2005年06月05日

内田さんのスタンスと矛盾を考える

sivadさんからもらったコメントの中に、「内田さんは分析の中にある方向性への誘導を忍ばせている」という指摘があった。僕は、この指摘自体は、それだけで何か善悪の判断とでもいう価値判断を考えることは出来ないと思っている。

ある分析を行うというのは、僕の場合などは、論理的に正しいという方向性をもった分析をしたいと思っている。だから、僕の分析の中に論理的に正しいという「方向性への誘導を忍ばせている」と読んでくれる人がいたら、むしろ僕はありがたいとさえ思うだろう。

もし、この「方向性への誘導を忍ばせている」ということが批判されるとしたら、それが現体制を維持し、自分たちだけの利益を守ろうとして、かえって社会がよい方へ向かうのを阻害する方向に人々を誘導している、というような面がある時だろう。「誘導している」というだけでは、それがどのような誘導かは分からないので、それに対して価値判断は出来ない。
しかし、sivadさんがこのように感じるということは、内田さんの文章に何らかの誘導的な語り方があるのだろうと思う。それがどのようなものかを読みとるのは面白いのではないかと思った。「内田さんのスタンスが鮮明に現れた」とsivadさんが語っている「2005年05月19日 資本主義の黄昏」を読んで、内田さんのスタンスと、そこから感じられる誘導の方向というのを読みとってみようと思う。

また、sivadさんは「内田さんの話には矛盾があり」という指摘もしている。この指摘も、単に「ある」という属性だけでは、その矛盾がどのような性質のものか分からないので、やはり価値判断は出来ない。それが現実に存在する、現実を正しく反映した矛盾(弁証法的な矛盾)なのか、現実には存在しない、思考の上では排除しなければならない矛盾(形式論理における矛盾)なのかを見なければ、間違いであるかどうかという価値判断は出来ない。

内田さんのスタンスと矛盾という二つの面から、上のエントリーを読みとっていきたいと思う。まずは気になる言葉は、冒頭に書かれた次のものだ。


「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」


これは、一部の人には、かなり評判の悪い言い方に聞こえたようだ。内田さんが、現実の「仕事」の中に存在する不合理を無視して、ある意味では雇い主にとって都合のいい「仕事」の定義を述べているように聞こえたようだ。たとえ安い賃金であっても、他者からの賞讃があるんだから、我慢して仕事してね、というようにも聞こえたようだ。

これを内田さんのスタンスだと思ってしまうと、体制擁護の守旧派だという批判もしたくなってくるだろう。しかし、これは現実の具体的な仕事を指して語った言葉だろうか。現実に、賃金以上の仕事をさせられて、雇い主の財産を作るために貢献させられているサラリーマンが、上のような説教を聞かされたら、現実はそうじゃないということで腹が立つかも知れない。

しかし、僕は、上の内田さんの言葉を、そういう文脈では読まなかった。これは、具体的なある仕事を指して語っているのではないと受け取った。もしそういう意味で語るなら、その具体的な仕事が何であるかを語っていなければおかしい。具体的な仕事に全く言及せずに、仕事について語っているということは、ここで使われている「仕事」という言葉は、抽象的な意味を付与した言葉として使われていると僕は思った。

具体的な意味を離れた、抽象的なイメージとしての「仕事」という言葉の意味はどういうものだろうか。それは、


「人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。」


という言葉をヒントにして想像出来る。この場合の「人間」も、具体的な誰かではなく、抽象的な「人間」という存在を指す言葉である。つまり、内田さんが語る「仕事」は、人間の本性(本質)を表現しているような意味での「仕事」なのである。

このような意味の「仕事」は、三浦つとむさんは「労働」という言葉で表現した。三浦さんが学術用語として使っていた「労働」という言葉は、人間が、その活動を通じて人間の持っている本性を、自分以外の何ものかに投影して外に表現したものとして捉えていた。何かを作るというのはもちろん「生産労働」というものになるし、たとえ何かを作らなくても、その活動が、生理的な反応ではなく、頭脳を通過するという人間本性のあり方を示しているものなら、外に表現された形を三浦さんは「労働」と呼んだ。

これは、必ずしも賃金がもらえる労働ではない。だから、賃金がもらえるものという意味に限定して「労働」という言葉を使えば、それは、三浦さん的な「労働」には含まれるけれど、より狭い範囲の活動を指すものとして考えられる。何よりも大事なのは、この「労働」は、人間の本性を表すものであり、「労働する動物こそが人間である」という認識をもたらす「労働」という概念を表していることだった。

三浦さんは、「喰うために働く」のか、「働くために喰う」のか、という問題を提出していたが、「働くために喰う」のが人間の本性としての「労働」の表れだと考えていた。「喰うために働く」「労働」は、どこかがゆがんでいると捉えていた。このような認識に近いものとして、僕は内田さんの「仕事」の定義を読んだ。

このような読み方をすると、最初の内田さんの言葉は全く意味が違ってくるだろう。「仕事というのは賃金を得るためのものではなく」ということが正しいのなら、賃金を得るためだけの仕事は、どこかがゆがんでいるのである。つまり、現実の仕事のあり方に対して批判的なスタンスをもっているのが内田さんだという読み方が出来る。現実を無条件に肯定しているのではないということだ。

そして、「仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」ということが正しいとするなら、人間の仕事は、孤立して行われているものではなく、社会の中で、社会にとって役に立つという面があってこそ人間の本性にかなっているのだという主張にもなる。

板倉聖宣さんは、「衣食足りれば人の笑顔」という格言を作った。人間は、本質的に、誰かに喜ばれることが喜びになるということだ。これが、人間の本性だということに賛成するのなら、内田さんが語る「仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである」という指摘も頷けるものになる。決して、現状肯定をして体制維持をしたいということから生まれてきた言葉ではないのである。

さて、仕事をするということが人間の本性であるならば、それをしないNEETと呼ばれる人たちは、人間の本性に反する矛盾した存在ということになる。この矛盾と、内田さんの主張は、どう整合性を取るのか。NEETは現実に存在するのであるから、形式論理的な矛盾ではない。形式論理的な矛盾は、頭の中の抽象論理にしか存在しない。だから、これを否定することが出来る。しかし、現実に存在する弁証法的な矛盾は、これを論理で否定することは出来ない。

この矛盾は、その存在の合理性を、矛盾しない論理で説得的に説明出来ないとならないだろう。内田さんはどのような論理を使うか。それは、次のような解釈から生まれる。


「NEETというのは、多くの人が考えているのとは逆に、「合理的に思考する人たち」なのである。」


もっとわかりやすくいえば、「合理的に思考」しすぎる人がNEETなのであると僕は思う。世の中の出来事というのは、合理的に思考して、その整合性が納得出来るものと、原理的にその整合性が求められないものがある。しかし、「合理的に思考」しすぎる人は、どんな行為にも整合的な理由が欲しくなる。こうなると、ほとんどの行動が出来なくなっていくのではないかと思う。

人間が歩く時に、第一歩に右足を出すか、左足を出すかに必然性があるだろうか。もしも、必然的な理由がなければ一歩目を出せないとしたら、そういう人間は歩くということが出来なくなるのではないか。

こういうときに、実践的に解決する方法として、板倉さんは迷信の効用を説いていた。「火曜日には火の用心」という言葉で板倉さんは説明していた。火の用心というのは、本来はいつでも気をつけておいて欲しいものだが、いつでもというのは、メリハリがなくなって、かえって気をつけなくなってしまう。だから、いつかを気をつける日にしたいのだが、それがいつになるかという必然性はない。そこで、「火曜日」には「火」の字が使われているから、「火曜日には火の用心」ということにしようというわけだ。

これには、本当の意味で論理的な必然性はないが、これで何となく納得してしまうところに、「合理的に思考」しすぎる弊害を逃れる効用がある。この迷信と同じ効用を持たせようとしているのが、内田さんが語る


「いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。給料はたいしたことないけどね」


という言葉である。人間の本性は、働いて自分を表現し、それで社会の中での自分が何ものであるかを知ることにある。ある意味では、自分が仕事をしなければならない論理的必然性など無い。現実的必然性があればいいのだが、それもない人間は、論理だけでは仕事は出来ないだろう。その時に、迷信の効用のように、一歩を踏み出す論理というものが必要になるだろう。

何故働くかはそれでも分からないかも知れな。しかし、一歩踏み出すことによって分かることがたくさん出てくる。そちらの方が大事なのではないか。そして、いつかは、結果として働くことの意味が分かる日が来るかも知れない。それは、一歩踏み出さなければ決してやってこない日なのだ。

働くことの意味が分かれば働くというのは、実は本末転倒なのであって、働いてみて初めて働くことの意味が分かるようになるのだと思う。この本末転倒が分からないことがNEETの原因ではないかと内田さんは解釈しているのではないだろうか。現実の矛盾の整合性を、このような論理で説明しようとしているように僕は感じた。この矛盾は、形式論理的な矛盾ではないと思う。

内田さんのスタンスというのは、何かのイデオロギー的な立場を反映したもののようには僕は感じない。むしろ、抽象的・普遍的な真理を使って現実を分析する中から、現実の正しい解釈を見つけようとしているのが内田さんのスタンスのようなものに感じる。内田さんが語ることは、具体的なものに言及していても、その背後に常に抽象的・普遍的なイメージがあって、その判断から現実を見ているような気がする。そういう受け取り方をすることが、内田さんのスタンスを理解することではないだろうか。

そして、内田さんが誘導する方向性というのは、僕にはやはり一般的真理の方向のような気がする。特定の立場の利益を守るような、一般性のないものには見えない。僕は「資本主義の黄昏」をこのような読み方をした。

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この記事へのコメント
専門分野での内田氏は素晴らしいと思いますが、それ以外は。。
たとえば以下のような論考が参考になるかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050520#p1
http://d.hatena.ne.jp/idiot817/20050524#p1
http://d.hatena.ne.jp/odakin/20050519
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050523
Posted by sivad at 2005年06月08日 12:46
先生、丁寧な説明ありがとうございました。実は、NEETに関しては私も同じように考えたことがあったのですが(勿論、内田先生のような厳密な考察ではありません。)、違う考え方もできないものかなぁと漠然と思っていたのです。ここで先生や、内田先生の考え方に接することができましたので、もう一度よく考えてみたいと思います。ありがとうございました。
Posted by 数学snob at 2005年06月07日 20:55
sivadさんへ

直感的であることは必ずしも間違いには結びつきません。長い経験を積んで、経験から多くを学んだ人間は、自分の専門分野では鋭い直感を働かせます。その直感の正しさを確認するために論理を使うという場合さえあるでしょう。

「氏の用いる論理の前提の多くが現実を反映しているとは思えないからです」と言うことも、具体的にどの部分をそう感じるかと言うことがないと、抽象的には何とも言えません。僕にはそう感じられないという感想があるだけです。

語られている前提が「都合のいい」ものであるかどうかは、都合の悪い前提から導かれる違う結論が提出されて、本当の意味での批判になるのではないかと思います。
Posted by 秀 at 2005年06月07日 10:40
私はむしろ、内田さんのお話は論理的というよりある意味で直感的だと思います。なぜなら、氏の用いる論理の前提の多くが現実を反映しているとは思えないからです。
そして、特定の結論を出すために都合のいい前提を用いているように思えるわけです。
Posted by sivad at 2005年06月07日 10:28
数学snobさんへ 2

働くことを人間の本性と捉えるかどうかというのは、多くの事実からの抽象の過程を経ていると思いますが、これを一度本質だと設定すると、今度は逆に、この本質から現実を解釈するという方向の思考が生まれます。

このことを基礎にすれば人間は、自然に生きていれば、どうしても働いてしまうものだと考えます。それが、働かないでいられるように見えるのは、「働くことの意味が見付からない」という理由をつけないと、働かないでいることが出来ないのだと解釈するわけです。

この理由は、本性に反することを納得させるための合理化だと考えるわけです。だから、NEETは合理的に思考しすぎていると考えるのです。この結論は、事実というよりも論理によって導かれたものとして僕は受け取っています。
Posted by 秀 at 2005年06月07日 08:27
数学snobさんへ 1

僕がここで使っているイデオロギーという言葉はあまり厳密な意味ではなく、内田さんが、現体制を無批判に維持するような立場から語っているという受け取り方に対して、そのような立場ではないということを考えるために、その立場を代表する考えを一つのイデオロギーというふうに捉えています。

また、人間にとって働くということが本質であるなら、人間の活動は、どの活動をとっても働くことになるという解釈が出来ると考えています。その活動が、たまたま賃金がもらえる仕事になるかどうかは偶然のことですが、自らの人間性を外に表現するということで「働き(仕事・労働)」になっているのだと思います。
Posted by 秀 at 2005年06月07日 08:21
そのような人間はおそらく働くことの意味が分かれば働くのでしょう。そのような人間は、人間性の本性に関して別の考えに立って説明されるのでしょう。まさに仮定が違えば帰結が異なることの一例ではないでしょうか。仮定の違いを「立場」の違いと言っているのではないでしょうか。先生は内田先生のおかれた仮定を実証的に正しいと感じておられるから(「傾向」という言葉が用いられている以上、統計的手段を通じて帰納的に説明されるはずですから。)それは普遍的立場と感じておられるのではないでしょうか。私にはどちらが正しく現実を説明しているかは分かりません。ただ、今回のエントリーを読んで分からないなりにそう思いました。正しく理解できてはいないと思いますのでまた勉強させてください。
Posted by つづき at 2005年06月05日 21:54
先生、私も内田さんの「寝ながら学べる構造主義」を読んで感激した者の一人です。この本に関しては、2読、3読どころか4読、5読と、ことあるごとに読み返しては感激を新たにしています。本の内容が十分に理解できているかは別として、ともかくも何度も読んだ私には先生のおっしゃりたいことは何となくわかります。「イデオロギー」とは、この本においても紹介されている一つの思想の流れのことを言っているのでしょうか。そして、それは、いわゆる自由主義者の考える人間像、経済活動に関しては経済学で言うところの「ホモ・エコノミクス」に集約される人間像、を説明するとは限らないという意味で一つの「立場」からの言説であるとの指摘を行っているのでしょうか。
Posted by 数学snob at 2005年06月05日 21:53