2007年03月16日

「南京大虐殺」はあったのか?

宮台真司氏が「南京大虐殺」というものに疑問を呈して、それが「なかった」と受け取れるような発言をしたときに僕は大きな違和感を感じていた。しかし、その「なかった」という意味は、「南京大虐殺」そのものを否定するいわゆる「否定派」と呼ばれる人々の言説とは違うだろうという感じも抱いていた。

「週刊ミヤダイ」というインターネットラジオの放送を聞いて、それが蓋然性の問題として、中国などが主張する「30万人説」に蓋然性がないという意味での「なかった」ということなのだということが最近分かった。つまり、宮台氏が語る「なかった」という意味は、中国などが主張する「虐殺者が30万人いたという意味での南京大虐殺」はなかったということだったのだ。

このとき重要なのは、虐殺者が30万人に達していたかどうかということだ。犠牲者が30万人いたかどうかということではない。虐殺者が30万人いたということは、論理的な問題として考えた場合に、その蓋然性はほとんどありえないという意味で蓋然性が低いと判断できる。これは論理の問題であって、具体的なデータの問題ではない、と僕は判断する。

具体的なデータの問題は、100%の確実性を要求すれば、すべての場合に渡って疑わしいとしか言いようがなくなる。だからこそ蓋然性が問題になるのだが、その蓋然性はデータによって生み出されるものではない。データそのものは、結果的には信用できるかできないかという二者択一の結論しかないもので、それこそ0か100かという話になってしまう。

それをどの程度信用できるかという「程度の問題」にするのは論理の問題なのである。そして、論理の問題として重要なのは、その考察している対象をどのように定義するかという言葉の問題でもある。「虐殺」というのは、いったいどのようなものを指すのか。

日本軍に殺された中国人はすべて「虐殺」だと定義すればすっきりしていてわかりやすいが、これは客観的に見て賛成する人はほとんどいないだろう。だから、犠牲者数=虐殺者数ではない。そうであれば、30万人説で主張されている人数が、いわゆる南京攻略戦における犠牲者数とほとんど変わらない数なら、それは具体的なデータにかかわらず、論理的に言って蓋然性がないと結論できるのである。

南京攻略戦というものが、どこからどこまでの範囲を含むものかというのでは異論があることだろう。だから、このことで100%確実なデータを出すことなど出来ないに違いない。これもどの程度なのかは蓋然性の問題であり、「程度の問題」だ。その数が、30万人に近い数であるなら、どのような数であろうとも、論理的には、犠牲者数=虐殺者数ではないのだから、虐殺者30万人説というのは論理的に言って蓋然性はなくなる。

それでは、南京攻略戦の犠牲者数が30万人をはるかに超える数だったら、虐殺者30万人説は蓋然性が高まるかといえば、これは論理的にはそうはならない。なぜなら、そのような結論を出すには、論理的に、犠牲者数の中に占める虐殺者数が一定の割合で算出できるという前提が必要だからだ。このような前提がなければ、数が多ければ虐殺者も多いというわけにはいかない。

30万人説の蓋然性を高めるには、実際に30万を虐殺できるだけの可能性があるということを示さなければならない。それは、30万人の対象となる人間が確かにいたということを示すことがまず必要だ。そういう意味で、南京陥落後の人口が問題にされるのだと思う。

これは、当時南京全体にどれだけの人が住んでいたかという問題ではない。そのような人口が何人いようとも、その数だけでは30万人説の蓋然性の証拠にはならない。なぜなら、戦闘行為の途中での虐殺というのは、たとえあったとしても計算上は誤差が大きすぎて、数を算出しても意味がないからだ。虐殺なのか、戦闘行為における結果としての死者なのかが判定できないだろう。そのような数を虐殺者の中に含めるなら、これは虐殺者数を論議することに始めから意味がなくなる。

東京大空襲や広島・長崎の原爆で犠牲になった民間人は、僕の感覚で言えばすべて虐殺者だと思うのだが、これも戦闘行為の延長での死者であり、比喩的に言えば事故で死んだことと同じだと判断する人もいるだろう。虐殺ではなく、止むを得ない犠牲だったという考えは、アメリカ人などはだいたいそうではないかと思う。これらの犠牲者を虐殺されたというのは、日本人としての立場からそう思えるというのではなく、客観的に見てやはり虐殺だと思うのだが、それでも異論が出るくらいだから、戦闘行為の途中での死者に対しては、それは虐殺者として客観的な数字には出せないだろうと思う。

そうであれば、虐殺者の中に、戦闘行為中の人数がかなり含まれていれば、それはやはり蓋然性はなくなるだろう。ある立場からすればそう考えられるが、客観的にはそうは言えないという主張になる。戦闘行為終了後の虐殺者が29万人で、戦闘行為中の虐殺者を1万人くらいと推定して30万人にしているのであれば、それはほぼ30万人という言い方もできることになる。だから、30万人説が主張する虐殺者数は、ほとんどが戦闘行為終了後だと考えなければ、蓋然性を議論することにそもそも意味がなくなるだろうと思う。

そうすると、南京の人口に関しても、戦闘行為終了後に日本軍が駐留して活動できる地域に住んでいた人がどれくらいいたか、あるいは捕虜の数がどれくらいいたかということが問題になってくる。南京全体の人口というような大雑把な数では議論にならない。南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が収容数を20万人と認識していたということが問題にされるのは、このような考えからだろうと思う。

虐殺者というものを、戦闘行為終了後に、正当な手続きなしに処刑あるいは、犯罪行為の末に殺された人々と定義するなら、30万人という数が多すぎる数であり、論理的にはありえないという結論にならざるを得ないだろう。これには多少の誤差もあるだろうが、この蓋然性はデータの問題ではなく、定義から導かれる論理の問題なのである。

もし30万人説を正しいとするなら、それこそ当時の日本軍が毎日公務として虐殺でもしていない限り30万人には達しないのではないか。ナチスが作ったアウシュビッツのような殺人システムがなければこの数は無理なのではないか、というのが蓋然性の問題だ。

勘違いしてはいけないのは、30万人説に蓋然性がないからといって、虐殺の事実そのものに蓋然性がないわけではないということだ。虐殺の事実そのものを否定する人はほとんどいないし、事実否定説に対しては、これもまったく蓋然性がないと考える人のほうが多いだろう。正当な手続きなしに処刑された捕虜についての報告もあるし、犯罪行為によって殺された民間人も多くいたということも語られている。

30万人いたから「大虐殺」だという論理は危うい論理なのだと思う。数がどのくらいいたかにかかわらず、不当行為によって殺されたのなら「虐殺」なのだと思う。それが大きいか小さいかなどは問題にしても仕方がないのではないか。むしろ不当性をこそ深く追求しなければならないのではないか。

30万人という数はインパクトがあるし、これだけの人数が虐殺されたのであれば、日本軍による行為の責任の重さというのも、他の具体的な指摘がなくても、これだけを根拠に追求が行えるほどのものになってしまう。追求する側にとって、30万人が虐殺されたというのはまことに都合のいいことだ。しかし、都合がいいだけに、それが覆されたときのダメージもまた計り知れない。

権力を握っている側だったら、このような誇張によるプロパガンダをしても、大衆動員ができればいいという考えも出てくるだろう。宣伝に対するナチスの考え方などはそうだったようだ。しかし、権力のない側が同じように発想するのは致命的なダメージにつながりかねない。宣伝のためなら嘘でも利用しろというのは、権力のない側にとっては最終的にはマイナスに作用するだろうと僕は思う。

虐殺者数が30万人でなければ虐殺の主張ができないということがそもそもおかしいのだと思う。不当に殺されたという事実は、数の問題ではなく、個別的な事実で十分インパクトを持つ主張になるだろう。本多勝一さんの『中国の旅』が報告したものはまさにそのようなものだったのではないのだろうか。

また、日本の側にとっても、当時の不当行為の原因がどこにあるかを真摯に反省して自覚するのは大きなプラスになることだと思う。当時の軍隊という組織の非人間性がその原因の大きな部分を占めていると思うのだが、それは、ひいては日本社会の非論理性や非科学性にも通じているのではないかと思う。そのような日本社会の欠陥を自覚するためにこそ反省をすべきではないかと思う。

30万人説というのは、そのような反省を促す力にはならない。むしろ反発を呼ぶだけだろうし、それが明らかな嘘だということが判明してしまえば、バックラッシュ現象が起こるに違いない。宮台真司氏が「左翼の嘘」というものを語るとき、それこそが昨今の右翼化とバックラッシュ現象の現実的な根拠だと語っているような気がする。それは、バックラッシュ言説の内容が正しいということを語っているのではなく、バックラッシュ言説が起こってくる現象を合理的に理解するには、その原因としての「左翼の嘘」に注目しろということなのだろうと思う。

30万人説を語ることは戦術的に非常にまずいことになるだろうと思う。そのことに対する反発で、本来は不当性が存在する南京事件に対して、その不当性さえも否定したくなるナショナリズムを日本の側に生み出しかねないのではないかと思う。これは、むしろ現在の日本の統治権力にとって有利に働くのではないかと思う。中国が、今の日本の統治権力と手を握って、自国民に対してはプロパガンダをしたいというのなら、30万人説は便利なのかもしれないが。

宮台氏も僕も、否定したいのは30万人説であり、南京事件そのものではない。むしろ、南京事件の本来の意味=本質を知るためにも、胡散臭い30万人説は否定されなければならないのではないかと考えるのである。

今議論されているのは30万人説ではないと言いたい人もいるかもしれないが、それならそれで30万人説を否定されたくらいで敏感に反応する必要はないだろう。30万人説が否定されるのが当たり前で、今は本来の問題の議論をしているのだというなら、南京事件の問題は、やがて政治家も妄言をはかなくなるだろう。しかし、いつまでも「あったか、なかったか」という議論がされているというのは、僕はこの問題がまだ決着を見ていないのだと思う。少なくとも、中国側がこの問題の健全な方向に気づかなければ30万人説は克復されたとはいえないのではないかと思う。

khideaki at 10:30│Comments(24)TrackBack(1) 雑文 | 歴史

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1. [南京事件]「論理」で「犠牲者30万人」の「蓋然性」を否定する数学屋さん  [ Apes! Not Monkeys! はてな別館 ]   2007年03月17日 12:20
私が「宮台真司、河野談話と南京事件について語る(追記あり)」で批判した宮台真司のラジオ発言を受けて「数学屋のメガネ」の秀さんが書かれたエントリについて。 蓋然性の問題 「南京大虐殺」はあったのか? すでに何度か述べてきたことだがこの際繰り返しておくと、現時

この記事へのコメント

25. Posted by 秀   2007年03月19日 10:55
青狐さんへ

とりあえず一つだけ返事をします。

僕が否定しているのは、30万という数字であって、「虐殺」という現象ではありません。だから、必然性をうんぬんするのも、当然ながら30万人という数字の必然性です。そして、それは、単に犠牲者が30万人いたということではなく、虐殺された人が30万人いたということです。

アウシュビッツと比較したのは、アウシュビッツでは、一日に虐殺される人の数がわかっているからです。単純に計算できるという点で必然性のある数字が出せるということです。それはもちろん誤差があるでしょうが、その誤差の範囲でさえ決めることが出来るという点で必然性の判断に耐えうるのです。
24. Posted by ゼームス槇   2007年03月19日 01:32
>日本軍に殺された中国人はすべて「虐殺」だと定義すればすっきりしていてわかりやすい
初めて投稿します。南京事件にお詳しいようなのでお聞きしたのですが、
中国人の学者が主張しているのは、まさにそういう事と笠原氏が書いていたと思います。即ち、南京事件の犠牲者は、日本軍に殺された全ての中国人であり、
その中には戦闘中に死んだ兵士や、戦闘に巻き込まれて死んだ民間人も含まれる。
あなたは南京事件での日本の責任を直視しているようなので、お聞きしたいのですが、そうした主張になんと答えるのですか?責任を直視するとはそういう相手の立場や考え方を理解した上で、発展的関係を結ぼうという姿勢の現れと思うのですが?
23. Posted by 青狐   2007年03月19日 01:09
さらに数点指摘できますが、ここまでにしましょう。
このような多層的な原因が絡まって「大量虐殺」が発生したというのが、歴史学者の「原因論」に関する考察の蓄積(についての私の理解)です。
これらを踏まえてなお「必然性がない」と秀さんが仰るなら、必然性の有無について議論を継続しましょう。
22. Posted by 青狐   2007年03月19日 01:08
さて視点を変えると、食糧を節約するために捕虜を殺害したという問題があります。岡村寧次大将は、南京戦後に上海に入り、南京戦に参加した原田少将らから以下のような報告を受けています。
「一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある 」
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20070314

さらに以下の要素もあります。
・侵略者が当然抱えるであろう不安…勝手知らない都市に入ってきて、自分たち以外は全て潜在的に敵という状況→不安を打ち消すために最も確実な方法は殺してしまうことである
・さらに、朝香宮(司令官)らの「入城式」を行うことに固執→凱旋する朝香宮の安全を確保するという目的、あるいは名目で、疑わしき者はすべて殺してしまう
21. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:56
(二重投稿かもしれません。その場合は削除してください)
そのうえ、上海戦から南京侵攻戦の間に、日本兵が「凶暴化」していたことは吉田裕氏ほかの著作で詳細に示されています。上海戦で多くの日本兵は「復仇心」を高じていましたし、さらに自軍から食糧の補給が行われなかったことから「山賊・盗賊」のごとく掠奪・放火等常態化していました。このような凶暴化した軍隊は、通常都市内に入れてはいけない。しかし日本軍はなし崩し的に南京城内に入れてしまいました。それこそ蓋然性の問題として、凶暴化した日本兵が暴虐行為を働かないとは考えがたい。実際、現地に入った日高信六郎・大使館参事官は日本兵がサディズム的殺戮を行ったことを証言しています。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060205
20. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:52
そのうえ、上海戦から南京侵攻戦の間に、日本兵が「凶暴化」していたことは吉田裕氏ほかの著作で詳細に示されています。上海戦で多くの日本兵は「復仇心」を高じていましたし、さらに自軍から食糧の補給が行われなかったことから「山賊・盗賊」のごとく掠奪・放火等常態化していました。このような凶暴化した軍隊は、通常都市内に入れてはいけない。しかし日本軍はなし崩し的に南京城内に入れてしまいました。それこそ蓋然性の問題として、凶暴化した日本兵が暴虐行為を働かないとは考えがたい。実際、現地に入った日高信六郎・大使館参事官は日本兵がサディズム的殺戮を行ったことを証言しています。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060205
19. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:48
また、日本軍は上海戦で苦しんだ経験から、都市戦では「殲滅」、しかも「民間人の巻き込み」も辞さずという方針を持っていたことは、それこそ高い「蓋然性」をもっています。
加えて日本軍の伝統的な戦術思想は「人のいない野原」で敵を殲滅する、というものを基本にしており、都市戦で「市民を保護しつつ兵士と戦闘する」という訓練も発想も蓄積していませんでした。したがって「市民を巻き込む」ことへの問題意識が低かったことも指摘できます。

そのうえ、上海戦から南京侵攻戦の間に、日本兵が「凶暴化」していたことは吉田裕氏ほかの著作で詳細に示されています。(次に続く)
18. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:40
では、大量虐殺の原因論について私の理解を述べます。

まず、南京戦は対中華民国との「最終決戦」と位置づけられていましたから、単に南京を占領するだけでなく、中華民国の戦闘意欲を喪失させ屈服に追い込むという政治目的が南京戦にはありました。広島・長崎と同様に、民間人に被害を与えることは南京戦の目的に沿う行為でした。
このことは、南京戦を独断で決行した当事者である第十軍の参謀部が「1週間連続の毒ガス攻撃」戦術を考え陸軍中央に上申していたという事実によっても示されています。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20061102
17. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:25
もう一つの問題としては、「必然性はなかったが結果として30万殺してしまった」という可能性を排除していることです。一例として東京大空襲は「10万殺す意図・必然性」をもって行われた作戦ではありませんでした。しかし結果としては「10万殺す」作戦となりました。米軍の意図を超える出来事が起こったからです。
したがって「意図を超えた結果」が起こった、という可能性を排除することはできません。

以上、秀さんのご発言の問題点を指摘させていただきました。次に、大量虐殺の原因論についての私の理解を述べたいと思います。
(次に続きます)
16. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:21
さて、「アウシュビッツ」と参照して「必然性が見つからない」と判断することはできません。アウシュビッツとの対比なら広島、長崎や東京大空襲も「非戦闘員を殺害する必然性が見つからない」と述べることができますね。
しかしそれらの都市では非戦闘員が大量に殺された。つまり軍事も政治の延長上にあり、政治的意図があれば「非戦闘員の大量虐殺」は行われてきた、という事実があるわけです。
あくまで「必然性が見つからない」と述べるならば、「南京戦において30万も殺す政治的必然性はない」ことを明らかにする必要があります。
それが提示されない限りは、「あったかもしれない」可能性は排斥できないはずです。

もう一つの問題は(次に続きます)
15. Posted by 青狐   2007年03月19日 00:14
>どう考えても必然性が見つからないという意味で「どう考えてもありえない」ということなのです。
>南京を攻め落とした日本人に、どういう理由で中国人を30万人も虐殺する理由があるのでしょうか。

南京事件の「原因論」については、日本では秦郁彦、藤原彰、吉田裕、笠原十九司、アメリカでは楊大慶など多くの歴史学者の考察が行われております。
秀さん、「どう考えても必然性が見つからない」と仰る前に、上記の歴史学者の考察をご覧になりましたか? それらの歴史学者の考察を読んだ上で「必然性が見つからない」とお考えならば、その意見を尊重した上で議論したいと思います。
しかし歴史学者たちの先行研究を参照するという「手続き」なしに「必然性が見つからない」と述べても、それは秀さんの「主観」を超えるものとは思えません。
(次に続きます)






14. Posted by 青狐   2007年03月18日 23:46
(続き)また兵士の殺害の場合「捕虜殺害」は戦時国際法では「違法」であり、これも「虐殺」に扱われます。
またよく話題にされる「便衣兵」容疑者ですが、これも「便衣戦術で抵抗した戦時重罪人」として死刑判決を与える、という手続きを得ない限り「処刑」できません。その手続き無しに「便衣兵容疑者」を殺害した場合は「虐殺」と扱われます。
結局、戦闘中に殺害した兵士以外の殺害は、全て「虐殺」と扱う。大部分の南京事件論争ではこの判断基準で論争されていますが、ご存じではなかったですか?

※秀さんの 2007年03月18日 23:36コメント、特に「虐殺する理由」という論点については、次の投稿でレスします。
※したがって、この「判断基準」の論点については「虐殺する理由」の論点の後に議論する(それまで凍結する)ことにしていただけると幸いです。
13. Posted by 青狐   2007年03月18日 23:40
>戦闘行為中の「虐殺」行為については、それを客観的に判断することは出来ないと僕は思っています

ということは、「戦闘行為中に虐殺はなかった」と判断することもできないというわけですね。
そのうえで、

>「虐殺」の判断基準

南京事件論争では長い間、戦時国際法を「判断基準」にしていると思いますが?
まず民間人の殺害は(戦闘中であれ戦闘終了後であれ)戦時国際法では「合法」とされませんから「虐殺」に扱われると思います。
兵士の殺害については、次の投稿で触れます。
12. Posted by 秀   2007年03月18日 23:36
青狐さんへ

「どう考えてもありえない」というのは、論拠の説明が難しいのでこのような表現になっています。これは、文字通り、どう考えても必然性が見つからないという意味で「どう考えてもありえない」ということなのです。

日本軍は、なぜ30万人もの人を虐殺する必要があったのでしょうか?ナチスドイツのアウシュビッツなら、思想的な問題として、ナチスにはユダヤ人を殲滅する必要があったということが理解できます。しかし、南京を攻め落とした日本人に、どういう理由で中国人を30万人も虐殺する理由があるのでしょうか。

必然性が一つでも見つかるなら、「あったかもしれない」というふうに蓋然性の判断が変わるでしょう。しかし、理由が見つからない行為をすると考えるなら、日本民族はそういう民族なのだと考えるしかなくなります。それは蓋然性がまったく感じられないのです。
11. Posted by 青狐   2007年03月18日 23:23
「論理的にあり得ない」という見解ではないわけですね。了解しました。そのうえで、

>どう考えても30万人の虐殺などありえないという「蓋然性」として問題にしているのです。

ここは同意できません。なぜなら「どう考えてもありえない」という論拠が示されていないことです。
ルワンダ虐殺の事例などを参照する限り、無前提に「30万の虐殺などありえない」という主張は成立しないはずです。人間は30万規模の虐殺を起こしうる(しかもルワンダの場合は主に民兵が虐殺に関与しました)。
そのうえでなおかつ「どう考えても30万の虐殺などありえない」と主張するには、「南京戦では」30万の虐殺はどうみてもあり得ない、という根拠を提示する必要があるでしょう。
その根拠なしには、「どうみてもあり得ない」という主張は秀さんの主観を超えるものではない、と判断するしかありません。
10. Posted by 秀   2007年03月18日 23:03
igel さんへ

「蓋然性」は、客観的対象としては確率論がそれを教えてくれるような気がします。確率的に高い事象は、それが起こる「蓋然性」が高いと予想できるでしょう。それは、実際には起こってみなければ分かりません。そして、起こってみればそれは「あったか」「なかったか」という二者択一の問題になってしまいます。それが起こる前の予想の段階で、確率的な「蓋然性」の問題が生じるのではないかと思います。

そして、確率に解消できないような事象の場合、人間にとってあまりにも不確定の要素の多い事象については、「言語ゲーム」的な流通観念が「蓋然性」の判断で大きな影響をもつのではないかと感じています。そして、社会的な事象は、人々が「蓋然性」があると判断した事柄が起こる確率が大きくなってしまうのではないかという因果関係も感じます。こういう二重三重の関係性を解明する発想が弁証法であり言語ゲームなのかなと思います。
9. Posted by 秀   2007年03月18日 22:55
青狐さんへ

戦闘行為中の「虐殺」行為については、それを客観的に判断することは出来ないと僕は思っています。もし、日本軍がそれを認めているものを「虐殺」というのだと定義すれば、逆に言えば、日本軍が認めていないものは「虐殺」ではないといわなければなりません。そうすると、虐殺された人が30万人に達することはないと思います。

日本軍が認めているものを「虐殺」に数えて、認めていないものも「虐殺」があると判断するのでは論理的な一貫性がありません。日本軍が認めている・いないにかかわらず、「虐殺」の判断基準があるなら、その客観性を証明しなければならないでしょう。そして、それに客観性が認められなければ、それは議論の対象にはなりません。党派的に賛成するかしないかという問題が残るだけです。僕が問題にしているのは客観性であり、党派的立場からは賛成できないという定義の問題ではないのです。
8. Posted by 秀   2007年03月18日 22:46
青狐さんへ

「蓋然性」の問題というのは、どれだけその主張に妥当性があるかが信じられるかという問題です。人口が20万人しかいないのに30万人殺されたと主張するのであれば、「蓋然性」の問題ではなく、論理的に不可能なことなので、あり得ないことなのです。

「蓋然性」の問題でいえば、50万人の人口がいても、30万人が殺されたというのは信じられない数字です。ましてや「虐殺」されたなどといわれればますます信じられなくなるでしょう。

僕が「虐殺」というのを問題にするのは、かなりの広範囲を含んで犠牲者数を水増ししても、どう考えても30万人の虐殺などありえないという「蓋然性」として問題にしているのです。この「蓋然性」があることを主張するなら、どうやって30万人を虐殺できるかを具体的に語らなければならないでしょう。
7. Posted by 青狐   2007年03月18日 01:16
次に問題と思った点を指摘します。

>だから、30万人説が主張する虐殺者数は、ほとんどが戦闘行為終了後だと考えなければ、蓋然性を議論することにそもそも意味がなくなるだろうと思う。

その考えでは、戦闘行為中に民間人を殺した事例は「虐殺事例」にカウントされなくなってしまいますね。しかし日本の「熊本兵団戦史」には、戦闘途中で「難民」を殺害した(と判断される)記述があります。
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20050309
時期を「戦闘行為終了後」と限定すると、同戦史に記された難民殺害も「虐殺」にカウントしないということになってしまいますが、そういう定義はきわめて妥当性を欠くと思います。
6. Posted by 青狐   2007年03月18日 01:08
はじめまして。
以下の点は論理的におかしいと思います。

>そうすると、南京の人口に関しても、戦闘行為終了後に日本軍が駐留して活動できる地域に住んでいた人がどれくらいいたか、あるいは捕虜の数がどれくらいいたかということが問題になってくる。南京全体の人口というような大雑把な数では議論にならない。南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が収容数を20万人と認識していたということが問題にされるのは、このような考えからだろうと思う。

30万虐殺説というのは、北は燕子磯から南は中華門外まで、ほぼ当時の「南京市全域」で30万殺されたという説ですから、「20万で30万殺されるわけがない」と主張するには「南京市全域」の人口が20万であることを示す必要があると思いますが? ちなみに日本軍は12/13以降も安全区以外にて駐留していました、というか一部の例外を除いて「安全区」には駐留していませんよ。
5. Posted by igel   2007年03月17日 23:06
「証拠が残らない性質の虐殺」なんてものが、露骨に不可知論的な主張であることはたしかにおっしゃるとおりです。南京大虐殺はわれわれに不可知論を強いるようなやっかいな問題だと思っています。
とはいえ過去の非常時に国外で行われた「虐殺」なんかよりも、平凡で日常的な「虐待」(いじめやDVや痴漢冤罪のような)という形でその問題はますますわれわれの身近なものになっているという認識にも賛同します。にもかかわらずわれわれはまだ証拠探しに頼ろうとしている(それしか問題を克服する術を持ち合わせていない)ようにも見える。そんなことでは絶対に解決は無理なのに。
証拠に頼らない信憑性を調達して不可知論を克服する観点の提案として、「蓋然性」には意義があると思います。
4. Posted by 秀   2007年03月17日 17:44
igelさんへ

「蓋然性」というのは不可知論を克服する一つの技術ではないかと感じています。事実を個別的なものと考えると、これはどこまで行っても100%確実にすることはできなくなります。個別的・具体的な事実は無限に多様な視点があるために、どこかを捨象しない限り全体をつかむことが出来ないからです。しかし捨象したものは個別の具体的な事実にはなりませんから、100%を求めたら不可知論にならざるを得ません。

「蓋然性」は、対象の本質以外は捨象できるのだという判断だろうと思います。僕は、「南京大虐殺」よりも、日常的な労働の現場で行われていた虐待のほうが根の深い問題ではないかと感じています。それはおそらく平凡なことだと思いますから、「蓋然性」の判断もしやすいと思います。この平凡な虐待の延長に「南京大虐殺」があるという「蓋然性」が信憑性の高いものではないかと思います。
3. Posted by igel   2007年03月16日 21:52
なにしろ、そうは言っても証拠なしに判断するわけにはいきませんし、証拠以外によい基準があるわけでもないからです。おそらくわれわれの社会では未解決の問題でしょう。
証拠の残らない虐殺、あるいは証拠のあるなしが問題になるような虐殺が行なわれるようになったこと自体が、われわれの社会の特徴であると同時に限界なのだと言うべきなのかも。

…というようなことを言おうとして、言う前の段階でグダグダになったことが以前にあったのですが、
それを「蓋然性」という観点から、証拠がなくても論理の問題として乗り越えられる、だから「南京大虐殺」と言う必要はないのだ、という主張だと受け取りました。なるほどそういうことなら納得できます。

ただご自身でも断わられているとおり、「30万人説」はともかく、「南京大虐殺自体」の真偽はそれで乗り越えられるかどうかはもう少し検討の余地が残るとは思います。
2. Posted by igel   2007年03月16日 21:51
これは次の仮言命題について考える格好の例になっているのではないでしょうか?
「虐殺があったとすると、その証拠が見つかるはずだ。」

虐殺があったという側もなかったという側も、この論理を承認しており、その上で、
「証拠がないのだから、虐殺もなかった」と短絡するのが否定派。
「虐殺はあったのだから、証拠が必ず見つかる(に決まっている・見つけてみせる・そして必ず見つけてしまう)」と理論と実践ごちゃまぜにするのが「左翼的」または「文学系的」肯定派。

しかしここで、
その虐殺がそもそも証拠が見つからない種類のものだったとしたらどうなるか、
ということですね。
ホロコーストや強制連行などにもつながるこの性質こそが、南京大虐殺を「大」虐殺たらしめている特徴ではないか、というのが私の見解です。

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