2005年05月08日

読みとりの違い(誤読)について考える 1

araikenさんが、「祭りの戦士」というブログで語っている一連のエントリー「センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1〜その4」(4月30日、5月2日、4日、7日)というものに触発されて、また<誤読>というものについての考えが浮かんできた。

この<誤読>は、araikenさんが間違えているというのではなく、僕の読みとり方が間違えているのかも知れないのだが、いずれにしろ、表現者の意図を読みとるのがいかに難しいかというのを自覚する意味で<誤読>という言葉を利用している。だから、ここに記述するのは、araikenさんに対する批判というものではないのだが、違う考えを対置すると言うことをある種の<批判>と受け取る人がいるかもしれない。

<批判>というものを、徹底的に掘り下げて吟味・検討するという意味で受け取ってくれるのなら、<批判>と受け取ってもらってもいいのだが、<批判>というのを、何か相手が間違っているのを指摘しているという受け取り方をされると、これはまた誤解されるかも知れない。だから、このエントリーをトラックバックするかは迷うところだが、自分の知らないところで自分の文章が論じられているというのは、あまり気分のいいものではないだろうと思い、とりあえず考察の対象にさせてもらったという意味でトラックバックを送ろうかと思う。
願わくば、単に文句をつけたと言うことではなく、正しい理解というものを求めての考察の対象にさせてもらったという意味で受け取ってもらえればと思う。僕の理解とaraikenさんの理解と、どちらが正しいかは簡単には結論づけられないだろうと思う。それに、内田さんの表現が、内田さんの考えを正しく伝えていたかという問題もある。そういう一連の問題がありながらも、なお内田さんが考えることを正しく受け取る方法がないだろうか、ということを考えたい。

一つの方法としてイメージしているのは、内田さんが語る対象を、客観的に捉える方法があるかどうかというものだ。その対象を、内田さんを通じてしか考えることが出来なかったら、内田さんが、もし表現において失敗していると、その失敗をそのまま受け取ってしまう。しかし、内田さんを離れて、客観的対象として、内田さんが論じていることを捉えることが出来れば、内田さんが失敗していた時もそれに気づくことが出来て、内田さんの真意を受け取ることが出来ないものかと思う。

araikenさんと僕とは、内田さんが語る言葉の受け取り方が違う。この違いは、二人が想定している対象としての客観的存在の違いに由来するものではないかという感じが僕にはする。その違いをaraikenさんの文章から読みとってみたい。この読みとりも、本質的には<誤読>の可能性に満ちたものだが、客観的対象そのものを考えることで、この<誤読>の可能性にも対処出来ればと思う。まずは、最初の「その1」の文章について考えてみよう。

araikenさんは、内田さんの「2005年03月21日 希望格差社会」というエントリーについての読みとりを語っている。その読みとりと、僕が感じる違和感(違う読み方)を対比させてみよう。まず冒頭で、araikenさんは次のように語る。


「というのもお二人の言葉は私にはどうにも後ろ向きの言葉としてしか読み取れないからだ。それに皆さんどうも内田先生の言葉を素直に読みすぎているように思うのだ。言葉を言葉通り受け取ってどうする? インチキを見抜くにはもっとネチっこく攻めなきゃだめだ。」


これは、僕は全く違う読みとり方をする。これは、おそらく内田さんに対する信頼感の違いから来るものだろう。僕は内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んで、初めて構造主義というものの全体像がぼんやりとつかめたという気がした。内田さんは、物事の本質を捉えて表現する人だという信頼感がある。

しかし、araikenさんは、基本的に内田さんに対する疑問の方が大きいようだ。4月13日に書かれた「希望格差社会」というエントリーの中では次のように語っている。


「内田氏のブログにニーチェという文字が出ているのを知って、これなら何とかなるかもしれない、と思って『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』を読んでみたのだ。するとニーチェの解釈が通俗的なのにビックリ、また他のエントリーの内容も、エーッ !? って感じで、これが大学の先生なのか? と思った。
 僕は、構造主義というのはてっきり反近代の、っていうか、システム批判の思想だとばっかり思い込んでいたので、内田氏の文章の中に見え隠れする、体制的な言説にちょっと虚を突かれてしまった。」


このような第一印象を持ったというのは不幸なことだなと思う。この第一印象は、今後の内田さんの文章を読むたびに思い出されてしまうだろう。それで、内田さんの文章を素直に読みとることよりも、そこに隠されたウラを読み込んでいくというような読み方になってしまうのではないだろうか。僕は、内田さんに対する信頼感が大きいので、内田さんが書くことを、ほぼその通りに素直に受け取ることが出来る。読みとりにおけるこの違いは大きいと思う。

araikenさんと僕との読みとりの違いに大きく関わっている問題は、<競争>という言葉が生み出すイメージにあるのではないかという感じがする。宮台真司氏が「一番病」と言うことで、勉強での競争を揶揄していたことがあったが、僕も「一番になる」と言うことで競争することにはあまり建設的な意味がないような感じがしている。特に、社会にとっては「一番」というのはあまり意味がないような気がしている。

個人にとっては、「一番」が好きだと言うことがあるかも知れないが、社会にとっては、ある一定の水準に達しているグループがいればいいのであって、その中で順位を争うことはあまり意味があることではないような感じがする。むしろ競争に敗れて一番になれなかった人間が、いつまでもその傷を引きずるような状況がないようにしなければならないのではないかと思う。

たとえ一番でなくても、例えば二番であっても、それだけ高い実力があることを示しているわけだから、その高い実力を十分発揮出来ることが望ましいことであって、一番になれなかったことをマイナスにするのは損なことだと思う。一番になれなかったということを残念に思うより、二番になったという名誉を喜ぶようなことが、社会のためには建設的なものになるだろう。

内田さんが語る「競争から降りる」というイメージは、このようなものだと僕は思っている。最初から夢をあきらめさせるために、意欲に水をかけるような意味でのあきらめを語っているようには思えないのだ。内田さんは、ブログの中で、


「「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。」


と語っている。ここで語られている「過大な夢」がどのようなものであるかで、この言葉の受け取り方も違ってくるだろう。かつての昭和30年代、40年代の日本では、努力すれば手が届く夢というのがあったような気がする。それに比べての「過大な夢」だというふうに僕は受け取った。

努力しても届かない夢というのは、その選抜の範囲が狭い夢だ。たとえて言えば、100人のうち5人くらいしか達成出来ない夢といったらいいだろうか。95人は、何らかの意味であきらめなければならない夢というイメージだ。そのような難しい夢であっても、あくまでも勝ち抜く5人になるために努力するのだという考えもある。しかし、敗北した95人は、自分で求めた夢なんだから、その敗北は自己責任だと言うことで放っておいて、それで社会が安定するだろうか。

実際には、その95人は別の夢にシフトすることが必要なのだと思う。それこそが、内田さんや山田さんが語っていることなのではないだろうか。敗北を受け入れると言うことは、悲しいことであり苦しいことでもあるが、叶わぬ夢を見てむなしい努力を続けるよりも、僕は建設的な生き方になると思う。むしろ、その悲しみや苦しみを知ることが出来た人間は、他の人間に対する受け入れや共感という力で、勝者よりも遙かに高い人間性を示すという、負けたことによって勝つという逆説さえあるのではないかと思う。

ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。内田さんが語ることの真意を僕はそこのところに見た。

ある種の固まったイメージの勝者を夢見ることによって、自分が最終的に少数のエリートには残れないと感じても、敗北のイメージだけが残ってしまうので、なかなか競争から降りることが出来ない。現在の状況はそのような感じではないかと思う。問題は、固定した勝者のイメージを壊し、その場での敗北は、場を変えればまた勝者になる可能性があるのだと考えを転換していくことで、建設的な生き方に結びつけていくことが、内田さんや山田さんが語るカウンセリングの中身なのではないだろうか。

araikenさんは、「内田氏は「リスク社会」到来の原因としての「競争」原理については一切問題にしない」と書いているが、これは、ブログのエントリーで問題にするには、あまりにも複雑な問題なので語っていないだけなのではないかという気がする。これは、内田さんに信頼感を抱いている僕としては、かなり好意的に考えていることにもなるのだが。

競争というものは、現象面としてのプラス面もマイナス面も両方とも持っている。論じるとしたら、基本的な設定がかなり複雑になるのではないかと思う。印象だけで語るには、学者としての責任が持てないのではないだろうか。

競争は、それがあるために様々な問題が生ずるという弊害が起こる可能性もある。しかし、競争があるために、切磋琢磨して進歩するという前進的な面も持っている。どういう時に前進し、どういう時に障害物として壁になるかは、なかなか分析が難しいと思う。

根本的には、障害となる場合を取り除いて、前進するための条件を作り出すことが望ましいのだろうが、それをしなければ何も出来ないと言うのでは、現在生じている問題に対処出来ない。根本的な解決は困難なので、まずは手をつけられる問題から何とかしよう、と考えると、内田さんや山田さんのような言い方になるのではないだろうか。だから、とりあえずは、現状を仕方のないものと見てしまうと言う読みとりも出てくるのだろうと思う。

僕のこのエントリーは、araikenさんの文章に対する批判というものではないので、その文章をあまり引用しなかった。文章を考えると言うよりも、そこで語られている対象を、一般化して考えてみたいと思ったからだ。今しばらく、araikenさんと僕との読みとり方の違いというものをちょっと考えてみたいと思う。

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 もうひとつ458masayaさんが引用していた内田氏の言葉をそのまま引いておきましょう。内田氏のマジシャンのような詐術のお手並みががここに現れているからです。一言でいえば「生き方の違い」や人間の多様性を「職業」つまり社会的機能の多様性にすり替えてしまってるのです
センセー、やっぱり違うと思います! その3【祭りの戦士】at 2005年05月28日 04:10
 私たちは日常生活において実際には多様で複合的な価値観の中に生きています。なるほど私たちは資本主義社会に生きているのですから、支配的な価値観は経済の成長に向けられた業績主義的な競争のイデオロギーであるにしろ、それがすべてではなく、その他の視点でもって自分
センセー、やっぱり違うと思います! その2【祭りの戦士】at 2005年05月26日 03:48
 458masayaさんに、内田樹氏のブログのエントリーについての私の「読み」がおかしい、という意見をもらっているので(『解釈について考える』『同−2』『同−3』)、それに答えたいと思います。『数学屋のメガネ』の秀さんからも同様のTBを受けているのですが、微妙にポイ
センセー、やっぱり違うと思います! その1【祭りの戦士】at 2005年05月23日 19:07
秀さんという方が、数学屋のメガネ というブログを書かれていて、度々内田先生のブロ
誤読について考える【岡田昇の研究室】at 2005年05月10日 19:31
この記事へのコメント
宮本浩樹さん、書き込みをありがとうございます。

数学というのは多岐にわたって展開されていて、それを抽象的に数学一般として語るとなると大変難しいものを感じます。僕が学生のころにもっとも関心を持っていたのは数学基礎論という分野でしたが、これは哲学に近いものがあると思います。

数学における正しさはどのようにして保証されるかというのがその当時の問題意識とでも言うものだったでしょうか。真理とは何かという問題を考える過程で、三浦つとむさんの弁証法論理にも出会い、形式論理と弁証法論理の融合が僕の考えの基礎を作ったものと言えるでしょうか。

数学基礎論に絡みそうな話題で書き込めたらと思っています。
Posted by 秀 at 2005年05月12日 08:32
「数学とは何か」「哲学教室」なんかで数学に関連する話題を取り上げてて、秀さんにも参加していただけたらなぁ、なんて以前から思ってました。
どんな話題でもすぐに「哲学」に持って行ってしまう僕の悪い癖が発揮される前に来て欲しかったんですが、今からでも遅くないです。

ググっと数学に引き戻してもらって結構です。お祭りみたいにやれたら、と思ってます。
Posted by 宮本浩樹 at 2005年05月12日 01:26
オカダさん、コメント及びトラックバックをありがとうございました。

オカダさんのブログは、以前に読みにいったことがあります。トラックバックしたいただいたエントリーは、これからじっくり読ませていただいて、感想など伝えたいと思います。今後もよろしくお願いします。
Posted by 秀 at 2005年05月11日 16:18
araiken さん、コメントをありがとうございます。今後も、お互いの違いを建設的に話し合えると嬉しいですね。大人の会話になるように努力したいものです。

ご紹介いただいた掲示板は、以前に一度のぞいたことがあります。今のところ、まだテーマが、途中から入り込みにくい所があるので、読ませて頂くだけですが、強く関心を引くテーマが登場したら書かせてもらおうかなとも考えています。
Posted by 秀 at 2005年05月11日 16:16
秀さん、はじめまして。いつも読ませてもらっています。当エントリーにトラックバックさせて頂きました。拙文をお読み頂ければ幸いです。

Posted by オカダ at 2005年05月10日 19:36
秀さん、さっそくのレスありがとうございます。今回のエントリを読んでみて、改めて私たちの考えの間に大きな溝があることを感じます。まあ、そのことに関してはまだ秀さん自身の考察が続くようですので、それを待ってなんらかのお返事を差し上げることにしたいと思います。

ところで、実は私の友人たち(ネット上の友人で面識もないのですが)が、掲示板で数学について論じているのですが、その議論に秀さんも引き込めないだろうか、なんて言ってるのを耳にしました。ひょっとするともうご存知かもしれませんが、せっかくですので紹介だけしておきます。

http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?

もし多少でも興味があるようでしたらちょっと覗いて(関心のあることでしたら気軽に書き込んで)みてください。それではまた。
Posted by araiken at 2005年05月09日 03:24