2005年05月21日

抽象的な文章は抽象的に理解出来るか

内田樹さんの「2005年05月19日 資本主義の黄昏」というエントリーを読んでいたら、タイトルのような思いが浮かんできた。ここのいくつかのトラックバック先の文章を読むと、全く違う読み方をしているものもあり、どこからこの読み方の違いが生まれてくるのかというのを考えるのは、最近関心が高い<誤読>というものを考える上で面白いと思った。

内田さんは、その著書の中でレヴィナスについて語っていた時に、ワザとわかりにくく書くというようなことを語っていた。いったいこの著者は何を言いたいのか、という疑問を読者に持たせることを目的にして、そのようにワザとわかりにくく書くというように語っていたように記憶している。

内田さん自身もそのように書いているのではないかと、このエントリーを見ているとそう感じる部分がある。ワザとわかりにくく書いているために、これだけ違う読み方をする人が出てくるのではないかと思えるのだ。
僕は、このエントリーの文章を材料に、何故わかりにくいのか、何故違う読み方をしてしまうのか、というようなことを考えてみたくなった。書かれた文章というのは、書いた人間から独立して存在する。そして、言葉というのは、辞書的な意味と、具体的・現実的な意味との間にどうしても乖離が存在する。辞書的な意味は、一般論的に受け取らないと辞書的にならないが、表現者の意図を正しく受け取ろうとすると、辞書的な意味を越えて現実的な意味を受け取らなければならない。

この乖離から、文章はさまざまな読まれ方をする。そして、そのさまざまな読まれ方は、どれが正しくてどれが間違っていると判断するのは難しい。だから、正しい読み方に対する「誤読」というものは判定出来ないんじゃないかと思う。誤読というのは、自分独自の読みとり方をしたものが、たまたま表現者の意図するところとは違っていた時に<誤読>と僕は呼びたくなってくる。

僕は、このエントリーの正しい読みとりを考察するのではなく、これがいかに多様な<誤読>の可能性に満ちているかを分析してみたいと思う。そして、その誤読の可能性から、内田さんにこの表現をさせた現実の対象というものにできるだけ近づいてみたいと思うものである。

もしそれに成功したなら、その現実の対象から論理的に導かれる結論に僕も達することができるかも知れない。そして、その結論が確かに論理的に整合性があると証明出来たら、おそらく内田さんも似たようなことを考えていたのだろうと思うことができる。つまり、内田さんの意図を正しく受け取ることができたのではないかと思える。なぜなら、内田さんほどの人なら、対象さえ確かにつかんでいるのなら、論理的な判断においてどこかがはずれてしまうと言うことなどないと、僕は信じているからだ。論理的に正しくたどることができれば、内田さんと同じような結論に達するだろうと思う。

そのような読み方をするために、<誤読>の多様性を知ることは役に立つのではないかと思う。論理というのは、その前提とする条件が違うと、全く違う結論に達することもある。内田さんが考えた状態と同じような条件を設定出来るように、内田さんの文章を読むためには、現実の条件をいろいろと吟味する必要がある。そのいろいろは、<誤読>の多様性を考えることで導かれると思うのだ。

まずは初っぱなの次の文章が、大変<誤読>の可能性のあるものだと思った。


「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」


これがどうして<誤読>の可能性に満ちたものであると考えられるのか。それは、この命題が非情に一般的な判断を語っているからである。抽象的なイメージを持った言葉が使われているので、その抽象的イメージが正しく重ならないと、ここで語っていることを内田さんがイメージしているものと同じものとして受け取ることができない。

抽象的なイメージに満ちているのは「仕事」「賃金」「社会的承認」というような一連の言葉である。この言葉を具体的なイメージとしてどのように捉えているかで、抽象としての受け取り方が違ってくる。

「仕事」というものを、サラリーマン的な労働と同じイメージで受け取ったら、「賃金を得るためのものではなく」という内田さんの判断とは真っ向から対立してしまう。何を馬鹿なことを言っているかという印象が生まれてしまう。第一印象として、おかしいという感じを受けると、「賃金を得るため」に仕方なく苦役としてやっている「仕事」を、内田さんが体制的・保守的な観点からごまかすためにこのようなことを言っているのだと思いたくもなってくる。第一の<誤読>の可能性が生じる。

しかし、「仕事」というものが、仕方なくやっている苦役のようなものであるなら、「賃金を得るためのものではなく」「社会的承認を得るためのものである」という判断は論理的に出てこなくなる。内田さんが、このような非論理的なことを言うのは、それこそがおかしいと僕は思う。

内田さんのイメージでは、「仕事」は素晴らしいものであり、それを遂行することによって自分に大きな利益をもたらすものとして描かれているのではないかと僕は感じる。内田さんは、「仕事」こそが人間的本性を表すものと見ていて、人間以外の他の動物と人間を区別するものと捉えているようにも感じる。

もし「仕事」を通じて、自分の個性が発揮出来、自己実現というものを感じて、大いなる成就感を抱くことができれば、その「仕事」をしたというだけで満足出来てしまうかも知れない。その上お金ももらえるとしたら、こんなにいいことはないが、もらうお金はもはやこの場合はついでのものだという感じにもなるだろう。

そうなれば、「仕事」というものが「賃金を得るためのものではなく」ということが実感としてわいてくるだろう。さらに、その仕事を認めてくれる人がいて、「社会的承認を得る」事ができれば、さらに喜びはましてくる。資本主義社会においては、多くのお金を得ることが「社会的承認を得る」事とイコールになる場合があるので、はたから見ると「賃金を得るため」にやっているように見えるかも知れないが、賃金を得るのは結果としてであって、本来の目的は「社会的承認を得る」事と言ってもいい「仕事」が存在するのではないだろうか。

アメリカのプロスポーツ選手などは、かなり気前よく寄付をするそうだ。それは、自分が生活するために必要な以上のお金をもらうので、余剰分は寄付をしてもそれほど惜しくはないのだろう。たくさんもらうと言うことで、「社会的承認を得る」事になっているので、そこで味わった気分さえ満足出来れば、結果として手に入ったお金には執着しないのだろう。

仕事というものが本来そういうものだとイメージしていると、「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という判断はごく自然に生まれてくるのではないかとも思う。

しかし、この文章はさらに違う読み方もできるだろう。このように「仕事」の意味を捉えることができるのは、貴族的なエリートの位置にいるからだとも考えられるからだ。特権的な位置にいて、「仕事」のつらさとは無縁の生活をしているから、このようなことが言えるのだという受け取り方だ。

これは一面の真理を突いている受け取り方だとは思うが、さらにもう一歩考えを進めて欲しいものだと思う。「仕事」を素晴らしいものだと受け取るイメージは、たとえ特権的・貴族的な位置から生まれるものだとしても、それでは、反対のつらく厳しい非人間的な苦役としての「仕事」のイメージが、「仕事」としては正しいイメージだと言えるだろうか。

「仕事」は苦役であるものをやめて、人間的な喜びのあるものに変えていくことこそが、人間としての正しい方向でもあるのではないだろうか。そういう意味では、特権的な人間にだけ素晴らしい「仕事」が許されていて、多くはつらく厳しい「仕事」に従事していると言うことをこそ批判しなければならないのではないかと思う。やがては、多くの人がやりがいのある仕事に従事出来る社会をこそ目指すべきなのではないだろうか。

内田さんは、このエントリーで次のような言葉を語っている。


「仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。」

「人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。
どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。」


このような言葉を読むと、僕は、内田さんが、「仕事」をすることで喜びが得られるような社会にしようじゃないかと語りかけているように感じる。とりあえず、誰かのために何かをしてみて、その誰かが喜んでくれた時、そこに「仕事」の喜びを感じるというのは、かなり普遍的な真理ではないかと思うことがある。

仮説実験授業を提唱した板倉聖宣さんの言葉に、


「衣食足りたら人の笑顔」


というようなものがある。これなどは、人間は本質的に人が喜ぶことが好きなんだと言うことを語っている。喜ぶと言うことは、その喜びで社会的承認を与えてくれているのである。お金が稼げることよりも、一銭にもならないボランティアの方にこそ生き甲斐を感じて活動する人がたくさんいる。これなどは、まさに人の笑顔こそが報酬と言うことを物語っているのではないだろうか。

内田さんが語るように、「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という命題は、ある条件の時に正しいのだと思う。だから、その条件を受け止めた人間は、これを正しいものとして受け取るだろう。

しかし、違う条件の下で受け止めた人は、この命題が正しいと思わないだろう。そして、それもまた一つの真理なのだと思う。僕は、この命題が正しくなるような条件が現実に存在するような日本社会になって欲しいと思う。しかし、現実の日本社会は、この命題がまだ正しいとは言えない状況だろうとも思う。

現実はこんな甘いものじゃないんだから、ということでこの内田さんの言葉を退けてしまう人も、もう一度、何とか現実をこの理想に近づける努力ができないかを考えることができれば、反対の読みとり方をしていても建設的な対話が成り立つと思うのだが、そうでないとなかなか対話は難しいだろうなと思う。<誤読>の可能性の理解が、建設的な対話につながる方向を見いだせないかなと思う。

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