平和が日本の復興と繁栄をもたらしたと言うことで評価をしている。国民の大多数がこのような認識を共有していれば、改憲の方向も、平和の維持と言うことで、未来への展望が持てる方向へ行く可能性がある。

しかし、この感覚が共有されず、ねじれを直す整合性が第一の目標になり、「普通の国」になることが改憲の方向であるとしたら、奥平先生が危惧するように、統治権力の暴走を補完するような改憲の方向を取るのではないかとも思える。そうなると、だめになってきたとはいえ、まだ暴走が明らかになるような憲法よりはましだ、という考え方もあるかも知れない。ここら辺の判断が分からないので、僕は宮台氏ほどの確信を持つことが出来ない。

改憲論議で気になるのは、「普通の国」になるということが、国力に見合った国際貢献をすべきだという考え方だ。憲法9条は、今までの役割としては日本の国の平和には貢献してきたが、世界の国の平和に対してはなす事がなかったとも言える。これを、積極的に国際貢献出来るような憲法に変えなければならないという意見があるように感じる。これは、ある意味では統治権力の暴走を招く恐れが高いのではないかと僕は感じる。

国際貢献というのは、正義であり良いことである。この正義というものは、とても危険なものだ。あらゆる争いは、その中心に正義というものがあるとも言われている。正義は暴走を招きやすいものだ。しかも、正義であると歯止めがきかない。イラクに対するアメリカの侵略行為は、多くのアメリカ人は正義の実現だと思っているようだ。フセインという悪を倒し、民主主義という正義を実現する素晴らしい行為だと錯覚している。

あえて「錯覚している」という表現を使ったのは、未だにイラクでは、目標とした正義が実現されていないと僕は思っているからだ。この「良いことをしている」という錯覚は、国際貢献という正義を前面に押し出した時に、それが出来る力を持っている国が陥りやすい錯覚ではないかと思う。改憲の方向が、そのような錯覚を招く方向になっていないかということが気になるところだ。

世界に平和をもたらすと言うことは簡単なことではない。しかもそれを武力で実現出来ると考えるのは、本質的な矛盾をはらんでいる考え方のようにも思える。実際には、一国の中でさえも平和を保つのが難しい。だからこそ、その方の努力、国家権力の暴走を押しとどめる努力の方が現時点ではまだ大事だという感じがする。

国際貢献をする方が誇りあることでもあり、前向きの行為のように見える。暴走を恐れて、一見、一国平和主義の中にとどまるように見えるのは、臆病な腰抜けのようにも見えるかも知れない。しかし、現時点では、臆病な腰抜けのように振る舞うことの方が平和の維持には役立つのではないかとも思う。

宮台氏は、憲法は国民意思の表れでもあると語っている。もし、世論が国際貢献の実践を主張するのであれば、憲法がそれを謳う前に、自主的な多くの国民が国際貢献をするという流れがなければならないのではないかと思う。危険なイラクに行くのは、日本人の安全を守れないのだから、統治権力が言うように自主規制するのが正しいと思っている日本人が多いのであれば、国際貢献という国民意思は本当には存在しないのではないだろうか。

僕は、内田さんが語るように、


「武道を四十年やってきた人間として、「武とは何か?」という本質論についてだけはおそらく憲法調査会のどの委員よりも長く私は考えてきた。
「武」の本質について、私がもっとも得心がゆくのは老子の次のことばである。
「兵は不祥の器にして、君子の器に非ず。已むを得ずして而して之を用うれば、恬淡なるを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、即ち以て、志を天下に得可からず。」(第31章)
ウチダ的に現代語訳すると老子のことばはつぎのようになる。
「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在が自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」」


というような考えを基本において武力を考えることに共感する。武力を使って、華々しく紛争を解決するというような国際貢献は、少しも誇りに思うものではないと思う。むしろ、外交において平和を維持する努力をすることこそが誇りに思うものだと感じる。武力は、あくまでも「やむをえず」使うものだと思う。

武力を「やむをえず」使うものとして、統治権力を規制してきたのが今までの憲法9条だったような気がする。これからも憲法はそうあるべきだろうと思う。そうある方向で改憲の議論が進むかどうかが、改憲の是非に関わる問題のような気がする。

考えてみれば、日本が平和を維持してきたのは、憲法の力というものもあっただろうが、外交というものも大きく関わっていたのではないだろうか。吉田茂は、アメリカの要請としての朝鮮戦争への派兵よりも、日本の経済復興の方を優先させるために、これを拒否するための方便として憲法を使ったと宮台氏は語っていた。つまり、吉田茂の時代には、日本の外交はアメリカ追従という一辺倒なものではなかったということになる。

今の小泉政権は、解釈によって何でも出来る状態にしてしまったと宮台氏は語るが、その小泉政権は歴史上もっともアメリカ追従を強めている外交政策をとっている。そう考えると、日本の平和を脅かすのは、憲法を変えることではなく、今後もアメリカ追従を続けていくかという外交面により大きな要素がありそうな気もする。日本が戦争に巻き込まれるとしたら、それはアメリカの戦争に巻き込まれるという可能性が最も高いのではないか。

アメリカ追従の危険を語る人々の意見が、改憲の方向へも影響を与えていくことを願う。アメリカの戦争に荷担出来る改憲の方向は、平和とは最も遠い方向への改憲になるだろうからだ。改憲の是非は判断出来ないけれど、多くの国民は平和を願っていると思うから、もし改憲されるとしても平和を維持する方向への改憲であることを願う。積極的な正義の実現は、アメリカの戦争への荷担の方向かも知れないと言うことをいつも頭の隅に置いて考えたいものだと思う。

khideaki at 10:00│Comments(0)TrackBack(2) 憲法 

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