2006年03月03日

実無限と可能無限

野矢茂樹さんの『無限論の教室』(講談社現代新書)では、実無限と可能無限が中心的な話題となっている。野矢さんの分身のようなタジマ先生は、実無限に懐疑的で、無限の概念としては可能無限だけを認めるべきだと主張している。

実無限というのは、無限の対象の全体性を把握して、無限が実際に存在しているとする立場だ。可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場だ。

実無限を認めないという立場は、それなりに納得出来るものだ。無限という言葉で呼んではいても、その細部にわたってそれが分かっていないとき、それを果たして「無限」という言葉で呼んでいいものかどうかに疑問を持つというのは正当な疑問のように思える。よく分かっていないものに対して「無限」という判断をするのは、単に名前を付けているだけのような気もする。
例えば、科学者というのは霊というものを認めない。これは追試が出来ない対象だから、存在が証明されたとは考えないのだ。何か得体の知れないものが存在すると言うことには同意する。その得体の知れないものに「霊」という名前を付けたと言うだけのことなら、これ自体は事実でも何でもないただの定義だからいいだろう。しかし、それは得体が知れない「何か」であって、「霊」と呼ばれる実体が存在しているのではないのだ。

「実無限」というものも、何か得体の知れないつかみきれない、限界を持たない存在があることは分かる。しかし、それは得体の知れないものにとりあえず「実無限」という名前を付けただけだ、と考えることも出来る。「実無限」という無限が存在すると結論してはいけないというのが、可能無限しか認めないという立場になるだろうと思う。

可能無限というのは、その細部にわたって把握が出来る無限だ。例えば自然数は可能無限の一つとして考えられる。これは、1からスタートして(野矢さんの本では0からスタートしている。これは理論的には0から始めた方が扱いやすい。しかし「自然」という言葉にこだわるなら、やはり1からスタートした方がいいだろうか。)順に1をプラスしていくという方法で、どこまでも限りなく自然数を作り出していくことが出来る。そして、その作り方だけで生み出されるものに限定して自然数という対象が出来る。

任意の対象が、どのようにして作り出されるかが把握出来ると言うことが可能無限の特徴と言うことになるだろうか。これが実数になると、実数を作り出す方法というものが自然数の方ほどすっきりとは見つからない。無限小数によって実数を作り出すと考えていいような気もするのだが、どうもあまりすっきりしない。

そのすっきりしない感じは、自然数というのは、任意の対象を取ってきたときに、その構成手順というのが有限回で終わることが確認出来るが、無限小数の場合は、手順そのものが無限になってしまい、これが可能であるという確認が出来ないからだ。有限回の手順ならそれが終わることが分かる。しかし、無限の手順によってなされる操作は、それが終わるかどうか分からない。それが「可能」だとは分からなくなる。

可能無限の立場からすると実数全体という無限集合は認めがたいものになる。それが限りがないということでは「無限」だと呼んでもいいだろうが、全体を把握して考察の対象にするのは、その全体像がハッキリしないのであるから論理的には危ないという予想が生まれてくる。いつパラドックスが生まれるか分からないと言うわけだ。

これは数学屋にとってははなはだ困ったことだ。実数の全体を認めてくれないと、実数の連続性も考えることが出来ない。有理数というのは分数の形で表される数のことを言うので、これは自然数と同様に構成的に作り出すことが出来る。有理数全体の集合は可能無限の集合として構成することが出来る。

この有理数の集合を二つに分けて「切断」というものを考える。一方の集合に入る数は、もう一方の集合に入るどの数よりも小さいという性質を持たせて「切断」というものを考える。そうすると、「切断」の仕方によっては有理数には隙間があることが証明される。二つの集合のどちらにも、最大数・最小数が存在しないときがある。この隙間を埋めるものとして、有理数でないもの・すなわち無理数を考えて、有理数と無理数を合わせて実数というものを考える。

無理数というのは、有理数の隙間を埋めるものであるから、実数にはもはや隙間が存在しない。だから実数は連続性を持っていると考えることが出来る。このように考えるのは、数学的には何の問題もないと思えるのだが、ここで考えられた実数は、どのようにして具体化されるかと言うことはまったく分からない。

その数が有理数であることは分数の形になることが分かれば、有限回の手順で判断することが出来る。小数の形にしても、循環する小数であれば有理数であることが分かる。これも有限回の手順で判断出来る。しかし、無理数であることは、循環しない小数であることが示されなければならない。これは無限回の手順を必要とする判断になる。実際には、循環小数になると仮定すると矛盾が生じるという背理法で無理数になることを証明する。だから、無理数の世界は、背理法が使える、矛盾律が成り立つ形式論理の世界でなければならない。

形式論理の世界で、ある数が無理数であることが証明されたとしても、それは、その具体的な対象に対して証明されただけであって、無理数全体というものが把握されたわけではない。ルート2や円周率のパイが無理数であると証明されたからといって、それで無理数の全体が分かったわけではない。それなのに、強引に無理数の全体を対象にして実数という無限集合を対象にするのは、「実無限」の考え方を取っていることを意味する。

実無限の立場を否定すると、実数の集合さえも対象に出来なくなるので、ほとんどの数学が成立しなくなり数学としては本当に困った状態になる。だから、数学屋としては実無限を認めるという立場がどうしても基本的なものになる。しかし、僕はこれはそれほど危険なことではないとも感じている。

数学というのは、現実に存在する具体的なものを対象にしているのではないからだ。その対象は、頭の中で抽象された観念的な存在になっている。だから、「実無限」である実数も、それはあくまでも数学的抽象世界で存在しているものに過ぎないからだ。「実無限」と言っても「現実存在」ではないのである。

数学的世界は、「実無限」が存在する世界として設定しうると僕は思っている。それが何らかのパラドックスと関係してくるときは、その世界にある種の制限を設けて、都合の悪いパラドックスを回避すればいいと思っている。ラッセルが考えたタイプ理論や、公理的集合論はそのような方向での工夫だと思っている。

しかし、現実を対象とする科学が、素朴に「実無限」を設定すると避けられないパラドックスに苦しめられることが起きてくるのではないか。ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスに関しても、どうやら現実の運動に「実無限」を引き込んだために生じたのではないかという感じもしてきた。

ゼノンは、時間と空間の無限分割可能性からパラドックスを導いている。アキレスの前を行く亀に対して、亀が元いた場所にアキレスが到達するという運動が、空間的隔たりと、時間的隔たりを持っていて、追いついたときには亀が少し先にいるということから、無限に分割されると考えるとパラドックスが生じる。

これは、現実の時間において、運動の結果としてアキレスが亀を追い越すことから、最初は時間のパラドックスなのかと感じていたが、時間と関係なく「無限」が持っている概念的なパラドックスになることが野矢さんの本で分かった。空間と時間が無限分割されると考えるのは、その無限分割が全体性として把握出来るという「実無限」の考えになってしまう。

これを論理として考えれば、

  1 アキレスが亀に追いつく
  2 亀が少し前にいる

という行為の繰り返しが存在すると言うことを、可能無限として語っているだけだから、論理的には矛盾はないことになる。しかし、この行為が無限に行われているところが全体として把握されていると考えると困ったことになる。全体として把握されてしまうと、その全体は終わっているものとして掴まれなければならない。それでは、無限に続く最後の行為はいったいいつ行われたのかと言うことが問題になる。

最後の行為がないからこそ可能無限として存在するのに、それを実無限のように全体が把握されたと考えると、最後の行為があったと考えなければならなくなる。ゼノンのパラドックス以上の深刻なパラドックスがここには存在する。ゼノンのパラドックスは、現実に追いつけないという主張は、現実に追いついて追い抜いてしまうことによって否定されるが、最後の行為がないはずなのに、最後の行為があったというパラドックスは、現実の行為では否定出来ない概念的なパラドックスになるからだ。

このことを野矢さんは、一つの行為ごとに自然数を数えていくという比喩で語っている。そうすれば、最後の行為を行ったときに、最後の自然数を数え終わっていなければならない。最後の自然数とはいったい何か?自然数は1を足していけばいくらでも大きな自然数を作ることが出来る。最後に数え終わった自然数に1を足したら、それは自然数にならないのか。

このパラドックスは、時間とは関係なく設定・考察出来る。「アキレスと亀」のパラドックスは、本質的には「実無限」と「可能無限」のパラドックスとして捉えるのが解決の方向なのではないかと感じた。数学のような、観念的・抽象的な対象のみに限定して考えるときは、実無限を導入して、それが都合が悪くなりそうなときは回避する工夫が出来るが、現実に実無限の考えを導入すると、回避不可能なパラドックスが生じるのではないだろうか。

具体的な現実に存在するのは可能無限だけで、実無限はないのだと考えた方がいいように思う。本多勝一さんが、客観と主観について考察したとき、現実の客観は「無限」に多様だから、それを選択するという主観がどうしても入り込むと言うことから、客観と主観の対立物の統一という弁証法的なとらえ方が発見されていた。

このときの「無限」というのは、あくまでも可能無限なのだと思う。それは、多様性の全体がはじめから存在しているのではなく、それを見つけようと思えば、きりがなく見つかるという意味での可能無限なのだと思う。

哲学者の議論は、あまりに細かいところに拘泥していると感じることもあるが、野矢さんの議論は、正しい認識のための厳密さというものを感じる。最近「現象論」にも関心を持って調べているのだが、実無限と可能無限の区別をして現実を捉えるという発想は、「現象論」の基本的な考えにも通じるものがあるのではないかとも感じる。実無限と可能無限の考察は、「現象論」の理解にも役に立つのではないかと感じている。

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/khideaki/50464188
この記事へのコメント
はじめまして。

実無限に基づいて以下のように数を並べ、対角線上に出来る数を考える時、矛盾が生じると思います。

0.9
0.99
0.999

0.999…9


このように、小数点以下に9が有限個並ぶ数を(実無限に基づき)全て並べます。

対角線上の9が小数点以下に並ぶ0.999…を考え、(実無限に基づき)この数が無限小数だと仮定します。

桁の数は最初の図の行の数と一致し、この点は問題ありません。

対角線なので、桁の数は最初の図の列、つまり桁の数とも一致するはずです。

ところが最初の図にある数は全て有限小数で、桁の数が無限である数は存在しないので矛盾します。

このように考えたのですが、どこかに間違えがあるのでしょうか?

宜しければ、ご意見をお聞かせ下さい。
Posted by しまないちゃー at 2014年05月03日 18:22
門外漢ですが:

私は、「対角線論法は如何なる実数並びに対しても新数を生み出す」論とその証明はおかしくないか、と思うようになりました。

以下のような実数集合区間(0,1)を並べる方法を提案します。これは実無限と可能無限の間の矛盾を示す一例になるのではないか、と思います。

ペアノ型の実数整列方法

任意の一つの実数を選んで a1 とする。多進数表示では、対角線論法(以下D法と記す)の生成数は一意ではないので2進表示を使います。

a1=0.1100100....... この対角線上(位置 0.1)の数字を反転し、他は同じとして
a2=0.0100100....... を得る。同様に、対角線上の数字を反転して次の数を得る。
a3=0.0000100.......
以下同様。一般医に、a1, a2, .., ak からD法で得る数をak+1とする。

a1 : 0.1100100.......
a2 : 0.0100100.......
a3 : 0.0000100.......
a4 : 0.0010100.......
a5 : 0.0011100.......
a6 : 0.0011000.......
:::::::::

このように並んだ実数の列をR(a1)と記す。
定理1:対角線論法はR(a1)に属さない数は生み出せない。
(これは大定理だ!)

これは可能無限の考えですね。「生成される数を並びの最後尾につける」行為が無限先ではどういう結果で終わるかわからないのに、「含める」と実無限の立場で述べている。

R(a1)は実数全体のほんの一部です。なのに、D法はその外にある実数を発見できない。D法はかなりスローな数生成方法です。
Posted by 梶谷洋司 at 2013年06月30日 20:13
古い記事にコメントしてすみません。
こんなことを書くのは失礼かとずいぶん長い間悩みましたが。

私は、ひょんなことから区体論というのを見つけ、「何でこんな酷い理論が検索の上位に来るんだ?」とパニックになってしまって、暴走でここまでお邪魔してご迷惑をおかけしました。とはいえ、区体論の作者は所詮アマチュアですから、まあいいとします。

「無限論の教室」は読みました。
率直に言って、これは、数学者や数理論理をやってる方がまじめに取り組むほどの内容でしょうか?(つっこみ所は沢山ありすぎて、今は書く気になれません。どこが納得いかないのか、質問されるなら、またコメントします。)
実無限を仮定すると、いろいろ直感に反することが出てきますから、可能無限という立場もある、ということは認めますが、野矢氏の議論はあまりにもいい加減すぎます。

いっそのこと、現在は実無限の考え方に皆なれてしまってますから、その上で、可能無限の立場はどのように形式化されるか?を論じた方が生産的かと思います。例えば、

◇(∃x)(xは、すべての有限順序数を元として含む集合)

というような公理を持つ、可能無限的集合論を作ってみるとかはどうでしょうか。(様相論理が適当かどうかは疑問ですが。)


Posted by みょ〜ん at 2010年12月25日 16:25
0.9999…= 1 ?
に関しては、もちろんどちらの立場でも、<の証明は間違いです。そもそもどちらも有理数ですから、可能無限の立場でも循環小数として扱えば何とか=になると思います。ただ、納得しない人は絶対に納得しないもので。

まあ、二つの有理コーシー列
0.9, 0.99, 0.999, ...

1, 1, 1, ...
が同値であることを証明する手もありますが、同値関係を定義して商空間を作るという作業は「同じと見なす」ということですから、「=が成り立たないといろいろ困るので、=が成り立つように苦労して実数は定義されているのです」という説明もありかな?と思います。
Posted by みょ〜ん at 2009年12月15日 23:21
すみません。ここは、野矢茂樹『無限論の教室』の話題でしたね。
私は何を勘違いしたのだか・・・。失礼しました。
実は、数学は勉強できなかったが、せめて集合論ぐらいはおさらいしておこうと、Googleで「集合論」で検索したところ、南堂久史氏の「区体論」がかなりトップにありまして・・・。集合論を使わずに数学を構築する話で、確かに公理は無矛盾のようなのですが、結構悩む内容でした(賛成派と反対派が両方沢山リンクを貼ったために検索で上位に来たらしい)。取りあえず、昔からよくある、可能無限と実無限の話に関係あるだろうと、ここにたどり着いたわけです。
コメントした責任上、『無限論の教室』は今注文して配達を待っているところです。

>可能無限の立場では、そもそもこの判断はできない
私もそんな感じがしました。
私は実無限を前提にした無限小数しか知らないので、可能無限の立場でどのように無限小数を扱うかが分からないのです。
円周率のように、nに対して小数点以下第n桁目を具体的に計算できるなら、まだ議論もできましょうが、これが具体的に計算できない無限小数はどういう扱いになるのか?などが判断できません。

また、コンピュータで述語論理の論証システムを作って、公理的集合論の論証をさせた場合、「あたかも、実無限を把握して処理しているかに見えるコンピュータ」も作れそうな気がしますが、それを「コンピュータは実無限を扱える」と言っていいのかどうか?

あと、別の話ですが、「可能無限」という言葉を、「実数には無限大や無限小の数は存在しないがε-δ論法で極限を定義できる」というような意味合いで使い、超準解析の手法で無限大や無限小の超実数を存在する数として扱うのを「実無限」と考える解釈も多いようですが、「無限大」「無限小」の「無限」と「無限集合」の「無限」は意味合いが違うので、言葉の混乱もあるように思えます。
Posted by みょ〜ん at 2009年12月15日 23:10
みょ〜んさん、数学は数学的世界での実無限の立場なので「0.9999…=1」になると思いますが、可能無限の立場では、そもそもこの判断はできない(不可能になる)のではないかと思います。

ですから、実無限の数学の立場では=(イコール)であり、可能無限の立場では、大小関係ですらも判断はできないはずですから、

     0.9999… < 1

という判断もできないものだと思われます。つまり、この判断は、どちらの立場でも否定されるものだろうと思います。
Posted by 秀 at 2009年12月15日 11:57
どこかの掲示板で「数学科の人が『数学的帰納法で0.999...<1が証明できる』と言ってました」というような書き込みを見たことがあります。
どこの掲示板だったか忘れてしまったのですが、もともと書き込んだ人が又聞きだったし、証明も書いてなかったので評価はできませんが。
おそらく、数列
(an): 0.9, 0.99, 0.999, ...
を考えて、
・a_1<1である。
・a_n<1ならば、a_(n+1)<1である。
・よって数学的帰納法により、すべてのa_nが1より小さいことが証明される。
・よって、0.999...<1 である。
あたりではないかと推測されます(数学的帰納法の使いどころといったら、ここら辺しかなさそうですから)。数学科の人がもしこういう迷証明をしたとしたら、困ったものです。

ところで、可能無限に関しては、脳よりもコンピュータの方が内部構造が分かっているだけ考えやすいのではないでしょうか。コンピュータのメモリは有限ですが、記憶装置を必要なだけ追加できるとすれば可能無限まではぎりぎり扱える、と思います。
Posted by みょ〜ん at 2009年12月13日 23:16
はじめまして。みょ〜んというHNの者です。
大昔、数学科に入りましたが、精神障害が酷く、まともに勉強できなかった者です(学部1年の議題さえわかってない方が多いので、何故修了できたかが疑問)。
可能無限と実無限の話に関しては、無限小数0.999...が1と等しいか否か?という、よくある議論とも関係しているのではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/0.999...
無限小数の小数部分、というのは自然数nに「小数点以下第n桁目」を対応させる写像と見なせますが、そのグラフは無限集合(実無限の意味で)です。実無限があってはじめて無限小数が意味を持つわけで(9を無限個一斉に並べて初めて1に等しくなるわけで)、可能無限では、9を一つずつ追加していくしかなくなりますから、いつまでたっても1に到達できないではないか?と考えてしまうのではないでしょうか?

あと、実無限の話が本格的に出てくるのは、カントールの集合論によって無限個の対象を集めて一つの数学的実体と見なす(そして、そこからパラドクスができてしまった)、というところから始まる議論ですよね?
とすると、現実世界での実無限を考える前に、集合が現実世界にあるか?という問題があると思います。数学的実体は、「等しいか等しくないか」「集合の元か元でないか」がはっきり区別できる理想化された対象ですが、「2人の人間の集合」などと引き合いに出されますが、お腹に赤ちゃんのいる妊婦は1人か2人か?ということを考えると現実世界では近似的にしか成り立たないと思います。もっとも、空集合というものが、まさにその理想化された条件を満たす実体となって、それから順序数の作り方で自然数ができてしまう、あたりは感動しましたが。
Posted by みょ〜ん at 2009年12月13日 22:49
武田 英夫さんへ

提出された疑問は、数学屋としてもきちんと解答しておきたいものだと考えています。きちんと解答することによって、その形式論理的側面の理解がもっと進むと思うからです。

きちんと解答するにはコメント欄では字数制限があり不十分なので、改めてエントリーで取り上げて展開したいと思います。
Posted by 秀 at 2007年07月05日 10:55
*** ∞+1=∞ ? ***

 無限大の本にはこの式が書いてあるが、他の人は納得できるのでしょうか。おかしいよ。
 「負数の減算」が良く分からないと言う人が居ました。

・ゼロや正数を引くのなら納得出来る。
・A−B =(A+C)−(B+C) は納得出来る。

 この2点は納得出来ると言うので、次のように説明しました。

5−(−2)=(5+2)−(−2+2)=7−0=7

 A,Bが有限という条件で(A+∞)−(B+∞) と変形すれば、引く数は常に正になり
納得させられる。

 A+∞=∞ だったら、おかしな事になる。

2007年 6月 27日 武田 英夫
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月27日 23:43
*** 空集合は全ての集合に含まれる? ***

 「空集合は全ての集合に含まれる」と書いて有るが、他の人は矛盾を感じないのだろうか。
全体集合に含まれて、全体集合の補集合も空集合となっている。

 空集合が無限に有り全体集合に含まれる物と含まれない物とに分けると言うのなら
納得が行くが、そのような説明を見た事が無い。

2007年 6月 27日 武田 英夫
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月27日 23:42
 グループAに前述の整数の無限集合を適用しても同様です。新しく生成された整数全体を
グループBとしましょう。
 グループAとグループBを合わせた物を整数全体と定義して
整数a+整数b=整数c とする事も可能でしょう。しかし整数aと整数bはグループAから取り
出さなければならない。
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月23日 12:27
*** 集合が閉じているって何の事? ***

 整数a+整数b=整数c

 整数全体の集合から任意の整数aと整数bを選べば、整数cはその集合に含まれていると
言う事でしょうか。これはおかしい。元の整数集合に含まれない整数が生じる。

 お札の番号で説明したように、「3」と言う整数も無限に有る。違いをアルファベット
の添え字を付け整数の一部を表すと次のようになります。

1a 2a 3a 4a ....
1b 2b 3b 4b ....
1c 2c 3c 4c ....

 これら全体についての集合の代わりに代表して[1a , 3a , 1b , 3b] の整数集合で、ある
グループAを考えます。この中から任意の整数2個を取り出して
 整数a+整数b=整数c の計算をすればグループAに含まれない整数cが生じる。
 この例では 3a+3b=6 など。
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月23日 12:27
*** 1+1=1 の話 ***

・財布の中から1円玉を取り出し元に戻します。
・財布の中から5円玉を取り出し元に戻します。
・財布の中身はこれで全てです。財布の中には幾ら入っているでしょう。

 答えは 1+5=6 円です。では上の2番目を5円から1円にしたら
どうでしょう。

 ここでのポイントは、1回目と2回目の1円玉が同じか違うかと言う点です。
同じなら 1+1=1 です。 違うなら 1+1=2 です。

 「日本の紙幣は何枚有るか」との問いに、「1000、2000、5000、10000 の4枚」
と考えるだろうか。発行枚数とも考えられます。
 「10以下の素数は幾つ有るか」と言う問題が有ったとき、「2,3,5,7 の4個」
と考えるだろうか。前述の発行枚数のように考えれば、これだけでも無限に有ります。
 2,3,5,7 の4個しか無い集合であれば 2+2=2 となる訳です。
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月23日 09:12
s = 1-1+1-1..... の合計は幾らかという問題を見かけます。

 右の項数が無限個として、この無限が奇数か偶数か決定出来るのか
がポイントとしましょう。
 奇数か偶数か良く分からないある無限大をnとし、m=n!
で与えられる無限大mを作る。
 このmを当てはめれば偶数個になり合計はゼロになる。

 無限を扱うと 円周率 = 3.14...
と言う式も疑問です。 「...」と書いて 無限を使っても10進数
では表せず「≒」ではないかと思う。

3.14 = 314/100 3.141 = 3141/1000

 と分数で考え 円周率 = 整数/整数

と表せるかという事です。表せたら無理数の定義に当てはまらない。

2007年 6月 20日 武田 英夫
Posted by 武田 英夫 at 2007年06月20日 20:17
 無限の本を読んでも私の考えと違うから良く分からない。
他の人は納得出来るのかな。有名な数学者の言うことに自分を
合わせようとしているだけじゃないかな。

 満員の無限の部屋に客をいくらでも入れられというのはおかしい。
無限の端点が分かっていない。

 式の展開で次の式が有ります。

 (x+y)^n = x^n + ..... + y^n

 自然対数の底で次の式が有ります。

 e = (1+1/∞)^∞ = 1^∞ + ... + (1/∞)^∞

 となり、無限に項を足すけれど最後が有ります。項を無限の部屋
に当てはめれば、最後の部屋から押し出されるでしょう。
2007年 6月 16日 武田 英

Posted by 武田 英夫 at 2007年06月16日 15:17
sさんへ

無限の問題は、人間の認識がそれを把握出来るかどうかと言うことに問題があるように感じます。人間が直接認識出来るものは常に有限の対象であって、無限というのは可能性として想定されているだけというのが「可能無限」の考え方のように思います。

可能無限においても捉えられるのは有限の対象であって、その先にさらに一歩進む方向が示されているだけで、いくらでも先に進めるということが示されているのだと思います。

実無限にはその方向性が示されていないので、その一部でさえも有限の対象として捉えられないのを感じます。実無限は、その把握をフィクショナルに設定しているように感じます。抽象的な仮定のようなものでしょうか。
Posted by 秀 at 2006年11月19日 10:31
無限が他の認識とどう関連付けられるのかというルールさえはっきりすれば有限の中に無限を押し込められるはずです。

アキレスと亀は実無限で考えるべきものを可能無限で考えるからおかしくなるのであって話が逆じゃないですか?
現実には終わりがあるのに可能無限で考えたら終わりが無い。
矛盾している。
これは実無限の集合から可能無限を取り出しているからではないでしょうか?
そこを可能無限から実無限への拡張と考えるから矛盾が出ると。
Posted by s at 2006年11月02日 06:23
私自身は何もわかってない素人ですが

1,2,3と一つずつ考える神経回路を想定できるなら無限も同様にそのようなシンボルとして現す神経回路の可能性を考えてもいいのではないかと思います。

1と無限の間にいかほどの隔たりがあるか
1を現すシンボルや神経回路が常識的で無限がそうでないというのはその区別すべき差異が私にはわかりません。
シンボルである点では同列ですよね?
意味に本質的なレベルの違いなどあるのでしょうか?
意味とは全て同列のものにも思えます。
1が認められて無限が認められないのはAとBという文字に本質的な違いがあるといっているようなものでしょう。

1もまた特殊です。
なんにでも1というものを当てはめれる特殊さは実無限の特殊さとそのレベルが違うとは思えないのです。
当てはめられる意味が違うだけにしか思えません。
Posted by s at 2006年11月02日 06:23
胡谷和彦さん、書き込みをありがとうございました。

さっそく「数とは何か」というページも見させてもらいました。大変興味深い内容で、よく読んでから感想を書きたくなるようなものだと感じました。

現実の世界を対象にしている限りでは、その認識は可能無限の範囲だけで、実無限は認識出来ないと僕も感じています。それを脳細胞の有限性から考えたことはありませんでした。面白い見方だと思います。

僕が実無限を考えていたのは、数学的対象の世界の認識についてでした。これは、現実に存在する世界ではなく、頭の中にある抽象的な世界になります。これも可能無限の世界だけで構築可能なのかどうか。実数の連続性などを考え、有理数の集合の全体を把握して切断するという実無限を想定すると、そこから得られる実りの多さは捨てがたいものがあります。実無限の魅力も大きいんですよね。
Posted by 秀 at 2006年08月20日 22:12
私は胡谷という精神科医ですが、神経科学の視点から見ると、脳の神経細胞は有限の個数しかなく、人間の一生の時間も有限です。必然的に人間の認識や思考は有限の範囲にとどまります。そうすると実無限はあり得ないことになり、無限とは可能無限を意味することになります。

可能無限とは何かを考えると、「アキレスと亀」のパラドックスでもそうですが、無限ループを意味すると考えています。それは有限のシステムで無限を扱う場合、無限ループを作るしかないと思うからです。問題は、人間がその時に恐怖感を持ったり、圧倒された感じを受けるという点です。これは無限ループによる消耗を避けるために、人間に与えられた本能的な感情であると思われます。

このような考察も含めて「数とは何か」というホームページを作っていますので、一度見てください。
Posted by 胡谷和彦 at 2006年08月20日 10:17
奥村 さん、書き込みをありがとうございました。

哲学も今ではかなり細分化されているんでしょうね。数学の哲学の分野の勉強をしていないと、もしかしたら無限に関する議論には出会わないのかも知れません。

無限は、素朴なイメージとしては、とにかくたくさんあってきりがないものということでいいのではないかと思います。それが、素朴なイメージであって厳密なものではないという自覚をしたときに、それを哲学的に扱う基礎が出来るのだと思います。

現実の時間や空間は、可能無限ではあるけれど、実無限ではないと僕は感じています。そして、空間という「無」ではなく、「存在」の場合は、原子(正確には電子・素粒子かな)という最小単位があるのかなと思っています。これは、可能無限でもないと感じています。
Posted by 秀 at 2006年03月03日 10:39
初めまして。
奥村という学生です。
大学では哲学を専攻しているのですが、
恥ずかしながら「実無限」「可能無限」という概念を
知りませんでした。
ただ漠然とではありますが、
「無限は常にそれ以上のものとして現れてくるものではないかなぁ」
とは思っていたので、
それに名称が与えられて落ち着きました。
ゼノンとアキレスの例に当てはめられていたのも興味深かったです。
ぼくは、時間や空間は「ほんとうは」分割できるものではないのだ、
とこれもまた漠然と考えていたのですが、
そのようなアプローチがあったんですね。
分かりやすくかつ面白いエントリでした。
折に触れて、また寄らせてもらいますね。
Posted by 奥村 at 2006年03月03日 10:02