知識の伝達と理解の伝達
内田さんの
「2005年06月28日 「ここにいるはずのないやつ」と教師の要らないゼミについて」というエントリーの中に、また自分と同じような問題意識を見ることが出来た。それは、後半部分の「教師の要らないゼミについて」語る部分で、この部分の解釈が、教育を考察するときに僕の今までの経験から得られたものとかなり一致するのを感じる。
まずは、次の認識に大きな共感を感じる。
「教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。」
宮台真司氏が、自ら麻布中学で受けた数学教育のエピソードを語っていたが、授業の最初で、数学の教師からは、「考えるな、すべて記憶しろ」ということを言われたそうだ。中学・高校の教科書で語られている数学などは、すでに完成された知識であって、それを自分で考えるなどは出来るはずがないから、完成されたものをすべて覚えろと言うのが数学教師の考えだったようだ。
これは一つの知見ではあるだろう。思考力は必要ない、知識さえあればいいのだという価値観であれば、このような主張も頷ける。受験の評価が、思考力ではなくて知識のみにあるのであれば、このような方向もある意味では合理的なものである。驚くべきことは、このような教育を受けながらも、宮台氏のような非常にすぐれた論理能力(思考力)が育つという現実だ。おそらく、これは教育と言うよりも素質に負うところが大きいのだろうと思うが。
東大受験が目的にならないような大衆教育では、このような極端な知識(記憶)教育は、あまり効果がないのはすぐ分かる。しかし、数学教育においては、知識においても技術においても、中高生レベルであれば、教員の方が遙かに高いものを持っている。だから、よほど注意深くしていないと、「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」という方向に流れていく。
このような流れに一石を投じたのが、数学教育協議会を率いた遠山啓先生だった。遠山先生は、数学教育を知識の伝達ではなく、理解の伝達にしようとした最初の人だったのではないかと僕は思っている。水道方式というすぐれた筆算の教育の体系は、筆算を、単なるアルゴリズムの記憶ではなくて、数の持っている10進法の構造を理解することから導くという画期的な方法だったと思う。
遠山先生に言わせると、数学教育の初歩の段階での素朴な疑問というのは、完全に答えようとしたらこれほど難しいものはないということだ。マイナスとマイナスをかけたらプラスになるということを、本当に説得的に伝えるのは非常に難しい。だから、これは覚えておけ、と言うことになりかねない。
実際には、このことを覚えておくだけでも役に立つし、計算をしていくことに支障がない。だから、人はいつしか、「こんなことは当たり前だ」という感覚になって、このことがなぜ正しいのかという疑問を忘れてしまう。しかし、このようになっていくと、教育の中で「理解」という面はどんどん後退していき、「知識」という面が肥大していくことになる。
しかし、知らない知識をただ知識として受け取るだけのものが教育であるならば、極端なことを言えば教師はいらないと思う。どこかにデータベースがあって、そこに自由にアクセスさえ出来れば、知識などはいくらでも手に入る。知識の伝達だけが教育なら、学校などいらないだろうと思う。教師という人間から、いかにして理解の過程を学び取るかが、教育の本来の意味ではないのだろうか。そんな問題意識で、上の文に続く内田さんの次の文章
「しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。」
を読むと、ここで語られている解釈が、僕がすぐれた教育として学んできた仮説実験授業の方法に近いものを感じた。水道方式は、数の構造の理解という面ではすぐれていたが、それはすでに完成されたものの構造を理解しやすいように構成しなおしているという感じで、自ら主体的に構成までも担っているという感じはしない。それは、数の歴史は数千年の年月を経ているので、それを個人の経験や能力だけで発見するというのは難しいからだろう。
これに比べると、仮説実験授業の方は、その時に個人が所有している知識や技術の範囲内で、問題を考えることが出来るような適度な難しさの問題を設定する。だから、ここでは理解の方向を、あらかじめ提示された構造として、それに従って進むのではなく、自分の考えで主体的に試行錯誤をしながら進んでいくことになる。これは、物事の理解を、もっと積極的に押し進めていく「思考」を育てる教育になっていると僕は思っている。
仮説実験授業では、教師の役割は、ランダムに流れる生徒の思考の流れを適切に位置づけるという調整役になっている。新しい知識を教えたり、思考の方向を示すことは慎重に避けると言うことがなされている。内田さんのように、「教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると」、このように慎重に避けなくとも、避けたときと同じような結果になるだろう。
かくして、このような方法によって、生徒は自主的に自由に思考を展開させるという経験をすることが出来る。この経験が、他の物事を考えるときも、正しく思考を進める方法というものを教えてくれることになる。
仮説実験授業は、確か成城学園という私立の小学校からスタートしたと覚えている。成城学園は、宮台氏がいた麻布のような極端なエリート校ではなく、かといって公立学校のような純粋な大衆教育の場でもない。ある程度先進的ではありながら、知識に偏重したエリート教育ではないというところで、このような教育がスタートしたというのはなかなか面白い偶然だと思う。
内田さんのゼミでは、そこで行われる議論で「あくまでテンポラリーな正解者」が決定すると考えているようだ。それぞれの主張は、平等な「仮説」というものであって、どれが正しいかは簡単に決定出来ないからだ。だから、多くの支持を集めたものが、とりあえずは説得力があるということで「あくまでテンポラリーな正解者」と言うことになる。ここまでは、仮説実験授業の流れと全く同じだ。
仮説実験授業でも、ある問題が提出されたときに、それは実験の結果を予想するものなのであるが、実験をする前にそれがどうなるか主張するのでどれが正しいかは議論の段階では分からない。いずれも平等な「仮説」となるのである。そして、どの「仮説」がもっとも支持を集めるかを確かめながら議論をする。時々、どの仮説を支持するかというのを集計するのである。
内田さんのゼミと仮説実験授業が違うのは、この仮説の正否を仮説実験授業では実験によって決着させるところだ。それは、教師が教えるから正しいのではなく、権威ある書物に書いてあるから正しいのでもなく、目の前の事実として、自分で確かめることが出来るから、どれが正しいかを納得せざるを得ないという形で決着させる。
内田さんのゼミでは、あらかじめ解答が決まっているとは限らない問題を議論するので、このような決着をすることは出来ないだろう。幸運にも解答が得られる場合もあるかも知れないが、多くの場合は、現段階では、このような見通しがもっとも確からしいという結論しか得られないだろう。
それに対して、仮説実験授業では、すでに科学史の中では決着がついている問題を扱う。だから、教師はその正しい解答にうっかり誘導しないように気をつけるために討論に参加することはない。あくまでも調整役に徹する。しかし、教育の構造としては全く重なるように見える。仮説実験授業によって育つのは、主体的にものを考えるという能力だ。それは、たとえ間違いに陥ることがあっても、その間違いを反省して、間違いからでも学び取ることが出来るという能力が育つことになる。内田さんは、そのゼミで育つ学生の能力について次のように語っている。
「現に、三ヶ月前はごく平均的日本人のレベルにあったゼミ生たちの中国リテラシーは見違えるように向上し、「華夷思想が清末の洋務運動に与えた影響はそういうんじゃないと思う」とか「愛国主義教育によって江沢民の党内基盤は強化されたんだろうか?」とか「改革・開放路線と毛沢東思想のフリクションはどうやって思想的整合性を獲得するかな」というようなぐっとコアな質疑応答が飛び交うようになった。」
これは、内田さんのひいき目ではなく、仮説実験授業を通じて思考力を伸ばしている子供たちを知っている僕は、同じ構造を持っている教育なら、そのような能力が伸びて当然だろうと感じる。だから、このような経験から得られた内田さんの次の見解は、僕は全く同意する。問題意識がぴったり重なって、結論も同じものだというのを感じるのだ。
「ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。」
仮説実験授業は、教員をすぐれたレフェリーにする訓練にもなっている。仮説実験授業を通じて子供たちがどれほど多くのものを学ぶかは計り知れないものがある。道徳性が伸びるのも僕は感じる。それは、論理的に正しいという整合的な判断能力が伸びるせいだと思う。合理的な判断が出来る人間は、道徳を考えるときも正しい判断をする。
そして、内田さんが最後に語っている言葉にも、僕は全く同感だというのを感じる。「知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている」学生は、おそらく知識だけが肥大している<知識オタク>のような学生になるだろうと思う。<知識オタク>に出来るのは、末梢的な部分での勘違いを、重箱の隅を突っつくようにあげつらうことが出来るだけだ。それが、理論全体でどのような意味を持っているかという位置づけの問題は、そもそも考えたこともないだろうから、全く分からないだろう。
この<知識オタク>がすべて正しい知識を持っていればまだ救われるが、ソースになるような知識がずさんなものだったら、そもそもその知識そのものがデタラメだという可能性もある。しかし、<知識オタク>にそれを検証することは出来ないだろう。検証するには、知識ではなく、合理的思考という「理解」が必要だからだ。
宮台真司氏は、知識の量も、一定の量を超える膨大なものになれば、ほとんど思考がなくても知識だけで大部分の問題が解決出来ると豪語していた。宮台氏ほどの博覧強記であればそれが可能かも知れない。これは、知識と思考力との「量質転化」の問題として面白いと思う。しかし、宮台氏ほどの膨大な知識を持っていなければ、やはり思考力を育てた方がいいだろう。
それは、宮台氏が習った数学教師が言うように、「普通の人間には出来ない」ことではないと思う。仮説実験授業が、それが可能であることを十分示していると思う。宮台氏ほどのすぐれた論理能力を持たず、膨大な記憶力だけで、現実に対して正しい判断をする人間がいたら、「知識の量も、一定の量を超える膨大なものになれば、ほとんど思考がなくても知識だけで大部分の問題が解決出来る」かどうか検証出来るのだろうか。でも、そういう人間って、どこかにいるのかなあ?
Posted by khideaki at 09:26│
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