2006年08月19日

宮台真司氏の論理展開 4

宮台氏は『バックラッシュ!』(双風社)冒頭のインタビューの中でいくつかの命題としての言明を語っている。その命題の論理的根拠をたどってみようと思う。まずは次の命題から考える。


「権威主義者には弱者が多い。」


この命題には何となく正しさを感じる。権威主義者というのは、何か世間で権威あるものと認められているものを持ち出してきて、それを根拠に正当性を主張する人々を指す。つまり、その定義からは、自らの力で正当性を主張出来ないと言うようなニュアンスを感じる人々だ。そのように自らの力の弱さを持つ人々を「弱者」と呼ぶのは、言葉の使い方としては正しさを感じるものだ。

この場合、一般論としての論理的な根拠としては、「権威主義者」という集合をまず考える。次に、この「権威主義者」の集合の要素を、「弱者」とそうでないものに分けていく。そうすると結果として「弱者」の方が多くなると言うものが得られれば、この命題の正しさが確認出来ると言うことになるだろう。
宮台氏は、この命題を統計的に実証出来ると語り、その一例として田辺俊介氏の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005年)を挙げている。そこではISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析している。そして


「排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。」


と結論づけている。ここでは「権威主義者」というものの具体像を「排外的愛国主義にコミットする」者と見ている。そして、「低所得ないし低学歴層」という者を「弱者」と見ることで、そこへの偏りをそれが「多い」という風に見ていることになる。

「権威主義者」や「弱者」というのは、一般的な定義としてはかなり大雑把になってしまうが、具体的な対象を考えるときには、その言葉の定義にふさわしい属性を見つけることが出来るだろう。「排外的愛国主義にコミットする」者というのは、どのような具体像を持っているだろうか。

例えば小泉首相の「靖国参拝問題」に対して、国内問題に対して外国にとやかく言われる筋合いはないと主張する人々は、「排外的愛国主義にコミットする」ものと言えるだろうか。これは、何を根拠に「国内問題」だと語っているかで「排外的愛国主義」かどうかが決まるのではないだろうか。

「靖国参拝問題」が国内問題にとどまらず外交の問題になっているのは、単に中国や韓国が騒いでいるからだと短絡的に捉えている人は、「排外的愛国主義」ではないかと思われる。中国や韓国の主張の根幹をなすのは、サンフランシスコ講和条約によって出来上がった国際的了解の枠組みだ。だから、これに対して論理的な解釈をして、なおかつ国内問題であるという主張をしなければ、外国の言うことなんか知るものかという「排外的愛国主義」になってしまうのではないだろうか。

サンフランシスコ講和条約に対して、東京裁判の不当性を主張するのは、一つの論理的な解釈になるだろう。しかし、それを主張するのなら、正当な意味での戦争責任を語る必要がある。東京裁判は不当だから、サンフランシスコ講和条約の枠組みにも正当性はないとするなら、もう一度すべてをご破算にして一から戦争について考え直さなければならない。日本の未来にとってはその方がいいと僕も思うが、そのような主張はまだ見たことがない。それが出てくれば「排外的愛国主義」ではなくなるのだろうと思う。

「排外的愛国主義」は、単に外国の主張には耳を傾ける必要はないと主張するものだから、その主張の論理的正当性を語ることがない。だから「権威主義」にならざるを得ないのだろうと思うが、この場合の「権威」は誰になるだろうか。小泉さんがそのように語っているからそう思ってしまうという人がいたら、その人は間違いなく「排外的愛国主義」による「権威主義者」だろう。そう言う人は、もう一度その主張の正当性を考えてみることで「権威主義」を逃れることが出来るかも知れない。

マスコミの宣伝が「権威」となっている人もいるかも知れない。この場合は、マスコミの伝え方にもかなり問題があるのを感じる。このごろようやくサンフランシスコ講和条約についても言及するマスコミが増えてきたが、以前はそれには一言も触れなかった。

以前のマスコミ報道では、A級戦犯は戦争犯罪人であり、悪いことをした人たちだから、その人たちを祀ることに反省の否定があるというどちらかというと道徳的な非難があるという伝え方のように感じた。中国や韓国の批判が、もし道徳的な面であれば、それは「心の問題」であり国内問題だと感じても仕方がないだろう。言いがかりをつける中国や韓国の方が不当だと思う人が多くなるのではないかと思う。

しかし中国などの戦争に対する態度をよく見てみると、それはマルクス主義的な基本姿勢があり、日本人を帝国主義的な支配者の人間と、それの犠牲になった民衆とに分けて考えるというものがあることが分かる。サンフランシスコ講和条約の枠組みというのは、まさにこの見方にも整合するものになるわけだ。日本人民には罪はないけれど、支配した帝国主義者の側には罪があるという見方になるわけだ。

そして、その見方をすればこそ中国は、同じ犠牲者である日本人民には戦後賠償を求めなかったと言うことになる。これは姿勢や態度としては首尾一貫したものになっている。首相の「靖国参拝」は、この見方を根底から覆してご破算にするというものに見える。

日本人の中には、賠償はなかったけれど、経済援助などで賠償以上の償いをしているといいたいものもいるかも知れないが、これは言ってしまったらおしまいではないかと思う。経済援助は、あくまでも平時の関係であり戦争とは関係ない。これは、そんなことを言わずに、いい関係を保とうとする努力の中で、賠償はしなかったけれど日本人民の心として経済援助で、少しでも同じ犠牲者であるという気持ちを表したものとして、何も言わないことこそがその気持ちをもっとも伝えるものになるだろう。何か下心があって、賠償のかわりだなどと言いだしたら、関係は崩れ、むしろ賠償をよこせと言うことになっていくだろう。

「靖国参拝問題」には外交問題が含まれていることは明らかだが、それに対して外国が文句を言っているだけだと受け止める「排外的愛国主義」は、論理的根拠を持たないことを自覚しなければならない。そして論理的根拠を持たないことが、その根拠として何かの権威を引っ張り出すという「権威主義」につながると言うことも自覚しなければならない。

さて「排外的愛国主義」を唱える「権威主義者」たちは、果たして「弱者」が多いのだろうか。この場合何をもって「弱者」とするかという定義が問題だろう。「低学歴」「低所得」というのは、「弱者」の特徴の一つかも知れないが、それだけが「弱者」の属性だと単純に考えることも出来ない。また、今の「靖国参拝問題」でそれの統計を取って確かめるのも難しいだろう。

宮台氏のこの命題に関しては、実証的に正しさを確かめることも出来るが、一般論としての正しさを確認して、現象を解釈するときの仮説として利用した方がいいのではないかとも感じる。「権威主義者」というものを、自分で正当性を確かめるのではなく、権威に寄りかかって判断する人間と定義すれば、それが弱さの一つの性質だと考えるとき、一般論として「弱者」が多くなるだろうと予想出来るという風に演繹出来ると考えるわけだ。

宮台氏の命題は、その反対のように見える


<弱者の多くは、権威主義者になりやすい。>


という命題を考えると面白いのではないかと思う。弱者は、自分の力で何事かをなすのが難しい存在である。どこかにすがる必要がある。そのすがる対象として権威を選ぶというのは大いにあり得ることではないかと思う。何が権威あるものとして見えるのかという問題は、社会を考える上で大切なことではないかと思う。本当に権威あるものでなくとも、権威あるように見えると言うことの方が現代社会では大きいことのように感じる。

また日本人の特性を考える上で、自己決定能力の不足というのを考えると、日本人の大部分は「弱者」になりうる可能性が高いとも言える。サッカーのオシム監督なども、日本代表といわれる、いわばサッカー界のエリートのような日本人でさえも、自分で考えて動くと言うことが出来ないことを指摘している。エリートにも出来ないことをふつうの日本人が出来るようになるのはかなり難しいだろう。

そう考えると、日本人の大部分は「弱者」であると言ってもいいかも知れない。「弱者」である日本人は「権威主義者」になりやすいと考えれば、政治的にはこの大多数の「弱者」を獲得するために「権威」を利用した方がいいと言えるだろう。それも本当の「権威」ではなく、「権威」があるように見える存在を利用すると言うことになるだろう。

明治維新の頃に、そのように利用された最高の存在が天皇だったと宮台氏は語っていたが、それは今も変わらないのかも知れない。小泉さん自身も幻想としての「権威」を持たされた存在としてこの数年間君臨していたのではないだろうか。次の「権威」を誰が獲得するかと言うことが、政治的には大きな問題かも知れない。自民党内では今のところ安倍さんのような感じがするが、政治か全体としてみると、新たな「権威」は小沢一郎さんに移るかのような感じもする。

「権威主義者には弱者が多い」と言われると、何か悪口を言われているような感情的な反発を感じるかも知れないが、「弱者は権威主義者になりやすい」ということで考えると、自分がどうやって「弱者」を脱するかを考えるきっかけに出来るのではないだろうか。「弱者」(=自己決定能力が弱い人間という意味)を脱して「権威主義」からも脱したいものだと思う。日本におけるカルト宗教の弊害を脱する道も、「弱者」を脱する道として求められるかも知れない。「弱者」を脱することが出来れば、カルト教祖の「権威」にすがる必要がなくなると思われるからだ。

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