内田さんの「空文の効用」への批判に対する論理的分析
さて、内田さんの
「2005年05月16日 空文の効用」というエントリーに対する批判を論理的に考察してみようかと思う。対象とするのは、
「フォロー^2」というエントリーだ。この中に現れている論理の混乱を分析していこうと思う。
これは、ある意味で、このエントリーに対する批判になる。僕は、批判というものは出来るだけ一般論の範囲でやるように努めてきた。それは、一般論の範囲で十分出来ると思っていたからだ。一般論を個人と結びつけて批判すると、批判の本質は一般論の方であるのに、その個人を批判しているように見えてしまう。それを避けるために、ある種の批判的な思いを抱いたエントリーを見ても、そのエントリーを直接批判するのではなく、それを一般論として設定し直して批判するという方法をとってきた。
今回は、内田さんに対する具体的な批判を取り上げて考えなければならないので、どうしても具体的な対象を批判しなければならなくなっている。自分に対する批判を見せられて気分が良くなる人間はいないと思うので、この文章をトラックバックして送るのにはとてもためらいを感じる。
しかし、自分の知らないところで自分の文章が批判されているというのは、もっと気分が悪いことになるだろうと思うので、僕がこの文章を取り上げたということを知らせる意味でトラックバックを送ることにしよう。トラックバックというのは、その文章を取り上げて考察したということを知らせる意味で送るのだというふうに割り切って考えることにする。
もし、僕の考察が考慮するに値するものではないと思ったら、そのまま無視してくれればと思う。また、考慮に値すると思ってもらえれば、たとえ批判的な語り口であっても、建設的な対話が成立するかも知れない。願わくばそうなってくれることを祈っている。
さて、ここで展開されている内田さんへの批判が、論理的に妥当であるかという面からのみ考察していくことにしよう。まずは次の文章を考える。
「全体を通して内田氏は、どうも改憲論者というのは憲法9条を廃止して戦争をしたい人のことだとお考えのようである。憲法改正によって「軍事的フリーハンド」を確保すると書かれている点からもそれは言える。いやもちろんそういう人もいるだろう。それは認める。しかし現実の問題として決して多くはないし、また改憲論者とよく言われている勢力がそのような主張をしているわけでもない。」
ここで気になるのは、内田さんの言葉では
「しかし、「だから、平和憲法を戦争ができるように改訂すべきである」というのは推論として間違っている。」
というように「戦争が出来る」と表現されているのを、「戦争をしたい」という受け取り方をしていることだ。戦争が出来るようにしたいという人の中には、「戦争をしたい」という人も含まれるだろうけれど、ここには微妙な意味の違いがある。
また、上の文章では、内田さんが改憲論者の大部分を「戦争をしたい人」だと思っているように受け取っている感じがするが、内田さんがそう語っている部分は僕には見付からなかった。だから、「しかし現実の問題として決して多くはないし、また改憲論者とよく言われている勢力がそのような主張をしているわけでもない。」という主張そのものは正しいと思うが、内田さんが、その反対を主張しているという前提は違うと僕は思う。だから、この文章が、もしも内田さんがそう主張していることが間違いだ、という批判だとしたら少々的はずれではないかと感じる。
論理的な問題としては、改憲論者がどのような分布をしているかには関係なく、
「平和憲法が空文である
↓(ならば)
戦争が出来るように改訂すべきである」
という形式論理的推論が間違っているというのが、内田さんの指摘だ。これは、前回のエントリーでも詳しく考察したが、「空文であれば、そこには何もいいことはない(効用がない)」ということが正しい前提として加わって、この推論が正しい推論として通用するようになる。つまり、結論の正しさを保証する形式論理になる。
しかし、「空文であれば、そこには何もいいことはない(効用がない)」ということが正しくなければ(いつも成立する真理ではない)、結論の正しさは保証されない。これは、結論が間違っているということではなく、結論の正しさを保証しないということで、正しいとも間違っているとも、現段階では結論出来ないのだということになる。
つまり、上の命題(推論)に対して反対であっても少しもかまわないということになる。だからこそ内田さんは、このことに反対だということを、「空文の効用」というエントリーで説明しているのだと、僕は受け取った。
もしかしたら、内田さんが「改憲論者の大部分が「戦争をしたい人」だ」と考えている可能性もある。そうであれば、この批判は、その時には妥当性を持つ可能性もある。しかし、内田さんの「空文の効用」という文章からだけでは、内田さんをそのように受け取ることは出来なかった。だから、あのエントリーに対する批判としては妥当性を欠くだろうというのが僕の感想だ。本質的な部分ではなく、末梢的な部分への批判のように感じる。
また、「改憲論者の大部分が「戦争をしたい人」だ」という判断についても、これが正しいか正しくないかを決定するのは難しいのではないかと僕は思う。情報の乏しい大部分の人は、影響力の大きい人の言説で自分の考えを変える可能性が高い。マスコミを握っている権力に近い部分の人間の大部分が「戦争をしたい人」だったら、その宣伝によって世論の大部分を「戦争をしたい人」に導くことも出来るかも知れない。軍国主義下の日本ではまさにそのような状況が生まれていたのではないかとも思える。だから、これも一つの仮説であって、まだ証明されている事実とは考えられない。
このあとの論理展開は、内田さんの文章を離れて読めばかなり面白い主張のように感じる。知識として難しい部分も感じるが、おおむね論理的な妥当性はあるのではないかと感じる。しかし、この論理展開が内田さんへの批判だという風に見るのはかなり無理があるように感じた。
内田さんの主張は、改憲の根拠として憲法が空文であるということを使う論理がおかしい、つまり論理的に間違っているということだ。そのことに対する批判であるのなら、その論理そのものを考察しなければならない。しかし、ここで展開されているのは、現実の憲法状況に対する認識の問題だ。その状況をどう捉えるかという問題に僕には感じる。
だから、その状況を考察する中で、その問題を解決するために改憲が必要だという論理が展開するのは、論理的に見て少しもおかしいことではない。宮台真司氏の改憲論などに僕が共感するのは、そのような現状認識において共感するからである。だから、この展開は、憲法が空文であるという理由意外にも、こんなにたくさん改憲すべきだと考えられる理由があるじゃないかという主張のように見える。
これはこれで一つの見識として成立するだろう。しかし、内田さんに対する批判としては妥当性を欠くものだと僕は感じる。この考察の大部分は、内田さんとは関係なく展開してもいいものだし、展開すべきもののように感じたので、的はずれではないかという感想を持ったのだと思う。
このエントリーへの批判ではないが、内田さんへの批判として考察の対象になるのは、次の部分かも知れない。
「さて最初に述べたように、内田氏は敵のいない場所を撃っている。現実には多様である改憲論を「戦争解禁」という一部に押し込め、それを否定することですべてを否定できたかのように装うこのような手法をポラライズという。しかし思うに、内田氏の魅力はそのポラライズにある。「会議に出ると、世の中には三種類の人間がいるということがよくわかる」というのは、もちろん現実の人間がそれらのカテゴリに完全におさまるわけではないから無根拠な断定である。だがそのポラライズが事柄の本質を突いているときに、それはアフォリズムとなる。氏の手並みはその本質の切り出し方にある。」
この批判は、このエントリーを含んで内田さんの文章一般に対する批判になっている。しかし、上に見たように、このエントリーでは、内田さんが<改憲論者の大部分は「戦争をしたい人」だ>と語っている部分は見付からなかった。だから、「ある改憲論を「戦争解禁」という一部に押し込め、それを否定することですべてを否定できたかのように装う」と判断するのは無理があるような気がする。内田さんが主張したいのは、改憲論者がそのような人間であるということではない。
内田さんは、改憲論のすべてを否定したいのではなく、空文であるということを根拠に改憲を主張する人の論理的矛盾を批判しているのである。なお、「ポラライズ」というものが、一つの真理を全体に無批判に拡大するものであるのなら、それはいつでも誤謬になるだろう。
この判断は、しかしかなり難しいのではないかと思う。それは抽象のレベルというものを正しく判断しなければならないからだ。高度に抽象化された数学では、任意の対象であるxについて成立することは、すべての対象に対して成立すると考える。つまり、純粋の抽象的世界では、一つに対する事実がすべてに対して通用してしまう。それは、抽象化することによって、「すべて」の範囲を限定しているからである。「すべて」の中に未知なる想定外のものが入り込まなければ、「すべて」に言及することが出来るのである。
内田さんが語る抽象のレベルがどこにあるかで、それが「ポラライズ」という誤謬であるかどうかという判断も変わってくるだろう。現実に即して厳密に分類することを考えれば、どんなに慎重な分類をしても、現実にはその分類からはずれるものが出てくる。分類そのものを批判することが出来る。しかし、そもそも分類という行為が、自然の中に人為的に区別を導入して、無理やりレベルを切断するという抽象的なものだ。分類をしたということで、すでに抽象的なレベルに入り込んでいると考えなければならない。
内田さんが、「会議に出ると、世の中には三種類の人間がいるということがよくわかる」と語る時も、現実にこれからはずれる人間は「その他」とでもして分類しておけばいいと僕は思う。そして、内田さんの考察からは、「その他」は今のところ対象として取り上げる必要がないという捨象をされているのだと僕は受け取る。
抽象というのは常に捨象を伴う。つまり常に現実のある部分を無視しているのである。抽象において捨象した部分を、考慮に入れていないから現実のとらえ方として間違っているというのは、やはり批判としては的はずれのように感じる。その捨象の仕方に問題があると指摘するのが、本来の論理的な批判のあり方ではないかと思う。
そういう意味では、刑法をたとえとして展開されている最後の内田さん批判も、内田さんが展開している抽象に対する批判ではなく、「ポラライズ」に対する批判のように見える。これが内田さんにも当てはまるということに同意するには、内田さんの主張が「ポラライズ」という論理的な誤りを含んでいるということに同意しなければならない。これに同意出来ないと、結論が「ポラライズ」を正しく批判していても、それが内田さんへの批判だということに同意出来ない。それが形式論理というものだ。
僕は、このエントリーに対してかなり批判的な考察をしたが、それは、このエントリーが考察に値するだけの水準の高いものだと感じたからだ。もし、簡単にその間違いが分かるようなものだったら、僕は考察することなく見捨てておくだけだっただろう。ここでの内田さんへの批判は、単に悪口を言っているのではない。それと同じように、僕の批判も、単に悪口を言っているのではないと受け止めてもらえるとありがたいのだが。
Posted by khideaki at 10:01│
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ええと一応お答えしておきますか。まず別に批判されても怒ったりはしません。モノを書くというのはそれに同意しない人々から反論される可能性を受容した上で成り立つ行為ですから、しかるべき批判を受けるのは当然のことです。まあそりゃ無根拠な推測とか書かれれば怒ります
a reply.【おおやにき】at 2005年06月11日 15:33