2012年05月03日

マルクスの視点では等号にならざるを得ない

安冨歩さんのマルクス批判のポイントは、マルクスが=(等号)を使っているところを、安冨さんは→(矢印)を使っているという所だ。これは視点の違いからもたらされたものだ。それを新訳の『資本論』(中山元・翻訳)を読んで気がついた。マルクスの視点では等号にならざるを得ない。等号にならざるを得ないので、判断が固定的になり、貨幣の誕生という過程を解明することが出来なくなった、というのが僕の得た結論だ。

=(等号)と→(矢印)の違いは、両辺をそのまま入れ替えた論理展開が出来るか出来ないかという点にある。=(等号)には、左右の入れ替えが論理的に行えるという特性がある。左右の入れ替えをしても、両者の関係性が変化しないからだ。関係性が変化しなければ形式論理によって対称律が成り立つことが言える。しかし『変化しない』という前提からは、変化の現象である「誕生」は解明できない。=(等号)が表現できるのは、変化の前の固定的な状況と、変化の後の固定的な状況を、切り取って表現することだけなのである。

マルクスの等式表現は

  x量の商品A=y量の商品B

というものだ。これは、両者に含まれる投下された抽象的人間労働の量が「同じ」と言うことを等式が表している。これは、その量が変化する場合もマルクスは語っているが、この等式で表現された時点では、「同じ」と言うことが固定的に捉えられていて、その固定化した「同じ」という性質が等式で表現されている。その量以外の視点は捨象されていて、同じではなくても無視されている。

量が変化する場合は、その変化に応じてxとyが変わるだけであって、等式で表現されると言うことそのものは変わらない。たとえば投下される労働量がAの方が2倍になれば等式表現は次のようになる。

  x量の商品A=2y量の商品B

量の数値が変わるだけで、等号が使われるという点は同じだ。一般的にはこのような変化は関数で表現される。Aが従う関数をf、Bが従う関数をgと表現すると、

  f(x、t)=g(y、t)

ある時点tにおいて、両者の投下された労働量が等しいと言うことを表す関数表現になっている。この場合も基本は等式である。投下された労働量に関して、それが「同じ」であるという視点に立てば、その表現は等式にならざるを得ない。

これは、投下された労働量が「同じ」かどうかという判断は同時に成立して、一方の視点からは「同じ」だが、もう一方の視点からは「同じではない」という弁証法性を持っていないからだ。「同じ」か「同じでない」かは、その時点で一つに決まる。だからそれは形式論理で表現できて、形式論理の展開が出来る等号で表現される。

一方安冨さんの→(矢印)の表現は、一方の視点では成立が言えることが、もう一方の視点では「分からない」決められないという状況にある。

  x量の商品A→y量の商品B

という表現は、商品Aは商品Bとの交換を望んでいるというものだ。しかし

  y量の商品B→x量の商品A

という→(矢印)は別の視点のものであり、これが成立するかどうかは実際に確かめてみなければ分からず、最初の矢印から論理的に導くことは出来ない。「分からない」のだ。肯定の場合も否定の場合もあるという弁証法性を帯びている。

この発想は商品の価値という概念に大きな影響を与える。マルクスの等式表現では、投下された労働量が「同じ」であれば、商品の価値も基本的には「同じ」になる。価値の源泉がそれしか考えられないからだ。だからこそ等式で表現される。

一方安冨さんの→(矢印)表現では、求められているかどうかが商品の価値に大きな要素を占めてくる。これは現実を考えるとその方が妥当な解釈ではないかと思われる。望まれない、誰も買いたいと思わない商品は、どれほど労働量が投下されようとも商品としての価値は0(ゼロ)になる。

商品Aの所有者にとって、商品Bの価値はそこに投下された労働量以上の価値を持つ。それが欲しいからだ。僕の知り合いの古道具屋さんは、500円で仕入れた鉄人28号のブリキのおもちゃをきれいにして売り出したら、マニアが30万円で買っていったそうだ。この価値は、特定の商品のものだから一般化するのは危険だが、どのような商品でもそのような可能性を持っていると仮定すれば、安冨さんの指摘の方が正しいように思える。

倒産した会社の商品などは、バッタ屋などと呼ばれる人々が買いたたいて、投下された労働量以下の値段がつくことがしばしばある。この現象もある程度一般化できるとしたら、商品の価値というものは、投下された労働量だけではなく、他の要素もあるのではないかと考えられる。

マルクスは、労働価値説を守るためにあえてこの矢印の対等でない関係を無視して、等号で表現される対等な関係の中に潜り込ませたというのが安冨さんの指摘ではないかと僕は読み取った。対等でないものを対等である等式表現に潜り込ませるというのは何を意味するか。これこそが、現実の弁証法性を無視して、形式論理である等号の方に、等号独自が持つ弁証法性ではない、現実の弁証法性を押しつけたと言うことになるのではないかと僕は考えている。これが弁証法適用の間違いではないかと思う。

なお、等式は、固定化された状況の表現をする式なので、基本的には形式論理である。そのため変化の過程をそれで解明することは出来ない。そのため、貨幣がない状態から貨幣が生まれてくると言う、過程の状況をマルクスは語ることが出来なかったのではないかと思う。マルクスが語るのは、貨幣がない状況での、商品の価値が表す一つの形態(投下された労働量が同じ)というものと、その「同じ」を示す貨幣が誕生した後の、貨幣が意味するものを記述することだけだったのではないか。

安冨さんは、→(矢印)の視点で、貨幣が誕生する瞬間を探り当てた。それは=(等号)の視点では見ることのできないものだったに違いない。→(矢印)は過程を表現するのにふさわしいものだったからではないかと思う。次のエントリーでは、安冨さんが語る貨幣誕生の瞬間を考察してみたいと思う。特にその論理展開を。

khideaki at 10:54│Comments(0)TrackBack(0) 弁証法 

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