2005年02月08日

イラクの選挙に関して

イラクの選挙から約一週間が過ぎたが、その事実というものはほとんど知らされてこない。だから、この時期に何があったのかを論じてもほとんど無駄なことになるだろう。マスコミの報道はアメリカの視点からの宣伝としての情報しか載せていない。アメリカの立場から言えば、事実がどうであろうと選挙の結果を「成功」という以外にはない。だから、その立場にいる人間が、どんなに「成功」を語っても、それは政治的発言にしか過ぎない。

逆に言えば、反対の立場にいる人間が、どれほどイラクの選挙が民主主義とは似ても似つかないものだと語っても、それは今の段階では正しいかどうかの判断は出来ない。反対の立場にいれば、そう語るしかないからだ。  続きを読む

Posted by khideaki at 10:06Comments(0)TrackBack(0)

2004年05月29日

日本人ジャーナリストの犠牲を考える

イラクでまた二人の日本人が犠牲になった。ベテランの戦場ジャーナリストの橋田さんが犠牲になったことの意味を考えたい。橋田さんに関しては、これまでの実績から言って、その危機管理を批判できる人はいないだろう。橋田さんほどの知識も技能も持っている人でさえ避けられぬ危険がイラクにあるのだという現実を認識することが大事だろうと思う。

こう言うと、だから危険がいっぱいのイラクになんか行くべきではないと言う議論をする人がいるかもしれない。何も問題意識を持たない人間だったら「危険だから行かない」という論理をすぐに受け入れられるかもしれないが、問題意識を強く持っている人は、「危険でも行かなければならない」という論理を使うものだと思う。「本当は、どんなことが起こっているのか」、と言う問題意識を持つ人は、危険であっても何とか行く方法を考えるものだと思う。

橋田さんに対して、危機管理が足りないなどと言う人は、おそらく誰もいないだろうと思うので、今回はばかげた「自己責任論」などは起こらないに違いない。家族も、このような事態に対する覚悟を常日頃からしていたのであろう。あわてふためくようなところがなく、毅然として事態に対処している。その態度によって、「誰にも責任をかぶせない」と言うことでの「自己責任」を全うしていると思う。

橋田さん、小川さん二人の「自己責任」はこれで見事に果たされていると僕は思うが、二人が責任を果たしているから、この事件に関する責任はすべて終わりだとは思わない。政府が自衛隊派遣をしたことが、このような危険の増大に、論理的にかかわっているのなら、政府の側の責任というものを果たさなければならない。政策に間違いがなかったかどうかを検証しなければならないのだと思う。そして、間違いがあったという結論を出したら、今度はそのような政策を選択した政府を支持したという、国民の責任を問わなければならない。責任を取るべきところが責任を取って、「責任論」はようやく決着するのだと思う。

このようなことを考える上で重要なニュースは次のものではないかと僕は思った。

「邦人記者の犠牲は遺憾=米国務長官」

この記事では、パウエル米国務長官が、「こうしたテロは、再び独裁政権を樹立しようとする人々が存在することを示していると指摘」したと報じている。つまり、この事件は、「再び独裁政権を樹立しようとする人々」の責任だと主張している。このような人々によって起こされたというわけだ。

このような解釈をすれば、事件と自衛隊派遣とは、論理的な必然性でつながっているのではないと主張していることになり、それならば政府は、このことに関しては責任がないと解釈していることになる。パウエルさんのように考えると、治安の確立こそが責任を果たすことになる。しかし、一方では次のような報道もある。

「小川さん連れ去り射殺か 日本人フリー記者襲撃事件」

この最後に次のような報道がある。

「一方、グループは去り際にイラク人運転手を「米国の手先」と呼び、殺害する機会がありながら逃走を許した。あるイラク人記者は「駐留米軍と連合国軍に反発する勢力の犯行だ。外国人に対しては容赦なく攻撃する一方、イラク人には警告でとどめている」と分析した。」

ここから想像できる犯人像は、「再び独裁政権を樹立しようとする人々」の姿ではない。反米感情を持った人々というイメージだ。イラク人を支配しようとする姿ではなく、深い恨みと憎しみのために、外国人(アメリカに加担する者たちというイメージではないか)であれば誰でも、その恨みをぶつける対象にしている人々というふうに僕には思える。

日本人は特別だという風に見られていない。それは、自衛隊を送ったことで、アメリカと同じ立場だという風に見られていることを示していないだろうか。前回の人質事件の時は、すぐに殺されたりしなかったので、人質たちがどんな日本人であるのかが、拘束したイラク人の側にも配慮された。しかし、今回はそういうためらいや配慮が感じられない。事件が起こった後に、橋田さんたちがどのような活動をしていたかが報じられている。

「橋田さんの支援活動紹介 襲撃当日のイラク紙一面で」

このことが、犯人の側に知られる時間的な余裕があり、犯人の側にためらいが少しでもあれば、いきなり射殺されることはなかったのではないだろうか。そのような余裕とためらいを失わせたのは、自衛隊の派遣が原因していないだろうか。これは、一つの解釈であるから、それに賛成しない人もいるだろうが、もしこの解釈を取る人であれば、政府の責任を追及するのも論理的な必然性を持つ。

小川さんは、報道によれば、現場から連れ去られた後に射殺されているらしい。このような状況からも、犯人側のためらいというものが失われていると僕には思えて仕方がない。

イラクでの戦闘は、旧政権の残存勢力と外国からの「テロリスト」軍団だという受け取り方をしていると、それは自衛隊の派遣にかかわらず、最初から危険であった存在なのだから、危険の増大そのものはそれを押さえられていない米軍に大きな責任があると言うことになる。しかし、反米勢力が、イラクの民衆による抵抗(レジスタンス)であるという解釈をすると、それは自衛隊派遣によって日本人の危険が増大するという解釈にもつながってくる。それは、アメリカに抵抗している側は、アメリカ支援という形で来た自衛隊を敵と見なすことが自然だと思うからだ。

このことに対して、自衛隊は「復興支援活動」に行っているのだからと言うようなことは反論にならない。イラク人の側が「復興支援活動」だと見てくれれば、アメリカに加担する「敵」ではないと主張できるが、そう見てくれなければ、抵抗勢力にとっては「敵」と見る方が当然なのだと思う。自分たちが、「復興支援活動」をしていると見るのは、「観念論的妄想」だと思う。

敵と見なされることで危険が増大すると見るならば、自衛隊を派遣した政策は、イラクにいる日本人の危険を増大させた責任があると見なせる。そして、政府に責任があるのなら、それを支持した国民にも責任があると言うことになる。支持をしていなくても、無関心によって、結果的に支持する国民を多数にしたのであれば、無関心層にも責任がある。そして、派遣反対をしていた人間は、この時点で黙っていれば、黙認したと言うことに責任が生じる。だから、僕はまたここで声をあげたいと思う。責任を果たすために。

自衛隊は、この機会に撤退を考えるべきだろうと思う。自衛隊が撤退し、その他の国の軍隊も撤退すれば、イラクは内戦状態になり、より大きな悲惨が生じると心配する人もいるだろう。そういう人たちは、そのより大きな悲惨を具体的に論じて欲しい。それが論理的に妥当なものであれば、僕もより大きな悲惨を避けるためという点で、自衛隊がとどまることに賛成するかもしれない。

しかし、今の時点では、そのより大きな悲惨よりも、目の前の今の悲惨の方を避けるべきではないかという気がしてならない。その悲惨は、アメリカの手先としてイラクの人々の憎しみを買って、むしろイラクの人々のために働いている日本人が犠牲になると言う悲惨だ。今のイラクに、危険を承知であえて行く人間は、イラクの人々のために働きたいと思う人間だけだ。その人間が手先と間違えられて殺されてしまうと言う悲惨をこそ避けなければならないのではないだろうか。

自衛隊を派遣していることで、より大きな悲惨が避けられるのだろうか。より大きな悲惨とは、イラクの一般民衆が虐殺されることだ。自衛隊の派遣は、イラクの一般民衆の虐殺を防ぐことが出来るのだろうか。むしろ撤退することによってアメリカを孤立させ虐殺を防ぐきっかけを作ることが出来るのではないだろうか。

アメリカを孤立させれば、アメリカの庇護を受けたい日本は、その庇護を失うかもしれない。しかし、庇護を受けるために屈従するのか、それとも虐殺されているイラクの人々と連帯するために、名誉ある苦労を選ぶのか、その選択の分岐点に日本人が来ているのではないだろうか。今回のジャーナリストの犠牲は痛ましい事件だったが、その意味を僕はこのように考えてみた。  
Posted by khideaki at 10:33Comments(8)TrackBack(7)

2004年05月23日

メディアの情報操作

「サイゾー」6月号では、最初のビデオ映像の報道に、肝心な部分が抜けていたことを取り上げて議論をしているところがある。それは、後の「演出された」と語られた部分で、今井君が大型のナイフを首に突きつけられて脅迫されている映像だ。この部分が、日本のテレビ報道では最初の頃はなかった。僕は、人質たちが解放された後にフジテレビだっただろうか放映されたのを記憶している。

その時のフジテレビの断りでは、何らかの影響を配慮してというようなことを言っていたと思うが忘れてしまった。宮台氏は、これが放映されなかった理由を次のように解釈している。

「APやユーロTVがそのまま流したけれど、のど元に大きなナイフを突きつけられた今井君が「小泉NOと言え」と強制され、高遠さんが泣き叫ぶ場面、これが電波に乗って日本中に流れると、同時期の小泉による「自衛隊は引かない」発言が大きな反発を買う可能性があるので、首相官邸が止めたんだな。記者クラブ下での「御用ジャーナリズム」ならではの話だ。近代ジャーナリズムなら、ゲリラ側による情報操作の可能性を銘記した上、せめてAPやユーロTVが流した部分はオンエアし、国民に判断をゆだねるべきだぜ。国辱的な「自己責任バッシング」の背景には、明らかにこのリアリティ操作があるわけ。」

この映像が流れていたらどうなっていただろうか。日本の国民性を考えると、感情的に反応する人が多いことが予想されるが、人質たちが非常に危険な状態であるということの緊張感は伝わっただろう。後に、このビデオにはある種の演出があったということが知られたが、犯人側には「殺す」と言うつもりはなくても、今井君の側には、「殺される」という恐怖があったことは確かだ。その恐怖が見ている人に伝わってくるような映像は、宮台氏が言うように、小泉さんの言葉に対する反発を呼ぶだろう。「自衛隊は引かない」という言葉は、「人質を見捨てる」と言われているようにも感じるからだ。

しかし、ここで宮台氏が語っているように、「国民に判断をゆだねるべき」だというのが、近代民主主義国家の取るべき態度だった。そして、宮崎氏が次のように語るように、国民の大部分が次のように判断するのが、民度の高さ(論理的判断力のある国民の数の多さ)を示すものだと思う。

「断っておきますが、仮に映像がすべて出て、世論が傾いたとしても、この件で自衛隊を撤退させるという選択肢はない。これは自明です。たとえ脅迫通り、3人が生きたまま焼き殺されたとしても、自衛隊撤退というオプションはなかった。もちろん、そのような事態を招いた政権の責任は追及されたでしょうが。」

もっとも、宮崎氏のように判断できる国民が多数を占めていれば、最初から自衛隊派遣などという間違いを犯すことはなかったと思う。そもそも最初のぼたんを掛け違えたとは、宮台氏もよく語っていることだが、その程度の民度の国民だったから、「自己責任論」などという国辱的な論議が巻き起こってしまったのだろう。

日本と違って、アメリカでは、ファルージャで虐殺された4人の映像がマスメディアで流されたらしい。これに対しては、宮崎氏、宮台氏は次のように語っている。

宮崎氏
「たとえばアメリカでは、世論に影響を与える情報は、たとえ家族の意向に逆らっても公表します。3月末にファルージャ近郊で民間軍事会社の4人が攻撃されて、その焼死体が損壊され、鉄橋につるされた事件がありましたが、ニューヨークタイムズ1面を始め、多くのメディアがその無惨な死体の写真を出しました。遺族としてはやりきれないものだったでしょうが、イラクの現実を国民に知らせるには、とても効果的でした。
 対して日本の場合は、家族のためと言いつつ、その実、政府の意向を慮って自己規制する。メディアがメディアの役割を果たしていない。」

宮台氏
「その点を敷衍すると、メディア報道の波及効果を問題にする際のタイムスパンが短すぎるんだよ。ニューヨークタイムズだって、他に理由がないなら残酷な死体写真を載せない。残酷さで遺族や国民を傷つけてしまう短期的マイナス効果と、戦争の残酷さを弁えないことによる長期的マイナス効果を秤にかけ、それこそ自己責任で掲載したんだ。それが第4の権力たるジャーナリズムの本質であり、清濁を踏まえた上で戦争の是非を判断するのが国民の本質だろうが。」

全く見事な論理だ。国民一人一人が正しく判断するためにこそ情報を提供しなければならないと言うことが、近代民主主義国家のジャーナリズムであるはずなのだ。日本のマスコミは、国民を信じていないし、権力者のご機嫌を伺っているだけだ。権力者にとって都合の悪い判断をしそうな情報を、出来るだけ国民に知らせないようにしている。それを宮台氏は、次のような痛烈な言葉で指摘している。

「メディアが政府のケツを舐めてきれい事ばかり流して世論を誘導することが、どんな大きなコストにつながるか、もっとも激しく日米開戦の旗を振った朝日新聞を含めて全く学びがない。こりゃいったいどういうことだ。腰抜けどもめ!」

メディアの問題は、もはやメディアでは自浄作用を期待できないものだと思う。誰かが言っていたが、資本主義社会のメディアは、しょせん市場原理で動く企業に過ぎない。大衆が求めるニュースが程度の低いものであれば、程度の低いメディアがマスコミになる。国民一人一人が自覚を高めて、低レベルのメディアなど見向きもしなくなるようにならなければならないだろう。

僕は今ではほとんどテレビのニュースは見ない。水準の高い解説をしてくれる番組が一つもないからだ。新聞もほとんど読まない。知りたい事実があまり書かれていないからだ。情報は大部分はインターネットと、マイナーな雑誌で仕入れている。そちらの方が論理的な水準が高い情報を与えてくれるからだ。マスコミが提供する情報が、やがてはくずとして捨てられていくような時代がくれば、日本の民度も、今回のような「自己責任論」が蔓延するようなことにはならなくなるだろう。そういう日が来ることを祈っている。  
Posted by khideaki at 14:46Comments(0)TrackBack(0)

米軍の行為は殺戮ではないのか

「サイゾー」6月号の中から、今回は宮崎氏の次の発言を取り上げて考えてみたい。

「ファルージャ市街で起こったことは、攻撃とか戦闘とか言うよりも限りなく殺戮に近い。「ファルージャ虐殺」と呼ぶべきイラク占領政策上の一大汚点です。いずれこれはアメリカ国内で必ず問題になると思いますね。ラムズフェルドいか、政策責任者は問責される可能性が高い。とりわけ大統領選でケリーが勝利し、民主党政権が出来たりすれば確実にね。」

今度の人質事件でもファルージャが注目され、ある意味では、世界の目をそこに向けるために、最後に残された手段として外国人の拘束事件が続発したとさえ見られている。ファルージャのひどさというのは、今ではかなりよく知られるようになったが、それは、ファルージャだけのことではなく、イラクのどこでも日常的に行われていることなのではないだろうか。マスコミ報道では、米軍と反米勢力の戦闘というのがたくさん報じられるが、これも、実際には戦闘などと呼べるものではなく、殺戮に近いものなのではないだろうか。

イラク人が殺されたというニュースはあまりにも多いので、僕も全部を記録していないけれど、その中でもおかしいなと思うものはいくつか記録してある。ちょっと拾い出しておこう。

「「結婚式爆撃」マイヤーズ米統参議長も誤爆否定」

「イラク 米軍誤爆?40人死亡 結婚式会場、米側調査へ」

「カルバラで激戦、マフディ軍18人死亡…民間人も犠牲」

「<イラク>米軍作戦でイラク人21人殺害」

「<首都、カルバラでも戦闘 イラク、40数人死亡」

まだまだあると思うが、これらのニュースに共通しているのは、米軍の側にほとんど犠牲者が出ていないことである。米軍の方に犠牲者が出た方がいいと言っているのではない。もし正当な戦闘だったら、これほど一方的な戦いになるのはおかしいのではないかという疑問だ。兵器の圧倒的な性能の違いというものもあるが、死ぬと分かっていても抵抗せざるを得ないイラク人の姿というのを、僕はここから想像してしまう。米軍のやっていることは、ここでもやはり殺戮なのではないか。  
Posted by khideaki at 13:52Comments(0)TrackBack(0)

2004年05月21日

立花隆氏の「高遠さん擁護論」

月刊「現代」6月号に、立花隆氏の「小泉イラク派兵「狂ったシナリオ」」という文章が載っている。これは、見事な小泉政権批判になっているのだが、その中に高遠さんを擁護する部分がある。これが見事なバッシングへの反論になっている。

立花氏というのは、高遠さんを擁護する私的な理由は何もない。だから、高遠さんに最初から共感している人間が擁護するのとはかなり意味が違うと僕は感じている。少なくとも立花氏は第三者的に客観的な立場から、高遠さんを擁護するだけの正当な理由があるのだという論理を展開している。これは、そういう意味でたいへん注目に値する文章だと思う。

僕は、立花氏を必ずしも全面的に信頼しているわけではない。文藝春秋社とは、その利害が一致するところが多いので、文春の立場からする発言には疑問を感じるものが多い。しかし、第三者的な立場から立花氏が論評するときは、その分析力の鋭さ・資料収集の正確さと多様さにおいて、実に見事なジャーナリスト感覚を示してくれると思っている。そのジャーナリスト感覚を感じる立花氏の高遠さん擁護を見ながら、その反対の極にある高遠さんバッシングを批判していこう。

まずは一つの事実を紹介しよう。人質になった3人が解放されたときに、その最初の場面がテレビ報道されたが、それは在日イラク人のディア・キデル氏がその場に立ち会っていてビデオを回したかららしい。このキデル氏は、人質解放のための個人的働きかけをしていたので、解放の場面で立ち会うことが出来たのだそうだ。そのキデル氏が、「週刊朝日」(4月30日号)の記事で次のように語っている。

「宗教指導者の人たちの心をもっとも動かしたのは、高遠さんだと思います。女性が一人でバグダッドに入り、子供たちの世話をしている。その説明をしたり、高遠さんが子供たちと写っている写真を見せたりすると、指導者らは「本当に偉い人だ」と言っていました。」

立花氏は、この人質事件では、日本政府は何も出来なかった、「無策の策に終始した日本政府」と批判している。そして、「基本的には高遠さんは高遠さん自身が救ったのである」と解釈している。上のキデル氏の言葉をもって、立花氏はこの自分の主張の証拠の一つとしている。

バッシングする方の人間は、高遠さんは自己満足に過ぎないなどと罵声を浴びせているものもいたようだが、自己満足に過ぎない人間が、このように当の相手のイラク人から感謝され尊敬されるような存在になるだろうか。バッシングする人間は、こういう事実を知ってバッシングしているのだろうか?全く知らないでやっているとしたら、自らの無知と無教養をさらけ出しているだけだ。

立花氏のジャーナリスト感覚をさすがだと思うのは、このようにして論評の根拠となる事実を集めることの出来る情報収集能力の高さだ。キデル氏のことは僕も知らなかった。これがマスコミでもっと大々的に報道されていれば、非論理的なバッシングなど一蹴できただろう。

以前に批判した「山形浩生(評論家)氏の「自己責任論」」は次のところで見ることが出来る。

「自由には必ず責任伴う」

この記事においては、高遠さんについて次のように語られている。

「でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。」

これは、立花氏の評価とは全く違うが、もし山形氏が、このように判断する根拠を示していれば、僕はこの言葉を提出したこと自体を批判はしなかっただろう。その判断を検討して批判しただろうと思う。しかし、山形氏は、この評価をしたことの根拠を何も示していない。彼の印象を語っているだけだ。何を調べて、具体的にどんな事実からこのことを判断したのかが全く語られていない。

印象だけを語って、それに対して批判をしようと思ったらどんなことでも批判できる。印象なんてものは、自分がどう感じたかにすぎないのだから、客観的に正しくなくてもかまわないのである。

僕が山形氏に批判を感じるのは、このように言論人として当たり前のやり方をせずに、無責任な放言を公に流していることだ。さらに言えば、「シンナー遊びの若者支援」という言い方には、表面的で差別的な見方をしているのを感じる。彼らが、シンナーを吸ってでも現実から逃れたい状況にあるという客観的な条件を何も考えていないのではないだろうか。このような発想で高遠さんのやっていることを正しく評価することなどはできないだろうと思う。

僕が同じように批判した野口氏は、このように高遠さんのやっていることを貶めるようなことは書かなかった。これは野口氏の誠実さを表すものだろうと僕は理解している。野口氏は、危機管理という面でのみ人質たちを批判していた。僕は、それは不当に責任をかぶせすぎることだと、野口氏を反批判していた。

危機管理というものは簡単に批判も擁護も出来るものではないのだ。高度に専門的な知識が必要で、その検討は慎重を要する。野口氏は登山は専門家だっただろうが、すべての危機管理が登山と同じではないということに気づくべきだった。正確な危機管理を論じることはよほどの専門家でないと難しいが、その危機管理論に間違いがあるかどうかは、専門的知識がなくても指摘できるところを見つけることは出来るのだ。

野口氏は不当なバッシングをしていたわけではないから、僕はバッシングとして批判したのではない。あくまでもその論理の使い方が不当だという批判をした。野口氏の論理をバッシングに利用した人間は、バッシングとして批判されるべきだろう。特に野口氏が語っていない、高遠さんの活動を貶めるようなことまでも書いてバッシングした人間は、それを恥じるべきだと思う。

山形氏の文章は、野口氏よりひどい文章だ。直接高遠さんを誹謗しているようにも僕には見える。これは、論理的根拠がないという意味で、バッシングと呼んでいいものだろうと思う。

さて、肝心の立花氏の高遠さん擁護だが、それは次のように語られている。

「高遠さんは、イラクを一番よく知る日本人の一人で、民衆レベルのイラク人が何を考え、何を感じているかを一番よく知る人だからだ。」

これは、立花氏の印象だけで語っているのではない。その証拠となる事実をちゃんと提出している。これが言論人の正しい態度なのである。それは、高遠さんのホームページからの引用で埋められている。残念なことに、このホームページは、不当なバッシングのために今は閉鎖されているようで、実際に確かめることは出来ないのだが、立花氏の報告でその内容を見ることが出来る。

立花氏は、約4ページに渡って高遠さんが集めたイラク人の声を紹介している。それは、いずれもイラクの現状をよく知らせてくれる、日本のマスコミなどでは知らされない貴重な事実ばかりだ。だから、次の立花氏の評価も僕はなるほどと頷くことが出来る。

「彼女は、ストリート・チルドレンから、学生、医者などのインテリ、その辺の町の一般大衆、農民など、あらゆる階層の人と分け隔てなくつきあい、意見を交換しあっているから、外務省官僚や、ジャーナリストなどからは絶対に得られないような生きた情報に満ちあふれている。」

そして、「彼女は政治とは無縁の人間で、とりわけ反体制的な平和運動家などとは対極に立つ人間だと言うことである(しかし平和への願いはいかなる平和運動家より何倍も強い)」という言葉も重要だ。高遠さんのバッシングでは、彼女が反体制的であることを非難するような部分もあったからだ。そして、これももちろん立花氏の印象批判ではなく、彼女がたまたま参加した反戦デモで、彼女は、そこで発される「怒り」や「罵倒」の声に参ってしまい、それを癒してからでないと次の活動に向かえなかったという事実から、このような判断をしている。

立花氏が紹介している高遠さんの報告は数が多いのだが、日本で報道されていることとは全く違った内容を持ったものだけを選んでちょっと紹介しよう。

「自衛隊が来て、物資の輸送や水や食糧の供給をすれば、我々の得るはずの仕事がなくなる。この国は貧困で困っているわけでも人手が足りないわけでもないのだ。とても裕福な国だけれど、今する仕事がないのだ。我々は我々の手で立て直すことが出来るのだ。またアメリカの要請でくるべきではない。イラク政府(が出来たら)の要請でくるなら分かる。」(産婦人科外科部長の声)

「日本に軍隊はないって聞いているよ。これから来る日本人たちは軍隊ではないし、武器を持たない集団のはずだ。どっちにしても、彼らが来ればサマワは東京のようになるだろう。壊れた建物は新しい高層ビルに建て替えられるだろう。病院にも学校にもコンピューターとインターネットを完備してくれるだろう。」(サマワの医師の声)

このサマワの医師の声に対して、立花氏は次のように論評している。

「この驚くべき勘違いは、いずれ現実にぶつかれば、いやでも正されざるを得ない。その現実とは、自衛隊はただの軍隊に過ぎないと言うことであり、雇用など増やしてくれないと言うことであり、生活水準を向上してくれるわけでもないと言うことである。」

全く同感だ。このような判断が出来るのは、高遠さんが貴重な情報を発してくれるからなのである。  
Posted by khideaki at 09:26Comments(2)TrackBack(1)

2004年05月15日

人質事件における新事実

今週号の「週刊金曜日」に、イラクで人質になった今井紀明さんと、郡山総一郎さんの二人のインタビュー記事が載っている。ここから、今までは語られていない新事実というものを拾ってみようかと思う。

事実というのは、論評の基礎に置かれるもので、それが不確かなあやふやなものであったり、憶測によるものであったりすれば、論評の際の論理がいかに正しいものであっても結論の信頼性を損なう。本人から語られたと言うことの重みを受け止めて、新事実を考察してみたい。

まずは今井紀明さんへのインタビューで、この記事を書いた浅野健一さん(ジャーナリスト、同志社大学教授)は次のように報告している。

「バグダッドの日本大使館に来て事情聴取した係官は「警察庁外事課の者だ」としか名乗らなかったという。ドバイで診察を受けた病院に来たのは同じ警察庁の人と、警視庁の捜査官たちだった。彼らは名前も所属も名乗らなかった。警視庁の係官は名刺をあとで渡すと言って結局もらえなかった。」

これは解放直後の警察の聴取の様子を語ったものだ。なぜ名前を名乗らなかったのだろうか。事件の背景を知り、今後の対応の参考にするためだったら、責任者が誠意ある対応を見せるはずなのだが、それが感じられない。これは、被害者としての扱いではなく容疑者として扱われたのではないかという疑いさえ抱かせるものだ。確かな証拠がなかったので、本当の容疑者には出来なかったのだろうが、被害者に対する扱いではないと思う。

浅野さんは、彼らが「政府と違って、自治体の対応には感謝している」と報告して、次の今井さんの言葉を書き記している。

「地元の札幌市、北海道の自治体職員の方我は非常に良くやっていただいたと思っています。地元、北海道でも同世代の若者が暖かい声をかけてくれます。でも、忘れてはならないことがあります。それは、イラクの人たちが米軍によって長期間拘束されていることです。明るみに出た虐待行為のように、僕たちよりひどい状態で拘束されてます。彼らの家族は、僕らの家族が味わったような思いをしていることを、多くの人に考えて欲しいと思います。」

きわめて誠実で思慮深い言葉だと思う。この若さでここまで深く考えて言葉を発することの出来る若者がいると言うことに、僕は大きな希望を見る思いがする。この今井さんが、日本人としての常識を持たないかのように「迷惑をかけた」と非難されるのはなぜだろうか。政府に対して感謝の言葉がなかったという非難が彼に浴びせられたが、警察の態度などを見ていると、感謝どころではなく、犯人扱いしたことの政府の失礼な態度というのは、批判されないのだろうかと思う。そのようなことをしておいて、どうして感謝を要求できるのだろうか。

今井さんのインタビューによるものではないが、この記事を書いた浅野さんが、次のような興味深い事実があることも伝えている。これはマスコミなどは全く報道しなかったのではないだろうか。

「日本政府は4月15日、イラク・サマワで陸上自衛隊派遣部隊の取材に当たっていた日本人記者を国外に退避させるため、報道関係者10人をクウェートまで空輸した。サマワから同飛行場までは、陸上自衛隊が輸送と護衛に当たったが、報道関係者に費用を負担させたという話は聞かない。」

この空輸が、政府(自衛隊)の仕事の一環として行われたのであれば、それは税金でまかなわれるべきものなのだから、費用を請求しないのは当然だ。我々は、政府が果たすべき義務としての仕事をしてもらうために税金を払っているのだから。しかし、この空輸が仕事の中に入っていないものであれば、報道関係者は、それを自分の都合で利用させてもらっただけなのだから、応分の負担をするのは、これまた当然であろう。果たしてどっちだったのだろう。記者を国外に退避させるのは自衛隊の仕事だったのだろうか。

同じようなことを人質3人について考えてみると、3人を日本に連れ帰るのは政府の仕事だったのだろうか。もし政府の仕事でなかったのなら、イラクにとどまるか、日本に帰るのかは彼らが自由に選べなければならない。選択肢を与えずに連れ帰ったとしたら、政府は仕事として彼らを連れ帰ったのではないだろうか。仕事にかかった費用を、納税者に請求することの正当な理由はどこにあるのだろうか。僕は救急車に2回乗せてもらったが、その費用の請求はなかった。公的な仕事だから税金でまかなってもらったんだと思う。僕が私的な用事に使うために呼んだわけではないから。でも、仕事でなかったら、逢沢副大臣は、どうしてわざわざヨルダンまで行ったんだろう。彼もボランティアで人質救出に行ったのかな?だったら、彼も飛行機代と滞在費を自己負担したんだろうか。

郡山総一郎さんのインタビューは、「週刊金曜日」記者の竹内一晴さんが行っている。郡山さんの次の言葉を聞くと、人質たちは、政府から容疑者扱いをされたことが確実であることがますます感じられる。

「帰国直後に、パソコン、カメラ、パスポートなどを押収されてしまったんですよ。なぜ被害者のパソコンを調べるのか、わけが分かりません。しかも、返却の交換条件として、事情聴取に応じろって言うんですから、僕は明らかに「犯人」扱いですよ。」

これは、すでにばかげた議論として片づけられている「自作自演説」を、この時点でもまだ警察が疑っていたか、それにつながる事実を少しでも見つけて、疑いをかけようとしていたとしか考えられない。

郡山さんによれば、

「(高遠)菜穂子が「自衛隊を派遣するからこんな事件が起きるんです。とにかく自衛隊をいったん撤退させられないんですか」というと、大木大使は足を組んでふんぞり返りながら、あのように言い放ったんです。」

といって、大木大使の次の言葉も紹介している。

「いやあ、(自衛隊)撤退なんて日本政府は考えないでしょう。出してしまったものはしょうがないですよ。(自衛隊も)あれだけ出しちゃったら、引っ込みがつかないもんなあ」

この他人事のような大使の言い方に対しては、記事を書いた竹内記者は、「政府が人質となった3人を完全に見下し、同時にイラクの人々にもろくに関心を払っていないホンネが透けて見える」と論評している。僕もほぼ賛成だ。大使の言葉は、この人が責任感覚の薄い人だと言うことを表しているように見えるだけだ。

このときの高遠さんの様子を郡山さんは次のようにも報告している。

「(大使の言葉を聞いて)菜穂子は怒って机をどーんとたたき、「そんないい加減な気持ちでやってるなんて!もっとイラクを、イラク人を知り、考えてください」と猛然と抗議をしました。」

この高遠さんの姿を見ると、解放直後は、たとえ精神的なショックはあっても、それを乗り越えてなおかつ強い信念を持ってイラクでの活動を続けていこうという気持ちが感じられる。それを潰したのは、警察に事情聴取されて、日本に連れ戻されてからだと僕は感じる。それは、全く不当なことだと思う。次の郡山さんの言葉を聞くと、その不当性が明らかになるだろう。

「僕はともかく、疲労困憊が激しかったノリ(今井紀明)と菜穂子に2時間以上も聴取していました。二人には、「自作自演」を疑った誘導的な質問もあったと、後日聞きました。」

政府のチャーター機に乗ったことの経緯については次のように語っている。

「僕たちは自分のチケットで日本に帰れたのです。しかしあのときは政府がチケットを手配した民間機に乗る以外の選択肢は与えられなかった。そのあとで(旅行会社から)航空運賃を請求されたのだから、困りましたよ。」

彼らのあとに拘束された渡辺修孝さんは、「払いませんよ」と「マル激トーク・オン・デマンド」の中で語っていたが、このような状況なら、僕も払う必要はないと思う。選択肢のない状況だったのだから、彼らの責任ではないのだ。

最後の郡山さんの言葉には、僕は拍手を送りたいし、今井君に感じた希望を郡山さんにも感じる。次の言葉だ。

「政府からは疑って申し訳なかったなどの言葉は一言ももらっていません。でも僕はバッシングなんか気にしていません(笑)。やり残した仕事があるのでイラクにもまた行くつもりです。」

日本政府は、救出に尽力してくれたイスラム聖職者協会への感謝の言葉を言わなかった。そして、被害者を容疑者として疑ったことへの謝罪もしなかった。このような政府の側に立って、人質たちが感謝が足りないとか、謝罪の言葉がないとか非難していた人は、政府に対してはどう思うのだろうか。人質になった彼らは、本当に世話になった自治体に対しては感謝の言葉を忘れなかった。本当に責任のある部分にはきっと謝罪したはずだ。謝罪の言葉がなかったのは、責任があるという判断をしなかったからだと僕は思う。

日本政府は、イスラム聖職者協会に世話にならなかったのだろうか。相手に言われたあとであわてて感謝の言葉を付け加えたが、言われないと分からなかった。人質だった被害者を疑ったことに対しては、不当だということの責任を取る必要がないのだろうか。

この問題に対しては、考える材料が実に豊富にある。明日の日記でも別の記事でまた考えてみよう。  
Posted by khideaki at 11:06Comments(0)TrackBack(0)

2004年05月13日

米軍のイラク人虐待は組織的なものか?

イラクのアブグレイブ刑務所での、米軍による拘束者への虐待を示す写真が暴露されてから、そのニュースが世界中を駆けめぐっている。アメリカでの議論は、これが一部の不心得者の仕業であるのか、軍としての組織的な行為なのかというのが問題になっている。

一部の人間の問題であれば、その不道徳な犯罪を裁くことでこの事件は終わる。しかし、米軍が持っている組織的な問題であれば、誰の責任が重いかということを判断して、責任の重さを評価して裁く必要が出てくる。軍隊の場合は、上官の命令は絶対的な重さを持っているだけに、直接実行した兵士よりも、命令した人間の方が責任が重くなる。

しかし、このことについては、なかなか正しい情報が表に出てこないだろうことが予想される。軍としては、個人に責任を押しつけて組織としての追求を免れたいと思うだろうし、個人は、自分の責任を少しでも軽くするために組織の告発をするだろう。真っ向から対立する利害の絡むとき、どちらが事実なのかを判断するのはたいへん難しい。決め手になる情報がないときに、どのような考え方でこの事件を見たらいいだろうか。

その大きなヒントを与えてくれるのが、田中宇氏の次の報告だ。

「イラク虐待写真をめぐる権力闘争」

田中さんは、危険地帯に直接乗り込んで事実を知らせるというタイプのジャーナリストではない。直接確かめれば一目瞭然となる事実の場合は、危険をあえて承知で事実を見に行く価値がある。綿井さんが、ファルージャを見なければならないと考えたように。しかし、アブグレイブは、直接見に行っても、見ただけでは何が事実かは分からない。

こういうときにこそ田中さんのようなタイプのジャーナリストが活躍することが出来るのだろう。現代は情報は溢れるほどたくさんある時代だ。しかし、その中に、何が肝心で大事な情報なのかを見分けるのは難しい。田中さんは、膨大な情報の中から、事実を予想させてくれる情報を鋭い嗅覚で選び出す。その選び方を我々は学ぶ必要があると思う。

僕は、米軍が虐待事件のようなことをしていてもそれはあり得ることだと感じている。ベトナム戦争の頃にもそういう話はたくさんあったし、何よりもアメリカの戦争の歴史が、被占領民族に対するひどい虐殺の歴史を持っているから、そういう「先入観」を持っている。この「先入観」というヤツは、事実を見る目を曇らせる原因にもなるが、事実の重要性を見分ける勘を働かせてくれるものにもなる。

「先入観」を持つことをすべて悪いことだと思う人もいるかもしれないが、役に立つ「良い先入観」と、目を曇らせる「悪い先入観」とがあるのだと僕は思う。「良い先入観」は、それまでの事実から得られた整合性のあるイメージから引き出されたもので、「悪い先入観」は、事実とは関係なく、ある種の事柄を信じているという「信仰」に近いものから導かれる先入観だ。整合性のある先入観は、それに反する事実が出てきたときに容易にそれを修正できるが、「信仰」に近い先入観の場合は、それに反する事実が出てきても、それは事実の方が間違っているという判断をしかねない。

だいたい人間は、すべてを白紙にして物事を考えることは出来ない。ある種の価値観を持っていなければ価値判断も出来ない。「良い目的のためにあえて危険を選ぶのは尊敬すべきことだ」という先入観がなければ、イラクで人質になった人たちを尊敬するという判断は出てこない。問題は、先入観を持つことではなく、その先入観が妥当なものであるかということであって、これを考えるには、自分にもある種の先入観があるのだという自覚を持たなければならない。

さて、田中さんが判断の基礎にしている「先入観」(物事の判断をする場合の前提の法則あるいは仮説)はいったいどういうものだろう。田中さんは、この報告の中に次のような記述をしている。

「兵士はおそらく虐待を悪いことだと認識しているだろうから、他の兵士と虐待写真を交換するつもりで撮るのなら、イギリスの写真のように、虐待する側の顔が写らないように撮るのが普通だ。 」

この前提に賛成するだろうか。僕は、妥当な前提だと思う。この前提で写真を見てみると、暴露された写真では、堂々と自分の顔を写し、しかもそれが楽しいことでもあるかのような笑顔で写っていることに疑問を感じる。これを、写真に写っている兵士個人が、とんでもない不道徳なヤツだと判断するのか、命令でやっている行為だから、後で問題になるとは考えずに写っていると考えるのかは解釈の範囲だ。果たして事実はどちらなのだろうか。それはなかなか解明できないかもしれないが、どちらの解釈が妥当かは今の時点でも考えられるだろう。

田中さんの解釈は次の通りだ。

「虐待の写真を撮る行為は、英米両軍の上官が囚人に対する虐待を「黙認」を超えて「奨励」していたことを示唆している。上官が「虐待はない方がいいが、欲求不満の兵士が囚人を殴ったりするのは、ある程度は仕方がない」といった「黙認」だけをしているのなら、虐待しても、その光景を写真を撮って自分から証拠を残すことはやらないだろう。兵舎での持ち物検査などで上官に写真を見られたら懲戒されるからだ。
 米軍の場合、虐待だけでなく写真撮影も、兵士の業務の一環として行われていた可能性がある。顔を写された兵士たちは看守部隊の要員で、監獄内は職場である。報道された写真には、女性兵士らが自らすすんで被写体になっている様子が感じられるが、虐待風景を撮影することを上官から仕事として命じられない限り、このような写真が撮られることはないと思われる。」

田中さんは、この解釈を上の前提だけから推論したのではない。上の前提だけから導き出したのでは、それは都合のいい解釈で、論理的には強引すぎるだろう。この解釈を引き出す根拠となる記事を(関連記事)としてリンクを張っている。残念なことに英文の記事なので僕にはコメントできないが、田中さんに信頼を置いている僕としては、推論を補強する証拠も提出していると言うことを確認できれば充分であると感じている。

田中さんは、「虐待の写真は、尋問担当者から要請されたとおりに虐待をやりましたという意味の、看守の兵士たちによる「業務報告」として撮影されたのではないか、と考えられる」という推論で、顔が写っていることの意味も推論している。そして、このようなことが行われたことの原因として、普通の尋問では情報が得られないと言う米軍側の焦りがあったのではないかという推論も付け加えている。

普通の尋問というのは、アメリカで認められている人権を尊重した民主主義的な手続きを踏んだ尋問だ。それでは効果がないので、人権を踏みにじってでも、相手に屈辱と恐怖を与えて、まさに拷問と言っていい状態での尋問をしようとしたのではないだろうか。もしそういうことが事実だとしたら、アメリカが大儀にしているイラクに民主主義をもたらすと言うことを、アメリカ自身がぶちこわす行為をしていることになる。米軍や米政府の側が、これは組織的なものではないと主張する立場はたいへんよく分かる。

アメリカというのは、ハイテク兵器や、ハイテクを使った情報収集にはものすごい能力を持っているが、人間に対する情報収集能力はほとんどないのだろうという感じがする。相手を人間として扱わないこのようなやり方で正しい情報が得られると思っているのだろうか。アメリカが、本当にイラクに民主主義をもたらして、イラクの一般民衆が平和で安全に暮らせるようにしたいのなら、尋問する相手にそれを信じさせて、心を解き放ってから、安全のために情報を提供するように求めなければならないだろう。そうせずに、拷問に近いことをするのは、相手を殲滅するべき敵としか考えていないからだ。相手を敵として見るのだから、相手から敵と見られても仕方がない。

かつて中国では、毛沢東の指導だったのだろうが、日本人戦犯を尋問するときに、敵としてではなく友人として扱い、彼らが心を開くのを待ったという話を聞いたことがある。そして、そのような扱いを受けた兵士たちは一人も処刑されることなく、日本へ帰ってきてからは戦争の悲惨さを語り伝える行為を今でも続けている。日本へ帰った当初は、洗脳されたとかいろいろと中傷を浴びたらしいが、人間としての扱いが、自らその問題を重く受け止めるきっかけを与えてくれたと考えたのではないだろうか。

田中さんは、

「グアンタナモ基地は、アフガニスタンなどの世界地域から千人近い「テロ容疑者」を捕まえてきて拘留している場所だ。キューバというアメリカが敵視する国の領内にある基地なので、アメリカの法律も国際法も適用されず、拘留者のリストすら発表されないまま、人権条約を無視した拘留・尋問が行われている。」

と報告している。米軍はすでにグアンタナモ基地で同じようなことをしているのだ。そして、ここで同じようなことをしている人間をアブグレイブに送り込んでいるそうだ。ここにも、虐待が組織的なものであることを伺わせる事実を見ることが出来る。

「イラク駐留米軍のサンチェス司令官と、その配下の諜報担当責任者であるファスト少将(Maj. Gen. Barbara Fast)は、ワシントンの国防総省から「刑務所に拘留中のイラク人に対する尋問の効率を何とかして向上させ、テロ計画やサダムの居場所について情報を引き出せ」と命じられた。ファスト少将は、キューバのグアンタナモ米軍基地に応援を頼み、ミラー少将(Maj. Gen. Geoffrey Miller)という尋問の専門家がバグダッドに派遣されてきた。」

と田中さんは報告している。田中さんの報告は、この虐待問題だけではなく、米政権内部の権力闘争にも及んでいるが、この虐待問題に対する推論の仕方から、僕は情報が限られているときの思考法を学んだ。

この虐待事件に関連して、次のような事件が起こったことも報道された。

「<イラク>米国人の殺害ビデオ公開 イスラム系サイト」

これはたいへん痛ましい事件であり、その残酷な犯罪は非難されてしかるべきだろう。しかし、このことだけを取り上げて、イラクの抵抗勢力は残酷なテロリストだと非難するのは不公平だと思う。このことは非難されるべきだが、同じように米軍の暴虐も非難されなければならないし、ある意味ではもっとひどいことを米軍は行っているのだという認識が必要だ。

この犯行をしたのはアルカイダ系のテロリストらしいが、政治的判断としては間違いだったのではないかと感じる。これでは、民衆と民衆を対立させてしまい、結果的にはイラクの一般民衆のための利益にならない。彼らがどのような計算でこのように残酷なテロを行ったのかは、今のところの情報ではよく分からないが、イラクが泥沼化するのは間違いないような気がする。

彼らに冷静な判断がなく、感情にまかせて復讐をしたということなら、これからは拘束された個人がどのような存在であろうが、それはあまり考慮に入れられなくなりそうだ。国籍がアメリカだったら殺されてしまいかねない。拘束しているイラク人が、日本人人質事件のように一般民衆に近い反米勢力なら、人質にとってはまだわずかの生存の希望が残るが、アルカイダ系のテロリストに拘束された場合は、死を覚悟しなければならないだろう。

感情的な対立ではなく、冷静に政治的判断が出来るような、利害調整の出来る対立に持っていく努力が出来ないものだろうか。日本の外交にそれを望んでも、能力を超える要求なのかなあ。それが憲法9条の精神だと思うんだけれどな。  
Posted by khideaki at 09:26Comments(0)TrackBack(0)

2004年05月10日

野口健氏の「自己責任論」批判の反響

僕が書いた野口健氏の「自己責任論」批判が、当の野口氏の掲示板で話題にしてもらえたようです。驚きましたが、関心のある人は見てくれているのだなと、嬉しく思うところもあります。

もし、野口氏の「自己責任論」に関心をお持ちの方がいれば、ちょっとのぞいてみていただけたら嬉しいです。

http://www.noguchi-ken.com/cgi-bin/message/message.cgi  
Posted by khideaki at 19:17

2004年05月08日

サドル師は、イラクでどのような存在なのか

「論座」6月号に、藤原帰一・酒井啓子・高橋和夫の3氏による「アメリカの誤算 打開の道はどこに」と題された記事がある。ここから興味深い発言を引用して感想を書き記しておこう。まずはシーア派の強硬派として登場してきたサドル師に対する誤算について酒井さんはこのように語っている。

「アメリカは、サドルグループは跳ね返りの少数の支持者によって支えられているグループだと認識していた。しかしサドルグループは、これまでシーア派とスンニ派の接点の地域で勢力を伸ばしてきたことに注目すべきだと思います。サドルの父親であるサーディク・サドルは、生前、スンニ派、シーア派の共闘を常に呼びかけてきた。それを受けて「宗派を越えた抵抗運動を続けるべし」と共闘を呼びかけているのが、サドルを支持するグループです。アメリカは別のものだと思ってたたいたのかもしれないけれども、実際のところは、全土的にイラクの民衆の同情を得るようなたたき方をしてしまって、結果的に、全土に民衆蜂起的な反米意識の高まりを生み出してしまった。」

先日のヤフーのニュースでは、サドル師が孤立しているかのようなものがあった。シーア派の指導者からは武装解除するように求められ、民衆は見放しているという声も報じられていた。しかし、酒井さんの言葉によれば、米軍はサドル師を英雄にする方向でのたたき方をしていると言うことだ。米軍の強硬な言葉にもかかわらず、サドル師が殺害されないのは、殉教者として英雄になることを米軍は恐れているのではないだろうか。

サドル師については、高橋さんも次のように語っている。

「サドルグループに関して、日本のメディアは「サドルは反米で過激」という感じだけど、新聞を発刊停止にするとか、サドルの側近を逮捕するとか、今回は6月の主権委譲に備えてアメリカが反米抵抗勢力を潰しておこうとして仕掛けたというのが僕の印象です。たとえば、サドルに逮捕状が出ているというのも言いがかりみたいな話で、サドルの逮捕状の根拠となる殺人事件というのは去年起こっているわけでしょう。これまで何もしなかったのに、サドルは面白くないから急に「逮捕状がある」なんて言い出す。これがイラクに法治国家を作ろうと主張している人たちのやることか。まるでヤクザの言いがかりのようなやり方だなと思います。」

アメリカの誤算というのは、イラクの人たちの誇りとか心情をはかり間違えた誤算だったのだろうか。このようなウソに怒りを感じないと思ったのだろうか。相手を、自分たちと同じように、理性的にものを考える人間だと思っていないのだろうか。それとも、自分たちと同じくらい頭が悪いと思っているので、そんなことまで考えないだろうと高をくくっているのだろうか。

この話を聞いてみると、「誤算」というのはかなり好意的な見方をしたときに言えることであって、「自業自得」と呼ぶのが本来は正しいような気がする。「自業自得」の正しい意味としての使い方は、こういうときに使うんだろうな。  
Posted by khideaki at 13:43Comments(0)TrackBack(3)

ハミル氏続報

自力で脱出したと言われていたアメリカ人のハミル氏に関して、拘束状況を伝える続報を見つけた。ある人から教えてもらったものだが、これを見るとほぼ予想通りだったことが分かる。次のところで見ることができるだろうと思う。

「元人質ハミルさん、ドイツ米軍基地へ 右腕に銃創」

この記事によると、拘束中のハミル氏の様子は次のように語られている。

「メリル少尉によるとハミルさんは、武装グループからひどい扱いを受けたという話はしていない。また米兵が差し出した水は飲んだが、食事は拘束中も与えられていたと話し、食べ物はいらないと断ったという。」

日本人拘束者のように、客人としての扱いではなかったかもしれないが、虐待は受けていなかったと言うことは言えるのではないだろうか。とにかく、「ひどい扱いを受けたという話はしていない」と言うことだ。

拘束グループの様子については次のような記述がある。

「小隊のフォーブス一等軍曹によると、ハミルさんが拘束されていた農家には、女性や子供しかいなかった。近くの草むらには、AK47ライフルが放置されていた。「ハミルさんの説明から判断すると、監視人はいたようだが、われわれが近づくのを見て、40対1ではどうしようもないと逃げ出したのではないか」と軍曹は話している。」

拘束場所は、普通の村人が提供し、一人だけが見張り役としてついていたようだ。これも、日本人拘束者が報告することと同じような感じだ。外国人拘束は、一部の反米勢力がやっていることではなく、イラクの民衆が、他に方法がなくて、やむにやまれぬ状況で行ったと見る方が妥当なのではないだろうか。

記事は最後に次のように伝える。

「脱出後のハミルさんと電話で話したという親類のジェイソン・ヒギンボサムさんによると、保護された3日前にもハミルさんは一度、農家脱出に成功していた。外に出てみたものの「そこは砂漠の真中だった。頭上を通り過ぎた米軍ヘリに懸命に合図をしたが、気づいてもらえなかった。水も食糧もない状態でこのまま砂漠をさまよっても、助かる確率は低いし、武装グループの待遇はさほど悪くなかったので、逃げ出したと気づかれないまま、いったん農家に戻った」とハミルさんは語ったという。」

イラクの人々が、ハミル氏をこのように扱っていたというのは、ハミル氏を彼らと同じ民衆の一人だと見ていたからではないだろうか。たまたまイラクで仕事をしてこんな目にあって気の毒だね、と言う感情で遇していたように僕には思えるのだが。  
Posted by khideaki at 10:47Comments(0)TrackBack(0)