2005年06月12日

三浦つとむさんの構造主義批判 2

三浦つとむさんの『試行』(1968年発行)第26号の論文、「構造主義者の妄想(上)」では、構造主義者たちが行ったマルクス批判を取り上げて、その反批判をしている。前回のエントリーでは、<原型>と<映像>の混同という面からの批判を紹介したが、この混同は、次のような批判の指摘にも結びつく。


「このヘーゲル的修正はマルクスのヘーゲル弁証法の転倒を逆戻りさせているから、この立場ではマルクスがいったいヘーゲル弁証法をどう転倒させたのか分からなくなってしまう。そこから、自分たちの逆戻りを棚に上げて、マルクス=エンゲルスにイチャモンをつける者が出てきた。マルクスの弁証法の画期的な意義は、イデーを否定すると共にイデーのあり方としての「客観的弁証法」をも否定して、弁証法が人間の頭の中の抽象的な映像に「還元された」(reduzierte sich)点にあり、「存在」でなく「科学」(Wissenschaft)になった点である。構造主義的マルクス主義者はそんなことは反省しない。」


法則を抽象的思考として理解するよりも、その法則がいつもついて回る存在の方を理解する方が、認識としては易しいだろうと思う。存在の属性を取り上げるよりも、属性を持っている存在という具体的イメージを持った方が想像しやすい。
足し算をする時に、抽象的な数字を操作するという段階に行く前に、指を使ったり、おはじきを使ったりして、具体的な操作として足し算を理解する。これは、その方が理解しやすいからだ。そして、具体物が、やがて半具体物である「タイル」という教具を用いることによって、抽象的存在である数字に結びついていくように配慮するのが、遠山さんが打ち立てた水道方式の数学教育だ。

抽象的な認識は、いきなりその核心にまで到達することは出来ない。具体的な存在から徐々に抽象へ進んでいき、全く具体性を捨て去った最高の抽象へ到達して、高度の数学や科学というものになる。この手順を慎重に踏んでいかないと、本当の意味での抽象的対象を扱うことは出来ない。

三浦さんが批判する構造主義者が、<原型>と<映像>を混同して、<映像>である法則の理解に失敗するのもこの難しさがあるからだと思われる。そして、この失敗した認識を正しいと信じていると、ちゃんと区別している正しい認識の方がおかしいもののように見えてくる。それは、<原型>の持っている属性を無視しているように見えてくる。実際は、無視することこそが正しい抽象なのだが、勘違いをしているとそれが分からなくなる。このことを、三浦さんは次のような卓抜な比喩で語っている。


「自分が逆立ちをしているとチャンと立っている人間の方が奇妙で不条理に見えることは確かである。」


自分が逆立ちをしているというのは、<原型>と<映像>を混同していると言うことだが、このようなことが何故起こるかと言えば、それは、法則を言葉で覚えているだけで実践が伴わないからであると三浦さんは批判する。

実践をすると言うことは、現実の問題に取り組んでそれを解決すると言うことである。言葉を暗唱するだけなら、実際の問題を解く必要はない。そして、問題を解いてみなければ失敗もしないのである。

実際には、簡単な問題から始めて、だんだんと難しい問題に取り組むことによって、問題解決能力が高まっていく。そういう訓練をしていないと、いきなり難しい問題を解こうとして、とんでもない間違いをしてもそれに気づかないと言うことが起きてくる。このあたりの見事な説明を、ちょっと長いが引用しよう。


「現在家庭用あるいは工業用に広く使われているLPG(いわゆるプロパンガス)は、石油生産の副産物であって、天然ガスを高圧下に液化して運搬している。使う時圧力をゆるめてガスに戻すのである。気体→液体→気体と、先の転換を逆に再転換するから、これも「否定の否定」の一つのあり方と見ることが出来る。産地の近くならパイプで送ることが出来るが、中東から日本へガスのまま送ることは出来ないし、ガソリンに代えて自動車の燃料にすると言う時にも、ガスのままでは十分に積むことが出来ない。そこで液化という方法がものを言うのである。弁証法という科学は、音をそのままでは缶詰にして保存出来ないとか、ガスをそのままでは輸送したり積み込んだり出来ないとか言う時に、「それを異なったあり方に一度転換してから処理し、あとでまた元のあり方に再転換する方法」を考えろと、基本的な発想法を教えてくれるところに実践的な有効性がある。だから「否定の否定」の法則を暗記した哲学者が、我こそマルクス主義者なりとふんぞり返っていたところで、ディスクやテープに録音再生する装置を設計するとか、ガスを液化して輸送する設備や器具を考案するとか、実践的に「否定の否定」を実現する能力を持っていなければ、具体的な問題の解決には役立たない。」


抽象というのは、具体から引き出されるものであるが、その過程を正しく捉えることが出来れば、それをまた具体におろしていくことが出来る。そして、それこそが応用問題を解くと言うことになる。基本的な発想を身につけている人が、正しく現実に応用が出来るというのは、抽象の過程を正しく捉えているからなのである。

具体的な存在を目の前にして、それを抽象した法則を、言葉として暗記したとしても、それはその対象以外には全く使えない発想になる。それは、法則の構造を理解しているのではなく、結果としての抽象的な言葉の表現を覚えているだけだからだ。批判の方向がおかしいと思えるのは、このように、正しい抽象を知らないことから来ることもあるのではないかと思う。本来法則を当てはめるべき構造に気づかず、形だけが似ている、全く違う構造を持ったところに法則を押しつけている場合がある。三浦さんが批判する構造主義者に共通しているところではないかと思う。

三浦さんは、この次に構造主義の流行について触れているが、この流行と言うことが実は構造主義にとっては不幸なことだったのではないかと僕は感じる。流行だったと言うことは、猫も杓子も構造主義にかぶれて、その水準を著しく下げるという結果になっただろうと思う。本来なら構造主義とは呼べるようなものではない水準のものまでも構造主義になってしまったのではないだろうか。流行するものには、眉につばをつけて注意していかなければならないのではないかと思う。

最後にルフェーブルの次の言葉


「確かにマルクスの言う「人間はその歴史の流れの中で労働によって作られた」というのは認めることが出来ますが、しかし「労働のために」というのは保留したくなります。人間は労働のために作られたので、レジャーのためではないなどとは、今日本当に仕事に熱心な労働者か、熱心な労働の擁護者でもなければ考えられません。ここでは明らかに、イデオロギー的な要素がマルクスの中に出てきているのです。たとえある人々が、相変わらず人間は労働により労働のために作られていると言い続けようとも、私はこういうイデオロギー的なごまかしを弾劾します。」
(2月7日東京日仏会館での講演から)


に対する三浦さんの批判を紹介しよう。これが僕の目にとまったのは、内田さんが語る「仕事」というものに対して、それが尊いものであり、人間の本質として仕事をせずにはいられないと言うような表現に対し、滅私奉公を肯定するようなイデオロギーであるというような批判があったことを思い出したからだ。ルフェーブルの言い方は同じような構造を持っているものと思われる。

三浦さんは、ルフェーブルの勘違いを、まずは「労働」という言葉の意味の勘違いとして指摘している。僕が、内田さんの「仕事」という言葉の批判を読んだ時も同じように意味が違うのだと感じたが、ルフェーブルが批判している「労働」という言葉の意味と、三浦さんが使う、つまりマルクス=エンゲルスが使う「労働」という言葉の意味が違うというのだ。

三浦さんは次のような指摘をする。


「女子工員が工場でラジオを組み立てるのは労働だが、アマチュアが組み立てに徹夜するのは労働ではないと、ルフェーブルは言うのか?個人タクシーの運転手がお客を乗せて車を走らせるのは労働だが、彼が休日に妻子を乗せて温泉へ車を走らせるのは労働ではないと、ルフェーブルは言うのか?レジャーを楽しむとは、自ら進んで満足感を得るために労働すること以外の何ものでもない。」


内田さんを批判した人は、仕事というのは苦役以外の何ものでもないというイメージを持っているように感じたが、果たしてそうだろうか。それが、仕事の定義として本当にふさわしいものだろうか。三浦さんは、ルフェーブルを批判して次のように語る。


「もしルフェーブルをしばって転がしておけば、体を動かさずにはいられなくなって、解いてくれと悲鳴を上げるだろう。独房にぶち込んで何もせずに横になっていろと言えば、1日2日とたつうちに耐えられなくなって、何か仕事をさせろと悲鳴を上げるだろう。彼はそれによって、人間は労働するように出来ているという主張の正しさを実証する。もっともマルクスにとって、そんなことは自明の事実であった。人間は動物と違って自然が与えてくれるものを受け取るだけでなく、自然に働きかけて生活資料を生産し、この使用あるいは消費によって間接に生活そのものを生産している。だから生活を維持していくには生産資料を再生産しなければならない。人間は自然に能動的に、労働によって働きかけるよう作られている存在なのである。」


ここにこそ、抽象された対象としての「労働」という言葉の定義を見出さなければならないのではないか。マルクスが使った「労働」は、このように抽象された対象を指す言葉なのではないのか。三浦さんは、ルフェーブルの間違いの本当の原因を次のように語っている。


「ところでこのルフェーブルの「批判」の論理は、現在の労働者が職場で強制されている苦役、すなわち特殊な労働のあり方を、そのまま人間の労働一般についてのマルクスの規定に当てはめた、不当な度はずれなやり方である。」


一般性を語る抽象的な文脈で、現実の特殊性を持った意味を言葉に与えるのは、特殊性を普遍性と取り違える間違いである。労働や仕事を苦役としてしかイメージ出来ないのは、現実を語ることしかできないことを物語っている。その現実を抽象して、科学として対象を捉えるという抽象的な思考が出来ないと言うことを物語っている。

内田さんの「2005年05月19日 資本主義の黄昏」と言うエントリーに書かれた、


「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」

「仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。」

「賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。」


と言う一連の言葉は、すこぶる評判が悪かった。ルフェーブルが非難したように、「イデオロギー的なごまかし」と受け取られたようだ。しかし、ここには三浦さんが分析したのと同じ構造が存在するだろう。ここに現れた「仕事」という言葉は、現実の苦役のような特殊な「仕事」を指しているのではなく、人間が行う、「「人間性」を定義する」抽象的な意味での「仕事」なのである。そう受け取って読めば、この言説は、抽象的な観点から現実を適切に記述した言葉になると受け取れるのではないだろうか。

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この記事へのコメント
数学snobさんへ

気を悪くしているということはありません。むしろ、自分の言葉を反省するいいきっかけだと思っています。自分では当たり前だと思うことを反省するというのはなかなか難しいものです。その当たり前を反省させてくれるものとして受け取っています。

当たり前を説明するのはかなり難しいものですが、「それは当たり前だ」としか言えないようでは、本当の意味では当たり前ではないと思います。数学の証明に良く「自明」という言葉を見ましたが、たとえよく知った人には「自明」でも、自分がそれを証明できないときは、決して自分にとっては「自明」にはならないということを若いころは良く経験したものです。
Posted by 秀 at 2005年06月16日 08:21
先生、いつも丁寧な説明をいただきありがとうございます。正直、無茶なことを言い過ぎたかなと反省もしていまして、もしお気を悪くなされるようなことがありましたら申し訳ありませんでした。先生の言葉をよく考えて見ます。ありがとうございました。
Posted by 数学snob at 2005年06月15日 22:17
数学snobさんへ

僕のイメージでは、本質は現象の中に求めるもので、本性は存在の中に求めるものという感じがします。

現象というのは、存在と存在との関係という形で現れます。ここに法則という認識も生まれますが、法則は、関係を表現していればよいので、本質的ではなくても現象を説明していれば法則になります。天動説のようなものだと思います。

この本質が解明されると、その観点から存在の本性も分かるのではないかと思います。万有引力の法則という本質が解明されると、運動する物質という観点からは、物質の本性は質量と加速度(あるいは位置情報)という属性であると言うことが分かるのではないかと思います。

「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」が本質的な法則なのかどうかという問題かな、という感じでしょうか。
Posted by 秀 at 2005年06月13日 08:58
数学snobさんへ

「人間の本質は問う必要はない。ただ、その本性として「働く」のだ。」という言葉については、上との関連から考えると、人間という存在に対しては、その本質を「問う必要がない」と受け止めるよりも、存在を考えてしまうとあまりにも考察の範囲が広いので答が求められない、つまり「問うことに積極的な意味がない場合が多い」と僕は考えます。

存在ではなく、「生活の再生産」と三浦さんが呼んでいる現象の本質を問うと、そこに「労働」という人間の本性を見ることが出来ると言うことなのではないかと思います。

人間を存在ではなく、現象の集まりとしてイメージすると、多くの本質を解明してその共通項を求めたあとで、人間そのものの本質というものが見えてくるのではないでしょうか。
Posted by 秀 at 2005年06月13日 08:44
数学snobさんへ

「物質あるいは万有引力の本質は問う必要はない。ただ、物質はその本性として万有引力を有している。」という言葉は、僕は次のように解釈します。

万有引力という概念は、ニュートンが作り出したものであり、定義の中にその本質が込められているので問う必要がないのではないかと。実話ではないと言われていますが、リンゴが落ちるのを見て発見されたと言われている万有引力は、落ちるという現象の中にある本質を問うことによって得られたのではないかと思います。

つまり、本質を問うのはいつも現象の方ではないかと思います。落ちるという現象の中に、万有引力という本性を見ることが、その現象の本質ではないかと、僕はそういうふうにこの言葉を理解したいと思います。
Posted by 秀 at 2005年06月13日 08:32
数学snobさんへ

「傾向」という言葉は、量的な大小関係を、数字として正確に言い表せない時、質的な違いを説明する時に使うような気がします。「ピーマンを買う以上に野菜を買ってしまう傾向」は、統計調査をしても、それがいつも何%になるかと言うことは断定出来ません。正確に数字で表すことが出来ないので、傾向という言葉を使わざるを得ないのではないでしょうか。

「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう」というのは、「ほうっておく」と言うことが、現実には実験をして統計データを出すと言うことも出来ません。正確に数字で表すことが出来ません。しかし、人間の本性が「働く」ことにあると考えれば、そこからの推論で、このような傾向が存在するだろうという推測が出来ると思います。この言葉は、その推測を語った言葉のように僕は受け取りました。
Posted by 秀 at 2005年06月13日 08:24
数学snobさんへ

内田さんの言葉、「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」、の中に入っている「賃金」という言葉も、やはり具体的な仕事に対する具体的な賃金という意味ではなく、抽象的な意味での仕事に対する、抽象的な意味での賃金という意味だろうと思います。

「仕事」で表現した一般性と、ここで表現されている「賃金」の一般性が対応していると僕は思います。決して、一般的な意味での仕事に、特殊な具体的な意味の賃金を対応させているのではないと思います。

ここで語られている「賃金」は、すべての具体的な意味の「賃金」に共通する、「労働の対価として払われる」という一般的な意味だけを持った「賃金」という言葉だろうと思います。
Posted by 秀 at 2005年06月13日 08:10
私は最初、本質と本性の違いがよく分かっていませんでした。(勿論、今でも「よく」わかってはいません。)本質から理解しようとすると、人間のすべてがそこから説明され得ると私は思いました。そうするとそれは「すべて」ですから「賃金以上」の「以上」の意味がどうしても掴めなくなってしまいます。そこで理解できない理由をもう一度考えてみたら、やはり「傾向」という言葉に突き当たりました。これは、「本質」を言っているのではなく「法則」ではないかと思いつき、ニュートンのことを思い出したのです。

先生、私の間違いを正してください。
Posted by 数学snob at 2005年06月12日 22:34
内田先生の使われた「傾向」の意味は、ニュートンの言った「…引力とか衝撃とか、中心にむかわせる任意の種類の傾向といった言葉は…」(山本義隆著「磁力と重力の発見3」より)の「傾向」と同じでしょうか。例えば、ビリヤードの玉を別の玉に向かって打った時、玉の視点に立てばお互いに引き合うように見えるでしょう。しかし、万有引力によって、外から加えられた力によって以上にお互いに引き合うということを説明しているのでしょうか。(ただし、この場合無視できるほどに小さいかもしれませんが。私は物理には全く疎いのでよく分かりません。)ニュートンが「物質あるいは万有引力の本質は問う必要はない。ただ、物質はその本性として万有引力を有している。」と考えたように、「人間の本質は問う必要はない。ただ、その本性として「働く」のだ。」と考えた時初めて内田先生の言葉が理解できるような気がします。
Posted by 数学snob at 2005年06月12日 22:01
もうちょっと補足させていただきます。
私は以前のコメントで、「働く」という言葉を使いましたが、これは他者に働きかけるという意味で、「労働」(個別具体的な意味ではなく)、「仕事」を私なりの理解で表現したものですが、その理解の下で
「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」、特に「傾向」という言葉に敏感に反応したのは、ともすれば「ほおっておくとピーマンを買う以上に野菜を買ってしまう傾向」という風に聞こえてしまい、当たり前のことを殊更に言い立てているように感じたからです。「働き」を人間の本性と定義するなら、なぜ特殊性を伴う(と思われる)「賃金」という言葉と併記する必要があるのでしょう。
まだ、一般と特殊の関係を理解し損ねているでしょうか。
それとも別の理解が必要でしょうか。
Posted by 数学snob at 2005年06月12日 11:58
先生、「賃金」をどうのように考えているかを説明するともう一つ分かりやすくなって、理解の溝も埋まるのではないでしょうか。
Posted by 数学snob at 2005年06月12日 10:37