2006年11月16日

内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 5

瀬戸さんの「母親と保育所とおむつ」というエントリーの最後に書かれた、内田さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」の中の三砂さんの研究に関する部分の判断(解釈または感想)について考えてみようと思う。まずはそれを箇条書きにしてみる。


1「現実とは乖離した理想論」
2「その非を唱える者を「フェミニストたち」と十把一からげに論じていくのは、果たして学者として正しい論理の構築なのか」
3「内田さんは結局「母親よ家に帰れ」と言う結論に行き着くのだろうか」


このいずれの判断に対しても僕は異論があるので、その違いを考えてみたいと思う。ただ、瀬戸さんはこの判断を最後に結論だけを書いているので、その結論が導かれてきた具体的な道筋というものが僕には分からない。だからそれを一般的に想像してこんなものではないかとものを提出して、僕はそのように考えなかったという形での異論を述べることになる。だから、僕が想定した一般論を瀬戸さんが考えていなかったら、この反論は的はずれと言うことになるのだが、とりあえずは内田さんの言説をこのようには受け取らないと言う考えもあるということは示せるだろうと思う。
さて、「現実と乖離した理想論」は一般的にどのようなものがあるだろうか。例えば、いじめ問題の解決などで「誰もが相手のことを思いやり、暖かい親切な心で接することが大切だ」などと言って解決しようとするものなどがそれに当たるのではないだろうか。

誰もが「いい人」であるならいじめなどは起きないというのは「いい人」の定義から導かれる帰結だろうと思う。「いい人」はいじめなどはしない人だと思われているからだ。だが、全ての人が「いい人」になるということは現実にはあり得ない。ここが現実とは乖離しているところになるだろう。

また具体的にある人が常に「いい人」(=常によい結果をもたらす人)であるとも限らない。良かれと思ってやったことが悲惨な結果を招くことは歴史上いくらでも見つけることが出来る。板倉さんなどは「いじめは正義から起こる」と指摘しているように、「いい人」が行き過ぎるとそれは反対物に転化するという弁証法的な性格も指摘している。

この理想論は、個人としては理想だと思えることを社会全体に広げてしまうことで現実と乖離するのではないかと感じる。このようなものは一般的にいくつか見つけることが出来る。平和を願うことは個人としては価値のあることだが、それを社会全体に広げて、みんなが平和を願えば平和が実現出来ると短絡的に考えれば、それは現実と乖離した理想論になる。

家族を大事にし、公の精神である愛国心を持った国民が育てば、社会は秩序が守られみんなが幸せになると言うのも一つの理想論だ。だがこれも、教育基本法を変えてそのような方向に教育をシフトさせようとしても、個人としてはいいと思っていたことが社会にそのまま実現するとは限らない。現実と乖離した理想論になる恐れはかなりある。

個人にとって理想だと思えることが、社会においては間違った方向へ行きかねない乖離したものになる要因はどこにあるのだろうか。一つには文脈上の意味が違ってくると言うことがあるだろう。親切と思いやりという個人的価値が、社会全体の中では一歩間違うとお節介や干渉というものに転化する恐れがある。これは意味的な変化なので、外見は全く同じ行動であってもこのようになることがあるだろう。

もう一つは心理主義的な思い込みの間違いがあるような気がする。個人にとって倫理的にいいと思ったことは、その個人の意志によって実現されるのであるから、自然科学の法則のような必然性はない。多くの個人の意志が一定の方向に行くようにするには、社会のメカニズムに働きかける必要がある。理想論が現実と乖離しないために、その現実的な有効性をもたらすための具体的な働きかけがなければならない。

さて、内田さんが語る三砂さんの「おむつ研究」には、このような「現実と乖離した理想論」の一般的な性格が見つかるだろうか。瀬戸さんは内田さんの次の言葉を引用している。


「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆらぎない基礎を与えることになるであろう。
どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。」


この中に、瀬戸さんが考える「現実と乖離した理想論」が語られているのではないかと僕は予想した。「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、内田さんによればフェミニストからは反対される考えだそうだが、おむつと排便を介したコミュニケーションで、このような細やかさを経験した子どもはその後の人生によい影響が与えられると内田さんは考えているように思われる。

これは果たして「現実と乖離した理想論」に当たるものだろうか。全ての母親が細やかなコミュニケーションをすることによって子どもが健全に育つというような主張であれば、それは乖離しそうな気がしてくる。全ての人間が親切で思いやりのある人ならいじめはなくなると考えるようなものだ。だが、文脈上の解釈で、内田さんの言葉をそのように解釈出来るだろうか。

僕の解釈では、内田さんの上の言葉は、時間的な事実関係を因果関係として受け取ろうという仮説を語っているように感じる。それぞれを時間の流れに沿って記述すると


  「おむつの要らない育てられ方をした」
      ↓
  「世界の中に私が存在することのたしかさ」を実感する
      ↓
  「これがそれから後の子どもの人生に」「ゆらぎない基礎を与える」
      ↓
  「「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになる」


これらが時間的な流れの中で起こるかどうかは観察による。もし観察によって、この順で事実が確認出来れば、その間に時間的なつながりだけではなく、内的な必然性があると言えれば因果関係があるという判断も出来るだろう。それが最後の「であろうか。」と言う結びの言葉に表されている。

ここで語られているのは、全ての母親がそうあるべきだという倫理的な規定ではない。むしろ観察と考察によって因果関係の発見をすることには価値があると言うことを述べているのだと僕は感じる。その因果関係がはっきりと言えるものであるかは、これからの研究によっている。

そして研究によって因果関係が求められれば、結果的に子どもにもたらされる「揺らぎない基礎」としての自信が大切だと考える人は、この研究を有効に活用しておむつのいらない育て方をすることになるだろう。それは、正しいからこそその方向を選ぶ人が出てくるというごく自然な方向へいくものだと思う。こうあるべきだと言うことで押しつけるものにはならないだろう。

もし、こうあるべきだと言うことで押しつけるような傾向がこの研究に出てきたら、その時点で反対することには大きな意義があり正しいと言うことになるだろう。その時はフェミニズム的な考察は現実に有効になるに違いない。内田さんがどこかで語っていたが、マルクシズムにしても、フェミニズムにしても、現実がどこか行き過ぎようとしているときその反対方向の力としてそれが存在することには大きな意義があるということが、その時に証明されるのではないかと思う。だが、まだ行き過ぎていないものに対してあまりにも大きな反対方向の力は、間違った方向へのシフトを生み出すのではないかと思う。

理想論が現実と乖離するのは、理想論を現実の条件を無視してそのまま現実に適用しようとするときに顕著に表れると思われるが、科学上の理論はある意味では全て理想論であるとも言える。現実を抽象して、抽象的対象に対して成立する法則をまず求めるというのが科学の方法だ。それは、あまりにも複雑に錯綜した要素を含んだ現実をそのまま法則化することが出来ないので、単純な関係を持った要素に分解した対象の間の法則性を求めることから出発しなければならないからだ。

内田さんが語る三砂さんの研究は、まだスタートしたばかりの理想論の段階で、それはまだ現実に適用されてはいない。現実の適用は全て仮説として想定されているだろう。だから、この時点ではまだ現実との乖離を判断する段階ではないように僕は思う。

将来的にこの研究が現実と乖離する可能性はあるだろうが、それは何も確かなことは言えない。もしそのことで確かなことが言えるなら、そのような批判こそが大事なことであって、具体的にこの理論が現実と乖離するだろうという予想を語らなければならないだろう。一般的に、現実と乖離する可能性があるからその研究をすべきでないという圧力がかかるなら、それは学問の自由を脅かすものになるのではないか。

内田さんは「もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである」と語っている。現実的な圧力があることは確認しているようだ。この圧力が学問の自由を脅かすことのないように願っている。

また「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」という言葉の中の「母親」という文言に敏感に反応してしまう人がいるかもしれない。これは「父親」だっていいのではないかという感情的な反発だ。これはもちろん「父親」であってもかまわないと思う。また母でも父でもない、他の誰か「他者」であってもかまわない。とにかく、細やかなコミュニケーションというのは、人間が生きていく上で高い価値を持ったものであることは間違いないだろう。

ただ、母親でなくてもかまわないと言うことから、それが母親にとって「必要」でないという否定は導くことは出来ないだろう。否定してしまうことは行き過ぎだ。ここでは「母親」という言葉が出てきていることをフェミニズム的に解釈するのではなく、事実として価値観抜きで捉えると言うことが大事だと思う。

僕自身は母親がいないときには当然子どものおむつを替えたりしたけれど、今の状況では圧倒的に母親がおむつ交換をすることが多いだろう。だからおむつ研究の現実的な事実としては、母親と子どものコミュニケーションのことが研究の対象になるというのは事実としてあるのだと思う。それは、母親がその役割を担うべきだという主張とは別のものだと思う。

僕自身は、子どものおむつを替えるのに事後的な対処しかできなかったが、もしもこのような観点での事実を知っていたら、子どもの反応を読みとる技術を身につけられただろうと思う。時間を元に戻すことは出来ないが、それは残念なことだったなと感じている。

一つの考察だけでかなり長くなった。残りのものはまた項を改めて考えてみたい。

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この記事へのコメント
シグナルが読めるのは母親でなくてもかまわないと言うことから、細やかなコミュニケーションが母親にとって「必要」でないという否定は導くことは出来ないだろうとは私も思います。
むしろ、シグナルの読めない母親(であれ誰であれ)が細やかなコミュニケーションにとって「必要」でないという否定が導けると考えます。

つまり「おむつ」を使う“その人にとって”、シグナルを読むコミュニケーションが不要かどうかはよくわかりませんが、その人は“そのコミュニケーションにとって”間違いなく不要です。その人がいなくても代わりがいるのですから。そのコミュニケーションの一方の当事者である子供からすれば、その人は「他者」ではないことになります。とはいえもちろん「自己」でもありませんから、端的にそんな人は「存在しない」ということです。

そういう殺伐としたことにならないように…という提案なのでしょう、内田さんの説は。
Posted by igel at 2006年11月17日 18:10