2011年10月08日

陸山会事件判決の論理的分析 1

陸山会事件判決について論理的な構造を分析したいと思っていたのだが、そのためにはより詳しい判決文が必要だった。出来れば全文を入手したかったのだが、それは公開されていないようだった。そんなときに日々坦々というブログの

「登石郁朗裁判長によるデタラメ判決全文(参照程度)と山口一臣氏による突っ込み箇所」

というエントリーを見つけた。そこに少し長い要旨というのが載せられていた。これを参考にして、ここに表現されている論理的側面を分析してみようと思う。

論理的側面というのは、結論としての判決が論理によって導かれているはずなので、それの前提を遡って、最も根源的になると思われる前提を突き止めてみようとするものだ。その前提を認めることによって、判決としての有罪が導かれるという大本を捜そうとするものだ。まずは西松建設事件から書かれているので、これの分析をしてみよう。

結論としての判決は次のようになっている。

「1被告人大久保隆規を禁錮3年に、被告人石川知裕を禁錮2年に、被告人池田光智を禁錮1年に処する。
 2この裁判が確定した日から、被告人大久保隆規に対し5年間、被告人石川知裕に し3年間、被告人池田光智に し3年間、それぞれその刑の執行を猶予する。
 3 訴訟費用中、証人○○○○に支給した分は被告人大久保隆規の負担とし、その余は、その3分の1ずつを各被告人の負担とする。」

ここには結論が語られているだけで、その結論が導かれた論理的前提は語られていない。結論で重要なものは、「有罪である」と言うことと「執行猶予」がついたと言うことだ。この結論がどのような前提から導かれたかというのを考えてみたい。

西松建設事件に関しては次のような犯罪事実を挙げている。

1 他人名義の寄附・企業献金禁止に違反する寄附の受領
2 収支報告書の虚偽記入

この二つが事実として確定するなら、その犯罪性は明らかなので、これを前提にするなら論理的帰結としての有罪が導かれる。しかし、このことが事実なのかどうかが疑われているときは、さらに前提として、これが事実であることを確証するような論理的前提がなければならない。まずは、上の二つの具体的内容を見てみると、

1 被告人大久保は、平成18年10月27日、西松建設から、新政治問題研究会(以下「新政研」という。)の名義で、陸山会に100万円の振込みを受け、他人名義で行われ、かつ、企業献金禁止に違反する政治活動に関する寄附を受けた。
2 被告人大久保は、平成15年分から平成18年分までの陸山会の各収支報告書に真実は西松建設が寄附をしたのに、新政研及び未来産業研究会(以下「未来研」という。)が寄附をしたという虚偽を記入した(詳細は略)。

この二つは、論理的前提にはならない。なぜならあることが事実であると表明しているだけで、それがなぜ事実であるかという証明にはなっていないからだ。しかもこの二つの内容は、具体的記述であるにもかかわらず、その内容が非常に分かりにくい。つまり何を指摘しているかが明確になっていないので、その評価が難しい文章になっている。これをさらに具体化して、内容を誤読しようがないくらい明確にしてから評価をしなければならない。それはどうなっているだろうか。

1に関しては、これが事実であるという証明をするには、「新政研及び未来研に政治団体としての実体があったか否か」ということが重要になる。この両者が政治団体として正当なものであれば、そこには何ら違法性はなく、正当な政治献金となる。だから、1の証明には、その実体というものが重要になる。この判断は次のように語られている。

「新政研及び未来研は、西松建設が、社名を表に出さずに政治献金を行うために設立した政治団体であって、会員は、すべて西松建設の現役社員及びその家族であり、役職員はすべて西松建設0Bであった。新政研及び未来研は、会員総会が開かれたことも会員に する活動報告等がなされたことも一切なかった。そして、会員にも役職員にも政治団体構成員としての活動実体がないこと、新政研・未来研名義の資金は西松建設の完全な管理の下に置かれており、出金については同社の指示・了承が不可欠であったこと、西松建設での内部告発のおそれと脱談合宣言により公共工事受注のための政治献金の必要性がなくなったという西松建設側の事情により、同社の判断で新政研及び未来研を解散したことが認められる。以上によれば、新政研及び未来研は、西松建設がその社名を隠して政治献金を行うための隠れ蓑にすぎないと評価できるのであり、政治団体としての実体はなかったというべきである」

ここから判断を導いた論理的前提を抜き出してみると次のようなものになる。

・会員は、すべて西松建設の現役社員及びその家族であり、役職員はすべて西松建設0Bであった。
・新政研及び未来研は、会員総会が開かれたことも会員にする活動報告等がなされたことも一切なかった。
・新政研・未来研名義の資金は西松建設の完全な管理の下に置かれており、出金については同社の指示・了承が不可欠であった
・西松建設での内部告発のおそれと脱談合宣言により公共工事受注のための政治献金の必要性がなくなったという西松建設側の事情により、同社の判断で新政研及び未来研を解散したこと

これが論理的前提としてふさわしいかどうかという判断は僕には出来ない。そこまでの専門知識はないからだ。しかし論理的側面から言えることは一つある。これらの前提となる命題が、「かつ(and)」という論理語で結ばれているのか「または(or)」で結ばれているかによって、反駁の仕方が違うと言うことだ。

上の前提がすべて「かつ」で結ばれているなら、その一つの命題を否定するだけで、論理的には前提は崩れる。つまり結論を導くことが出来なくなる。しかし「または」で結ばれているなら、反駁のためにはすべてを否定しなければならなくなる。この判決の場合はどうなるだろうか。

素人判断でもちょっと疑問に思うこともある。実体がないという判断は、実際に活動していないという事実を言わなければならないと思うので、本質的には政治団体として活動していると思われる事実が一つでもあれば、「実体がない」と言うことが否定されるのではないか、つまり「実体がある」と言えるのではないかということだ。

「ない」ことの証明は「悪魔の証明」と言われているように、すべての面において「ない」ことを証明しなければならない。それに比べて「ある」ことの証明は、何か一つ「ある」ことを示せばそれですむ。判決文が、「実体がない」ことを示すためにいろいろなことに触れているのは、それが「悪魔の証明」だからではないか。従ってそれを反駁するには、何か一つでもいいから実体があると言うことを示せばそれですむと考えられる。それはどこかで語られていないのだろうか。

<植草一秀の『知られざる真実』>というブログの

「無実潔白本来の首相総攻撃する偏向メディアの愚」

というエントリーには次のような記述が見られる。

「2010年1月13日の第2回公判で、検察側証人の西松建設元取締役総務部長岡崎彰文氏が決定的証言を行った。
 二つの政治団体は事務所を持ち、スタッフを持つ実体のある政治団体であり、この事実を大久保氏にも伝えていたことを岡崎氏が証言した。
 政治資金規正法は寄附した者の名前を書くことを定めており、この二つの政治団体からの献金については、この二つの政治団体の名称を記載することが適法行為である。逆に西松建設と記載することが「虚偽記載」になると考えられる。」

Electronic Journalというブログの

「不利なことは強調、有利なことは無視」

というエントリーでは

「 準大手ゼネコン「西松建設」から小沢一郎・民主党幹事長の
  資金管理団体「陸山会」などへの違法献金事件で、政治資金
  規正法違反(虚偽記入など)に問われた小沢氏の公設第1秘
  書で同会の元会計責任者・大久保隆規被告(48)の第2回
  公判は、13日午後も、岡崎彰文・元同社取締役総務部長の
  証人尋問が行われた。岡崎元部長は、同社OBを代表とした
  二つの政治団体について、「西松建設のダミーだとは思って
  いなかった」と証言した。公判では、大久保被告が両団体を
  同社のダミーと認識していたかどうかが争点で、審理に影響
  が出そうだ。岡崎元部長は、裁判官の尋問に対し、「二つの
  団体については、対外的に『西松建設の友好団体』と言って
  いた。事務所も会社とは別で、家賃や職員への給料も団体側
  が支払っていた」と説明。前任者に引き継ぎを受けた際にも
  「ちゃんとした団体で、問題はないと言われていた」と答え
  た。昨年12月の初公判で、検察側は、同社が信用できる社
  員を政治団体の会員に選び、会員から集めた会費を献金の原
  資にしていたと指摘したが、岡崎元部長は「入会は自分の意
  志だと思う。私自身は、社員に入会を強要したことはない」
  と述べた。     ――2010.1.13付、読売新聞」

という記事が引用されていた。これは実体があったと言うことの一つの事実として提出されている。ということは、それを否定しなければ「実体がない」とは言えないはずなのだが、判決文の要旨にはこのことに触れた部分が見つからない。「ない」ことを証明するには、すべてにわたって「ない」ことを言わなければならないのに、なぜこれに言及しないのか。これは論理の不備であり、詭弁ではないのだろうか。

判決要旨に書かれている、「ない」ことの証明はほとんどが末梢的なものであり、これだけで「ない」ことの証明にはならないのではないか。むしろ、本質的には上で証言された内容をこそ否定しなければならないのではないか。それをせずに、他にこういうことがあるから実体はなかった、と主張するのは、他の主張と同様に「推認」しているに過ぎないのではないか。

植草さんは、

「2日後の1月15日に、今度は石川知裕氏、池田光智氏を逮捕するとともに、
大久保氏も再逮捕したのだ。これが、いわゆる「陸山会事件」と呼ばれている
ものだ。
 そのうえで、検察は裁判所に対して、訴因変更の申請をしたのだ。西松建設
事件での大失態を隠蔽するために、大久保氏の裁判を陸山会事件に差し替える
申請を行った。
 しかし、西松建設事件では公判前整理手続を行っている。裁判が始まる前に、
裁判での争点を明らかにして、法廷での立証活動のメニューをすべて決める。
この方式で裁判が進められていた。
 公判前整理手続きを経た事案については、検察官請求の訴因変更が認められ
ない。したがって、検察側の訴因変更申請は却下されなければおかしかった。
 ところが、裁判所が検察官請求を認めた。驚くべき判断である。この判断を
示したのが、登石郁朗判事であると伝えられている。」

とも語っている。裁判所が訴因変更をしたと言うことは、西松建設事件では、その政治団体がダミーであるという証明が出来ないので、他に可能性がありそうなものに訴因変更したと言うことではないのだろうか。そうすると、そのような事実を裁判所が証明すると言うことにかなりの疑問を感じる。本当に証明されたのだろうか。これも「推認」に過ぎないのではないかと。そして、「推認」というのは、論理的には確定したものではなく、仮言命題として、「もしこのような仮定があるならばこうだ」と言うことを述べるに過ぎないものになる。

この政治団体のダミー性に関しては、<上脇博之 ある憲法研究者の情報発振の場>というブログの

「「陸山会」裁判の東京地裁判決について(2):「西松建設」違法献金事件」

のエントリーでは、ダミーであるという判断が、西松建設側に対して出された有罪判決から導いている。つまり、西松建設の側が、自らをダミーの政治団体として認め、刑を受けているようだ。そうであるなら、ダミーであると言うことの方が事実ではないかという指摘も出来る。しかし、これは論理的にちょっと疑問を感じるところもある。

もし西松建設側が認めているから、それが事実になると言うなら、ウソの自白をさせられた人はえん罪ではなく、認めているから事実なんだろうと言うことになってしまう。だから、悪い方が認めているならそうだ、というのではなく、やはり客観的証拠がなければ事実かどうかの判断は保留しなければならないのではないか。たとえウソであっても、早い時期に認めてしまった方が有利だと言うことであれば、事実でないことを認める可能性もある。

また、それが事実としての証明になるなら、裁判所がなぜそれに言及しないのか、ということも不思議だ。なぜ判決要旨にはそのことが書かれていないのか。

これも推測に過ぎないのだが、裁判所がこのことに言及してしまうと、もう一つの判断において不利になるからあえて触れなかったのではないかと僕には思える。もう一つの判断とは、政治団体がたとえダミーだとしても大久保被告がそのことを認識していなければ虚偽記載が成り立たないというものだ。

ダミーであると言うことを認識していなければ、正当だと思って書き込んだものは虚偽ではなく、単に間違えたと言うだけのものになる。問題の政治団体がダミーだったとしても、その偽装はかなり巧妙なものであり、最初からそれを知っていなければダミーだとは気づかないようになっていたようだ。そうすると、大久保被告がそれを知っていたという証明がかなり難しくなるのではないかと思われる。それで西松建設側の判決には言及しなかったのではないか。

いずれにしても実体がなかったと言うことは、そう単純に言い切れるものではなく、もしそのように結論したとしても、そのことが他の判断のどの部分に影響を与えるかを考えなければ、論理の展開としては不備があるのではないかと思う。この問題だけでもこれだけ論理的な問題を含んでいる。全体としての論理の問題は、やはり詭弁に覆われていると言えるのではないだろうか。

khideaki at 11:49│Comments(0)TrackBack(0) 国内政治 | 論理

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