永井俊哉さんが
「システム論研究序説 導入節 システムとは何か 選択機能としてのシステム」で語っていた、「要素を選択する機能」をシステムの定義とする考えを見てみようかと思う。
僕は、システムのイメージを宮台氏の説明で頭に描いていた。それは、部分要素を持った集合体で、その部分の間に「互いの存在の前提を供給する」というループの構造を持ったものとして登場してきた。これは集合体としての実体に構造がプラスされて考えられていると受け取った。実体と機能の両方が統一されているものがシステムという感じがしていた。
単なる部分の寄せ集めではシステムとは言わない。これは両者の定義で同じ面だ。宮台氏の定義は、基礎となる実体と構造を切り離すことなく統一して考え、機能面はむしろ構造から導かれるような定義になっている。それに対して永井さんの定義は、実体と機能を切り離し、システムの本質を機能の方に見て、機能によって、システムであるかないかを判断するという定義になっている。
数学屋としては、機能を分離して考える永井さんの定義の方がイメージしやすいのだが、両者の違いがどこに現れるのか、どちらの方がより基本的な定義になるのかということを考えてみたいと思う。
永井さんは、まず奇数を例にとって、「1,3,5… という数字自体は奇数であって、奇数システムではない」と判断して、「奇数システム」を次のように定義する。
{an odd number = 2x+1, x∈an integral number}
これは表現を変えると
f:n(自然数) → 2n+1(奇数)
という関数だと考えられる。この関数こそがシステムだというのが永井さんの定義だ。これは、宮台氏の定義によるとどのようなシステムだと考えられるだろうか。ちょっと難しい問題に感じる。自然数や奇数というのは、それ自体が互いの存在の前提条件を供給し合っていると解釈することが難しいからだ。
自然数という集合を考えたとき、それを個々の数が要素だと考えると、その構造は大きさの順に並べられるとか言うものになってしまうので、「奇数システム」を考えるときの部分というものは、個々の数そのものではない。むしろ、部分としては奇数と偶数という二つのものに分けられる自然数全体の集合を考えると言うことだろうか。
自然数の集合にそのような構造を与えると、奇数であるということは偶数ではないということになり、互いの存在がその否定になるという前提条件を与える。より詳しい定義を言えば、「2で割り切れる数が偶数」で「2で割り切れない数が奇数」と言うことになる。
自然数という個々の数を持った実体としての集合は、偶数と奇数の部分集合に分割するという構造を与えたとき、「奇数システム」というシステムとして対象になると考えられるだろうか。これは、機能として自然数のすべてを奇数であるか偶数であるかに分ける働きを持っている。しかし、その機能は顕在化しているのではなく、結果として部分が提示されることによって機能が予想されるという関係になっている。
永井さんの定義と宮台氏の定義とでは、システムに対して逆の方向からアプローチしているように感じる。数学屋としては永井さんの方が分かりやすいと感じていた。それは、永井さんがここで語っている内容が、奇数システムという数学を対象にしているからなのだと言うことを感じる。
数学を対象にしていれば、それは数学的手法である関数を出発点にして考えた方が考えやすい。関数のようにすでに抽象されたものを対象に出来るのが数学の利点だが、逆に言うと、具体的な実体から構造を探し出すというのは、数学においてはこちらの方が難しいかも知れない。しかし、宮台氏が考察する社会という対象では、その機能が最初から明らかになっているわけではない。最初に目にするのは、現実の現象だけである。その現象から、隠れた構造を見つけ出さなければならない。抽象的に関数関係があるというだけでは一歩も先に進まなくなる。
このように考えると、永井さんの定義と宮台氏の定義の違いは、その考察する対象の違いが、アプローチの違いとして表れてきたと解釈出来るだろうか。この両者の定義がどちらも同じだということになれば、対象の違いに応じて、ふさわしいアプローチを選ぶことが出来るだろう。果たして、両者は、アプローチの方向が違うだけで、実質的には同じ定義だと言えるものだろうか。
宮台氏によれば、システムにおいてはその要素が互いに互いの前提条件を供給し合うので、その前提が入力になるような関数を考えることが出来る。コミュニケーションを論じたところ(
「連載第五回 社会システムとは何か」)で、コミュニケーションというものを「システム理論では、選択と選択との時間的な接続をコミュニケーションと言います」と定義していた。
ここでは、人間の行動を行為という面で捉えたときに、ある行為から次の行為が導かれることを「コミュニケーション」と呼んで考察していた。その行為の選択の間には関連性があり、まったく無関係な意味のない行為は選ばれないという前提条件を設定していたのだ。これは、行為の集合から行為の集合への関数とも考えられる。
しかし、これは数学的に厳密な意味での関数にはならない可能性がある。数学的には、関数というのは一意に対象が決まらなければならない。ある行為が、次の行為に移るときに複数の選択肢があると厳密な意味では関数にならない。必ず一つの行為につながっていなくては関数として考えることが出来ないのだ。これは、数学が、関数さえも対象にしたことによる制限だろうと思う。何でもかんでも関数にして曖昧にしてしまうと、対象は広がるが、抽象したときに求められる法則が何もなくなってしまうのだ。
これは、数学的には「関係」あるいは「対応」と呼ばれる、関数よりも弱い制限の対象になる。永井氏は、「機能」という言葉を使ったために、数学的には関数をシステムの定義に使わざるを得なくなった感じもする。しかし、関数だけをシステムの定義として採用すると、より広い「対応」の関係にあるものを構造として持つ集合体をシステムとして考えられなくなる。
永井さんの文章は、まだ読み始めただけなので、後半部分でこの定義がより改良されている可能性はあるが、前半部分を読む限りでは、永井さんのシステムの考えはかなり理科系的で数学を典型とした、法則性がハッキリしたものを対象にしているように見える。それに比べて宮台氏の考えは、社会という得体の知れないものを典型的な対象にして、それ故に広い対象を含む定義を設定しているように見える。宮台氏の定義は、永井氏の理科系的な定義を含んで成立すると考えられるので、その意味では宮台氏の定義の方が基礎的だと言えるのだろうか。
永井さんは、ルーマンのシステム論に対して、「彼のシステム論は、当為や社会変革の問題を放棄していること、社会科学に偏りすぎていて、自然科学や哲学や歴史学の分野での展開があまり見られないことなどである」と語っている。この意識が強く出て、ある意味では理科系的な面を強調しているのだろうか。また、理科系的に見えるところが、数学屋としては理解しやすいと感じるところなのかも知れない。宮台氏の説明では、そのイメージがなかなかつかめず、雲をつかむような曖昧模糊としたところがあったが、永井さんの説明は、数学的にすっきりと納得出来るところがある。
永井さんは、関数は一意対応になってしまうのに、現実のシステムではなかなか一意対応にならないところを、システムの曖昧さとしてシステムの属性として捉えているようだ。宮台氏が、一意対応でない、関数よりも広い概念を使ってシステムの機能としていたのとは違うアプローチをここでも感じる。永井さんは
「地平の中間性構造」で次のように語っている。
「複数の部分をどのように配列し、組み立てていくかに関しては複数の可能性がある。その複数の可能的事態の中から一つを選ぶ規定性がシステムである。選択には不確実さが伴う。その不確実さはシステムそのものの不確実性である。我々の認識と存在の地平性とはそのような不確実性のことである。」
選択そのものは関数的に機能として捉えているので、一意対応だ。これは、結果的に一つの選択が選ばれているという現実を見ると、その結果に対しては一意対応だと考えられるような気がする。複数の世界を想像すれば一意対応ではなくなるけれど、複数の世界が並立的に存在することは、我々には確かめられないから、現実には、選ばれる選択は常に一つだ。だから、結果は一意であるとも言える。
しかし、その一意を結果が現れる前に知ることが出来ないと言う不確実性がある。それを元々システムの構造として位置づけているのが宮台氏であり、システムの現実性として一つの属性と捉えているのが永井さんのような気がする。永井さんのシステムは、理想的な抽象の世界では一位対応の関数であるが、現実という条件の中では、一意でない面を見せるものとして偶然性を入れて考察しているように見える。
永井さんのこの部分の議論は、哲学的に展開されてしまうので、数学屋としては急に理解がすっきりしなくなる。むしろ、宮台氏のように、最初から構造の中に組み入れて、哲学的な議論を排除してしまった方がすっきりする。関数として扱うと数学屋にはわかりやすいが、現実との関連を考えると、関数ではあまりに抽象的すぎて、今度は現実との関連を論理的に理解しようとするところに無理が生じるのだろうか。
このあたりの哲学的議論をとばして、具体的なシステムの分析を通じて、システムの概念を理解出来るものかどうか考えてみたい。宮台氏の考察と、どのような違いが出てくるだろうか。宮台氏は、社会学講座の中で、社会学の説明のためにシステムの説明をしているので、システムそのものの説明が主ではなく、あくまでも社会学を理解するための道具としてシステムの概念を説明している。むしろシステムそのものに対して細かい議論を展開しているのは永井さんの方だろう。だからこそ、哲学的にも厳密な議論が展開されているものと思う。しかし、細部にこだわっていると、システムの全体像を見ることに失敗する恐れもあるので、まずは全体像を把握することの方に努力してみたいと思う。システムの全体像は、実体としてつかんだ方が分かりやすいのだろうか、それとも選択機能として理解した方が分かりやすいのだろうか。どちらが自分にとってわかりやすいかという点を意識して考えてみたい。
数学屋のメガネ:機能としてのシステムの定義...
私的実験室【私的実験室】at 2005年12月08日 11:00