2006年03月25日

定義の問題

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに書かれている「労働」の定義について、それは論点先取の間違いではないかという批判があるようだ。Kawakitaさんは、「労働」を「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」と定義している。

この定義には、定義そのものに、Kawakitaさんのもう一つの主張である「内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と明確に述べています」と言うことの内容が含まれているように見えるからだ。「労働」をこのように定義すれば、それからすぐに「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と言うことが導かれる。これは定義そのものと論理的に同値になるからだ。

ある主張をしたいときに、その主張が含まれているような定義を出発点として論証をするなら、それはどのような主張でも証明出来ることになる。しかも、それは言葉の上で(形式論理的に)証明出来るので、現実を観察する必要がない。現実と無関係に、現実と関わりのある主張を証明しようとすれば、普通はそういう主張は空理・空論と呼ばれる。Kawakitaさんの定義は、本当に空理・空論として批判されるべきものなのかということを考えてみたい。
Kawakitaさんの定義が空理・空論になってしまうのは、この定義から「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という結論を導き出そうとするときだ。Kawakitaさんは、果たしてそのような論理展開をしているだろうか。文脈をたどる限りでは、Kawakitaさんの論理展開はそのようになっていない。Kawakitaさんは、このことを定義とは無関係に

「働いて生み出した価値よりも賃金(対価)は必ず低いこと」
「結果的に賃金(対価)よりも多く働いてしまっていること」

と言う二つの事実から導こうとしている。この二つの事実が確認出来れば、「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という主張が証明出来る。ここでは、この事実(真理)が現実的なものであるので、それをどう受け止めるかということにやや論理的な甘さは感じるものの、基本的な流れは間違っていないと思う。

現実的な事実(真理)には、常に誤差と例外が伴う。だから、「必ず」という言葉や「常に」という言葉があったときに、その現実的に妥当な解釈というものに気をつけておかなければならない。これを数学のように形式論理的な、無限の対象のすべてにわたる性質の主張(全称命題)だと考えると、そんなものは現実には確かめようもないから、前提が間違っているという批判が出てくるだろう。

この場合には、例外がどう例外として妥当かと言うことを最初に確かめておいた方がいいだろう。例えば、つぶれてしまうような儲からない会社では、労働者の賃金の方が生み出した価値よりも高いように見えるので、その差額で損が生まれつぶれるように見える。これは上の一方の主張とは矛盾するので、これからすぐに一方の主張が否定されるように感じてしまう。形式論理的考察ではそうだろう。しかし、弁証法的にこれを捉えれば、それは視点の違いで、この場合は例外であるという判断が出来る。

この場合は、賃金が高すぎると判断することも出来る。高すぎると言うことは、何らかの基準があって、それと比べると高すぎるという判断だ。それではその基準とは何か。それは市場価格という、市場というメカニズムで決められる基準だと考えるのだ。本来は市場価格として一定の所に落ち着くような賃金が、市場価格ではなく、一人の人間が生きていくのに必要な額というようなもので算定されると、高すぎる賃金が生まれる場合がある。

また、儲けとして予想されている生産された価値の算定を間違えて、それから高すぎる賃金が算出されてしまったということも考えられる。つまり、この場合は、賃金の算定を間違えているという例外であって、賃金の算定さえ間違えなければ、一般的に「働いて生み出した価値よりも賃金(対価)は必ず低いこと」と言えるのだ、と例外の場合を処理しておけば、現実にこの主張を否定するような事実があるように見えても、主張そのものを否定しなくて済む。

実際には、理論を展開するときに、出発点としては事実ではなくて抽象的な対象を設定した方が、演繹としてはミスが少ないだろう。だから、賃金というものを、現実の具体的な労働者の給料として捉えるのではなく、市場価格として決まってくる「労働力」という商品の価格が賃金であるとした方がいいだろうと思う。そうすれば、この賃金という対象は、形式論理的な演繹にも馴染むような対象になる。

もし、市場価格として決まってくる賃金に対して、「労働」がそれ以上の価値を生まないとしたらどうなるだろうか。資本家は、賃金を払うことによってどんどん損をすることになる。賃金の対価として資本家が受け取るものが、払うものよりも少ないからだ。そうすると賃金として払われる財貨はどんどん減っていき、市場価格はどんどん下がることになる。それでも、「労働」が賃金以上の価値を生まなければ、それはやがて0に収束して資本主義は終わると言うことになるだろう。

「労働」が「賃金」に対してオーバーアチーブメントであるというのは、資本主義存続のための本質である、という結論が演繹的に導かれる。ただし、この結論は、賃金というものが市場価格によって決まるものを言うという前提がある。その前提が現実には、さまざまな誤差や例外によって、必ずしも市場価格とイコールにならなければ、結果的にはこのことも例外的に成り立たなくなる。だからこそ「本質」という言葉を添えなければならないのだ。

「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という結論は、Kawakitaさんの定義とは独立に、他の論理展開から主張出来る事柄になる。ただし、これは「本質」を語った抽象的なものであり、ベタに現実の事実を語ったものではないと言うことを理解しなければならないが。

このことが確認出来たら、今度はこれを新たな定義として、抽象的な理論展開を演繹によって行うと言うことが出来る。それがKawakitaさんの定義なのだと僕は思う。これは、数学の場合で言えば、無理数の定義によく似ているような状況ではないかと思う。

有理数というのは、比が存在する数字として、分数で表されるという定義がされる。そして、無理数はこれを否定して「有理数ではない」という定義が最初はされる。しかし、ある対象が、こういうものであるという定義は演繹によく馴染むが、こういうものではない、と言う定義はなかなか演繹するのは難しい。そこで、分数というものの性質を考えると、それは有限小数になるか循環小数になるかどちらかであるというような結論を、無理数の定義とは無関係に導く。

そのような結論からは、無理数というのは、そういうものではないので「循環しない無限小数になる」という性質が導かれる。これは、本来は証明された定理として扱わなければならないのだが、演繹の出発点として、定義のように扱うことが出来る。

Kawakitaさんの論理展開は、内田さんが語っていることはマトモに論理的に理解することが出来ると言うことだ。その理解のために、

「贈与・・・生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0。
 等価交換・・・生み出した価値に対して、等価の対価を得ること。
 労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。 」

と言う定義をして、この三者の違いを演繹的に導いてみようと言う論理展開をしている。これは、比較のための定義であって、その目的があるからこそ、対比の主題となる「対価」というものが定義に入ってくるのである。

これら三者の言葉の定義は、他の方法でいくらでも行うことが出来る。視点が違えば違う定義が出来る。しかし、ここでは「対価」という視点で、あえて同じ方向から見る定義を行っているのだ。それはこれらの比較をしたいという目的があるからなのである。

これが恣意的な定義にならないのは、それぞれの定義が、他の正当な定義と論理的に同値になっているからである。「労働」に関しても、それが価値を生み出すという素朴な定義と、Kawakitaさんの定義は矛盾するものではない。もっと正確に表現すれば、資本主義下における、市場価格としての賃金と比べての「対価」に関してどうかという主張になるだろう。資本主義下と市場価格としての賃金という前提がなくなるような文脈では、このような定義はふさわしくないかも知れない。

このような比較のための前提から、演繹的に

「内田氏は「労働=贈与」とはみなしておりません。内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と述べています。
労働は労働力を提供してその対価を得る「等価交換」であると建前上は認識されておりますがそれは虚構です。労働は実は「非等価交換」です。その結果、滅私奉公的・贈与的な「オーバーアチーブメント」が発生しています。 」

と言うようなKawakitaさんの結論が導かれてくる。特に「虚構」に関する部分は、僕が三浦つとむさんから学んだマルクス主義では、すでに確立されている主張でもある。「賃金」と等価交換されるのは「労働力」という商品の方で、これは実体的には「労働能力」とでも呼べるようなものである。実際の行為としての「労働」は、決して商品にはならないのだ。

もし商品であるなら、それは資本主義においては交換価値を持っていなければならない。それを使用する前に、それを欲する動機を与えるような何ものか、「手に入れたいという動機を起こさせる価値」がなければならない。しかし「労働」という行為は、実際に労働をしてみないとその「価値」(これは使用価値と呼んだ方がいいものだろうか、ちょっと難しい)が分からないものだ。「労働行為」の前に「労働」の価値を判断することが出来ない。判断出来るのは、どのくらいの労働が出来るだろうかという可能性の方であって「労働力」の価値だけだ。

そして、その「労働力」の価値の判断が正しければ、労働の結果としてのオーバーアチーブメントを手に入れることが出来、判断が正しくなければ、高すぎる賃金を払って損をすることになるのだろう。

Kawakitaさんは、自分の主張の正しさを考えるために、比較という観点から定義し直している。その定義の正当性は、主張の証明のために論点先取をしていないかどうか、定義の間に論理矛盾が生じないか、他の正当な定義と比べて、その正当性を犯すような定義になっていないか、と言うようなことが確認されれば、定義としては論理的な問題はないのではないかと思う。

その表現に論理的な不明瞭さは感じるものの、論理的な問題というものは僕は感じなかった。むしろ、内田さんを誤読する人たちは、「本質規定」と「規範」の概念を間違えているのではないかという指摘が、論理的には的を射た批判だなと感じた。

内田さんを誤読して批判している人たちは、「本質」という言葉を抜いて批判している人ばかりだ。「本質」を議論している人は見かけたことがない。「本質」と言うことを理解していないのではないかと思われる。「本質」というのは、論理的反省から導かれる論理的な帰結なのである。現実観察の結果得られる帰納的な結論ではない。現実観察の結果得られるのは「現象」であって「本質」ではないのである。

三浦さんが語っていたことだが、ヘーゲルは「現象」に「本質」が現れると見ていたらしい。「本質」は「現象」に貫かれているが、「現象」をベタに受け取るだけでは「本質」は見えてこない。その「現象」を一段高い視点から眺めることで、その存在において、その特性がなくてはならないものとして論理的に反省されるなら、それが「本質」になるのである。

Kawakitaさんの定義を検討していて、今度は「贈与」というものの本質が気になってきた。内田さんを誤読する人たちは、実は「贈与」の本質も勘違いしているのではないかと思えるようになった。「贈与」の本質を今度は考えてみたいものだ。

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この記事へのコメント
uprimeさんへ

「自然発生性によって特徴づけられる」と言うことは、言葉を言い換えると「その起源は分からない」と言うことだと僕は理解します。つまり、現実存在に対する「普遍性」というものは、証明出来ない事柄なんだと思います。

僕は、「普遍性」というものは、現実存在から抽象される概念だと思っています。「任意」の(現実存在の任意性は、未知であると言うことです)対象にいつも張り付いている属性があると、それは自然発生性によるように見える普遍性なのだろうと思います。それは、現実存在に張り付いている具体性ですが、同時に抽象されて普遍性として認識されるのだと思います。具体性と普遍性の対立物の統一として弁証法的なとらえ方をしなければならないと思います。

内田さんの言葉を、このような過程的構造で捉えるのか、装っていると見るかは、解釈の違いのように見えます。
Posted by 秀 at 2006年03月29日 23:21
補足で、内田さんも読んでおられるだろう、レヴィ・ストロースの文章を引用します。

「すべての普遍的であるものは、人間にあっては、自然の秩序をあらわし、自然発生性によって特徴づけられる。そして、ある規範に縛られるものはすべて文化に属し、相対的であり、特殊であるという属性をしめす」

で、ぼくは内田さんの文章における「人類」「種」「根源」などの使い方をみて、内田さんは、
「自然発生性によって特徴づけ」ることによって「普遍的」なものに装っているのじゃないか、と疑っていたりするわけです。
この疑いが正当なものかはよく分かりません。

内田さんのアイロニーは、端々で感じる時もありますが、そのアイロニーはぼくのためのものではないな、とも同時に感じます。
Posted by uprime at 2006年03月29日 22:59
uprimeさんへ

抽象的理論に対する反発の気持ちが生まれる感情はよく理解出来ます。ある理論が対象としているものの問題意識が、自分と違うものであった場合、自分が大切だと思うものを、その理論は捨象して捨ててしまいます。大事なことを論じていないじゃないかという気持ちは、多くの理論に感じるものだと思います。

しかし、それは理論そのものに向ける批判としてはふさわしくないと思います。むしろ、その理論が論じきれないものを論じるには、どのような抽象がふさわしいかを自分で構築した方がいいのではないかと思います。

理論の問題意識と抽象の関係は、論理的に面白いと思います。一度考えてみようかと思います。内田さんの文章については、文脈をよく検討してみないと、「偶有性を必然性に転化する操作を行っている」かどうかに、まだ結論は出せません。これも考えてみたいと思います。
Posted by 秀 at 2006年03月27日 23:33
今ちょっと大戦中の「特攻」とかを調べているという個人的事情がありまして。
たぶんそこらの問題意識でぼくが敏感になってしまっている所があると思います。からんでしまったのもそのせいです。
お気を悪くされたら、すいません。
Posted by uprime at 2006年03月27日 23:18
(続き)
ここで抽象化された"人間"は同じ根源に突き動かされつづける何かであり、差異は存在しない。

現実の人間が実際に「わが身を捧げる」事を選択できる存在であるからこそ、
捧げたり捧げなかったりするような、それぞれの実存に基づく差異の存在は「人間的であること」の概念から捨象されるべきでない、と考えます。

捨象された時、「私はわが身を捧げる」は簡単に「我々は捧げねばならない」に変わるでしょう。
Posted by uprime at 2006年03月27日 23:10
すいません、しつこいですが一つだけ。

資本主義であるなしに関わらず、あったり無かったりする「偶有的」な贈与

資本主義下でシステマチックに「必然的」に発生する剰余価値

両者が「本質的にオーバーアチーブな労働」の名の下に統合されるとしたら、
その時真っ先に捨象されているのは前者の偶有性です。この偶有性は我々それぞれが互いに差異のある実存・社会的条件諸々を抱えている事の反映です。

内田先生は
「自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。」
とまで言って、差異の存在自体を棄却し、偶有性を必然性に転化する操作を行っている。
Posted by uprime at 2006年03月27日 23:09
uprimeさんへ

捨象=抽象というものは、演繹的推論のために行うものです。もし現実存在から、何の捨象もせずに、具体的な属性を持ったまま演繹をしようと思ったら、その属性に従った場合分けが必要になってきます。論理的には、現実存在というのは視点を変えれば違う属性を見つけられるので、可能性としての無限の多様性を持っています。

だから帰納的な推論では演繹をすることが出来ません。演繹的に論理を展開するためにこそ、演繹の対象になるものだけを抽象して、他を捨象する(捨てる)のです。

何を捨てるかは演繹の方向にかかっています。そういう意味では、捨てなかったものが本質として残ったと考えればいいと思います。抽象の仕方を見ることで、その人の本質観が分かるのだと思います。
Posted by 秀 at 2006年03月25日 23:10
uprimeさんへ

「「具体性は捨象されている」概念が「特定の個別的な差異が具体的に現れる」現場において使われた場合の有害性」と言うことの意味が分かりません。これは、具体的に実現されている有害性のことを指しているのでしょうか?それとも可能性としての有害性のことを指しているのでしょうか?

もし可能性としての有害性を言っているのなら、世の中のほとんどの存在は有害性を持っています。刃物は武器としての有害性を持っていますし、頭の良さは人をだます有害性を持っています。ことさら内田さんの場合だけを取り上げる理由が分かりません。

もし具体的に実現されている有害性なら、その具体的な有害を批判しなければならないのではないですか。
Posted by 秀 at 2006年03月25日 23:01
(続き)

捨象された何かが重要だろうと考えていました。
(例えば、前のコメントで挙げた具体的な例における差異も、捨象される一つです。)
「本質的にオーバーアチーブメント」な「労働X」概念を採用すると、二者の差異は不可視になります。この「労働X」を労働の本質と呼びたくなかったのであえて、「モデル」と呼んで見たのです。

「本質」が一元的でなくいくつもある、という事だったら良いのです。

ハンナ・アレントがやったような、「労働」という概念の分節が有効じゃないかと
、個人的には思いました。
Posted by uprime at 2006年03月25日 22:26
先にエントリーと少々ずれたコメントをしてしまったのをお詫びします。

> モデルは本質とイコールではありません

OKです。

ぼくを含めて内田先生に批判的な人達が敏感になっているのは、まさしく
「具体性は捨象されている」概念が「特定の個別的な差異が具体的に現れる」現場において使われた場合の有害性でしょうね。
(内田先生は極めて具体的な例にからめて語られるわけです。)
Posted by uprime at 2006年03月25日 22:26
uprimeさんへ

モデルの問題は、理論全体が現実存在の法則性をよく反映しているかという問題ですから、理論全体が想定している抽象的世界と、現実に法則性を見つけ出したい現実世界との関連をよく調べて判断しなければならないと思います。

そのような意味では、内田さんが論じているのは、特定の個別的な差異が具体的に現れる労働についてではありません。内田さんが想定している「労働」は、本質的にオーバーアチーブメントを作り出すような「労働」ですから、そこでは具体性は捨象されているのです。

この労働は、マルクスが考えた社会的平均的な労働に近いのではないかと思います。だから、この本質を持たない具体的な労働は、たとえそれが存在したとしても、内田さんの話(モデルというには大げさすぎるので)では、例外的な存在になるのだと思います。
Posted by 秀 at 2006年03月25日 20:11
uprimeさんへ

ここで展開しているのは、定義が論点先取の間違いではないかということに関する考察です。直接的にはモデルとは関わりがありません。モデルは、個別の定義の問題ではなく、理論全体に関わる問題だろうと思うからです。

また、モデルは本質とイコールではありません。本質というのは現象の背後に隠れているもので、あくまでも現実存在の属性です。モデルは抽象的な対象として設定しているので、本質と現象という区別は、モデルの世界ではありません。

現実存在において本質以外の属性を捨象したものがモデルの抽象とよく重なるなら、それは現実存在をよく反映したものとなるでしょう。現実にモデルに反するような例は、例外的存在であるか誤差と言うことになるのだと思います。モデルの差異は、具体的に検討してみないと何を表しているかは分かりません。
Posted by 秀 at 2006年03月25日 20:01
(続き)

しかしある種の差異を人が感知した時、そしてその差異をあるモデルではうまく描写出来ていない、AもBも同値で扱われるような時、そのモデルの再構築を求めるのは、自然な要求だと思います。

具体的に言うと、
ベルトコンベヤのスピードに従ってボルトを締めつづけるような労働で、不当に賃金が低く抑えられているような場合と、
腕のいい職人が求められているもの以上の仕事を成し遂げる場合と、
ウチダ・モデルだと区別がつかないように思うんですよね。

Kawakitaさん批判じゃなくて内田先生批判です。
Posted by uprime at 2006年03月25日 18:16
はじめまして。興味深く読ませていただいております。

ここでいわれている「本質」というのを、現実に対する一種のモデル、としてたぶんぼくは解釈していたのですが、どうでしょう?
モデル自体に理論的な破綻が一切なくても、「現象」を描写できない、あるいは現象の(モデル構築者が重要だと思う)差異を捉えないモデル、というのは存在するわけです。

Aという現象とBという現象をあるモデルで観ると見かけの差異に関わらず共通な「本質」がある、といえる事が力を持つというのは分かります。差異は本質に対するオプションとしてして示される。そのようにしてそのモデルは差異を捕らえているといえる。
Posted by uprime at 2006年03月25日 18:16