2006年12月23日

民主党提案の「日本国教育基本法」案 考察2

民主党の「日本国教育基本法」の考察をしたいと思う。基本的に、僕はマル激での鈴木寛氏の見解に感服したので、その鈴木氏が作ったこの法案にも高い評価をしている。さて、参考にするのは「日本国教育基本法案 解説書」で、前回は前文を読んでみた。その時に感じたのは、民主党案は非常に具体性を持っていると言うことだった。

それが第1条の「教育の目的」になると一変する。政府案の方が具体的で、民主党案の方は抽象的になるのだ。そして、政府案の方に、多くの人が危惧する「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という言葉が入っている。これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られているものだ。

民主党案の方では前文の方に「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」ものが「我々が目指す教育」だと語っている。この民主党案の「愛国心」と政府案の「愛国心」をどう受け止めるかを考えてみた。


最初僕は、民主党案が前文に書かれていたのは、理念として立てているという面が強くて、それを実際の教育現場の中に持ち込もうとしていないからではないかと感じた。それに対して、政府案は条文の方に書かれていることから、「愛国心」教育を現場で実践することを求めているのではないかと思った。前文は理念、条文は実際の拘束力ある規定、というふうに考えていた。

しかし、法律に詳しい友人に聞いたところ、法律としての拘束力は、前文であるか条文であるかに関係なく、それの解釈をどうするかにかかっていると言うことを知った。そういわれてみると、確かに政府案の「愛国心」にしても、条文を読む限りでは抽象的な理念としての解釈も出来る。だが、「態度を養う」ことを教育の中に取り入れることを示しているようにも読むことが出来る。解釈次第で拘束力の範囲が違ってくる。

ということは、どのような解釈の元に法律が提出されているかを考えることが大事だと言うことになる。政府案の方では、実際に「愛国心」の授業のようなものが研究・実践されていると言うことが、マル激の鈴木邦生さんとの議論で出されていたことを考えると、解釈としてはやはり教育の現場で「愛国心」を教えることを意図して出されたと解釈した方がいいだろう。

鈴木さんの紹介では、教師の方が日本の優れている点を教えて、「日本はこんなに素晴らしい国だから皆さん愛しましょう」というような形の授業をしていたということだった。これに対して宮台氏は、「美しいから愛する」と言うことは、本来の「愛国心」の本義にもとることだと批判していた。「美しいから愛する」のなら、「美しくなければ愛さないのか」と言うことを問われてしまう。

「愛国心」というのは、何か理由があって国を愛するのではない。日本に生まれて、日本で育って、まさに日本が祖国だからこそ愛するのだという気持ちが本物の「愛国心」だというのだ。これには僕も同感だ。そして、宮台氏は、祖国だから愛する日本が、時の政府によって道を誤っていると判断できれば、その政府を討つことこそが「愛国心」の発露ともなると主張していた。これにも同感だ。真の「愛国心」は、時の政府が売国奴的な行為に走らず、愛する祖国の統治にふさわしい政府であるかどうか常に監視する責任を引き受けるものでなければならない。それが公共心というものだろう。

もし教育現場に「愛国心」を持ち込むならば、何が本当の「愛国心」なのかという議論をしなければならない。今の政府に協力しましょうなどと言うのは、「愛政府」であって、「愛国心」ではないのである。

鈴木氏の基本的な立ち位置は、真の「愛国心」は権力の側が決定できるものではないというものだ。その基本的な考え方があれば、「愛国心」を押しつけようという解釈は出てくることはないと思われる。これは、鈴木氏個人の解釈だという受け取り方もあるだろうから、法律成立の際には、押しつけになるような解釈はしないということを確認しておくことは必要かも知れないが。

さて押しつけでない「愛国心」であれば、民主党が前文で書いた「日本を愛する心を涵養し」と言うことはどのように実現されるのだろうか。教育現場で「愛国心」の授業をせずに、このことが実現されるとするなら、鈴木氏はどのような方法を想定しているのだろうか。そのヒントになることをマル激では語っていた。

鈴木氏によれば、民主党案の中心となるべきものは実は第2条にあるという。そこでは「学ぶ権利の保障」が語られている。ここでは現行法案と政府案も比較されているが、それらに書かれているのは「教育の機会均等」である。この違いこそが民主党案の理念の本質を語っているという。

「教育の機会均等」というのは、もしも何らかの不平等があったときには、それを正さなければならないという解釈が出来る。これは、ある意味ではあまり積極的な行為には結びつかない。不平等でなければいいのだから、ほとんどの人が低いレベルに甘んじているときは、一応形としては機会が均等されているので、改善されなくても仕方がないということになる。みんなが安い給料で働いていれば、不平等だという文句は言えない。平等にしなければならないという規定は、給料そのものが安いという文句には結びつかない。

それに対し民主党が主張する「学ぶ権利の保障」は、これは要求することを可能にする。民主党があげている権利には次のようなものがある。


「学問の自由と教育の目的の尊重のもとに、健康で文化的な生活を営むための学びを十分に奨励され、支援され、及び保障され、その内容を選択し、及び決定する権利を有する。」
「その発達段階及びそれぞれの状況に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境を享受する権利を有する。」


この権利こそが、「愛国心」を巡るジレンマを解決し、「日本を愛する心を涵養し」という教育に結びついてくる。鈴木氏は、コミュニティ・スクールの構想も進めているそうだが、それは地方の教育は地方で作っていくという思想に基づいている。つまり、何が「愛国心」であるかは、教育の「内容を選択し、及び決定する権利」によって、コミュニティが決定するというのだ。

コミュニティが決定する「愛国心」は「パトリオティズム(愛郷心)」に基づくものであって、愛する郷土を屠るような国家権力の「愛国心」を押しつけてくるようなら、その「愛国心」を拒否する権利を有すると言うことをこの条文が保証していると解釈していた。

「愛政府」としての「愛国心」を押しつけてくるようなものを肯定しようとする、タウン・ミーティングにおけるヤラセ行為などは、コミュニティにとっては拒否すべき「愛国心」と言うことになる。その場合は、そのような画策をする文部官僚は、売国奴であり「非国民」だという告発が出来るという。もちろん、これは冗談として語っていたのだが。

民主党案の解釈は、書かれた文章だけから解釈するなら、あとからいくらでも変えることが出来るだろう。しかし、鈴木氏が作成した意図を解釈として受け取るなら、これは優れた提案のように僕には見える。鈴木氏が優れていると思えるところは、マル激の議論の中で随所に見られる。

鈴木氏は、学校現場に徹底的な地域の自治を持ち込むことに努力しているように感じる。地域の教育にとって、何が本当に大事なのかは、その地域に住んでいる当事者でなければ分からない、ということが基本にある。それは、時に判断を間違えることがあるかも知れないが、その間違いから学んでいって、修正することが出来るという期待もしている。これは論理的にも納得できる。何しろ、地域の当事者は、その教育における利害当事者でもあるのだから、間違いを続けていれば自分に害悪が降りかかってくる。自分の利益になるように考えるなら、間違いを修正する方が論理的な整合性を持っている。

それに対して、地方の事情を知らない中央の大きな組織・文部科学省は、一般的に正しいと思えるようなことを押しつけてくるだろう。その時に、地方の事情が、その一般性を正しくするような条件を持っていないとしても、中央の大組織にはそれが分からない。つまり、間違えても修正が出来ないと言うわけだ。

教育に対しては地域の自治にまかせるべきだという発想は、教育を捉えるセンスとしても正しいと僕は思う。そして、鈴木さんが感激を込めて紹介した、地域の教育を考える過程での人々の成長というものも、教育において重要なものだと思った。それに感激するセンスも素晴らしいものだと思った。

鈴木さんによれば、最初は地域の大人として面倒な役を引き受けたと思った人々が、自分たちの地域の学校を良くするため、子どもたちに少しでも言い教育をしようと考えて、いろいろと勉強し始めるというのだ。その人たちは、そのような機会がなければ、指導要領を読むなどということはおそらく無かったと思う。だが、指導要領を読んでみて、さらに学校のことをよく知るために、学校教育法を読んだという委員のことを紹介していた。

この委員は、特に教育を専門的に考えてきた人ではなく、たまたま委員を引き受けたという人だ。地域の名士だったり、地方議員だったりした人でもない。いわば普通のおじさん・おばさんたちだ。このような人々を「市民」と呼んでもいいだろう。コミュニティ・スクールの構想は、子どものための教育を改革するだけではなく、それを通じて大人の教育・市民教育にも役立っている。このような経験で高い公共性を持った大人が増えれば、それこそつまらない押しつけ道徳などをしなくても、公共性というものが「涵養」されていくのではないだろうか。水が自然にしみこむように。

鈴木氏は、権力闘争的な政治ではなく、民主主義を支える市民を基礎にした政治の展開において優れた能力を持った政治家だと思う。その鈴木氏が作った「日本国教育基本法」には大いなる関心を引かれる。そして、鈴木氏の解釈にしたがってこの法案を受け取る限りにおいては、僕は、これは現行法よりも優れているのではないかとも感じる。なぜなら、この法案の方が、現在の教育の問題に対処するのに有効なツールとして使えるのではないかと思うからだ。

追記
本題とは関係ないのだが、宮台氏が最後に語った、「現行の教育制度に関して、教員組合というものが、その利害当事者であり利益享受をしているステイク・ホルダーであることをどう捉えるか」ということが気にかかった。現在の教育問題を解決するには、現行の教育制度を根本から変えなければならない面がある。しかし、現行の教育制度から利益を得ている人々はその変更に抵抗するだろう。教員組合が、本質的な改革の邪魔になるかもしれないということをどう捉えるか、というのは当事者として深刻な問題だ。もちろん全てにおいて邪魔をしているわけではない。だが、本質において邪魔をしているなら、その部分を克服できるかどうかで、教員組合の存在意義が問われることになるだろう。克服できないなら、統治権力の攻撃を跳ね返すことが出来なくなるのではないかと思う。詳しく検討してみたいと思う。

khideaki at 11:12│Comments(2)TrackBack(0) 教育 

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この記事へのコメント

2. Posted by 秀   2006年12月24日 09:55
ひよこさんへ

権力批判があまり力を持たなくなったのは、宮台氏が語る「成熟社会」というものの時代的な変化が影響しているのではないかと思います。かつての時代だったら、権力の側は、国家という大きな存在の発展のために国民の犠牲もやむを得ないと言う考えがあっただろうし、国民の方では、同じような感性を共有していて、権力の横暴に対して共感できる素地があったと思います。

今はそれが多様に分化した時代になっているように思います。だから、ある立場にとっては正当な権力批判が、別の立場に立つ人には単なるわがままのようにしか見えなくなります。宮台氏は、誰が弱者なのかが分からなくなった時代と、現在を捉えているようです。弱者の平等化の要求が、エゴイスティックな利権の要求に見えると、権力批判に嫌気がさすのではないかと思います。ただ過度の相対化は、全てを「見解の相違」にしてしまうのでそのバランスが微妙です。
1. Posted by ひよこ   2006年12月23日 13:56
最近論調が変わってきましたね。それも私がうれしい方向で。

正直言って、小泉、安倍批判は飽きました。そんなことは誰にも出来るのです。私は政府案と別の新しい道筋を示してくれる日を待っていたのです。民主党は今回はそれを実行したようですね。

私が常々心配しているのは、権力という鬼に逆らいたいばっかりに、ほかの恐ろしい鬼にはノーマークな世の中のカラクリです。政府の批判をすることしか頭に無い人たちは、そういった複合的な社会構造が全く見えていません。

権力を批判するには必ず相対的な比較検討が必要なのであって、今回は民主党の法案の論理の流れ云々じゃなく、もっと根本的な問題として、秀さんの味方したいと思ったわけであります。

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