2006年07月29日

ウィトゲンシュタインの「世界」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最初の命題で


「1 世界は成立している事柄の総体である。」


と書いている。「成立している事柄」とは、現実に成立している事柄のことである。これを「事実」と呼んでいるので、世界は「事実」の総体であるというのが、ウィトゲンシュタインの「世界」と言うことになる。

「世界」という言葉は非常に抽象的な言葉で、人それぞれによってそのイメージが違ってくるのではないかと思う。具体的な「世界」の像には微妙な違いがあるだろうと思う。だから、その具体像から抽象された「世界」という言葉の意味は、人それぞれに微妙な違いがあるものと思われる。
「世界」というものを、自分の周りに存在する様々な物の集まりとイメージする人もいるのではないか。唯物論的な発想は、そのような物質的存在こそが「世界」を構成すると考えているのではないだろうか。しかしウィトゲンシュタインは、「世界」は「事実」という事柄の方を指すのであって、物を集めたものではないと主張する。


「1.1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。」


と、最初の命題への注意となるような命題を記している。このとき、「世界」は物の総体なのか、事柄の総体なのか、どちらが正しいのかという発想をすると結論の出ない議論にはまりこむのではないかと思う。どこかに「世界」と呼ばれる対象があって、その対象の属性として、それが「物の集まり」になるのか「事柄の集まり」になるのかが決定するというふうに考えてはいけないのだと思う。「世界」という対象は、我々の思考以前には決まっていないのだと考えなければならないのだと僕は思う。

「世界」というのは、様々な視点から捉えることが出来る。だから、議論の出発点として、自分がどのような視点で「世界」を捉えているかを定義しているのだと、ウィトゲンシュタインの言葉を理解する必要があるのではないだろうか。この定義は、ある結論として証明される「真理」ではなく、むしろ数学的な公理のようなもので、「真理性」というものは考慮の外にある、論理を展開するための出発点として捉えるべきではないかと思う。

ウィトゲンシュタインが「世界」をこのようにとらえた視点というのは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、「思考の限界を決定する」という目的に関わっているように思われる。人間は、どのようなことが思考可能であり、どのようなことが思考不可能であるか、ということをウィトゲンシュタインは考えた。

ウィトゲンシュタインにとっては、思考の展開の謎を解明すると言うことが問題の本質だっただろう。そうすると、思考の展開にとっては、ある事柄の判断が成立するかどうかと言うことが大事になってくる。ものが対象としてそこに存在するというのは、思考の前提であって、思考そのものになるわけではない。

ウィトゲンシュタインにとっては自らが解明したいことのために「世界」を構成し直すことが大事だったわけだ。だからこそ、素朴にはものの寄せ集めのように感じる「世界」を、ものではなく事柄の集合として定義し直したのだと思う。

このように、これからの思考の出発点を定義したものとして命題を見ることと、何かの思考の結論として命題を解釈することとは大きな違いがあるものと思う。思考の出発点としての定義は、その定義が、目的を達成するための妥当性を持っているかどうかが大事になる。それは、その時点では「真理性」を問題にするような命題にはならない。仮言命題の前件としてのみ有効性を持つようなものになる。

ウィトゲンシュタインの「世界」が、ウィトゲンシュタインが目指したように、人間の思考の限界を解明するために役立っているかどうかは、その考察の全体像が分からなければ判断は出来ない。しかし、そのようなものだろうと予想して、ウィトゲンシュタインが見た「世界」を、同じ世界として眺めることが出来るように努力することは出来るのではないかと思う。そして、同じ世界を眺めることに成功した人が、ウィトゲンシュタインが本当は何を言いたかったかと言うことが分かるようになるのだろう。

理論の出発点としての定義という問題を考えてみると、「言語」という言葉においても、三浦つとむさんが語る「言語」の定義と、ソシュールが語る「言語」の定義に関しても、その理論が目指す目的が違えば、定義に違いが出てきてもそれはともに妥当性を持ちうるのではないかとも感じるようになった。

三浦さんが解明しようとした「言語」は、あくまでも現実に、具体的な個人が何らかの思考のようなものを伝達することに利用される「言語」を解明しようとしたのではないかと思う。その目的から言ったら、表現されず、何も伝達されないものが「言語」から除かれるのは妥当性があるだろう。「言語」が表現の一種だと定義されることに妥当性がある。

ソシュールの場合はどうだったのだろうか。ソシュールが何を解明したかったのかと言うことについては、僕は何も確かなことを知らなかったという感じがする。ソシュールが、具体的な言葉の発露を「言語学」の対象から切り捨てたと言うことは、三浦さんの批判を通じて知っていたが、それでは、何を目指していたかと言うことははっきりしたものが浮かんでこない。

三浦さんの観点から見れば、具体的な言葉を対象から切り捨てたことは大いに批判されるに値されることだろう。しかし、目的が違うと言うことであれば、むしろ切り捨てることの方に妥当性があるという判断も成り立つかも知れない。三浦さんから見れば、認識の一種である言語規範を、ソシュールがあえて言語だと規定したのは、三浦さんとソシュールの目指すものの違いが反映しているだけのことではないのか。

三浦さんの言語の定義と、ソシュールの言語の定義と、どちらが正しいかと言うことは議論しても仕方がないのではないかとも思える。むしろ、両者の定義は、両者が目的としたもの、解明したいものが本当に解明出来たかと言うことにおいて、その定義が妥当かどうかが問われなければならないのではないかと思う。

三浦さんは、あくまでも思考の伝達というものとして言語の謎を解明しようとしたように見える。だが、ソシュールは伝達というものにあまり重きを置いていなかったのではないだろうか。伝達というものよりも、言語が思考の展開に与える影響とか、社会に与える影響とか、そのようなものの謎を解明したいと思ったのではないだろうか。これは、ソシュールに詳しくない人間の、単なる想像に過ぎないのだが、調べてみたいことではある。

思考の展開における言語の役割というのは、僕が関心を持っている論理にとっても大きな問題だ。日常言語で思考するよりも、記号論理で理解した方が数学の理解は進むと言うことは、果たしてどのような法則性を持っているのかというのは、僕自身にとって解明したい謎の一つだ。ソシュールの言語学が、そう言ったことに役立つのであれば、大いに学びたいものだとも思う。ソシュールは、言語学を包含する記号学の構想も持っていたと言われているが、それが記号論理の理解に役立つのではないかという期待もある。

ソシュールについては、批判的側面しか見ていなかったが、あれだけ大きな影響を与え、多くの人を魅了した理論がまったく無価値だとは思えない。どこに大きな宝があるかというのを見つけたいものだと思う。

ウィトゲンシュタインの「世界」に関しては、もう一つ問題を感じるところがある。ウィトゲンシュタインにとっては「世界」は、あくまでも現実とのつながりを持つ「事実」を寄せ集めたものだった。現実化されていない、想像の世界の中の仮構的なものは「事態」と呼ばれている。「事態」は「事実」を含み込んでいる。「事態」の中の、現実化されたものが「事実」となる。

「事実」の全体は「世界」と呼ばれ、「事態」の全体が「論理空間」と呼ばれているようだ。以前の僕は、素材の集まりが「論理空間」だと思っていたが、野矢さんの本を読んだら、「事態」の集まりの方を「論理空間」と呼んだ方が当たっているような気がした。

ここで僕が問題に感じるのは、「事態」の方は、すべての可能性を想像して得られるものということで構成することが出来るものの、その中のどれが「事実」であるかは、決定が難しいものがたくさんあるということだ。「事実」のすべてである「世界」は把握が出来ないのではないかという問題を感じる。

ある事柄が「事実」なのか、そうでないのかは決定出来ないとしたら、「世界」は解明出来ないと言うことにならないだろうか。この問題をウィトゲンシュタインがどのようにして解決したかはまだ分からない。野矢さんの本をもっと読み込んで理解したいものだと思う。

一つ想像出来ることは、ウィトゲンシュタインが目的としたものは、個々の「事実」の判定方法という技術的なものではないので、それは、抽象的に解明されたものという設定をして、その設定の元で、「世界」そのものの構造的な部分に注目したのではないかという発想だ。

これも、理論の出発点として、フィクショナルに設定して、その上で理論を進めてみるという思考の展開の方法の一つとして受け止められるのかなと言う感じがしている。その目的は、構造というものの解明にある。構造にとっては、個々の事実がどうであるかということはあまり関心がない。だから、それが事実であるという前提を置いてしまって、その上で構造だけを思考の対象にしようと言うのではないだろうか。

このような構造の解明がなされたときに、それを具体的現実に応用するときは、「事実」としてまだ確かめられていないようなものに適用するときは、それは例外的なものとして自覚しなければならないと思う。無批判に「事実」だと言うことを前提にすると間違えるだろう。

現実的・具体的な技術の問題(個々の「事実」が本当に「事実」であるかどうかを解明する)と、抽象的な「構造」を問題にする考察とは、関連があるが分けておいた方がいいのではないかと思う。個々の技術的な問題が解明出来なければ、抽象的な構造が理解出来ないと言うことでもないと思う。「無意識」というものが、現実にはどのように扱えるかという技術的な問題は混沌としているけれど、「無意識」で語られる人間の認識の構造は、抽象的にはかなり解明されているのではないだろうか。

「世界」における「事実」の確認は難しいが、「事実」を寄せ集めた「世界」はどのような構造を持っているかは解明出来る。ウィトゲンシュタインはそう考えたのではないだろうか。自分にもそれが理解出来るかどうか考えてみたいものだと思う。

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この記事へのコメント
無限については、多くを要しないでしょう。
無限は、排中律が成立しない(「πの小数展開に7が十個続くことはない」という予言の真理性は我々の認識を越えている(野矢茂樹著『無限論の教室』))以上、内在的実在性を担保し得ず、つまり、超越論的観念論(無限〜神)たらざるを得ず、実無限(=内在的実在)ではありえません。
無限を内在的に語るということは、無限のもつ全体性を部分性に押し縮めることに対応し、アリストテレス的可能無限こそが、論理的(=内在的)帰結となります。
つまり、アリストテレス的可能無限=経験的実在論となる訳です。
私は以上の解釈に到達した際、感動に酔いしれてしまいました。じっくり味わってみて下さい。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:59
ところで、「表現」の徹底にも限界があるのは当然です。
命題の基礎づけ(=前提の可視化)の断念が、「言語ゲーム」へと、ウィトゲンシュタインを導きました。
前提(=規則=ルール)が命題(=実践=プレイ)を規定するという基礎づけを反転し、実践(=プレイ)こそが規則(=ルール)を決めるのだ、とウィトゲンシュタインは解釈し直した訳です。
永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』の次の言葉を深く味わって下さい。
「ほんとうに難しいのは、問い(=命題の基礎づけ)に答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを覚ることなのである。」
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:58
真理関数理論、写像理論とも、命題の前提を可視化することはできないことを示していた訳です。ウィトゲンシュタインは、命題の意味は、命題の前提を明示することで示されると解釈しました。命題の基礎づけとは、「前提が命題を規定する」と見なし、前提を果てしなく可視化してゆく作業です。宮台真司先生の社会システム理論のアプローチが、命題の基礎づけと同値なのが、お分かりいただけるでしょうか?(宮台真司先生風に申せば、「表現」の徹底です)
いよいよ、クライマックスです。
「表現」の徹底(=前提の果てしなき可視化)、すなわち、求めて「向かう」者に対して、不意かつ唐突に訪れる福音・・・それこそが、全体性(=世界)なる「表出」なのです。ウィトゲンシュタイン自身は、宮台真司先生のように、ここまで顕わには、語っておりませんが、間違いなく同じことを考えていたはずです。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:57
写像理論に敷衍します。
4.121 言語の内に映し出されるものを、言語によって描き出すことはできない
この意味がご理解いただけるでしょうか?
写像理論とは、「『〜』とは(〜)のことである」という「要素命題『〜』」と「事態(〜)」の一対一対応のことですが、4.121という命題は、「事態(〜)」を表す「言語(〜)」は、「事態(〜)」そのものを示してもいるため、「言語(〜)」と「事態(〜)」の写像関係それ自体を抽出して言語化することができないのだ、と述べているのです。つまり、「「〜とは何か?」とは何か?」というメタ言明の立場に立つことができない旨を述べたのが、写像理論の肝なのです。繰り返しますと、「〜とは何か?」という「〜」の前提を超越的立場から俯瞰することなどあり得ず、命題の前提を完全に明示することなどできない、という言語の性質を述べたくだりなのです。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:57
実は、後年の「言語ゲーム」に至る素地を、『論考』の写像理論と真理関数理論が示しているのです。真理関数理論における有名な発見は、トートロジー(同語反復=恒真命題)です。ウィーン学団を始めとするおっちょこちょいは、数学の「等式」同様、論理学の「トートロジー」を単なる一つの規則としてしか評価しておりませんが、ウィトゲンシュタインの解釈は、全く違います。ここがポイントです。トートロジーを命題の前提と考え直してみて下さい。いかなる命題もトートロジーによって果てしなく前提を作り出すことが可能になる、というウィトゲンシュタインの発想に感嘆しませんか?
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:56
ウィトゲンシュタインに敷衍します。
『論考』は、「世界(=内在:ウィトゲンシュタインのいう世界は内在のみです)」はこうなっていると、ずらずらと御宣託のような命題で始まっておりますが、ここでウィトゲンシュタインが述べたかったのは、およそ論理によって「世界(=内在)」を語ることができるとすれば、「世界(=内在)」はこのよう「でなければならない」という「超越論的観念論」の立場なのです。
経験を可能にした先験的枠組み(カント)は、ウィトゲンシュタインの場合、論理における先験的枠組み(=写像理論と真理関数理論)に相当します(だんだん面白くなってきたのではないでしょうか?)。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:55
時間・空間やカテゴリーの内在的実在性に関しては、「アンチノミー(二律背反)」に陥ることを証明することで、人間が認識可能になる枠組みの非実在性(=超越論的観念論)を見事に示しております(熊野純彦著『カント―世界の限界を経験することは可能か』)。カントによるこうした超越論的枠組み(=超越論的観念論)という先験的設定のおかげで、認識するから実在するのではなく、実在するから認識する(=経験的実在論)という、いわゆる "常識" を再建することが可能になったのです。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:54
カントは、デカルトの立場をひっくり返した訳です。結論から申しますと、「経験的実在論=超越論的観念論」・・・これこそが、カントの偉大なる成果であり、ウィトゲンシュタインも属する「超越論哲学」の立場です。カントは、およそ人間が世界について認識可能であるためには、いくつかの「先験的な枠組み」がなければならないと考えました。この「・・・でなければならない」という考え方が、「超越論哲学」の肝なのです。具体的に言いますと、時間・空間とアリストテレスに由来するカテゴリー(因果律など)を「先験的な枠組み(=超越論的観念論)」として設定することではじめて、人間は「現象=内在」を理解できるようになるのだ、と述べたのです。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:52
デカルト的懐疑とは、命題の検証をどんなに積み重ねたところで錯誤の可能性が残る以上、命題は完全には検証され得ない、と云う「経験的(=内在的)観念論」です。「経験的観念論」とは、内在=観念、つまり「現象=絵空事」という意味ですが、これを超越論的視点から見直してみますと、デカルトは「究極的な実在=超越論的実在論」を措定しておいて、これに比べれば、内在はどこまでも疑い得るという考え方に立っていると解釈することができます。まとめますと、デカルトの立場は、「経験的観念論=超越論的実在論」ということになります。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:50
世界を「ありとあらゆるものの総体」と定義する以上、世界の外に「超越」を定義することができなくなったことを、顕わに示す意味で、超越論的(=先験的)という表現を用いております。
「内在/超越論的」という枠組みは、カントですと「現象(経験的)/物自体(or 実在)(先験的=超越論的)」ですし、『論考』のウィトゲンシュタインの場合は、「論理/倫理(=語りえぬもの)」となります。カントの考え方のポイントを簡単に述べますと、デカルト的懐疑(経験的観念論)の泥沼から、「現象=内在」の実在性を救済しようとしたことです。(私は、カントのこの仕事に非常な感銘を覚え、「超越論哲学」を支持するに至りました)
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:50
はじめまして。ビデオニュース・ドットコムへのトラックバックを拝見して伺いました。いくつか拝見しただけで、とても読み切れてはおりませんが、言葉を紡ぐことに喜びを持っておられる先達とお見受けいたしました。ウィトゲンシュタイン、無限に関して、私の所見を参考にして下さい。

先ず、私自身、大変敬愛しておりますウィトゲンシュタインに関してですが、彼の哲学は、カント、フッサールをはじめとするドイツ観念論の一大成果である「超越論哲学」に連なるものなのです。「超越論哲学」とは、世界(=ありとあらゆるものの総体:宮台真司先生の定義)を、内在と超越という二つの枠組みを通して解釈する立場(世界=内在+超越論的)です。
Posted by 沈思黙考 at 2006年10月20日 04:47