2005年07月07日

人間性というものについて考える

内田樹さんが「2005年07月06日 微熱の中で」と言うエントリーで「研究者としての適性」について語っている。これは、一言でいえば「開放性」ということだと言う。「開放性」を言い換えると、「外部に向けて開かれていること」ということになるらしい。この抽象はなかなか難しい。この抽象は、「研究者としての適性」と「社会人としての適性」を同じものにする抽象だともいう。つまり、より広い「人間性」の本質を語っているものではないかとも思う。

「開放性」という言葉で、内田さんが何を言わんとしているかを考えてみたいと思う。この抽象のイメージを具体化するものは、その反対である「閉鎖性」としてまず語られている。「幼児的で、粘着的で、閉鎖的である」学者は「研究者としての適性」がないという判断だ。「開放性」はなかなか具体的イメージを浮かべるのが難しいが、この3つは具体的なイメージが浮かんでくる。
内田さんは、このイメージを「ろくでもない学者」と結びつけて語っているが、僕も「ろくでもない教師」を具体的に知っているので、そのイメージでこの言葉が理解出来る気がする。ろくでもない人間も、そこに共通の特質を持っていて、かなり抽象的に捉えられるという感じだ。

教師における「幼児性」を感じるのは、物事を相対化して見ることが出来ないと感じるときだ。大人というのは、原則を持ちながらも、その原則がいつも正しいとは限らないという相対化した視点を持って、臨機応変に現実に対処出来る人間のことをいう。自分の経験では、このような場合にはいつもこうしていた、ということしか言えない教師はかなりの幼児性を残しているものと僕は思う。

僕は、かつて女子生徒のスカートの長さを物差しで測っていたときに、「スカートの長さが、どうして問題になるのか」と生徒から聞かれたら、それにはマトモには答えられないなと、いつも感じていた。それに対して、本気で<スカートの長さ>と<問題行動(=非行)>が関係があると信じている教師は、かなりの幼児性を感じたものだ。そんなものに本当の因果関係はないのだけれど、そうすることがある種の免罪符になるからやっているだけと受け止めるのが大人の受け止め方だと思っていた。

幼児というのは、自分の狭い世界での経験が世界のすべてだと思い込む傾向がある。より広い視野が持てないのがその特徴だ。物事を相対的に見ることが出来ない。だんだんと相対的に見ることが出来るようになることが大人になっていくことだろうと僕は思う。

第2の特質の「粘着的」というのも、幼児性から導かれてくるようなものかも知れない。他が見えていない幼児にとっては、自分が見ているものだけに執着するという傾向が出てくるだろう。それが「粘着的」という特質をもたらす。

僕のいた学校では、スカートの長さは、床上30センチという規定があった。当時は、長いスカートが<不良>のイメージだったのだ。時代は変わるものだなと思う。「粘着的」になると、この長さにこだわる。1センチでも違反していると、これはたいへんなことだと思い込むわけだ。しかし、女子生徒の中には、大きな子もいれば小さい子もいる。一律に30センチという規定をすることの方が実はおかしいわけだ。

このときの1センチなどは、実は<誤差>の範囲に入るもので、そんなものは臨機応変に対処すればいいのである。実際には物差しで測る必要もない。見るからに長いというのは、それこそ見れば分かるのである。若かった僕は、このばかばかしい行為に真っ向から反対するだけの勇気はなかったので、物差しで正確に測るという行為にだけは抵抗した。物差しの目盛りなんか見ずに、見るからに長く見えるという生徒にだけ忠告をするという感じで処理をした。しかし、あくまでも30センチにこだわるような人がいると、こういうのは「ろくでもない教師」だと思ったものだ。

最後の「閉鎖的」という特質に関しては、世間の常識というものが、学校の常識と食い違うときに、<ここは学校という特殊な世界だ>という認識で、すべてを処理してしまおうとする傾向が、「閉鎖的」につながるものだと思う。

スカートの長さなどというものは、本来は個人の趣味の問題であり、他人が見てそれが気分を害するからといって、強制的に押しつけられるものではない、というのが近代民主主義の流れだと思う。それを、押しつけて平気でいられる学校というところは、実は近代化されていないということを示しているとも言える。

学校というところが、近代化されていない、子供を収容して矯正するという収容所だという認識なら、このような押しつけをすることも理解出来る。教師は、教育者ではなくて、収容所の監視なのである。ヨーロッパの学校は長い間このようなイメージだったらしい。映画「制服の処女」で描かれた学校も、マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」で主人公のジャックが入れられた学校も、まさに収容所と呼ぶにふさわしい学校だった。

しかし、日本社会は、建前上は近代民主主義になり、学校は教育の場であるということになっている。収容所であるのなら、えらそうに教育を語ってはいけないのだと思う。実態は収容所であるのに、えらそうに教育を語るところに、<学校は特別なところ>という「閉鎖的」な意識があるのだろうと思う。それに気づかないのは「幼児性」だ。

このように、「ろくでもない」人間性についてはたくさんイメージが浮かんできて、よく分かる。「ろくでもない」人間性の持ち主は、その職業にかかわらず、周りの人間をうんざりさせる。教師に限らず、会議において、決まったことを蒸し返してあくまでも自分の主張にこだわる「粘着性」をもっている人間は困るだろうと思う。臨機応変に現実を受け止めて、それに対処する能力を持たない子供と一緒に仕事をするのはとても疲れる。

こういう「ろくでもない」ことに関する言説だけだと、何か愚痴を言っているようにも聞こえてしまうが、内田さんが指摘する次の事柄は、このエントリーを単なる愚痴ではなくて、<人間性>というものを捉えるときの判断基準を教えてくれるものとして貴重なものだと思う。引用しておこう。


「大学院の面接も、学生の社会的成熟度を見るという点では、就職試験と少しも変わらない。
私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。
「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。
学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。
だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。
見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
もしその学生が中学生・高校生のときに設定した知的枠組みを少しも壊されることなしに、無傷で大学四年間を過ごしてきたとしたら、そのような学生はどのような種類の仕事であれ(ビジネスであれ、学問研究であれ)適性を欠いている。」


ちょっと長い引用だが、そのいわんとしていることを正確に受け取るには、抽象的な一言だけではなく、それをイメージ出来る言葉も必要だと思い、長い引用をしてみた。

内田さんがいっていることを、僕の言葉で言い換えると、<人間性>にとって必要なのは知識ではなく、どのような学び方をしたかという理解の問題なのだということになるだろうか。

知識や技能というのは、必要があれば身に付くというのが僕の基本的な考え方だ。もし、主観的にはどれほど努力しているように見えようとも、全く知識や技能も身に付いていないのなら、その知識や技能は、実はその人にとっては全く必要のないものなのである。

僕は外国語会話というものが出来ないが、今のところその必要性を感じないので、出来ないこと自体には何も困ったという思いはわいてこない。たぶん、必要になったら出来るようになるだろうと思っている。

この、<必要になったら、たぶん出来るようになるだろう>ということが、実は学び方や理解という問題につながってくる。学び方が、単に知識というものを脳にため込むというやり方ではなくて、その知識が有機的に結びつくという<理解>を伴う学び方をしている人間なら、必要になったときにほぼ確実に出来るようになる。

そのような資質を持った人間だったら、どのようなビジネスの場面に遭遇しても、それに臨機応変に対処して問題を解決していくことが出来るだろう。そして、このような学び方をしてきた人間が、内田さんがいう「ブレークスルー」を経験した人間になるのではないだろうか。

日本の教育は、長い間命令に忠実に従う真面目な人間を作ることに力を入れてきた。それは、富国強兵というスローガンにはふさわしい教育だったように思う。兵隊というのは、戦況に応じて臨機応変に動いてはならない存在だと思うからだ。たとえ自分は死ぬことになろうとも、その犠牲を見込んで立てた作戦に忠実に従ってもらわないと戦争というものは戦えない。

しかし、日本は敗戦によって、軍国主義の道から近代民主主義の道へと転換した。もはや忠実に命令に従う有能な兵隊を作る必要がなくなったのに、教育は新たな時代にふさわしいものに転換出来なかった。未だに、物事をよく考える理解よりも、物事を覚えていることに価値をおく、忠実に教えられたことを素直に覚えるという道徳面を重視したような教育をしている。

日本社会において、「ろくでもない」人間の方をよく見るのは、この教育が原因していると僕には思えるのだが、教育はなかなか変わらない。敗戦があっても変わらなかった。学校教育に強く影響される優等生は、たいていが「ろくでもない」人間になるのではないかと思う。劣等生であっても、劣等であるという感覚を持ち続けるのは、学校教育に強く影響されていると思う。

「ろくでもない」人間から逃れる道は、学校教育に強く影響されすぎないようにするということではないかと僕は思っている。優等生にも劣等生にもならずに、自分独自の価値観を、社会の中で位置づけられるような相対化が出来るようにすることこそが、「開放的」な特質を身につけることなのではないかと思う。少なくとも、「幼児的」「粘着的」「閉鎖的」という「ろくでもなさ」からは逃れたいものだなと思う。

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この記事へのコメント
Chic Stone さんへ

現在の学校は、ほとんど収容所と同じ機能を持っていると思いますが、大部分の教員は、その自覚がありません。近代民主主義の時代の「教育」をしていると信じている人が大部分だと思います。

近代民主主義以前、例えば軍国主義の時代の日本の教員は、自分が収容所の監視員だという自覚があったと思います。そうでなければ無批判に軍国主義教育を行うことが出来たとは思えないからです。

現代日本社会の教師の不幸は、このような主観と客観の乖離ではないかと僕は感じています。もし、学校が収容所以外のものになれないというのがその運命だったら、僕は、限りなく学校の影響が少なくなるような社会になるといいなと思っています。学校でなくても、いくらでも学ぶ場はある、という社会が来ることを望みます。
Posted by 秀 at 2005年07月07日 23:40
いろいろ面白いご意見でした。スカートの長さを物差しで計られたことがある、というのはすごい経験に思えます。

僕自身は、近代教育は本質的に「軍隊」「工場」に適応した人間を育てるのが目的だと思っています。ゆえに戦後でも高度成長というメリットはあったはずです。
その目的を明白に理解していれば、スカートをなぜ計るのか説明することもできます。その善悪、生徒に納得されるかは別として。

僕は発展的に「収容所でない教育とは(それが現実に機能するのか)」「自分のいるシステムを客観的に理解するには」を考えてみます。
Posted by Chic Stone at 2005年07月07日 19:15