2006年09月18日

科学における定義について

三浦つとむさんは、ソシュールの「言語」の定義が、実際に表現された具体的な言葉としてのものではなく、頭の中の認識である規範になっているという批判を行っていた。これは、「言語」の定義としてはふさわしくないと言う批判だ。これは、具体的なコミュニケーションの場で使われる「言語」について解明しようとする三浦さんとしては、その理論の展開からすれば当然すぎる批判だろうと思う。規範はコミュニケーションの道具ではあってもコミュニケーションそのものではないからだ。

しかしソシュールは具体的なコミュニケーションを分析しようとしたのではないように僕には見える。ソシュールは、そもそもは様々な具体的な言語の成立と変遷の歴史を研究していたように見える。ソシュールにとっての関心は、具体的なコミュニケーションの場で使われる言語ではなく、まさに規範としての言語がどのような歴史を持っているかと言うことだったのではないだろうか。

僕はソシュールの「一般言語学」という言い方がとても気になっていた。これは「一般の」「言語学」なのか、「一般言語」の「学」なのかということだ。「一般」という言葉には、普遍性や抽象性というものがあるように感じる。「一般の」「言語学」であれば、すでに確立された「言語学」がいくつかあって、それに共通な要素を抽出して一般化するというようなニュアンスを感じる。ソシュール以前には、比較言語学というものがあったようだが、いくつも言語学が確立されていたのではないようだ。むしろソシュールによって初めて言語学が確立されたように言われている。
そうするとこれは「一般言語」の「学」という解釈をした方がいいのではないかとも思える。言語は、具体的な存在としては日本語であったり英語・フランス語などという個別的な「国語」の形態を持っている。それらは、語彙も文法もまったく違う言葉として存在する。しかし、これがコミュニケーションに使われるという面での共通点を探せば、個別的な言語ではなく「一般言語」とでも呼べるような対象が抽象出来るのではないだろうか。

この抽象は、過程の違いにより違うものが出てくる可能性があるのではないか。三浦さんのように、具体的なコミュニケーションの場で使われるという視点から抽象した「一般言語」と、他の視点から抽象した「一般言語」とでは、たとえ定義が違っていても両立しうるのではないか。

内田樹さんがソシュールを引用するときは、思考との関係で言語を語ることが多い。また、ソシュール言語学を受け継いだ人から、内言語の理論が生まれているようだ。内言語は思考にかかわる言語の側面を考察したものだ。これは偶然のことではなく、ソシュールの視点というものが、コミュニケーションよりも思考という側面の方へ向いているからではないのだろうか。

コミュニケーションにおける言語の解明については、三浦さんが語る言語過程説の方が正しい結論を提出しているのではないかと思う。しかし、思考にかかわる部分では、ソシュールの視点の方が優れている部分があるのではないかと最近は思うようになった。

知り合いの柴崎律さんは、三浦さんの言語学を基礎にして、障害児の言語の発達というものを考えている。それは、障害のない子どもの言語の獲得過程を解明することによって、障害児においてはそのどこが障害となっているかを明らかにしようと言うことだ。この解明は、本質的にコミュニケーションにおける言語というものが関わってくる。そうであれば、それは三浦さんの言語過程説の方が有効ではないかと思われる。

僕がいた養護学校では、障害児の言語獲得過程において、内言語の考え方が支配的だった。内言語が育った後に、その表現としての発話が始まるというような考え方だった。教育としては当然、内言語を育てるという方法を工夫することになる。僕は、これは反対ではないかと感じていた。

ソシュールの視点が、思考という面でのものであれば、それから導かれる内言語というのは、すでに思考が出来る人間の思考のメカニズムにおいて登場する抽象化された対象になる。内言語は育てるものではなく、すでに育っているものが対象になっているのではないかと思った。内言語というのは、それがすでに存在していることを前提として、その利用として思考のメカニズムが説明出来るというものではないかと思った。

言語が生まれてくる起源というのは、ある意味では誰にも分からないものとして理論の対象にするのはあきらめなければならないのかも知れない。あるいは、言語過程説でなら解明出来るものなのかも知れない。柴崎さんの考察は、これは言語過程説で解明出来るものだと考えているのかも知れない。

僕は、言語が生まれてくるメカニズムにも関心があるが、それは全く無から生まれて来るという前提での考察は難しいと思っている。つまり、歴史的起源は想像の範囲でしかないだろうと思っている。解明出来そうな可能性があるのは、むしろ言語が話されている現実の社会の中で、その具体的な言語を知らない人間が、いかに効率よく言語を獲得していくかという、言語能力の取得の方ではないだろうか。僕はそれに関心がある。

また、自分の思考のメカニズムをよく知って、難しい事柄でもそのメカニズムに効率よく合わせることによって、その難しさを克服する工夫が出来ないだろうかと言うことに関心がある。そういう意味でソシュールの再評価というものに関心を持っている。

このような関心から言語というものを見ると、言語規範を言語として定義することにも一定の有効性があるのを感じる。それを、コミュニケーションの解明のために、具体的な言語活動を分析することに使うのは難しいだろうと思う。しかし、思考のメカニズムにおける言語の役割を解明するには、言語規範を言語と考えるのも役立つのではないかと思う。これは、そのように考えるのが絶対的に間違えているとは言えないのではないか。

科学における定義は、その科学が何を解明するかという目的によっていると思う。宮台真司氏の「社会学入門講座」には難しい用語の定義が随所に出てくる。それは、日常言語的な解釈ではとても分からない、特殊な意味を持っている。「複雑性」という言葉などは、日常言語的なニュアンスとは反対の意味を持っている。これらの定義は、社会の現象を、その要素の寄せ集めではなく、集団として一つのまとまりを持ったもの「システム」として理解するために必要な定義となっている。

学術用語というのは、多かれ少なかれそのような特別な意味を持っているものを定義し直して使うようになる。そう呼ぶことの必然性は、理論の目的から求められる。そして、その必然性が良く感じられる定義は、理論にもっともふさわしい定義として認められるだろう。

そのような意味から言えば、言語規範を言語と定義することも、それが理論の目的にかなう定義であれば、何ら間違いではなくそう定義してもよいことであり、むしろそう定義しなければならないことになるかも知れない。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームという考え方では、ルールとして了解される対象は全て「言語」と呼ばれているようにも見える。それは、必ずしも口に出される必要もないし、文字として記述される必要もないようだ。言語ゲームというもので解明しようとしているのは、人間の行動一般という対象であるように感じる。人間の行動一般は、何らかのルールに従って行われているというのは、観察から得られる抽象ではないだろうか。そして、そのルールは、言語の獲得と同じ過程を経て身に付くように思われる。そこに「言語ゲーム」という概念が生まれてくるのではないだろうか。

言語の定義は、その目的によっていろいろ変わってもいいだろうというのが今の僕の考えだ。どれが絶対的に正しいと言うことはない。どの視点から見たときに、どの定義がもっともふさわしくなるかという妥当性が議論されるだけだという感じがする。

数学における用語の定義は、一般の科学の場合とちょっと違うところがある。それは、数学における定義は、たとえ表現は違っていても、同じ対象を扱っているときはそれが論理的に同値であることが証明されるからだ。つまり、どちらの定義を使っても、数学的には同じだということが言えるのが数学における用語の定義だ。

これは、数学というのは視点が固定されているからだと言うことが反映している。だから、数学では同じ対象は、まさにそっくり同じ対象になるのである。A=Aなのである。数学では群という対象に対する定義はいくつか違うものがあるが、その定義はどれも互いに同値であることが証明される。つまり、数学において群という対象はただ一つしかないのだ。

だが現実の対象を扱う普通の個別科学では、ある対象を上から見たときと下から見たときでは違うものに見えると言うことが起こる。その違いに応じて定義が違ってくる。それは当然見えるものが違ってくるから、その理論の展開において、その対象の姿が違うものとして登場する。この場合は、存在としての全体性はA=Aであっても、視点の違いによる対象は、一つはAであり、もう一方はBであるという、違うものを見ていると考えなければならないだろう。

もし個別科学において、同じ視点であるのに違う定義が提出されたとしたら、それは数学の場合と同じように、論理的には同値であることが証明されなければならないだろう。そうでなければどちらかの定義が間違っていると言うことになる。視点が違えば、定義が違ったとしても、それはどちらも妥当性を持つという両立の可能性を持っていると考えなければならないのではないかと思う。

ソシュールが本当は何を言いたかったかと言うことは解明出来ないだろう。しかし、ソシュールがどのような視点で言語を見ていたかは分かるのではないか。その視点で見たときに、ソシュールの言語の定義が妥当性を持つかどうか、そのことを考えるのに役立つような資料を探し求めたいものだと思う。

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この記事へのコメント
シカゴ・ブルースさんへ

トラック・バックは、シカゴ・ブルースさんの文章に具体的に言及したのではなく、一連のソシュールへの言及の全体に対して、感想というか意見を記したものになったので、特定のこのエントリーに対してという指摘が出来ませんでした。それで、僕の文章の中ではリンクをつけていませんでした。どこか、具体的な記述を引用して、そこに対する意見と言うことになれば。リンクを張ってトラックバックしておきたいと思います。

文字化けしていた名前は修正しておきました。これからも、言語と思考の関係については考えていきたいと思いますので、そのようなエントリーはトラックバックさせてもらえればと思っています。ただ、ソシュールがどう語っていたかと言うことを調べるのは難しいですね。
Posted by 秀 at 2006年09月18日 15:58
シカゴ・ブルースさんへ

言語が思考の際に使われるメカニズムを考えるのは、言語を意識の内部で考えるのではなく、ウィトゲンシュタイン的に言えば像としての働きを考察することになるのだと思います。これは、すでに出来上がっている言語規範の働きを考えることになるので、成立過程が捨象されていると考えられます。

コミュニケーションにおける表現としての言語の働きではなく、思考の際に使われる像としての言語の研究であれば、像としての言語規範を言語と呼ぶのには一定の整合性があるだろうと思います。この考察は、個別的な国語としての言語の特徴だけではなく、どの言語でも同じように考えられるところに一般性も考えられると思います。これがソシュールの考えと同じかどうかは僕には分かりませんが、このような対象を「一般言語」と呼んで、言語を使うことが論理的思考の過程を解明すると考えるのは、整合性があるように感じます。
Posted by 秀 at 2006年09月18日 15:53
「ソシュール用語を再規定する試み(1)」へのトラックバックの件ですが、「トラックバックを受信する際に相手先の記事にブログのURL(言及リンク)が含まれているかチェックする設定」をしているためにトラックバックがうまくいかないのだと思います。この設定を外しておきましたので、あらためてトラックバックをお願いします。

上のコメントの名前が文字化けしてしまいました。私のコメントです。
Posted by シカゴ・ブルース at 2006年09月18日 15:34
秀さん、こんにちは。

言語を意識の内部でだけ考えていたら、やはり言語のことは分からないでしょう。思考「言語」(内「言語」)についても同様です。これについては簡単に述べることは不可能ですので、指摘だけにとどめておきますが、個別概念の成立過程やそれが意識においてどのように認識されているかを無視している点でソシュール言語学は一般言語学たり得ないことだけはいっておきます。つまりできあがった言語規範そのもの分析するのみで、言語規範の形成過程についての研究が欠けているなら言語についての解明は不可能だろうと私は思います。言語の起源については人間の意識の起源についての研究が必要でしょうね。しかし乳幼児から大人に至るまでの言語の習得過程をつぶさに研究する中で個人における言語規範形成過程はかなり明らかにされるでしょうし、それによって言語の起源についてもその一端が明らかにされるだろうと思われます。
Posted by シカゴ・ブルース at 2006年09月18日 15:32