2012年05月12日

『きみがモテれば、社会は変わる』 2<「モテるやつ」というエリートは日本の「空気」を変えられるか>

宮台真司さんの「エリート主義」は、現行のエリートの信用のなさから、どうしてもあまりいいイメージは持たれていないように感じていた。大衆は馬鹿だから、頭のいいエリートに任せておけばいいのだという傲慢さを感じるような誤解を受けていたように感じる。

しかし宮台さんが語るエリートは、現行のエリートではなく「市民エリート」と呼ばれるものだ。この「市民エリート」の概念を正しく理解できたなら、その「エリート主義」の正しさも理解することが出来る。これは、終わっている日本社会を再生する一つの道を示しているものであって、唯一の道だと主張しているのではないように感じる。もちろん他の道もあるだろうが、理論的に見事に構築された一つのアイデアとしてこれを受け止めれば、その整合性が分かる。

終わっている日本を再生する道は、安冨歩さんも他のアプローチからのものを示している。それは排他的に存在するのではなく、違う道をそれぞれ歩む者がいるという違いではないかと僕は感じている。宮台さんが提唱する道も、十分現実の可能性を持っており、その論理的整合性に僕は賛同する。

宮台さんが語るエリートは、象徴的な言葉で「モテるやつ」と語られる。これは象徴なので、具体的に理解しなければ間違って受け止める。もう少し具体的に表現すると「他人を幸せにすることが出来るやつ」ということになる。これでもまだ抽象的だ。もっと具体的に受け止めるためには、現在の社会との関連で考えた方がいい。そこに「空気」に支配された「悪い心の習慣を持った」「悪い共同体」というものが顔を出してくる。この現状を変える可能性を秘めたものとして「モテるやつ」という概念が出てくる。
「空気」という言葉は山本七平さんが最初に言い出したものらしい。山本さんは、本多勝一さんとの論争で僕は最初に出会ったので、長い間悪いイメージしか持っていなかった。宮台さんがその評価を語っていて、それに納得した今は、人間の評価というのは視点を変えればいろいろなものがあるというのを理解している。「空気」という指摘の素晴らしさは僕も賛同するものだ。

さて、この「空気」は日本社会を深く捉えていて、それは論理的正当性よりも、得体の知れない「みんな」の承認の方を優先させて人間の判断に影響を与える。どう考えても間違っていると思われることでも、「空気」がそれに反対させないときは、間違っているという指摘が出来ない。

戦時中に、戦争が間違っていると考えていた人も、それを表立って間違えていると指摘できなかった。そのために、日本はデタラメな戦争へとのめり込み、どうしようもなくなるまでそれを止めることが出来なくなった。終わっている日本社会を象徴するような「空気」の影響だ。この「空気」を何とかしなければ、日本社会の「終わり」は止まらない。

この「空気」が蔓延した悪い共同体を変えるのは非常に困難だ。それは、「空気」の感染で、共同体の存続を支えるような運動が果てしなく続くからだ。このあたりは、安冨歩さんが提出する「ハラスメントの連鎖」にも似たようなものを感じる。この共同体に対して、宮台さんの「市民エリート」は有効な働きかけが出来るだろうか。

宮台さんは、単なる「いい人」では共同体の存続を支えるだけで改革は出来ないと指摘する。「いい人」は、共同体にとって都合の「いい人」になる。決して他者を幸せにするような「モテるやつ」にはならない。他者一般ではなく、共同体の存続を望む特定の利害に絡んでいる人を「楽にする」存在となる。これは決して本当の幸せではないので「楽」という表現を使った。この「いい人」を脱却して、どうすれば他者を幸せに出来るかと言うことを考えなければ「モテるやつ」にはなれない。

この「いい人」は、自分の正直な感覚を抑えて、他者が期待する像に合わせて自分の心を抑えつける人間のイメージが浮かんでくる。安冨さんが指摘するような、学習に閉ざされた人間だ。だから「いい人」を脱却するには、安冨さんが提唱するように、自分の感覚に正直になり学習に開かれることが必要に感じる。宮台さんが語る「モテるやつ」と安冨さんの学習に開かれた人間とはイメージが重なる。重ならないのは、宮台さんの論理ではそれが「エリート」になり、安冨さんの論理では、必ずしもエリートでなくてもよく、結果的に君子になると言うことだろうか。

過剰適応が「いい人」の特徴であるという指摘は、「いい人」が共同体にとって都合の「いい人」であることを語っている。利権を温存するために「空気」を利用する悪い共同体を破壊するには、「空気」を乗り越える価値観を持たなければならない。「価値を訴える人」を宮台さんは語るが、この人こそが「いい人」を乗り越えて「空気」を変え、共同体を改革する人になる。そして、「価値を訴える人」に対するミメーシスによって価値に感染することが「モテ」の感染であり、それを実現する主体を宮台さんは「モテるやつ」としての「エリート」と考えているようだ。

価値を訴える主体になる者は先駆者と呼べる。この先駆者という概念は、仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが語る「エリート効果」に関連がある。板倉さんは、学習におけるモチベーション(意欲)に関して、先駆者であるという意識を意欲に転換することを「エリート効果」と呼んでいた。明治維新の頃の多くの若者が、困難な状況の中で学問に取り組んだのは、先駆者としての意識からだったと板倉さんは考えていた。だから、今の学校教育でも、他の人が勉強していないことの価値を伝えることでそのことの勉強に対する意欲を喚起しようとしていた。

宮台さんが語る「エリート」は、先駆者という意味での「エリート」だとも思える。そうであるならば、現行のエリートとは全く関係がなく、新しい意味でのエリートだと言えるだろう。このエリートなら、僕は何の反対もなく賛同できる。

板倉さんは、仮説実験授業の目的を、正しい科学概念の理解と科学の方法の素晴らしさを知るという所においていた。そして結果的に、すごい科学者にミメーシスを感じるという、科学者への正しい評価が出来ることも期待していた。先駆者である偉大な科学者を本当に偉大だと思えることで、先駆者と同じ心情を得ることが出来る。エリートに続く準エリートになれる。

宮台さんも同じようなことを語っているように見える。先駆者として「価値を語る人間」がおり、その人間にミメーシスを感じて後に続く者が準エリートになる。そしてそのエリートたちが「空気」を破壊して、クソのような日本社会という悪しき共同体を変えて行く。それが宮台さんが期待している道筋ではないだろうか。

宮台さんは、後に続く準エリートたちに

「ヴァーチュー、リスペクト、そしてミメーシスへ」

と語りかけている。これも全く正しいと思う。次のエントリーでは、自分の経験とともにこの言葉の意味を詳しく考えてみようと思う。

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この記事へのコメント
(連投ラスト)

安冨氏のいう「学習(の回路)」も、そこに関係する概念であるように思います。「君子」(孔子)、「創発」「暗黙知」(ポラニー)、「天使のおそれて踏み入らざる場所」(ベイトソン)などの概念も魅力的です。
大きな声ではいえませんが、「全体コード」がめざすのは、宮沢賢治のいう「みんなのさいわい」と重なるのかなとも思います。

「組織コード」においても、人は十分に学習動機をもちます。例えば、優秀な法律家でなくとも、国民主権・民主主義・三権分立・基本的人権など、問われれば滔々と模範解答できる人は少なくないでしょう。ところが日本人の多くは、現実のふるまいにおいて、「組織コード」を破る動機をもちえません。

「原発catastrophe」は、日本に築かれた巨大な「組織コード」の中枢に打撃を与えました。この「ゆらぎ」が収まらない間に、有効な何かを。というのが個人としての思いです。ネットの世界は、数少ない希望の一つです。

もう少し整理して、発展させられたらと思っています。
木下さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。
Posted by akasaka at 2012年05月14日 03:51
(連投◆

しかし、日本の政治は、そうした全体性を担うに足る「全体コード」をもっていません。政党も議員もすべて「組織コード」に従って動いているだけです。おそろしいことに、米国コードと接続関係にさえあります。

「組織コード」のしばりを破り、相対化して、全体利益を最優先するのが「全体コード」。これがない日本で、組織コードは、別名「空気」と呼ばれます。個人も集団も組織も世間も政治も、すべてが空気で動く。

そこで、宮台氏のいう「市民エリート」です。端的にいって、これは「全体コード」に準じて動ける人間像ではないかと思われます。ただし、日本人がこのセンスを身につけるのはカンタンではありません。日本では、全体性について学ぶ経験があまりにも少ない。世俗的利害関心(組織コード)と切り離された、哲学・思想・宗教的な伝統、生活・自然体験、学習機会がありません。子どもたちは「組織コード」が求める学習を、小学校入学前から叩き込まれています。

宮台氏が「ミメーシス」(感染)という概念を提示するのは、そうした社会的学習資源のない日本において、唯一可能性があるのが「個人対個人」という接続形式なのではないかということです。
人間と人間の、存在の基底をなす普遍的な「作動因」への着目です。「組織コード」を突き破り、「全体性」へ至る本源的なあり方の提示とでもいいましょうか。
Posted by akasaka at 2012年05月14日 03:50
赤坂と申します。https://twitter.com/#!/hizaori4
木下さんの論を読み、触発されて、少し書かせていただきました。
拙文ご寛恕ください。(連投します)

「市民エリート」「ミメーシス」「学習」

じぶんの頭を整理するために、基本的なことから書き出すことをお許しください。でははじめてみます。

社会に存在する各組織は「組織価値」に従って動いています。例えば、「利益(企業)」「予算(官庁)」「検挙有罪率(警察・検察)」「視聴率(TV)」「販売部数(新聞・雑誌)」「進学率(教育)」などです。
組織が求める価値や組織内のふるまいの作法をまとめて「組織コード」と呼ぶなら、それぞれの組織は「組織コード」にしたがって所属メンバーが有能さを競いあうゲームを営んでいます。

そこでまず、個人のあり方です。
個人としての価値の拠り所は人それぞれでありえますが、組織人として在るとき、「組織コード」に拘束されます。
組織コードは、メンバーに従属的にふるまうことを強いる一方、組織内部では学習機会が与えられ、成長も発展も期待されます。組織が十分な価値を生み出し、個人が有能さを認められることで、この接続形式は強化されていきます。

一方、社会は、組織A・B・C・D・E……という組織の集合した全体です。そして、この全体のあり方を決めるのが、政治(集合的な意志決定)です。もし社会が「クソ」であるなら、政治が速やかに「クソ」の是正に動くことが求められます。このとき「組織コード」の単なる総和ではない、「全体コード」が作動することが必要です。
なぜなら、「全体」は国際関係・歴史・未来・環境など、各組織にとってはメタレベルの領域と深くつながっているからです。

Posted by akasaka at 2012年05月14日 03:47