2005年06月27日

現実を正しく捉えた論理は、論理学的に見ても正当なはずである

内田樹さんが「2005年06月26日 対偶と教員評価(のあいだには何の関係もありません)」と言うエントリーで当ブログについて触れてくれた文章があった。対偶というものについて語ったあとに、


「あるいは私は「それと知らずに」数学的に思考しているのかもしれない(「数学屋のメガネ」さんによると、私の推論形式はけっこう数学的検証に耐えるものらしいから。意外にも)」


という文章の中で、触れてもらっていた。このことから、内田さんが僕の文章のいくつかを読んでくれたのだなと言うことが分かる。内田さんに「読んでくれたのですね?」と聞かなくても、

 <文章の内容に言及している> → <文章の内容を知っている、つまり読んだということ>


という推論からそのような判断が出来る。もちろん、文章を読まずに、誰かから聞いただけという可能性がないわけではないが、自分で確認もしないで、ただ聞いただけの情報から判断するほど、内田さんがずさんな判断をするとは思えない。だから、きっと直接読んでくれたのだろう、と僕は確信することが出来る。内田さんに直接聞かなくても、そのように確信出来るところに論理というものを利用する価値がある。

上の推論に対して、僕が内田さんのファンであって、内田さんが僕の文章を読んでくれていたらとても嬉しく思うだろうから、そういう願望が結論に反映しているだけで、少しも論理的ではないという印象を持つ人がいるかもしれない。そう願っているから結論をそうしたいだけだというわけだ。

間違った論理を使う人は、自分が求めたい結論をまず設定して、その結論に都合のいいような前提を探してきて、その前提が成り立つから、結論も正しいのだという「詭弁」に陥るときがある。ここでも話題になった

 <ウナギには戦争をなくす効果がない>

という命題は、ある事実から導かれたものではなく、この結論が正しくなるような前提

 <「すべての」戦争をなくす効果がない「もの」は、「戦争をなくす効果がない」>

を正しいものと設定しなければ、この結論が正しいという推論が出来ない。しかし、この前提には論理的な問題がいくつかある。まず「すべての」戦争と語られている「すべて」が、現実的に把握出来るかどうかという問題だ。「すべて」が把握出来る対象というのは、原理的には、そのすべてを構成するメカニズムが明らかになっている数学的対象についてだけである。だから

 <「すべての」戦争をなくす効果がない>

という判断が、判断として決定可能かという問題がある。また、言葉の定義の問題として、「効果がない」(より本質的には「効果がある」ということ。「効果がない」はその否定)という判断が明確に定義出来るかという問題もある。これは、「効果がある」という判断が個別的にしかできない判断であって、「すべて」を対象にした判断にはなり得ないという感じが僕にはする。

このような問題を無視して、上の命題を単に集合に関する命題と捉えたらどうなるか。それは次のようなものになる。

 <すべてのxが集合Aに属するならば、そのxは集合Aに属する>

これは、集合の包含関係は、自分自身を含むとも言えるという包含関係の定義のようなものとして捉えることが出来る。つまり、形式からいうと<A→A>というような、形式論理的なトートロジーだと解釈することが出来る。

数学の世界でトートロジーだから、現実世界でもトートロジーのはずだ、と思いたくなるだろうが、世界が違えば論理が違うといういうのがより厳密な論理学なのである。現実世界では、この集合A自体が明確に決定出来ない場合がある。つまり、前提になる部分の、xがAに属するという判断が出来ない(属するか属さないかが決定出来ない)場合がある。その場合は、この論理を現実に適用するということが論理の間違いなのである。「ウナギ」を巡る問題は、まさにそのような問題だった。

僕の推論も、結論が僕を喜ばせるものなので、僕の思い込みだという可能性を否定出来ない。もっとも、そうだと言い切るには、それなりの証明が必要なのだが。単にそう感じるというだけでは、これまた論理的な批判ではない。そこで、僕を喜ばせる結論を否定して、その対偶を取ってみようと思う。


 <(内田さんが)僕の文章の内容を知らない、つまり読んでいない>
    ↓
 <(内田さんは)僕の文章に言及することが出来ない>


この推論は、「人間は、自分の知らないことについて語ることは出来ない」という一般的な命題を根拠において推論が成り立っている。この一般的な判断を認めてくれるなら、この推論も認めざるを得ないだろうと思う。そして、ここにはもはや僕の願望は含まれていない。むしろ、願望と反対の命題が現れている。何しろ結論の否定なのだから。

これは、僕が示したい仮言命題の対偶に当たるものだ。この対偶が正しいと確信出来れば、僕が示したい仮言命題の正しさも同時に示せることになる。こちらを示す方が現実的にはわかりやすそうだ。自分の願望に流されているという批判も避けることができる。対偶を用いるというのは、このように、直接的に証明することに難しさがあるときに使われるのではないかと思う。

内田さんが対偶を使って推論を進めるというときも、結論自体が内田さんにとっては都合のいいものに見える場合が多いのではないだろうか。その時に、もし都合の悪い結論であった場合にも、正当な反論が出来れば、都合の良さで結論を選んだのではないということが示せる。そんな感じがする。

僕が内田さんの推論を、論理的に考えて正当だと感じるのは、かなり単純な理由から帰結されたものだ。それは、内田さんが語る論理が、現実を正しく把握し、現実を正しく解釈し、そこから導かれる結論が、現実の本質をつかんでいて、それによって未来が予測出来るときなどは、おそらく正しい予測につながっているだろうと感じるからだ。つまり、内田さんは、非常にすぐれた仕事をしているので、すぐれた仕事には、当然正当な論理が含まれていると期待出来るのだと思っている。

もし、その仕事がすぐれているにもかかわらず、論理的には正当でないということが証明されるようなことがあれば、論理そのものが、実は現実を正しく捉えることが出来ていない論理なのだということを意味するのだと思う。内田さんの仕事を評価している限りでは、僕の論理では内田さんの正当性を証明出来る、そういう関係になっているのだと思う。

僕は、内田さんが書く文章を、現実の世界との対照で、現実を正しく捉えているかどうかを判断し、それが正しいという結論から内田さんを信頼するようになった。あくまでも判断の基準は現実というものにある。現実を正しく捉えている仕事は、論理的に考えても必ず正当性がある、と思っている。それが論理なのだという確信だ。

しかし、内田さんの仕事を、現実を正しく捉えていないと感じている人もいるだろう。それは、内田さんとは現実に対する認識が違っているということが原因していることが多いと思う。内田さんが「仕事」というものを語ったときに、現実の仕事というのは、「苦役」となるものの方が多いということで反発している人がかなりいたようだ。

これなどは、現実のとらえ方の違いから、内田さんの論理に反対するものだろう。僕は、内田さんが語る「仕事」を、現実に存在する具体的な「仕事」のどれかを指して語ったのではなく、多くの「仕事」という対象を抽象して、一つの抽象として、「仕事」の本質を取り出して、その「仕事」について語ったものとして受け取った。そういう受け取り方をしたので、内田さんが語る「仕事」についての文章は、正当なものだという判断をした。

僕は、一応論理を専門にして、ある程度論理操作の技術も身につけていると思っている。そういう人間は、いつも論理的に正しく思考するかというと、そうとは限らない。人間の思考は、常に論理的に働くものではなく、感情に左右されることもあるからだ。

論理を知っている、あるいは理解しているというのは、提出された言説(命題)に対して、そこに含まれている論理を分析して判断する技術を持っているということだ。だから、他人の論理を理解するという点では、論理を知らない人よりも、深く正確に理解出来ると思っている。

自分で思考を進めるときは、論理の他にも、その対象に対する深い知識というものがなければならない。あらゆる角度から思考を展開するために、知ることの出来る限りの知識を持っていることが大切だ。だから、僕は、自分が知らないことを論じているときは、もっとも信頼がおける人の言うことに耳を傾ける。そして、そのことに深い関心を抱いたら、より深い知識を求めて、今度は自分自身で論じることの出来るレベルにまでいきたいと思う。

そういう、知識が向かう方向を示してくれる、信頼のおける人間の一人として僕は内田さんを尊敬している。でも、こんな風に支持していたり尊敬しているということを言うと、僕のことを、「内田さんが語ると言うことだけで、現実の判断をせずに、妄信しているのだろう」と勘違いする人も出てくる。いつになったら、そういう勘違いではない、本当の意味での議論が出来るようになるだろうか、と思う。今のインターネットでの議論を見ていると、勘違いを脱してそういう水準に達しているものを見るのが極めて少ない。これは、日本の論理教育の貧困さの表れなのだろうか。

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