2005年11月06日

模倣と創造

内田樹さんが「2005年11月04日 オリジナリティについての孔子の教え」というエントリーの中で、著作権というものに触れて面白い文章を書いている。僕も以前から同じようなことを見聞きして、自分でもそう考えていたので大変共感出来る内容だった。

内田さんは、オリジナリティと言うことを、それと対立するコピーという概念と統一して考察している。僕にとってはおなじみの弁証法的考察と言うことになる。オリジナリティは同時にコピーでもあるということは、現実を捉える論理としてはまことに納得がいくものである。内田さんの文章を引用しておこう。


「ここには「オリジナリティとは何か?」という大きな問題が伏在している。
まず前提的なことを申し上げるけれど、繰り返し申し上げている通り、私は「オリジナリティ」とか「コピーライツ」とか「オーサーシップ」ということについては原則的に懐疑的な人間である。
ある意味で私たちが日々作り上げているすべてのものは先行する何かの「コピー」である、というのが私の持論である。」


オリジナルなものというのは、それまでにまったく存在していなかったまったく新しいものではない。人間は無から創造することは出来ない。創造するためには、何らかの材料を持たなければならないが、その材料そのものは自分で作り出すことは出来ない。現実に存在しているものを使って、それを加工することによって創造するという構造になっている。

オリジナリティというのは、常に加工の部分で付け加えられるものなのである。これは、三浦つとむさんなどもそう語っていた。三浦さんの研究というのは、先行者のすぐれた仕事に自分が付け加えた部分が自分のオリジナリティなのだと語っていた。弁証法に関して言えば、マルクスのすぐれた仕事を継承し、対立物の相互浸透の意義に三浦さんなりのオリジナリティを付け加えたのだと僕は思う。言語学に関しては、時枝誠記氏の言語過程説というすぐれた仕事に、その内容面で唯物論的に改作した部分が三浦さんのオリジナルだと、自身も語っていた。

人間は、たとえ天才であっても未熟な時代を経て天才性を発揮するしかないだろう。生まれた瞬間から天才性を発揮したというのは、伝説にはあり得ても現実にはあり得ない。その未熟な時代は、どうしても模倣の時代にならざるを得ない。より優れたものを模倣して、より優れたレベルに到達するのが模倣の時代であり、修業の時代と言うことになる。

創造の基礎に模倣があるということを語っていたのは、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだった。これは、内田さんが語る、オリジナリティというのはある意味で先行する何かのコピーであるということに通じるものだと思う。板倉さんが語っていたことで印象的だったのは、模倣の時代に創造を気取ることの間違いというものもあった。模倣の時代には、模倣にこそ徹底するべきで、模倣に徹底してもなお模倣しきれないところに創造を見出さなければならないと言うことだった。それは模倣によって解決することが出来ない問題にぶつかったときに、もっとも鮮明にその姿を表す。

模倣の時代に創造を気取る人間は、取るに足らない末梢的な部分での創造を取り上げざるを得ない。本質的な部分での創造などは、それこそ最も高い能力を身につけた後にしか行えないものだから、模倣の時代にそんなことが出来るはずがない。それでも想像を気取るとしたら、それはごくつまらないところに創造を見出すしかないだろう。

このあたりのことと同じようなニュアンスを内田さんも語っている。


「逆説的なことであるが、「オリジナル」なものの多くはその初発の形態において「コピー」というかたちを取るのである。
「これはコピーです」という恥じらいをもって提示されるものは「これはオリジナルです」といばって提示されるものよりもほとんどの場合オリジナリティにおいて勝っている。
「オリジナルであろう」とする気負いはその人の蔵する真に前代未聞なるものの湧出を妨げる。むしろ気楽に「これ、コピーです」と言って差し出されるもののうちにしばしば恐るべき「斬新さ」が棲まっているのである。」


ここにも見事な弁証法が見つかる。模倣を意識しているからこそ、真の創造を発見出来るという逆説がここには存在するのだろう。そしてその逆説が現実に存在するという根拠を見出すのが弁証法という思考論理だ。

板倉さんの発想でもう一つ好きなのは、真の創造性を持った天才の天才性を理解すると言うことは、理解した人間の中にも同等の天才性が存在するからだという論理だ。それは、新たな創造という成果はもたらさなかったかも知れないが、天才性の理解という点での創造性を持っていたと考えるのだ。その天才性が成果をもたらすのは偶然の運に恵まれなければならないが、天才性の理解においては、真の創造性を理解しなければ天才性も理解出来ない。

天才性の理解というのは、その人が天才だからという評判だから天才だと思う、ということではない。歴史上天才だと言われている人間を天才だと思い込むのに天才性は必要ない。むしろ、その人間が無名であった時代にその天才性を理解した人間こそが、同等の天才性を持っていると考えることが出来るだろう。

僕は宮台真司氏を天才だと思っているが、世間でもそのように受け取っているのだろうか。僕自身は、世間の評判を知らなかったときに、宮台氏の文章を初めて目にして、その天才性を感じたので、宮台氏が天才だったら、僕自身の中にもそれを感じる天才性と創造性はあるのだなと思っている。今は、宮台氏が有名人であることを知っているので、有名だから天才だと思っていると受け取られるかも知れないが、僕は宮台氏の文章を読むまで、宮台氏のことはまったく知らなかった。

その人が誰を信頼し、誰を評価しているかを知ることで、僕はその人の思考の全体像をイメージする。優れた人を高く評価している人は、その優れた人と同等の資質を持っていると思っていいのだと感じている。僕が評価しているのは、宮台真司氏をはじめ、神保哲生・本多勝一・三浦つとむ・板倉聖宣・佐高信・河合隼雄・鎌田慧・佐藤忠男・千葉敦子・内田樹・小室直樹・松下竜一・等々の各氏だ。この人たちをやはり高く評価している人だったら、僕はその人を信頼するだろうと思う。

さて、楽天広場がブログになる前の、日記を中心としたホームページの時代に、著作権法に関わる言説が広くかわされたことがあった。僕は、この著作権法の論理にかなり懐疑的ではあったのだが、法律に関することがよく分からなかったので議論はしなかった。今、それが下火になってみて、落ち着いて考えることが出来そうなので、著作権法に関する違和感をまとめておこうと思う。

板倉さんは、<知的所有権>という言葉を使っていて、著作権という言葉を使わなかった。<知的所有権>という言葉は僕には良く理解出来る。それは、幸運にも第一発見者、あるいは最初の創造の栄誉を担った人間の名誉や権利を守るという発想だ。それを守ることによって、社会的には創造の価値を高めることが出来、創造を目指す人間たちのモチベーションを高めることが出来ると思う。

この<知的所有権>は、後続者が、それが模倣であるにもかかわらずに創造であることを騙ることを許さないと言うことを基礎にしているように僕は思う。模倣による継承者は、その創造を行った人間の栄誉をたたえ、優れたものを作り出したことに対する感謝の気持ちを込めて、誰が創造した人間であるかを明記する義務があると思うのだ。模倣と創造をハッキリと分けることこそが<知的所有権>を守ることになる。

しかし、著作権というのは、経済的利益の関係を指すものだと僕は思う。創造物を、創造者に無断で使うことによって、経済的利益において創造者に損害をもたらすと言うことが法的に問題になるのだろうと思う。これは<知的所有権>と比べれば、通俗的であり、本物の創造とは本質的な関係のない、いわば末梢的な事柄だと僕は思う。だから、著作権者自身が声をあげるのではなく、第三者的な人間が著作権法を突っついていくことに大きな違和感を持ったのだと思う。

著作権侵害というのは法的な問題であって道徳的な問題ではないと僕は思う。<知的所有権>の問題は、創造者でもないのに創造者を騙るという、嘘をつくというところに道徳的な問題があるが、著作権侵害は、他人の創造物を自分のものだと偽っているのだろうか。それは著作権侵害ではなく「盗作」という<知的所有権>の侵害ではないのだろうか。

楽天広場で指摘されていた著作権侵害は、創造した者はハッキリ分かっているが、それを勝手に使ったと言うところに法律違反があった。だから、そのことによって経済的利益を侵害されたと言うことがハッキリするのなら、経済的利益を守る法律によってそれを訴えることは理屈が通っていると思う。しかし、創造者でない第三者は、どう考えて経済的不利益を被ったとは思えない。著作権を侵害された当事者でないにもかかわらず著作権法に従った指摘をするというのは、道徳的な意図を持っているとしか思えない。しかし、著作権法の問題は、僕には道徳の問題とは思えなかった。これが大いなる違和感の原因だったと分かった。

実際には、経済的利益を増大させるために、あえて著作権を放棄して、勝手に使うことを許すという戦略もあるだろうと思う。ものが売れるためには、まずそれが有名にならなければならない。有名になるために、勝手に使わせるという先行投資をすることは十分考えられることだ。だからこそ著作権の問題は道徳の問題ではないと僕は思うのだ。それは単に経済的な問題に過ぎない。

このような意見を書くと、著作権法という法律を犯すことに罪悪を感じないのか、とか、違法行為を奨励するつもりなのか、と誤解する人もいるかも知れない。そうではなく、必要以上に人を攻撃するような、著作権法を違反した行為が、さも極悪な行為であるかのように非難することが、どうも行き過ぎたことではないかと僕は言いたいだけだ。

著作権法に触れる行為をした人は、それによって金儲けをしようとしている人ばかりではなく、ファンである対象が好きで、ついうっかり著作権のある映像などを使ってしまったという人が大部分だろう。そういう人については、穏やかな注意で知らせるだけでいいのであって、非難する必要はないということだ。

僕は、ついうっかり著作権のある物を使ってしまった人よりも、そのような著作権が存在する物を、簡単に流用出来るネットにばらまいた人間の方が、著作権法に対する責任が大きいと思う。著作権法は、そのような責任の大きさに従った適用が出来るように改善していくべきだろうと思う。そうでなければ、著作権法がどんどん肥大してしまい、本来は著作権を主張するべきでないものまで著作権が主張されるという弊害が出てくるだろう。

内田さんが語っている小説に関する問題もその一つだろうと思う。誰でも考えつくような内容を使ったからと言って、先行する人の模倣だと主張するのは、主張する方が恥ずかしいと僕は思う。

僕は数学をやっているので、抽象を押し進めていけば、すべての数学は集合論になってしまうということが分かる。だからといって、整数論も関数論も幾何学も、それは集合論の模倣だなどとは思わない。構造が同じであっても、抽象のレベルを違うものにすれば、それは新たな数学になるのである。

同じように、一般化されたものとして考えれば、すべてはオリジナルなどなくなってしまうが、一般を離れた抽象されない個別の方にオリジナルを見つければ、すべてはオリジナルなものになる。オリジナルとコピーは、相互に移行し合う対立物の統一なのである。

音楽などは、それが心地よく聞こえる組み合わせは思ったより少ないそうだ。だから、作曲という面ではなかなかオリジナルを発揮するのは難しい。だからこそ、誰でも考えつくようなフレーズは、その著作権を主張する人はいないらしい。著作権法は、肥大化させずに、模倣から生まれる創造の邪魔をしない程度に、経済的利益の調整にとどめておくべきだろうと僕は思う。法的な部分のみにとどめるべきで、これを道徳と絡ませるべきではないと思う。

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