「2005年07月12日 レヴィ・ストロースが考えた<構造>」のコメント欄に<レッテル貼り>に関するコメントがあった。このコメントそのものは、内容に(不当な意味での)差別的なものが含まれているので、いずれ削除しようかと思っているが、<レッテル貼り>に踊らされる人が多いのではないかと思われる状況を感じるので、<レッテル貼り>そのものに関して考えてみるのは有効な結果をもたらすのではないかと思う。
三浦つとむさんが活躍していた時代の左翼陣営というのは、<レッテル貼り>が横行していたようだ。三浦さん自身も、主流となっていたマルクス主義に対して反旗を翻していたので、<修正主義者>というようなレッテルを貼られたようだ。
この<修正主義者>という言葉を、レッテルだと判断するのは、僕はこれが三浦さんを正しく判断した言葉だと思っていないので、<レッテル貼り>だと判断する。もし、これが正しい指摘だったら、<レッテル貼り>だとは思わないだろう。三浦さんは、自分にレッテルを貼ってくる相手に対しては<官許マルクス主義>と呼んで規定していた。これは、僕は正しい指摘だと思うので<レッテル貼り>だとは思わない。<レッテル貼り>かどうかという判断には、その指摘が正しいかどうかと言うことがまず関わってくるのではないかと思う。
その他、正しい指摘が含まれていても、そこに<レッテル貼り>を感じる場合もある。例えば、ゴルゴ13は、非常に<冷静・沈着>な人間であるが、<極悪・非道>な男でもある。これはどちらも正しい認識だと思うが、<冷静・沈着>という形容は<レッテル貼り>には感じないが、<極悪・非道>という形容は<レッテル貼り>のような印象も受ける。これは、同じ属性を、ことさらイメージの悪い方で表現しようとするところに、ある種の<レッテル貼り>を感じると言うところだろうか。
ある人を形容するとき<にぎやかで楽しい>と受け取るか、<うるさくて煩わしい>と受け取るかは大きな違いがあると思う。どちらも、受け取り方という印象としては正しいとしたら、どうして、後者の方は<レッテル貼り>のような感じの印象がするのだろう。
それは、これがそのような受け取り方をした個人の頭の中だけにとどまらず、このような表現をしたことによって、第3者に受け取られると言うことがあるからだろうと思う。この第3者は、実際にその人の実態を見ての印象からイメージを作るのではなく、この言葉の情報からイメージを作り上げる。<うるさくて煩わしい>という言葉からは、悪いイメージが生み出される。
実際には、悪いだけではなくて、欠点のウラに潜んでいる長所が<にぎやかで楽しい>という認識にもつながると思うのだが、<うるさくて煩わしい>という言葉だけしか見ていなければ、そのウラに隠された実態まで想像する人はあまりいない。つまり、一面的な事実だけを全面に広げてしまう間違いが起こるかも知れないところに、これが<レッテル貼り>になるような感じがしてくるのだろう。
実際にこれが<レッテル貼り>になるのは、その判断が一面的なものであり、全面的ではない、あるいはその人の本質ではない、という間違いが明らかになったときに<レッテル貼り>になるだろう。<うるさくて煩わしい>という判断が、その人の本質を突いている形容であったら、これは<レッテル貼り>にはならず、正しい指摘だと言うことになるだろう。いずれにしても、<レッテル貼り>の基礎には、間違った認識があるものだと思う。
マトモにものを考えようとする人間が<レッテル貼り>に注意深くなるのは、それが推論の間違いに結びついてくるからだ。逆に言うと、<レッテル貼り>に鈍感になると推論の間違いがあってもそれに気づかない。
<レッテル貼り>と推論の間違いの関連で思い出すのは、映画「12人の怒れる男」だ。この映画では、誰もが犯人に違いないと思い込んでいた少年に対して、ヘンリー・フォンダ演じる建築家だけが、ただ一人「有罪にする確信がない」という理由で無罪かも知れないという論理を展開していく。
完全に100%ということは現実にはあり得ないが、それに近いくらいの確信を持たなければ有罪の裁定を下してはいけないというのが、近代民主主義の裁判の原則ではないかと思う。疑わしきは被告の利益と言うことだ。疑いだけで裁くことは出来ない。確たる証拠がなければならないという考え方だと思う。
少年は、スラム街で育った札付きの悪党だというレッテルを貼られている。このレッテルが、疑わしさを増幅させて、犯人に違いないという推論を生んでくる。少年に対するレッテルから得られる推論としては、少年の言うことは信じられないという結論だ。だから、対立する証言をする証人が出てきたことをもって、少年はウソをついているという判断をする。
しかし、これは建築家が指摘するように、実はその証人たちだってスラムで育った人間たちという点では同じなのである。同じなのに、なぜ少年の証言はウソであって、証人の証言はウソではないという判断をするのか。それは、誰が語っているかということから判断するものではなく、証言そのものが現実にあり得るかという可能性の検討によって判断すべきものではないか、というのが建築家の論理だった。
誰が語っているかで証言の内容の真実性を判断しようとするのは、レッテル貼りからくる間違いを予想させる。建築家と対立する男が、「あんなヤツは死刑になって当然だ」というような台詞を吐く場面があったが、これこそがレッテル貼りから来る間違った推論だろうと思う。
建築家は、少年に対してレッテル貼りをした思考をせず、目の前に提供された事実を整合的に組み合わせることだけを考えて、それが整合的に解釈出来る解釈を求めた。そして、その解釈からは、少年が犯人であるという確信が持てなかったので無罪という判断をしたのである。もし、レッテル貼りを基礎にしていたら、事実よりも先入観の方が強く作用して、少年が犯人であるという確信が大きくなってしまうだろうと思う。これがレッテル貼りの怖さであり、マトモに考えようとする人間が気をつけるべきことだろうと思う。
この場合の無罪という判断は、少年が犯人ではないという判断ではない。もしかしたら犯人であるかも知れないが、その確信が持てるだけの証拠がなかったということなのである。このとき、犯人かも知れない人間を逃すことに引っかかりを持つ人がいるかもしれないが、近代民主主義というのは、犯人である人間を逃すことよりも、犯人ではない人間を間違って裁くことの方を避けようとするのが本義だと僕は思う。
間違って裁かれる可能性というのは、個人にとっては極めて低い確率であろうが、もしそのような場面に遭遇したら、それで自分の人生が終わってしまうくらいの重大な影響のあるものだ。これは何としても避けて欲しいと僕などは思う。たとえ真犯人を逃すようなことがあっても、間違って裁かれるようなことがあって欲しくないと思う。
<レッテル貼り>の問題から少し話がそれてきたが、<レッテル貼り>が問題なのは、このような重大な間違いにつながりかねないと言うところが問題だと僕は思う。冤罪の多くは、マスコミによる<レッテル貼り>の結果であることが多いのではないかとも思う。
内田樹さんが、
「2005年07月09日 抹茶アイスと餃子」の中で次のように語っている。
「大筋で正しい方向に向かって歩いているなら、多少の紆余曲折はあっても、最終的には「行きたい方向」に向かうことができるというのが私の経験的な確信である。
自分が歩いている方向が「大筋で正しい方向」であるかどうか、その判断に自信があれば、他人から何を言われようと、どんな批判を受けようと、一時的な「向かい風」のようなもので、たいして気にはならない。」
自分が正しいという確信を持っていると、自分に向けられた批判が、単なる<レッテル貼り>だなという判断が出来るときがある。こういうときは、内田さんが言うように、「どんな批判を受けようと、一時的な「向かい風」のようなもので、たいして気にはならない。」という感じになるだろうと思う。
<レッテル貼り>の問題は、それが正しい指摘なのか、間違った指摘の<レッテル貼り>なのかをどう判断するかというのが大事なことなのだろうと思う。それは、たぶん推論を見れば判断出来るだろう。
少年がスラムで育ったことによって「平気でウソをつく人間になった」と推論する人間は、<レッテル貼り>によって目をくらまされる恐れがある。その言葉にウソがあるかどうかを、現実との対応で慎重に判断するという推論をするようになれば、それは<レッテル貼り>にはならない。
その推論が、現実の過程的構造を正しく把握しているかどうかが、<レッテル貼り>かどうかの判断を教えてくれる。そして、<レッテル貼り>の推論であれば、それは「一時的な「向かい風」のようなもの」と受け止めて大して気にしなければいいのだと思う。
実際には<レッテル貼り>かどうかの判断は難しい。しかし、<レッテル貼り>かどうかを疑って推論を追いかけると言うことは、マトモに考えようとする者は忘れてはならないことだろう。その推論におかしな所があると感じたら、これは<レッテル貼り>ではないかという疑いをもって眺めていった方がいいだろう。そういう人間が増えていったら、単純でつまらない<レッテル貼り>はそのうちに淘汰されていくと思う。淘汰されずに残った<レッテル貼り>は、これはかなり高級な<レッテル貼り>になると思うので、その時はきっと論理を学ぶにはいい教材が出来たと喜べるだろう。
コメントしたように、「犯人ではない人間を間違って犯人と見なすこと」は、「犯人である人間を逃すこと」でもありますから、無実の人間を捕らえていいと思っているとすれば、それは八つ当たりであり、自分が不幸だから他人も不幸であって欲しいという感情にすぎません。そのような低劣な感情に考慮すべきではないです。
少なくとも、まともな犯罪被害者なら、「犯人」を捕らえることは望んでも、「犯人のように見える誰か」を捕らえることは望まないでしょう。
冤罪の問題を考える時に忘れてはならないのは、「犯人ではない人間を間違って犯人と見なすこと」は、ほとんどの場合に「犯人である人間を逃すこと」でもあるということです。単なる事故を事件と見なした場合のように、犯罪ではないのに犯罪としたケースを除けば、犯人ではない人間を間違って犯人と見なしているということは、どこかに別の犯人がいるということです。
二重の間違いである「犯人ではない人間を間違って犯人と見なすこと」より、単一の間違いである「犯人である人間を逃すこと」の方がマシだというのは当然のことでしょう。