2007年10月16日

『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない

野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。「ない」は、「名」の結合として作られる論理空間の中の「事態」を作らないというわけだ。

論理空間の中の「事態」は、現実の「事実」から切り出された「対象」の像である言語を結合して作られる可能性を指す。これは、現実の「事実」から切り出されるのであるから、存在しているという肯定判断を前提としている。否定判断というのは、そのような肯定判断を、像としての言語の結合で作り出したとき、現実にそれに対応する「事実」が見つからなかったときに、その可能性が現実性でなかったということで否定判断として提出される。

否定判断においては、その真理領域が現実に見出せないという「ない」が本質的なものになるだろう。ないものを「対象」にすることは出来ないので、否定語「ない」には「対象」が存在しないという判断になり、「名」ではないという判断になる。否定語「ない」は論理空間の真理領域に対する操作となり、命題の真偽を問題にする「論理」としての顔をあらわしてくる。これが操作にあたるものだということから、そのア・プリオリ性(先験性)も引き出される。この操作を2回行うことは、真理領域を反転させることを2回行うことに等しく、それは経験によらず、もとと同じ真理領域を示すことになるので二重否定は肯定と等しくなる。これが形式論理的な法則になる。

否定語「ない」のほかにも論理語としては「または」「かつ」「ならば」というようなものがある。これらも、形式論理的には経験によらないア・プリオリな判断をもたらす。その意味では、命題の内容に関わらない判断をもたらすともいえる。内容に関わらず、それが捨象されてしまうなら、否定語「ない」のときと同じように、「対象」を見出すことが難しくなるのではないかと思う。なぜなら、もし「対象」があるのなら、その「対象」が持っている属性によって判断の内容が変わってくるのではないかと思うからだ。「対象」の持っている論理形式が、その象である「名」の論理形式を決定するからだ。従って、「ない」の他の論理語も「名」ではないということになるのではないだろうか。実際、野矢さんは次のようなことを書いている。


「真理領域に対する操作は、命題のレベルで考えるならば、否定詞や接続詞といった、命題全体に働きかける語彙で表される。先に否定詞は名ではないことを示したが、今見たような真理領域を操作する働きを持つものとしての接続詞もまた、名ではないことが示せる。例えば、「(pまたはq)かつp」の真理領域を考えてみよう。
 「pまたはq」の真理領域は、{W2,W3,W4}であり、pの真理領域は{W2,W4}であるから、その共通部分を取り出すと、{W2,W4}となる。つまり、これは命題pの真理領域に等しい。ということは、「(pまたはq)かつp」は命題pに等しいのである。もし「または」や「かつ」が名であるとするならば、「(pまたはq)かつp」は明らかに命題pとは異なる名の配列から成り立っている。それゆえそれは異なる像であるはずである。しかし、実のところ両者は等しい。ということは、「または」や「かつ」といった接続詞もまた、名ではない。」


ここで語られている論理空間は、野矢さんが点灯論理空間と呼ぶもので、二つの明かりaとbと、それが「点いている」という属性のみを「対象」とする論理空間を指す。従って、その論理空間は次のようになる。

W1 空集合
W2 a−点灯している
W3 b−点灯している
W4 a−点灯している、a−点灯している

この論理空間は、「名」のa、b、<点灯している>という3つのものの結合で可能性のすべてを表している。否定の「ない」に対応するものとして空集合も設定されている。このときpとqを次のような命題として設定して考えたものが上の文章だ。

  p:aは点灯している
  q:bは点灯している

このとき命題pの真理領域は、その肯定判断の結合が含まれている論理空間になるので、{W2,W4}ということになる。同様にqの真理領域は{W3,W4}ということになる。従って「pまたはq」の真理領域は、「または」という言葉が、真理領域の操作を表すと理解すれば、その集合としての合併になるから、{W2,W3,W4}という事になる。「かつ」というのは、集合としての共通部分を取る操作で定義されるので、

  「(pまたはq)かつp」の真理領域:{w2、w4}

ということになり、これがpの真理領域と等しくなる。つまり、「(pまたはq)かつp」の真偽値は、pの内容に関係なく、pの真偽値と一致する。野矢さんは、論理空間というものを像として捉えている。もし現実の「事実」というものが確かめられたら、それを写している象が論理空間の中に見つかる。論理空間の中には、「事実」になっていないものもあるので、現実を写していなければ「事態」にとどまり、それは可能性を語るものになる。

この可能性は像である「名」の結合で語られる。だから、もし「名」が違うものであったり、「名」の配列が違うものであれば、それは像として違うものを写していると考えられる。つまり、論理空間が違ってくると考えられる。しかし、「または」「かつ」で結合された命題が同じ真理領域を持つということは、その結合の仕方が違うのに違う像の反映になっていないことを意味する。このことから野矢さんは接続詞としての「または」「かつ」が「名」ではないと判断しているように見える。

これは、論理語が操作を表すという定義から必然的に導かれる結論のように感じる。操作は、現実の「対象」として見出せるものではなく、ある種の運動として見出せるものではないかと思う。運動は、運動そのものの存在を語ることは出来ないのだと思う。運動するものの存在を語ることによって、運動が示されるという関係にあるのだろうと思う。

ウィトゲンシュタインは、論理語を論理空間の操作として規定することにより、それが経験によらないア・プリオリな決定をするものであることを、その正当性を示したのではないかと思う。論理がなぜ正しいかということの解答は、それが操作として規定されていることで示されているのではないかと思う。

野矢さんは論理におけるトートロジーについても語っているが、これは同語反復などとも訳され、結局は同じことを言っているのだという解釈が出来る。上で考察した「(pまたはq)かつp」とpは、命題としては同じものだとみなすことが出来る。つまり

  「(pまたはq)かつp」=p

というものがトートロジーとして見出せる。このトートロジーという形が、論理の正しさを物語るものになる。論理は、複雑に絡み合った「名」の結合による命題を解きほぐして単純化していく。この操作は、トートロジーというもので真理領域の同じ命題にするということで行われるのではないかと思う。これは、命題の内容に関わらないので、純粋に論理の範囲だけで行ってもその正当性が確保される。

そして、単純化された命題において、最終的には現実の「事実」としてその命題が語る「対象」が見出せるかということが問題になる。この時は、「対象」の持つ現実的な内容が真偽に関わってくるのだが、単純化されていればその判断がやりやすくなり、判断の信頼度も増す。そのような論理空間と世界(「事実」の総体)の全体像から、思考の全体像というのもつかめてくると考えられているのではないだろうか。

ウィトゲンシュタインの考察は、この後「対象」の単純性と複合性に進んでいるように見える。「対象」をあくまでも単純なものに解体しようという目的があるようだ。複合的な「対象」は、実は論理語によって説明されるという発想に立っているようだ。例えば、太郎と花子という二人の男女が「夫婦」であるという「事実」が見出せたとき、「夫婦」というのは、そのままでは「対象」にせず、これを単純化することを考えているようだ。

「太郎と花子は夫婦である」という命題は、「太郎は男である」「花子は女である」「太郎と花子は婚姻関係にある」というようなものに分解し、これを「かつ」という論理語で結べば「夫婦である」という命題と等しくなると考える。このことによって、「夫婦である」という命題の真偽は、3つの命題の真偽に還元されるのだが、これは「夫婦」であるという命題の真偽を決定する複雑さに比べれば単純化されると考えられる。

「婚姻関係にある」という言葉がまだ複雑であれば、これをさらに分解することになる。「婚姻届を出している」とか、「実際に共同生活をしている」などという命題に分解される。これが、論理という操作の持つ大きな威力・あるいは有効性とでもいうものになるのではないだろうか。

難しい理論というものを見ると、複雑な内容を一言で語ったような法則性を見ることが多いのではないだろうか。それは実は単純なものの論理語による結合に還元されるのではないかと思う。そして、単純なものを一つずつ理解することが出来れば、複雑な命題が語ろうとしていることも理解できるようになるのではないかとも思う。論理を受け止めるということは、学習においても大きな有効性を持っているのではないかと思う。

論理語は「名」ではないということは、論理がなぜ正しい思考をもたらすかという本質に関わる重要な指摘ではないかと思う。そして「名」の持つ単純性というものが、またもう一つの論理の本質を見せてくれる指摘ともなっているようだ。野矢さんの解説もその方向へ向かっている。今度は、「名」の単純性というものを詳しく考えてみようと思う。

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この記事へのコメント
shさんへ

弁証法における矛盾は、形式論理における矛盾とはまったく違うものとして理解したほうがいいと思います。両方に矛盾という言葉が使われているので、何か同じところがあるような感じがしてしまうと、弁証法的な矛盾を矛盾と呼ぶことに違和感を感じてしまいます。僕も若いころはそうでした。弁証法が語る矛盾は詭弁以外の何ものにも見えませんでした。

今の僕の理解は、弁証法的な矛盾というのは、視点が違うところからものを見ているために、結論が違うものとして出てきてしまい、結論の言葉だけを見ると対立しているように見えるだけだと思っています。弁証法的な矛盾は、形式論理的には少しも矛盾していないと思っています。これは異論を持つ人もいるかと思いますが、「矛盾の考察」として一つのエントリーで説明してみたいと思います。
Posted by 秀 at 2007年10月16日 23:31
親父、自分、息子の関係で親でもあり子でもあるというのは言葉、文章上だけで矛盾があるように見えるだけで、その親子関係をよく説明すれば何ら矛盾しない。それをわざわざ矛盾としていることに疑問を感じます。この非敵対的矛盾は言葉上、言葉遊び上だけの矛盾であり「実在する矛盾ではない」のではないのでしょうか。勝手ながらこのような質問をすることをお許しください。
Posted by sh at 2007年10月16日 11:52
また彼自身からみても力いっぱい走っているのでしょうが、その位置から前進はしていない。前進という意味は空間的に移動するということでしょう。「前進しながら・・・」というのは、つまり言葉の遊び、誤りを矛盾といっているように感じます。また父と子の矛盾の例においても親父と自分と自分の息子の3人において「自分は親でもあり子でもある」というのは何ら矛盾はないと思うのです。自分と息子二人の関係において「自分は息子の親であり、息子の子でもある」というなら敵対的矛盾でしょうが・・。
Posted by sh at 2007年10月16日 11:51
こんにちは、私は最近あるきっかけで「弁証法はどういう科学か」という本を読み始めた者です。つまり哲学などまったくの素人です。その本の中の矛盾についてどうしても理解できないところがあります。「力いっぱい走って前進しながら前進しないでいたいということは矛盾です」と書いてあり、これをベルトコンベアー上を走るという例を使って説明してあります。しかし例えばベルトコンベアーを板や布で隠したとすれば他の人から見た場合、彼は走っているのではなくただ足踏みをしているようにしか見えません。
Posted by sh at 2007年10月16日 11:47