2004年05月13日

米軍のイラク人虐待は組織的なものか?

イラクのアブグレイブ刑務所での、米軍による拘束者への虐待を示す写真が暴露されてから、そのニュースが世界中を駆けめぐっている。アメリカでの議論は、これが一部の不心得者の仕業であるのか、軍としての組織的な行為なのかというのが問題になっている。

一部の人間の問題であれば、その不道徳な犯罪を裁くことでこの事件は終わる。しかし、米軍が持っている組織的な問題であれば、誰の責任が重いかということを判断して、責任の重さを評価して裁く必要が出てくる。軍隊の場合は、上官の命令は絶対的な重さを持っているだけに、直接実行した兵士よりも、命令した人間の方が責任が重くなる。

しかし、このことについては、なかなか正しい情報が表に出てこないだろうことが予想される。軍としては、個人に責任を押しつけて組織としての追求を免れたいと思うだろうし、個人は、自分の責任を少しでも軽くするために組織の告発をするだろう。真っ向から対立する利害の絡むとき、どちらが事実なのかを判断するのはたいへん難しい。決め手になる情報がないときに、どのような考え方でこの事件を見たらいいだろうか。

その大きなヒントを与えてくれるのが、田中宇氏の次の報告だ。

「イラク虐待写真をめぐる権力闘争」

田中さんは、危険地帯に直接乗り込んで事実を知らせるというタイプのジャーナリストではない。直接確かめれば一目瞭然となる事実の場合は、危険をあえて承知で事実を見に行く価値がある。綿井さんが、ファルージャを見なければならないと考えたように。しかし、アブグレイブは、直接見に行っても、見ただけでは何が事実かは分からない。

こういうときにこそ田中さんのようなタイプのジャーナリストが活躍することが出来るのだろう。現代は情報は溢れるほどたくさんある時代だ。しかし、その中に、何が肝心で大事な情報なのかを見分けるのは難しい。田中さんは、膨大な情報の中から、事実を予想させてくれる情報を鋭い嗅覚で選び出す。その選び方を我々は学ぶ必要があると思う。

僕は、米軍が虐待事件のようなことをしていてもそれはあり得ることだと感じている。ベトナム戦争の頃にもそういう話はたくさんあったし、何よりもアメリカの戦争の歴史が、被占領民族に対するひどい虐殺の歴史を持っているから、そういう「先入観」を持っている。この「先入観」というヤツは、事実を見る目を曇らせる原因にもなるが、事実の重要性を見分ける勘を働かせてくれるものにもなる。

「先入観」を持つことをすべて悪いことだと思う人もいるかもしれないが、役に立つ「良い先入観」と、目を曇らせる「悪い先入観」とがあるのだと僕は思う。「良い先入観」は、それまでの事実から得られた整合性のあるイメージから引き出されたもので、「悪い先入観」は、事実とは関係なく、ある種の事柄を信じているという「信仰」に近いものから導かれる先入観だ。整合性のある先入観は、それに反する事実が出てきたときに容易にそれを修正できるが、「信仰」に近い先入観の場合は、それに反する事実が出てきても、それは事実の方が間違っているという判断をしかねない。

だいたい人間は、すべてを白紙にして物事を考えることは出来ない。ある種の価値観を持っていなければ価値判断も出来ない。「良い目的のためにあえて危険を選ぶのは尊敬すべきことだ」という先入観がなければ、イラクで人質になった人たちを尊敬するという判断は出てこない。問題は、先入観を持つことではなく、その先入観が妥当なものであるかということであって、これを考えるには、自分にもある種の先入観があるのだという自覚を持たなければならない。

さて、田中さんが判断の基礎にしている「先入観」(物事の判断をする場合の前提の法則あるいは仮説)はいったいどういうものだろう。田中さんは、この報告の中に次のような記述をしている。

「兵士はおそらく虐待を悪いことだと認識しているだろうから、他の兵士と虐待写真を交換するつもりで撮るのなら、イギリスの写真のように、虐待する側の顔が写らないように撮るのが普通だ。 」

この前提に賛成するだろうか。僕は、妥当な前提だと思う。この前提で写真を見てみると、暴露された写真では、堂々と自分の顔を写し、しかもそれが楽しいことでもあるかのような笑顔で写っていることに疑問を感じる。これを、写真に写っている兵士個人が、とんでもない不道徳なヤツだと判断するのか、命令でやっている行為だから、後で問題になるとは考えずに写っていると考えるのかは解釈の範囲だ。果たして事実はどちらなのだろうか。それはなかなか解明できないかもしれないが、どちらの解釈が妥当かは今の時点でも考えられるだろう。

田中さんの解釈は次の通りだ。

「虐待の写真を撮る行為は、英米両軍の上官が囚人に対する虐待を「黙認」を超えて「奨励」していたことを示唆している。上官が「虐待はない方がいいが、欲求不満の兵士が囚人を殴ったりするのは、ある程度は仕方がない」といった「黙認」だけをしているのなら、虐待しても、その光景を写真を撮って自分から証拠を残すことはやらないだろう。兵舎での持ち物検査などで上官に写真を見られたら懲戒されるからだ。
 米軍の場合、虐待だけでなく写真撮影も、兵士の業務の一環として行われていた可能性がある。顔を写された兵士たちは看守部隊の要員で、監獄内は職場である。報道された写真には、女性兵士らが自らすすんで被写体になっている様子が感じられるが、虐待風景を撮影することを上官から仕事として命じられない限り、このような写真が撮られることはないと思われる。」

田中さんは、この解釈を上の前提だけから推論したのではない。上の前提だけから導き出したのでは、それは都合のいい解釈で、論理的には強引すぎるだろう。この解釈を引き出す根拠となる記事を(関連記事)としてリンクを張っている。残念なことに英文の記事なので僕にはコメントできないが、田中さんに信頼を置いている僕としては、推論を補強する証拠も提出していると言うことを確認できれば充分であると感じている。

田中さんは、「虐待の写真は、尋問担当者から要請されたとおりに虐待をやりましたという意味の、看守の兵士たちによる「業務報告」として撮影されたのではないか、と考えられる」という推論で、顔が写っていることの意味も推論している。そして、このようなことが行われたことの原因として、普通の尋問では情報が得られないと言う米軍側の焦りがあったのではないかという推論も付け加えている。

普通の尋問というのは、アメリカで認められている人権を尊重した民主主義的な手続きを踏んだ尋問だ。それでは効果がないので、人権を踏みにじってでも、相手に屈辱と恐怖を与えて、まさに拷問と言っていい状態での尋問をしようとしたのではないだろうか。もしそういうことが事実だとしたら、アメリカが大儀にしているイラクに民主主義をもたらすと言うことを、アメリカ自身がぶちこわす行為をしていることになる。米軍や米政府の側が、これは組織的なものではないと主張する立場はたいへんよく分かる。

アメリカというのは、ハイテク兵器や、ハイテクを使った情報収集にはものすごい能力を持っているが、人間に対する情報収集能力はほとんどないのだろうという感じがする。相手を人間として扱わないこのようなやり方で正しい情報が得られると思っているのだろうか。アメリカが、本当にイラクに民主主義をもたらして、イラクの一般民衆が平和で安全に暮らせるようにしたいのなら、尋問する相手にそれを信じさせて、心を解き放ってから、安全のために情報を提供するように求めなければならないだろう。そうせずに、拷問に近いことをするのは、相手を殲滅するべき敵としか考えていないからだ。相手を敵として見るのだから、相手から敵と見られても仕方がない。

かつて中国では、毛沢東の指導だったのだろうが、日本人戦犯を尋問するときに、敵としてではなく友人として扱い、彼らが心を開くのを待ったという話を聞いたことがある。そして、そのような扱いを受けた兵士たちは一人も処刑されることなく、日本へ帰ってきてからは戦争の悲惨さを語り伝える行為を今でも続けている。日本へ帰った当初は、洗脳されたとかいろいろと中傷を浴びたらしいが、人間としての扱いが、自らその問題を重く受け止めるきっかけを与えてくれたと考えたのではないだろうか。

田中さんは、

「グアンタナモ基地は、アフガニスタンなどの世界地域から千人近い「テロ容疑者」を捕まえてきて拘留している場所だ。キューバというアメリカが敵視する国の領内にある基地なので、アメリカの法律も国際法も適用されず、拘留者のリストすら発表されないまま、人権条約を無視した拘留・尋問が行われている。」

と報告している。米軍はすでにグアンタナモ基地で同じようなことをしているのだ。そして、ここで同じようなことをしている人間をアブグレイブに送り込んでいるそうだ。ここにも、虐待が組織的なものであることを伺わせる事実を見ることが出来る。

「イラク駐留米軍のサンチェス司令官と、その配下の諜報担当責任者であるファスト少将(Maj. Gen. Barbara Fast)は、ワシントンの国防総省から「刑務所に拘留中のイラク人に対する尋問の効率を何とかして向上させ、テロ計画やサダムの居場所について情報を引き出せ」と命じられた。ファスト少将は、キューバのグアンタナモ米軍基地に応援を頼み、ミラー少将(Maj. Gen. Geoffrey Miller)という尋問の専門家がバグダッドに派遣されてきた。」

と田中さんは報告している。田中さんの報告は、この虐待問題だけではなく、米政権内部の権力闘争にも及んでいるが、この虐待問題に対する推論の仕方から、僕は情報が限られているときの思考法を学んだ。

この虐待事件に関連して、次のような事件が起こったことも報道された。

「<イラク>米国人の殺害ビデオ公開 イスラム系サイト」

これはたいへん痛ましい事件であり、その残酷な犯罪は非難されてしかるべきだろう。しかし、このことだけを取り上げて、イラクの抵抗勢力は残酷なテロリストだと非難するのは不公平だと思う。このことは非難されるべきだが、同じように米軍の暴虐も非難されなければならないし、ある意味ではもっとひどいことを米軍は行っているのだという認識が必要だ。

この犯行をしたのはアルカイダ系のテロリストらしいが、政治的判断としては間違いだったのではないかと感じる。これでは、民衆と民衆を対立させてしまい、結果的にはイラクの一般民衆のための利益にならない。彼らがどのような計算でこのように残酷なテロを行ったのかは、今のところの情報ではよく分からないが、イラクが泥沼化するのは間違いないような気がする。

彼らに冷静な判断がなく、感情にまかせて復讐をしたということなら、これからは拘束された個人がどのような存在であろうが、それはあまり考慮に入れられなくなりそうだ。国籍がアメリカだったら殺されてしまいかねない。拘束しているイラク人が、日本人人質事件のように一般民衆に近い反米勢力なら、人質にとってはまだわずかの生存の希望が残るが、アルカイダ系のテロリストに拘束された場合は、死を覚悟しなければならないだろう。

感情的な対立ではなく、冷静に政治的判断が出来るような、利害調整の出来る対立に持っていく努力が出来ないものだろうか。日本の外交にそれを望んでも、能力を超える要求なのかなあ。それが憲法9条の精神だと思うんだけれどな。

khideaki at 09:26│Comments(0)TrackBack(0) イラク問題 

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